2014年12月25日木曜日

父なる神の御心への委ね - イエス・キリストの系譜

◇「山の道(Mountain Path)」、1977年1月 p27~29


神の御心と委ね

グラディス・デム

 旧約聖書と新約聖書の間に対立を見出すことは賢明ではないでしょう。なぜなら、イエス・キリストは、「私が律法 や預言者を廃する ために来たと思ってはいけません。廃するためではなく、成就するために来たのです 」(マタイ、5. 17)と明確に述べました。

 モーセは十戒を受け取りました。イエス・キリストはそれらの戒めの遵守を繰返し述べました。彼は、「それゆえ、これらの最も小さき戒めの一つでも破り、またそのように人に教えたりする者は誰であれ、天の王国で最も小さき者と呼ばれるでしょう。しかし、これを行い、またそのように教える者は誰であれ、天の王国で大いなる者と呼ばれるでしょう」(マタイ、5. 19)と言いました。

 十戒は魂を浄化に導き、徳のある探求者を「約束の地」に導きます。それをイエスは「まるで理解を超えた平安」(*1)と呼びました。

 それら十戒にキリストのものが加えられました。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ、15. 12)。

 「全ての恐れを追い払う」(*2)その愛は、キリストの中に例証されました。彼は旧約聖書の律法を神の愛で飾りました。

 「あなたは殺してはならない、と昔の人々によって言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。・・・しかし、私はあなたがたに告げます。・・・あなたの敵対者とすみやかに和解しなさい。」 

 「『目には目を、歯には歯を』と言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。しかし、私はあなたがたに告げます。あなたがたは悪に抗わないように。誰があなたの右頬を打っても、左もまた彼に向けなさい。」 

 「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。しかし、私はあなたがたに告げます。あなたがたの敵を愛し、あなたがたをののしる彼らを祝福し、意地悪くあなたがたを利用し、虐げる彼らのために祈りなさい。-天にましますあなたがたの父(なる神)が完全であるように、あなたがたも、それゆえ、完全となりなさい。」(マタイ、5. 21, 25, 38, 43, 44, 48)

 キリストは神の愛、アッバを全人類の父(なる神)として定めました。徐々に、キリストは、完全な委ね を通じて、父(なる神)の御心への道案内をします。妥協は存在しません。「誰も二人の主人に仕えられません。・・・あなたがたは神と富に仕えることはできません。」(マタイ、6. 24)

 また、「『主よ、主よ』と私に言う者がみな、天の王国に入るのではなく、天にまします我が父(なる神)の御心を行う者が(天の王国に入るのです)!」(マタイ、7. 21)

 ここで、キリストは、自我の意思 神の御心 へ委ねることが、精神的な王国を探す巡礼者に必須であると説きます。

 祈りに関して、イエス・キリストには伝えるべきことがたくさんありますが、一つの必要条件は誠実さです。あるパリサイ人たちが弟子たちをパンを食べる前に手を洗うことを怠ったと非難した時、イエスは彼らを叱責しました。「あなたがた、偽善者よ、イザヤはあなたがたについて適切に予言したものです。『この人々は口でもって私に近づき、口先だけで私を敬うが、彼らの心は私から遠く離れている』。」(マタイ、15. 7)

 イエスの叱責は、律法の外側の遵守のみに固執するが、人に命を与える内なる真理を無視する人々へ向けられています。

 誠実さはキリストの言葉の中で際立ったものであり、彼が人々に祈る方法を教える前に、人々に向けて語られたものです。「あなたがたが祈る時、あなたがたは偽善者たちのようであってはいけません。なぜなら、彼らは人々に見られようとして、ユダヤ教会堂の中や通りの角に立って祈ることを好みます。まさしく私はあなたがたに告げますが、彼らは彼らの報いを受けています。

 「しかし、あなたが祈る時、あなたはあなたの私室に入り、そして、あなたが扉を閉めた時、密やかにまします、あなたの父(なる神)に祈りなさい。密やかにご覧になる、あなたの父(なる神)は、憚ることなくあなたに報いるでしょう。・・・あなたの父(なる神)はあなたがたが要するものを、あなたがたが彼に求める前に、ご存じです。

 「ですから、あなたがたはこの方法にならって祈りなさい。

   天にまします我らの父よ
   あなたの御名が尊ばれますように。
   あなたの王国が来ますように。
   あなたの御心が、天に行われるように、地に行われますように。
   私たちの日々の糧を、今日、私たちにお与え下さい。
   そして、私たちが私たちの負債者を免じるように、私たちの負債をお免じ下さい。
   そして、私たちを誘惑に導くことなく、私たちを悪からお救い下さい。
   なぜなら、その王国、その力、その栄光は永遠にあなたのものだからです。アーメン。」

    Our Father which art in heaven,
    Hallowed be thy name.
    Thy kingdom come.
    Thy will be done on earth as it is in heaven.
    Give us this day our daily bread.
    And forgive us our debts, as we forgive our debtors.
    And lead us not into temptation, but deliver us from evil.
    For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen.

アンドレア・ボチェッリによる「主の祈り」、アメリカのコダックシアターからのライブ(2009)

 この祈りは「主の祈り」と呼ばれていて、その意味は真理の探求者の受容性に応じて明らかにされます。聖なる知識は多くの段階で授けられます。

 イエス・キリストが祈りを言い表わす前に、彼は感覚‐世界がそれへ続く「扉」を閉めることによって脇へやられねばならないと教えました。「私室」とは我々の魂のかの隠された聖域であり、そこで父(なる神)との密やかな面会が催されます。ここで、目には見えない愛は、すでに我々が必要とするものに気づいており、「私たちが要する 」ものを現わすでしょう。

 父(なる神)の御心への委ねが、内なる聖殿への鍵です。

 主の祈りは、その貴重な知恵を我々の受容性に応じて明らかにします。それは次のように解釈されるかもしれません。

 我らの父よ -「何と素晴らしいことですか、おお、神よ、あなたをアッバ、父(なる神)として知ることは!あなたは創造者であり、守護者、生けるもの全ての最愛の親です。これを知る私たちの心を喜びが満たします」。

 天にまします -「あなたは我々の魂に住まう方です。天の王国は内にあります。あなたの不死なる領域が、私たちの真の住まいです」。

 あなたの名が尊ばれますように -「『私は在る、が私である』があなたです。あなたの名は神聖です!私たちはあなたの御名の神聖な沈黙の内のあなたの在る‐ものの前にお辞儀します」。

 あなたの王国が来ますように -「あなたの王国とは、聖霊のことです。私たちの曇った視界に光がさし、あなたの聖霊が私たちの真中に来ますように」。

 あなたの御心が、天に行われるように、地に行われますように -「私たちの限られた意思があなたへ完全に委ねられますように。なぜなら、ただそうしてのみ、あなたの御心は、あなたの子供たちである私たちを通じ、地に顕れます」。

 私たちの日々の糧を、今日、私たちにお与えください -「あなたは私たちが要する全てをご存じです。魂と体を養うために、あなただけを頼りとするように私たちにお教え下さい。過去を振り返らず、明日を思い悩まず、私たちは私たちの毎日に必要なものを完全にあなたに委ねます。、あなたの内に生きるように私たちにお教え下さい」。

 私たちの負債をお免じ下さい -「あなたは慈悲の泉です。あなたは私たちの弱さをご存じです。私たちはあなたにお願いたします。おお、父(なる神)よ。私たちの頬から後悔の涙をぬぐいさり、私たちの頑なな心をお清め下さい」。

 私たちが私たちの負債者を免じるように -「私たちを不当に扱う人々への寛容と許しで私たちの心を満たして下さい。あなただけが憎しみを愛に変えることができます」。

 私たちを誘惑に導くことなく -「私たちが利己主義を捨て去るなら、試練や災難は乗り越えられる障害です。私たちに慈悲をおかけ下さい、おお、最愛の父(なる神)よ。私たちの力を超えて、私たちが誘惑されないようにして下さい」。

 私たちを悪からお救い下さい -「あなたは全世界における唯一の現実です。私たちの無知な感覚に悪と映るものは、真実は、影に過ぎません-なぜなら、あなただけが全ての支配者であるからです。私たちの自我の邪な傾向に翻弄される時、私たちは自分自身をどうすることもできません。私たちの救い主となって下さい!」

 なぜなら、その王国、その力、その栄光は永遠にあなたのものだからです -「我らの父(なる神)よ。私たちはあなたを賛美する歌を歌います。すなわち、あなたの権威、あなたの栄光と美は、地、海、空を包んでいます。あなたの愛の王国はあらゆるところにあります。あなたは永遠に君臨しています!」

 アーメン -「あなたの御心がなされますように。そうありますように。」

 神の御心への完全な委ねの至高の例は、イエス・キリスト自身でした。この委ねは、愛の委ねでした。「私が父(なる神)を愛し父(なる神)が私に命じる ように私が行うことを世は知るでしょう。」(ヨハネ、14. 31)

 模範的な方法でイエス・キリストの足跡をたどった、みなに愛される一人の聖者は、アッシジのフランシスです。かつて、彼は修道士たちに「神の御心への委ね」を説きました。彼は、「ここにいるあなたがたみなに私は言い付けます。聖なる服従と従順を通じて、あなたの肉体的要求、飢えや渇きやあなたの肉体が要求する他の何ものも、まるで気に掛けないように。私はあなたがたに求めます。神を褒め称え、他のことについての思いを彼に委ね、瞑想と祈りにのみ従事するように。彼の神聖な摂理があなたがたが必要なものを取り計らいます。彼はあなたを彼の特別な庇護の下に置いています。あなたがたのそれぞれ全ての人が、この言い付けを喜びに満ちた心で受け取り、幸せな顔つきをしますように」と彼らに語りました。

 別の機会に、聖フランシスが鳥たちに教えを説いた時、彼は弟子たちに彼らもまた鳥たちのように神の摂理に彼ら自身を全託すべきであると説きました。ここで、聖フランシスはキリストが告げた教えに従っていました。「空の鳥を見なさい。彼らは播かず、刈り取ることも、集めて倉に入れることもありません。それでも、あなたがたの天の父は彼らを養って下さいます。」(マタイ、6. 26)

 シリアの聖イサクは、「いったん魂が神に完全に委ねられ、そして、神の助けを幾度も体験したなら、魂はもはやそれ自身のことを気に掛けませんが、驚嘆と沈黙に包まれています・・・魂が神の摂理を拒絶するといけないからと、それ自身の認識手段を当てにするように戻り、それらを運用することは、魂にとって不可能です-委ねによって、魂は神がそれを密やかに絶えず気遣っていることを知っています」と記しました。

 聖イサクはまた「私室」についても語り、その時、彼は、「神との親交を可能とするために、私たちは隠遁を必要とします」と説きました。

 さらに、彼は言います。「あなたがあなたの魂を完全に神の庇護の下に置く時、それで十分であると知りなさい。あなたがこれができる時、あなたはあなたために神によりなされる奇跡を目撃します。あなたは神がいつも身近にいて、彼を愛する人々にどのような援助でも行う用意があることを理解します。目には見えませんが、神の摂理はいつもそこにあり、魂を包んでいます。神がそこにいないと思い、そうであることを決して疑わないように。時に、神は、魂を向上させるために彼の存在を人間に見えるようにします。」

 証聖者マクシモスもまた、完全で、揺らぐことのない信頼を伴う、委ねについて話します。「あなたがた自身を神に投じ、あなたがたは祈りを頼りとしなければなりません。彼は彼の愛によってあなたがたを守り、あなたがたの世話をするでしょう。出エジプト記に、『主があなたがたのために戦います。あなたがたは沈黙を守らねばなりません』(出エジプト、14. 14)と記されてはいませんか。」

「I Surrender All」 歌詞:W. Van DeVenter 歌:Robin Mark

 イエス・キリストが説いたように、聖マクシモスも簡潔に述べます。「全ての善の目的(終わり)が、愛です。」

 愛と慈悲は、全く同じものです。

 イエス・キリストは、「あなたがたの父(なる神)が慈悲深くあるように、あなたがたも、それゆえ、慈悲深く ありなさい」(ルカ、6. 36)と言いました。

 自我は、自らの知を得ようというなら、情熱的な誠実さをもって、神の御心へ身を委ねなければなりません。

 イエス・キリストは、強烈な、活気に満ちた、生き生きとした真理を語りました。彼が発した一文は、私たちが決して無視することのできない言い付けです。「天にまします、あなたがたの父(なる神)が完全であるように、あなたがたも、それゆえ、完全となりなさい。」

 神を愛する者が慕い、それに向けて成長するのは、この完全性です。

(*1)ピリピ人への手紙、4. 4-7・・・「あなたがたは主の中にいつも喜びなさい。繰り返し言いますが、喜びなさい。あなたがたの節度をすべての人に示しましょう。主はすぐ近くにいます。何事も思い煩わないように。ただ、あらゆることの中に、感謝をもって祈りと願いによって、あなたがたの求めるところを神に知らせましょう。そうすれば、まるで理解を超えた神の安らぎが、イエス・キリストを通じ、あなたがたの心と思いとを守るでしょう。」
(*2) ヨハネの第一の手紙、4. 18・・・「愛の中には恐れがありません。完全な愛は恐れを取り除きます。なぜなら、恐れには罰があるからです。恐れる者は、愛において完全となされていません。」

☆以上の翻訳には聖書から多くの引用がありますが、その英文はおそらく「欽定訳聖書(Kings James Bible)」からです。その聖書の引用と「主の祈り」の解説の英文は文語体で記されていますが、分かりやすさを重視し、上では口語体で訳しています(文:shiba)。

2014年12月12日金曜日

委ねとは何か - もとより、全ては神のものである

◇『A Practical Guide To Know Yourself』 A.R.Natarajan、pp.116-124

25.あなたの重荷をサッドグルに手渡しなさい

 ラマナは、自らの探求、心の源の探索、そして、自らの委ねは、自らの知のためのただ二つしかない効果的な手段であるとよく言いました。委ねは概してより簡単であるとみなされますが、それはその真実の含意を理解し損なっているからです。それはサッドグルの導きと保護への完全で、無条件の信頼を含意します。「悪い」出来事が起こる時、我々はその理由を尋ねます。人は「良い」「悪い」が相対的な言葉、対になる両極の一部であり、他方がなければ一方を持つことはできないことを忘れます。それ以上に、人はカルマ的に良いもの、(心が)内に向かうことに役立つものを最もよく知るのは、サッドグルであるということを無視します。どのような質問や疑問も、委ねが不完全であるということを指し示すでしょう。

 委ねた人はまた、活動を探し求めず、それを放棄しようともしないでしょう。必要とされる行為が何であれ、それは行為のための力と行為の結果がサッドグルに依るという知識と共になされるでしょう。結果として、人は行為やその結果について心配しません。

 サッドグルへの信頼がしっかり根付くにつれ、委ねの精神は徐々に成長します。人が自らの探求を修練するにつれ、自分が行為者であるという概念は腐食します。委ねの道を邪魔するのはこの行為者性という考えであるため、この考えが弱まる時、全ての物事が神によって定められていることをより明確に知ることができます。人は、我々が委ねと呼ぶものが、「ジャッガリーで作られた主ガネーシャの像から少しのジャッガリーをつまみとり、ガネーシャ自身の崇拝において、それをお供えする崇拝者のごとく」であることをはっきり知るようになります。何も自分のものではなく、全てのものをサッドグルが有している時、何を委ねることができますか。この事実の認識は、心配という一切の重荷を取り除きます。それは全世界の重荷を負う者の責任であるとみなされます。

□ □ □

信奉者:
 委ねとは何ですか。

バガヴァーン:
 それは心の制御と同じものです。自らのより優れた権威を認める時に、自我は従います。これが委ねのはじまりです。自らがなければ自我は存在できませんが、しかし、この事実の無知のために、それは反抗的なままいて、自分から進んで、自分の意思によって行為します。

信奉者:
 どうしたら反抗的な自我が服従させられるのですか。

バガヴァーン:
 その源を探し求めることによって、その時、自我は自動的に消えます。もしくは、自発的に全ての行為、動機、決定をサッドグルに委ね、それにより自我を根こそぎにすることによって。習慣によって思考がなくてはならない永続的なしきたりであるという誤った観念が作り出されますが、探求と分別はその誤信を破壊します。

信奉者:
 人々はやグルの前で平伏します。私が思うに、彼らの委ねを証明するためか、少なくともそれを示すために。

バガヴァーン:
 真の委ねは自我をその源、ハートの中で溶かすことです。は外側の行為によって欺かれません。崇拝者の中に彼が見るものは、どれほど自我が十分に制御されているか、どれほど破壊の間際にいるかです(*1)

****

信奉者:
 委ねとはどういう意味ですか。

バガヴァーン:
 人が委ねる時、彼の中に行為者の感覚はなくなります。平静な気持ちがあり、行為やその結果を心配しません。どのような務めも彼自身のために行いません。そのような人は、全ての行為を放棄した者でしょう。(*2)

****

 初めてやって来たパルシー教徒の紳士が尋ねました:

信奉者:
 私は聖なる事柄について初心者です。私の友人の一人は、への委ねが最良の道であると勧めました。私は神に委ねましたが、彼は聖なる道にいる私を教え導いてくれません。どうぞあなたの恩寵を施して下さい。

バガヴァーン:
 ああ!あなたは委ねました、そうですね。それでは、どうしてが何もしていないとあなたは言うのですか。それはただあなたが委ねの真意を理解していないということでしかありません。あなたはあなた自身を完全にの思うままにし、何の見返りも期待すべきではありません。

信奉者:
 今や私は私の委ねの理解が不完全なものであったことを悟りました。私を正しく導いて下さい。

バガヴァーン:
 あなたは恩寵が必要だと言います。導きを期待し、あなたがここに来ること、それ自体がの恩寵です。あなたの委ねが完全で、無条件であるなら、同じ恩寵が継続します。あなたは何も頼む必要はありません。「私」と「私のもの」という思いを取り除こうと努めなさい。何ものもあなたのものであると思わないように。それは全てのものです。(*3)

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信奉者:
 どうして私の安かな状態への妨げが訪れるのですか。

バガヴァーン:
 あなたが良いとみなす物事があなたに訪れる時、あなたがたは喜び、に感謝します。それは正しいことです。しかし、あなたが悪いとみなす物事が訪れる時、あなたは同様に感謝すべきです。そこのところで、あなたは失敗しています。(*4)

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信奉者:
 あなたが哀れな私にわが道を行かせるに任せるなら、どうして私が救われますか。

バガヴァーン: 
 私が何かをしようと、何もしなくても、あなたは委ね、ただ静かにいなければなりません。(*5)

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 才気ある人のように見える品の良い女性が講堂を訪れ、平伏しました。

信奉者:
 (彼女は声を低くして言いましたが、それでも聞きとれました)-私はによって安楽な人生に恵まれています。私は人間が所有したいと望むもの全てを持っています。

バガヴァーン:
 では、あなたは幸福です。さらに何が必要ですか。

信奉者:
 いえ、いえ。私は何かが欠けているのをはっきり感じます。私は完全な心の安らぎを享受していません。

バガヴァーン:
 おや、そうですか。あなたの人生の目的は完了しておらず、そのために、安らぎがありません。

信奉者:
 物質的な安楽があるにも関わらず、私は幸せではありません。私の心はいつも不安で、そして、動揺しています。おそらくは、私の運命によるものでしょう。

バガヴァーン:
 ええ、ええ。あなたは率直に全てのことを話しました。運命とは何ですか。あなたが高き力に委ねるなら、運命がどうしてあなたに影響を及ぼせますか。委ねが答えです。それは全てのものを正しく整えます。

信奉者:
 それが私の悩みです。私は委ねることができません。私の自我が邪魔をします。

バガヴァーン:
 そうかもしれません。ですが、あなたの試みを続けなさい。一点に向けられた集中力を持ちなさい。あなた自身をに委ねなさい。「私はあなたの思いのままです。私は無力です。私はあなたに委ねます。私はあなたの助けを求めます」と言いなさい。それは安らぎをもたらします。

信奉者:
 確かに分かってはいるのですが、私は実践することができません。おそらく、それは私の運命によるものです。

バガヴァーン:
 運命に何ができますか。あなたが完全な委ねを行うなら、それは働かなくなります。あなたは心配から解放されます。心は穏やかになり、安らぎが行き渡ります。(*6)

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「自らの達成の力、あなたの重荷をに委ねよ、すべてのヨーガの真髄」で翻訳済み

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信奉者:
 もし顕現した存在全体が唯一のでしかないなら、いったいどうして放棄が可能なのですか。放棄されるべきものとは何ですか。

バガヴァーン:
 人は以外は何でも存在するという間違った知識を放棄しなければなりません。顕現した見かけがどのように映るのであれ、二元性や複数性が何であれ存在するという概念を放棄しなければなりません。至高なる存在のみが、唯一の現実です。それのみが在り、見かけの複数性を支えています。ですから、以外は何でも存在するという知識を放棄しなさい。言いかえれば、二元性や複数性の感覚を放棄しなさい。

信奉者: 
 聖典が信徒を教え諭し、彼に二元性の概念を放棄させることは疑いなく良いことですが、聖典のこの教えと同様に重要な指示、つまり、への自らの委ねとをどのように調和させられるのですか。何であれ二元性が存在しないなら、自らの委ねの必要性や可能性はどこにありますか。

バガヴァーン:
 これらの地方のある人々の間の主ガネーシャへの深い献身の気持ちに基づいた習慣に我々は親しんでいます。この人々にとって、その地域の全ての寺院に安置されている彼の聖像への日々の崇拝は、彼らの日々の食事の前の不可欠の儀式です。この信条を持つ、ある貧しい旅人が、あまり人の住んでいない国を通りかかっていました。昼食の前の聖像への日々の崇拝を行えるガネーシャの寺院が近くにどこにも見当たらず、彼は少量のジャッガリー(ブラウンシュガー)からその神の像を作ろうと決心しました。ジャッガリーから像を作り、彼は熱心に儀式を続けました。しかしながら、儀式の中で彼がそのへ少しの神饌(しんせん)をお供えしなければならない所に至った時、その像をつくるために彼が持つ全てのジャッガリーを使ったため、彼は鞄の中に何も残っていないことに気づきました。しかし、通例の神饌のお供えがなければ、どのような崇拝も完全なものになりえないため、その単純な旅人はその像そのものからジャッガリーのかけらをつまみとり、それをそのにお供えしました。ジャッガリーのかけらをつまみとるというまさにその行為において、彼が崇拝したいと望んだ、まさにその像を汚し、それゆえに、崇拝と供物を共に無価値なものにしたことに彼は気づきませんでした。

 あなたの自らの委ねの考えは、その旅人によってなされた供物に勝るものではありません。あなたがあなたの存在を至高なる存在から離れた何かとして仮定することによって、あなたはそれをただ汚しているに過ぎません。あなたがあなた自身を委ねても、委ねなくても、あなたがその至高なる存在から離れていたことは決してありません。実際、この瞬間に、まさに過去や未来におけるように、のみが在ります。(*8)

****

信奉者:
 委ねは主要なサーダナですか。

バガヴァーン:
 疑いなく、委ねのサーダナは認められています。しかし、委ねが完全な時、区別は存在しません。弟子がグルからマントラの手ほどきを受け、彼が委ねたと信じる時、しばしば、彼の委ねは本物ではありません。委ねにおいて、人は心を放棄しなければならず、心が引き渡された後、どのような類の二元性も存在しません。から分離したままである彼は、委ねていません。

信奉者:
 全ての行為とその結果が神に委ねられるなら、心は制御されるのでしょうか、されないのでしょうか。

バガヴァーン:
 そのようにすることによって、心は清められますが、それは死んではいません。大酒のみが彼の行為とその結果を神に委ねたと考えたとしましょう。その酔っぱらった状態で、彼が過ちを犯し、その過ちのために誰かが彼を棒で叩くなら、彼はその殴打もまた神に委ねなければなりません。しかし、誰もそのように振る舞いません。彼の様子は彼が殴打を受けた時点で変わります。

信奉者:
 我々がグルやに委ねるなら、個人の現実性は消え去り、それと引き換えに、我々はより大きな現実の支えを得て、の力が我々の内に輝くと信じられています。

バガヴァーン:
 委ねた後に、より大きなの力を受け取ることを期待することは、委ねの真の態度ではありません。(*9)

****

 ある人が母の寺院に鐘のなる時計を寄贈し、それによってバガヴァーンは一連の考えを現わし始めました。

バガヴァーン:
 崇拝には、少量の樟脳で十分です。これが行われないのに、人々はから不釣り合いな賜物(たまもの)を期待します。自分たちがに多くを与えたという思いを抱き、反り返って歩く人もいます。彼らが与える彼らのものとは、実際、何ですか。が有するものの内の少しが返還されました。それだけのことです。思いなきままにいることが、人がに捧げることができる最良の供物です。(*10)

****

信奉者:
 修練のために、カルマを取り除いたり、無効にするように、そして、モークシャの達成を早めるようにに祈ることは正当なことではありませんか。

バガヴァーン:
 正当なことです。あなたが高き力と異なると感じる限り、それに祈りなさい。あなたがあなたの上に重荷があると感じる限り、それに関して祈りなさい。しかし、さらに良いのは、プラパッティ、自らの委ねの境地を得なさい。そして、あなたの全ての重荷をに委ねなさい。その時、はあなたの背中から重荷を取り去り、あなたがの内にあり、と一体であるという実感をあなたに与えます。(*11)

(*1)S.S.Cohen、『Guru Ramana』、p. 59.
(*2)K.R.K.Murti、「My Reminiscences of Sri Ramana Bhagavan」、『The Mountain Path』、July 1985、p. 183.
(*3)N.N.Rajan、『Leaves from the Diary』、The Ramana Way、May 1991、p. 75.
(*4)A.Devaraja Mudaliar、『My Recollections of Bhagavan Sri Ramana』、1960、p. 113.
(*5)同上、p. 118.
(*6)N.N.Rajan、『Leaves from the Diary』、The Ramana Way、Mar. 1991、p. 9.
(*7)Kapali Sastri、『Sat Darsana Bhasya and Talks with Maharshi』、pp. xxiv-xxvi.
(*8)Swami Madhava Thirtha、「A Visit to the Maharshi」、『The Mountain Path』、Oct 1981、p. 225.
(*9)Swami Madhava Thirtha、「Conversations with the Maharshi-I」、『The Mountain Path』、Oct 1980、p. 211.
(*10)A.R.Natarajan (tr.and ed.)、『Unforgettable Years』、「Subbalakshmi Amma」、p. 89.
(*11)B.V. Narasimha Swami、「A Dialogue with the Maharshi-IV」、『The Mountain Path』、Apr. 1983、p. 90.

2014年12月7日日曜日

委ねの真意 - 主に『Talks~』と『Day by Day~』からの引用

◇「山の道(Mountain Path)」、1977年1月 p4~6

バガヴァーン自身の言葉による委ねの真意
シュリー・バガヴァーンはしばしば委ねを効果的な方法だと述べましたが、彼はその用語の含意についての一般的な誤解を取り除くように気を付けました。彼自身の言葉で以下に複写される彼の教えは、『バガヴァッド・ギーター』におけるの保証-の恩寵により、汝は至高の安らぎ、永遠の住まいを得る(18‐62)-の真の意義を明らかにします。
  人は個人が世界の重荷を担っているという誤った思い込みを取り除くべきである:
 「が世界の重荷を担っている。それを担っていると思う、偽の自我は、(寺院のてっぺんで)それを支えているように見える、歯を食いしばる彫像のようである。(鉄道)客車の中で旅する人が、彼の荷物を車両の中に置かずに、頭の上に乗せ、不快を感じるならば、それは一体誰の過ちなのか。
 -「40詩節への補遺」、第17詩節
バガヴァーン: あなたがあなた自身を高き力に委ねるならば、万事うまくいきます。その力があなたのことを最後まで面倒見ます。ただあなたが「私は行為の主体である」と思うかぎりは、あなたはあなたの行為の結果を受け取らざるを得ません。一方、あなたがあなた自身を委ね、あなた個人を高き力の道具でしかないと認めるなら、その力が行為の結果と共にあなたのことを引き受けます。あなたはもはやそれらに影響されず、務めは妨げなく進み続けます。あなたがその力を認めても、認めなくても、物事のあり方は変わりません。(物の)見かたが変わるだけです。あなたが列車で旅行している時、どうしてあなたの荷物を頭の上で支えなければならないのですか。あなたの荷物が頭の上にあっても、列車の床の上にあっても、列車はあなたとあなたの荷物を運びます。それを頭の上に置くことによって、あなたは列車の負担を減らしているわけではなく、ただあなた自身に不必要に負担をかけているだけです。世界における個々人の持つ行為者の感覚についても同様です。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 478

 完全な委ねは、解放の別名である:
サイード博士: 全面的、または、完全な委ねは、自分の中に解放やへの望みさえも残すべきでないということを求めますか。
バガヴァーン: 完全な委ねは、あなたがあなた自身の望みをまるで持たないこと、の御心のみがあなたの望みであり、あなたがあなた自身の望みをまるで持たないということを求めます。
サイード博士: 今や私はその点について満足したので、私が委ねを達成しうるための手段とは何であるのか知りたいと思います。
バガヴァーン: 二つの道があります。一つは「私」の源を調べ、その源に溶け込むことです。もう一つは、「私は独りでは無力だ。のみが全能であり、を完全に頼りとする以外、私には他に安全は存在しない」という感情であり、そうして、のみが存在し、自我は重要でないという確信を徐々に育てます。両方の方法は、同じ目的に通じます。完全な委ねは、ジニャーナ、もしくは、解放の別名です。
-『Day by Day with Bhagavan』、p. 176

 委ねはジニャーナと異ならない:
質問3: 私は委ねのほうが容易であると感じます。その道を採用したいと思います。
バガヴァーン: どの道を通ってあなたが行っても、一者の中にあなた自身を失わねばなりません。委ねは、あなたが「御身は全てである」や「御身の御心が果たされんことを」という段階に達する時にのみ完全です。その境地はジニャーナと異なりません。ソハム(「私はである」)には、ドゥヴァイタ(ニ元性)が存在します。委ねには、アドヴァイタが存在します。実際には、ドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、在るそれが、在ります。委ねは容易に見えます。なぜなら、人々がいったん口で「私は委ねます」と言い、彼らの重荷をへ置くなら、彼らは自由になり、好きなことができると彼らは想像するからです。しかし、実のところ、委ねの後にあなたは好き嫌いをまるで持てず、の御心が取って代わり、あなたの意思は完全に存在しなくならねばなりません。そのような自我の死は、ジニャーナと何ら異なりません。ですから、どの道をあなたが行こうとも、あなたはジニャーナ、もしくは、一体性へ行かねばなりません。
-『Day by Day with Bhagavan』、p. 32

 真の委ねにおいて、人はの御心に従わねばならない:
シュリー・ラーガヴィア: 我々は委ねます。しかし、いまだ助けはありません。
バガヴァーン: ええ。あなたが委ねたのなら、あなたはの御心に従うことができなければならず、あなたの気にいらないかもしれないことについて不平を言ってはいけません。物事は見かけの上で見られるものとは異なっていると分かるかもしれません。苦悩は、の信仰に人をしばしば導きます。
シュリー・ラーガヴァイア: しかし、我々は世俗的です。妻、子供たち、友人、親族がいます。彼らの存在を無視し、我々の中にいくらか少しの人格を保つことなく、の御心に身を任せることはできません。
バガヴァーン: それは、あなたによって明言されたように、あなたが委ねていないということを意味します。あなたはのみを信頼しなければなりません。
-『Talks with Sri Maharshi Maharshi』、p. 49
マハルシ: が現れても消え去っても、に委ね、の御心に従いなさい。の望みを待ち受けなさい。あなたがにあなたが気にいるように行うよう頼むなら、それは委ねではなく、への命令です。あなたはをあなたに従わせることはできませんし、あなたが委ねたと思わせることもできません。が何が最善なのか、いつどのようにそれを行うべきか知っています。全てのことをに任せなさい。重荷はのものです。あなたにはもはや何の心配もありません。全ての心配はのものです。委ねとは、そういうものです。
ー『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 425

 人は自らの存在の根源の原因に身を委ねるべきである:
マハルシ: 人が自分自身を委ねるなら、それで十分です。委ねとは、自らの存在の根源の原因へ身を委ねることです。そのような源があなたの外側の何らかのであると想像することで、思い違いをしないように。自らの源は、自分自身の内にあります。それに身を委ねなさい。あなたがあなた自身がそれの外にいると想像するため、あなたは「どこにその源があるのか」という質問を提起します。砂糖はそれ自体の甘さを味わえず、味わう人がそれを味わい、楽しまねばならないということを主張する人もいます。同様に、個人は至高者になりえず、その境地の至福を享受することはできない。それゆえ、喜びが生じるためには、一方では個人性が、他方では神性が保持されねばならない!は砂糖のように意識がありませんか。いったいどのようにして、自分自身を委ね、それでもなお、至高の喜びのために個人性を保つことができるのでしょうか。さらに、彼らはまた、人はの領域に達し、そこに留まり、至高の存在に奉仕すると言います。「奉仕」という言葉の響きは、を欺けますか。は知ってはいませんか。はそれらの人々の奉仕を待っていますか。純粋な意識-は代わりに尋ねはしないでしょうか-「大胆にも私に奉仕すると言う、私から離れたあなたとは誰ですか』。 
 人が原初の根源から離れていると言うこと、それ自体、自惚れです。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、pp. 175-6

 部分的な委ねは、完全な委ねに通じる:
信奉者: 委ねは不可能です。
マハルシ:ええ。はじめは、完全な委ねは不可能です。部分的な委ねは、間違いなく、みなにとって可能です。やがては、それは完全な委ねに通じます。さて、委ねが不可能なら、何ができますか。心の安らぎがありません。それをもたらすには、あなたは無力です。それは委ねによってのみ、なしえます。
信奉者:部分的な委ね-なるほど-それは運命を取り消せますか。
マハルシ: ええ、そうです!できます。
信奉者: 運命は過去のカルマによるのではありませんか。
マハルシ: 人がに委ねるなら、がその面倒を見ます。
信奉者: それがの摂理であるなら、いかにしてがそれを取り消すのでしょうか。
マハルシ: 全てはの中にのみあります。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 195
信奉者: 委ねは努力の後に訪れます。
マハルシ: ええ、それはやがて完全になります。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 405

 委ねは、実現(悟り)への二つの主要な手段の内の一つである:
信奉者: 私は私の自らを実現するにはあまりに弱すぎます。
マハルシ: それなら、あなた自身を無条件で委ねなさい。そうすれば、高き力が自らを啓示します。
信奉者: 無条件の委ねとは何ですか。
マハルシ: 人が自分自身を委ねるなら、質問を尋ねる、もしくは、考えに入れられるべき人は存在しません。「私」という根本の思いにつかまることによって思いが排除されるか、高き力に自分自身を無条件に委ねるか。実現には、その二つの道しかありません。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi]』、pp. 284-5

 委ねた者には矛盾は生じない:
信奉者: (祝福のために)おそばに行ってもよろしいでしょうか。
マハルシ: そのような疑問があなたの中に起こるべきではありません。それはあなたの委ねの声明と矛盾します。
信奉者: あなたはジニャーナ・ヨーガについて話すようですが。
マハルシ: ええ、そうです。
信奉者: しかし、委ねはバクティ・ヨーガではないですか。
マハルシ: 両者は同じものです。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi]』、p. 405

 委ねた者には質問は起こらない:
信奉者: 私は3か月間待ち、助けがやって来るのか確かめます。さて、私はその保証を得られますか。
マハルシ: それは委ねた者によって尋ねられたことですか。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 406
信奉者: 委ねた後の心の流れはどうなりますか。
マハルシ: 委ねた心がその質問を提起してるのですか。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 334

2014年11月30日日曜日

シュリー・ラマナ・マハルシのヴェーダンタ的神秘主義への貢献

◇「山の道(Mountain Path)」、1969年7月 p160~166

シュリー・ラマナ・マハルシのヴェーダンタ的神秘主義への貢献


G.V.クルカルニ教授

Ⅰ.導入

 ティルヴァンナーマライの偉大な現代の聖者、シュリー・ラマナ・マハルシは、神秘主義のどのような分野への彼の貢献についてもかかずらうことはありませんでした。16才の少年の時に実現(悟り)を達成して以来ずっと、彼はジニャーニの清浄な人生を送りました。彼はどのような哲学や形而上学にも、机上の学問にも興味はありませんでした。彼が実現したものを彼は簡素な言葉で必要とした人々に伝えました。彼はまた、彼の実現(悟り)へ通じる道を伝えました。仏陀のごとく、聖なる事柄に関して極めて実践的であったため、彼は本質的でないことにかかずらわず、本質的な、それも絶対的に本質的なことにのみ集中しました。彼は多くを記さず、多くを語りませんでした。『シュリー・アルナーチャラへの五つの賛歌』という例外を除き、彼が記し、語ったことは何であれ、弟子や探求者の質問への答えでした。彼はどのような新しい宗教も創設せず、どのような新しい哲学分派や体系も確立しませんでした。何であれ彼が伝えたことは、彼自身のものであり、過去の聖者たちの発言、ヴェーダーンタ及びその他の神秘主義の輝かしい伝統によって裏づけられています。彼はヴェーダーンタの古(いにしえ)の神秘主義的哲学を新たな見地から提示しました。従って、我々はカントやヘーゲルの哲学について語るように、彼の神秘主義的哲学について語ることはできません。ともかく、それは新しい道、人生への新しいアプローチではありましたが、それでも、それは古のものです。彼が説いた道は二つ-①探求の道、そして、②委ねの道です。目的は自我、チット‐ジャーダ‐グランティの完全な消滅です。彼自身の言葉では、「マールガナ・マールガ」(*1)と「マッジャナ・マールガ」(*2)です。『ラマナ・ギーター』では、第三の道、すなわち、呼吸の制御(プラーナ・ニローダ)もまた言及されていますが(*3)、これは「マールガナ・マールガ」の一部です。マハルシは、「はじめに、あなたが誰か見出しなさい、もしくは、委ねなさい」とよく言いました。ある弟子に彼の教えがシャンカラの教えと同じであるのか尋ねられた時、彼は、「人々はそのように言います。全ての実現した人が、その人自身の表現方法を持ちます」と答えました。彼は彼がシヴァの化身とみなしていたシャンカラに大いに敬意を払っており、『ヴィヴェーカチューダーマニ』や『アートマボーダ』のようなシャンカラのあまり重要でない作品をタミル語に翻訳しました。彼はヒンドゥー教徒だけでなく、イスラム教徒やキリスト教徒の古の伝統と過去の聖者も評価し、時には彼らの言葉を引用しました。彼はギーターと聖書は同じであり、「イスラム」という言葉は委ねを意味すると言いました。

Ⅱ.ヴェーダーンタ的神秘主義思想との類似点

 ヴェーダーンタ的神秘主義への彼の貢献や彼の教えの独自性の指摘に進む前に、ヴェーダーンタ的神秘主義思想の顕著な特徴に言及させていただきます。

 シュリー・ラマナはインドのリシの伝統に属しており、ラーダークリシュナン博士が述べるように、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの形而上学的立場を採用しています。彼はシュリー・シャンカラのアドヴァイタ的伝統を新たにし、バクティ礼賛の長い間の優位の後に、知の道の卓越性を蘇らせたと言われています。

 一般的に、ウパニシャッドは共通して神秘主義的思想の傾向を持ちますが、究極的現実への三つの異なるアプローチ、すなわち、宇宙論的、神学的、心理学的方法が存在します。最初の二つは究極的に3番目のもの、心理学的方法へ通じ、それは決定的な方法です。それは「私」という体験と我々が呼ぶものが、人生における我々の経験領域全体の核心であると述べることに存します。これは「私」と呼ばれる自分自身を通じて、究極的現実を達成するためのアプローチです。『ブラフマ・スートラ I. 1. i.』の注釈の中で、シャンカラはとても明確にこれを語ります。我々の純粋で、簡素な「私」という体験はブラフマンと同じであると彼は言います。「このアートマンはブラフマンである」(*4)、「意識がブラフマンである」(*5)、「そが汝なり」(*6)というような偉大なヴェーダーンタ的言明は、「私」としての純粋な意識と究極的現実の間のこの同一性を簡素な言葉で表現します。同じことがウパニシャッドに見出される様々な喩え話によって裏づけられています。例えば、『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』のヤージュニャヴァルキャと彼の妻との有名な対話(*7)、『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』のインドラとヴィローチャナとの対話(*8)、同じウパニシャッドのブルグとその息子シュヴェータケートゥとの対話(*9)は、まさしくこの真理を指し示しています。

 ヴェーダーンタはさらに、アートマン、もしくは、ブラフマンの本質は、実在、意識、至福であると述べます。それはオームカーラとして知られるものによって象徴されます。『マンドゥキャ・ウパニシャッドとガウダパーダのカーリカ』(*10)は、それが三つ半のマートラー-A+U+Mから成り立つと詳しく述べます。「A」は目覚めの状態に住まう自らを意味します。「U」は夢の状態に住まう自らを、「M」は深い眠りの状態に住まう自らを意味します。第四のもの(トゥリーヤ)はその一切を超越しています。全世界の名と形は、その礎にある、このオームの顕現として、束の間の様相です。言いかえれば、「ブラフマンは現実であるが、現象的世界は非現実である」。これは(その哲学的意味における)「ヴィヴェーカ」と伝統的に呼ばれています。ブラフマンから離れた世界は非現実であり、ブラフマンとしての世界は現実です。

 この教説はヴェーダーンタにおいて二つの方法-①肯定的なもの(アンヴァヤ)、②否定的なもの(ヴヤティレーカ)-で説明されています。「この全てはブラフマンである」(*11)、「この全てはアートマンである」(*12)、「ブラフマンはこの全てである」(*13)、「アートマンはこの全てである(*14)は前者の典型的表現ですが、「これではない、これではない」(*15)などの類は後者を表します。

 ヴェーダーンタの伝統は、現実を実現する二つの方法-①有神論的崇拝(サグナ・ウパサーナ)、②非‐有神論的崇拝(ニルグナ・ウパサーナ)-を定めています。前者はより明敏でない人向けであり、後者はより明敏で、より高度に発達した探求者向けです。これらの道は、しかしながら、相入れず、相反しているわけではありません。両者ともが同じ目的に通じます。

 ウパニシャッドの中のヤージュナヴァルキャとマイトレーイーの対話など(*16)で、我々は自らの探求の道に出会います。ヤージュニャヴァルキャは、「自らが見られ、聞かれ、熟考され、瞑想されねばならない」と言います。シャンカラはこの道を「ヴィチャーラ」(*17)や「ヴィヴェーカ」(*18)と呼び、彼のプラカラナ・グランタスでそれを褒め称えました。後にヴィドヤーラニャのような著者がそれに言及し、論じました。シャンカラは音を追うことに基づいた瞑想(ナーダーヌサンダーナ)(*19)に言及し、それはウパニシャッド的文献の中でも言及されています。『バガヴァッド・ギーター』は、15章の1詩節(*20)の中で、この探求の道に言及しています。

 ヴェーダーンタは、ダハラヴィドヤー(*21)、または、ハールダヴィドヤーにも言及しています。ハートがアートマンの座であり、自らの実現を得るために、人はそこに集中すべきであるとそれは述べます。『バガヴァッド・ギーター』(*22)でさえそれに言及します。

 自らの知と並んで、ヴェーダーンタはバクティの教説も褒め称えます。我々はこの教説への言及を特に『カタ・ウパニシャッド』(*23)と『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(*24)に見出します。シャンカラは彼のストートラの中でそれを褒め称え、ラーマーヌジャは『ブラフマ・スートラ』の彼の注釈書の中でそれを「プラパッティ」と呼びます。『バガヴァッド・ギーター』と『バーガヴァタ』はそれを雄弁に賞賛することで良く知られています。

 ヴェーダーンタは行為は必要であると述べますが、行為の放棄をより好みます(*25)。シャンカラは行為は知恵(ジニャーナ)の正反対であると述べます(*26)。『バガヴァッド・ギーター』では、しかしながら、統合が存在します。

 最後に、ヴェーダーンタは実現のためのグルの重要性を強調します。グルは尊敬すべきブラフマニシターであるべきであり(*27)、マントラにより、眼差しにより、触れることにより、沈黙により、探求者を導くことができます(*28)。彼の恩寵が実現のために不可欠です。『バガヴァッド・ギーター』は、「グルへの奉仕」をジニャーナを構成する美徳の中の一つであると称賛し(*29)。ジニャーニへの奉仕と交際を勧めます(*30)。ヴェーダーンタは、スルティと四つのマハーヴァーキャの権威をその中軸として認めています。

Ⅲ.ラマナ・マハルシと彼の教えの独自性

 実現(悟り)に関する限り、伝統的なアドヴァイタ的ヴェーダーンタとマハルシの教えに何らの違いもありません。上で言及されたヴェーダーンタの顕著な特徴の大部分は、マハルシの作品の中に居場所を見つけます。現実とそれへ通じる道が、両者によって扱われています。それへの心理学的方法が受け入れられ、好まれ、自らとブラフマンの同一性(ブラフマートマイキャ・バーヴァ)は当然のこととされ、肯定的表現法と否定的表現法の両者が承認され、(時には)有神論的方法と(常に)非‐有神論的方法が導きとして指し示され、探求と委ねの方法が定められ、自らは「ハート」に存していると言われています。尊敬すべきグルと彼の恩寵は実現に不可欠であるとみなされます。しかし、この全ての類似性を認めても、両者の表現法や方法論はいくらかの点において異なります。ラマナ・マハルシのメッセージには、いくらかの相違と顕著な特徴があり、ある点でそれは独特のものです。「同じ実現(悟り)を表現するのに、他の方法で言い表わすことはできますか」という質問へ答えて、彼が言い表わすように、「実現した人は、彼自身の言葉を使います」(*31)

 彼の言葉づかいが独特であっただけでなく、彼の人格もまた独特でした。あるいは、彼の人格が独特であったために、彼の言葉づかいもまた独特であったのかもしれません。我々が彼の伝記や彼自身によって述べられる説明を読む時、彼が16才の時に死と直面した時、ジニャーニ、完全に実現した(悟った)人になったことを見出します。そして、彼は、「誰が死につつあるのか」、「私は誰か」と内に問い、「体は死ぬかもしれないが、『私』(が死ぬの)ではない」と決定的に悟りました。これは彼の中に完全な変容をもたらしました。死はもはや彼を脅かさず、生は新たな意味を獲得しました。このように、この全ては聖典の学習でも、グルの足下でのどのような規律やサーダナの結果でもありませんでした。質問が尋ねられた時はいつでも、彼自身の体験を拠り所として、内から自然と彼にやって来たものを答えとして言いました。そのために、彼の質問への答えと彼の作品の中で、彼はいつも「私」の本質を強調しました。

 それは彼のメッセージのキーワードです。精神的な幸福に本当に関心がある人にとって、彼のメッセージは単純明快です。それは形而上学、専門用語、激しい議論、論争、机上の学問という棘のある密林へ通じません。実際のところ、人は学んだことを忘れなければなりません。それはヴェーダーンタ的作品の中で言及される、ブラフマンへの探求のための四つの必須条件(サーダナ・チャトゥシュタヤ)(*32)にこだわりません。必要とされることは、「私は誰か」知りたいという燃えるような熱望です。実を言えば、あらゆる人が、子供でさえも「私」を知っています。それは我々の活動と知識全ての中心です。しかし、我々が持つ「私」についての知識は、表面的なものでしかありません。これが表面的なものであるなら、本当の知識とは何でしょうか。他の何についても思うことなく、人がそれを絶えず吟味するなら、より深く深くに進み、この「私」の背後、その源へ行き、表面的な「私」は抜け落ち、ハートの中で、我々の内に遍く行き渡る「私‐私」の意識が感じられます。これが本当の「私」であり、神、アートマン、ブラフマンなど(どんな名前を使うのであれ)として知られています。そのため、人は現実または神を探して遠くに行く必要はありません。それは我々の非常に近くにあり、愛しいものであり、我々のまさにハートに存しています。マハルシは、これに関連して、二人の「私」は存在しないと注意します。「私」はただ一人です。体との誤った関わりのため、本当の「私」は、自我‐アハンカーラとして知られる表面的な、もしくは、偽の私として感じられます。私‐アハムは神、真のアートマンですが、接尾辞の「カーラ」が意味するように、アハンカーラは作りものです。

 マハルシは我々のこの「私」を吟味し、それに集中し、それを超越するように求めます。この探求の助けとして、心を静めるために、彼は呼吸の制御、または、呼吸を見守ることを勧めます。この道は彼によって「探求の道」、ヴィチャーラまたはマールガナ・マールガと呼ばれています。それが我々を一直線に現実へ導くため、彼はまたそれを「真っ直ぐな道」とも呼びます。他の一切の道は、究極的に、この道に通じます。

  マハルシは、ヴェーダンタ的文献の中で勧められる瞑想とヴィチャーラの間の相違をこのように指摘します。「瞑想は瞑想する対象を必要としますが、ヴィチャーラ、または、内観では、対象を持たない主体だけが存在します。瞑想はこのようにヴィチャーラと異なります。ヴィチャーラは過程であり、目的でもあります。『私は在る』は目的であり、究極の現実です。この純粋な存在に努力してつかまることが、ヴィチャーラです。それが自発的で、自然になる時、それが実現(悟り)です」(*33)

 同様に、ヴィチャーラは、「私はブラフマンである」(*34)や「私はアートマンである」という瞑想とは異なります。後者は心によるものか、知的なものでしかありません。マハルシは、「私はブラフマンである」というウパニシャッド的格言を説明し、それは「私はブラフマンである」ではなく、ブラフマンが「私」として存在することを意味し、「私はブラフマンである」「私はブラフマンである」と思いふけるように勧められていると思われるべきでないと述べました。

 「アートマンが見られねばならない!」などのウパニシャッド的言明は人々に正しく理解されていないとシュリー・ラマナは言います。彼は、「それはアートマンに、『私』という本当の自覚に、完全にのみ込まれることを意味します」(*35)と説明します。

 ヴェーダーンタの中で言及される単なるヴィヴェーカだけでは自らの実現のために十分ではないと彼はさらに指摘します(*36)。それは離欲(ヴァイラーギャ)を生じるため、役立ちます。しかし、解放のために最も不可欠なものとは、「アートマニシター」-自らに住まうことです。分別(ヴィヴェーカ)は、我々を放棄する者にすることによって、見せかけ(アーバーサ)を束の間のものとして捨て去り、永遠の真理であり存在のみにしっかりつかまるよう駆り立てることによって、我々を一歩だけ前に導けます(*37)

 シャンカラに帰せられる、ヴェーダーンタの中で多く引用される言明、「ブラフマンは現実であるが、世界は非現実である」は頻繁に誤解されています。シュリー・ラマナはこれに関連して、「アドヴァティンやシャンカラの学派が世界の存在を否定したり、彼らがそれを非現実とみなすと言うことはまったく正しくありません。それどころか、彼らにとってそれは他の人々よりも現実的なのです。彼らの世界は常に存在しますが、他の学派の世界は起源・成長・衰退を持ち、それゆえに現実になりえません。ただ、彼らが言うことは、世界は世界として現実でないが、世界はブラフマンとして現実であるということです。全てはブラフマンであり、ブラフマン以外何も存在せず、世界はブラフマンとして現実です。シャンカラはマーヤーが存在しないと言います。マーヤーの実在を否定し、それをミティヤや、非実在と呼ぶ彼をマーヤー・ヴァーディと呼ぶことはできません」(*38)と言います。

 この全ては、ヴェーダーンタのなかで暗示されているものが、彼自身の実現(悟り)の観点から、彼によって明示され、詳説されているということを明確に示しています。彼はまた、ヴェーダーンタの中の古い概念や用語と彼が使った新しい概念や用語の区別を大胆に指摘しました。

 例えば、彼が自らの探求に関連して使った「フリダヤム」という言葉は、古いヨーガ的文献の中で使われる胸の(アナーハタ・)チャクラと異なります。それは左側の身体的なハート(心臓)とも異なります(*39)。「フリダヤム」(ハート)はハート(心臓)と呼ばれる身体的器官とは異なると彼は説明します。「フリダヤム」は「アヤム」と「フリット」の二語からなり、「これが中心である」を意味します。そのように、フリダヤムまたはハートは自らの表現であると言われています。胸部のその場所は、右側であり、左側ではありません。それは自らの座であるということもできますが、これはただ理解のためだけに言われています。自らはあらゆる場所にいて、それを位置づけるのは正しくありません。しかし、ただ我々が体の意識であるから、我々はそれをそのように説明しなければなりません。この「フリダヤム」は、古いヴェーダンタ的およびタントラ的文献の中の「フリダーカーシャ」と異なります。ダハラヴィドヤーやハールダヴィドヤーへの言及はすでになされていますが、カパリ・シャーストリは、『サッド・ダルシャナ・バシャヤ』への紹介の中で、ダハラヴィドヤーとシュリー・ラマナの「サッドヴィドヤー」の違いを指摘しています(*40)。前者においては、「瞑想の目的のために、人は想像力豊かな心によって、サグナ・ブラフマンまたは人格神の概念を形作らねばならず、それをフリド・グーハ、ハートの空洞と呼ばれる場所に据え、それに瞑想します。サッドヴィドヤーでは、人格神や非人格神いづれについての知性的な知識を持つことは不可欠ではなく、プルシャの特別な象徴や、プルシャの住まう場所としてどのような空洞を心に抱いたりする必要もありません。想像上のダハラ・アーカーシャ、ハート‐中心の空洞の中にサグナ・ブラフマンが据えられ、そこで瞑想されねばならないと勧められてもいません。遍く行き渡るブラフマンは、あらゆる人のハートの中の自らであり、不滅の私なる意識として光り輝き、自分自身の存在の起源であり支えの真剣な探求は、自然と生命力(生気)を駆り立て、もしくは、心を刺激し、それ自体の活動の起源に向けさせます。この自らの探求において、ハートの中の無知の結び目(フリダヤ‐グランティ)は緩められ、最終的には断ち切られます。人(魂)は身体的なもつれから解放され、その真実の境地を取り戻します。『私という思い』、または、自我意識の起源であり支えは、そのように、ハートの中で自分自身の自らとして実現されます」と彼は言います。

 シュリー・ラマナが強調した別のことは、ヴェーダーンタ的作品やシャンカラによってもまた言及されるように(*41)、人は深い眠りの中で自らの本質である至福を無意識に享受しているということです。あなたも私も、世界とその問題も、死も存在しません。自我は自らに溶け込んでいます。人々は眠りが無知であると言いますが、そうではありません。我々はこの教えを深い眠りから学ぶべきです。我々の本質の探求は、深い眠りの中の我々のこの体験で始まるべきです。

 シュリー・ラマナはこの道をマハー・ヨーガと呼びます。他のヨーガでは、ヴィヨーガ、つまり、神または自らからの分離が含意されます。はじめに、分離が当然のこととされ、それから、合一のための手段が勧められます。しかし、この真っ直ぐな道においては、我々は自らであるので、すでに自らとの合一が存在しています。我々は我々が自らであるとただ知らねばならないだけです。そのため、この道は他の一切のヨーガに勝っています。それはそれら全てを結びつけます(*42)。このマハー・ヨーガでは、すでに詳述されたように、自我の源の探求が存在し、その消滅に帰着します。マハルシは我々がすでに実現されていると強調します。重要であるのは、我々が実現されていないという偽りを取り除くことです。実現(悟り)は獲得されるべき新たな何ものでもありません。仮にそうであるなら、価値はないでしょう。その考えはヴェーダーンタ的ですが、マハルシはそれを非常に明示的に発展させました。

 伝統的ヴェーダーンタはスルティを固く信仰しており、それを権威あるものとみなしています。シャンカラはこの点をとても強調し、ウパニシャッドの中のこれらの優れた発言を熟考するよう我々に求めました。彼はこれをヒンドゥー教を復活させるという目的で行いました。しかし、シュリー・ラマナは、ヴェーダやヴェーダーンタへの彼の堅固な信仰にもかかわらず、それらに頼り、それらを熟考するように我々に求めません。宗教を持つかもしれない、あるいは、持たないかもしれない現代人のために、彼は「私は誰か」という探求を定め、それは机上の学問も、儀式を行うことも要求せず、極めて重大で、直接的な探求になりえます。「人は知恵の目によってその自らを知るべきです。自らは五つの覆いの内にありますが、書籍はそれらの外にあります」(*43) と彼は言いました。

 この道は、それへの盲目的信仰を持つように求めないため、現代人に魅力的です。人は自ら実験し、真理を確かめ、見出さねばなりません。そのように、それは完全に科学的で、理性的です。なぜなら、科学は、ただ誰それがそれを言うという理由だけで何も受け入れられるべきでないということを要求します。人の誤りえない体験が、ここでの真の導き手です。それはどのような教義、教説からも自由であり、形骸化した伝統に妨げられず、どのようなカースト、信条、(肌の)色にも制限されないため、それは普遍的であり、全ての人に向けられています。

 シュリー・ラマナは、探求の道をたどることができない人々に委ねの道を定めました。この道では、人はどのような外側の仲介者にではなく、自分の真の自らに、自分の思い、心配などを含めたあらゆるものを委ねばなりません。両方にとって自らにのみ込まれることが共通するため、マハルシはこれら両方の道が根本的には一つであると述べます。

 これらの道における困難は、人間の姿をとる必要のない尊敬すべきグルの導きと恩寵によって取り除かれます。真のグルは内におり、慈悲心から、探求者を導くために彼は人間の姿をとります。グルは体ではありません。グルの視点からは、師‐弟子の関係性は存在せず、弟子の視点からは、そのような関係性が存在します。グルとの内なる接触は、身体的接触より価値あるものです。

 行為と知識(ジニャーナ)に関して、シュリー・ラマナの考えはシャンカラのものとは異なるように見えます。彼は結果への望みを持たない無私の行為と神への委ねを勧めます。そのような行為は救いに通じます。行為と知識は相反しません。手は忙しいかもしれませんが、頭は穏やかで、冷静であり、自らに没頭しています。行為には感覚がないため、束縛も、解放もできません。「私が行っている」という概念が束縛です。人は自らの実現を得るために世捨て人になる必要はありません。家庭生活から離れ、森に隠遁する必要もありません。「私はサンニャーシンである」という思いも同様に有害です。我々がどこにいようとも、心を静めようと試み、自らの知に達することができます。この時代の人々にとって、そのような教えは非常に適し、価値あるものです。

 自分の実現(悟り)に照らして、彼はヴェーダーンタ的およびヨーガ的文献の中で多用される古い用語に新たな定義を与えました。
ディヤーナ-瞑想者、瞑想、瞑想対象という三つ組の存在しない、自らなる自然な無心の境地
ウパサーナ-瞑想時の(自らという)自然な(無努力の)境地
シュラバナ-ヴェーダーンタ的文献やグル自身の言葉を聞くこと、もしくは、私という思いの源が体などと異なると直観的に知ること
マナナ-自らの探求
ニディディヤーサナ-自らへの内在
プラーナーヤーマ-心によって呼吸を見守ること 
  • 呼気(吐く息)=私はこれではない(ナーハム)  
  • 吸気(吸う息)=私は誰か(コーハム)  
  • 呼吸の停止=私は彼である(ソーハム)
独居-心を静めること
   要約すれば、二つの道についての彼の洞察力に富む詳細な論じ方、ヴェーダーンタ的真理への彼の再解釈と拡充、理性的で科学的なアプローチを伴う、自らの知(ジニャーナ)への彼の独占的かつ包括的な強調と現代人の必要性への理解-彼の最高の聖なる悟りに由来する、この全ては、ヴェーダーンタ的神秘主義への彼独自の貢献を成しています(*44)

 これだけではなく、これらの真理を深く悟らせるために彼がとった方法も同様に独自のものでした。彼は沈黙を通じ雄弁に話しました。「沈黙は途切れのない言葉です」と彼は言いました。彼が話した時はいつでも、彼の答えは短く、実際は、しばしばユーモアに富み、質問者を内に向けるように意図されていました。それは真っ直ぐなアプローチでした。彼の独特の人格、彼の慈悲に満ちた射抜くような神聖な眼差し、とりわけ彼の沈黙は、探求者の心を落ち着ける影響を持ち、彼らの疑問や問題を晴らしました。

 彼の人生と作品を学ぶ人々にとって、ヴェーダーンタ的神秘主義だけでなく、世界の神秘主義への彼の多大な貢献は、比類ないものに映ります。

原注:
(*1)『Sri Ramana Gita』(1996) II, 9.
(*2)同上
(*3)同上
(*4)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., IV. 4. 5 ; II. 5. 3.
(*5)『アイタレーヤ・ウパニシャッド』., V. 3
(*6)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VI. 8. 7.
(*7)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., II. 4. 1-4. IV. 5. 1.
(*8)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VIII. 7. 1.
(*9)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VI. 8. 7.
(*10)『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., I. 1.
(*11)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., III. 14. 1.
(*12)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., II. 4. 6.
(*13)『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., II. 2. 11.
(*14)同上., V I I . 25. 2.
(*15)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., III. 9. 26.
(*16)『カタ・ウパニシャッド』., II .1.
(*17)『ヴィヴェーカチューダーマニ』, 124.
(*18)同上
(*19)『プラボーダ・スダーカラ』, 13.
(*20)『バガヴァッド・ギーター』., XV . 4.
(*21)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VIII. 1. 2. 3.
(*22)『バガヴァッド・ギーター』.,  XVIII . 61.
(*23)『カタ・ウパニシャッド』., II. 23.
(*24)『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』., VI. 23 ; 18, 14.
(*25)『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., I. 2. 11.
(*26)『ケーナ・ウパニシャッドへのシャンカラの注釈』
(*27)『カタ・ウパニシャッド』., II. 9 ; 『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., 1. 2. 12 ; 『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., IV. 14. 2.
(*28)『バガヴァッド・ギーター』., XV . 38.
(*29)同上., XIII. 7.
(*30)同上., IV. 34.
(*31)『Talks with Sri Ramana Maharshi』, (1958) p. 182.
(*32)『ブラフマ・スートラへのシャンカラの注釈』, I. 1. 1.
(*33)『Thus Spake Ramana』, (1967) pp. 48-9.
(*34)同上., pp. 72-3.
(*35)『Sad Barsana Bhashya』, 23.
(*36)『Ramana Gita』, (1966) I, 5.
(*37)『Talks with Sri Ramana Maharshi』, (1958) p. 39.
(*38)『Thus Spake Ramana』, (1967) pp. 75-76.
(*39)『Ramana Gita』, (1966) V, 10.
(*40)『Sad Barsana Bhashya』: Introduction, p. 27.
(*41)『ブラフマ・スートラへのシャンカラの注釈』, II. 1. 6.
(*42)『Upadesa Sara』, (1965) 10.
(*43) 『Who am I?』, (1968) p. 10.
(*44) 『The Mountain Path』, January 1966, Editorial参照

2014年10月30日木曜日

苦しみからの学び - 苦しみの存在は神の存在と矛盾するか

◇「山の道(Mountain Path)」、2012年7月 p9~14

カルマ、輪廻転生、世界の苦しみ

アラン・ジェイコブス
(イギリス・ラマナ協会会長)

 今日、人々の心は、テロリズム、地域武力紛争、飢餓、病気、自然災害、不景気による地球上で目下のところ経験される苦しみについての多大な苦悩や不安で占められています。多くの現代の福音主義的無神論者や不可知論者は、神の存在についての彼らの懐疑論を「恵み深く、情け深い愛の神はとても存在しえない、そうでなければ、彼はこんなにも多くの世界の苦しみを許さないだろう」という言葉に基礎づけています。

 聖者らによれば、世界の宗教の最上の教えは、我々がみな「一つ」であるという考え、多くの名前が与えられている同一の神聖な源から我々が来たという考えに包含されています。

 シュリー・ラマナは、「神は愛の実際の姿である」(*1)と言いました。それでは、なぜ世界には、そんなにも多くの苦しみが存在するのでしょうか。我々自身の教え、至高なる聖者、シュリー・バガヴァーン・ラマナ・マハルシの教えの立場から、我々ははじめに、「この存在の次元は、人間の進化のための計画が組み込まれたカルマの領域として見られるほうが良い」ということを理解しなければなりません。

 『バガヴァッド・ギーター』やシュリー・ラマナ・マハルシが指摘するように、人間は、自分自身の精神的発達のために、イーシュワラ、全能の神によってあらかじめ定められたカルマ、もしくは、運命をもって、この惑星に生まれます。このことはラマナとポール・ブラントンとの対話の中で彼に述べられ、『Conscious Immortality』と『Be As You Are』に記録されています。

 バガヴァーンは言います。「個人々々が彼らのカルマを経験しなければなりませんが、イーシュワラは彼の目的のために彼らのカルマを最大限うまく活用します。神はカルマの結果を操作しますが、それに加えたり、取り除いたりしません。人の無意識は、善悪のカルマの貯蔵庫です。心地よいものであれ、苦しいものであれ、イーシュワラは各人のその時の精神的進化に最適であると彼が分かるものをこの貯蔵庫から選びます。そのため、勝手気ままなものは何も存在しません」。(*2)

 『バガヴァッド・ギーター』は我々に「誰も実際には死なない」と教えます。主クリシュナはアルジュナに、「嘆くなかれ!」と言いました。合間の休息の後、魂またはジーヴァは新たな命に生まれ変わり、それは過去世において蓄積された潜在的傾向から、彼または彼女の精神的成長のために、再び選ばれます。この循環は、徳のある行為の結果として、恩寵を通じ、自らの実現に然るべく彼らを導く、この教えに最終的に彼らが連れ行かれるまで続きます。その時、カルマ的全計画は崩れ落ち、神の本質、もしくは、現実‐意識‐愛としての実在が実現されます。

 シュリー・ラマナの見解は以下に十分によく表わされています。

信奉者:
 神は完全です。彼はどうして世界を不完全に創造したのですか。御業は創造者の性質を共有しています。しかし、この点で、そうではありません。

マハルシ:
 その質問を提起したのは、いったい誰ですか。

信奉者:
 私-個人です。

マハルシ:
 あなたがこの質問を尋ねる神から、あなたは離れていますか。あなたがあなた自身を体であるとみなす限り、あなたは世界を外側(にある)とみなします。不完全さがあなたにとって現れます。彼の御業もまた完全です。しかし、あなたの誤った同一視のために、あなたはそれを不完全であるとみなします。

信奉者:
 どうして自らが悲惨な世界として顕現したのでしょうか。

マハルシ:
 あなたがそれを探し求めるために。あなたの目は、目そのものを見ることはできません。その前に鏡を置けば、目は目を見ます。創造についても同様です。「まずは、あなた自身を見なさい。その後、全世界を自らとして見なさい」。

信奉者:
 では、つまりはこういうことです-私はいつも内を見なければなりません。

マハルシ:
 ええ。

信奉者:
 私は世界をまったく見るべきではないのでしょうか。

マハルシ:
 あなたは世界から目を閉ざすように教えられているわけではありません。あなたはただ、「まずは、あなた自身を見て、その後、全世界を自らとして見る」べきです。あなたがあなた自身を体とみなすなら、世界は外側にあるように見えます。あなたが自らであるなら、世界はブラフマンとして現れます。(*3)

 バガヴァーンは簡潔に、より高い視点からは、世界、神、個人という三つ組に関する質問は心の作りごととしてみなされるべきであると述べました。より低い視点からは、世界について思い悩まずに、我々は「それを創造した彼にその面倒を見」させておくべきです。

 このことが受け入れられるなら、人々が忍受する苦しみは、それが魂の精神的発達のためにあらかじめ定められたカルマであるという意味において、恵み深いものです。バガヴァーンはスワーミー・ヨーガーナンダに、「なぜ神はこの世の苦しみを許すのですか。彼はその全能の力でもって一遍にそれを取り除き、神の普遍的な実現を定めるべきではありませんか」と尋ねられました。バガヴァーンは、「苦しみは神の実現のための道です」(*4)と答えました。魂の高潔さやとても多くの美徳は、ただ苦しみのみから生まれます。浄化と清めの時である、このサンサーラは、退廃的で堕落した文化の享楽主義の中にぐずぐず居残るのではなく、その子供たちを真の価値観へ立ち帰らせるために苦しみを活用します。

 ハーフィズが記すように、「とても柔らかく、棘のないバラを摘んだ、最も偉大な者は決して生まれなかった。我々は対立する二極の法則にもとづく世界に住んでおり、我々はそれを乗り越えねばならない」。

 地球上には苦しみがいつも存在しています。二つの世界大戦において忍受された苦しみと比較すれば、現代の苦しみはほとんどごく僅かなものです。同時に、我々は決してどんな苦しみにも無情で、無関心でいるべきではなく、いつも慈悲を持って行動しなければなりません。バガヴァーンが説くように、苦しみが我々の行く手にやって来るなら、我々はそれを和らげるために最大限のことをしなければなりません。ジニャーニは全く慈悲深くあり、それは人間にとってだけでなく、動物や植物についても同様です。我々が人類にもたらすことのできる最大の助けは、我々自身の自らの実現であり、それは信仰者と無信仰者いずれもの間のこの世の苦しみを和らげます。

  よく尋ねられる質問は、「苦しみが起こった時、それにどう対処すればいいのか」です。まずはじめに、人は何であれそれを「受け入れ」なければならず、結局は、それが一番良い結果になります。人間の心はより優れた知恵を理解できません。この委ねの形と共に、人は苦しみから学ぶことになっていた教訓を徐々に理解します。毎日の生活は緊張、不安、喪失、失望でいっぱいです。私が述べた受容の後、委ねの行為として、我々は我々の人生の全ての重荷を神、もしくは、我々のハートの中のサット‐グルに手渡さなければなりません。その後、彼が我々の重荷を運び、我々の心配はすべて彼のものです。

 最終的に、銀河系から原子に至るまでに起こる、あらゆることは神の御心の許しなくして動かないということを我々は受け入れなければなりません。個人的な心地よい満足に基づき、取るに足りない自己中心的な人間的な認識でもって、遠目に推し量ることさえも我々の知性を超えている全世界の主の行為を問う資格が我々にありますか。

 シュリー・バガヴァーンが苦しみの問題について尋ねられた時、彼はそれを取り除く方法を提案しました。他のたいていの人は枝を刈り取ります。シュリー・バガヴァーンは問題の根に取り組みました。どれほど苦しみが重大なものであっても、深い眠りの中ではそれを意識しないと彼は言いました。ひどく歯が痛む時、その痛み以外何も考えられません。しかし、痛みは深い眠りの中で感じられません。深い眠りの中で、我々は体を意識せず、それゆえに、痛みも存在しません。心が自らに溶け込む時、体の意識は存在せず、それゆえに、痛みは存在しません。シュリー・バガヴァーンは身体的苦痛は体の意識の後にだけ起こると言いました。それは体の意識と楽しみがない時にありえません。痛みは自我に依存しています。それは「私」なくしてありえませんが、「私」はそれなくして存続できます。

 普段でさえ、痛みが心の持ちように関連していることに我々は気づきます。何かの激しい痛みがあり、好感を持つ人が入って来るなら、痛みはある程度和らぎます。好きではない人が入って来るなら、痛みはひどくなります。言いかえれば、特定の瞬間の心の状態に応じて、痛みは増減します。シュリー・バガヴァーンは、痛みをまったく感じないように、心を完全に取り除くよう求めます。彼は言います。「ですから、内に向き、自らを探求しなさい。そうすれば、世界とその苦しみは共に終わります... 体の意識が去る時、苦しみも去ります。祈りは、それが至高の存在への観想の中に我々自身を失わさせるという点において、良いのです。心が観想の中に失われる時、少なからぬ痛みの軽減が起こります。しかし、祈りは苦しみを完全に取り除きません。心が祈りに従事していない時、個人は苦しみを感じます。プージャー、ジャパ、祈りは、それらが心から一時的に苦しみを取り除いてくれる点において、全て良いのです」。(*5)

 それらは一時的な手段として全て良いのですが、苦しみを取り除くことは体の意識の排除を通じてのみ可能です。シュリー・バガヴァーンは、「もしそのように苦しみのないままにあるなら、どこにも苦しみは存在しません。今の問題は、あなたが世界をあなた自身の外側に見て、その中に苦しみがあると考えるためです。世界と苦しみは共にあなたの内にあります。あなたが内に向かうなら、苦しみは存在しません」(*6)と言います。

 そのように苦しみを排除する人たちは利己的であり、他者を気に掛けないという非難に対して、シュリー・バガヴァーンは、「世界はあなたの外側にありません。あなたが誤ってあなた自身を体と同一視しているため、あなたは世界をあなたの外側に見て、その苦しみがあなたにとって明らかになります。しかし、世界とその苦しみは現実ではありません。現実を探求し、この非現実の感覚を取り除きなさい。自分自身の理解が、苦しみの終焉です。その境地において、自らのみがあらゆる人、あらゆるものの中に見られるため、利己性についての質問は起こりません」(*7)と言います。

 しかし、シュリー・バガヴァーンは我々が他者の苦しみに無関心でいるべきだとは言いません。我々が体の意識を持つ限り、我々は我々の苦しみと他者の苦しみを意識し、それを取り除くことに関心があるでしょう。慈悲とは、実際、私の心の中のあなたの痛みです。我々が他者の苦しみを取り除く時、我々はより自分中心でなくなります。しかし、この方法では、我々は世界の一切の苦しみを取り除けません。苦しみは自我に依存しているため、シュリー・バガヴァーンは自我を取り除くことを勧めます。そして、苦しみもまた消えます。

 これは単なる理屈ではありません。シュリー・バガヴァーンは彼が述べたことの良い例となりました。彼が癌を患った時、彼はそれが他人のものであるかのように振る舞いました。彼は相変わらず落ち着いていて、まさにその最後の時まですべての人にダルシャンを与えました。彼の表情にはかすかな痛みの痕跡もありませんでした。彼の体への無執着は完全でした。

 原注:
(*1)Muruganar、『Guru Vachaka Kovai』、652、p277。T.V. Venkatasubramanian,、D. Godman、R. Butler訳。
(*2)Brunton Paul、『Conscious Immortality』(1996)、p130。David Godmanは、「この引用の一部は、不注意にも出版されたバージョンから取り除かれています。ここに記載される引用は直接この本の原稿から取られたものです」と記しています。『Be As You Are』(Penguin Books India, 1992)、21章、注釈3、p237参照のこと。
(*3)Venkataramiah, M.(編集)、『Talks with Sri Ramana Maharshi』(1996)、§. 272、1936年10月23日、p226~228
(*4)同書、§.107、1935年11月29日、p103
(*5)Subrahmanian, K、『Uniqueness of Sri Bhagavan』(2007)、p58
(*6)同書、p58
(*7)同書、p58

2014年10月19日日曜日

真理への様々な道のり - 全ての道は「私は誰か」に通ず

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)
      
1947年11月29日

(159)自らの探求という道


 今日の午後、ある信奉者がバガヴァーンに、「スワーミー、実現(悟り)を得るためには、『私は誰か』という探求が唯一の道でしょうか」と尋ねました。
 
 バガヴァーンは彼に答えました。「探求が唯一の道ではありません。聖なる名の復唱(ジャパ)やどのような方法でも、不屈の決意と忍耐をもって、名と形を伴う靈的修練(サーダナ)を行うなら、人はそれになります。各人の素質に応じて、ある靈的修練が別のものよりも優れていると言われていて、その様々な微妙な相違やバリエーションが与えられています。ティルヴァンナーマライから遠く離れている人々もいて、とても近くにいる人々もいます。また、ティルヴァンナーマライにいる人々もいますが、バガヴァーンの講堂自体に入る人々もいます。講堂に入る人々にとって、彼らが足を踏み入れる時に『ここにマハルシがいます』と告げるなら、それで十分であり、彼らは即座に彼に気づきます。他の人々には、どの道筋をとるのか、どこで乗り換えるのか、どの道に向かうのか教えなればなりません。同様に、修練者(サーダカ)の素質に応じて、採るべき特定の道が定められなければなりません。これらの靈的修練は、全てに行き渡る自分自身の自らを知るためではなく、ただ欲望の対象を取り除くためだけにあります。その全て(の欲望の対象)が捨て去られる時、在るがままに留まります。いつも存在しているそれは、自らです-あらゆるものが自らから生まれます。人が自分自身の自らを実現する時にのみ、それは知られるでしょう。人がその知を持たない限りは、この世界で見られる全ては現実のように見えます。この講堂で眠っている人がいるとしましょう。寝ている間に彼はどこかに行く夢を見て、道に迷い、村から村へ、山から山へさ迷い、その間、何日かの間ずっと、食べ物も水もなく探し求めます。彼は大いに苦しみ、何人かに尋ね、終に正しい場所を見つけます。彼はそれにたどり着き、この講堂に足を踏み入れつつあると思い、大変に安心して、驚いた表情で目を開けます。この全ては短い間に起こったのでしょうが、目覚めてはじめて、彼は自分がどこにもいなかったということを理解しました。我々の現在の人生もまたこのようです。知の目が開かれる時、人は自分が常に自分自身の自らの中に変わらずにいることを悟ります。」

 質問者はさらに、「全ての靈的修練が、よく言われるように、自らの探求という道に溶け込むというのは本当ですか」と尋ねました。

 「ええ」とバガヴァーンは答えました。「『私は誰か』という探求はヴェーダーンタの始まりであり、終わりです。四種類の靈的修練の長所を持つ者だけが、ヴェーダーンタ的な探求に適していると言われています。修練の四つの範疇の中で、最初のものは自ら(アートマ)と自らならざるもの(アナートマ)についての知識です。それは自らが永遠(ニティヤ)であり、世界が非現実(ミティヤ)であるという知識を意味します。これをどうやって知るのかが問題です。『私は誰か』や、私自身の本質とは何かに関する探求によって、これを知ることが可能です!いつも、この手順は靈的修練の最初に提案されますが、一般的にそれは説得力がありません。そのため、あらゆる類の他の靈的修練が頼られ、修練者が自らの探求に取り組むのは、ただ究極的に、最後の拠り所としてだけです。A、B、C、D、Eなどのアルファベッドは若いころに習います。これらの文字が全ての教育の根本であり、文学士や文学修士のために勉強する必要がないと言われるなら、人々はそのような助言を聞き入れますか。勉強し、それらの試験を通ってはじめて、学んだ全てがA、B、Cなどの根本的な文字に含まれていることが理解されます。全ての聖典は初歩的なものごと、アルファベットに含まれてはいませんか。そうであることは、全ての聖典を暗記した後にだけ知られます。多くの川があり、真っ直ぐに流れるものもあれば、うねり、ジグザグに曲がっているものもありますが、その全てが究極的には大海に溶け込みます。同じように、全ての道が自らの探求に溶け込みます。全ての言語が沈黙(モウナ)に溶け込むのとまさしく同様です。モウナとは途切れのない会話です。それは空白であるということを意味しません。それは自らの言葉であり、自らと一体となっています。それは自ら光り輝いています。あらゆるものが自らの内にあります。タミル・ナードゥでは、ある偉大な人が、「我々はスクリーンのようであり、全世界はその上の映像のように映る。沈黙は完全であり、全てに行き渡っている』という趣旨の歌を作り、歌いました。「om purnamadah purnamidam purnatpurnauduchyate」という言葉のように、あらゆるものは真理を悟った人にとっては同じように映ります。たとえ彼が何かを見ても、彼はそれを見ていないも同然です。」

 そのように言い、バガヴァーンは再び沈黙しました。

イーシャー・ウパニシャッド


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『イーシャ-・ウパニシャッド』のはじめの祈りの詩節

om purnamadah purnamidam purnatpurnamuduchyate
オーム プールナマダ プールナミダム プールナープールナムダッチャテー
purnasya purnamadaya purnamevavasisyate
プールナッシャ プールナマーダヤ プールナメーヴァーヴァシッシャテー 
om shanti shanti shantih
オーム シャーンティ シャーンティ シャーンティ

オーム、あれは完全である。これは完全である。完全から完全が生じる
完全から完全を取り除くなら、残るものは完全である
オーム、安らかでありますように(×3)

2014年10月8日水曜日

D.S.シャーストリ - 妹ナーガンマからの手紙の受取人、ジャパの速度

◇「山の道(Mountain Path)」、1971年7月 p181~183

シュリー・バガヴァーンとの若かりし日々の思い出

D.S.シャーストリ

 1941年にアーシュラムをはじめて訪れた際に、私はビクシャーの手配をしました。アーシュラムに住む人全員にご馳走する費用がかかるため、それを行う訪問者はほとんどいませんでした。そのために私は尊大な気持ちを持っていました。午後、しかしながら、私が他の二人の信奉者とお茶を飲んでいた時、彼らの内の一人、副登記官のシュリー・ナーラヤナ・アイヤルが弁護士のシュリー・T.P.ラーマチャンドラ・アイヤルに、「今朝、誰が我々全員にご馳走したのか知っていますか。我々のそばにいるシュリー・シャーストリですよ」と言いました。これに対して、シュリー・ラーマチャンドラ・アイヤルは、「誰がビクシャーを与えたかの何が重要なのですか。シュリー・バガヴァーンがその日の我々の食事を与えています。それが我々にとって重要なことです」と述べました。それは謙虚さについての良い教訓となり、自己中心主義というヒドラの首を切り落とすために様々な手段を使う、真のジニャーニの常に存在する注意深さを私に深く悟らせました。

 私はヒンドゥー教の聖典や哲学についてあまりよく知りませんでした。私はそれらをパンディットの助けによって学びたいと思い、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』か『バガヴァッド・ギーター』のどちらから始めるべきかバガヴァーンに尋ねました。以前に、誰かが私に前者はバガヴァーンのマールガであるジニャーナ・マールガを扱っているので、その本から始めるべきだと言っていました。バガヴァーンは、しかしながら、ギーターを勧めました。私はそれについて全然うれしくありませんでした。翌日、私が去った後、バガヴァーンは私の妹のナーガンマに、初心者はヒンドゥー教の教義と哲学の根本について理解するために、はじめにギーターを読むべきであり、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は後で考えてもいいと言いました。それはいつもの通りに私に伝えられました。それゆえ、私はあるパンディットにギーターについて講演をしてもらうように手配しましたが、始める前にバガヴァーンの祝福を得るために私たちはアーシュラムにやって来ました。バガヴァーンは私たちに、ギーターは注意深く、むやみに急がないで学ばれるべきであると言いました。それに応じて、講演には私自身の他に、信奉者の小集団が出席し、20か月以上続きました。

 1946年9月の50周年記念式典の数日前に、私は偶然アーシュラムにやって来ました。私が到着して1日後、事務仕事のため、私は朝に車でヴェールールに出発しました。アーシュラムの管理人たちは、ヴェールールにいるある人から50周年記念式典のために必要な袋一杯の野菜と他の品物を途中で受け取って、一緒に持って帰るように私に頼みました。ティルヴァンナーマライを離れる前にバガヴァーンに告げることは信奉者にとって一般的なことでした。何かの理由で、私はこの機会にそのようにし忘れました。そのため、バガヴァーンはアーシュラムの管理人たちが私をヴェールールにお使いにやったと思い、信奉者がアーシュラムに安らぎと落ち着きを求めてやってきたのに、雑多な用事に煩わされるのをバガヴァーンは好まないため、アーシュラムの事務所にいる人たちを叱責することによって不満の色を示しました。私の妹のナーガンマは、私が予定通りに自分の事務仕事のためだけに出かけたのだとバガヴァーンに請け負いましたが、彼は納得しませんでした。夜の7時30分ごろにアーシュラムに戻るとすぐに、私は真っ直ぐバガヴァーンのもとへ行き、私がしたことを説明するように頼まれました。彼の心遣いはそのようでした!

 信奉者みなによくあることですが、サーダナに関して疑問がある時はいつでも、私はバガヴァーンに尋ね、疑問を解消しました。私が早朝に行うことを習慣にしていたガーヤトリー・ジャパをゆっくりと行うべきか、それとも素早く行うべきか、かつて私は尋ねました。バガヴァーンは、「それはジャパが行われている目的によります」と言いました。「それがシャクティ(力)を達成するためならば、素早く行われるべきです。マントラが繰り返し唱えられる回数が、必要とされる力を与えるからです。しかしながら、主要な目的が瞑想状態に入ることならば、マントラがゆっくり繰り返されても、素早く繰り返されてもほとんど重要ではありません。復唱は目的への手段でしかないからです」。しばらく後で、マントラをゆっくり繰り返している間にその流れを見失っていき、何とかそれを思い出した時だけ、それを再開することに気づきました。そのような逸脱が忘却や眠気によるのかどうか、そして、ジャパの継続性を保つために、それについて私はどうすべきかバガヴァーンに尋ねました。ジャパの流れを見失うことと瞑想に入り込むことは、忘却でもなく眠気でもなく、サーダナにおける好ましい特徴であり、何の恐れも疑いもなく、この修練を続けるべきであるとバガヴァーンは私に請け負いました。

 私は『Bankers' Advance Against Goods』という題名の銀行業務に関する本を記し、ボンベイのM/s. Thacker & Co. Ltdから出版されました。私はその本の最初の2冊をアーシュラムに持って行きました。1冊はアーシュラムの図書館のためであり、1冊は私が個人的に使うためであり、私の本にバガヴァーンのサインを得たいと思いました。アーシュラムの事務所はその両方にゴム印を押し、バガヴァーンのもとへ送りました。いつものように、バガヴァーンはそれらを熟読し、脇におきました。私はサインを頼みましたが、断られました。バガヴァーンは、アーシュラムの印がすでに上に押してあり、それで十分なはずですと指摘しました。そこで、シュリーやオームというように、バガヴァーンが少なくともアクシャラム(文字)を一つだけでもその上に書いたらどうかという提案が直ちになされました。再び断りながら、バガヴァーンは、「存在するもの(全存在)は一つのアクシャラムであり、それを書きとめることは不可能です」と言いました。私は困惑し、立ち去るときに気落ちせずにはいられませんでした。翌日、バガヴァーンは紙切れに「Ekamaksharam hri di nirantaram bhasate svayam likhyathe katham」(原注)という、この有名な詩節をサンスクリット語で記し、私のもとへ送るようにそれをナーガンマに手渡し、それによって私は落ち着きを取り戻しました。

 ある時、私はアーシュラムがひと月か3か月おきに機関誌を発行してはどうかと提案しました。アーシュラムの関心はその編集上の側面にあったので、私はその一部始終を作りあげ、印刷、発行、発送とあらゆる付随する仕事を監督すると申し出ました。(当時、全ての通信と出版を扱っていた)サルヴァーディカーリーとモウニは、これは望ましく、うまくいきそうだ云々と確信し、ある夜の9時頃、信奉者みなが去った時、我々3人はバガヴァーンに許可を求めるために近づきました。モウニは計画について詳細に説明し、バガヴァーンの同意を繰り返し懇願しました。しかしながら、バガヴァーンは熟慮された沈黙を保ち、どれほど我々がバガヴァーンから何らかの指示を得ようと試みても、うまくいきませんでした。それゆえ、計画は取りやめになりました!

 ナーガンマは、シュリー・バガヴァーンが信奉者と共に座っていた旧講堂で起こる興味深いことについて何でも私に(テルグ語で)手紙を書いたものでした。彼女は彼女が語る話をバガヴァーンの生き生きとした存在で満たすことができました。彼の質問への答えや発言は、いつも非常に興味深く、大きな価値がありました。ジニャーニの言葉は、探求者を変容しうる力を放っています。

  そのように、我々がシュリー・バガヴァーンから物理的に遠く離れていても、彼女の手紙は精神において彼のダルシャンを我々にもたらします。

 それらの手紙は偶然に読んだ他の信奉者にもたいへん高く評価され、より多くの人々に届くために、彼らはそれらをテルグ語から英語に翻訳するように私にしきりに促しました。これを私は奉仕として行い、それらは『Letters from Sri Ramanasramam』という題名のもとで発行されています。(バガヴァーン存命時)より短い、もしくは、より長い期間、我々はシュリー・ラマナーシュラマムを訪れつづけており、バガヴァーンの存在と導きと気遣いを以前のように感じています。

(原注)
「自ら光輝いている、ただ一つの不滅なるものが、常にハートの中にある。どのようにそれを書きとめればいいのか」-(アクシャラは「文字」だけでなく、「不滅の」も意味します)。

2014年10月6日月曜日

G.ラクシュミー・ナラシンハム (ラマナの詩のテルグ語への翻訳者)の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Rmana Maharshi)』

106.
法学士、G.ラクシュミー・ナラシンハムは、1930年代と40年代にアーシュラムの運営にたいへん尽力しました。彼はシュリー・ラマナの作品、「Five Hymns to Aruna chala」、「Reality in Forty Verses」をテルグ語に翻訳しました。
  バガヴァーンと私の交際は1930年に始まり、シュリー・ラマナーシュラマムで3年間にわたり過ごしました。それは大変な幸運でした。

 私は理学部の卒業生でした。私は万物の原子構造について、どのように物質が最終的にエネルギーに解消されるのかについて学び、心もまたエネルギーの一つの形であると学びました。そのため、心と物質からなる全世界は、その源までたどる時、どのようにあなたがそれを呼ぼうと決めるのであれ、均一な一つのエネルギー、または、神です。

 これが私がはじめてシュリー・ラマナーシュラマムに来た時の私の態度でした。バガヴァーンはその時、「Ulladu Narpadu」をテルグ語に翻訳していました。それを仕上げた後、彼は私に原稿を渡し、「あなたはアーンドラ人ですね。その中に文法上の誤りがあるのか確かめてください」と言いました。私の心を内に向け、正しい道に向かわせたのは、この翻訳でした。

 バガヴァーンが私との対話の中で述べたことの要約は以下になります。「あなたは『最終的な分析において私が見たり、考えたり、行ったりする全ては一つである』と言います。しかし、それは実のところ二つの概念を含んでいます。見られる全て、そして、見る、考える、行うということをなし、『私』と言う、『私』です。これら二つのどちらがより現実的で、真実で、重要ですか。明らかに、見る者です。なぜなら、『見られるもの』はそれに依存しています。ですから、あなたの注意を見る者に、あなたの『私』の源に向け、それを実現しなさい。それが本当の務めです。今まであなたは主体ではなく、対象について学んできました。今や、この『私』がどのような意味を表すのか見出しなさい。『私』という表れの源である実体を見つけなさい。それが自ら、私たち自身みなの自らです」。

 この直接的で、簡潔な教えは、私にとって強壮剤のようでした。それはその時まで私の心に絶えずつきまとっていた不安と混乱と一掃しました。それは、もちろん、「Ulladu Narpadu」の真髄であり、バガヴァーンの全著作の中心となるテーマです。その簡潔さは私に、「では、バガヴァーン、あなたがアートマ・ヴィドヤーの詩の中で述べた通りに、自らの実現はとても簡単です!」と急に大きな声を出させました。

 バガヴァーンは微笑み、「ええ、ええ。はじめはそのように思えますが、困難は存在します。あなたはあなたの現在の誤った価値観と間違った同一視に打ち勝たなければなりません。その探求は集中した努力と、(源に)達する時、源に堅固に留まることを必要とします」と言いました。しかしながら、私に注意を与えながら、彼はまた慰めの言葉を付け加えました。「しかし、そのことで止めようとしないように。『私』を探求しようとする衝動が起こること自体が、人が願い求めなければならない神の恩寵の働きです」。

 かつて、私の母がバガヴァーンに、「あなたは神です。どうぞ私をお助け下さい」と言いました。彼は、「私、神-私はただ神の存在を信じる者です。私が神であると言わないでください。それでは、全ての人が私の髪の毛を抜き取ろうとします」と答えました。

 急性の肝臓病を患っていた私の3才の息子は、数日間、アーシュラムに連れて行かれましたが、2か月後に亡くなりました。その出来事はバガヴァーンの知るところとなりました。バガヴァーンがある近親者の夢に現れた時、彼はバガヴァーンに、「子供はあなたのもとへ連れて行かれたのに亡くなりました」と尋ねました。バガヴァーンは、「とても多くの顧客があなたの家の弁護士にやってきます。彼はいつも、『最善を尽くします』と言いませんか。彼はいつも訴訟に勝ちますか。神の場合もまた同様です」と答えました。

 ある信奉者が娘にふさわしい花婿を得ようとする試みに失敗した時、彼はバガヴァーンの助けを求めました。彼は毎日一定回数、朗唱するためのタミル語の詩節を与えられました。詩節はパールヴァティーを妻として娶るシヴァへの祈りの文句でした。ひと月かふた月後、その信奉者はうまく娘の結婚式を挙げることができました。

 私の娘もまた年頃であり、私は同じ方策に従おうと考えました。バガヴァーンの許可を得るために、私は紙切れにその詩節を記し、「この中に間違いはありませんか」と言って、それを彼に見せました。バガヴァーンはそれに目を通し、「どうしてこれが必要なのですか。あなたはこの全てを行う必要はありません。時が来れば、花婿自身がやって来て、その手で彼女を連れて行きます」と尋ねました。私はあきらめました。そして、私の娘はバガヴァーンが予言したように結婚しました。

 1930年12月、私の兄弟の生まれたばかりの娘が、バガヴァーンに名づけていただくために、アーシュラムに連れて行かれました。彼に親しみのある二つの名前は、ラクシュミーとサラスワティーでした。それで、赤ん坊を見ながら、バガヴァーンは、「彼女にサラスワティーの名を与えてはどうですか」と言いました。すでに一人サラスワティーがいると告げられた時、彼は彼女をバーラ・サラスワティーと名付けました(バーラは「年下の」を意味します)。

 バガヴァーンはパーラーヤナ(聖典の復唱)を強調しました。彼は最初はそれらを理解することができなくても、徐々にその究極的な意味が自然と閃くだろうと考えました。バガヴァーンはまた、1回書くことは10回読むことに相当すると言いました。

 1930年代初期に、ジャッキーという名前の犬が病気にかかりました。バガヴァーンは犬のために柔らかいベッドを講堂に用意し、愛情こめて世話していました。数日後、犬の病気はひどくなり、悪臭を発しはじめました。バガヴァーンの犬への世話に何の変わりもありませんでした。終に、犬は彼の手の中で息を引き取りました。犬はアーシュラム構内に埋葬され、その上には小さなお墓が伴っています。

2014年9月26日金曜日

バガヴァーン・ラマナのハーシャ・ヴィチャーラ(笑いの追求)

◇「山の道(Mountain Path)」、1997年ジャヤンティ p131~135

清らかなユーモア 

I.S.マドゥグラ

 全ての聖者がユーモア感覚で知られているわけではありません。よそよそしかったり、近づきがたい傾向のある人々もいます。バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシは、決してどのような排他性も主張しませんでした。彼は人生の大部分を普通の人間として普通の人々の間で生活し、彼に接触しに来た人々の人生に並外れた変化をもたらしました。しかも、彼はそれを想像しうる最もチャーミングな方法で行いました。自らに関する非の打ちどころのない議論を使い、いわば、彼は靈性(スピリチュアリティ)を民主化し、人生の神秘を解き明かしました。

 おそらくはそれが聴衆を安心させ、彼を彼らに繋ぐだろうから、あたかも彼らへの限りない愛情では十分でないかのように、シュリー・バガヴァーンが彼のメッセージを伝えるために使った道具の一つがユーモアでした。

 さらに、どれほど深刻な問題が手元にあっても、ユーモア感覚は彼の存在の自然な部分であったようです。例えば、ある信奉者が馬車での彼女のギリ・プラダクシナがちょうど終わったばかりだと発表した時、彼は雄牛が得たに違いない大変な功徳について語ることがありました。また、嘆き悲しむ母親が亡くなった息子を彼が蘇らせられると愚かにも主張した時、彼はそうすることはできないとはっきりと言い、「もし私が本当にその奇跡を起こせるなら、アーシュラムの敷地には死体があふれかえっているでしょう」と付け加えることにより、重苦しい雰囲気を軽くしたものでした。

 おそらく、彼の生来の陽気な性質(つまり、賢者にしては陽気な)のさらに良い例は、彼の周りの人たちが大麻の影響を議論していた時、あたかも大麻の影響下にいるかのように、彼がよろよろ歩くふりをした出来事の中に見ることができます。彼は薬に引き起こされるアーナンダの可能性さえ認め、50年後にやって来ることになるヒッピーの奇矯な振る舞いを、いわば、予見し、それが正当である理由を与えました!同時に、芝居を演じてるように見える間に、彼は触れることで、支えを求めるふりをして彼がもたれかかったある信奉者にしびれるような感動を与えました。(*1)

 探求者の質問に答えるシュリー・バガヴァーンの方法は、3段構えであったようで、状況と質問者の態度によりました。彼は質問に的確に答えました。もしくは、質問者がより十分にその質問の含意を理解するために、質問をぐるりと回転させ、質問者を受け身にさせました。もしくは、質問に予想外のユーモラスなひねりを加え、彼の見解をより効果的に理解させました。ここでの我々の関心事は、この3番目の区分です。

 この3番目の区分の中には、3種類のユーモア-言葉に関するもの、一般的なもの、自分に向けられたもの-が見られます。自分に向けられた冗談の例は、シュリー・バガヴァーンによって哲学的な疑問を晴らしてもらいたいと思った彼のタミル語の老先生に関するものでしょう。自分は学校をやめ、町を離れて山に逃げたのに、教師の尋問からは逃れることができなかったようだと述べることによって、彼はその状況の皮肉な結果を明らかにしたものでした。

 このエピソードを詳しく話してもいいでしょう。
バガヴァーンが山腹に住んでいた時、彼のタミル語の老教師がはるばるマドゥライからティルヴァンナーマライまでやって来て、自分自身で彼の以前の生徒の中の変化を確かめ、今や有名なマハルシに敬意を払おうとしました。彼は訪問者の中に控え目に座りましたが、すぐにバガヴァーンは彼と認め、アクシャラマナマーライを一部、彼の手におきました。それにざっと目を通し、そのパンディットはその深い献身としっかりした哲学を喜ばしく思いましたが、いくつかの文章の意味を完全に理解するためには助けがいると感じました。勇気を奮い起し、彼は立ち上がり、詩節を読み上げ、バガヴァーンにそれを説明して下さるように頼みました。 
「このありさまを見てください」とバガヴァーンは抗議しました。「そういった質問から逃(のが)れるために、私は学校と家から逃げ出しました。そしたら彼は私を追って来て、『この文章はどういう意味ですか』といつもの同じ質問を尋ねるのです』」。(*2)
  全ての人がこの不満のまねごとの裏にある愛情を楽しみました。主スワミナータやダクシナムールティから学んだ年長者たちのように、かつては生徒の知識をためそうとして質問をした教師は、今や弟子に変わり、その質問は彼自身の無知を取り除くことを目的にしていました。

  別の例は、カウピーナ[*1]だけを身につけるという彼の生涯に渡る「刑罰」についてでしょう。慣習にあったように、隣家の年配の女性が吉日の料理を手伝うためにカウピーナを身につけるよう彼に頼んだ時、恥ずかしがりな少年ゆえに、それを身につけるのを拒んだ罰としてです。
  私は一度、カウピーナを身につけるのを拒んだのですが、今、それをいつも身につけるという報いを受けさせられています。(*3)
  独学でサンスクリットに精通した者として、シュリー・バガヴァーンはその言語において驚くべき学識を披露しました。彼は哲学的、専門的用語の中に独創的な対照を示すことができました。ヨーガの概念を議論している時に、彼は述べました。
そのため、知の道はどのようにヴィヨーガ(分離)が生じたのか見出そうと試みます。(*4)
ヨーガ(合一)は、ヴィヨーガにある者のためにあります。(*5)
  また、彼のブラフマチャルヤの解釈は、伝統的なそれからの革新的な離脱であり、その言葉の文字通りの意味に基づきます。
ブラフマチャルヤとは、「ブラフマンに住まうこと」です。それは一般に理解されるような独身生活(禁欲)と全く関係ありません。真のブラフマチャリ、すなわち、ブラフマンに住まう者は、自らと同じであるブラフマンの中に至福を見つけます。では、どうしてあなたは幸福の他の源を探さなければならないのですか。(*6)
  本当に面白いものは、彼のグルとラグの対比であり、再び、哲学的な意味よりもむしろその用語の明示的な意味に基づいています。
グルは、ラグがある限り必要です。(言葉遊び:グル=重い、ラグ=軽い)。(*7) [*2]
  それから、彼は続いてその対比の哲学的含意を教えます。

 同様に面白おかしい調子で、彼は自らの探求の必要性をそれが止んだ時に起こることを指摘することによって強調しました。
アートマ・ヴィチャーラが止むなら、ローカ・ヴィチャーラ[*3]取って代わります。(*8)
  彼がある質問への答えに差し出した、さらにもう一つの言葉に基づい説明は、
訪問客:いつくかのアーサナが言及されています。その中のどれが最良ですか。
バガヴァーン:ニディディヤーサナ(心の一点集中)が最良です(*9)
  シャンカラが、ブラフマンの実現に導かない、どのような姿勢も自ら課した苦しみでしかないと言った時、彼は韻を踏む機会を逃していました(netarat sukhanasanam)。シュリー・バガヴァーンは一枚上手のようであり、我々に韻が合う相関語を同じ趣旨で提供します。

 シュリー・バガヴァーンによる即興の発言の大部分は、一般的なユーモアの区分に入るようです。それらはもちろん誰に向けられたものでもないですが、状況に大変適したものです。彼はどうしてそんなにも彼の近くにあり、まったく絶えることなく彼の内に存する自らを見逃すことができるのか当惑した様子で不思議がったものでした。
自らより明確なものがありえますか。(*10)
これより大きな謎はありません-すなわち、我々自身が現実であるのに、我々が現実を得ようと試みることよりも。(*11)
  実際、彼の側のこの驚きは、人々が愚かにも死に注意することなく、それなりに人生を送るということをほのめかすユディシュティラのヤクシャへの答えに勝っているかもしれません[*4]。シュリー・バガヴァーンは、人々が彼らの人生の一瞬一瞬をその道の隅々まで照らす自らを逃していることに言及します。
 
 どのように執拗な欲望や感情を扱えばいいのかという質問が、「放棄する前に欲望の充足によって満足しなければならない」と感じた訪問者によって提起された時、シュリー・バガヴァーンはその提言の愚かさを指摘しました。
炎の上にアルコール(spirit)を注ぐことで、火を消すようなものです。(*12)
  spiritについての言葉遊びが意図されていたことは全くありそうなことです。なぜなら、欲望が抑えられるのは、それに耽溺することによってではなく、内なる魂(spirit)の中に寄る辺を求めることのみによってです。

 我々が長年のサンスカーラに対処している時、嫌悪療法がどれほど効果的なのかあまり確かではありません。シュリー・バガヴァーンはシャマンナ氏を以下のように指導しました。
あなたが自分の無力を認め、また自分を助ける高き力を必要とするため、委ねなさい。もしくは、苦しみの原因を調べ、苦しみの原因の中に入り、源の中に入り、自らの中に溶け込みなさい。
  彼は「委ねの後の心の流れはどうなっていますか」と尋ね、シュリー・バガヴァーンのおどけた逆質問を引き出しました。
委ねた心が、この質問を提起しているのですか。(*13)
  これが、ある未来の段階で起こるだろうことについてその段階を達成する前に知りたいと思ったり、はじめに自分自身を改める前にどのように世界を改めるのか知りたいと思った多くの訪問者を、シュリー・バガヴァーンが恵み深くも正した方法でした。質問には死後や悟りの後の状態を含んでおり、それにシュリー・バガヴァーンは質問者に未来について思いめぐらし出す前に現在の状態がどうあるのか見出すように求めることで返答しました。

 彼が(少し耳が遠い)アメリカ人の訪問者に彼の聴覚の問題について思い悩む必要なないと言った時のように、時に、彼の思いやりは軽妙な発言に変わりさえしました。
心配するには及びません。五感の征服が、自らの実現のために必要な準備です。神自身によって、あなたのために、一つの感覚が抑制されています。かえって好都合です!(*14)
  また別の時、彼はどうしても当意即妙の応答への衝動をこらえることができませんでした。アメリカ人のヘンリー・ハンド博士を含む幾人かの人々が、様々な哲学的なテーマを広く議論していた時、ハンド博士は彼らがそのように厄介者であることのお粗末な謝罪をしたいと思いました。
ハンド:マハルシ!私たちが悪い子だと思わないでください。
バガヴァーン:そんなわけないでしょう。(でも、)あなたは自分が悪い子だと思う必要はありません。(*15)
  同様の素早い機知は、ラマナ・パダーナンダとシュリー・バガヴァーンが山へ向かう途中で出会った時の彼らの間の以下のやり取りの中に見られます。
パダーナンダ:では、私はダルシャンを得ました.... 私は戻ります。
バガヴァーン:誰のダルシャンですか。あなたが私にダルシャンを与えたと言ってはどうですか。(*16)
  シュリー・バガヴァーンは、決して賢者として堅苦しくはありませんでした。アナンタチャリ氏との以下の議論に証明されるように、彼は全く現世的でありえました。アナンタチャリ氏は、「私はそれである」という聖なる表明よりも、一般的に人々にとって「私は人間である」という声明を自然に理解することは簡単であると主張し、仮に手近にいる聴衆に世論調査するなら、彼が過半数の票を得るだろうと付け加えました。シュリー・バガヴァーンは即座に加わりました。
私もあなたの側に投票します.... 私もまた「私は人間である」といいますが、私は体に制限されていません。それ(体)はの内にあります。それが違いです。(*17)
  シュリー・バガヴァーンのこのハーシャ・ヴィチャーラ[*5]は、ユーモラスな状況が現れた時、彼が神々さえも容赦しなかったという最後の報告で締めくくられていいでしょう。偽の盗賊に変装したシヴァの雑多な側近によって聖者ティルジニャーナサンバンダル[*6]がどのように追剥にあったかの物語を彼が読んでいた時、彼は全ての人の注意をシヴァ自身に起こったことに向けさせました。
シヴァ自身がティルヴダル・ウトサヴァで追剥にあい、彼は同じいたずらを彼の信奉者たちに行いました。そんなことがありえますか。(*18)
  上述のバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシのとても見事なユーモア感覚の例は、一冊の本からだけです。彼が身体的にアーシュラムに存在する時に彼を訪問し、彼と共に時を過ごす幸運を得た人々によって記録された残りのラマナの文献の中にはさらに多くのものがあるでしょう。

 ユーモアは人間の魂の手際を要する領域であり、最高の職業喜劇俳優でさえ聴衆を怒らせることなく安全にそれを行うことに手を焼きます。シュリー・バガヴァーンの場合、特筆すべきことは、彼が知恵によって聴衆を教えながらも、決してその機知によって誰の感情も傷つけはしなかったということです。

原注:
(*1)『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p179(1994年版) (*2)『The Mountain Path』、1996年6月号 (*3)『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p387(1994年版) (*4)同上、p11 (*5)同上、p140 (*6)同上、p140 (*7)同上、p12 (*8)同上、p80 (*9)同上、p519 (*10)同上、p83 (*11)同上、p130 (*12)同上、p476 (*13)同上、p334 (*14)同上、p132 (*15)同上、p142 (*16)同上、p326 (*17)同上、p556 (*18)同上、p153

shiba注:
[*1]カウピーナ・・・腰布
[*2]グルとラグは、韻律学では、重(長)音節と軽(短)音節を意味するようです。バガヴァーンは、続いて「ラグは、自らへの自ら課した、しかし、誤った制限によります」と述べています。
[*3]ローカ・ヴィチャーラ・・・ローカは「世界、世俗」の意味。つまり、世俗的なことを追い求めること。
[*4]『Mountain Path』、1968年4月号、「THE YAKSHA PRASNA」 119から ヤクシャ:最も驚くべきこととは何か。ユディシュティラ:日ごと日ごとに人々は死の住まいへ旅立つが、残る人々は決して自分自身の死を思い描かない。これより驚くべきことがあるのか。
[*5]ハーシャ・ヴィチャーラ・・・ハーシャは「冗談、笑い、微笑み」
[*6]ティルジニャーナサンバンダル・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Sambandar


2014年9月8日月曜日

マハルシとマハートマ - 第5代インド首相、モラルジー・デーサーイー

◇「山の道(Mountain Path)」、1977年7月 p145~146

マハルシとマハートマー

モラルジー・デーサーイ
カルマ、バクティ、ジニャーナの師らに捧げられる、この出版物の中で、インド首相、シュリー・モラルジー・デーサーイーによる、この記事を再掲できることを我々はとても喜ばしく思います。それは元々、1968年に、デリーのラマナ・ケンドラによって出版された記念品、ラマナ・マンジャリーに掲載され、その時、彼は財務大臣、副首相、ケンドラの会長でした。
   私がはじめてラマナーシュラマムを訪れたのは1935年であり、当時、現在ある建物はほとんどなく、マハルシ自身が後年にそうなるほどに良く知られていませんでした。その折に、私はアーシュラムに1日滞在し、マハルシの面前で1時間かそれ以上、座りました。私は質問を尋ねませんでした。尋ねる必要を少しも感じなかったからです。しかし、その沈黙の面前における完全な静寂のその時間は、それ以来、私にとって貴重な記憶になっています。彼にいとまごいをする前に、私は彼と共に食事をとる機会に恵まれました。その訪問の体験は、ここに真理を悟った人物がおり、ギーターの中で提起されているような「無行為の中の行為(*1)」という理想は実際に得ることができると私に確信させました。

 我々みなが戦争は人間の心の中で始まることを知っていますが、我々は多くの人が内なる平和を得ることなく外側の行為を通じて平和のために働いていることに気づきます。戦争が起こるのは、貪欲、世界の富の正当な割り当て以上に所有しようとする欲望が存在するからです。宗教の真の精神が理解され、それが生きられなければ、内なる平和が人々の心の中に打ち立てられなければ、我々が世界に平和を打ち立てることはできません。平和とは戦争の休止ではなく、積極的な他者との一体感であり、他者を思いやる気持ちです。これが人間と国々がいつの日か達すべき目的であると私は確信しています。しかし、たとえ我々がそれに達しそこなうにしても、その目的は求め励むに十分値します。なぜなら、我々がその方向に進むことをやめれば、争いの原因は増え続け、世界はより一層良くなるのではなく、より一層悪くなるからです。我々みなが内に平和を探すなら、世界はいつの日か真に人間的な社会になります。恐怖と貪欲が消えなければ、他者の所有物や才能や人生における立場へ羨望の眼差し向けるのをやめなければ、あらゆる国のあらゆる人が内なる平和を成し遂げなければ、あらゆる宗派の宗教が他の宗教を尊重し、他(の宗教)への優越性を主張することなく、自らの精神的体験を深め、豊かにしなければ、真の宗教的精神、一体性の意識、人類共有の運命が恐怖と貪欲に打ち勝つことはなく、我々が真に人間的な社会を地上に築くことはできません。

 最初の一歩は、サーチライトを内に向け、我々自身の欠点を学び、我々自身の弱さを認め、我々自身の改善に着手することです。これを行わずに、我々が尊大に構え、他者を改めようと試みるなら、たとえ我々が平和の名のもとにそれを行っても、平和よりもむしろ争いの雰囲気を作り出すことになるでしょう。神霊の領域では、貪欲や恐怖や争いの余地はなく、自己主張や排他性の余地はありません。この国にいる我々はいつもアネーカーンタヴァーダ(*2)、多くの視点の可能性を受け入れており、優越感と劣等感を伴う庇護の一つの形でしかない信教の自由をはるかに超えています。我々が他者を尊ぶのは、我々に命を吹き込む同じ自ら、もしくは、神霊が彼らの中に映し出されるのを我々が見るからです。我々は「アートマヴァット・サルヴァブーテーシュ(*3)」と言います-私はすべての生けるものに対して、私が彼らに私に対して振る舞うことを期待するように、振る舞わねばなりません。

  この全ての存在の一体性の認識からこそ、非暴力の教えが生じます。非暴力の状態のみにおいてこそ、人は他者を尊ぶことができます。他者を尊ぶ時のみにこそ、人は平和が行き渡る平等の雰囲気を身にまとうことができます。平和は、私の考えでは、全ての宗教の主だった役割です。内なる平和を持つ人は誰でも、外側の平和もまた広げます。しかし、宗教的な集団が追随者の数を増やすためだけにその思想を広めたいと思うのなら、結果として争いが生じます。真の宗教が不完全な道具である我々を通じて役目を果たすためには、組織化された宗教によってこの攻撃性が放棄されなければならないでしょう。

 科学が大変に発展したため、我々は今や誰も困窮しないことを保証できます。しかし、科学は同時に破壊の原動力を増やしています。我々がこれを阻み、我々の一般の生活と社会関係を精神的に意味あるものにしないならば、現代科学や新たなコミュニケーションの方法や社会組織が人類に与えることができる利益を我々が享受することはないでしょう。科学技術を人類に役立つものにするためには、積極的で、活動的な平和が欠かせません。この精神的な力は、侵略や攻撃性によってではなく、犠牲的行為というサーダナを通じて獲得されなければなりません。

 南アフリカとインドの両方における長い政治生命の間のマーハートマー・ガーンディーの無数の活動は、彼の内なる平和や、彼と共に働いた人々の平和を決して妨げませんでした。彼が発揮したシャクティは、彼が祈りや献身的な無私の奉仕を通じて培ったシャーンティが外側に現れたものでした。ダルマとモークシャとの間、カルマとジニャーナとの間の極めて重要なつながりを心に留めておくのは良いことです。『ラマナ・マハルシとの対話』の中に、マハートマー・ガーンディーの思いのない境地と完全な自らの委ねについての意義深い発言が見出されます。1938年8月18日、バブー・ラージェンドラ・プラサードがアーシュラマムでの数日の滞在の後、いとまごいをしていた時、マハルシからガーンディーへ伝えられる言付けを求めました。答えは、「アドヤートマ・シャクティ(*4)が彼の中で働いており、彼を導いています。それで十分です。さらに何が必要ですか」でした。また、1938年9月20日、ある国会議員がマハルシに自由闘争の成功についての質問を山と積んだ時、彼は、「ガーンディーは自分自身を神に委ね、私利私欲なくそれに従って働きます。彼は結果を案じておらず、結果が現れるままに受け入れます。それが国家のために働く者の態度でなければいけません」と言明しました。国会議員は食い下がり、「我々は、我々の行動が価値あるものなのか知るべきではないのですか」と尋ねました。再び、マハルシは、「国民的運動のために働いているガーンディーの例に倣いなさい。『委ね』が合言葉です」と言いました。

  この2人の巨人の関係性は、詩人サロージニー・ナーイドゥによって、これらの言葉の中で上手く描かれています。「今日、インドには二人のマハーン(*5)がいます。一人はラマナ・マハルシであり、我々に安らぎを与えます。もう一人はマハートマー・ガーンディーであり、一瞬も我々に安らかに眠ることを許しません。しかし、各人が同じ目的、つまり、インドの精神的復活を視野に入れ、自分が今行っていることを行います」。

(*1)無行為の中の行為・・・「action in inaction」の訳、「無為の為」と訳してもいいかもしれません。
(*2)アネーカーンタヴァーダ・・・「非排他性、もしくは、多様な見解の教説」。日本語版ウィキぺディア参照のこと。
(*3)アートマヴァット・サルヴァブーテーシュ・・・「すべての生命を自分自身であるとみなすこと」
(*4)アドヤートマ・シャクティ・・・「自らの根源的な力」
(*5)マハーン・・・偉大な人物

2014年9月3日水曜日

古きバクタからの貴重な話 - 我々はバガヴァーンをハートに携えている

◇「山の道(Mountain Path)」、1979年4月 p114~115

サット・サンガの喜び

エブリン・カセロウ

 サット・サンガは、ムムクシュの精神的進歩のために欠かせません。ジャパが心を清め、心を自らの光を反射するのにふさわしくするように、志を同じくする成熟した信奉者たちとの交際は、探求者が内にある真理に注意を集中するのを手助けします。

 師と行動を共にし、彼に仕えた、シュリー・バガヴァーンの古くからの信奉者たちは、師と我々新来者の間の決定的に重要なつながりを喜んで提供します。そのような年長のラマナ‐バクタたちとの交際において、我々の心は献身によって和らぎ、我々の狭量な自我は安らぎとしての彼の存在の体験の中に溶け込みます。

 年長のバクタたちは、安らぎと静けさを放つだけではなく、我々の心の目の前にシュリー・バガヴァーンの時代に起こった出来事をもたらします。私が1979年の2月・3月に師の住まいに滞在していた間に、シュリー・クンジュ・スワーミーから聞いた思い出の少しを読者と共有できることをうれしく思います。

Ⅰ.

 南インドでは、サードゥやマト(僧院)の一員は、「これ」や「それ」といった中性や第三人称で自分自身を指して言う習慣がありました(「これは寺院に行った」)。バガヴァーンと彼の信奉者たちは、一般的な慣習に従い、「私」しか使いません。クンジュ・スワーミーがマトを訪問していた時、サードゥの一人が彼が「私」という言葉を使うことに驚きを表わしました。クンジュ・スワーミーはその時、返答できませんでした。いくらか後、彼はシュリー・バガヴァーンのもとへ行き、起こったことを報告しました。

 これを聞くとすぐに、シュリー・バガヴァーンは言いました。「どうして、どこに困難がありますか。あなたはその『私』は大きな『私』(つまり、自ら)だけを指していると答えればよかったのです。全てはそれでしかありません。全ての人が自分自身を指して『私」と言うことを好みます。『私』は、神の最初の名です。『これ』や『それ』、中性の全ては、体だけに言及していますが、『私』は本当の我々である自らに言及しています」。

Ⅱ.

 ニューヨークとノヴァスコシア州の我々アルナーチャラ・アーシュラマの会員は、シュリー・バガヴァーンの恩寵によって、「ラリター・サハスラーナム」とバガヴァーンの「ウパデーシャ・サーラム」をサンスクリット語で、「アクシャラ・マナ・マーライ」をタミル語で暗記し、毎日歌っていました。我々が山を巡る時、私は他の信奉者たちと一緒に「アクシャラ・マナ・マーライ」(タミル語)と「ウパデーシャ・サーラム」(サンスクリット語)を歌うことに加わりましたが、私の発音には間違いがあったかもしれません。

 私がアーシュラムを離れる前の最後の日、クンジュ・スワーミーは親切にも私とガネーサンと共に山を登り、彼の思い出を詳しく話してくれました。その時、彼は「ウパデーシャ・サーラム」を彼のために数詩節歌うよう私に頼みました。不完全な発音のために、私が躊躇した様子を示した時、彼は、(マラヤーリ人である)彼がバガヴァーンのタミル語とサンスクリット語の詩節を唱えるのを躊躇した時に、バガヴァーン自身が彼に語った物語を私に話しました。

 「シュリー・クリシュナの有名な寺院、グルヴァユール(*1)にプーンタナム・ナンボーディリという名の偉大な信奉者がいました。彼の主への献身は全面的なものであり、強烈なものでした。すべての人が彼を真理を悟った聖者として尊敬しました。プーンタナムは他者から何も求めず、いつも寺院の隅で主を賛美して詩節を歌っていました。その聖なる都市に、(後に「ナーラーヤネーヤム」という偉大なサンスクリット語の詩を記した)ナーラーヤナ・バッタティリという人がやって来ました。このナーラーヤナ・バッタティリは優れた学者であり、人々は彼を大いに称賛していました。彼はグルヴァユール寺院の周りに連れ行かれました。隅っこで、いつものように、プーンタナムは彼の祈りを唱えていました。プーンタナムの独唱を聞いたバッタティリは声に出して、「あなたは彼を聖者と呼ぶのですか。彼は詩節を正しく唱えることさえできません。彼を真理を悟った人と呼ぶあなたを恥ずかしく思います」と述べました。

 「これを耳にするとすぐ、プーンタナムはとても気落ちして、主に苦悶して呼びかけました。『おお、主よ。私は詩節を誤って唱えてきました。どうして私を正して、この当てこすりから私を救ってくれなかったのですか』。そのように言いながら、彼は断食によって体を捨て去ろうと思いました。

 「その夜、ナーラーヤナ・バッタティリは夢を見ました。そこに主が現れ、『プーンタナムは私の偉大な信奉者です。あなたは学者でしかありません。私はあなたのヴィバクティ(文法上正しい語形変化)より彼のバクティを好ましく思います。さらに、プーンタナムが歌っていたことは正しくもあったのです。「アマラプラボー」は私を「天人の主」として認め、「マラプラボー」は私を「植物界の主」として認めます(*2)。それのどこがいけませんか。私は全創造物の主ではありませんか。ですから、プーンタナムのもとへ行き、謝りなさい』と言いました。学者、ナーラーヤナ・バッタティリは、今や、無知と知識を共に超えるプーンタナムの純粋な献身を悟りました。」

 クンジュ・スワーミーは決してタミル語とサンスクリット語の詩節を唱えるのを恥ずかしく感じませんでした。私は勇気づけられ、ウパデーシャ・サーラムから数詩節を唱え、クンジュ・スワーミーはそれを傾聴し、味わいました。

***

 私はアルナーチャラを去り、ヴィシュワナータ・スワーミーのような他の偉大な人物と別れることをとても悲しく思いました。

 シュリー・クンジュ・スワーミーは即座に言いました。「あなたはシュリー・バガヴァーンをあなたのハートに持っています。彼はいつもそこで輝いています。ここに住む我々は彼の蓮華の御足についた『塵(ちり)』に過ぎません。あなたは彼をあなたのハートの中に携えているのだから、我々もまたあなたのハートに住んでいます。彼の御足についた『塵』としてでしかありませんが!」。

シュリー・ヴィシュヌ・サハスラーナマ、19詩節目に「amara prabhu」が出てきます

(*1)http://en.wikipedia.org/wiki/Guruvayur_Temple
(*2)シュリー・プーンタナムが歌っていたのは、「シュリー・ヴィシュヌ・サハスラーナマ」であり、「アマラプラボー」を「マラプラボー」と歌っていました。

2014年8月30日土曜日

「ウパデーシャ・サーラム(教えの精髄)」- マラヤーラム語版の英訳から

◇「山の道(Mountain Path)」、1984年4月 p103~104

 バガヴァーン・ラマナが30詩節からなるタミル語のウパデーシャ・ウンディヤールを作ったのは、シュリー・ムルガナールの要請であり、彼の詩を完成させるためでした。すぐ後に、信奉者たちの要望により、バガヴァーン自身がその詩のテルグ語版を作りました。1927年、バガヴァーンは、日々のパラヤーナにふさわしいように、それぞれ24音節からなるスローカの形でサンスクリット語版を一気に作りました。

 翌年、マラヤーラム語を話す信奉者たちのために、バガヴァーンはマラヤーラム語版を作りました。それらはより長い節で書かれており、それゆえ、より説明的な形式になっています。9、10、12、14、15、20、22、26、29詩節は、この役立つ拡張の明確な例を提供し、そのため、その中に他の三つの版の中に暗に示されている点が説明されているのに気づいたムルガナールやクンジュ・スワーミーなどはマラヤーラム語版を好ましく思いました。

 それゆえ、友人たちに請われるままに、私はマラヤーラム語の詩の逐語的な英訳を試みました。信奉者たちがこの簡潔な詩を理解するのにそれが役立てばと思います。この詩は、バガヴァーン自身によって四つの言語で作られ、その意図と効果において彼の教えの精髄を含み、劇的な形式においてはシヴァからリシたちへのウパデーシャでもあります。
(K.K.ナンビアール、後書きから)

ウパデーシャ・サーラム
(マラヤーラム語版からの直訳)

K.K.ナンビアール

1.
創造者に定められるままに、カルマは結果を生むため、どうしてカルマがとなれるのか。それには意識がない。

Since Karma yields results as ordained by the creator, how can Karma be God? It is insentient.

2.
カルマの結果は永久的ではないが、それでもヴァーサナー(傾向)の形で心に種を残し、かえってカルマの大海に行為者を繰り返し投げ込むばかりである。カルマは決して人を救いに導かない。

The results of Karma are impermanent and yet leave seeds in the form of Vasanas (tendencies) in the mind which will only repeatedly plunge the doer in the ocean of Karma. Karma never leads one to salvation.

3.
結果への何らの望みもなく、に純粋に奉仕して、無私のカルマを行え。そのような行為は心を清め、人をモークシャの途上へ導く。

Perform disinterested Karma purely in the service of God, without any desire for its fruit. Such actions purify the mind and lead one on the way to moksha.

4.
行為は三種あり、それらは体、言葉、心によって行われる。それらはプージャー(崇拝)、ジャパ(復唱)、ディヤーナ(瞑想)であり、後のものほど価値が高い。

Actions are of three kinds, those performed by body, by speech and by mind. These are pooja (worship), Japa (incantations) and dhyana (meditation), and are in ascending order of merit.

5.
この八つの要素からなる全世界は目に見えるの顕現であると念頭に置き、それに基づきを崇拝せよ。これが崇拝の最良の形である。

Keeping in view that this entire eightfold universe is the visible manifestation of God, worship Him accordingly. This is the best form of worship.

6.
神の名なるマントラの復唱は、賛美(ストートラ)の最良の形より良い。かすかなつぶやき声で繰り返し唱えられるマントラは、声高の朗唱より優れている。心の復唱が、その三つの中で最良である。瞑想はこれと異ならない。

Repetition of mantras of God's names is better than the best forms of praise (stotras). Mantra repeated in faint murmur is superior to loud chanting. Mental repetition is the best of the three. Meditation is not different from this.

7.
油や一年を通じての小川の定流のように、途切れなく行われる瞑想は、断続的な瞑想より良い。わずかの途切れもない、絶え間ない瞑想が最良であり、もっとも力強い。

Meditation carried out without a break like the steady flow of oil or of a perennial stream is better than intermittent meditation. Incessant meditation without a single break is the best and most powerful.

8.
は私である」や「私はから離れていない」という態度は、私はから離れているという態度より、はるか優れている。

The attitude "He is I" or "I am not separate from God" is far superior to the attitude that I am separate from Him

9.
一切の思いを超越する、実在に住まうことが、献身の最も純粋な形である。至高の献身は、モークシャへ通じる。

Abidance in the Real Being transcending all thoughts is the purest form of devotion. Supreme devotion leads to moksha.

10.
自らの存在の秘められた核心に到達し、なんら心の散逸もなく、その内に住まうことが、カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナ、四種の道すべての精髄である。

Having reached the secret core of one's existence, abiding therein without any mental distraction is the essence of all four paths, Karma, Bhakti, Yoga and Jnana.

11.
呼吸の制御によって、網に捕えられた鳥のごとく、素早く動く心は抑制される。そのように、呼吸の制御は、心の吸収のための仕掛けである。

By breath-control the fleeting mind is kept under restraint like a bird trapped in the net. Thus breath-control is a device for absorption of the mind.

12.
心には理解する力があるが、プラーナには活動の力のみある。心とプラーナは共に、同じ力の源から生じる枝である。

Mind has the power of apprehension, while prana has the power of activity only. Mind and prana are both branches springing from the same source of power.

13.
ラヤとナーシャは抑制の二つの形である。ラヤは一時の吸収であり、そのように吸収されたものは必ず蘇ることになる。しかし、死んでいる、即ち、永久的に吸収されたものが再び蘇ることは決してないだろう。

Laya and Nasha are two forms of restraint. Laya being absorption for a time, that which is so absorbed is bound to revive. But that which is dead or permanently absorbed will never rise again.

14.
呼吸の抑制によって、心が吸収された所で、(心を)ただ一つの思いの流れに沿わせるなら、心は消滅するだろう。

Where the mind gets absorbed by breath‐restraint, it will die if made to follow a single current of thought.

15.
心が消滅した偉大なヨーギにとって、いまだ彼は普通の人のように見えるが、何らの行為も必要ない。彼が彼の本質を得ているがゆえに。

For the great yogi whose mind is extinguished, though he yet looks like an ordinary man, there is no need for any action, as he has attained his true nature.

16.
心が外側の対象物から退けられ、内に向けられ、純粋な自覚なる自らの姿を注視する時、それが真の知である。

When the mind is withdrawn from external objects and is turned inwards to behold its own form of pure Awareness, that is True Knowledge.

17.
心が内に向けられ、絶え間なく自らの姿を調べる所に、心というようなものは存在しないと見出されるだろう。これが皆にとっての真っ直ぐな道である。

Where the mind, turned inward, unceasingly investigates its own form it will be found that there is no such thing as the mind. This is the straight path for all.

18.
思いとは別に、心は存在しない。思いそのものが、心であると言われている。全ての思いの根本は、「私」という思いである。「私」が心である。

Apart from thoughts there is no mind. The thoughts themselves are said to be the mind. The root of all thoughts is the 'I'‐thought. 'I' is the mind.

19.
内に潜り、どこから「私」という思いが生じるか見出さんと努めるなら、「私」は崩れ落ちるだろう。これが知恵の追求である。

If diving within, one seeks to find out whence the 'I'-thought rises, the 'I' will topple down. This is the pursuit of wisdom.

20.
「私」が消え去る所に、真の「私」‐「私」が自らのあるべき場所に、ハートに自然と生じる。それは無限である。

Where the  'I' perishes, there arises spontaneously in its own place in the Heart the Real 'I' - 'I' , which is infinite.

21.
これが「私」という用語の真意である。なぜなら、日々、眠る間に「私」が吸収される時、自分自身の存在を誰も疑わない。

This is the true import of the term 'I' , for nobody doubts one's own existence, when the 'I' is abosrbed daily during sleep.

22.
体、五感、プラーナ、知性、無知、目に映る世界-全ては幻であり、存在せず、意識がないゆえ-「私」ではない。私は永遠なる現実である。

Body, senses, prana, intellect, ignorance and the visible world, all being illusory, non-existent and insentient, are not I; I am the Eternal Reality.

23.
「在るそれ」に気付いている「私」とは別の意識は存在しない。「在るそれ」は、絶対的な意識である。「私」もまた、その意識ではないのか。

There is no consciousness apart from 'I' to be aware of "That which is". "That which is" is Absolute Consciousness. Am 'I' not also that Consciousness?

24.
創造者と創造物は共に、実質的に、「存在の内に一体」である。相違は彼らの属性と知識にのみあるため、彼らの間に区別がなされるべきではない。

The Creator and creature are both in substance "One in Being". No distinction should be made between them as the differences are only in their attributes and knowledge.

25.
創造物が様々な属性を除き、彼自身を見て、知る所、それこそが自身を見ることである。創造者は自らに他ならない。

Where the creature sees and knows himself without the various attributes, that is verily seeing God himself. The Creator is no other than the Self.

26.
「自分自身を見ること、知ること」と語られていることは、「自らとして住まうこと」のみである。自らは常に一人のみであり、二人ではない。これを「タンマヤ・ニシター」と知れ。

What is spoken of as 'seeing and knowing oneself ' is only 'abiding as the Self'. The Self is ever one alone, never two. Know this as 'Tanmayanishta'.

27.
かの知は、知識と無知を共に超越する「真の知」である。さらに何が知られるべきなのか。「真の知」の他に何ものも存在しない。

That knowledge is "True knowledge" which transcends both knowledge and ignorance. What more is to be known? There is nothing other than "True Knowledge".

28.
自分自身の姿を探し求め、人がその本質を実現するなら、その時、それは始まりも終わりもない存在である。それは途切れのない自覚‐至福である。

Searching for one's own form, if one realises one's true nature, then it is Being without beginning and end; it is unbroken Awareness-Bliss.

29.
束縛と解放についての一切の思いを超える、ブラフマンのこの上ない至福を誰が描けるのか。その境地に常に住まう人々は、至高者への奉仕に堅固である。

Who can describe that supreme bliss of Brahman, beyond all thoughts of bondage and release? Those abiding ever in that state are steadfast in the service of the Supreme.

30.
「私」の一切の痕跡が去った時にある、それを実現し、それとして住まうことが、良きタパスである。全ての自らであるラマナは、そのように語る。

Realising That which is when all trace of 'I' is gone and abiding as That is good tapas. So says Ramana, the Self of all.

2014年8月24日日曜日

心は常に謙虚な無学の農夫であらん - K.スワミナタン教授の決心

◇「山の道(Mountain Path)」、2003年4月 p55~56

パンディットと農夫

K.スワミナタン

 かつて1940年代のアーシュラムへの訪問の間に、私は旧講堂の外で多くの信奉者と共に、寝椅子にもたれていたシュリー・バガヴァーンに対面して、座っていました。学識あるパンディットの一団が、ウパニシャッドからのある文章について奥の深い議論を大変熱心に行っていました。バガヴァーンを含め、みながこの興味深い議論を注意深く傾聴しているように見えました。その時、突然、バガヴァーンは寝椅子から立ち上がり、北に30メートル歩き、そこで手のひらを組み、目線を落として立っていた村人の前に立ちました。

 たちまち議論は止み、みなの目は少し離れて立っているバガヴァーンと村人に向けられました。彼らは会話しているようでしたが、そのように離れていたため、誰も何についてか分かりませんでした。すぐに、バガヴァーンは寝椅子に戻り、議論は再開されました。

 私はこの村人について、そして、バガヴァーンがどうしてわざわざ彼に会ったのか知りたいと思いました。それで、議論が続いている間に私はこっそり抜けだし、彼がアーシュラムを離れる前に彼に追い付きました。私は彼とバガヴァーンが何について話していたのか彼に尋ねました。彼はバガヴァーンが彼にどうしてそんなに遠く離れて立っているのか尋ねたと言いました。「私はバガヴァーンに、『私は学のない貧しい村人に過ぎません。神の化身であるあなたにどうやって近づけばいいのでしょうか』」。

 「その時、マハルシは何を言いましたか」と私は尋ねました。

 「彼は私の名前、私がどの村から来たのか、私がどんな仕事をしているのか、私に子供が何人いるのかなど私に尋ねました。」

 「あなたは彼に何か尋ねましたか。」

 「どうしたら私は救われるのか、どうしたら彼の祝福を得られるのか彼に尋ねました。」

 「彼はあなたに何を言いましたか。」

 「彼は私の村に寺院があるのか尋ねました。私は彼にありますと言いました。彼はその寺院の神の名前を知りたがりました。私は彼にその名前を言いました。それで、彼は『あなたはその神の名前を繰り返し唱え続けるべきです。そうすれば、あなたは必要とされる一切の祝福を受け取るでしょう』と言いました。」

 私はバガヴァーンの面前に戻り、学問的な議論を傾聴している信奉者たちの間に座りました。この農夫の純真な謙虚さと献身が、どれほどの量の学識よりも、はるかに優れた応答を我々の師から引き出したことを悟り、今や私は議論に全く興味を失っていました。私は学者を職業としていましたが、「私はいつも心の底では謙虚な無学の農夫ままあり、あの村人のようにバガヴァーンの恩寵と祝福を願い求めなければならない」とその時、決心しました。

2014年8月22日金曜日

「プラパッティ・アシュタカム」 - シュリー・ジャガディーシャによる祈りの詩節

◇「山の道(Mountain Path)」、1985年10月 p269~271

貴重な遺品

 1945年ごろ、『Ramana Sahasranamam』の編集者、優れたサンスクリット語の学者であるシュリー・ジャガディーシャ・シャーストリは、大変深刻な病状にあり、寝たきりでした。みなが彼の生存を絶望視していました。彼を救うために、バガヴァーンの特別な介入が求められました。

 以下は、A.デーヴァラージャ・ムダリアールがこの出来事について書いたものです。「私がよくバガヴァーンの宮殿のサンスクリット語の詩人と呼んだジャガディーシャ・シャーストリは、プラパッティ・アシュタカムと呼ばれる詩節を記しました。彼は死の床にいて、この最後の懇願を詩(プラパッティ・アシュタカム)で記し、プラーラブダは一定の進路を進まねばならないというバガヴァーンによるいかなる弁解も決して受け入れず、ただバガヴァーンがそれを望みさえすれば、バガヴァーンの恩寵がプラーラブダを打ち消し、自分を救えると言明しました。バガヴァーンが彼を大変に憐れんだので、彼は死の淵から引き上げられました」。(『My Recollection』、p103)

 バガヴァーンがこの特別な祈りをどれほど重要視していたのか示すために、デーヴァラージャ・ムダリアールを再び引用しましょう。「これら(プラパッティ・アシュタカム)は、バガヴァーンの許可と勧めを得て、T.K.スンダレーサ・アイヤルによってタミル語に翻訳されました。私は糸綴(と)じの小さなノートを買い、1ページおきにサンスクリット語版とタミル語版を載せたいと思いました。私はサンスクリット語がタミル文字で書かれて欲しいと思いました。私は初めにタミル語の詩節を書き、サンスクリット語のために1ページおきに空白にしておきました。私はそれらを音訳でき、私のために音訳しようとしてくれる人が誰かいないか探していました。もちろん、私はわざわざバガヴァーンに私のためにそのような仕事をして頂こうとは思っていませんでしたが、私にとって普段通りに、会話の流れで、私はバガヴァーンに私の望みを話し、彼はすべての抗議を払いのけ、私からノートを取り、サンスクリット語の詩節をいつものように整った美しいタミル文字の詩節に写し、私に返しました。ノートは私のもとにあり、家宝として息子たちに譲られることになるでしょう」。(『My Recollection』、p86)

 信奉者たちが貴重な遺品として保存していたおかげで、シュリー・バガヴァーンの手書きの形で、ジャガディーシャ・シャーストリによる元々のサンスクリット語の詩節とT.K.スンダレーサ・アイヤルによるそのタミル語の翻訳の両方を以下に複写できることを我々はとてもうれしく思います。

プラパッティ・アシュタカム


ティルチュリに生まれた彼へ、私は委ねます
パーンダヤ国に戯れた彼へ、私は委ねます
アルナーチャラのなぞえに住む方へ、私は委ねます
タパスの辛苦に動じることのないビクシュへ、私は委ねます

TO HIM born in Tiruchuli I surrender
; to Him who sported in Pandya country, I surrender
; to the dweller on Arunachala slopes, I surrender
; to the bikshu unaffected by the rigours of tapas I surrender.


創造者から虫まで、全てに等しくある彼へ、私は委ねます
六種の感情の征服者へ、私は委ねます
知の本質の担い手へ、私は委ねます
限りない憐れみの御倉(みくら)へ、私は委ねます

To Him who is alike to all, from the Creator to the worm, I surrender
; to the subduer of the six passions, I surrender
; to the bearer of the essence of Knowledge I surrender
; to the store of unbounded mercy, I surrender.


全世界に勝る彼へ、私は委ねます
彼へ-ヴェーダが全世界と他の諸々であると語る彼へ、私は委ねます
一切をむさぼり食らう鰐(わに)、時(とき)への恐れを取り除くために
死を懲らしめる者へ、私は委ねます

To Him who surpasses the universe I surrender
; to Him — whom the Vedas say to be the universe and more, I surrender
; to the chastiser of death
in order to be rid of fear of the all-devouring alligator Time, I surrender.


欲楽の生の苦痛を克服する
知の体現者へ、私は委ねます
得意げなキューピッドによって引き起こされた熱病を阻むために
戯れに降りてきた、カーマの敵対者へ、私は委ねます

To the embodiment of Knowledge
which conquers the pain of sensual life, I surrender;
to the enemy of Kama come down in sport
to prevent the fevers caused by proud Cupid, I surrender.


厳密な生涯にわたる独身者へ、私は委ねます
カマンダルと杖の持ち主へ、私は委ねます
ブラフマーサナをしてディヤーナに安らう彼へ、私は委ねます
ブラフマンと一体である隠者へ、私は委ねます

To the strictly life-long celibate, I surrender;
to the holder of kamandalu and staff, I surrender
; to Him that rests in Dhyana on Brahmasana, I surrender
; to the Hermit at one with Brahman I surrender.


ハラへ、私は委ねます、不朽なるものへ、私は委ねます
独立の在り処へ、私は委ねます
はかり難い技量をもつ彼へ、私は委ねます
汚れのない知る者の中の第一人者へ、私は委ねます

To Hara I surrender ; to the never-decaying I surrender
; to the abode of Independence I surrender
; to Him of immeasurable skill I surrender
; to the foremost of spotless Knowers I surrender.


三種の苦しみ、不運、迷妄、カルマによって
引き起こされた熱を払い去る者へ、私は委ねます
真の決意を持ち、汚れなく
完全に満足し、最上の幸福を味わう彼へ、私は委ねます

To the dispeller of fever
caused by ill luck, three-fold ills, delusion, and karma, I surrender;
to Him of true resolve, no taint,
 perfect contentment and bliss, I surrender.


信奉者に安らぎをもたらす
穏やかなほほ笑みをたたえた顔へ、私は委ねます
ラマナへ-一切の苦痛を取り除き、喜びをもたらすがゆえ
そのように名付けられた彼へ、私は委ねます

To the face of gentle smile
that brings peace to devotees, I surrender
; to RAMANA —(Blessing) so named
because removing all pain He brings in joy, I surrender.  


至福の授け手であるシヴァへ、私は委ねます
あらゆる美徳の御倉(みくら)である師へ、私は委ねます
私のハートの蓮華に住まう方へ、私は委ねます
寄る辺であり、主へ、私は委ねます

To Siva the bestower of bliss, (I surrender)
(;)the Master, the store of all virtues, I surrender
; to the Indweller of my Heart-Lotus, I surrender
; to the Refuge and the Lord I surrender.


彼の祝福によって、彼の性質を得るために
他の全ての人々もまた、賢明にもラマナに委ねますように

May all others also wisely surrender to Ramana,
in order to gain His qualities, by His Blessings.


以下は、バガヴァーンの手書きのT.K.スンダレーサ・アイヤルによるタミル語の翻訳です。