2014年9月8日月曜日

マハルシとマハートマ - 第5代インド首相、モラルジー・デーサーイー

◇「山の道(Mountain Path)」、1977年7月 p145~146

マハルシとマハートマー

モラルジー・デーサーイ
カルマ、バクティ、ジニャーナの師らに捧げられる、この出版物の中で、インド首相、シュリー・モラルジー・デーサーイーによる、この記事を再掲できることを我々はとても喜ばしく思います。それは元々、1968年に、デリーのラマナ・ケンドラによって出版された記念品、ラマナ・マンジャリーに掲載され、その時、彼は財務大臣、副首相、ケンドラの会長でした。
   私がはじめてラマナーシュラマムを訪れたのは1935年であり、当時、現在ある建物はほとんどなく、マハルシ自身が後年にそうなるほどに良く知られていませんでした。その折に、私はアーシュラムに1日滞在し、マハルシの面前で1時間かそれ以上、座りました。私は質問を尋ねませんでした。尋ねる必要を少しも感じなかったからです。しかし、その沈黙の面前における完全な静寂のその時間は、それ以来、私にとって貴重な記憶になっています。彼にいとまごいをする前に、私は彼と共に食事をとる機会に恵まれました。その訪問の体験は、ここに真理を悟った人物がおり、ギーターの中で提起されているような「無行為の中の行為(*1)」という理想は実際に得ることができると私に確信させました。

 我々みなが戦争は人間の心の中で始まることを知っていますが、我々は多くの人が内なる平和を得ることなく外側の行為を通じて平和のために働いていることに気づきます。戦争が起こるのは、貪欲、世界の富の正当な割り当て以上に所有しようとする欲望が存在するからです。宗教の真の精神が理解され、それが生きられなければ、内なる平和が人々の心の中に打ち立てられなければ、我々が世界に平和を打ち立てることはできません。平和とは戦争の休止ではなく、積極的な他者との一体感であり、他者を思いやる気持ちです。これが人間と国々がいつの日か達すべき目的であると私は確信しています。しかし、たとえ我々がそれに達しそこなうにしても、その目的は求め励むに十分値します。なぜなら、我々がその方向に進むことをやめれば、争いの原因は増え続け、世界はより一層良くなるのではなく、より一層悪くなるからです。我々みなが内に平和を探すなら、世界はいつの日か真に人間的な社会になります。恐怖と貪欲が消えなければ、他者の所有物や才能や人生における立場へ羨望の眼差し向けるのをやめなければ、あらゆる国のあらゆる人が内なる平和を成し遂げなければ、あらゆる宗派の宗教が他の宗教を尊重し、他(の宗教)への優越性を主張することなく、自らの精神的体験を深め、豊かにしなければ、真の宗教的精神、一体性の意識、人類共有の運命が恐怖と貪欲に打ち勝つことはなく、我々が真に人間的な社会を地上に築くことはできません。

 最初の一歩は、サーチライトを内に向け、我々自身の欠点を学び、我々自身の弱さを認め、我々自身の改善に着手することです。これを行わずに、我々が尊大に構え、他者を改めようと試みるなら、たとえ我々が平和の名のもとにそれを行っても、平和よりもむしろ争いの雰囲気を作り出すことになるでしょう。神霊の領域では、貪欲や恐怖や争いの余地はなく、自己主張や排他性の余地はありません。この国にいる我々はいつもアネーカーンタヴァーダ(*2)、多くの視点の可能性を受け入れており、優越感と劣等感を伴う庇護の一つの形でしかない信教の自由をはるかに超えています。我々が他者を尊ぶのは、我々に命を吹き込む同じ自ら、もしくは、神霊が彼らの中に映し出されるのを我々が見るからです。我々は「アートマヴァット・サルヴァブーテーシュ(*3)」と言います-私はすべての生けるものに対して、私が彼らに私に対して振る舞うことを期待するように、振る舞わねばなりません。

  この全ての存在の一体性の認識からこそ、非暴力の教えが生じます。非暴力の状態のみにおいてこそ、人は他者を尊ぶことができます。他者を尊ぶ時のみにこそ、人は平和が行き渡る平等の雰囲気を身にまとうことができます。平和は、私の考えでは、全ての宗教の主だった役割です。内なる平和を持つ人は誰でも、外側の平和もまた広げます。しかし、宗教的な集団が追随者の数を増やすためだけにその思想を広めたいと思うのなら、結果として争いが生じます。真の宗教が不完全な道具である我々を通じて役目を果たすためには、組織化された宗教によってこの攻撃性が放棄されなければならないでしょう。

 科学が大変に発展したため、我々は今や誰も困窮しないことを保証できます。しかし、科学は同時に破壊の原動力を増やしています。我々がこれを阻み、我々の一般の生活と社会関係を精神的に意味あるものにしないならば、現代科学や新たなコミュニケーションの方法や社会組織が人類に与えることができる利益を我々が享受することはないでしょう。科学技術を人類に役立つものにするためには、積極的で、活動的な平和が欠かせません。この精神的な力は、侵略や攻撃性によってではなく、犠牲的行為というサーダナを通じて獲得されなければなりません。

 南アフリカとインドの両方における長い政治生命の間のマーハートマー・ガーンディーの無数の活動は、彼の内なる平和や、彼と共に働いた人々の平和を決して妨げませんでした。彼が発揮したシャクティは、彼が祈りや献身的な無私の奉仕を通じて培ったシャーンティが外側に現れたものでした。ダルマとモークシャとの間、カルマとジニャーナとの間の極めて重要なつながりを心に留めておくのは良いことです。『ラマナ・マハルシとの対話』の中に、マハートマー・ガーンディーの思いのない境地と完全な自らの委ねについての意義深い発言が見出されます。1938年8月18日、バブー・ラージェンドラ・プラサードがアーシュラマムでの数日の滞在の後、いとまごいをしていた時、マハルシからガーンディーへ伝えられる言付けを求めました。答えは、「アドヤートマ・シャクティ(*4)が彼の中で働いており、彼を導いています。それで十分です。さらに何が必要ですか」でした。また、1938年9月20日、ある国会議員がマハルシに自由闘争の成功についての質問を山と積んだ時、彼は、「ガーンディーは自分自身を神に委ね、私利私欲なくそれに従って働きます。彼は結果を案じておらず、結果が現れるままに受け入れます。それが国家のために働く者の態度でなければいけません」と言明しました。国会議員は食い下がり、「我々は、我々の行動が価値あるものなのか知るべきではないのですか」と尋ねました。再び、マハルシは、「国民的運動のために働いているガーンディーの例に倣いなさい。『委ね』が合言葉です」と言いました。

  この2人の巨人の関係性は、詩人サロージニー・ナーイドゥによって、これらの言葉の中で上手く描かれています。「今日、インドには二人のマハーン(*5)がいます。一人はラマナ・マハルシであり、我々に安らぎを与えます。もう一人はマハートマー・ガーンディーであり、一瞬も我々に安らかに眠ることを許しません。しかし、各人が同じ目的、つまり、インドの精神的復活を視野に入れ、自分が今行っていることを行います」。

(*1)無行為の中の行為・・・「action in inaction」の訳、「無為の為」と訳してもいいかもしれません。
(*2)アネーカーンタヴァーダ・・・「非排他性、もしくは、多様な見解の教説」。日本語版ウィキぺディア参照のこと。
(*3)アートマヴァット・サルヴァブーテーシュ・・・「すべての生命を自分自身であるとみなすこと」
(*4)アドヤートマ・シャクティ・・・「自らの根源的な力」
(*5)マハーン・・・偉大な人物

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