第2部 第2章 サーダナと恩寵
弟子:
神に関する研究は、はるか昔から続いています。最終的な結論は言われているのでしょうか。
マハルシ:
(しばらく沈黙を守る。)
弟子:
(困惑して)シュリー・バガヴァーンの沈黙を私の質問への返答とみなすべきでしょうか。
マハルシ:
ええ。マウナ(*1)は、イーシュワラ・スワルーパ(*2)です。それゆえ、聖句には次のようにあります。
至高なるブラフマンの真理は、沈黙の雄弁(*3)を通じて、表明された
弟子:
ブッダは神についてのそのような質問を無視したと言われています。
マハルシ:
そして、そのために、彼はシューニャ・ヴァーディン(虚無主義者)(*4)と呼ばれました。実際には、彼は神などについての学術的な議論よりも、探求者に今ここで無上の喜びを実現するように指導することに関心を持っていました。
(*1)マウナ・・・サンスクリット語。「沈黙、静寂」。
(*2)イーシュワラ・スワルーパ・・・サンスクリット語。「神の本質」。
(*3)沈黙の雄弁・・・「silent eloquence」の訳、「静かなる雄弁」とも訳せます。
(*4)シューニャ・ヴァーディン・・・無神論者、神や究極的現実の存在を否定する者。
◇『自覚的不死(Conscious Immortality)』(第五版)、p193
第二十一章 西洋および東洋の思想家
ブッダは実体の存在を否定したという理由で、無神論者であると不当に非難されてきました。自らが全でも無でもあることは真実です。物質として、それはあらゆる形ですが、物質が生じるところの抽象的な自ら、空として、それは無です。物質は相対的に現実、限定された意味において現実です。なぜなら、その起源は現実そのものであるからです。
プラジニャーパーラミター・フリダヤ・スートラ(ハート・スートラ、般若心経)、楽曲:Imee Oii
◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』
Talk.20 (抜粋)
信奉者:
ブッダは誰も迷うことがないように八正道を最良であるとして勧めています。
マハルシ:
ええ。そういったものがヒンドゥー教徒にはラージャ・ヨーガと呼ばれています。
Talk.176 (抜粋)
信奉者:
ブッダのニルヴァーナとは何ですか。
マハルシ:
個人性の喪失です。
信奉者:
私はその喪失を恐れています。ニルヴァーナの中に人間の意識は存在しうるのでしょうか。
マハルシ:
その場合、二人の自分がいるのですか。あなたの目下の眠りの経験をよく考えて、言いなさい。
Talk.273 (前略)
信奉者:
ブッダは、自我が存在するのか尋ねられた時、沈黙していました。自我が存在しないのか尋ねられた時、彼は沈黙していました。神が存在するのか尋ねられた時、彼は沈黙していました。神が存在しないのか尋ねられた時、彼は沈黙していました。沈黙がそれら全てへの彼の答えでした。マハーヤーナとヒナヤーナの学派は共に彼の沈黙を誤って解釈しています。なぜなら、彼らは彼が無神論者であると言うからです。彼が無神論者であるなら、なぜ彼はニルヴァーナについて、誕生と死について、カルマ、輪廻転生、ダルマについて語るべきだったのですか。彼の解釈者は間違っています。そうではありませんか。
マハルシ:
その通りです。
慈しみの歌、楽曲:Imee Oii
◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』
1947年5月19日
(118)どこに王がいて、どこに王国があるのか
「その全てはいつのことでしたか」とシヴァナンダムが尋ねました。「それは我々がヴィルーパークシャ洞窟にいた頃でした。実際に、ナーヤナ(*1)は建てられる予定の都市の計画を紙に書き上げました。その計画では、特別な場所が私に割り当てられました。その後、彼は帝国の統治のために適当な計画を書いたものでした。王はなく、王国もありません-しかしながら、計画は準備されていました。多くの計画がそのように準備されました。どこに王がいたのでしょうか。どこに王国があったのでしょうか」とバガヴァーンは尋ねました。ナーヤナの弟子であるスッバ・ラオは言いました。「どうして王がいなかったのですか。彼は我々の真向かいにいます。ただ、この王は腰布を身につけいているだけです。何が不足していますか。山の周りに家々は建てられていませんか。王の宮殿のように、バガヴァーンが座る場所がありませんか。王の一家のように、全ての統治がここで行われています。ただ、一般的な王国とこの(王国)には、いくらか違いがあるだけです。それだけです」。
バガヴァーンは言いました。「それは結構なことです。ナーヤナはまた、マハーラージャ(*2)とマハージニャーニの地位は同じであるとよく言っていました。占星術師が、タターガタ(*3)(ブッダ)が帝王か、もしくは、サンニャーシになると予言したとき、彼の父親は彼がどこへ出て行こうとするのも妨げ、彼を宮殿にとどめ、宮殿の楽しみと贅沢に関心を持たせようとできるだけのことをしました。ついに、彼がどうにかして何かにかこつけて外に出たとき、世の人々の全ての苦しみを見ました。それで、彼は逃げ出し、サンニャーサ(遊行期)に入りました。物質的または精神的な帝国、二つの内の一つに」。
(*1)ナーヤナ・・・シュリー・バガヴァーンの信奉者、ガナパティ・ムニの愛称。テルグ語で「お父さん」という意味。
(*2)マハーラージャ・・・サンスクリット語。「偉大なる王」。
(*3)タターガタ・・・パーリ語もしくはサンスクリット語。ブッダが自分のことを指し示すときにつかう言葉。「そのように行った(来た)者」を意味すると考えられている。解釈は様々。
1947年12月5日
(164)無執着の偉大さ
昨日、何かの会話の間に、バガヴァーンが無執着(ヴァイラーギャ)の偉大さを話していたとき、私はテルグ語の『ヴァーガヴァタム(*1)』の中の第2編のスカ・ヨーギについての話で、無執着についての良い詩節があり、達成の道を説明していると言いました。バガヴァーンの要望により、私はその詩節を読み上げました。以下がその翻訳です。
地上に横たわるための良い場所はないのか
どうして綿の寝具が(いるのか)
自然が与えた両手がないのか
どうして飲食のための様々な道具すべてが(いるのか)
着るための繊維の布、鹿の皮、クシャ草がないのか
どうして様々な種類の上等な布が(いるのか)
住むための洞窟がないのか
どうしてこれらの家々と館が(いるのか)
木々はみずみずしい果物を実らせないのか
川は甘美な水を与えないのか
善良な妻たちは施し物を与えないのか
それでは、どうして富のために盲目になり、驕った者たちに仕えるのか
それを大いに関心を持って聞き、バガヴァーンは力強く言いました。「その通りです。この国のこの地域で、古典作家の一人がほとんど同じようなことを書いています。『おお、主よ。あなたは頭の下の枕として使う手を、腰を覆うための布を、食べ物を食べるための両手を与えました。私にはそれ以上何が必要でしょうか。これは私の大変な幸運です!』それがその詩節の趣旨です。いったい、それがどれほど大変な幸運か言うことができますか。最も偉大な王たちでさえそのような幸福を望みます。それに匹敵するものは何もありません。これらの状態を両方とも経験して、私はこれとそれの間の違いを知っています。私の周りのこれらのベッド、ソファー、品物-この全ては束縛です」。
「ブッダはその例ではありませんか」と私は言いました。
バガヴァーンは言いました。「ええ。彼がありうるだけのぜいたく品と共に宮殿にいた時、彼はまだ悲しんでいました。彼の悲しみを取り除くため、彼の父親は今まで以上のぜいたく品を作りました。しかし、そのどれもブッダを満足させませんでした。真夜中に、彼は妻と子供をおいて姿を消しました。彼は大変な苦行に6年間とどまり、自らを悟り、世界の福利のため、乞食する者(ビクシュ)となりました。乞食する者になってはじめて、彼は偉大なる至福を楽しみました。実際、彼はそれ以上何を必要としましたか」。
「乞食する者の身なりで、彼は自分の(住んでいた)都市にやってきたのではなかったですか」とある信奉者が尋ねました。
「ええ、そうです。彼がやって来ているのを耳にして、彼の父親のスッドーダナは、大通りで彼を迎えるために、王にふさわしい象を飾りつけ、全軍を率いて出かけました。しかし、大通りに立ち寄ることなく、ブッダはわき道や小道を来ました。施しものを求めて、彼は近しい仲間を様々な通りに送りましたが、彼自身は乞食する者の装いで別の道を通って父親のもとへ行きました。どうして父親に息子がその装いでやってきたのが分かるでしょうか!しかしながら、ヤショーダラー(ブッダの妻)は彼だと分かり、父の前に息子を平伏させ、彼女自身も平伏しました。そのあと、父親もブッダだと分かりました。しかしながら、スッドーダナはそのような様子の息子に会うことをまったく期待しておらず、とても怒り、「恥を知れ!その身なりは何だ。富の中で最も優れた物を持つべき者がこのようにやって来るのか。もうたくさんだ!」と叫びました。それと共に、彼は怒りに満ちてブッダを見ました。父親がいまだ無知を取り除いていないのを残念に思い、ブッダも父親をさらに力強く見始めました。このまなざしの戦いで、父親は敗北しました。彼は息子の足もとに崩れ落ち、彼自身、乞食する者となりました。無執着の者のみが無執着の力を知りうるのです」とバガヴァーンは言い、その声は感動で震えていました。
(*1)ヴァーガタム・・・『ヴァーガヴァタ・プラーナ』もしくは『シュリーマッド・ヴァーガタム』とも言う。ヴィシュヌの化身、とくにクリシュナへのバクティに主眼をおいた聖典。
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