『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅰ
ジャナカ王の物語
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は、アドヴァイタ哲学を最高の形で詳説する古代の作品です。数年前、「The Mountain Path」で、我々はこの作品の要諦を連載しました(1968年1月号~1970年4月号を参照)。我々は今、原文の真意に忠実な意訳において、数多くの物語のいくつかをのせます。それらを通じて教えが伝えられます。以下のジャナカ王の物語は、『Maharshi's Gospel』の中でシュリー・バガヴァーンによって対話の間に言及されました。ヴァーシシュタ曰く:
ラーマ!仮設された建物が頑丈な柱により支えられているのとまさしく同様に、この永続的なサンサーラを作り出すマーヤーもまた、その性質が激情(ラジャス)、もしくは、遅鈍(タマス)である人々によって絶え間なく維持されています。生まれつき純粋(サットヴァ)である、あなたのような人々は、蛇がその皮を脱ぎ去るのとまさしく同様に、容易くそれを捨て去れます。この全ては、実のところ、ブラフマンです。この広大な(全世界)は、自ら(アートマン)です。おお、純粋な人よ!「私はそれであり、これは別のものである」という形のあなたの迷妄に打ち勝ちなさい。かの永遠であり、同質的なブラフマンにおいて、海の中に(泡や波などのように)本来的なものが存在しないのとまさしく同様に、相違(カルパナ)(*1)は存在しません。(実のところ)苦しみはなく、迷妄はなく、誕生はなく、誰も生まれていません。実際に存在するもののみが存在します。
これを悟り、うろたえずにいなさい。(火や熱のような)二元性を超越しなさい。自らに常に住まい、ものを得ないように。もしくは、あなたが所有するものに愛着しないように。苦しみのない不ニの自らのままありなさい。うろたえないように。自らを頼りとし、堅固に、つつましく、穏やかにいなさい。静かに、思い患うことなく、光り輝く宝石のように純粋でいなさい。うろたえないように。偶然にやって来るものを楽しみ、何ものをも渇望せず、受容と拒絶についての一切の考えを捨て、うろたえずにいなさい。
真珠(のようなもの)が十分に成長した竹の中に見つかるのとまさしく同様に、真正な知恵もまた、これが最後として生を受けた者の中に見出されます。行いの品位、喜びを与える性質、慈悲、平静、無執着、堅固な知恵、この全ては、淑女が家の内部に見出されるように、彼の中に見出されます。森の野生動物が風の中で竹が発する甘美な調べを好むのとまさしく同様に、全ての人々は善良で優しい行いの人との同伴を好みます。
解放を達成する二つの道が、この世界(サンサーラ)で具現した存在にとって開かれています。一方はグルの教えに従い、一回かそれ以上の人生の流れの中でゆっくり目的を達成するものです。他方は、識別力ある人々のみに開かれており、空から落ちてくる果実のように速やかに偶然に知を得るものです。この古い物語に耳を傾けるなら、どうして空から落ちてくる果実のように知が得ることができるのかあなたは理解するでしょう。
一切の栄枯盛衰に打ち勝ち、偉大な繁栄を成し遂げた高貴な人、ジャナカと名付けられるヴィデハの勇敢な王がいました。彼は助けを求める人々にとって望みを叶える木(カルパ・ヴリクシャ)のようでした。蓮華を花開かせる太陽のごとく、彼は友人たちを繁栄させました。
ある時、春の季節に、ナンダナ(*2)へ入るインドラのように、彼は交尾するカッコウの鳴き声で騒がしい彼の美しい庭園に行きました。蓮華の香りがする、その美しい庭園の木立の間を、従者たちから離れ、彼はぶらつきました。突然、ターマラ樹の木立からやって来る声を耳にしました。その声は、山の洞窟の間の隠遁所に住んでいた目に見えないシッダ(解放された人々)からやって来ました。会話の流れで、彼らは自らの本質を説く以下の歌を歌いました。
主体が対象に接触する時に至福を生じる、不変の自らに我々は瞑想する
過去の潜在的欲望(ヴァーサナー)と共に、見る者‐見られるもの‐視覚という概念を捨て、視覚のもととなる原初の光、自らに我々は瞑想する
存在と非存在という二つの概念の間にある光の中の光、自らに我々は瞑想する
ハムサ・マントラ(*3)を絶えず繰り返し、全存在に住まう自らに我々は瞑想する
ハートに住まう主を無視し、他の神々を崇拝する人々は、神聖な宝石カウストゥバ(*4)を捨て去り、並みの宝石を探し求める人々のようである
一切の欲望の放棄により、人は欲望なる毒のつるの絡まった根を切り払う
世俗的対象物が人を欺くものであると知る後にさえ、それらをいまだ思う邪な者はロバ(馬鹿者)であり、人ではない
ハリ(*5)がヴァジュラ(*6)によって山々を打つのとまさしく同様に、この五感という敵が活発である時はいつでも、人は識別力というこん棒でそれらを繰り返し繰り返し打ち倒すべきである
手を握り押し合い、歯をくいしばり、身をよじることより(*7)、まずは心を征服せよ
サーダカは、まずは喜びをもたらす感覚の制御を達成すべきである。五感が制御される時、心は落ち着いている。心が落ち着いている者は、彼自身の自らなる至福の内に、堅固に、絶えず留まる王がシッダのこの歌を聞いた時、彼は戦(いくさ)の音におびえる臆病者のように恐ろしくなりました。従者全員を後に残し、山に登る獅子のように一人で宮殿に入りました。世界の活動が、空を飛ぶ鳥の羽根のように不安定であることを悟り、彼は大変な苦悩に嘆きました。
「ああ!ある石が別の石に転がって行くように、私はこの不安定な世界に無目的に暮らしている。我が人生の時間は、無限の時の中のなんとわずかな部分なのか!私がそれに望みをかけるのは何と哀れなことか!我が生涯の間だけ楽しめる、この王国が何の役に立つのか。私は愚かだ、どうしてこのように無駄に生きられるのか。
この世界には何もない-現実のものも、美しいものも、高貴なものも、純粋に自然なものも。喜ぶべき何があるのか。力強い者どもを率いる人々は数日経つうちに倒れ伏す。ああ!我が心よ、お前はどうして栄華に信頼を置けるのか。彼らは大いなる繁栄と楽しみを享受していた。彼らには愛する親族がいた。この全ては単なる記憶の対象になってしまった。どうして現在の状態に信頼を置けるのか。王たちの財宝はどこにあるのか。ブラフマーにより創造された世界はどこにあるのか。一切のものは過ぎ去ってしまった。どうして私が現在の状態に信頼を置けるのか。何百万のブラフマーが去って行った。天界も同様に消え去ってしまった。王たちは細かな塵のように過ぎ去ってしまった。どうして私がこの生に信頼を置けるのか。
欲望が私をサンサーラなる悪夢に縛りつけるなら、私が存在しない体なる迷妄にしがみつくなら、我が状態は真にみじめなものだ。数えきれない日々が過ぎ去り、いまだ過ぎ去りつつある。私は今まで終わりを迎えない日を目にしたことがない。初めに、中ほどに、終わりに美しいものは何であれ、究極的な破壊という邪悪によって汚されている。愚かな人々は日々よりいっそう罪深くなり、よりいっそう残酷になり、よりいっそう悲惨になる。愚かな男は少年期は無知に打ち倒され、青年期には女性への欲望に打ち倒され、その後はその妻を心配する。いつ彼は何か善きことを行うのか。
非存在が存在の、醜さが美の、悲しみが喜びの頂きに座っている。私は何を寄る辺にできるのか。その目を開くことで全世界を有らしめ、閉じることでその消滅をもたらす(ブラフマーのような)人々がいる。私のような者たちは何と取るに足らないのか。心が安らかな時、幸運は喜びの源である。しかし、心が苛立つ時、それは不運となる。同様に、心が苛立つ時、不運は悲嘆の源である。心が安らかな時、それは幸運である。サンサーラは苦しみの極致である。どうしてその真っただ中に存在する体の内に喜びを見い出せるのか。心は無数の芽、枝、葉、実からなる根である。それは想像に過ぎない。私は想像することをやめ、そうして、それに終止符を打とう。その時、サンサーラなる木は枯れる。
私は目覚めた、私は目覚めた。我が自らを盗む泥棒を私は見た。彼は心である。私は今や彼を殺そう。長らく私は彼の被害者だった。今まで、我が知性なる真珠は穴を開けられないままであった。それは今や穴を開けられ、糸のみを必要としている。善良で賢明なシッダたちによって、私は完全に目を覚ました。今や、私は我が自ら、至高なる至福という目的を探しに行こう。私は「これが私である」や「これは私のものである」のような執拗に生じる誤った概念を放棄しよう。私は強力な敵、この心を殺し、安らぎを達成しよう。おお、識別力よ!私は御身に敬礼する!」
そのように沈思し、ジャナカは完全に沈黙しました。彼の心の動揺はやみ、彼は絵画の中の肖像のようになりました。長い間、黙ったままいた後、国民の指導者であった彼は、心を完全に律して立ち上がりました。彼は心の中で思いました。
「獲得すべき何があるのか。私は努力を通じて何を達成しようというのか。私は絶え間のない純粋な意識である。どうして私が何かを想像しなければならないのか。私は得てないものを渇望せず、得たものも拒絶しまい。何があろうとも、私は我が純粋なる自らのままあろう。」
そのように考え、ジャナカはいつもの流れで彼にやってきた務めに従事し始め、日中(を作り出す)太陽にように冷静に働きました。彼は未来を期待せず、過去を思いませんでした。彼は現在の瞬間を快活に生きました。他のどのような手段を通じてでなく、彼自身の思いの力によって、彼が得たいと思ったものを得ました。
おお、ラーマ!人は行為によってでなく、自らの優れた明晰な知性と成熟した知恵によって、この境地を得ます。人々が外側の対象物を得ようとする努力は、まずは彼らの知恵の発達に向けられねばなりません。知恵の欠如が、全ての悲しみの中で最大のもの、全ての不運の源、サンサーラなる木の種です。人は、それゆえ、知恵を獲得すべきです。知性ある人々のハートに住まう、この知恵は、望みを叶える宝石(チンターマニ)(*8)です。それはまた、望み通りの果実を実らす、望みを叶える蔓です。弓が鎧を身につけた人に何の害もなさないのとまさしく同様に、様々な方角からやって来る邪悪は、賢明であり、迷妄のない人に影響しません。
自我は意識なく、愚かで、束縛に従属しています。それは至高なる太陽(すなわち、自ら)を隠す雲のようです。それは知恵なる風によって吹き払われます。収穫を得ようとする農夫が、はじめに彼の畑を耕さなさければならないのとまさしく同様に、この優れた比類ない境地を得ようとする者は、はじめに、この知恵を心に抱かねばなりません。
(*1)カルパナは一般的には「想像」と訳されています。
(*2)ナンダナ・・・インドラ神の庭園。
(*3)ハムサ・マントラ・・・ソーハム、「彼は私である」と同じようです。
(*4)カウストゥバ・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%90
(*5)ハリ・・・ヴィシュヌ神
(*6)ヴァジュラ・・・インドラ神の武器ですが、『プラーナ』ではヴィシュヌ神に作り方を聞いて作られたようです。
(*7)直訳は、「手で手を押し付け、歯で歯をきしらせ、手足で手足をねじり」となります。
(*8)チンターマニ・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0
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