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2018年2月26日月曜日

神と運命 - 神(カルタ)は業(カルマ)よりも強し

◇「山の道(Mountain Path)」、1967年4月、p113~116

神と運命

A.デーヴァラージャ・ムダリアール
デーヴァラージャ・ムダリアールは、最古参の信奉者の一人です。彼は小誌の1964年10月号で、我々のために「マハルシと献身の道」という記事を記しました。主に衰えつつある視力のために、彼は1965年の終わりにアーシュラムを離れました。1966年1月号で、我々はアーシュラム広報にお別れの手紙を記しました。今、デーヴァラージャはすでに片目の白内障の手術を受け、再び字を書ことができます。我々は彼からのこの新たな記事をとても喜んで歓迎したいと思います。
(運命なる)動き続ける指は記し、記され
先へと進む。汝のあらん限りの祈りも、知恵も
それを呼び戻し、半行取り消させることあたわず
汝の全ての涙でも、その一語も洗い流せぬ
-ウマル・ハイヤームによるルバイヤートより

 私見では、これを記した時、ウマルは冷笑家ではなく、宿命の貫き通せない壁に出くわした熱心な探求者でした。大多数のヒンドゥー教徒もまた、運命に打ち勝つことはできないと信じています。彼らは、神が彼らのひたいに人生における彼らの運命を記し、その結果、全ての出来事は、心地よいものも痛々しいものも、定められたように彼らのもとにやって来るだろうと話します。しかしながら、カルマの問題を学んだ人々は、運命とは独断的な神によって彼らに課されたものではなく、因果法則の結果であり、各人がその過去の行為が引き起こした経験を経なければならないと言明します。人の各々の行為には、心地よいものであろうとも痛々しいものであろうとも、その結果が後に続き、誰もそれから逃れることはできません。一回の人生で行為の全ての結果を使い尽くすことが可能でないなら、カルマを使い尽くすために相次いで人生を経験しなればならないかもしれません。

 この教説は思慮深い思想家たちによって歓迎されてきました。なぜなら、それが我々が世界で見出す人と人との間の大きな相違にいくらかの理性的な説明を与えるからです。さもなければ、公明正大な愛情深い神によって創造され、統治された世界における膨大な相違をどうして説明しうるでしょうか。カルマの教説はヒンドゥー教にとってとても基本的なものであるため、我々はそれ抜きにヒンドゥー教を考えることはできせん。

 カルマは三つのカテゴリー-プラーラブダ、アーガーミ、サンチッタ-に分類されます。人が生まれるとき、この人生で片づけられる予定の蓄積したカルマの量が、プラーラブダ・カルマと呼ばれ、その残りがサンチッタです。今世で蓄積したものは、アーガーミと呼ばれます。少なくともプラーラブダは全ての人によって経験されなければならず、それからは逃れようがないと一般的に考えられています。私はここで、この事柄に関するバガヴァーンの教えを提供しようと思います。

 シュリー・クリシュナがアルジュナに語ること-「マーヤーによって惑わされ、あなたは戦うことを拒むが、あなた自身の本質があなたを戦うように強いるだろう*1」-に関して、ある信奉者がバガヴァーンに我々がいったい自由意志を持つのかどうか尋ねました。バガヴァーンは答えました。「あなたには、体とそのプラーラブダとしてそれにやって来る苦楽とあなた自身を同一視しない自由が常にあります」。これに続いて、私は言いました。「私は人の人生の重要な出来事があらかじめ定められていることは理解できますが、まさか人生のあらゆること-例えば、私が手に持つこのうちわを床の上に置くというような、どれほどささいな事でも、すでにあらかじめ定められているということであるはずがありません。まさかあなたは、これこれの日付の一日のこの特定の時間に私があなたの前で床の上にうちわ置くことが私の生まれる前に定められていたと言うのではないでしょうね」。バガヴァーンはためらうことなく答えました。「ええ(、言います)」。

 私が彼と交わした他の様々な会話から、これがバガヴァーンの教えであることを私は確信しています。私はここで、彼が若き賢者として彼の母親の一緒に家に戻るようにという涙ながらの願いを断ったときに、彼女に与えた返答にだけ言及しようと思います。「命じる彼が、プラーラブダに応じて各々の人生を形作っている。起こらないと運命づけられていることは、どれほどあなたが試みようとも、起こらないだろう。起こると運命づけられていることは、人がそれを阻止しせんと試みようとも、起こるだろう。これは確実である。そのため、最良の道は、静かにいることである」。

 しかしながら、もし純粋な原因と結果としてのカルマの法則が絶対的に不可侵かつ無慈悲なほどに至高であるなら、人は宗教や神や祈りが何の役に立つのか尋ねるかもしれません。人が彼を罪と苦しみから救い、安らぎと祝福を与えられる全てを愛する全能の神を頼らなかった時代は存在していなかったようです。ヴェーダの時代に始まり、シヴァ派とヴィシュヌ派両方の偉大なバクタたちの時代を通じて、わりあい近代に至るまで、どのような罪を人が犯そうとも憐み深き神が彼を救うことができると全く明確に述べる大量の宗教文献があります。火によって綿が燃やされるように、神の恩寵によって、プラーラブダを含め、全てのカルマを破壊することができるとも彼らは述べています。西洋の聖者と神秘家は同じことを言っていて、神が公平、公明正大であるから、罪びとを救うことができず、その罪のためにまずは彼を罰しなければならないという考えをからかっています。というのも、もしそうであるなら、憐み父性母性といった神の他の属性はどうなるでしょうか。ヴィシュヌ派の信奉者は、神の中のヴァーッサリャ、つまり、慈愛の性質を強調し、牝牛のヴァーッサリャによって説明しています。子牛が生まれるやいなや、牝牛はその全身をなめ始め、子牛が不潔であるという事実を気に留めません。彼らは言います。神は罪びとを救いうるに先立って、彼が清らかになるのを待たず、見つけるとすぐに彼を救う-ただ人が救いを望み、それを求めて叫び、哀願するなら。苦しんでいる人が、「神は私を助けることができる」と十分に信頼して、助けと安らぎを求めて神を頼りとするなら、彼は確かに救われる。それが聖典の言うことであり、無数の聖者が言明することです。キリストは言いました。「労苦し、重荷を背負う汝ら皆よ、のもとに来きなさい。そうすれば、私はあなた方に安息を与えよう。恐れるなかれ」。主クリシュナはほぼ同じことを言いました。アルジュナが、解放を手に入れうる全ての異なる種類のヨーガについてクリシュナが話さなければならなかったこと聞いた後、これら全ての指導で混乱し、それらに従うことができないと感じたと彼が不満を言ったとき、クリシュナは言いました。「では、全てのダルマを放棄し、だけに寄る辺を求めなさい。嘆くなかれ。私があなたの全ての罪からあなたを救いましょう*2」。ここで要求されるものは、神への完全な委ねです。しかし、自分自身を完全に神の憐みに身を委ね、自分自身のために何も望まず、あらゆることを全てを愛する全知なる神に託すことは、思われるほど簡単ではありません。しかしながら、ここで私が主張したいことは、恩寵は全能であり、いかなる例外もなく人は蒔いたものを刈り取らねばならないと言われるカルマの法則にさえ打ち勝つことができるということです。私は気質的にこれを強く信じる傾向にあり、バガヴァーンが私のためにそれを裏付けてくれたと信じています。私はここで、私の小さな本 My recollections of Bhagavan Sri Ramana の101、102ページ上に、そのテーマに関して私が記したことを引用しようと思います。

 「私が一度ならずバガヴァーンと論じ合った別の点は、恩寵がプラーラブダ、つまり、運命をくつがえすことができる程度です。徹頭徹尾、私の言い分の主だった趣旨は、神は全能であり、にとって不可能なことは何もなく、もし人がそのために努力し、値するものだけを得るなら、得ることができるなら、恩寵まるで居場所はないだろうということでした(そして、それは相変わらず私の今の確信です)。自分一人でか、他の人々と私がそのような議論に携わっていた時-私に味方する人いれば、反対する人もいました-、バガヴァーンは黙っていました。しかし、彼がいろいろな機会にした様々な発言や所見から、私は以下がこの事柄に対する彼の態度であるという結論に至りました-『もちろん、神に不可能なことは何もありません。しかし、あらゆることが神の意志、または、計画によって定められた秩序に従って、起こり、例外はほとんどありません。我々のプラーナにマールカンデーヤが何人いますか』」。

 他方で、多くの権威ある書籍では、ジニャーニからの一目が、過去、現在、プラーラブダを含めた我々の全てのカルマの結果から我々を救うことができると明確に述べられています。そして、シュリー・ジャナキ・マータ*3が彼女のタミル語の日記の中で公表したことですが、彼女がこの疑問をかつてバガヴァーンと議論し、恩寵が人がプラーラブダに打ち勝つ手助けさえすると主張したとき、彼は彼女に言いました。「あなたがそのような信仰をもっているなら、そうなるでしょう」。

 私はこの引用に何も有益な付け加えができないことを分っていますが、マールカンデーヤへの言及を説明すべきかもしれません。プラーナに書かれていることですが、マールカンデーヤは16年間しか生きられないよう運命づけられていて、彼はシヴァに祈り、永久に16歳であるという恩恵を授かりました。バガヴァーンはそれに言及し、神聖なる恩寵の明白で劇的な介入はとても例外的であるという彼の趣旨を強調しました。

 いつ、なぜ、誰に恩寵が訪れるか人は言うことはできないとウパニシャッドの中で述べられています。それが選ぶ者にだけそれは到来すると言われています。百人が努力するかもしれませんが、その中の一人か二人だけが選ばれるのかもしれません。恩寵について、それが予測不可能であるということ以外、誰も何も予測できません。

 ここで、私の本 Day by Day with Bhagavan に記載されたポール・ブラントンからの以下の引用文に目を向けるのは興味深いでしょう。

 「神聖なる恩寵とは、活動中の広大無辺な自由意志の一つの顕現です。一切の自然法則に優越し、自然法則を相互作用にによって変更しうる、それ独自の未知の法則を通じ、それは物事の成り行きを不可思議な方法で変更できます。それは宇宙の中で最も力強い力です。」

 「それは完全な自らの委ねによって発動されたときにのみ、降りてきて、働きます。神は全ての存在のハートに住んでいるため、それは内から働きます。そのささやきは、自らの委ねと祈りによって清められた心の中でのみ聞くことができます。」

 上の二つの引用文は、D.C.デーサーイーという人による Divine Grace through total self-surrender と名づけられた本の中に含まれ、バガヴァーン自身が、その本に通読するとすぐ、それらを我々に読み上げました。

 神の恩寵は予測不可能であり、罪を免じ、カルマを消す力を持つという私の発言は、この恩寵が努力なしに得ることができること意味すると受け取られるべきではありません。逆に、大変な努力が必要です。人は、独力で自分自身を高めることができないことを認め、神の御足にくずれ落ち、叫ばなければなりません。「主よ、私は弱く、無力です。あなただけが私を救えます。私はあなたを寄る辺とします。あなたが私に望むことを行ってください」。これがなすべき努力です。我々自身のちっぽけな努力の無益さを理解した後の無努力の達成に向けての努力です。タゴールが言うように、「おぉ、汝自身の肩に汝自身を担わんとする、愚か者よ!おぉ、汝自身の門戸に物乞いをしに来る、乞食よ!一切を担うことができ、後悔して後ろを振り返ることのないの手に汝の一切の重荷を委ねよ」。我々がこれをするとき、神が責任をとるとタゴールは言います。「私が舵(かじ)を手放すとき、御身がそれを手にする時期が来たことを私は知る。なすべきことは即座になされるだろう。このあがきは無駄である」。

 宗教とは、私見では、人間の心に狼狽と絶望でなく、慰めと安堵をもたらすものであるべきです。もしそれができないなら、他の点においてどれほどあっぱれなものでも、知識人の称賛を勝ち取るためにどれほど哲学的思索にふけっていても、私はそれに用はありません。もし信奉者が神に保護を求めて近づくなら、「親愛なる息子よ、私はあなたを愛してますが、あなたを抱き上げ、私の保護下にあなたをかくまってあげたいのはやまやまなのですが、私の王国のおきては、あなたが戻ってきて、あなたの罪を取り除くか、もしくは、カルマを使い果たすまで、あなたを助けられないというものなのです」と言う神なるものに私は用はありません。むしろ私は神のことをキリストの放蕩息子のたとえ話の父親、道に迷った息子を絶えず注意深く捜していて、彼が引き返し、家路につくのを見た瞬間に、彼がまだ遠くにいるときでさえ、彼のもとに駆け寄り、抱擁し、家に連れ帰って、彼を洗い、真新しい衣服を与え、ごちそうのために太った子牛を屠った父親のようにみなすことを好みます。私は神がそのようであると本当に信じています。フランシス・トンプソンが The Hound of Heaven の中で言うように、神の恩寵こそが我々を追い求めていて、我々こそが逃げていっているのです。我々が世界の安っぽい目を引く飾りから背を向け、(「放蕩息子」のたとえのように)豚たちとの付き合いと我々が豚たちと分かち合ってきたもみ殻や皮の食事を断ち、神の方に向くのなら、その時、我々が神に向かって歩む一歩ごとに、神が我々に向かって十歩歩むと言われています。キリストと他の霊性の師たちはこう述べており、私はカルマの法則のもとに肉を一ポンド要求するシャイロックよりもむしろ彼らを信じることを好みます。バガヴァーンは Who am I? の中で言いました。「どれほど人が罪深くても、『あぁ、私は罪びとだ。どうして私が解放を得られるのか』と悲しみに沈んで泣き叫ぶのをやめ、自分が罪びとであるという思いすら捨て去り、熱心に自らへ瞑想を続けるなら、彼は間違いなく改められます」。

映画「ナザレのイエス」から放蕩息子のたとえ話

 私の信条は次のようです。「神聖なる恩寵を信じなさい。完全に自らを委ねて、それを請い求めなさい。そうすれば、あなたは救われるでしょう。一切の哲学的論争をいたずらに学識ある人々に任せなさい。あなたがただのほうに向き、を寄る辺とするなら、あなたを迎え入れたいと切に願っている神に満足しなさい」。

 バガヴァーンは救いへの一つの確かな道として完全な自らの委ねの道を推薦し、献身を「ジニャーナの母」と呼んでいます。かのよく知られた初期のバガヴァーンの信奉者、シヴァプラカーシャム・ピッライ-彼のために Who am I? が書かれたのですが-は、彼の詩の一つの中で言います。「あなたと私、他の全てを動かす力があります。あなたの自我をそのの足元に置きなさい」。バガヴァーンの様々な行為と発言から、委ねの道を私にとって最良の方法だと彼がみなしていたことにわずかの疑いもありません。解放は自ら-それは、自らでいることです、なぜなら、知ることとはいることだからですーを通じてのみ可能であると彼がはっきりと明言したことは真実です。けれども、それがもたらされるのは、必ずも、完全に委ねた者に、です。

(原注)
*1 バガヴァッド・ギーター、18章、59詩節
*2 同上、18章、66詩節
*3 彼女に関する記事について、小誌の1966年6月号、p105参照

2013年8月7日水曜日

バガヴァーンとの対話② - 世界の現実性(夢と目覚め)、サット・サンガ

◇「山の道(Mountain path )」、1981年6月、p153~155

バガヴァーンとの対話 

スワーミー・マードハヴァ・ティールタ 

スワーミー・マードハヴァ・ティールタ:
 神は様々な種類の世界を創造し、いまだ新しい世界を創造するつもりであると言う人々がいます。

シュリー・バガヴァーン:
 我々の現在の世界そのものが真実ではありません。各々の人が様々な想像の世界を彼の想像に応じて見ます。それでは、どこに新しい世界が現実的であるという保証がありますか。ジーヴァ(個人)、世界、神、それら全ては真実の境地に依存しています。「私」という個人の感覚が存在する限りは、それらもそこに存在します。この「私」という個人の感覚から、心から、これら三つが生じています。あなたが心を破壊するならば、それら三つは留まらず、ブラフマンのみが留まります。それは今でさえ留まり、住まっています。私たちはものを誤って見ています。この誤った認識はこのジーヴァの本質を探究することによって正されます。たとえジーヴァが超越した心(super-mind)に入っても、それは心の中に留まります。しかし、心を委ねた後、ブラフマン以外留まるものは存在しません。この世界が現実、もしくは、非現実であっても、チェータナー、もしくは、ジャーダであっても(意識がある、もしくは、意識がなくても)、幸福な場所、もしくは、悲惨な場所であっても、それら全ての状態は無知の状態に生じます。「私」という個人の感覚を欠くアートマ・ニシター(自らに定められた)の境地は、至高の境地です。この境地において、対象的な思考の余地はなく、この個人的存在の感覚もありません。存在‐意識‐至福というこの自然の境地においてどのような疑いも存在しません。自分自身の中に名と形の知覚がある限り、神は形を伴い現れますが、無形の現実の知見(アルーパ・ドリシュティ)が達成される時、見る者、見る、見られるものという変形はありません。その知見は意識そのものの本質であり、不ニであり、分割されません。それは制限なく、無限であり、完全です。体の内に「私」という個人の感覚が生じる時、それから目覚めの状態が現れます。この感覚が不在の時、それでは誰が世界を見るのですか。

質問:
 我々が我々の体に存する物質的性質を抑制できるのとまさしく同様に、自らは全てに共通しているため、聖者は他者の物質的性質を変えられるといった力を彼自身の内に持つにちがいないと信じている人たちがいます。

答え:
 ジニャーニは他者が存在していると信じていません。ですから、誰かの物質的性質を変えるという問題は存在しません。他者が見られる時、それは無知です。

質問:
 ジャナカはジニャーニでしたが、彼は支配する君主でした。しかし、ジニャーニである彼のグル、ヤージュナヴァルキヤは世俗を放棄し、森へ行きました。どうしてそうなのですか。

答え:
 全ては各々のジニャーニのプラーラブダ(運命)に応じて起こります。クリシュナは楽(らく)を楽しむ者(ボーギー)でしたが、スカデーヴァは苦行者(トゥヤーギー)でした。ジャナカとラーマは王でしたが、彼ら全てはジニャーニでした。彼らの内なる体験は同じであり、外の人生はプラーラブダに従っていました。

質問:
 ある人は縄に蛇を、ある人は棒を、ある人は花輪を、ある人は水の流れを見ますが、縄を縄として見る人は真実の知識を持っています。その他の見る者の知識は真実ではありません。

答え:
 他の見る者の見かたについて考える必要はありません。それらの他者はあなたの想像の内にだけ存在します。ただ一人の見る者を知りなさい。そうすれば、全てはよくなります。

質問:
 どのようにですか。

答え:
 夢の中で多くのものが見られますが、それらはすべてただ1人の見る者の想像の内に存在します。あなたが夢から目覚める時、夢と夢の中の見られるものはそれら自身のプラーラブダを引き受けます。

質問:
 それでは、他者はいなくなるのですか?

答え:
 世界と同じです。『アパロークシャーヌブーティ』(シャンカラに帰せられるアドヴァイタの作品)において、著者は「見る者、見る、見られるものが存在しないその境地に、視線は鼻先ではなく、そこに(その境地に)定められるべきである」と述べます。

質問:
 それから質問が起こります。視線がそのように定められるならば、どのように毎日の生活が続けられるのですか。

答え:
 アディシュターナ(礎)以外何も真理とならないため、ヴァヤヴァハーラ(世俗的な活動)の間でさえ、ジニャーニは視線(ねらい)を礎に定めています。壺の内に土が存在すると感じることが適切な態度です(つまり、形でなく本質を見る)。

質問:
 壺は水で満たせますが、土に水を注ぐことによって同じ結果は達成できません。

答え:
 あなたに壺を壊した後で土を見るようにとは言ってません。壺が完全な時でさえ、あなたは土からなる形においてそれを見ることができます。同様に、世界をブラフマンからなる形として見ることができます。目覚めの状態にブラフマンの知を持つことは、壺の内に粘土の知識を持つことに似ています。

質問:
 名と形は現実ですか。

答え:
 あなたはそれらをアディシュターナから分離しているとみなしてはいけません。名と形を理解しようと試みる時、あなたは現実のみを見つけます。それゆえ、永久に現実なるものの知を得なさい。

質問:
 夢は目覚めの状態の間に受けた印象のために生じるというのは事実ですか。

答え:
 いいえ、本当ではありません。あなたは夢で目覚めの状態において以前に見たことがない多くの新たな物事や新たな人々を見ます。あなたは夢の中で二番目の夢すら見るかもしれません。二番目の夢から目覚めた後、あなたは目覚めたと感じますが、それは一番目の夢という目覚めの状態です。同じように、人は毎日、目覚めますが、それは本当の目覚めの状態ではありません。

質問:
 どうして目覚めの状態はとても現実的なのですか。

答え:
 我々はとても多くのものを映画のスクリーン上に見ますが、現実ではありません。そこでスクリーン以外の何も現実ではありません。同じように、目覚めの状態において、アディシュターナ以外何も存在しません。ジャーグラット・プラマー(世界の知識)はジャーグラット・プラマータ(世界を知る者)のプラマー(知識)です。両方とも眠りにおいて去ります。(*1)

質問:
 どうして我々は世界においてそのような永続性や不変性を見るのですか。

答え:
 それは間違った考えのために見られています。ある人が同じ川で二回沐浴したと言う時、彼は間違っています。なぜなら、彼が二度目に沐浴した時、川は彼が一度目に沐浴した時と同じではないからです。炎の輝きを見て、人は同じ炎を見ると言いますが、この炎は瞬間ごとに変化しています。目覚めの状態はこのようです。変化のない見かけは知覚の誤りです。

質問:
 誰の誤りですか。

答え:
 プラマータ(知る者)です。

質問:
 どのようにして知る者は来たのですか。

答え:
 知覚の誤りのためです。実際は、知る者とその間違った知覚は同時に現れ、自らの知が得られる時、同時に消えます。

質問:
 どこから知る者とその間違った知覚が来たのですか。

答え:
 その質問を誰が尋ねていますか。

質問: 
 私です。

答え:
 その「私」を見出しなさい。そうすれば、あなたの全ての疑問は解消されます。夢の中に虚偽の知る者、知識、知られるものが生じるのとまさしく同様に、目覚めの状態において同じ過程が働いています。両方の状態において、この「私」を知るとすぐに、あなたは全てのことを知り、知られるべき何ものも残りません。深い眠りは、知る者、知識、知られるものを欠いています。同じように、真実の「私」を経験する時、それらは存在しません。目覚めの状態であなたが見る起こっているものが何であれ、それらは知る者に対して起こり、知る者が非現実であるため、実際には決して何も起こっていません。

質問:
 眠りから目覚めた後、どうして前日の世界は同じように見えるのですか。

答え:
 前日に見られた世界は現実ではありません。それは非現実な知る者の知識です。同様に、次の日の世界もまた非現実な知る者の知識です。実のところ、現実の世界は存在しません。我々から分離して見えるものが我々によって「世界」と呼ばれています。自我意識(アハンカーラ)のために、それは我々と分離して見えます。アハンカーラが去る時、何ものも分離して存在せず、それゆえ世界は存在しません。時間もまたプラマータから生じます。プラマータは現実でないので、時間もまた現実ではありません。アインシュタイン博士もまた、相対性理論の中でこれを唱えました。

質問:
 それでは、どのようにして日常生活の出来事は進むのですか。

答え:
 この頃、政府は一時間先に進めて時間を変更しました。時間は間違ったものですが、日常生活は依然として続きます。

質問: 
 『パンチャダシ』に、あなたが同じ学校に通っている子供たちみんなと一緒に歌っている息子の音楽を聞きたいと思うならば、他の子供たちに静かにするよう頼まなければならないという例があります。同様に、自らの声を聞くためには、あなたは他の全ての活動をやめなければなりません。

答え:
 特にこの例においては、息子が出席していなくても、あなたは他の子供たちの音楽を聞きます。ですから、この例えはうまく合っていません。真実を言えば、自らが存在しなければ、他の仕事を行うことはできません。他の例によれば、我々がハーモニウムの主旋律に注意を定めるなら、他の旋律がそれと共に流れていても、その旋律を聞くのに困難はありません。

質問:
 非現実であると信じられていても再び現れる蜃気楼とまさしく同様に、世界は非現実であると信じられていても再び現れます。

答え:
 蜃気楼の中の水の知識が真実でないのとまさしく同様に、ブラフマンの中の世界は真実ではありません。全ては一つのブラフマー・ルーパ(ブラフマーの形)です。それのみが真実の知です。

質問:
 ヴェーダーンタの古い体系によれば、無知がはじめに生じ、それから個人の存在という考えが生じたようですが、新しい体系によれば、前も後もないようです。個人の存在、無知、世界は同時に生じ、知を得るとすぐに、それら三つすべてが消えます。

答え:
 そうです。「あなたの知見をジニャーナマヤ(完全な知、知からなるもの)にした後、世界をブラフマーからなるとして見よ」(ヨーガ・ヴァーシシュタ)。

質問:
 そのような状態はサット・サンガ(聖者との交際)によってのみ得られます。

答え:
 サット・サンガが講話や対話のみを意味すると考えないように。それは自らの形として存在に住まうことを意味します。

質問:
 「アートマはスワヤム・プラカーシャである(自らはその独自の光でもって輝く)」という意味は何ですか。

答え:
 太陽に決して暗闇が見られることがないのとまさしく同様に、自らにも決して無知は見られません。自らは知ることはできませんが、アパロークシャ・アヌバーヴァ(直接的認識による自らの知)によって体験できます。これがスワヤム・プラカーシャトワ(自らの輝き)と呼ばれています。

(*1)ジャーグラットが英文では「world」となっていますが、本来は「目覚めている状態」という意味で、ジャガットが「世界」という意味です。

2013年1月29日火曜日

神のニヤティ(定め)、運命 - 個人の責任、罪、自由意思は存在するか

◇『バガヴァーンと日々をともにして(Day by Day with Bhagavan)』 

1945年12月29日 夜

 P.C.デーサーイー氏が、P.C.デワンジ氏(引退した副裁判官)を紹介しました。彼はトリヴァンドラムから戻る途中で、哲学会議の一部門を主催していました。

P.C.デワンジ氏:
 心の一点集中を達成するための最も容易な道とは何でしょうか。

バガヴァーン:
 最良の方法は、心の源を見ることです。心というようなものが存在するのか確かめなさい。心が存在する場合にのみ、それを一点に集中させるという問題が生じます。あなたが内に向くことによって探求する時、心というようなものは存在しないと気づきます。

 そこで、P.C.デーサーイー氏はバガヴァーンのサンスクリット語の「ウパデーシャ・サーラ」を引用しました。その趣旨は、「心の性質を継続的に、もしくは、途切れなく探求する時、心というようなものは存在しないと気づく。これが全ての人にとって真っ直ぐな道である」でした。

P.C.デワンジ氏: 
 我々の聖典では、神が全てを創造し、維持し、破壊する、そして彼は全てに内在すると言われています。そうであるなら、そして神が全てを行うなら、そして我々が行うこと全てが神のニヤティ(おきて、法)に従い、広大無辺な意識によってすでに計画されているならば、個々の性格やそれに対する責任はあるのでしょうか。

バガヴァーン:
 もちろん、あります。同じ聖典が、人がなすべきこと、なさざるべきことに関する規則を定めています。もし人に責任がないならば、どうしてそのような規則が定められなければならないのですか。

 あなたは神のニヤティとそれに従って起こる物事について話します。あなたが神に、「この創造などの全てがどうしてあるのでしょうか」と尋ねるならば、彼は「それはあなたのカルマによります」と更にあなたに言うでしょう。

 あなたが神と全てのものに働いている彼のニヤティを信じているならば、あなた自身を彼に完全に委ねなさい。そうすれば、あなたの責任はなくなります。そうでなければ、あなたの本質を見つけだし、それにより自由を達成しなさい。

 1946年8月21日

ベンガルからの訪問者:
 シャンカラは我々みなが自由であり、束縛されておらず、そして我々みなが火炎から火花が出るように我々がそこからでた神のもとへ帰ることになっていると言います。では、どうして我々はあらゆる類の罪を犯すべきでないのでしょうか。

バガヴァーン:
 我々が束縛されていないこと、つまり、真の自らに束縛がないということは真実です。あなたが最終的にあなたの源へ帰ることも真実です。しかし、それまでは、あなたが言うところの罪を犯すならば、あなたはそのような罪の結果に向きあわねばなりません。あなたはその結果から逃れられません。もし人があなたを叩くなら、その時、「私は自由だ。私はこれらの殴打によって束縛されていないし、何の痛みも感じない。彼にどんどん叩かせよう」と言えますか。あなたがそのように感じられるならば、好きなことをし続けても良いでしょう。単に口先で「私は自由だ」と言うことが、何の役に立つのですか。

訪問者:
 書籍では、自らの実現のための様々な方法が言及されています。どれが最も簡単で、最も良いのでしょうか。

バガヴァーン:
 様々な方法は、様々な心に適するために言及されています。それらは全て良いのです。あなたが最も気に入るどんな方法でも選べます。

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 426.  1937年5月12日 (p409、抜粋)

信奉者:
 人間は自由意志を持っているのでしょうか、それとも人生の全てのことはあらかじめ運命づけられているのでしょうか。

マハルシ:
 自由意思は、個人性と連携して陣地を保持しています。個人性が存続する限りは、自由意志も存在します。全てのシャーストラ(聖典)はこの事実に基づいており、シャーストラはその自由意志を正しい方向に向けるように勧めています。

 自由意思、もしくは、運命が誰にとって問題であるのか見出しなさい。それに留まりなさい。その時、それら二つは超越されます。それが、それらの問題を議論する唯一の目的です。それらの問題が誰に起こったのですか。見つけ出し、安らかにありなさい。

2012年12月16日日曜日

シュリー・バガヴァーンによる母に関する二編の詩 - 病と運命について

◇『シュリー・ラマナ・マハルシの詩集(The Poems of Sri Ramana Maharshi)』

母の回復を請願する詩

 1914年に、バガヴァーンの母は、ティルパティへの巡礼の帰りに、ティルヴァンナーマライで彼のもとへ少し立ち寄りました。そこにいる間に、彼女は、腸チフス性のものと思われる高熱に襲われました。彼女の生命は絶望視され、バガヴァーンは彼女の回復のために以下の詩を作りました。言うまでもなく、彼女は回復しました。2年後、彼女はやってきて、山の上のバガヴァーンのアーシュラムに永遠に居を定めました。(この前文のみ、『Collected Works of Sri Ramana Maharshi』からの引用です)

 これらの詩節は、バガヴァーンの母親が重篤な病を患っていた時に作られました。当然ながら、彼女は回復しました。

1. 
波の上に波が続くように見える誕生なる
一切の病を終わらせる万能の薬
おお、山として立ちあらわれた主よ
おん身の御足以外の支えを持たない
我が母を救い、彼女の熱を癒やすのは
今やおん身の務めである

A Panacea to terminate all ill
Of births which seem to follow wave on wave,
O Lord, that has uprisen as a Hill,
It is thy bounden now to save
My mother and to cure her fever-heat,
Who has no other prop except Thy Feet.

死にとっての死よ!ハートの蓮華の内の
おん身の御足を彼女に明らかにせよ。おん身の蓮華の御足に
庇護を求めた若者-私を育てた彼女に
死が彼女に近づかぬよう
我々がそのもの自体を調べる時
死(の神)の主とはおん身自身以外の誰なのか

Death unto Death! reveal to her Thy Feet
In the Heart-Lotus, she who mothered me -
The lad who sheltered 'neath Thy Lotus-Feet -
So death to her gains no proximity.
When we enquire into the thing itself,
Who is the Lord of Death except Thyself?

3.
おお、アルナーチャラ、恵み深い冠
燦然と輝く知の火よ。願わくば変えよ
ジニャーナの炎でもって祝福を受けた母の体を
ジニャーナの姿に変容せよ
これが生ずるなら、なぜに死の火を点火する
必要がわずかでもあるのか

O Arunachala, the benign crest,
Effulgent Fire of Knowledge, pray transform
With flame of Jnanam Mother's body blest
And so transmute it into Jnanam's form.
To set alight death's fire why should there be,
If this occcur, the least necessity?

4.
マーヤーの迷妄を取り除く
偉大なるアルナーチャラよ。おん身はなぜに
我が母の幻を取り除くことを延ばすのか
おん身以外に誰が世界にいるのか
恐ろしいカルマの結果から
母となり、救い主として信奉者を解放する者が

Great Arunachala, who dost dispel
Maya's delusion, why dost Thou defer
Th' illusion of my mother to expel?
Other than Thee who in the world is there,
Becoming Mother, as a Saviour frees
From dire effects of Karma devotees?


運命についての詩

 バガヴァーンの母がティルヴァンナーマライへやって来て、彼を自分と一緒に無理に家に帰らせようと試みた時、彼は以下の返答を彼女に書きました。

人々の運命は、全て神により定められている
彼らが成した行為に従い
決して達成されないと定められている、その目的は
誰によっても決して成し遂げられないだろう
どれほど懸命に彼らが試みようとも。いつの日か
必ず起こると定められている、それら全ての物事も
その行く手を阻み、食い止めようとして
あなたが何をなそうとも、起こることになるだろう
しかも、これは確かである。終に、我々は知ることになる
静かにいること、それが最良であると

The fates of souls are all by God ordained
According to the deeds that they have done
That end that's destined ne'er to be attained
Will never be achieved by anyone
However hard they try. All those things, too,
That it is destined must occur one day,
Will come to pass whatever you may do
To interfere and try their course to stay.
And this is certain. At length we come to see
That it is best that we should silent be.


2012年9月22日土曜日

過去・現在・未来、グルの真実、行為者性の放棄、運命と自由

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)(p87~90、p91~92 前略

46年1月3日

 私が講堂に入った時、バガヴァーンはすでに質問に答えていました。質問の趣旨は、「進化論は正しいのでしょうか」だったと思います。

バガヴァーン:
 我々みなの問題は、我々が過去に我々であったものを知りたがり、そしてまた、我々が未来になるものを知りたがることです。我々は過去や未来について何も知りません。我々は確かに現在を知っており、我々が今、存在していることを確かに知っています。昨日と明日は共に、今日に関連してのみ存在します。昨日はその時に「今日」と呼ばれ、明日は我々によって明日、「今日」と呼ばれます。今日は常に存在しています。常に存在しているものは、純粋な実在です。それには過去や未来はありません。現在の本質と常に存在する実在を見出すよう試みてはどうですか。

 別の訪問客が、「現在は過去のカルマによると言われています。今、我々は我々の自由意思によって過去のカルマを乗り越えられますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 私があなたに言ったように、現在とは何か確かめなさい。その時、あなたは過去や未来に影響される、もしくは、それらを持つものを理解し、また、常に存在し、常に自由であり、過去や未来によって、または、どんな過去のカルマによっても影響されないものを理解します。

 別の訪問客が、「ある人は別の人の中に何かへの衝動をつくりだせますか。グルは弟子を魔法によるように変容できますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 グルについてのあなたの考えは何ですか。あなたは彼を人の姿で、ある寸法や色などをした体として考えています。悟りの後、弟子はグルに、「今や、私はあなたが私の無数の生まれ全ての間、私の最奥のハートの中にただ一つの現実として住んでおり、私の前に人の姿でやって来て、この無知の覆いを取り去ったことを悟りました。そのような崇高な温情への返礼に私はあなたのために何ができますか」と言いました。そして、グルは、「あなたは何もする必要はありません。あなたがあなたの真の境地にあるがままにある(「私は在る」として留まる)ならば、十分です」と言いました。これがグルについての真理です。

 ジョーシー氏が五つの質問をしました。以下に、質問とバガヴァーンの回答を記します。

質問1:
 答えることなく、「私は誰か」と尋ね続けるべきでしょうか。誰が誰に尋ねているのですか。探求の時、何のバーヴァナー(態度、概念)が心にあるべきですか。「私」とは何ですか、自らですか、自我ですか。

答え:
 「私は誰か」という探求の中の「私」は、自我です。その問いが本当に意味するところは、この自我の源、起源は何か、です。心に何のバーヴァナーも持つ必要はありません。必要とされる全ては、あなたがこれこれの様子や、これこれの名前などを持つ体であるというバーヴァナーを放棄しなければならないということです。あなたの本質についてバーヴァナーを持つ必要はありません。それは常に存在しているように存在しています。それは現実であり、バーヴァナーではありません。

質問2:
 私はいつもこの探求に従事できません。というのは、他にするべき仕事を持っていて、そのような仕事をしている時、この探求を忘れるからです。

答え:
 あなたが他の仕事をする時、あなたは存在しなくなるのですか。あなたは常に存在しています。違いますか。

質問3:
 行為者の感覚-「私がしている」という感覚-なしに、仕事は行えません。

答え:
 行えます。愛着なく働きなさい。あなたが「私が行為者である」という感覚を持って働いた時よりも、仕事はより良く運びさえします。

質問4:
 私は何の仕事をすべきで、何の仕事をすべきではないのか分かりません。

答え:
 思い悩まないように。この人生で、あなたによってなされるように仕事として定められていることは、あなたが好んでも、好まなくても、あなたによって行われます。

質問5:
 どうして悟ろうと試みねばならないのですか。夢から覚めるように私はこの状態から出ます。眠っている時、私たちは夢から出ようと試みません。

答え:
 夢の中ではそれが夢であるとあなたは少しも気づかないので、努力して夢からでようと試みる義務はありません。しかし、この人生では、夢の経験によって、読むことや聞くことによって、あなたはこの人生が夢のようなものであるとの何らかの直感を得ています。それゆえ、努力して夢から出るという義務があなたに投げかけられているのです。しかしながら、あなたが自らを求めていないなら、誰があなたに自らを実現して欲しいのですか。あなたが夢にいることを好むならば、そのままにいなさい。

(質問4に関連し、バガヴァッド・ギーターを引用して)P.C.デーサーイー婦人:
 (アルジュナが言われたように)各々によって行われるように定められている特定の仕事があり、どれだけそれをしたくないと思っても、それをすることを拒否しても、結局は行うことになるならば、自由意志は存在するのですか。

バガヴァーン:
 我々によって行われるように予定されている仕事が、我々によって行われるのは本当です。しかし、我々自身を体、すなわち、仕事をするそれと同一視しないことにより、仕事の楽しみや苦しみ、好ましい結果や好ましくない結果から自由でいることは我々に開かれています。あなたがあなたの本質を悟り、どんな仕事でも行っているのはあなたでないということを知るならば、運命、過去のカルマ、神の計画など、あなたがどのようにそれを呼ぼうとも、それによって体が従事するであろう仕事が何であれ、あなたはその結果に影響されません。あなたはいつも自由であり、その自由に制限はありません。

1946年1月4日 午後 

 1946年1月3日の午後のデーサーイー夫人の質問へのバガヴァーンの答えに関連して、私は彼に、「本業や専門職というような人の人生における重要な出来事だけあらかじめ決まっているのですか、それとも、一杯の水を手に取ることや、部屋のある場所から別の場所へ移動するというような人生における取るに足りない行為もまたあらかじめ決まっているのですか。

バガヴァーン:
 ええ、あらゆることがあらかじめ決定されています。

私(デーヴァラージャ・ムダリアール):
 では、人はどのような責任、どのような自由意思を持つのですか。

バガヴァーン:
 それでは、体は何のために存在するようになりますか。それはこの人生で遂行されるように選び出された様々な物事を行うために計画されています。全ての計画がチョークで描かれています。「わずかのものもの意思以外によって動かない」は、あなたが「の意思以外によって動かない」、もしくは、「カルマ以外によって動かない」と言おうとも、同じ真理を表します。人の自由に関して言えば、彼には彼自身を体と同一視せず、体の活動の結果起こる苦楽によって影響されない自由がいつもあります。