2013年4月24日水曜日

A.W.チャドウィック少佐の夢 - 夢と目覚めは異なるものか

・チャドウィック少佐の夢の出来事(1954年3月、『The Call Divine』より)

我々は夢と同じ物で作られており、我々の儚い命は眠りと共に終わる(*1)

 シェイクスピアは彼が話していたことについて実際に知っており、単なる詩的な閃きではありませんでした。マハルシはまさに同じことをよく言いました。

 私はバガヴァーンに他の誰よりも多くこのテーマについて質問したと思うのですが、いくらかの疑問はいつも残っていました。一つの疑問が解消されるとすぐに他のものがその代わりに湧き上り、疑いに終わりはないと彼はいつも警告していました。

 「しかし、バガヴァーン」と私は繰り返しました。「夢は分断されていますが、目覚めている経験はそれが終わった所から続き、全ての人によって多かれ少なかれ継続的であると認められています」。

 「あなたはそれを夢の中で言いますか」とバガヴァーンは尋ねたものでした。「その時、夢は完全に首尾一貫したもので、あなたにとって現実的でした。ただ今だけ、目覚めている状態において、その経験の現実性に異議を唱えます。これは論理的ではありません」。

 バガヴァーンは二つの状態の間のわずかの差異も認めるのを拒否し、これに関して彼は偉大なアドヴァイタの預言者たち全てと同意見でした。シャンカラがそれら二つの状態をはっきりと区別していなかったのか尋ねた人もいましたが、バガヴァーンは頑固にそれを否定しました。「シャンカラは、より明確な解説という目的のためだけに、それを行ったようです」とマハルシは説明したものでした。

 どのように私が質問を捻じ曲げても、私が受け取る答えはいつも同じでした。「夢の状態そのものにいる時に、疑問を提起しなさい。あなたが目覚めている時、あなたは目覚めている状態に異議を唱えず、それを受け入れています。あなたが夢を受け入れているのと同じように、あなたはそれを受け入れています。両方の状態と深い眠りを含めた三つの状態を超えて行きなさい。その観点から、それらを検討しなさい。あなたは今、一つの制限を別の制限という観点から検討しています。それより馬鹿げたことがありえますか。全ての制限を超えて行きなさい。その後で、あなたの疑問を持ってここに来なさい」。

 しかし、これにも関わらず、疑問は依然として残っていました。私は夢を見ている時に、その中に何か非現実的なものがあることをなんとなく感じました。もちろんいつもではなく、時々ただ垣間見るだけでしたが。

 バガヴァーンは、「目覚めている状態でも、それはあなたに起こりませんでしたか。時々、あなたが住むこの世界と起こっている物事が非現実的だと感じませんか」と尋ねました。依然として、この全てにも関わらず、疑問は残りました。

 しかし、ある朝に私はバガヴァーンのところへ行き、以下のことを記した紙を彼に渡しました。彼はそれを大変面白がりました。

 私が夢と目覚めている経験の間の類似について、いくつかの疑問を表したことをバガヴァーンは覚えていると思います。朝早く、以下の夢によって、それらの疑問のほとんどは解消されました。その夢はとりわけ客観的で、現実的なように見えました。

 私は誰かと哲学について議論しており、全ての経験は主観的であり、心の外に何もないと指摘しました。別の人は異議を唱え、全てのものがいかにしっかりとしたもので、経験がいかに現実的に見えるか指摘し、単なる個人的な想像のはずがないと言いました。

 私は「いいえ、それは夢に他なりません。夢と目覚めの経験は全く同じです」と答えました。

 彼は「あなたは今、そう言いますが、夢の中ではそのようなことを決して言わないでしょう」と答えました。

 そしてその後、私は目覚めました。

(*1)シェイクスピア作、「テンペスト(あらし)」のプロスペローのセリフ。翻訳はwikipediaにのっているものを使用しています。

2013年4月21日日曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第3章 心の制御

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p12-16

マハルシの福音


第1巻 第3章 心の制御


信奉者:
 どうすれば私は心を制御できますか。

マハルシ:
 自らが実現されるなら、制御するべき心はありません。心が消えるとき、自らが輝き出ます。実現した人の中で、心は活動的であるか活動的でないかもしれませんが、自らのみが存在します。なぜなら、心、体、世界は自らから切り離されておらず、自らと離れたままいることはできません。それらが自ら以外でありえますか。自らを意識しているとき、どうして人がそれらの影について心配しなければなりませんか。どのようにそれらは自らに影響しますか。

信奉者:
 心が影に過ぎないなら、では、どのように人は自らを知ればいいのですか。

マハルシ:
 自らはハートであり、自ら光を放っています。輝きがハートから生じ、心の座である脳に到達します。世界は心で見られています。そのように、あなたは自らの反射した光によって世界を見ます。心の働きによって、世界は知覚されます。心が照らされるとき、心は世界に気づきます。そのように照らされないとき、心は世界に気づきません。

 心が内に、輝きの源に向けられるとき、対象的な知識は止み、自らのみがハートとして輝きます。

 月は、太陽の光を反射することによって輝きます。太陽が沈んだとき、月は物を見せるために役立ちます。太陽が昇ったとき、その円盤は空に見えますが、誰も月を必要としません。心とハートについても同様です。心は、その反射した光によって役立てられます。それは物を見るために使われます。内側に向けられるとき、それは独りで輝く輝きの源に溶け込み、心はその時、日中の月のようです。

 暗いとき、光を当てるために灯火が必要です。しかし、太陽が昇ったとき、灯火の必要はありません。物は目に見えます。そして、太陽を見るために灯火は必要ありません。あなたが自ら光を放つ太陽に目を向けるなら、それで十分です。心についても同様です。物を見るためには、心から反射した光が必要です。ハートを見るためには、心がそれに向けられればそれで十分です。その時、心は重要でなく、ハートが自ら輝き渡っています。

信奉者:
 このアーシュラムを10月に離れた後、10日ぐらいの間、私を包んでいるシュリー・バガヴァーンの面前に広がる存在(the Presence)に気づいてしていました。私が仕事で忙しい間中ずっと、統一のその安らぎの底流がありました。それは、ほとんど、退屈な講義でうとうとしている間に経験する二重の意識のようでした。その後、それは次第に全く消えてしまい、かわりに古くからなじみの愚かさが入ってきました。仕事のために、独立した瞑想のための時間をとれません。仕事の間、「私はいる」と常に自分自身に思い出させることで十分ですか。

マハルシ:
 (少し間をおいて)あなたが心を強くするなら、その安らぎは永遠に続くでしょう。その期間は、修練の反復によって獲得される心の力に比例します。そして、そのような心は流れをつかんでおくことができます。その場合、仕事に従事していても従事していなくても、流れは影響されず、途切れないままにあります。邪魔をするのは仕事ではなく、それをしているのは私だという考えです。

信奉者:
 定められた瞑想は、心を強くするために必要ですか。

マハルシ:
 それはあなたの仕事ではないという考えをいつも念頭に置かないなら(必要です)。最初、あなたがそれを思い出すためには努力を要しますが、後にそれは自然で継続的になります。仕事はひとりでに進むでしょう。そして、あなたの安らぎは途切れないままにあるでしょう。

 瞑想は、あなたの本質です。あなたの気を散らす他の思いが存在するため、あなたは今それを瞑想と呼びます。それらの思いが排除されるとき、あなたは独りでいます-つまり、思いのない瞑想の状態に。そして、それがあなたの本性であり、他の思いを遠ざけることによって、あなたが今、得ようとしているものです。そのように他の思いを遠ざけることが、今、瞑想と呼ばれています。しかし、修練が確固たるものになるとき、本性が真の瞑想として姿を現わします。

信奉者:
 人が瞑想を試みるとき、他の思いがより力強く生じます!

マハルシ:
 ええ、瞑想中、あらゆる類の思いが生じます。それはまったく当然のことです。というのも、あなたの中に隠されているものが持ち出されているからです。もしそれが上がってこないなら、どうやってそれを破壊できますか。いわば自然に思いは上がってきますが、やがては消滅することになるがゆえに、心を強くします。

信奉者:
 夢にいるように、人や物がおぼろげな、ほとんど透明な形をとる時があります。人はそれらを外側として観察するのをやめますが、それらの存在を消極的には意識していて、他方で、どのような類の個人性も積極的には意識していません。心の中には深い落ち着きがあります。人が自らに潜る準備ができているのは、そのような時ですか。それとも、この状態は不健康な、自己催眠の結果ですか。それは一時的な安らぎを生じているとして奨励されるべきでしょうか。

マハルシ:
 心の中に落ち着きを伴った意識があります。これがまさに目指されるべき状態です。それが自らであるということを理解せずに、この点に関して質問がなされているということは、その状態が安定せず、一時的であることを示しています。

 外に向かう傾向があるとき、そのため、心が内に向けられなければならないとき、「潜る」という言葉は適切であり、外部性の水面下に沈むということがあります。しかし、意識を妨げることなく落ち着きが行き渡るとき、どこに潜る必要がありますか。その状態が自らとして実現されていないなら、そうするための努力は「潜る」と呼ばれるかもしれません。この意味おいて、その状態は実現、もしくは、潜るために適していると言われるかもしれません。従って、あなたがした最後の2つの質問は起こりません。

信奉者: 
 おそらく子供の姿が理想の姿を擬人化するためによく使われるため、心は子供たちに対してとりわけ愛着を感じ続けます。

マハルシ:
 自らをつかんでいなさい。どうして子供や彼らに対するあなたの態度について考えるのですか。

信奉者:
 ティルヴァンナーマライへの3度目の訪問は私の中の自我意識を強めたようで、瞑想が前ほど簡単ではなくなりました。これは重要でない一時的な段階ですか、それとも、今後そのような場所を避けるべきであるという兆候ですか。

マハルシ:
 それは想像上のものです。あれこれの場所は、あなたの内にあります。そのような想像は終わらなければいけません。なぜなら、場所それ自体は心の活動と何の関係もないからです。また、あなたの環境も単にあなたの個人的な選択の問題だけではありません。当然のこととして、それはそこにあります。あなたはそれを乗り越えるべきで、それに巻き込まれるべきではありません。

(夕方の5時頃、8歳半の少年が講堂で座っていて、そのときシュリー・バガヴァーンは山に登っていました。がいない間、その少年は純正の簡素な文語のタミル語で、聖者と聖典の言葉から自在に引用してヨーガとヴェーダーンタについて演説をました。45分ぐらい後にシュリー・バガヴァーンが講堂に入ったとき、ただ静寂のみが支配しました。20分間、少年はシュリー・バガヴァーンの面前に座っていました。彼は一言も話さずに、ただをじっと見つめていました。それから、涙が彼の目から流れました。彼は左手でそれを拭い、彼は今なお自らの実現を待ち望んでいると言い、すぐ後、その場を離れました。)

信奉者:
 私たちはどのようにその少年の非凡な特徴を説明すべきでしょうか。

マハルシ:
 彼の最後の生まれの特徴が、彼の中に強くあります。しかし、どれほどそれが強くても、落ち着いた静かな心以外、それは現れません。記憶を蘇えらせようとする試みは時々失敗しますが、心が落ち着き、静かなときに何かが心に閃くことは、みなの経験の内にあります。

信奉者:
 どうしたら私たちは反抗的な心を落ち着かせ、穏やかにできますか。

マハルシ:
 心が消え去るように、その源を見なさい。もしくは、心が打ち倒されるように、あなた自身を委ねなさい。自らの委ねは自らの知と同じであり、そのどちらも自制を暗示します。自我は、それが高き力を認識するときだけ、服従します。

信奉者:
 心を落ち着きなくさせる本当の原因のように思えるサンサーラ(*1)から、どうしたら私は逃れられますか。放棄は、心の平穏を実現するための効果的な手段ではないのですか。

マハルシ:
 サンサーラは、あなたの心の中だけにあります。世界は、「ここに私はいるぞ、世界だ」と言って大声で話しません。仮に世界がそうするなら、世界は常にそこにあり、あなたが眠っているときでさえ、その存在をあなたに感じられるようにするでしょう。しかしながら、眠っているとき、世界はそこにないので、それは永続的でありません。永続的でないので、それは実体を欠いています。自らと離れて現実性を持たないため、それは自らによってたやすく征服されます。自らのみが永続的です。放棄とは、自ら自らでないものとの非同一視です。自ら自らでないものと同一視する無知が取り除かれるとき、自らでないものは存在することをやめます。そして、それが真の放棄です。

信奉者:
 そのような放棄がないときでさえ、私たちは愛着なく行為を行えないのでしょうか。

マハルシ:
 アートマ・ジニャーニのみが、良いカルマ・ヨーギになれます。

信奉者: 
 バガヴァーンは、ドゥヴァイタ(*2)の哲学を批判しますか。

マハルシ:
 ドゥヴァイタは、あなたが自ら自らでないものと同一視するときだけ存続できます。アドヴァイタ(*3)は、非同一視です。

原注:
(*1)サンサーラ・・・世俗的な活動の状態、もしくは現世の存在
(*2)ドゥヴァイタ・・・二元性、二元論の教義
(*3)アドヴァイタ・・・非二元性、非二元論の教義

2013年4月16日火曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第4章 バクティとジニャーナ

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p17-18

マハルシの福音


第1巻 第4章 バクティとジニャーナ


信奉者:
 『シュリー・バーガヴァタ(*1)』は、全てにひれ伏し、全てを主ご自身として見ることによって、ハートの中にクリシュナを見つける方法のあらましを述べています。これは自らの実現に通じる正しい道ですか。そのように、「心」が出会うどのような物の中にでもバガヴァーンを敬慕することは、「私は誰か」という心の問いを通じて心を超越したものを探し求めるより、簡単ではありませんか。

マハルシ:
 ええ、あなたが全ての中に神を見るとき、あなたは神のことを思っていますか、それとも、思っていませんか。あなたの周り一面に神を見るためには、あなたは必ず神のことを思わなければいけません。あなたの心の中に神を留めておくことはディヤーナになり、ディヤーナは実現の前段階です。実現は、ただ自らのその中にのみあることができます。それは決して自らと離れていることはできません。そして、ディヤーナはそれに先立たなければなりません。あなたが神にディヤーナをしても、自らにしても、それは重要ではありません。なぜなら、目的は同じだからです。あなたは決して自らから逃れることはできません。あなたは全ての中に神を見たいと思いますが、あなた自身の中には見たいと思いませんか。全てが神であるなら、あなたはその全ての中に含まれていませんか。あなた自身が神であるなら、全てが神であることは不思議なことですか。これが『シュリー・バーガヴァタ』や他の人々によって別のところで勧められる方法です。しかし、この修練にとってさえ、見る者や考える者がいるはずです。それは誰ですか。

信奉者:
 全てに行き渡っている神をどうやって見るのですか。

マハルシ:
 神を見ることとは、神でいることです。から離れてが行き渡る「全て」はありません。のみがいます

信奉者:
 私たちは時々、『ギーター』を読むべきでしょうか。

マハルシ:
 いつも。

信奉者:
 ジニャーナとバクティはどのような関係ですか。

マハルシ:
 自らに住まうという永遠で途切れのない自然な状態が、ジニャーナです。自らに住まうには、あなたは自らを愛さなければなりません。神はまさしく自らであるため、自らへの愛は、神への愛です。そして、それがバクティです。ジニャーナとバクティは、そのように全く同じものです。

信奉者:
 1時間かそれ以上ナーマ・ジャパをしている間、私は眠りのような状態に陥ります。目覚めるとすぐ、私はジャパが中断されていたことを思い出します。それで、私は再び試みます。

マハルシ:
 「眠りのような」、それは的を得ています。それは自然な状態です。あなたは今、自我と関わっているため、その自然な状態があなたの仕事を中断するものだと思います。ですから、それが自分の自然な状態だとあなたが悟るまで、あなたはその体験を繰り返し経験しなければなりません。あなたはその時、ジャパが外側にある(無関係だ)と気づくでしょうが、それでもジャパは自動的に継続するでしょう。あなたの現在の疑いは、誤った自己認識、つまりは、そのジャパをする心とあなた自身を同一視するという(誤った自己認識)のためです。ジャパは、他の全ての思いを排除して、一つの思いにしがみつくことを意味します。それがその目的です。それは、自らの実現、ジニャーナに帰着するディヤーナに通じます。

信奉者:
 どのように私はナーマ・ジャパを続けるべきでしょうか。

マハルシ:
 人は献身の気持ちなく、機械的に軽々しく、神の名を使うべきではありません。神の名を使うためには、人は慕い憧れる気持ちでに呼びかけ、に自分自身を無条件で委ねなければいけません。そのような委ねの後にのみ、神の名は常にその人と共にあります。

信奉者:
 探求、ヴィチャーラの必要性は、では、どこにありますか。

マハルシ:
 委ねが効果を発揮できるのは、真の委ねが意味することに関する十分な知識を持って、それが行われる時だけです。そのような知識は探求と熟考の後に現われ、常に自らの委ねに帰着します。ジニャーナと主への絶対的な委ねの間に違いはありません、つまり、思いと言葉と行為において。完全であるには、委ねは何の疑問も持たないものでなければなりません。信奉者は主と駆け引きしたり、からの好意を要求したりできません。そのような完全な委ねは、全てを含んでいます。それはジニャーナとヴァイラーギャ、献身と愛です。

(*1)シュリー・バーガヴァタ・・・「バーガヴァタ・プラーナ」または、「シュリーマッド・バーガヴァタム」などとも呼ばれる。ヴィシュヌ(ナーラーヤナ)の化身クリシュナへのバクティに主眼を置いている
 

2013年4月7日日曜日

バガヴァーン・ラマナが説く、『バガヴァッド・ギーター』の真の教え

◇『Ramana Smrti-Sri Ramana Maharshi Birth Centenary Offering』、p36~42

バガヴァーン・ラマナとバガヴァッド・ギーター

G.V.クルカルニ教授

 『バガヴァッド・ギーター』は、ヒンドゥー教の主要な聖典(プラシュターナ・トゥライー(*1)、三つの権威)の一つであるとよく知られています。それは普遍的な聖典であり、「神の歌」です。

 バガヴァーン・ラマナは、ギーターと聖書は一つであり、ギーターを常に読むべきであるとよく言っていました。彼は探求者の様々な質問への答えに、しばしばギーターから詩節を引用し、それらを彼独自の真似できない光明を投じる方法で解説しました。

 彼がギーターの教えに投げかけた光はまったく独特で、極めて明快で、とても洞察力に富んだものです。これはおそらく彼がその聖典すべてを生き、それゆえ、それをバガヴァーン・シュリー・クリシュナ、もしくは、ジニャーネーシュワラ(*2)のように明確に解説する権威をもっていたからです。彼は言葉の上の博識からでなく、自分自身の絶対的な直接体験から語りました。

 バガヴァーンは信奉者により、簡潔にギーターの内容を教えてくださいと頼まれました。彼は42詩節を選び、導きとして役立つように適切な順序に並べました。別の信奉者は700詩節すべてを暗記しておくのは難しいと不満をいい、ギーターの要点として覚えておける1詩節がないのか尋ねました。即座に、バガヴァーンは第10章・20詩節に言及しました。

Aham Atma, Gudakesa, Sarvabhutashayasthitah Aham
Adischa Madhyam cha bhutanam anta eva cha

私は自らであり、おお、グダケーシャ(*3)全存在のハートに住する
私は全存在の始まりであり、中間であり、終わりである

 別の時、バガヴァーンは信奉者の質問へ答えて、ギーターの目的を要約しました。

信奉者:
 ギーターは、カルマを強調してるようです。というのも、アルジュナは戦うように説得されました。シュリー・クリシュナ自身が、偉大な功績のある活動的な人生によってその例を示しています。

マハルシ:
 ギーターは、あなたが体でなく、それゆえ、カルタ(行為者)でないと言うことによって始まっています。

信奉者:
 その意義は何ですか。

マハルシ:
 人は自分自身が行為者であると思わずに行為すべきであるということです。人は何らかの目的のために現れ来ています。その目的は、人が自分自身を行為者であると思っても、思わなくても達成されます。

信奉者:
 カルマ・ヨーガとは何ですか。

マハルシ:
 カルマ・ヨーガとは、人が不遜にも行為者であるという役割を称さないヨーガです。行為は自動的に進んでいきます。

信奉者:
 行為の結果への無執着ではないのですか。

マハルシ:
 行為者がいる場合にのみ、その質問は起こります。あなた自身を行為者とみなすべきでないと至る所で言われています。

信奉者:
 初めから終りまで、ギーターは活動的な人生を説いています。

マハルシ:
 そうです、行為者のいない行為です。バガヴァーン・シュリー・クリシュナはそのようなカルマ・ヨーギの理想的な例です。

マハルシはそれを次のように明らかにしました:
 自らは彼のシャクティによって全世界をそうあるように創造しますが、彼自身は行為しません。シュリー・クリシュナは、『バガヴァッド・ギーター』の中で「私は行為者でないが、行為は進んでゆく」と言います。「マハーバーラタ」から、とても素晴らしい行為が彼により果たされたのは明らかです。しかし、彼は彼が行為者でないと言います。それは太陽と世界の行為のようです。

 ギーターには、一般的な読者を困惑させる、ある見かけ上の矛盾があります。マハルシは彼の答えの中でそのような矛盾を取り除きます。

質問に返答して、彼は言いました:
 答えは探求者の能力に応じることになります。ギーターの第2章では「誰も生まれておらず、死んでいない」と言われてますが、第4章ではシュリー・クリシュナは、彼とアルジュナの無数の転生が起こり、すべて彼には知られているが、アルジュナには知られていないと言います。どちらの言明が真実ですか。両方の言明は真実ですが、(それらは)異なる立場から(なされているの)です。さて、質問が提起されています。「どうしてジーヴァが自らから生じうるのか」。ただ、あなたの真の存在を知りなさい。そうすれば、あなたはその質問を提起しません。どうして人は自分自身を分離しているとみなすのですか。「生まれる前にどうあったのか、死後にどうなるのか」。そのような議論でどうして時間を無駄にするのですか。深い眠りの中であなたの形は何でしたか。どうしてあなたは自分自身を個人であるとみなすのですか。

別の機会に信奉者がマハルシに尋ねました:
 どうしてクリシュナは「数回の転生の後、探求者は(真の)知を得て、私を知る」と言ったのですか。段階を追っての発展があるはずです。

マハルシは答えました:
 『バガヴァッド・ギーター』はどのように始まりますか。「私も、あなたも、これらの首長もいなかった。それは生まれておらず、死ぬこともない」。ですから、あなたが見るような誕生もなく、死もなく、現在もありません。現実が(かつて)あり、(現在)あり、(これからも)あります。それは不変です。後に、アルジュナはシュリー・クリシュナに、どうしてアーディティヤ(*4)の前に存在しえたのか尋ねました。それで、クリシュナはアルジュナが彼を粗雑な体と混同しているのを見て、それに応じて彼に語りました。教えは多様性を見る者のためにあります。実際、彼自身やその他の人にとっても、ジニャーニの立場からは束縛もなく、ムクティもありません。アバヤーサ(修練)は本来的な安らぎの妨げを防ぐためだけにあります。年月の問題はありません。この瞬間にその思いを防ぎなさい。アバヤーサをしようが、しまいが、あなたは自らの自然な境地にのみいます。

 ここで、マハルシは彼の有名な言明である「あなたはすでに実現されています」に言及しています。人々は一般的にシュリー・クリシュナを人格神とみなしています。彼らは主の身体的形態を過度に強調しています。彼らによると、彼はヒンドゥー教の神話上の神です。そして、そのようにして彼らはギーターの真の教えを見逃しています。シュリー・クリシュナはギーターを通じて彼自身について何と言っているでしょうか。バガヴァーンは明確にこの疑問を取り除き、シュリー・クリシュナの本質を説きます。彼は、第11章に描かれている彼(クリシュナ)によりアルジュナに示された広大無辺の形の限界さえ指摘します。

 かつて信奉者が、「ラホールに11才の女の子がいます。彼女は全く並外れています。彼女が言うには、彼女はクリシュナに2度呼びかけ、意識あるままで留れますが、彼に3回呼びかけるなら、彼女は無意識となり、10時間続けて恍惚状態に留まります」と言いました。

 マハルシは、「あなたがクリシュナは自分と異なると思う限り、あなたは彼に呼びかけます。恍惚状態に陥ることは、サマーディの不安定性を示しています。あなたは常にサマーディにいます。それが実現されるべきものです。神の映像(ヴィジョン)とは、自分自身の信仰の神として対象化された自らの映像でしかありません。自らを知りなさい」と言いました。

 別の信奉者が「ヴィシュヴァルーパ(*5)とは何ですか」と尋ねました。

マハルシ:
 それは神である自らとして世界を見ることです。『バガヴァッド・ギーター』では、神は様々な物と存在であり、全世界でもあると言われています。どのようにそれを実現し、そのようにそれを見るべきですか。人は自分自身の自らを見ることができますか。

信奉者:
 それでは、それを見たという人がいると言うのは間違いですか。

マハルシ:
 あなたが存在するのと同じ程度、それは真実です。実現は完全性を意味します。あなたが制限されている時、あなたの知識はそのように不完全です。ヴィシュヴァルーパ・ダルシャンで、アルジュナは彼が望んだものを何でも見るように言われましたが、彼の前に提示されたものではありませんでした。そのダルシャンが、どうして現実であると言えますか。

 別の機会に、信奉者が「ディヴィヤ・チャクシュ(神の目)は、神の栄光を見るために必要ですか。この身体的な目は、普通のチャクシュです」と尋ねました。

マハルシ:
 ああ、なるほど!あなたは百万の太陽の光輝といったものを見たいのですね。

信奉者:
 栄光を百万の太陽の光輝として見ることはできませんか。

マハルシ:
 あなたは一つの太陽を見ることができますか。どうして何百万の太陽を求めるのですか。

信奉者:
 神の目によって、そうすることが可能なはずです。

マハルシ:
 わかりました。クリシュナを見つけなさい。そうすれば、問題は解決されます。

信奉者:
 クリシュナは生きていません。

マハルシ:
 それはあなたがギーターから学んだことですか。彼は自分自身が永遠であると言いませんか。あなたが考えていることは何についてですか。彼の体ですか。

信奉者:
 彼は生きている間に他者に教えました。彼の周りにいる人々も悟ったに違いありません。私は似たような生きているグルを見ています。

マハルシ:
 では、ギーターは彼が体を隠した後、役に立たちませんか。彼は自分の体をクリシュナとして話しましたか。「私は存在しておらず、、」

 後に、シュリー・バガヴァーンは、神の目が自らの輝きを意味し、その言葉すべては自らを意味していると言いました。この対話で、バガヴァーンはとても論理的に、そして容赦なくクリシュナの本質についての一般的な無知を取り除き、彼が遍く行き渡る自らであり、ハートに住んでいることを明確に示しました。

 ギーターで与えられるカルマ、バクティ、(ディヤーナを含む)ジニャーナの三つのヨーガは、異なる気質をもつ探求者のためのものであるとマハルシは言います。カルマ・ヨーガは、活動的な気質を持つ人のためです。それは探求者の中の行為者性の概念を排除するように意図されています。バクティ・ヨーガは、力強い感情を持つ人のためにあります。それは自我を神への至高の献身に溶け込まします。ジニャーナ・ヨーガは、自らの探求ができる理性と理解力を持つ人のためにあります。心がさ迷う時、心は制御され、自らに引き戻されねばなりません。それは個別の「私」、虚偽の自我を排除します。これは真っ直ぐな道であり、他の全てのヨーガは究極的にそれに通じます。偽りの自我が理解され、それゆえに取り除かれる時、現実が自動的にそのまったき栄光で輝きます。この真理を理解し、それを今ここで体験することがギーターの教えの目的であるとバガヴァーンは言います。

 聖者ジニャーネーシュワラの言葉に、「大地を黄金にすること、望みをかなえる宝石でできた偉大な山々を創り出すこと、七つの海を神酒で満たすことはたやすい。しかし、ギーターの極意を示すことは難しい」とあります。バガヴァーン・ラマナはまさしくこれを行いました。それが彼の主要な教えである「あなたが誰か知るか、もしくは、委ねなさい」と一致していることに不思議はありません。

 偉大なアーディ・シャンカラからラナデ博士、スワーミー・スワルーパナンダまで、多くの学者と聖者がギーターに関する書籍を記しました。この華やかな集まりの中で、わずかな言葉で言い表わされているにも関わらず、バガヴァーン・ラマナのギーターへの貢献は並外れており、原文に忠実です。それは普遍的であると同時に、時間と空間の範疇を超えていますが、人の日常生活において実践的です。

 我々がこの真理を理解し、それを今ここで体験するために、彼の恩寵と祝福を我々みなに注いで下さるように、この百年の生まれの間、彼に祈りましょう。彼に千のプラナーム(礼拝)を!

(*1)プラシュターナ・トゥライー・・・文字通りの意味は「三つの源」で、特にヴェーダーンタ学派の3つ聖典①ウパニシャッド、②ブラフマ・スートラ、③バガヴァッド・ギーターを意味する。
(*2)ジニャーネーシュワラ(ディヤーネーシュワラ)・・・13世紀のマハーラーシュトラの聖者、詩人。「バガヴァッド・ギーター」の注釈書であるディヤーネーシュワリ(もしくは ジニャーネーシュワリ)を記した。
(*3)グダケーシャ・・・グダカは「眠り」を意味し、眠りを征服した者がグダケーシャと呼ばれる。「眠り」は真理への無知を象徴している。
(*4)アーディティヤ・・・天空の女神、神々の母アーディティの子孫。ヴェーダーンタではヴィシュヌの別名。
(*5)ヴィシュヴァルーパ・・・「広大無辺な形、遍く行きわたる姿」。ヴィシュヌ神、もしくはその化身クリシュナの顕現した姿。

http://benegal.org/ramana_maharshi/books/bc/bc007.htmlからの翻訳です。上の文章に引用されている対話や答えは『Talks with Sri Ramana Maharshi』からの引用であり、Talksの引用箇所を参照して、多少翻訳を変更している部分があります。