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2014年3月1日土曜日

バガヴァーンの言葉 - 1918年、C.V.スブラマニア・アイヤルの記録

◇「山の道(Mountain Path)」、1979年7月 p157~158

 バガヴァーンの言葉


 1918年6月、チットゥール県のC.V.スブラマニア・アイヤルにより記録されました。
  1. 心を内に向け、あなた自身の自らに安らいなさい。
  2. 心が束縛の原因です。
  3. 一つまた一つと放棄し、安らぎに留まりなさい。
  4. 我々が得るものを我々は失います。それゆえに、欲するなかれ。
  5. 二種類の瞑想があります。一つは進んだサーダカによって修練されるニルグナ・ディヤーナであり、彼は瞑想する者自身を知ろうと努めます。もう一種類は、それより進んでいない人々により修練されるサグナ・ディヤーナであり、いくぶん回り道です。そこでは、瞑想者、瞑想、瞑想の対象が究極的には一つに溶け込みます。
  6. 「私は決して生まれていなかった」と知るようになる時、私は決して死にません。死は生まれる者にとってあります。私は決して生まれませんでした。私は体を持たず、それゆえ、私は決して死にません。私はあらゆる所にいます。私がどこに行くことができ、どこに来ることができますか。
  7. 心が死んでいる時、彼は再び死にません。
  8. ジャグラート(目覚め)においてスシュプティ(眠り)を得なさい。そうすれば、あなたはジニャーニとなります。
  9. 心を内に向け、見る者を探しなさい。そうすれば、あなたはあなたが見る者であり、対象的世界は存在しないということを見出します。
  10. 心はそれ自身を主体と対象-見る者と見られるもの-に分けました。それゆえ、名と形からなる外側の世界は独立して存在しません。
  11. ジーヴァは、心に映ったブラフマンの影です。
  12. 人は前世において多くのカルマを行ったかもしれません。その中の少しだけ、今世のために選ばれ、彼は今世においてその結果を享受しなければなりません。それは幻灯機による興行のようであり、興行師は上映で披露されるスライドを少しだけ選び、残りのスライドは他の上映のためにとっておかれます。しかし、自らの知を得ることにより、カルマを滅ぼすことは可能です。カルマは過去の経験の結果であり、様々なカルマはスライドです。そして、心が投影機です。カルマは破壊されねばならず、そうすれば、映像もなく、サンサーラもありません。
  13. 私は心の支配者です。私は心ではありません。たいていの人々は心を自らとみなし、彼ら自身に苦しみをもたらします。
  14. グルは人にとって必要です。彼は実現への道の導き手として役立ちます。しかし、導くグルなくして真理を知った人々もいます。そのような人々は過去の転生において学んだに違いありません。一言か、二言で実現の道に向けるのに十分な人々もいれば、一方、どのような進歩をしうる前に何年も努力して進まなければならない人々もいます。
  15. ディヤーナは真理の実現のために必要です。全ての人が目的に達するために敷かれた道-ヨーガ、バクティ、ジニャーナ-の中で、彼らに合うものを選ばねばなりません。ヴィチャーラもまたヨーガであり、単なる書籍の学習ではありません。
  16. ジーヴァが彼自身をパラブラフマンとして知り、安らぎに留まる時、それが至高の沈黙(モウナム)です。
  17. 自らは不変です。全ての変化は心の変化です。アヴィドヤー(無知)を通じ、心の変化がアートマンに帰せられます。
  18. 砂糖でできたお菓子を見てみなさい。ナスの形のものもあれば、マンタパムや馬のように形作られているのもありますが、それら全ては一つの材料、砂糖からできています。同じように、この世界の対象物は様子や大きさ、または名や形は様々ですが、全てはブラフマン以外の何ものでもありません。
  19. アーシュラマ(グリハスタやブラフマチャーリヤのような人生の段階)は肉体に関連してのみ存在します。アートマンにはアーシュラマはありません。
  20. 「どうして人は幻の支配下にいなければならないのですか」という質問にバガヴァーンは、「幻を持つのは誰か探求しなさい。そうすれば、あなたは幻が存在しないことを見出します」と答えました。
  21. あなたは恐怖を持つべきではありません。なぜなら、アートマンはあらゆる所にあり、あなたはアートマンだからです。分離の感覚がある時に、恐怖が生じます。
  22. アドヴァイタ哲学のみが全ての試験に首尾よく耐えられます。他の学派は、それら自身の理論に合わせるためにヴェーダの聖句を無理に曲げています。
  23. 人は超常的な力を望みますが、彼らが得るものを彼らはいつの日か失わなければなりません。その力を求めることは、あなたがその力を得ようと試みる力よりも、あなたが劣っていることを暗示します。心の全ての働きは、あなたを束縛の状態に留めようとします。それゆえ、欲望を放棄し、何ものにも依存しないように。なぜなら、あなた自身が力と至福の貯蔵庫であるからです。他の一切のものを放棄し、あなたの心を安らぎに留めなさい。

2013年12月10日火曜日

トゥリーヤ(第四の状態)、儀式の必要性、ジニャーナと他者の苦しみ

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p92~97

 多少訳を変更して、読みやすいように対話形式にしています。(文:shiba)

46年1月5日 午後 

 私が講堂に入った時、バガヴァーンは何かの質問に答えていました。

バガヴァーン:
 夢が短く、目覚めが長いという以外、夢と目覚めの状態の間に相違はありません。共に心の結果です。目覚めの状態が長いので、我々はそれが我々の真の境地であると想像します。しかし、実際、我々の真の境地とはトゥリーヤ、または、第四の状態と時に呼ばれるものであり、いつもあるがままにあり、三つのアヴァスター(*1)、すなわち、目覚め、夢、眠りについて何も知りません。我々がそれら三つをアヴァスターと呼ぶので、我々は第四の状態もまたトゥリーヤ・アヴァスターと呼びます。しかし、それはアヴァスターではなく、自らという真の自然な境地です。これが実現される時、我々はそれがトゥリーヤでも、第四の状態でもなく-なぜなら、第四の状態は相対的なものに過ぎません-、トゥリーヤーティータ、第四の状態と呼ばれる超越的な境地であると知ります。

訪問者:
 聖職者は様々な儀式やプージャー(*2)を定め、人々は断食期間や祭日などにそれらを適切に行わなければ、罪が生じるなどと言われます。そのような儀式や儀式的崇拝を行う必要がありますか。

バガヴァーン:
 ええ。そのような全ての儀式もまた必要です。それはあなたには必要ではないかもしれません。しかし、そのことは、それが誰にとっても必要ではなく、全く役に立たないということを意味しません。幼児教室の生徒に必要なものは、大学院生には必要ありません。しかし、大学院生さえも幼児教室で彼が習ったまさにそのアルファベットを使わなければなりません。今や、彼はアルファベットの使い方と意義を十分に知っています。

訪問者:
 私はオームカーラ(*3)・プージャーをします。私はオーム・ラムと言います。それは良いことですか。

バガヴァーン:
 ええ。どのようなプージャーも良いのです。オーム・ラムや他のどのような名前も役に立ちます。肝心なことは、オーム、ラム、神という一つの思い以外の他の一切の思いを遠ざけることです。全てのマントラ、ジャパはその手助けをします。例えば、ラムのジャパをする人は、ラーマ・マヤ(*4)になります。崇拝する者が、やがては崇拝されるものになります。その時になってはじめて、彼は彼が繰り返し唱えていたオームカーラの完全な意味を知ります。

 我々の本質はムクティです。しかし、我々は我々が束縛されていると想像していて、我々がその間中ずっと自由であるにもかかわらず、自由になるために様々な骨の折れる試みを行っています。これは我々がその段階に達した時にのみ理解されます。我々は、我々がいつも我々であったもの、そして、(今も)我々であるものを得ようと必死に試みていたことに驚きます。

 一つの例によって、これが分かりやすくなるでしょう。ある人がこの講堂で眠りに落ちます。彼は世界旅行に出かけた夢を見て、山や谷、森や国、砂漠や海を放浪し、様々な大陸を越え、長い年月の難儀な骨の折れる旅の後、この国に戻り、ティルヴァンナーマライに到着し、アーシュラムに入り、講堂に歩み入ります。ちょうどその時、彼は目を覚まし、彼が少しも動いておらず、彼が横たわった場所で寝ていたことに気づきます。彼は大変な努力の後でこの講堂に帰ってきたわけではなく、講堂に今も、そして、いつもいました。それはまさにそのようなのです。「自由であるのに、どうして我々は我々が束縛されていると想像するのですか」と問われるなら、私は、「講堂にいるのに、どうしてあなたは自分が山や谷、砂漠や海を越え、世界を冒険していると想像したのですか。それはすべて心、もしくは、マーヤーです」と答えます。

シュリー・オウロビンドー・アーシュラムから来たという訪問客:
 しかし、我々は世界の中で苦しみを見ます。ある人は空腹です。それは身体的な現実です。それは彼にとってとても現実的です。我々はそれを夢であると呼び、彼の苦しみに心動かされずにいるべきなのですか。

バガヴァーン:
 ジニャーナや現実(*5)の視点からは、あなたが言う苦しみは確かに夢です。それは世界と同じく夢であり、苦しみは世界のごくわずかの部分です。夢の中でも、あなた自身が空腹を感じます。あなたは他の人が空腹で苦しんでいるのに気づきます。あなたは食事をとり、憐れみに心動かされ、あなたが空腹で苦しんでいると気付いた他の人に食事を与えます。夢が続く限り、その一切の苦しみは非常に現実的です。あなたが今、世界で見る苦しみを現実的であると思うのと同じです。目覚めて初めて、あなたは夢の中の苦しみが現実でないと発見します。あなたはたっぷり食べて、眠りについたかもしれません。あなたは夢を見て、灼熱の太陽が一日中照りつける中で激しく長時間働き、疲れて空腹で、たくさん食べたいと思います。その時、あなたは目覚め、お腹一杯でベッドから動いていないことに気付きます。

 しかし、今述べたこと全ては、あなたが夢にいる間に、あなたがそこで感じる苦しみが現実でないかのようにあなたが振る舞ってもいいと言わんとしているのではありません。夢の空腹は夢の食べ物で満たされねばなりません。あなたがとてもお腹が減っていると夢で気付いた仲間には、その夢の中で食べ物が与えられなければなりません。あなたは、二つの状態、夢と目覚めの状態を決して混ぜることはできません。

 あなたがジニャーナの境地に達するまで、従って、このマーヤーから目覚めるまで、あなたが苦しみを見る時はいつでも、苦しみを和らげることによって社会的な奉仕をしなければなりません。しかし、その時でさえ、我々が教わっているように、アハンカーラ(*6)なしに、つまり「私が行為者である」という実感なしに、「私は主(神)の道具である」と感じながらそれを行うべきです。

 同じように、あなたは、「私は自分より下にいる人を助けている。彼は助けが必要だ。私は助ける立場にいる。私は優れていて、彼は劣っている」と思いあがってはいけません。そうではなく、あなたはその人の内にいる神を崇拝するための手段として助けなければいけません。そのような奉仕すべては自らのためでもあり、他の誰のためでもありません。あなたは他の誰でもなく、ただあなた自身のみを助けているのです。

 ラーマチャンドラ・アイヤルがこれに関連して、『エイブラハム・リンカーンの古典的な例があります。彼は豚が溝から出るのを助け、その過程で彼自身と彼の服を汚してしまいました。彼がどうしてそんなにも労を費やしたのか尋ねられた時、彼は、「私は豚の問題を終わらせるためというよりもむしろ、気の毒な生き物が溝から出ようともがいているのを見るという自分自身の苦しみを終わらせるためにそれをしました」と答えました』と言いました。

ジョーシー氏:
 私は世帯主です。私には精神的成長の妨げになる扶養家族と障害となるものがあります。私はどうすべきでしょうか。

バガヴァーン:
 その扶養家族と障害となるものがあなたの外にあるのか、それらがあなたの内に存在するのか確かめなさい。

ジョーシー氏:
 私は初心者です。私はどのように始めるべきでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたは今どこにいますか。どこに目的地がありますか。歩まれねばならない距離はどれほどですか。自らは到達されるべきどこか遠くにありません。あなたはいつもそれです。あなたはただ、あなたの習慣、あなた自身を自らでないものと同一視する長年の習慣をやめさえすればいいのです。一切の努力はそのためだけにあります。心を外に向けることにより、あなたは世界、自らでないものを見つづけています。あなたが心を内に向けるなら、あなたは自らを見ます。

 この教えの後、ローカンマがタミル語の歌を歌い始めました。バガヴァーンはすぐに、「母はこの歌をたびたび歌っていました。これは私が今話してきたまさにそのことを繰り返しています」と言いました。そこで直ちに、私はバガヴァーンに誰がその歌の作者なのか尋ねました。

 彼は、「アヴダイ・アンマル(*7)です。彼女は非常に多くの歌を作りました。それらはその地域(マドゥライや近辺の他県)では非常に人気があります。それらのいくつかは出版されています。しかし、とても多くが出版されないままです。それらは口頭で世代から世代へ、主に女性を通じて受け継がれています。彼女達は他の人から歌を聞き、すでに歌を知っている人たちと一緒に歌い、歌を暗記します」と言いました。私は今、バガヴァーンの母親が読み書きができなかったことを知りました。バガヴァーンは私に、「それにも関わらず、彼女はとてもたくさんの歌を暗記していました」と言いました。以下に、その歌とその意味が記されます。

どうして常にある自らが
自覚かつ至福が
どうしてそれが今まで、あたかも
これを忘れていたかのように振る舞ったのか
不可思議の中の不可思議、理解を越えているのは
あなたのおかしな恐れ
私の白鳥、私のかわいい人
私へのあなたの恐れ!
心は学び、知り、忘れ
体はもうけられ、生まれ、死ぬ
どこからこの不浄が清浄の中に?
大、小、階級、地位、光景、見る者-
どうしてこの薄暗がりの波が深淵なる至福の海の中に?
言葉も沈黙の誓いも必要ない
行くことも来ることもなく、始まりも終わりも中間もない
光もなく、音もない、性質もない
分離もなく、それゆえ、恐れもない
おお、不可思議の中の不可思議、夢の中のように見える物事!
内と外、高い低い、十方向すべては
無限に広大な光の中に失われた
壊れない、支えられていない、完全で穏やかな
純粋な自覚、不変の至福
かつては遠い目的地に思い焦がれていた
今やここに、歓喜が、歓喜が!

(*1)アヴァスター・・・状態
(*2)プージャー・・・神などを崇拝するヒンドゥー教の祈りの儀式。
(*3)オームカーラ・・・文字通りは、「オームの音節」
(*4)ラーマ・マヤ・・・「ラーマで満ちたもの」、「完全なラーマ」。
(*5)現実・・・英語のthe realityの訳。「真実」とも訳せますが、夢との比較で現実と訳しています。
(*6)アハムカーラ・・・「自我への同一化、愛着」。カーラは「創造されたもの」「すること」を意味する。
(*7)アヴダイ・アンマル・・・2010年1月号の「The Mountain Path」のp17に「Avudai Akka of Chengottai 」という記事があります。

2013年12月5日木曜日

マーヤーの五つの名、世界(波)とアートマ・スワルーパ(海)

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

1947年5月21日
(119)ニディディヤーサナ 

 昨日の朝8時、Arya Vignana Sanghaで働き、バガヴァーンの弟子の一人であるサイード博士が、バガヴァーンのダルシャンのためにやって来て、「バガヴァーンは全世界がアートマ(自ら)というスワルーパ(*1)であると言います。もしそうなら、我々はどうしてこの世界にとても多くの問題を見出すのですか」と尋ねました。喜びを表す顔つきで、バガヴァーンは答えました。

バガヴァーン:
 それはマーヤーと呼ばれています。『ヴェーダーンタ・チンターマニ』で、マーヤーは五つの方法で描かれています。ニジャグナ・ヨーギ(*2)という名の人が、カナラ語でその本を書きました。その中でヴェーダーンタがとても適切に扱われており、ヴェーダーンタの学術用語の権威であると言えます。タミル語の翻訳があります。

 マーヤーの五つの名は、タマス、マーヤー、モーハ、アヴィドヤー、アニティヤです。タマスは、生命についての知識を隠すものです。マーヤーは、世界の形である一者(神)を世界と異なるように見せることに責任があります。モーハは、異なるものを現実にみせるものです-スクティ・ラジャタ・ヴァバティ(*3)、真珠母貝が銀でできているという幻を作りだすこと。アヴィドヤーは、ヴィドヤー(知)を台無しにするものです。アニティヤは、一時的なもの、永遠であり、現実であるものと異なるものです。 

 これらの五つのマーヤーのため、スクリーン上の映画の映像のように、問題がアートマの中に現れます。そのマーヤーを取り除くためだけに、全世界がミティヤ(*4)であると言われています。アートマンはスクリーンのようです。あなたが映される映像がスクリーンに依存していて、別なように存在していないということを知るようになるのとまさしく同様に、目に映る世界がアートマと異ならないということを自らの探求によって知ることができるまで、世界はまったくのミティヤ(*5)であると言わざるを得ません。しかし、いったん現実が知られるなら、全世界はアートマのみとして現れます。それゆえ、世界が非現実であると言ったまさにその人々が、続いてそれがアートマ・スワルーパのみであると言ったのです。結局のところ、重要なのは見かたです。見かたが変われば、世界の問題は我々を悩ませません。波は大海と異なりますか。いったいどうして波が起こるのか。尋ねられるなら、どのような答えができますか。波は行き来します。それらがアートマと異ならないということが見出されるなら、この悩みは存在しません。

 その信奉者は悲しげな口調で、「いくらバガヴァーンが我々に教えても、我々は理解できません」と言いました。

バガヴァーン:
 人々は遍く行き渡るアートマを知ることができないと言います。私に何ができますか。ほんの小さな子供さえも、「僕がいる。僕がやる。これは僕のものだ」と言います。ですから、全ての人が「私」というものがいつも存在していることを理解しています。その「私」がそこにある時のみ、あなたが体であり、彼はヴェンカンナです、私はラマンナです、というような実感がそこにあります。常に目に映る一者(神)が自分自身であるということ知るために、蝋燭を持って探す必要がありますか。我々が自分自身の中にあり、異なるものでないアートマ・スワルーパを知らないと言うことは、「私は私自身を知りません」と言うようなものです。

信奉者:
 それは、シュラバナ(*6)とマナナ(*7)によって目覚め、目に映る全世界をマーヤーに満ちていると見る人たちが、究極的にはニディディヤーサナ(*6)によって真のスワルーパを見つけるという意味です。

バガヴァーン:
 ええ、そうです。ニディはスワルーパという意味です。ニディディヤーサナは、グルの言葉のシュラバナとマナナの助けと共に、スワルーパに強く集中する行為です。それは、逸れることのない熱意をもって、それに瞑想することを意味します。長いあいだ瞑想した後で、彼はそれに溶け込みます。その時、それがそのものとして輝きます。いつもそこにそれはあります。人がそれをあるがままに見られるなら、この種の問題はありません。常にそこにある自分自身を見るために、どうしてこんなにも多くの質問がいりますか。

(*1)スワルーパ・・・(自分自身の)本質
(*2)ニジャグナ・ヨーギ・・・ニジャグナ・シヴァヨーギ、15世紀のカンナダ語(カナラ語)の詩人であり、多作の作家。
(*3)スクティ・・・貝、ラジャタ・・・銀、ヴァバティ・・・なること、形を装うこと
(*4)ミティヤ・・・幻、非現実
(*5)シュラバナ・・・聞くこと
(*6)マナナ・・・熟考すること
(*7)ニディディヤーサナ・・・途切れのない瞑想

2013年12月3日火曜日

忘却の効用、人形劇のような世界、ヴェーダーンタはアディカーリーへ

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

 読みやすいように対話形式にするため、多少訳を変更しています(文:shiba)

1947年11月21日
(158) 記憶 - 忘却

 今日の午後3時、白孔雀がバガヴァーンの前に来て、私たちみんなの真っただ中で動き回り始めました。一人の信奉者が、それがとても人馴れしていることに気づき、「この鳥は過去生を知っているようです。そうでなければ、人々みんなの真っただ中をこんなにも自由に動けますか」と発言しました。バガヴァーンは、「ですから、ここにいる多くの人々が、それがマドハヴァ(最近亡くなったバガヴァーンの古参の従者)であり、その姿でここにやって来たと言うのです」と言いました。その信奉者は、「もしそうなら、それは過去生でこれこれであったということを知っていますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 どうして(知ることが)できるでしょうか。誰も過去生について知りません。人々は忘れています。そして、その忘却は良いことです。この一度の人生だけで、時に我々は過去に起こったことにひどく悩みます。もし我々が過去生をすっかり知るならば、そのような悩みに耐えられますか。過去生の事実を知ることは、自分自身の自らを知ることを意味します。それが知られるなら、この生まれと過去生が、心とそのサンカルパ(欲望、意思)のみから出ていると分かるでしょう。

 『(ヨーガ・)ヴァーシシュタ』において、この創造がどれほど様々な方法で描かれているのかご覧なさい。ガーディ(*1)がクリシュナにマーヤー・スワルーパ(マーヤーの本質)を見せるように頼んだ時、彼はガーディに無数の姿を見せました。ラヴァナ・マハーラージャの話(*2)もそのようであり、シュクラの話(*2)はよりいっそう興味深いものです。シュクラはサマーディに留まっていて、その間に彼の体が完全に朽ちていて、もはや存在していないことを理解していませんでした。その間に、彼はいくつもの生まれを持ちました。最後に彼はバラモンとして生まれ、メール山で禁欲的な生活を送っている時、彼の父ブルグがストゥーラ・サーリア(粗大な体)を身につけた死の神(カーラ)と共に彼のもとへ行き、彼に彼の生まれ変わりの間に起こった全てのことを話しました。その後、シュクラは彼らに同行し、彼の元々の体を見て、死の神の許しを得て、それに入りました。

 いくつかの他の話で、ある人にとって夢に現れた事を別の人が目覚めた状態そのものにおいて見たということが語られています。その中で、どの話が真実でしょうか。

信奉者:
 ある人にとって何かが夢で現れるなら、どうしてそれが他の誰かに目覚めの状態で現れうるのですか。

バガヴァーン:
 どうしてできませんか。異なる種類のものですが、それもまた夢です。スクリーン上に現れる映像のように、現れる全てのものは心の創造物です。現実には、人はそのどれでもありません。人形劇のようである、この非現実の世界において、人があの人形や、この映像だったことを思い出すよりも、全てを忘れるほうが良いのです。

信奉者:
 物質的な世界に従って、我々は「これは私のものである」と言わざるを得ません。そうではありませんか。

バガヴァーン:
 ええ、確かに、我々はそのように言わざるを得ません。しかしながら、ただ単にそう言うことによって、我々がその全てであると思い、それに関連する楽しみと悲しみに浸(ひた)る必要はありません。我々が乗り物に乗るとき、我々が乗り物であると思いますか。太陽を例にとりましょう。それは小さな壺の水の中で、大きな川の中で、鏡の中で輝きます。その映像はそこにあります。しかし、ただそのために、太陽が「私はその全てである」と思いますか。我々に関しても同じことです。全ての問題は、人が「私は体である」と思うならば生じます。人がその思いを拒絶するなら、その時、太陽のように、人はあらゆる所に輝き、遍く行き渡るでしょう。

信奉者:
 そのために、バガヴァーンは、なすべき最良のことは、「私は誰か」という自らの探求の道に従うことであると言うのではないですか。

バガヴァーン:
 ええ。しかし、『(ヨーガ・)ヴァーシシュタ』の中で、自らの探求の道は十分な資格を持たない誰にも示されるべきではないとヴァーシシュタがラーマに語ったと言及されています。他のいくつかの本では、靈的修練は数回の生まれ、もしくは、少なくともグルの元で十二年間行われるべきであると述べられています。しかし、もし私が靈的修練を数回の生まれの間なされねばならないと言うなら、人々を怖がらせ、遠ざけてしまうので、私は彼らに、「あなたはすでにあなたの内に解放を持っています。あなたはただ、あなたに降りかかった外側の物事をあなた自身からただ取り除きさえすばいいのです」と言います。靈的修練はそのためだけにあります。とはいえ、昔の人々がこの全てを理由もなしに言ったわけではありません。「あなたは神、ブラフマンそのものであり、あなたはすでに解放されている」と告げられるなら、人は「私はすでに必要とされるものを持っていて、それ以上何も欲しくない」と思い、靈的修練を何も行わないかもしれません。ですから、これらのヴェーダーンタに関する事柄はアナディカーリー(適していない人)(*4)に語られるべきではありません。他に理由はありません。(そしてバガヴァーンは微笑みました。)

最近到着した信奉者が、話の穂をつぎ、言いました:
 シャンカラのスタンザ(詩節)で、「鏡の中の都市のように、全世界は自らの中の反射である」(*5)とあります。世界は幻であり、非現実であると言う言明は一般の人々のためにあり、悟った人のためではありません。そうではありませんか。

バガヴァーン:
 ええ。悟った人の目には、あらゆるものはブラフマンに満ちているように見えます。いくら語られても、悟っていない人(アジニャーニ)は何も見ることができません。それゆえ、全ての聖典は一般の人々のためだけにあります。

(*1)ガーディ(Gadhi)の話・・・私が持ってる『ヨーガ・ヴァーシシュタ』ではクリシュナでなく、主ヴィシュヌがガーディにマーヤ・スワルーパを見せます。ガーディは夢のような出来事を体験しますが、それが現実(目覚めの状態)で起こっていたことに気づき、マーヤーの不可思議に翻弄されています。
(*2)ラヴァナ(Lavana)の話・・・ラヴァナ王がマーヤーの力により、わずかの時間で違う人生を体験します。
(*3)シュクラ(sukra)の話・・・父ブルグは息子シュクラが死んでいるのを見て、怒り、「時(もしくは死)」を呪おうとするのですが、「時」が無駄なことはやめなさいと言い、教えを説いています。
(*4)アナディカーリー・・・・アディカーリー(適した人)+否定の接頭辞
(*5)http://arunachala-saint.blogspot.jp/2013/05/dakshinamurthy-stotra_12.htmlの第2詩節。

2013年11月29日金曜日

ジニャーニの心とブラフマン、ジニャーニの振る舞いかた

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

 読みやすいように対話形式にするため、多少訳を変更しています(文:shiba)

1947年2月8日
(90)ジニャーニの心は、ブラフマンそのものである 

 今朝の7時30分ごろ、私は講堂に行きました。中はまったく静かでした。窓の外から燃えている香木の香りが届き、新来の訪問者たちにバガヴァーンがいることを示しました。私は中に入り、バガヴァーンの前でお辞儀して、座りました。バガヴァーンはずっと枕に寄りかかっていましたが、蓮華座で背筋を伸ばして座りました。たちまち彼のまなざしは動きなく、並外れたものとなり、講堂全体が輝きで満たされました。突然、誰かが、「スワーミージ!ジニャーニは心を持ちますか、持ちませんか」と尋ねました。バガヴァーンは優しいまなざしを彼に投げかけ、言いました。

バガヴァーン:
 人が心なしでブラフマンを実現するということはありえません。実現は心がある時にのみ可能です。心はいつも何らかのウパーディ(*1)と共に働きます。ウパーディなくして心は存在しません。ウパーディと関連してのみ、我々は人がジニャーニであると言います。ウパーディなくして、どうして誰かがジニャーニであると言えるのですか。しかし、心なくしてウパーディはどのように働きますか。それは働きません。ですから、ジニャーニの心そのものがブラフマンであると言われています。ジニャーニは、いつもブラフマンを見ています。心なくして見ることがどうしてできますか。それゆえ、ジニャーニの心は、ブラフマーカーラ(*2)やアカンダーカーラ(*3)と言われています。

 しかし、実際には、彼の心そのものがブラフマンなのです。無知な人がブラフマンを内に認識せず、外側のヴリッティ(*4)しか認識しないのとまさしく同様に、ジニャーニの体は外側のヴリッティの中を動き回りますが、彼は常に内なるブラフマンのみを認識しています。そのブラフマンは遍く行き渡っています。いったん心がブラフマンの中に失われると、心をブラフマーカーラと呼ぶことは、川を大海のようであるというようなものです。いったん全ての川が大海に失われると、それは巨大な一面の水そのものです。その時、あなたは巨大な一面の水の中で、「これがガンジス川で、これがガウタミ川で、この川はとても長く、あの川はとても広い」などと見分けられますか。心に関してもまた同じことです。

 他の誰かが、「サットヴァはブラフマンであり、ラジャスとタマスはアーバーサ(*5)であると言います。そうですか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 ええ!サットとは実在するものです。サットはサットヴァです。それは自然なものです。それは心の微細な働きです。それがラジャスとタマスに触れることにより、心は無数の形を伴う世界を創造します。ラジャスとタマスと接触のみが原因で、心はアーバーサである世界をみて、幻惑されます。あなたがその接触を取り除くなら、サットヴァが純粋で汚されずに輝きます。それが純粋なサットヴァ、スッダ・サットヴァと呼ばれています。この接触は、あなたが微細な心の中で最も微細な心で探求し、それを排除しない限りは、取り除けません。全てのヴァーサナーは抑制されねばならず、心はとても微細にならなければなりません。つまりそれは、最も微細な中でも微細な-アノラネーヤム(極小の内の極小)と言われます。それは極小のものにとっての極小になるべきです。それが極小のものにとっての極小として抑制されるなら、その時、それは無限のものの中の無限、マハトー・マヘーヤムへ高まります。

 それを見ている心や、力を得ている心と呼びなさい。それをあなたが好むどんな名前ででも呼びなさい。どのような名前でそれが呼ばれても、我々が眠る時、心はその全ての活動と共にハートの中に抑えられています。その時、我々は何を見ますか。何も見ません。なぜですか。なぜなら、心が抑制されているからです。我々が眠りから覚め、そして我々が目覚めるとすぐに心があり、サットとブラフマンがあります。目覚めている心がグナへ付着するとすぐに、全ての活動が現れます。あなたがそれらのグナ・ヴィカーラ(*6)を捨て去るなら、ブラフマンがあらゆる所に現れます。それは自ら輝き、自明であり、アハム、「私」です。その時、あらゆるものがタンマヤム(遍く行き渡る)に見えます。ヴェーダーンタの専門用語を見てみなさい。ブラフマヴィド(*7)、ブラフマヴィド・ヴァリシュタ(*8)などが言われ、それからブラフマイヴァ・バヴァティ(*9)と言われます。彼はブラフマンそのものです。それゆえ、我々はジニャーニの心そのものがブラフマンであると言います

 他の誰かが、「ジニャーニは全てに対して絶対的な平等をもって振る舞うと言われていますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 ええ!ジニャーニはどのように振る舞いますか。

マイトリー(慈)、カルナ(悲)、ムディタ-(喜)、ウペクシャ(捨)
そのような他のバーヴァ(態度)は彼らにとって自然となる
幸せな人(スカ)への慈しみ、苦しんでいる人(ドゥッカ)へのいたわり
善を行う人(プンニャ)への喜び、不善を行う人(アプンニャ)への平静
そのような全てはジニャーニの自然な特徴である


 『パタンジャリ・ヨーガ・スートラ』、1章・33(*10)

(*1)ウパーディ・・・制限、特性、変装、乗り物
(*2)ブラフマーカーラ・・・ブラフマンの形、姿
(*3)アカンダーカーラ・・・途切れのない形

(*4)アーバーサ・・・反射、反映
(*5)ヴリッティ・・・(心の)働き、形をかえたもの
(*6)ヴィカーラ・・・変形、変質
(*7)ブラフマヴィド・・・ブラフマンを知る者
(*8)ブラフマヴィド・ヴァリシュタ・・・ブラフマンを知る者の中で最上の者
(*9)ブラフマイヴァ・バヴァティ・・・『マンダカ・ウパニシャッド』の3・2・9に「ブラフマヴィド・ヴラフマイヴァ・バヴァティ(ブラフマンを知る者はブラフマンそのものである」とあります。
(*10)サンスクリット語の原文など色々参考にしており、英文そのままの翻訳ではありません。スワーミー・ヴィヴェーカナンダの英訳では、「慈・悲・喜・捨を、幸福な、不幸な、良い、悪い対象それぞれに関して思うことは、心を落ち着ける」とあります。

2013年8月7日水曜日

バガヴァーンとの対話② - 世界の現実性(夢と目覚め)、サット・サンガ

◇「山の道(Mountain path )」、1981年6月、p153~155

バガヴァーンとの対話 

スワーミー・マードハヴァ・ティールタ 

スワーミー・マードハヴァ・ティールタ:
 神は様々な種類の世界を創造し、いまだ新しい世界を創造するつもりであると言う人々がいます。

シュリー・バガヴァーン:
 我々の現在の世界そのものが真実ではありません。各々の人が様々な想像の世界を彼の想像に応じて見ます。それでは、どこに新しい世界が現実的であるという保証がありますか。ジーヴァ(個人)、世界、神、それら全ては真実の境地に依存しています。「私」という個人の感覚が存在する限りは、それらもそこに存在します。この「私」という個人の感覚から、心から、これら三つが生じています。あなたが心を破壊するならば、それら三つは留まらず、ブラフマンのみが留まります。それは今でさえ留まり、住まっています。私たちはものを誤って見ています。この誤った認識はこのジーヴァの本質を探究することによって正されます。たとえジーヴァが超越した心(super-mind)に入っても、それは心の中に留まります。しかし、心を委ねた後、ブラフマン以外留まるものは存在しません。この世界が現実、もしくは、非現実であっても、チェータナー、もしくは、ジャーダであっても(意識がある、もしくは、意識がなくても)、幸福な場所、もしくは、悲惨な場所であっても、それら全ての状態は無知の状態に生じます。「私」という個人の感覚を欠くアートマ・ニシター(自らに定められた)の境地は、至高の境地です。この境地において、対象的な思考の余地はなく、この個人的存在の感覚もありません。存在‐意識‐至福というこの自然の境地においてどのような疑いも存在しません。自分自身の中に名と形の知覚がある限り、神は形を伴い現れますが、無形の現実の知見(アルーパ・ドリシュティ)が達成される時、見る者、見る、見られるものという変形はありません。その知見は意識そのものの本質であり、不ニであり、分割されません。それは制限なく、無限であり、完全です。体の内に「私」という個人の感覚が生じる時、それから目覚めの状態が現れます。この感覚が不在の時、それでは誰が世界を見るのですか。

質問:
 我々が我々の体に存する物質的性質を抑制できるのとまさしく同様に、自らは全てに共通しているため、聖者は他者の物質的性質を変えられるといった力を彼自身の内に持つにちがいないと信じている人たちがいます。

答え:
 ジニャーニは他者が存在していると信じていません。ですから、誰かの物質的性質を変えるという問題は存在しません。他者が見られる時、それは無知です。

質問:
 ジャナカはジニャーニでしたが、彼は支配する君主でした。しかし、ジニャーニである彼のグル、ヤージュナヴァルキヤは世俗を放棄し、森へ行きました。どうしてそうなのですか。

答え:
 全ては各々のジニャーニのプラーラブダ(運命)に応じて起こります。クリシュナは楽(らく)を楽しむ者(ボーギー)でしたが、スカデーヴァは苦行者(トゥヤーギー)でした。ジャナカとラーマは王でしたが、彼ら全てはジニャーニでした。彼らの内なる体験は同じであり、外の人生はプラーラブダに従っていました。

質問:
 ある人は縄に蛇を、ある人は棒を、ある人は花輪を、ある人は水の流れを見ますが、縄を縄として見る人は真実の知識を持っています。その他の見る者の知識は真実ではありません。

答え:
 他の見る者の見かたについて考える必要はありません。それらの他者はあなたの想像の内にだけ存在します。ただ一人の見る者を知りなさい。そうすれば、全てはよくなります。

質問:
 どのようにですか。

答え:
 夢の中で多くのものが見られますが、それらはすべてただ1人の見る者の想像の内に存在します。あなたが夢から目覚める時、夢と夢の中の見られるものはそれら自身のプラーラブダを引き受けます。

質問:
 それでは、他者はいなくなるのですか?

答え:
 世界と同じです。『アパロークシャーヌブーティ』(シャンカラに帰せられるアドヴァイタの作品)において、著者は「見る者、見る、見られるものが存在しないその境地に、視線は鼻先ではなく、そこに(その境地に)定められるべきである」と述べます。

質問:
 それから質問が起こります。視線がそのように定められるならば、どのように毎日の生活が続けられるのですか。

答え:
 アディシュターナ(礎)以外何も真理とならないため、ヴァヤヴァハーラ(世俗的な活動)の間でさえ、ジニャーニは視線(ねらい)を礎に定めています。壺の内に土が存在すると感じることが適切な態度です(つまり、形でなく本質を見る)。

質問:
 壺は水で満たせますが、土に水を注ぐことによって同じ結果は達成できません。

答え:
 あなたに壺を壊した後で土を見るようにとは言ってません。壺が完全な時でさえ、あなたは土からなる形においてそれを見ることができます。同様に、世界をブラフマンからなる形として見ることができます。目覚めの状態にブラフマンの知を持つことは、壺の内に粘土の知識を持つことに似ています。

質問:
 名と形は現実ですか。

答え:
 あなたはそれらをアディシュターナから分離しているとみなしてはいけません。名と形を理解しようと試みる時、あなたは現実のみを見つけます。それゆえ、永久に現実なるものの知を得なさい。

質問:
 夢は目覚めの状態の間に受けた印象のために生じるというのは事実ですか。

答え:
 いいえ、本当ではありません。あなたは夢で目覚めの状態において以前に見たことがない多くの新たな物事や新たな人々を見ます。あなたは夢の中で二番目の夢すら見るかもしれません。二番目の夢から目覚めた後、あなたは目覚めたと感じますが、それは一番目の夢という目覚めの状態です。同じように、人は毎日、目覚めますが、それは本当の目覚めの状態ではありません。

質問:
 どうして目覚めの状態はとても現実的なのですか。

答え:
 我々はとても多くのものを映画のスクリーン上に見ますが、現実ではありません。そこでスクリーン以外の何も現実ではありません。同じように、目覚めの状態において、アディシュターナ以外何も存在しません。ジャーグラット・プラマー(世界の知識)はジャーグラット・プラマータ(世界を知る者)のプラマー(知識)です。両方とも眠りにおいて去ります。(*1)

質問:
 どうして我々は世界においてそのような永続性や不変性を見るのですか。

答え:
 それは間違った考えのために見られています。ある人が同じ川で二回沐浴したと言う時、彼は間違っています。なぜなら、彼が二度目に沐浴した時、川は彼が一度目に沐浴した時と同じではないからです。炎の輝きを見て、人は同じ炎を見ると言いますが、この炎は瞬間ごとに変化しています。目覚めの状態はこのようです。変化のない見かけは知覚の誤りです。

質問:
 誰の誤りですか。

答え:
 プラマータ(知る者)です。

質問:
 どのようにして知る者は来たのですか。

答え:
 知覚の誤りのためです。実際は、知る者とその間違った知覚は同時に現れ、自らの知が得られる時、同時に消えます。

質問:
 どこから知る者とその間違った知覚が来たのですか。

答え:
 その質問を誰が尋ねていますか。

質問: 
 私です。

答え:
 その「私」を見出しなさい。そうすれば、あなたの全ての疑問は解消されます。夢の中に虚偽の知る者、知識、知られるものが生じるのとまさしく同様に、目覚めの状態において同じ過程が働いています。両方の状態において、この「私」を知るとすぐに、あなたは全てのことを知り、知られるべき何ものも残りません。深い眠りは、知る者、知識、知られるものを欠いています。同じように、真実の「私」を経験する時、それらは存在しません。目覚めの状態であなたが見る起こっているものが何であれ、それらは知る者に対して起こり、知る者が非現実であるため、実際には決して何も起こっていません。

質問:
 眠りから目覚めた後、どうして前日の世界は同じように見えるのですか。

答え:
 前日に見られた世界は現実ではありません。それは非現実な知る者の知識です。同様に、次の日の世界もまた非現実な知る者の知識です。実のところ、現実の世界は存在しません。我々から分離して見えるものが我々によって「世界」と呼ばれています。自我意識(アハンカーラ)のために、それは我々と分離して見えます。アハンカーラが去る時、何ものも分離して存在せず、それゆえ世界は存在しません。時間もまたプラマータから生じます。プラマータは現実でないので、時間もまた現実ではありません。アインシュタイン博士もまた、相対性理論の中でこれを唱えました。

質問:
 それでは、どのようにして日常生活の出来事は進むのですか。

答え:
 この頃、政府は一時間先に進めて時間を変更しました。時間は間違ったものですが、日常生活は依然として続きます。

質問: 
 『パンチャダシ』に、あなたが同じ学校に通っている子供たちみんなと一緒に歌っている息子の音楽を聞きたいと思うならば、他の子供たちに静かにするよう頼まなければならないという例があります。同様に、自らの声を聞くためには、あなたは他の全ての活動をやめなければなりません。

答え:
 特にこの例においては、息子が出席していなくても、あなたは他の子供たちの音楽を聞きます。ですから、この例えはうまく合っていません。真実を言えば、自らが存在しなければ、他の仕事を行うことはできません。他の例によれば、我々がハーモニウムの主旋律に注意を定めるなら、他の旋律がそれと共に流れていても、その旋律を聞くのに困難はありません。

質問:
 非現実であると信じられていても再び現れる蜃気楼とまさしく同様に、世界は非現実であると信じられていても再び現れます。

答え:
 蜃気楼の中の水の知識が真実でないのとまさしく同様に、ブラフマンの中の世界は真実ではありません。全ては一つのブラフマー・ルーパ(ブラフマーの形)です。それのみが真実の知です。

質問:
 ヴェーダーンタの古い体系によれば、無知がはじめに生じ、それから個人の存在という考えが生じたようですが、新しい体系によれば、前も後もないようです。個人の存在、無知、世界は同時に生じ、知を得るとすぐに、それら三つすべてが消えます。

答え:
 そうです。「あなたの知見をジニャーナマヤ(完全な知、知からなるもの)にした後、世界をブラフマーからなるとして見よ」(ヨーガ・ヴァーシシュタ)。

質問:
 そのような状態はサット・サンガ(聖者との交際)によってのみ得られます。

答え:
 サット・サンガが講話や対話のみを意味すると考えないように。それは自らの形として存在に住まうことを意味します。

質問:
 「アートマはスワヤム・プラカーシャである(自らはその独自の光でもって輝く)」という意味は何ですか。

答え:
 太陽に決して暗闇が見られることがないのとまさしく同様に、自らにも決して無知は見られません。自らは知ることはできませんが、アパロークシャ・アヌバーヴァ(直接的認識による自らの知)によって体験できます。これがスワヤム・プラカーシャトワ(自らの輝き)と呼ばれています。

(*1)ジャーグラットが英文では「world」となっていますが、本来は「目覚めている状態」という意味で、ジャガットが「世界」という意味です。

2013年4月24日水曜日

A.W.チャドウィック少佐の夢 - 夢と目覚めは異なるものか

・チャドウィック少佐の夢の出来事(1954年3月、『The Call Divine』より)

我々は夢と同じ物で作られており、我々の儚い命は眠りと共に終わる(*1)

 シェイクスピアは彼が話していたことについて実際に知っており、単なる詩的な閃きではありませんでした。マハルシはまさに同じことをよく言いました。

 私はバガヴァーンに他の誰よりも多くこのテーマについて質問したと思うのですが、いくらかの疑問はいつも残っていました。一つの疑問が解消されるとすぐに他のものがその代わりに湧き上り、疑いに終わりはないと彼はいつも警告していました。

 「しかし、バガヴァーン」と私は繰り返しました。「夢は分断されていますが、目覚めている経験はそれが終わった所から続き、全ての人によって多かれ少なかれ継続的であると認められています」。

 「あなたはそれを夢の中で言いますか」とバガヴァーンは尋ねたものでした。「その時、夢は完全に首尾一貫したもので、あなたにとって現実的でした。ただ今だけ、目覚めている状態において、その経験の現実性に異議を唱えます。これは論理的ではありません」。

 バガヴァーンは二つの状態の間のわずかの差異も認めるのを拒否し、これに関して彼は偉大なアドヴァイタの預言者たち全てと同意見でした。シャンカラがそれら二つの状態をはっきりと区別していなかったのか尋ねた人もいましたが、バガヴァーンは頑固にそれを否定しました。「シャンカラは、より明確な解説という目的のためだけに、それを行ったようです」とマハルシは説明したものでした。

 どのように私が質問を捻じ曲げても、私が受け取る答えはいつも同じでした。「夢の状態そのものにいる時に、疑問を提起しなさい。あなたが目覚めている時、あなたは目覚めている状態に異議を唱えず、それを受け入れています。あなたが夢を受け入れているのと同じように、あなたはそれを受け入れています。両方の状態と深い眠りを含めた三つの状態を超えて行きなさい。その観点から、それらを検討しなさい。あなたは今、一つの制限を別の制限という観点から検討しています。それより馬鹿げたことがありえますか。全ての制限を超えて行きなさい。その後で、あなたの疑問を持ってここに来なさい」。

 しかし、これにも関わらず、疑問は依然として残っていました。私は夢を見ている時に、その中に何か非現実的なものがあることをなんとなく感じました。もちろんいつもではなく、時々ただ垣間見るだけでしたが。

 バガヴァーンは、「目覚めている状態でも、それはあなたに起こりませんでしたか。時々、あなたが住むこの世界と起こっている物事が非現実的だと感じませんか」と尋ねました。依然として、この全てにも関わらず、疑問は残りました。

 しかし、ある朝に私はバガヴァーンのところへ行き、以下のことを記した紙を彼に渡しました。彼はそれを大変面白がりました。

 私が夢と目覚めている経験の間の類似について、いくつかの疑問を表したことをバガヴァーンは覚えていると思います。朝早く、以下の夢によって、それらの疑問のほとんどは解消されました。その夢はとりわけ客観的で、現実的なように見えました。

 私は誰かと哲学について議論しており、全ての経験は主観的であり、心の外に何もないと指摘しました。別の人は異議を唱え、全てのものがいかにしっかりとしたもので、経験がいかに現実的に見えるか指摘し、単なる個人的な想像のはずがないと言いました。

 私は「いいえ、それは夢に他なりません。夢と目覚めの経験は全く同じです」と答えました。

 彼は「あなたは今、そう言いますが、夢の中ではそのようなことを決して言わないでしょう」と答えました。

 そしてその後、私は目覚めました。

(*1)シェイクスピア作、「テンペスト(あらし)」のプロスペローのセリフ。翻訳はwikipediaにのっているものを使用しています。

2013年4月21日日曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第3章 心の制御

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p12-16

マハルシの福音


第1巻 第3章 心の制御


信奉者:
 どうすれば私は心を制御できますか。

マハルシ:
 自らが実現されるなら、制御するべき心はありません。心が消えるとき、自らが輝き出ます。実現した人の中で、心は活動的であるか活動的でないかもしれませんが、自らのみが存在します。なぜなら、心、体、世界は自らから切り離されておらず、自らと離れたままいることはできません。それらが自ら以外でありえますか。自らを意識しているとき、どうして人がそれらの影について心配しなければなりませんか。どのようにそれらは自らに影響しますか。

信奉者:
 心が影に過ぎないなら、では、どのように人は自らを知ればいいのですか。

マハルシ:
 自らはハートであり、自ら光を放っています。輝きがハートから生じ、心の座である脳に到達します。世界は心で見られています。そのように、あなたは自らの反射した光によって世界を見ます。心の働きによって、世界は知覚されます。心が照らされるとき、心は世界に気づきます。そのように照らされないとき、心は世界に気づきません。

 心が内に、輝きの源に向けられるとき、対象的な知識は止み、自らのみがハートとして輝きます。

 月は、太陽の光を反射することによって輝きます。太陽が沈んだとき、月は物を見せるために役立ちます。太陽が昇ったとき、その円盤は空に見えますが、誰も月を必要としません。心とハートについても同様です。心は、その反射した光によって役立てられます。それは物を見るために使われます。内側に向けられるとき、それは独りで輝く輝きの源に溶け込み、心はその時、日中の月のようです。

 暗いとき、光を当てるために灯火が必要です。しかし、太陽が昇ったとき、灯火の必要はありません。物は目に見えます。そして、太陽を見るために灯火は必要ありません。あなたが自ら光を放つ太陽に目を向けるなら、それで十分です。心についても同様です。物を見るためには、心から反射した光が必要です。ハートを見るためには、心がそれに向けられればそれで十分です。その時、心は重要でなく、ハートが自ら輝き渡っています。

信奉者:
 このアーシュラムを10月に離れた後、10日ぐらいの間、私を包んでいるシュリー・バガヴァーンの面前に広がる存在(the Presence)に気づいてしていました。私が仕事で忙しい間中ずっと、統一のその安らぎの底流がありました。それは、ほとんど、退屈な講義でうとうとしている間に経験する二重の意識のようでした。その後、それは次第に全く消えてしまい、かわりに古くからなじみの愚かさが入ってきました。仕事のために、独立した瞑想のための時間をとれません。仕事の間、「私はいる」と常に自分自身に思い出させることで十分ですか。

マハルシ:
 (少し間をおいて)あなたが心を強くするなら、その安らぎは永遠に続くでしょう。その期間は、修練の反復によって獲得される心の力に比例します。そして、そのような心は流れをつかんでおくことができます。その場合、仕事に従事していても従事していなくても、流れは影響されず、途切れないままにあります。邪魔をするのは仕事ではなく、それをしているのは私だという考えです。

信奉者:
 定められた瞑想は、心を強くするために必要ですか。

マハルシ:
 それはあなたの仕事ではないという考えをいつも念頭に置かないなら(必要です)。最初、あなたがそれを思い出すためには努力を要しますが、後にそれは自然で継続的になります。仕事はひとりでに進むでしょう。そして、あなたの安らぎは途切れないままにあるでしょう。

 瞑想は、あなたの本質です。あなたの気を散らす他の思いが存在するため、あなたは今それを瞑想と呼びます。それらの思いが排除されるとき、あなたは独りでいます-つまり、思いのない瞑想の状態に。そして、それがあなたの本性であり、他の思いを遠ざけることによって、あなたが今、得ようとしているものです。そのように他の思いを遠ざけることが、今、瞑想と呼ばれています。しかし、修練が確固たるものになるとき、本性が真の瞑想として姿を現わします。

信奉者:
 人が瞑想を試みるとき、他の思いがより力強く生じます!

マハルシ:
 ええ、瞑想中、あらゆる類の思いが生じます。それはまったく当然のことです。というのも、あなたの中に隠されているものが持ち出されているからです。もしそれが上がってこないなら、どうやってそれを破壊できますか。いわば自然に思いは上がってきますが、やがては消滅することになるがゆえに、心を強くします。

信奉者:
 夢にいるように、人や物がおぼろげな、ほとんど透明な形をとる時があります。人はそれらを外側として観察するのをやめますが、それらの存在を消極的には意識していて、他方で、どのような類の個人性も積極的には意識していません。心の中には深い落ち着きがあります。人が自らに潜る準備ができているのは、そのような時ですか。それとも、この状態は不健康な、自己催眠の結果ですか。それは一時的な安らぎを生じているとして奨励されるべきでしょうか。

マハルシ:
 心の中に落ち着きを伴った意識があります。これがまさに目指されるべき状態です。それが自らであるということを理解せずに、この点に関して質問がなされているということは、その状態が安定せず、一時的であることを示しています。

 外に向かう傾向があるとき、そのため、心が内に向けられなければならないとき、「潜る」という言葉は適切であり、外部性の水面下に沈むということがあります。しかし、意識を妨げることなく落ち着きが行き渡るとき、どこに潜る必要がありますか。その状態が自らとして実現されていないなら、そうするための努力は「潜る」と呼ばれるかもしれません。この意味おいて、その状態は実現、もしくは、潜るために適していると言われるかもしれません。従って、あなたがした最後の2つの質問は起こりません。

信奉者: 
 おそらく子供の姿が理想の姿を擬人化するためによく使われるため、心は子供たちに対してとりわけ愛着を感じ続けます。

マハルシ:
 自らをつかんでいなさい。どうして子供や彼らに対するあなたの態度について考えるのですか。

信奉者:
 ティルヴァンナーマライへの3度目の訪問は私の中の自我意識を強めたようで、瞑想が前ほど簡単ではなくなりました。これは重要でない一時的な段階ですか、それとも、今後そのような場所を避けるべきであるという兆候ですか。

マハルシ:
 それは想像上のものです。あれこれの場所は、あなたの内にあります。そのような想像は終わらなければいけません。なぜなら、場所それ自体は心の活動と何の関係もないからです。また、あなたの環境も単にあなたの個人的な選択の問題だけではありません。当然のこととして、それはそこにあります。あなたはそれを乗り越えるべきで、それに巻き込まれるべきではありません。

(夕方の5時頃、8歳半の少年が講堂で座っていて、そのときシュリー・バガヴァーンは山に登っていました。彼がいない間、その少年は純正の簡素な文語のタミル語で、聖者と聖典の言葉から自在に引用してヨーガとヴェーダーンタについて演説をました。45分ぐらい後にシュリー・バガヴァーンが講堂に入ったとき、ただ静寂のみが支配しました。20分間、少年はシュリー・バガヴァーンの面前に座っていました。彼は一言も話さずに、ただ彼をじっと見つめていました。それから、涙が彼の目から流れました。彼は左手でそれを拭い、彼は今なお自らの実現を待ち望んでいると言い、すぐ後、その場を離れました。)

信奉者:
 私たちはどのようにその少年の非凡な特徴を説明すべきでしょうか。

マハルシ:
 彼の最後の生まれの特徴が、彼の中に強くあります。しかし、どれほどそれが強くても、落ち着いた静かな心以外、それは現れません。記憶を蘇えらせようとする試みは時々失敗しますが、心が落ち着き、静かなときに何かが心に閃くことは、みなの経験の内にあります。

信奉者:
 どうしたら私たちは反抗的な心を落ち着かせ、穏やかにできますか。

マハルシ:
 心が消え去るように、その源を見なさい。もしくは、心が打ち倒されるように、あなた自身を委ねなさい。自らの委ねは自らの知と同じであり、そのどちらも自制を暗示します。自我は、それが高き力を認識するときだけ、服従します。

信奉者:
 心を落ち着きなくさせる本当の原因のように思えるサンサーラ(*1)から、どうしたら私は逃れられますか。放棄は、心の平穏を実現するための効果的な手段ではないのですか。

マハルシ:
 サンサーラは、あなたの心の中だけにあります。世界は、「ここに私はいるぞ、世界だ」と言って大声で話しません。仮に世界がそうするなら、世界は常にそこにあり、あなたが眠っているときでさえ、その存在をあなたに感じられるようにするでしょう。しかしながら、眠っているとき、世界はそこにないので、それは永続的でありません。永続的でないので、それは実体を欠いています。自らと離れて現実性を持たないため、それは自らによってたやすく征服されます。自らのみが永続的です。放棄とは、自らと自らでないものとの非同一視です。自らを自らでないものと同一視する無知が取り除かれるとき、自らでないものは存在することをやめます。そして、それが真の放棄です。

信奉者:
 そのような放棄がないときでさえ、私たちは愛着なく行為を行えないのでしょうか。

マハルシ:
 アートマ・ジニャーニのみが、良いカルマ・ヨーギになれます。

信奉者: 
 バガヴァーンは、ドゥヴァイタ(*2)の哲学を批判しますか。

マハルシ:
 ドゥヴァイタは、あなたが自らを自らでないものと同一視するときだけ存続できます。アドヴァイタ(*3)は、非同一視です。

原注:
(*1)サンサーラ・・・世俗的な活動の状態、もしくは現世の存在
(*2)ドゥヴァイタ・・・二元性、二元論の教義
(*3)アドヴァイタ・・・非二元性、非二元論の教義

2013年3月31日日曜日

シュリー・オーロビンドーとシュリー・ラマナ・マハルシの見解の比較

◇『存在の力-シュリー・ラマナ・マハルシとの出会いによる変容、第一部(The Power of the Presence-Trandforming encounters with Sri Ramana Maharshi、Part.1)』

7.スワーミー・マードハヴァティールタ(抜粋)

 滞在の二週目のある日に、私は山の道につづく北門のそばに立っていました。私と共に、シュリー・オーロビンドーのアーシュラムから戻った信奉者がいました。それは夕方のことで、シュリー・マハルシはいつもの夕べの散歩の後、その道を来ました。

 私は彼に創造論への見解について尋ねたいと思い、シュリー・オーロビンドーのアーシュラムから帰った信奉者の存在は私にそのテーマに関するシュリー・オーロビンドーの見解に言及することを促しました。ここで言わせていただくならば、私はシュリー・オーロビンドーの哲学をよく知っています。25年ほど前に、私が彼を訪問していた初めごろ、私はそれらの宗教的なテーマについて彼と自由に議論したものでした。

 前置きとして、私はマハルシにアーディ・シャンカラーチャーリアにより提示された創造についてのヴェーダーンタ的見解を抱いているのか尋ねました。その後で、シュリー・オーロビンドーの世界観についての議論に進みました。

質問:
 シュリー・シャンカラーチャーリアのヴェーダーンタにおいて、初心者のために世界の創造の原理が受け入れられていますが、進んだ者には非創造の原理が提唱されています。この問題についてのあなたの見解は何ですか。

マハルシ:
Na nirodha na chotpattir
Nabaddho na cha sadhakaha
Na mumukshur na vai mukta
Ityesha paramarthata

 このスローカ(詩節)は、ガウダパーダ・カーリカ(マーンドゥーキョーパニシャッドについての注釈書)の第二章(ヴァイタトゥヤ・プラカラナ、第32詩節)に記されています。それが意味することは、真に、「創造もなく、消滅もない。束縛もなく、聖なる修練をする者もいない。聖なる解放を探求する者も、解放されている者もいない。これが絶対的な真理である」です。自らに打ち立てられた者は、彼の現実の知によって、これを見ます。

質問:
 シュリー・オーロビンドーはこの地上で人間の体が最後のものではないと考えています。彼によれば、自らに打ち立てられることは人間の体で完全には得られません。なぜなら、自らの知はそこで自然な様子で働かないからです。それゆえに、自らの知が自然に働くことができるヴィジニャーナマーヤ・シャーリア(純粋な知からなる体)がこの地上にもたらされねばなりません。

マハルシ:
 自らの知は人間の体の中で全く十分に輝くことができるので、他の体は必要ありません。

質問:
 シュリー・オーロビンドーはヴィジニャーナマーヤ・シャーリアは病に襲われることはなく、年をとらないので、自分が望まなければ死なないと考えています。

マハルシ:
 体そのものが病です。その病が長く留まることを望むのは、ジニャーニの目的ではありません。いずれにしても、人は体との同一化を放棄せねばなりません。「私は体である」という意識が自らの知を得ることを妨げるのとまさしく同様に、自分が体でないという確信を得た人は(解放を)望まなくても解放されます。

質問:
 シュリー・オーロビンドーは人間の体に神の力をもたらしたいと思っています。

マハルシ:
 委ねた後に、この望みを未だ持ってるならば、委ねは成功していません。人が「より高い力が降りてくるならば、それは私の体に入らねばならない(入るに違いない)」という態度を持つならば、体との同一化を増大させるだけです。真実を話せば、そのような降下の必要はありません。「私は体である」という思いの破壊の後、個人は絶対者の姿になります。その境地において、上も下も、前も後ろもありません。

質問: 
 個人が絶対者の姿となるならば、それでは誰が絶対者の至福を楽しむのですか。絶対者の至福を楽しむためには、少し離れた距離から砂糖を味わうハエのように、我々はそれから少し離れていなければなりません。

マハルシ:
 絶対者の至福とは、自分自身の本質の至福です。それは生まれず、作り出されてもいません。作り出される楽しみは、必ず破壊されることになります。砂糖は感覚を持たないので、それ自身の味を与えられません。ハエはそれを味わうために少し距離を保たねばなりません。しかし、絶対者は自覚であり、意識です。それは自身の至福を与えられますが、その境地を得ることなしに、その本質を理解することはできません。

質問:
 シュリー・オーロビンドーは、地上に新しい神の人種をもたらしたいと望んでいます。

マハルシ:
 未来に得られるものは何であれ永遠ではないと理解されるべきです。あなたが今持っているものを正しく理解することを習いなさい。そうすれば、未来について考える必要はなくなります。

質問:
 シュリー・オーロビンドーは、神が様々な種類の世界を創造し、未だ新しい世界を作ろうとしていると言います。

マハルシ:
 我々の現在の世界そのものが現実でありません。各人が各々の想像に従い、様々な想像の世界を見ます。それでは、新しい世界が現実であるという保証がどこにありますか。ジーヴァ(個々人)、世界、神、これら全ては相対的な考えです。「私」という個人の感覚がある限り、それら三つもそこにあります。

 この「私」という個人の感覚から、心から、これらの三つが生じています。あなたが心を停止させるなら、それら三つは留まらず、ブラフマンのみが留まります。そして、それは今でさえ留まり、住しています。我々は誤りゆえに物事を見ます。この誤った認識は、このジーヴァの本質を探求することにより正されます。たとえジーヴァが超越した心(*1)に入っても、ジーヴァは心に中に留まりますが、心を委ねた後はブラフマン以外の何も残りません。この世界が現実でも非現実でも、意識でも不活発でも、幸福な場所でも悲惨な場所でも、それら全ての状態は無知の状態に生じています。それらは実現(悟り)の後、役に立ちません。

 アートマ・ニシター(自らに住まうこと)の境地は、「私」という個人の感覚がなく、至高の境地です。この境地において、物事を考える余地も、この個々の存在という感覚の余地もありません。存在‐意識‐至福というこの自然な境地において、どのような類の疑問も存在しません。

 自分自身の中に名と形の認識がある限り、神は形を伴い現われますが、無形の現実の覚知(*2)が達成されるなら、見る者、見ること、見られるものという変形はありません。その覚知は意識そのものの本質であり、不ニで、分割されません。それは無制限で、無限で、完全です。

 「私」という個人の感覚が体の中に生じる時、世界が見られています。この感覚がないなら、その時、誰が世界を見るのですか。

(*1)超越した心・・・英語の「Supermind」の訳。
(*2)覚知・・・英語の「vision」の訳。wikitionaryには①視覚②考えたり、想像するもの③理想や目的④超常的現象の宗教的、神秘的体験などとあります。

☆この翻訳の投稿を、同書の編著者であるデイビッド・ゴッドマン氏が快く許可してくださいました。
(Mr.David Godman who is author and editor of this book willingly permitted me to post this translation.)

2012年10月19日金曜日

誤った思い(「私は体である」)に基づき、世界は見られている

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対面(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』 

176.
この匿名の記録者は、理学士の最終学年の学生であり、1946年にシュリー・マハルシに会いました。
  マハルシの前で私は身をかがめてお辞儀をし、講堂に座りました。多くの人々がいましたが、講堂は静かでした。私は静かな様子で座り続けることができなかったのですが、マハルシに何を話せばいいのか分かりませんでした。マハルシの近くの置き台に本が数冊ありました。私はその中の一冊を手に取り、読み始めました。その本には、「存在は一である」、「世界は非現実である」というような概念が記されていました。科学に限定された私の知識では、それらを理解できませんでした。私は以下のような一連の思考に混乱を感じざるを得ませんでした。「神は私をどうして創造しなければならないのか。私はどこにいたのか。私はどこにいるようになるのか。私が見る全ては虚偽なのか。確かに、私は私の前の対象物の存在を知っている。私の前に座っているマハルシを私は見ていないのか。」

 それ以上、私は本を読むことができず、物思いにふけり始めました。まさにその時、マハルシは私に「あなたの疑問は何ですか」と呼びかけました。私は頭を上げ、言いました。「ソファーに人の姿があります。床にも人の姿があります。私の眼によって、この二人をとてもはっきり感じます。しかし、実際は、ただ一なるものしかないとあなたは言います。どうしてそれが真実になるのでしょうか」。マハルシは微笑み、沈黙を保ちました。数分後に、彼は言いました。

マハルシ:
 あなたは実験室で実験を行うことに慣れているはずです。あなたがある対象を調べるならば、詳細さの程度はその対象を調べるためにあなたが使った道具の質によるでしょう。さて、たとえ道具が良くても、あなたの視力が悪いなら、あなたはその対象のことをほとんど知りません。視力が良くても、脳が正常でなければ、あなたは対象の本当の性質を知りません。さらに、脳が健全でも、心があなたが観察しているものに注意を払わなければ、対象について知ることは少なくなります。端的に言って、対象について知る程度(質)は、心と呼ばれる存在に依存しています。

 心とは何ですか。それは思いです。全ての思いは、ただ一つの思いから生じてきます。この思いは、「私は体である」という思いです。それは二つの要素を持っています。一つは「体」であり、もう一つは「私」です。「体」ははかない性質のもので、変化にさらされており、その存在を食べ物というような外側の要因に依存しています。本当に存在するものは、常に存在しているべきです。「体」は常に存在しないので、真実ではありません。「私」は、目覚め、夢をみる眠り、深い眠りを含んだ全ての状態において存在しています。ですから、「私」が真実です。「体」は真実でありません。これら二つが組み合わさったものは、一つの実体として存在できません。夜と昼が、光と闇がどうして共存できるでしょうか。同様に、「私」と「体」が共存する存在を基礎としてもつ実体も存在しません。ですから、実際は、「私は体である」という思いは根拠を持たないのです。我々がこの真実でない思いに基づき世界を調べるなら、どうして真理を知ることができますか。

 その瞬間に、私は私の知識の基盤が揺るがされているのを感じ、究極的な達成を与えるものとしての科学的探究への私の確信は突如として失われました。さらにマハルシは、自分自身の真理を知った後で世界についての真理を悟ることができると言いました。私が受けたウパデーシャ(教え)は私の心の態度を変え、ついで私の日常的な活動も変えました。以前と同じ環境で私は生活を続けましたが、マハルシの祝福を受け、人生の達成を精神的な道において求めました。マハルシの恩寵によって、調和のとれた人生を送ることができると私は感じました。

2011年12月23日金曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第3章 ジニャーニと世界

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p46-53

マハルシの福音

第2巻 第3章 ジニャーニと世界 


信奉者:
 世界はジニャーニ(*1)よって知覚されますか。

マハルシ:
 誰からの質問ですか。ジニャーニから、それとも、アジニャーニ(*2)からですか?

信奉者:
 アジニャーニからと認めます。

マハルシ:
 世界が、その現実性についての問題を解決しようと努めていますか。疑問は、あなたに生じます。まずはじめに、疑う者は誰か知りなさい。その後、世界が現実か、現実でないかじっくり考えなさい。

信奉者:
 アジニャーニは、世界とその対象物を見て、知ります。それらは彼の触覚や味覚などに影響します。似た方法で、ジニャーニは世界を経験しますか。

マハルシ:
 あなたは世界を見ることや知ることについて話します。しかし、(いなければ対象の知識はない)あなた自身、(対象を)知る主体を知らなければ、世界、知られる対象の本質をどうして知ることができますか。疑いなく、対象物は体と感覚器官に影響しますが、その質問が生じるのは、あなたの体にですか。体は、「私は対象を感じる。それは現実だ」と言いますか。それとも、世界が、「私、世界、は現実だ」とあなたに言いますか。

信奉者:
 私は世界についてのジニャーニの視点を理解しようとしているだけです。自らの実現の後、世界は知覚されますか。

マハルシ:
 世界や自らの実現の後で世界に起こることについて、どうして心配するのですか。はじめに自らを実現しなさい。世界が知覚されてもされなくても、どうだっていいでしょう。眠っている間の世界を知覚しないことによって、あなたの探求においてあなたを手助けする何かを得ますか。逆に、世界の知覚によって、今、あなたは何か失うでしょうか。ジニャーニにとってもアジニャーニにとっても、世界を知覚するかしないかは全く重要ではありません。世界は両者によって見られますが、彼らの視点は異なります。

信奉者:
 ジニャーニとアジニャーニが似た方法で世界を知覚するなら、彼らの間の違いはどこですか。

マハルシ:
 世界を見て、ジニャーニは、見られる全ての礎(いしずえ)である自らを見ます。アジニャーニは、彼が世界を見ても見なくても、彼の真の存在(Being)、自らを知りません。

 映画ショーのスクリーン上の動いている映像を例にとりましょう。上映が始まる前、あなたの前に何がありますか。スクリーンだけです。そのスクリーン上で、あなたはショーを全部見て、見る限り、その映像は現実的です。しかし、その映像をつかもうとしに行ってみなさい。あなたは何をつかみますか。とても現実的に見えた映像がその上にあったスクリーンだけです。上映後、映像が消えるとき、何が残りますか。再び、スクリーンです!

 自らもそのようです。それのみが存在します。映像は行き来します。あなたが自らにつかまるなら、映像という現象(見せかけ)に騙されないでしょう。また、映像が現れても消えても、全くどうでもいいことです。あたかも映像がスクリーンと別に存在するかのように、スクリーンを無視して彼が映像しか見ないように、自らを無視してアジニャーニは世界を現実だと思います。スクリーンがなければ映像はないように、見る者がいなければ見られる物は何もないということを知っているなら、人は惑わさていません。ジニャーニは、スクリーン、映像、それについての視覚が自らでしかないと知っています。映像があれば、自らは顕現した形でいます。映像がなければ、それは未顕現の形のままいます。ジニャーニにとって、自らがどちらの形でいるかどうかは、全く重要でありません。彼はいつも自らです。しかし、ジニャーニが活動的であるのを見ているアジニャーニは困惑(混同)します。

信奉者:
 まさにその点が、自らを実現した人は私たちのように世界を知覚するのかという最初の質問するように私を促したのです。そして、彼が知覚するなら、昨日、写真が不可思議に消えたことについてシュリー・バガヴァーンがどう感じたのか知りたいのですが....

マハルシ:
 (微笑んで)あなたはマドゥライ寺院の写真について言っていますね。数分前に、写真は交代でそれを見ていた訪問者の手を渡って行きました。どうやら写真は彼らが調べていた何かの本のページの間に置き忘れられたようです。

信奉者:
 ええ、その出来事です。バガヴァーンはそれをどう見ますか。写真は熱心に探されましたが、結局のところ、見つかりませんでした。求められたちょうどその時に、写真が不可思議に消えたことをバガヴァーンはどう見ますか。

マハルシ:
 あなたが遠いあなたの祖国、ポーランドに私を連れて行っている夢をあなたが見ているとしましょう。あなたは目覚め、私に尋ねます。「私はこれこれの夢を見ました。あなたも何かそのような夢を見ましたか。もしくは、私がポーランドにあなたを連れて行っていることを何か他の方法で知りましたか」。あなたはそのような質問にどんな意味を持たせるでしょうか。

信奉者:
 しかし、行方不明の写真に関しては、全ての出来事はバガヴァーンの前で起こりました。

マハルシ:
 あなたの現在の質問だけでなく、写真を見ること、その消失も、全て心の働きに過ぎません。

 この点を例示するプラーナの話があります。シータが森の庵(いおり)から行方不明になっていた時、ラーマは、「おお、シータ、シータ」と泣き叫びながら、彼女を探しに出かけました。パールバティーとパラメーシュワラは、森で起こっていたことを上から見ていたと言われています。パールヴァティーはシヴァに驚きを表わし、「あなたはラーマを完全な存在(Perfect Being)だと称賛しました。シータを失い、彼がどのように振る舞い、嘆いているのか御覧なさい!」と言いました。シヴァは、「あなたがラーマの完全性に懐疑的であるなら、あなた自身が彼を試してみなさい。あなたのヨーガ・マーヤー(*3)を通じて、あなた自身をシータの外見に変化させ、彼の前に現れなさい」と答えました。パールヴァティーはそうしました。彼女はシータそっくりの外見でラーマの前に現われましたが、非常に驚いたことに、あたかも盲目であるかのように、ラーマは彼女の存在を無視し、「おお、シータ、おお、シータ!」と大声で叫びながら、以前のように進んで行きました。

信奉者:
 私にはその話の教訓が理解できません。

マハルシ:
 仮にラーマがシータの体の存在を本当に探していたのなら、彼は彼自身の前に立っていた人を彼が失ったシータと認めていたでしょう。しかし、ではなく、行方不明のシータは、彼の目の前に現れたシータと全く同様に非現実であったのです。ラーマは実際には盲目ではありませんでした。しかし、ラーマに、ジニャーニにとって、シータの姿をしたパールヴァティーが現実にいることだけでなく、庵にシータが以前いたこと、彼女の消失、結果として生じる彼の彼女の探索も、全て等しく非現実でした。行方不明の写真がどう見られたか、もう分かりましたか。

信奉者:
 すっかり分かりましたとは言えません。とても多くの方法で、私たちによって見られ、触られ、感じられる世界は、夢や幻のようなものですか。

マハルシ:
 あなたが真理を、真理のみを探究しているなら、あなたにとって、世界を現実でないと受け入れるより他に方法はありません。

信奉者:
 どうしてそうなのですか。

マハルシ:
 世界は現実であるという考えをあなたが放棄しなければ、あなたの心が世界をいつも追っているだろうという単純な理由からです。存在するのは現実だけですが、あなたが現象(見せかけ)を現実と思うなら、あなたは現実そのものを決して知らないでしょう。この点は、「縄の中の蛇」という類比によって例示されます。あなたが蛇を見る限り、縄を縄として見ることはできません。存在しない蛇があなたにとって現実になり、同時に、現実の縄は縄として全く存在しないように見えます。

信奉者:
 世界が究極的には現実ではないと仮に受け入れることは簡単ですが、それが本当に現実ではないという確信を持つことは難しいです。

マハルシ:
 あなたが夢を見ている間、あなたの夢の世界さえも現実的です。夢の世界が続く限り、あなたがその中で見たり、感じたりする一切は現実的です。

信奉者:
 それでは、世界は夢以上のものでないのでしょうか。

マハルシ:
 あなたが夢を見ている間に抱く現実感に何か問題ありますか。あなたは何かまったく不可能な事、たとえば、亡くなった人と楽しく会話する夢を見ているかもしれません。ほんの一瞬、あなたは、「彼は亡くなってなかったかな」と心の中で考え、夢の中で疑うかもしれませんが、どういうわけかあなたの心は夢の映像に黙って従い、夢のためにその人は生きているのも同然になります。言いかえれば、夢は夢としてあなたにその現実性を疑うことを許しません。まさにそのように、あなたはあなたの目覚めている体験の世界の現実性を疑うことはできません。どうして世界を創造した心それ自体が、それを現実でないと受け入れられますか。それが目覚めている体験の世界と夢の世界の間でなされる比較の意義です。両方とも心の創造物でしかなく、心がどちらかに夢中になっている限り、夢見ている間は夢の世界の、目覚めている間は目覚めている世界の現実性を否定できないことに心は気づきます。逆に、あなたが世界からあなたの心を完全に引き戻し、内に向け、このように留まるなら、つまり、あなたが全ての体験の礎である、自らに常に目覚め続けているならば、あなたは世界が、あなたは今それだけを意識していますが、あなたの夢の中であなたが住んだ世界とまさしく同様に非現実であると気づくでしょう。

信奉者:
 私が前に言ったように、私たちは多くの方法で世界を見て、触れ、感じます。これらの感覚は見られたり、触れられるなどした対象物への反応であり、人それぞれ異なるだけでなく、同じ人に関しても異なる、夢の中でのような心の創造物ではありません。それは世界の客観的現実性を証明するのに十分ではないですか。

マハルシ:
 不一致やそれを夢の世界に帰する、この全ての話は、あなたが目覚めている、今だけ起こります。あなたが夢見ている時、夢は申し分なく統合された完全なものでした。言いかえれば、あなたが夢でのどの渇きを感じたなら、幻の水を幻で飲むことが幻の渇きを確かに潤しました。しかし、夢自体が幻であるとあなたが知るまでは、この全てはあなたにとって現実的であり、幻ではありませんでした。目覚めている世界も同様です。あなたが今持つ感覚は、世界が現実であるという印象をあなた与えるために調整されています。

 逆に、世界が独立して存在する現実(それは、世界の客観性ということで、どうやらあなたが言わんとすることのようですが)であるなら、眠っているときに世界があなたに姿を現すことを何が妨げているのですか。あなたは、「私が眠っているとき、私は存在していなかった」とは言いません。

信奉者:
 私は私が眠っている間の世界の存在も否定しません。その間中ずっと世界は存在し続けています。私が眠っている間に私が世界を見ていなくても、眠っていない他の人たちがそれを見ました。

マハルシ:
 眠っている間に自分が存在していたと言うために、それをあなたに証明するために他の人々の証言を求める必要がありましたか。今、どうして彼らの証言を求めるのですか。あなた自身が目覚めている時にだけ、その「他の人々」は(あなたが眠っている間に)世界を見たとあなたに言うことができます。あなた自身の存在に関しては違います。目覚めるとすぐ、あなたはぐっすり眠ったと言います。ですから、その程度は、最も深い眠りの中で、あなたはあなた自身に気づいていますが、その時、あなたは世界の存在を少しも認識していません。あなたが目覚めている今でさえ、世界が、「私は現実である」と言いますか、それとも、あなたがですか。

信奉者:
 もちろん、私がそれを言いますが、私はそれを世界について言います。

マハルシ:
 それでは、あなたが現実であると言う、その世界が、あなたを全く馬鹿にしています。なぜなら、自分自身の現実をあなたは知らないのに、世界の現実性を証明しようと努めているからです。

 あなたはどうにかして世界が現実であると主張したいと思っています。現実の基準とは何ですか。独りで存在し、独りで姿を現し、永遠で、不変であるものだけが、現実です。

 世界は独りで存在しますか。心の助けなしに、かつて世界は見られましたか。眠るとき、心も世界もありません。目覚めているとき、心があり、世界があります。この不変の共存は何を意味しますか。あなたは帰納論理学の原則に親しんでいます。それは科学的探究の土台に他ならないとみなされています。どうして、それらの一般に認められた論理の原則に照らして、この世界の現実性の問題を解決しないのですか。

 あなた自身について、「私は存在する」とあなたは言えます。つまり、あなたの(存在)は単なる存在ではなく、あなたが意識している存在(Existence)です。実際、それは意識とまったく一致した存在(Existence)です。

信奉者:
 世界は、それ自体を意識していないかもしれませんが、それでも存在します。

マハルシ:
 意識は、常に自意識です。あなたが何を意識していようとも、あなたは本質的にあなた自身を意識しています。自意識のない存在は、名辞矛盾<*1>です。それは全く存在ではありません。それは付属した存在に過ぎませんが、真の存在(Existence)、サットは属性ではなく、それは実体そのものです。それはヴァースツ(*4)です。それゆえ、現実はサット‐チット、存在(Being)‐意識として知られていて、決して一方を排除した他方だけではありません。世界は独りで存在せず、その存在を意識してもいません。そのような世界が現実であると、どうしてあなたは言えますか。

 それに、世界の性質とは何ですか。永続的な変化、継続した果てしない流れです。依存した、自意識のない、常に変化する世界が、現実のはずはありません。

信奉者:
 西洋の経験科学が世界を現実とみなしているだけでなく、ヴェーダなどもまた世界とその起源について複雑な宇宙論的描写を提示します。世界が非現実であるなら、どうしてそれらはそうしなければならないのですか。

マハルシ:
 ヴェーダなどの本質的な目的は、不滅のアートマンなる本質をあなたに教え、権威を持って「汝はそなり」と宣言することです。

信奉者:
 受け入れます。しかし、ヴェーダが世界を現実とみなさないならば、それはどうしてたいそう長く引き伸ばされた宇宙論的描写を提示しなければならないのですか。

マハルシ:
 あなたが理論において受け入れたことを実践に適用しなさい。残りはほっておきなさい。シャーストラは、あらゆるタイプの真理の探求者を導かなければいけません。そして、全ての人が同じ心の構成ではありません。あなたが受け入れられないことは、アルタ・ヴァーダ、補助的な主張として扱いなさい。

↓「Maharshi's Gospel]の用語集から
(*1)ジニャーニ・・・自らの知を達成した人
(*2)アジニャーニ・・・自分自身の本質について無知な人
(*3)ヨーガ・マーヤー・・・あるものの本質を隠し、幻の見かけを作り出す力
(*4)ヴァースツ・・・現実、究極的実体
↓shiba注
<*1>名辞矛盾・・・言葉の上で矛盾していること、「丸い四角形」など。

2011年12月17日土曜日

シュリー・シャンカラーチャーリヤの教えの批判への反論、世界の現実性

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 p289、290

Talk 315. 

付き添いの一人:
 シュリー・バガヴァーンは、「現実と架空のものは、共に同じものである」と言いました。 どうしてそうなのですか。

バガヴァーン:
 タントラ教徒やそのたぐいの他の人々は、正しい理解をせずに、シュリー・ シャンカラの哲学をマーヤー・ヴァーダ(*1) として非難します。彼は何と言いますか。彼は(以下のように)言います。

①ブラフマンは現実である(*2)
②全世界は架空のものである(*3)
③ブラフマンは全世界である

  彼は二番目の発言でやめず、それに三番目をさらに付け加えます。それは何を意味するでしょうか。全世界はブラフマンから離れていると思われており、その認識は誤りです。

 論敵は、彼のラッジュ・サルパ(縄と蛇)(*4)の例を指摘します。これは無条件の付加です。縄という真実が知られる後、蛇という幻はきれいさっぱり取り除かれます。しかし、彼らは条件つきの付加も考えに入れるべきです。つまり、マルマリーチカーもしくはムリガトリシュナ(蜃気楼の水)(*5)です。蜃気楼はそれを蜃気楼であると知る後さえも消えません。その景色はそこにありますが、水を求めて駆け寄ることはありません。

 シュリー・シャンカラは、両方の例示の見かたで理解されなければなりません。世界は架空のものです。それを知る後にさえも、世界は現れつづけます。世界はブラフマンであり、(それから)離れていないと知られなければなりません。

 「世界が現れるならば、しかし、誰に現れますか」と彼は尋ねます。あなたの答えは何ですか。あなたは自らと言わなければなりません。でなければ、世界は認識する自らがなくても現れるのでしょうか。それゆえに自らが現実です。これが彼の結論です。現象は自らとして現実であり、自らから離れては架空のものです。

 さて、タントラ教徒などは何を言いますか。彼らは、「現象はそれが現れる現実の一部であるから現実である」と言います。この二つの意見は同じではありませんか。これが「現実と虚偽が全く同じある」ということによって私が言わんとすることです。

 論敵は続けます。「無条件の幻と同様に条件つきの幻を考えに入れるなら、蜃気楼の水という現象は純粋に幻である。というのも、その水はどのような目的にも使えない。一方、世界という現象は異なる。というのも、世界には目的がある。それでは、どうして後者(世界)が前者(蜃気楼の水)と同等になるのか。」

 現象は、一つの目的、もしくは、複数の目的に叶うからというだけで、現実なるものになりえません。夢を例にとりましょう。夢の創造物には目的があります。それらは夢の中の目的に叶います。夢の中の水は夢の中の渇きをうるおします。しかしながら、夢の創造は目覚めの状態において否定されます。目覚めの創造は、他の二つの状態において否定されます。連続していないものは現実になりえません。現実であるなら、それは常に現実であるはずです。短い間だけ現実であり、その他の時間は現実でない、ということではなく。

 魔法の力による創造物も同じです。それらは現実のように見えますが、しかし、幻です。同じく全世界はそれ自身で、つまり、根底にある現実から離れて現実となりえません。

(*1)マーヤー・ヴァーダ・・・「幻についての教え」
(*2)ブラフマン・・・「至高の存在、絶対的現実」。「成長する、増大する」を意味する動詞のbrhから由来しており、「広大・無量」を含意する。万物の非人格的な、遍く行き渡る、無限の原因であり、支え。無形で無属性。万物のそれ自体はその原因をもたない原因。その本質は、サット(絶対的存在)、チット(意識)、アーナンダ(至福)である。
(*3) 全世界・・・英語のthe universeの訳。「存在するもの全て、万物、森羅万象、全世界」
(*4)ラッジュ・サルパ・・・ラッジュは「縄」で、サルパは「蛇」。暗闇の中で縄を蛇だと勘違いしてしまうという例。
(*5)マルマリーチカー/ムリガトリシュナ・・・「蜃気楼」

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 p190~191 前略

1946年4月7日 夜 

 この論点から、話は様々な思想学派へと移りました。ある学派はただ一つの現実のみあると言い、他の学派はジャガット、ジーヴァ、イーシュワラ(*1)、もしくは、パティ、パシュ、パーシャム(*2)というような三つの永遠の実体があると言います。これに関連して、バガヴァーンがユーモアたっぷりに以下のことを述べました。

 「アドヴァティンやシャンカラの学派が世界の存在を否定したり、彼らがそれを非現実とみなすと言うことはまったく正しくありません。それどころか、彼らにとってそれは他の人々よりも現実的なのです。彼らの世界は常に存在しますが、他の学派の世界は起源・成長・衰退を持ち、それゆえに現実になりえません。ただ、彼らが言うことは、世界は世界として現実でないが、世界はブラフマンとして現実であるということです。全てはブラフマンであり、ブラフマン以外何も存在せず、世界はブラフマンとして現実です。このようにして、彼らは他の学派以上に世界に現実性を与えていると主張します。

 例えば、三つの実体を信じている学派によると、ジャガットは現実性の三分の一でしかありませんが、アドヴァイタによると、世界はブラフマンとして現実であり、世界と現実は異なるものでありません。同様に、神やブラフマンにさえ、他の学派は三分の一の統治権しか与えていません。他の二つの実体が必然的に神の現実性を制限しています。ですから、シャンカラがマーヤー・ヴァーディ(*3)と呼ばれる時、『シャンカラはマーヤーが存在しないと言います。マーヤーの実在を否定し、それをミティヤや、非実在と呼ぶ彼をマーヤー・ヴァーディと呼ぶことはできません。その実在を認め、その産物である世界を現実と呼ぶ者たちがマーヤー・ヴァーディと呼ばれて然るべきです。イーシュワラを否定する者たちはイーシュワラ・ヴァーディ(*4)と呼べません。イーシュワラの存在を肯定する者のみがイーシュワラ・ヴァーディなのです・・・』と言い返せるかもしれません。」

 バガヴァーンはつづけて、「もちろん、この全ては無益な論争です。そのような論争に終わりはありません。なすべき適切なことは、『私』を見つけ出すことです。その存在について誰も疑いを持たず、眠っている間のように、他の一切のものが消えた時にそれのみが存続します。その後で、そのような疑問や論争の余地があるのか確かめなさい」と言い足しました。

(*1)ジャガット、ジーヴァ、イーシュワラ・・・「世界、個々の生命、神」
(*2)パティ、パシュ、パーシャム・・・シャイヴァ・シッダーンタ哲学の3つの主要素。文字通りの意味は「主人、牝牛、鎖」。「神、個々の生命、束縛」を意味する。
(*3)マーヤー・ヴァーディ・・・「マーヤー(幻)について論じる者、提唱者」
(*4)イーシュワラ・ヴァーディ・・・「イーシュワラについて論じる者、提唱者」

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』 p117、118

1946年8月24日
(69)ブラフマンは現実である-世界は幻である

 いくらか前に、アーシュラムへの新来者がバガヴァーンに英語で何か尋ねました。私はその言葉を知らないので、分かりませんでした。しかし、バガヴァーンはタミル語で答えました。私が把握できる限りの彼の返答を以下に記します。

バガヴァーン:
 ブラフマンが現実であり、世界は幻であると言われています。また、全世界はブラフマンのイメージ(心象、映像)であると言われています。これら二つの言明がどのように調和させられるのか、という質問が起こります。サーダカの段階において、あなたは世界は幻であると言わざるをえません。他の道はありません。なぜなら、人が自分が現実であり、永遠であり、遍く存在するブラフマンであることを忘れ、自分自身を移ろいゆく(多くの)体でいっぱいの世界の中の一つの体であると誤って思いこみ、その幻の下で苦しんでいる時、あなたは彼に世界は非現実であり、幻であると思いださせなければなりません。なぜでしょうか。なぜなら、この外側の物質的な世界すべてが非現実であると印象付けなければ、自分自身の自らを忘れた人の認識は、外側の物質的な世界に住まい、内観へと内に向かないからです。

 いったん人が自分自身の自らを実現し、そしてまた自分自身の自ら以外何も存在しないこと悟る時、彼は全世界をブラフマンとして見るようになります。自ら無くして、世界はありません。人が全ての起源である自分自身の自らを見ず、外側の世界だけを現実であり、永遠であると見る限り、あなたは彼に「この外側の世界すべては幻である」と言わなければなりません。そうせざるをえません。

 紙を例にとりましょう。我々は文字だけを見て、誰も文字が書かれた紙に注目しません。文字が上にあってもなくても、紙はそこにあります。文字が現実であるとみなす人々のために、あなたはそれが非現実であり、幻であると言わなければなりません。なぜなら、文字は紙に依拠しているからです。賢明な人は、紙と文字を一つであると見ます。ブラフマンと世界もまたそのようです。

 映画の場合も同じです。スクリーンはいつもそこにあります。映像は行ったり来たりしますが、スクリーンに影響しません。映像が現れても消えても、スクリーンが何か気にしますか。映像はスクリーンに依拠しています。しかし、映像はスクリーンにとって何の役に立ちますか。スクリーン上の映像のみを見て、スクリーンそのものを見ない人は、そのストーリーの中で起こる苦楽に悩まされます。しかし、スクリーンを見る人は、映像がすべて影(幻)であり、スクリーンから離れた別の何かではないと理解します。世界もまたそのようです。世界はまったく影絵芝居そのものです。

 質問者はその答えに喜び、いとまごいをし、去ってゆきました。