7.スワーミー・マードハヴァティールタ(抜粋)
滞在の二週目のある日に、私は山の道につづく北門のそばに立っていました。私と共に、シュリー・オーロビンドーのアーシュラムから戻った信奉者がいました。それは夕方のことで、シュリー・マハルシはいつもの夕べの散歩の後、その道を来ました。
私は彼に創造論への見解について尋ねたいと思い、シュリー・オーロビンドーのアーシュラムから帰った信奉者の存在は私にそのテーマに関するシュリー・オーロビンドーの見解に言及することを促しました。ここで言わせていただくならば、私はシュリー・オーロビンドーの哲学をよく知っています。25年ほど前に、私が彼を訪問していた初めごろ、私はそれらの宗教的なテーマについて彼と自由に議論したものでした。
前置きとして、私はマハルシにアーディ・シャンカラーチャーリアにより提示された創造についてのヴェーダーンタ的見解を抱いているのか尋ねました。その後で、シュリー・オーロビンドーの世界観についての議論に進みました。
質問:
シュリー・シャンカラーチャーリアのヴェーダーンタにおいて、初心者のために世界の創造の原理が受け入れられていますが、進んだ者には非創造の原理が提唱されています。この問題についてのあなたの見解は何ですか。
マハルシ:
Na nirodha na chotpattir
Nabaddho na cha sadhakaha
Na
mumukshur na vai mukta
Ityesha paramarthata
このスローカ(詩節)は、ガウダパーダ・カーリカ(マーンドゥーキョーパニシャッドについての注釈書)の第二章(ヴァイタトゥヤ・プラカラナ、第32詩節)に記されています。それが意味することは、真に、「創造もなく、消滅もない。束縛もなく、聖なる修練をする者もいない。聖なる解放を探求する者も、解放されている者もいない。これが絶対的な真理である」です。自らに打ち立てられた者は、彼の現実の知によって、これを見ます。
質問:
シュリー・オーロビンドーはこの地上で人間の体が最後のものではないと考えています。彼によれば、自らに打ち立てられることは人間の体で完全には得られません。なぜなら、自らの知はそこで自然な様子で働かないからです。それゆえに、自らの知が自然に働くことができるヴィジニャーナマーヤ・シャーリア(純粋な知からなる体)がこの地上にもたらされねばなりません。
マハルシ:
自らの知は人間の体の中で全く十分に輝くことができるので、他の体は必要ありません。
質問:
シュリー・オーロビンドーはヴィジニャーナマーヤ・シャーリアは病に襲われることはなく、年をとらないので、自分が望まなければ死なないと考えています。
マハルシ:
体そのものが病です。その病が長く留まることを望むのは、ジニャーニの目的ではありません。いずれにしても、人は体との同一化を放棄せねばなりません。「私は体である」という意識が自らの知を得ることを妨げるのとまさしく同様に、自分が体でないという確信を得た人は(解放を)望まなくても解放されます。
質問:
シュリー・オーロビンドーは人間の体に神の力をもたらしたいと思っています。
マハルシ:
委ねた後に、この望みを未だ持ってるならば、委ねは成功していません。人が「より高い力が降りてくるならば、それは私の体に入らねばならない(入るに違いない)」という態度を持つならば、体との同一化を増大させるだけです。真実を話せば、そのような降下の必要はありません。「私は体である」という思いの破壊の後、個人は絶対者の姿になります。その境地において、上も下も、前も後ろもありません。
質問:
個人が絶対者の姿となるならば、それでは誰が絶対者の至福を楽しむのですか。絶対者の至福を楽しむためには、少し離れた距離から砂糖を味わうハエのように、我々はそれから少し離れていなければなりません。
マハルシ:
絶対者の至福とは、自分自身の本質の至福です。それは生まれず、作り出されてもいません。作り出される楽しみは、必ず破壊されることになります。砂糖は感覚を持たないので、それ自身の味を与えられません。ハエはそれを味わうために少し距離を保たねばなりません。しかし、絶対者は自覚であり、意識です。それは自身の至福を与えられますが、その境地を得ることなしに、その本質を理解することはできません。
質問:
シュリー・オーロビンドーは、地上に新しい神の人種をもたらしたいと望んでいます。
マハルシ:
未来に得られるものは何であれ永遠ではないと理解されるべきです。あなたが今持っているものを正しく理解することを習いなさい。そうすれば、未来について考える必要はなくなります。
質問:
シュリー・オーロビンドーは、神が様々な種類の世界を創造し、未だ新しい世界を作ろうとしていると言います。
マハルシ:
我々の現在の世界そのものが現実でありません。各人が各々の想像に従い、様々な想像の世界を見ます。それでは、新しい世界が現実であるという保証がどこにありますか。ジーヴァ(個々人)、世界、神、これら全ては相対的な考えです。「私」という個人の感覚がある限り、それら三つもそこにあります。
この「私」という個人の感覚から、心から、これらの三つが生じています。あなたが心を停止させるなら、それら三つは留まらず、ブラフマンのみが留まります。そして、それは今でさえ留まり、住しています。我々は誤りゆえに物事を見ます。この誤った認識は、このジーヴァの本質を探求することにより正されます。たとえジーヴァが超越した心(*1)に入っても、ジーヴァは心に中に留まりますが、心を委ねた後はブラフマン以外の何も残りません。この世界が現実でも非現実でも、意識でも不活発でも、幸福な場所でも悲惨な場所でも、それら全ての状態は無知の状態に生じています。それらは実現(悟り)の後、役に立ちません。
アートマ・ニシター(自らに住まうこと)の境地は、「私」という個人の感覚がなく、至高の境地です。この境地において、物事を考える余地も、この個々の存在という感覚の余地もありません。存在‐意識‐至福というこの自然な境地において、どのような類の疑問も存在しません。
自分自身の中に名と形の認識がある限り、神は形を伴い現われますが、無形の現実の覚知(*2)が達成されるなら、見る者、見ること、見られるものという変形はありません。その覚知は意識そのものの本質であり、不ニで、分割されません。それは無制限で、無限で、完全です。
「私」という個人の感覚が体の中に生じる時、世界が見られています。この感覚がないなら、その時、誰が世界を見るのですか。
(*1)超越した心・・・英語の「Supermind」の訳。
(*2)覚知・・・英語の「vision」の訳。wikitionaryには①視覚②考えたり、想像するもの③理想や目的④超常的現象の宗教的、神秘的体験などとあります。
☆この翻訳の投稿を、同書の編著者であるデイビッド・ゴッドマン氏が快く許可してくださいました。
(Mr.David Godman who is author and editor of this book willingly permitted me to post this translation.)
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