2017年3月15日水曜日

自分自身、自らを知る場合にのみ、真のサマーディとなる

◇「山の道(Mountain Path)」、1964年10月 p239、247

兄への手紙-4
サマーディ

ナーガンマ著

 今朝、バガヴァーンの前に座っていたヨーロッパ人が、通訳を介して、言いました。「マーンドゥーキョーパニシャッドには、どれほどのディヤーナ(瞑想)やタパス(禁欲行)が行われようとも、サマーディもまた体験されなければ、モークシャ(解放)はあり得ないと述べられています。そうなのでしょうか」。

 バガヴァーンは返答しました。「正しく理解されるなら、それらは同じものです。あなたがそれをディヤーナやタパスやサマーディや他の何と呼んでも、違いはありません。油の流れのように、安定し、継続的なそれが、タパスであり、ディヤーナであり、サマーディです。その者自身の自らであることが、サマーディです。」

質問者:
 しかし、マーンドゥーキャでは、モークシャを得る前に、サマーディが必ず体験されねばらならないと言われています。

バガヴァーン:
 おや、そうでないと誰が言いましたか。マーンドゥーキャだけでなく、全ての聖典の中で、それは述べられています。しかし、あなたがあなた自身を知る場合にのみ、それは真のサマーディです。生命のない物のように、しばらくの間、じっと座っていることが何に役立ちますか。仮にあなたの手に腫れものができ、クロロホルムをかけ、それを手術してもらうとしましょう。あなたはその時、痛みをまるで感じません。ですが、それはあなたがサマーディにいることを意味しますか。これもまた同じことです。人はサマーディとは何か知らなければなりません。そして、あなた自身を知ることなく、一体どうしてサマーディを知ることができますか。自らが知られるなら、サマーディは自動的に知られるでしょう。

 そうしている間に、タミル人の信奉者がティルヴァーチャカムを開き、「追求に関する10の歌」を歌い始めました。終わりのほうの一節に、こうありました。「おお、イーシュヴァラ、あなたは逃れようとするが、私はあなたをしっかりつかんでいる。ゆえに、どこへあなたが行けるのか。どうしてあなたが私から逃れられるのか」。バガヴァーンは微笑んで意見を述べました。「どうやらは逃れようとしていて、彼らはをしっかりつかんでいるようですね!がどこに逃れられるというのでしょうか。がどこに存在していませんか。は誰ですか。この全ては一つの野外劇でしかありません。同じ本の中に別の連続した10の歌があります。その一つは次のようになります。『おお、我が神よ!あなたは私の心をあなたの住まいとした。あなたあなた自身を私に与え、その代わりに、あなたの中へ私を取り込んだ。主よ、我々の内のどちらがより賢明なのか。あなたが私に手渡されるなら、私は終わりなき至福を享受するが、あなたが私を取り込んでも、あなたにとって私は何に役立つのか。我が父なる神よ、私への限りない憐れみの中、あなたが私の体をあなたの寺院とした時、私は何をあなたに与えられるというのか』。これは、『私』というようなものはないということを示しています。その美しさを御覧なさい。『私』というようなものがない所に、誰が行為者ですか。献身であれ、自らの探求であれ、サマーディであれ、何が行われていますか。」

2017年3月4日土曜日

スラグの物語 - 「私は誰か」探求することで自らを実現した高貴な王

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年10月、p239~241

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅵ


スラグの物語

M.C.スブラマニアンによるサンスクリット語からの翻訳

ヴァーシシュタはラーマに言った:
 蓮華のごとき目をした若者よ!あなた自身の内なる自らをあなたが熱心に探すなら、あなたは至高なる無限の境地にあなたの安らぎを見出すでしょう。聖典とグルの言葉の意味を熟慮し、対象的世界の否定を修練すればするほど、ますます容易にその境地を得ます。離欲と理解と感覚の制御を培うことによって、その聖なる境地に達します。それは聡明な探求を通してのみ得られます。感情の汚れのない鋭く、悟りに達した理解によって、かの永遠の境地を得ることができます。

ラーマは尋ねた:
 過去、現在、未来を知る主よ!サマーディを経験し、その後それから出て、いつでも彼自身の内の安らぎに留まりながら、務めに精を出す者がいますが、独居を頼りとし、常にサマーディに打ち立てられている者もいます。これら二者のどちらが優れていますか。

ヴァーシシュタは答えた:
 この雑多なグナの寄せ集めを自らでないとみなす者によって体験される内なる静穏が、サマーディとして知られています。ある者は「私は知覚対象物と何の関わりも持たない」という結論に達し、日々の務めに穏やかに従事し、他の者はサーマディに留まり続けます。彼らが内面的に穏やかであるなら、その両者が幸福でしょう。内なる安らぎが、偉大な禁欲行(精神的修練)の結果です。サマーディに打ち立てられた人の心が不安定になるなら、彼の状態は狂人の跳ね回りのようになるでしょう。けれども、狂人のように跳ね回る者の心が絶対的に概念から解放されているなら、彼の跳ね回りは賢者のサマーディも同然です。活動的な覚者と森に棲む他の覚者の間に違いはありません。彼らは共に一切の疑いを超えた境地を得ています。

 その心が無概念である彼は、たとえ活動的であっても、行為者でありません。彼は一見、話を聞いているように見えますが、その心はうわの空でいる者のようです。その心が概念でいっぱいである彼は、一見、穏やかに見えても、内心悩んでいます。彼は、体が安らかに横たわっているのに、高いところから落下している夢を見る人のようです。心の安定が真のサマーディです。それは真の至福なる絶対的境地です。

 心の安定および不安定が、サマーディおよびその不在を決定します。それゆえ、心から一切の概念をはぎ取りなさい。心に概念がない時、それは安定として知られています。それそのものが集中です。それは絶対的な安らぎの境地としても知られています。概念の根絶は完全であるべきです。なぜなら、それのみが人を至高なる境地に導くからです。行為者の感覚のみが、概念を生み出します。それらは悲しみの原因であるため、人はそれらを忌避すべきです。一切の概念的思いから解放され、あなたは家に住んだり、山で生活するかもしれません。その心が完全な制御下にあり、その自我意識が死んでいる家住者にとって、その家は森の隠れ家も同然です。

 商店街には様々な活動に従事する人々がいるかもしれませんが、(よそ者にとって)彼らは存在しないも同然です。なぜなら、彼は彼らに興味がないからです。まさしくそのように、都市は森と同様に賢者にとって安らかでしょう。その心が内に向いた者にとって、眠っていても起きていても、座っていても歩き回っていても、村、都市、王国は森のごとくです。その心が常に内に向けられている者にとって、万物は空です。心が安らかでいる時、全世界は純粋な意識でしかないと見出されるでしょう。大地、大気、虚空、山々、川、方角は、外側にあるように見えますが、全て心の概念でしかありません。様々な活動に従事しながらでさえ、内心幸福である彼は、世界の悲喜によって影響されません。彼の心は自然に制御されています。全ての存在を彼自身としてみなし、全ての所有物をがらくたとみなす彼は、まことに見ます。今日、もしくは、カルパの最後に、死をやって来させましょう。奥深く埋められた黄金のように、彼はそれによって影響されません。万物は、始まりも終わりも中間もない、かの静穏なる不生の存在、全ての喜びの源としての、あらゆる所で輝く純粋な意識です。そのようにそれを描くことでさえ、ある程度それを示すだけでしかありません。それはオームの意義です。それは全顕現の背後にある永遠の沈黙です。

 この文脈で、スラグという名の狩人の長についての興味深い伝説をあなたに語りましょう。カイラーサとして知られるヒマラヤ山脈に、ヘーマジャータとして知られる狩猟民族が住んでいました。彼らにはスラグという名の高貴な王がいました。彼は多くの都市を征服し、デーヴァ族の間の最も勇敢な戦士の高慢の鼻をへし折りさえしました。臨機応変に力や説得を使いながら、彼は王の務めに従事しました。しかし、じきに彼は務めを果たすことから起こる悲喜に嫌気がさしました。そこで彼は思いました。「どうして私は搾油機のごとく人民から搾り取るのか。苦しみは全ての存在にとって同じだ。しかし、堤防なくして川が存在しえないのとまさしく同様に、私が正義を執行しなければ、人々は(安全に)生きられない」。そのように迷い、彼は心安らかではありませんでした。ある日、賢者マーンダヴヤが偶然、彼の宮殿にやって来ました。スラグは賢者を深い尊敬の念をもって迎え入れ、彼が一息ついた後、彼に言いました。「おお、賢者よ!あなたにお会いでき、うれしく思います。私は今日、全ての正しき(有徳の)人々の長として立っています。主よ!あなたはダルマとは何か知っています。太陽が闇を払うように、私の疑いをどうぞ取り除いてください。偉大な方々との交際によって和らげられない苦悩を持つ者が誰かいますか。知る人々は疑いが最悪の苦悩であると言います。悲惨の唯一の原因である思いが、象をひっかき傷つけるライオンの爪のように、私を引き裂いています。太陽のあまねく行き渡る光線のような静穏を私に体験させてください。おお、賢者よ!私はあなたの他に寄る辺を持ちません。私をお憐みください。

 マーンダヴヤは言いました:
 おお、王よ!あなたが熱心な努力をし、あなたに知られている全ての手段を活用するなら、太陽の前の雪のように、あなたの不安は溶け去るでしょう。心の不純は、「私は誰か」「どのようにこの世界は存在するようになったのか」「どのように誕生と死が起こるのか」という形の自らの探求によって確実に取り除けます。あなた自身の内をそのように探求するなら、あなたは確かに最高の境地を得るでしょう。あなたがあなたの自らなる本質を理解するとき、あなたの心は心であることをやめ、静止し、不安の高ぶりから解放されるでしょう。今ここで、おお、罪なき者よ、あなたは焦燥感を取り除けます。おお、王よ!小さなハエが牝牛のひずめによって形作られた水たまりの中でさえ溺れるのとまさしく同様に、狭量な心は些事にさえかき乱されます。人が自らを実現する時、知覚対象物は放棄されます。他のあらゆるものが断念されてはじめて、自らを実現できます。その時残るものが自らです。他のあらゆるものが手放されないなら、人は並みの欲望の対象でさえ得られません。ではどうして、完全なる放棄なくして、自らが実現できますか。それゆえ、自らを実現するために、人は他のあらゆるものを放棄すべきです。その時残るものが、至高なる境地です。あなたの体を含め、原因と結果からなる、この世界を投影する、心を放棄しなさい。その時、至高なる存在が残り、それがあなたです。

 そのようにスラグに助言した後、マーンダヴヤは彼自身の住まいに戻りました。その後、王は独居に入り、「実際、私とは誰なのか」内に探求し始めました。「私は骨、筋肉、神経、脂肪からなる手足や他の器官を伴う体ではない。私は感覚器官ではなく、行為の器官でもない。私はこれら全ての対象物を目撃する意識である。私は、それゆえに、他のあらゆるものを排除した後に残るもの、概念を欠く、純粋な意識である。虚空のごとく、私は全世界の万物に行き渡っている。自ら、主は、真珠(の首飾り)を貫通する紐のごとく存在している。彼はあらゆる概念を欠く純粋な意識の光である。彼は四方八方に行き渡っている。彼は(時に)恐ろしい姿を帯びる。自らは全概念の中に内在している。それは極めて微細であり、存在および非存在の観念を全く超えている。それはブラフマーの世界にはじまる、以降、全ての世界に存在し、全ての力の発祥の地である。この世界の中で知覚されるものは何であれ、実際、意識の振動である。永続的なのものは何もない。私は、それゆえに、汚れなく、無概念の、サンサーラなる錯覚から解放された自らの中に穏やかに住まおう。欲望と混乱を超え、私は深い眠りの中の者のごとくあろう」。そのように決意し、ガーディの息子がバラモンの立場*1を得たののとまさしく同様に、識別と推論を通じて、ヘーマジャータ族の王は至高なる自らなる比類なき境地を達成しました。一切の現世の対になる両極から解放され、深い眠りに沈んだ者のごとく、彼は生きました。

ヴァーシシュタは続けた:
 では、悟りを開いたスラグと王なる賢者パルナーダとの素晴らしい対話を聞きなさい。パリガという名の広く知られたペルシャ族の王がいました。戦において彼はパリガ(鉄のこん棒)のごとくであり、相対する戦士たちにとって恐怖の的でした。彼はスラグの親友でした。ある時、パリガの王国でひどい飢饉が起こりました。多くの人々が飢え死にしました。彼らの貧苦を見、彼らを救う力がないことを悟り、彼は王国を捨て、タパスを行うために森に行きました。穏やかな心でジャパを行いながら、彼は枯れ葉だけを食べました。そのため、彼はパルナーダ(葉を食べる人)として知られるようになりました。厳しいタパスを1000年行うことによって、絶え間ない靈的努力によって、彼は自らなる意識を得ました。彼は二元性と悲嘆からの自由を得、万物を唯一なる現実の顕れとみなしました。彼は望むままに三世界を動き回りました。ある時、ヘーマジャータ族の王が彼の住まいに行きました。そこで二人の旧友は心より互いを歓迎し、言いました。「あなたに会えてとてもうれしいです。ああ、私の善行が実を結びました」。パリガはスラグに言いました。「あなたが知恵を得たのとまさしく同様に、私もまた得ました。あなたは、おお、王よ、万事、明晰で純粋な心で行っていますか。あなたは体の病や内面の不安から解放されていますか。あなたが人を欺く感覚の楽しみをまるで欲しないと私は確信しています。完全な平静と静穏によって得られる、一切の心の概念を超える至高なるサマーディにあなたは打ち立てられていますか」。

 スラグは答えました。「おお、偉大なる方よ!無知の中をのたうつ者は、自らを実現した人になりません。じっとしていても、活動的でも、彼は決してサマーディを得ません。悟りを開いた者たちは、世俗的な活動に従事している間でさえ、サマーディに打ち立てられているでしょう。なぜなら、彼らは自ら、唯一なる現実にしっかりと住まっているからです。人がブラフマーンジャリ*2の仕草をして手をつなぎ、蓮華座に座っていても、心が落ち着いていなければ、どうしてサマーディを得られますか。おお、主よ!真の知は、欲望なる枯草を燃やし尽くす火です。これがまさしくサマーディと呼ばれるもので、単に会話を控えることではありません。おお、有徳の者よ!サマーディという言葉は、人を完全に賢明にし、常に満足させ、物事をありのままに示す、至高なる知を意味すると賢なる人々は言います。サマーディは、完全に一切の高ぶり、利己心、対になる両極から解放され、メール山よりも堅固に打ち立てられている、かの境地であると言明されています。それは思い、欲望、受容と拒絶の観念から解放された心の完全性です。カーラ(時の神)が刹那でさえ意識を失わないのとまさしく同様に、賢なる者は決して彼の自らを忘れません。常に流れるそよ風のように、賢なる者は純粋な意識として永遠に流れます。おお、最上の人よ!高潔な者は、常に自らなる現実を意識し、万物を平等な目で見ます。彼らは一切の対になる両極から解放されています。彼らは知識と無知を超える絶対的な意識として留まっています」。

 パリガは言いました。「おお、王よ!あなたは真に悟っています。あなたは至高なる境地を得ています。あなたの心は静穏であり、あなたの見解は深遠です。おお、王よ!あなたはあらゆるところに輝きます。あなたは純粋で、全てに行き渡り、絶対的に完全であり、利己心から解放され、自らに打ち立てられています。一言でいえば、真の幸福を得るためには、ただ一つの方法しかありません。心が一切の対象性に背を向け、全てに行き渡る唯一なる意識を認識するなら、それが至高なる至福の境地です」。

原注
*1クシャトリアとして生まれたヴィシュヴァーミトラは、一点に集中したタパスの力によって、バラモンになりました。
*2崇拝の間に手を組み合わせてする挨拶。