サマーディ
ナーガンマ著
今朝、バガヴァーンの前に座っていたヨーロッパ人が、通訳を介して、言いました。「マーンドゥーキョーパニシャッドには、どれほどのディヤーナ(瞑想)やタパス(禁欲行)が行われようとも、サマーディもまた体験されなければ、モークシャ(解放)はあり得ないと述べられています。そうなのでしょうか」。
バガヴァーンは返答しました。「正しく理解されるなら、それらは同じものです。あなたがそれをディヤーナやタパスやサマーディや他の何と呼んでも、違いはありません。油の流れのように、安定し、継続的なそれが、タパスであり、ディヤーナであり、サマーディです。その者自身の自らであることが、サマーディです。」
質問者:
しかし、マーンドゥーキャでは、モークシャを得る前に、サマーディが必ず体験されねばらならないと言われています。
バガヴァーン:
おや、そうでないと誰が言いましたか。マーンドゥーキャだけでなく、全ての聖典の中で、それは述べられています。しかし、あなたがあなた自身を知る場合にのみ、それは真のサマーディです。生命のない物のように、しばらくの間、じっと座っていることが何に役立ちますか。仮にあなたの手に腫れものができ、クロロホルムをかけ、それを手術してもらうとしましょう。あなたはその時、痛みをまるで感じません。ですが、それはあなたがサマーディにいることを意味しますか。これもまた同じことです。人はサマーディとは何か知らなければなりません。そして、あなた自身を知ることなく、一体どうしてサマーディを知ることができますか。自らが知られるなら、サマーディは自動的に知られるでしょう。
そうしている間に、タミル人の信奉者がティルヴァーチャカムを開き、「追求に関する10の歌」を歌い始めました。終わりのほうの一節に、こうありました。「おお、イーシュヴァラ、あなたは逃れようとするが、私はあなたをしっかりつかんでいる。ゆえに、どこへあなたが行けるのか。どうしてあなたが私から逃れられるのか」。バガヴァーンは微笑んで意見を述べました。「どうやら彼は逃れようとしていて、彼らは彼をしっかりつかんでいるようですね!彼がどこに逃れられるというのでしょうか。彼がどこに存在していませんか。彼は誰ですか。この全ては一つの野外劇でしかありません。同じ本の中に別の連続した10の歌があります。その一つは次のようになります。『おお、我が神よ!あなたは私の心をあなたの住まいとした。あなたはあなた自身を私に与え、その代わりに、あなたの中へ私を取り込んだ。主よ、我々の内のどちらがより賢明なのか。あなたが私に手渡されるなら、私は終わりなき至福を享受するが、あなたが私を取り込んでも、あなたにとって私は何に役立つのか。我が父なる神よ、私への限りない憐れみの中、あなたが私の体をあなたの寺院とした時、私は何をあなたに与えられるというのか』。これは、『私』というようなものはないということを示しています。その美しさを御覧なさい。『私』というようなものがない所に、誰が行為者ですか。献身であれ、自らの探求であれ、サマーディであれ、何が行われていますか。」
0 件のコメント:
コメントを投稿