2015年4月26日日曜日

『A Search in Secret India』 第9章 ⑦出会いのごとき別れ

◇『秘められしインドでの探求(A Search in Secret India)』 邦題:秘められたインド

 私は彼のもとを離れ、密林の中の静かな場所へと遠ざかり、そこで覚え書きと書籍に囲まれて、その日の大半を過ごした。夕闇が迫るころ、私は講堂へ戻った。1、2時間の内に、ポニーの四輪車か雄牛の二輪車が到着し、隠遁所から私を運び去る。

 燃えているお香が空気に香りをつける。私が入ると、揺れているプンカーの下でマハルシは半ばもたれかかっていたが、すぐに上半身を起こし、彼のお気に入りの姿勢をとった。彼は足を交差させて座り、右足は左太ももの上に置かれ、左足は右太ももの下に単に収められていた。マドラス近郊に住むヨーギ、ブラマによって、よく似た姿勢を見せられたことを私は思い出した。彼はそれを「安楽座」と呼んだ。実際、それは半跏趺坐であり、なかなかにやりやすい。マハルシは、習慣通り、右手であごをつかみ、肘をひざの上に置いた。次に、彼は私を注意深くじっと見つめたが、全く沈黙したままだった。彼のそばの床上に、彼のひょうたんの殻でできた水差しと彼の竹の杖を私は目にとめた。一片の腰布を除き、それらは彼の唯一の浮世の所有物だった。我々西洋の貪欲の精神への何という無言の論評なのか!

 彼の両目は常に輝いているが、着実によりうつろになり、定まった。彼の体は硬直した姿勢になった。彼の頭はわずかに震え、その後、静止した。さらに数分後、私がはじめて彼に会った時に彼がいた忘我のような状態に彼が再び入ったことがはっきり見て取れた。何と奇妙にも、我々の別れは我々の出会いを繰り返すのだろうか!誰かが顔を私の顔に近づけ、「マハルシは聖なる忘我の状態へ入りました。今や話しても無駄です」と耳元でささやいた。

 静けさが小集団に訪れる。一分一分がゆっくりと過ぎるが、静寂はただ深まるばかりだ。私は宗教的ではないが、私の心をつかみ始めた増しゆく畏敬の感情に私が抗えないのは、蜂が香り高く咲く花に抗えないのと同じだ。つかみどころがなく、名状しがたい微細なが、講堂に充満していき、私に深く影響を及ぼす。疑いなく躊躇なく、私が感じるのは、この謎めいた力の中心がマハルシ自身に他ならないということだ。

 彼の両目が驚くべき光沢をもって輝く。奇妙な感覚が私の中に生じる。その光沢のある眼球は、私の魂の最も奥まった所をのぞき込んでいるように思える。一風変わった方法で、彼が私の心の中で見ることができる一切のものに気づいていると私は感じる。彼の謎めいた一瞥が私の思い、私の感情、私の欲求を見通す。その前に、私はなす術もない。はじめ、この当惑させる眼差しは私を悩ませた。私は漠然と不安になった。私が忘れていた過去に属する記録を彼が見てとったのだと私は感じた。彼はそれを全部知った、確かに私はそう思った。私には逃れる力がない。どういうわけか、逃れたいとも思わない。何らかの好奇心をそそる未来の暗示が、その無慈悲な眼差しに耐えるよう私に強いた。

 そうして彼は私の弱々しい魂をしばらく捕らえつづけ、私の雑多な過去を見てとり、私をあれやこれやの道にいざなった入り混じった感情を感じた。しかし、彼がまた、どのような心に破壊的な探求が私を駆り立て、一般的な道から離れさせ、彼のような人々を探し出させたのかも理解したと私は感じた。

 我々の間をたゆたうテレパシー的な流れの中に、はっきりと分かる変化が訪れた。その間、私の目は頻繁にまばたきしたが、彼の目はわずかの揺らぎもないままだった。彼が私自身の心を彼の心に確かに繋ぎつつあることに、彼が私の心を刺激して彼が永続的に享受しているように思える星々のごとくきらめく平穏の境地へ入らせようとしていることに私は気づいた。この並外れた安らぎの中で、私は高揚感と軽快感を見出した。時は静止しているように思えた。私の心は心配の重荷から解き放たれた。怒りの苦渋や満たされない欲求の憂鬱が私を悩ませることは二度とないだろうと私は感じた。種に生まれついてある深い本能、人に元気を出すよう命じ、希望を抱くように彼を励まし、人生に影が差した時に彼を支えるそれは、真の本能であると私は深く悟った。なぜなら、存在の本質は善であったからだ。この美しい高まった沈黙の中で、時計が動きを止め、過去の悲しみや誤ちが取るに足りないもののように思えた時、私の心はマハルシの心の中に沈み込みつつあり、知恵は今やその近日点にあった。この人の眼差しは、私の卑俗な目の前に予期せぬ輝きをもつ隠された世界を呼び出す魔術師の杖以外の何であるのか。

 この弟子たちが、わずかの会話とよりわずかの快適なもので、彼らを引きつける外的な活動もなしに何年も賢者のまわりに留まっているのはなぜなのか、私は時々自問していた。今や私は理解し始めていた-思考によってでなく、稲妻のような啓示によって-その年月の間中ずっと、彼らが奥深い静かな報酬を受け取っていたことを。

 今まで講堂の全ての人は沈黙し、死のような静寂に入っていた。ようやく誰かが静かに立ちあがり、出て行った。彼の後に別の人、さらに別の人と続き、終には全員いなくなった。

 私はマハルシと二人っきりだ!以前に一度もこんなことは起こらなかった。彼の目が変化し始める。両目が針の先まで狭まる。その現象は、カメラのレンズの焦点を「絞ること」に奇妙に似ている。今やほとんど閉じられた、まぶたの間で輝く強烈なきらめきにすさまじい高まりが訪れた。突如、私の体は消えたように見え、我々二人は空間の外にいた!

 それは決定的な瞬間だった。私は躊躇したが-この魔法使いの呪文を破ろうと決意した。その決意は力をもたらし、今一度、私は肉体の中に、講堂の中に戻った。

 一言も彼から私に伝えられなかった。私は気持ちを落ち着け、時計のほうを見て、静かに立ち上がった。別れの時間が訪れた。

 私はお辞儀して、別れの挨拶をした。賢者はその行為に気づいたことを無言で知らせた。私は感謝の言葉を二言三言述べた。再び、彼は無言でうなずいた。

 私は入り口で名残惜しげに居残っていた。外で、鈴がチリンチリンと鳴るのを私は聞いた。雄牛の二輪車が到着したのだ。今一度、私は手のひらを合わせ、両手を掲げた。

 そして、我々は分かれた。

2015年4月22日水曜日

『A Search in Secret India』 第9章 ⑥マハルシとの対話-(2)

◇『秘められしインドでの探求(A Search in Secret India)』 邦題:秘められたインド

 その後の数日間、私はマハルシとより親密に接触しようと努めたが、失敗した。この失敗には、三つ理由が存在した。一つ目の理由は、彼自身の控え目な性質、彼が論争や討論を明らかに好まないこと、人の信条や意見への感情を表わさない彼の無関心から自然と生じた。全く明らかとなったことは、賢者が、彼自身の意見が何であっても、それに誰をも転向させることをまるで望まず、ただの一人でも彼の追随者に加えようとする気がまるでないことだ。

 二つ目の理由は、確かにおかしなものだったが、それでもなお、それは存在した。あの奇妙な夢の夕べ以来、彼の面前に行く時はいつでも、私は大変な畏敬の念を感じた。そのように感じなければ私の口からとうとうと出たであろう質問は沈黙させられた。なぜなら、一般的な人類に関する限り、人が同列に対話したり、議論したりできる人として彼をみなすことは、ほとんど冒涜のように思えたからだ。

 私の失敗の三つ目の理由は、いかにも単純なものだ。ほとんどいつも、講堂には他に数人の人がいた。それで、私の個人的な思いを彼らの前で持ち出す気持ちにならなかった。つまるところ、彼らにとって私は見知らぬ人、この地方にいる外国人である。私が彼らの内の何人かに向けて異なる言語を発することはほとんど重要でないことだったが、私が宗教的感情によってかき乱されない皮肉っぽく懐疑的な見解を抱いていることは、私がその見解を述べようとする時、大いに重要なことだった。私には彼らの信心深い敏感な感情を傷つけようとする気はまるでなかったが、また、私にとってほとんど魅力的でない観点から問題を議論しようとする気もまるでなかった。それで、ある程度、このことは私を口ごもらせた。

 三つの障壁すべてを越える平坦な道を見出すことは、簡単ではなかった。数回、私はまさにマハルシに質問しかけたが、三つの要因の内の一つが邪魔に入り、私の失敗を引き起こした。

 予定された週末は早々と過ぎ、私はそれを1週間に延長した。私がその名にふさわしいマハルシと交わした最初の会話は、同様に、最後の会話となった。一つか二つのまったく通り一遍のありきたりの会話の断片を超えて、私はその人と正面からぶつかれないでいた。

 1週間が過ぎ、私はそれを2週間に延長した。日ごと、賢者の心の佇まいの素晴らしい安らぎ、彼の周りの空気そのものに行き渡る静穏を私は感じた。

 私の訪問の最終日がやって来たが、私は彼とまるでより親密になっていなかった。私の滞在は、崇高な気分とマハルシとの価値ある個人的接触を達成し損なうことでの気落ちとが、じれったく入り混じっていた。私は講堂を見まわし、少し意気消沈した。この人たちの大部分は、内輪でも表でも異なる言語を話している。どうすれば彼らに近づけるというのか。私は賢者自身を見た。彼はそこでオリンポス山の頂上に座り、人生の移り変わる光景を離れたところからじっと見ている。この人の中には、私が出会った他の一切の人と彼を区別する謎めいた特性がある。どことなく私は、彼は我々人類に属していないどころか、自然にも属しておらず、隠遁所の背後に唐突にそびえ立つ孤峯に、遠くの森にまで広がる密林の荒れ地に、全空間を満たす計り知れない虚空に属している、と感じた。

 孤独なアルナーチャラの石のように冷徹で不動の性質が、いくらかマハルシの中へ入ったようだった。彼が30年間山で生活し、たった一度の短い旅のためでさえ、山から離れることを拒んでいることを私は知った。そのような親密な付き合いは、必然的に人の性格にその影響を及ぼすはずだ。彼がこの山を愛していることを私は知った。というのも、賢者がこの愛を表すために記した、魅力的ではあるが哀れを誘う詩の数詩節を誰かが翻訳したからだ。この孤山が密林のへりからそびえ立ち、そのずんぐりした頭を空に真っ直ぐ立てているのとまさしく同様に、この奇妙な人は、人類一般という密林の中から孤独に気高く、いやむしろ、唯一人だけ、彼自身の頭を掲げている。アルナーチャラ、神聖なかがり火の山が、全景を取り巻く山々の不規則な連なりから離れ、遠ざかって立つのとまさしく同様に、彼自身の信奉者たち、彼を愛し、彼のそばで何年も過ごしている人々に取り囲まれている時でさえ、マハルシは謎めいて超然としたままだ。万物の非人格的で、計り知れない性質-殊更、この神聖な山において例証される(性質)-が、どういうわけか彼の中へ入った。それは彼のか弱い仲間たちから彼を隔絶した-おそらくは永遠に。彼がもう少し人間的であれば、ちょうど彼の非人格的な面前に示された弱々しい失敗のように、我々にとってまったく普通に思えるものにもう少し敏感であれば、と気がつけば願っていることもあった。そうかといって、彼が並々ならぬ何らかの崇高な悟りを本当に得ているなら、人間を超えることなく、彼の鈍重な種族を永遠に置き去りにすることなく、そうすることをどうして彼に期待できるのか。彼の奇妙な一瞥のもと、何らかの途轍もない啓示がすぐにでも私になされるかのように、私が奇妙な期待した状態を必ずも体験するのはなぜなのか。

 けれども、はっきりとした静穏の雰囲気と記憶の空にきらめく夢よりほかは、言葉やその他による啓示は私に伝えられていない。時間の切迫によって、私はいくぶん必死になっていた。ほぼ2週間が過ぎたが、重要な意味を持つ会話が一つだけだ!賢者の声の愛想のなさでさえ、暗に、私を遠ざけることに一役かっていた。この普通でない接見もまた、思いも寄らないものだった。というのも、黄色いローブをまとった聖職者が私に浴びせた、ここへ来るようにとの情熱的な勧誘を私は忘れていなかったからだ。じれったいことは、私が他の全ての人々よりも賢者に、私のために口を開くことを望んだことだ。なぜなら、ある一つの思いが、どういうわけか私の心を手中に収めていたからだ。私はそれをどのような推論の過程によっても得たわけではない。それは求められずとも、全く自ずからやって来た。

 「この人は一切の問題から脱しているので、どのような災難も彼を害することはできない。」

 この支配的な思いの趣旨は、そういったものだった。

 私は強引に質問を言葉に表そうとする新たな試みをしようと、マハルシを質問への応答に引っ張り込もうと決意した。私は彼の古くからの弟子の一人にもとへ赴いた。彼は隣接する小屋で何か仕事を行っていて、私にとりわけ親切にしてくれていたので、彼の師と最後に話をしたいという私の望みについて彼に熱心に伝えた。私が気後れを感じ、賢者と自ら論じ合うことができないことを打ち明けた。その弟子は、同情するように微笑んだ。彼は私を残して去り、彼の師が喜んで対談に応じるという知らせと共にすぐ戻って来た。

 私は急いで講堂に戻り、都合がいいように寝台のそばに腰を下ろした。マハルシはすぐさま顔を向け、彼の口元は緩み、愛想よく挨拶した。すぐに、私は気持ちが和らぎ、彼に質問し始めた。

 「ヨーギたちは、真理を見出すことを望むのなら、この世を放棄し、人里離れた密林や山々へ入らねばならないと言います。そのようなことは、西洋において、ほとんど行えません。我々の生活は、非常に異なります。あなたはヨーギたちの意見に賛成でしょうか。」

 マハルシは、上品な顔つきのバラモンの弟子のほうを向いた。弟子は、彼の答えを私に翻訳した。

 「活動的な人生を放棄する必要はありません。あなたが1時間か2時間、毎日瞑想するというのなら、その後、あなたの務めを続けられます。あなたが正しい方法で瞑想するなら、務めの最中でさえ、引き起こされた心の流れは流れ続けるでしょう。それは同じ考えを表わすのに、二つの方法が存在するようなものです。あなたが瞑想の中でとるのと同じ態度が、あなたの活動の中で表されるでしょう。」

 「それを行うことの結果はどうなるでしょうか。」

 「あなたが進む(続ける)につれ、人々や出来事や対象に対するあなたの態度が徐々に変化することにあなたは気づくでしょう。あなたの行為は、自ずからあなたの瞑想に倣う傾向になるでしょう。」

 「では、あなたはヨーギたちに賛成しないのですね」。私は彼に態度を明確にさせようとした。

 しかし、マハルシは直接的な回答を避けた。

 「人はこの世に彼を縛りつける個人的な利己性を放棄すべきです。偽りの自分を捨て去ることが、真の放棄です。」

 「世俗的に活発な生活を送りながら、無私無欲になることが、どうして可能でしょうか。」

 「務めと知恵の間には、何の衝突もありません。」

 「つまり、例えば、職業において、人はいつもの全ての活動を続けることができ、同時に、悟りを得ることができるということですか。」

 「もちろんです。しかし、その場合、務めを行っているのが、いつもの人格であると人は考えません。なぜなら、その人の意識は徐々に移され、終には、小さな自分を超えてあるそれの中心に置かれるからです。」

 「人が務めに従事するなら、彼には瞑想する時間がほとんど残されていないでしょう。」

 マハルシは、私の難題に全く動じないように見えた。

 「瞑想のために別に時間を設けることは、靈性の初心者のためだけでしかありません」と彼は答えた。「働いていても、働いていなくても、進歩しつつある人は、より深い至福を享受しはじめるでしょう。彼の両手は社会にありますが、彼は独り頭を冷静に保ちます。」

 「では、あなたはヨーガの道を教えないのですか」。

 「牛飼いが雄牛を棒で駆り立てるように、ヨーギは彼の心を目標へと駆り立てようとしますが、この道において、探求者はひとつかみの草を差し出すことで、雄牛をなだめ導きます!」

 「どのようにそれをするのでしょうか。」

 「あなたは、『私は誰か』という問いをあなた自身に尋ねなければなりません。この探求は、心の背後にある、あなたの内の何かの発見へ最後には通じるでしょう。この大問題を解決しなさい。そうすれば、それによって、あなたは他の一切の問題を解決するでしょう。」

 会話が途切れた。私が彼の答えを消化しようと試みたからだ。インドの大変多くの建物において窓の役割を果たす、鉄格子で閉じられた四角い枠組みの壁の穴から、私は神聖な山の低斜面の素晴らしい眺めを得た。その奇妙な輪郭は、早朝の太陽の光の中に浸っていた。

 再び、マハルシは私に語りかけた。

 「このように表現するなら、もっとはっきりするでしょうか。全ての人間は、悲しみに染まることなく、幸福を常に欲しています。彼らは終わりを迎えない幸福をつかみたいのです。その本能は、真のものです。しかし、あなたは今までに、彼らが彼ら自身をもっとも愛しているということに衝撃を受けたことはありませんか。」

 「というと」

 「では、それを、人間があれやこれやの手段を通じて、飲み物(お酒)を通じて、または、宗教を通じて、幸福を得ることを常に望んでいるということに結び付けなさい。そうすれば、あなたは人の本質への糸口を与えられています。」

 「私には分かりかね-」

 彼の声の調子は、さらに高くなった。

 「人の本質こそが幸福なのです。幸福は、真の自らの内に生まれついてあります。彼の幸福の探求とは、真の自らの無意識の探求です。真の自らは、不滅です。そのため、人がそれを見出す時、彼は終わりを迎えることのない幸福を見出します。」

 「しかし、世界はとても不幸ではありませんか。」

 「ええ。しかし、それは、世界がその真の自らに無知なためです。全ての人が、例外なく、意識的、もしくは、無意識的にそれを探し求めています。」

 「悪人、残忍な人、犯罪者でさえもですか」と私は尋ねた。

 「彼らでさえ、彼らが犯す、あらゆる罪の中に、自身の幸福を見出そうとしているために罪を犯します。この奮闘は人に本能的なものですが、彼らが実際は彼らの真の自らを探し求めていることを知らないがために、幸福への手段として、まずはそれらの邪悪な方法を試みます。もちろん、それらは誤った方法です。行いは己に跳ね返って来るからです。」

 「では、我々がこの真の自らを知る時、我々は永続する幸福を感じるのでしょうか。」

 もう一方(マハルシ)は、首を縦に振った。

 太陽の一筋の斜光が、ガラスのはまっていない窓を通じ、マハルシの顔に降り注いだ。その整った眉には静穏があり、その引き締まった口まわりには満足があり、その光輝く両目には聖堂のごとき安らぎがある。彼のしわのない顔つきは、彼の啓示の言葉に反していない。

 これらの一見すれば単純な文で、マハルシは何を言わんとしているのか。翻訳者はそれらの表面的な意味を英語で私に伝えた。なるほどそうではあるが、彼が伝えることができない、より深い意味が存在する。私がそれを自分自身で発見しなければならないことを私は分かっている。賢者は、哲学者としてでなく、自身の教説を説明せんとするパンディットとしてでなく、むしろ彼自身の心の奥底から語っているように思える。これらの言葉は彼自身の幸運な体験の表れなのか。

 「あなたが話す、この自らとは厳密には何なのでしょうか。あなたがおっしゃることが真実であるなら、人の中にはもう一人の自分がいるはずです。」

 一瞬、彼の唇は湾曲し、微笑んだ。

 「人が二つの人格、二人の自分を所有できますか」と彼は答えた。「この問題を理解するためには、人が彼自身を分析することが、まずは必要です。他の人が考えるように考えることが彼の長年の癖になっているため、彼は真の方法で彼の『私』に一度も向き合っていません。彼は彼自身を正しく捉えていません。彼はあまりに長く、彼自身を体や脳と同一視してきました。ですから、私はあなたに、この探求、『私は誰か』を追求するように言うのです。」

 彼は間を置き、これらの言葉を私に染み込ませた。私は彼の次の文に熱心に耳を傾けた。

 「あなたは、この真の自らをあなたに説明するように私に頼みます。何が言えますか。その中から個人の『私』という感覚が生じ、その中へと『私』が姿を消さなければならない、それです。」

 「姿を消すですって?」と私はおうむ返しに言った。「どうして人が人格の感覚を失うことができるのですか。」

 「全ての思いの中の一番最初の思い、全ての人の心の中の原始の思いは、『私』なる思いです。この思いの誕生の後はじめて、どのような他の思いも生じることができます。第一人称の『私』が心に生じた後はじめて、第二人称の『あなた』が姿を現すことができます。あなたがその『私』という糸を心の中でたどることができ、終には、それがその源まであなたを導くなら、それが最初に現れる思いであるのとまさしく同様に、最後に姿を消す思いでもあることをあなたは発見するでしょう。これは体験しうる事柄です。」

 「あなたが言わんとするのは、自分自身へのそのような心の探求を行うことが全く可能であるということでしょうか。」

 「もちろんです!内に進み、終には、最後の思いである『私』が徐々に消え去ることは可能です。」

 「何が残るのでしょうか」と私は尋ねた。「人は、その時、全く無意識になるのでしょうか、それとも、馬鹿者になるのでしょうか。」

 「そうではありません!それどころか、彼が人の本質である真の自らに目覚めた時、彼はかの不死なる意識を得、彼は真に賢明になるのです。」

 「しかし、『私』の感覚は、きっと、それにもまた付属するはずではありませんか」と私は食い下がった。

 「『私』の感覚は、人に、体と脳に付属します」とマハルシは穏やかに答えた。「人がはじめて真の自らを知る時、何か他のものが彼の存在の奥底から生じ、彼を手中に収めます。かの他のものは、心の背後にいます。それは無限で、神聖で、永遠です。ある人々はそれを天の王国と呼び、他の人々はそれを魂と呼び、さらに他の人々はそれをニルヴァーナと名づけ、我々ヒンドゥー教徒はそれを解放と呼びます。あなたが好むどんな名前をそれに与えてもかまいません。これが起こる時、人は、実際、彼自身を失っていません。むしろ、彼は彼自身を見出したのです。」

 最後の言葉が通訳者の口から出ると、ガラリヤのさすらいの教師によって発された印象的なあの言葉、大変多くの善人を困惑させた言葉が、私の脳裏を横切った。「己が命を救わんとする者は誰であれ、それを失い、己が命を失う者は誰であれ、それを保つ。(ルカによる福音書、17:33)

 その二つの文は、なんと奇妙にも似通っているのか!だが、そのインドの賢者は、彼独自の非‐キリスト教的方法で、はなはだ難しいように思え、なじみのないように映る心理学的な道を通り、その考えに到った。

 マハルシは再び話し、彼の言葉が私の思考に割って入った。

 「人がこの真の自らの探求に乗り出さないならば、乗り出すまでは、疑念や迷いが、一生、彼の後についてまわります。最も優れた王や政治家たちは、心の奥底では彼らが彼ら自身を支配できないことを知っているのに、他者を支配しようとします。それでも、最も優れた力は、最奥の深みへ貫通した人の意のままです。多くの物事についての知識を集めることに人生を費やす非凡な知性を持つ人々がいます。その人たちに、人間の神秘を解き明かしたのか、彼ら自身に打ち勝ったのか尋ねてみなさい。そうすれば、彼らは恥じ入ってうなだれます。あなたが誰か、いまだあなたは知らないのに、他の全てのことについて知ることが何の役に立ちますか。人は真の自らへのこの探求を避けますが、それほどにとりかかる価値があるものが他に何かありますか。」

 「それは実に困難で、超人的な課題です」と私は意見した。

 賢者は、ほとんど気づかれない程度、肩をすくめた。

 「その実現性の問題は、自分自身の体験の問題です。困難は、あなたが思うほど現実的ではありません。」

 「活動的で、実際的な西洋人である我々にとって、そのような内観は-」、私は疑い深げに始め、文を宙ぶらりんのままにしておいた。

 マハルシは上半身を倒し、新しい線香に火をともした。それは、赤い火花が消えかかっている線香と置き換えられる。

 「真理の実現は、インド人にとってもヨーロッパ人にとっても同じです。それへの道が世俗的生活に夢中である人々にとってより困難であることを認めざるをえないにしても、その場合でさえ、人は勝利を得られますし、勝利を得なければなりません。瞑想中に引き起こされた流れは、維持しようと修練することによって、習慣的に維持することができます。その時、人はまさにその流れ自体の中で務めや活動を行えます。途切れはなくなります。従って、また、瞑想と外的な活動の間の相違もなくなるでしょう。あなたがこの質問、『私は誰か』について瞑想するなら-あなたが体も、脳も、欲求も、実のところあなたではないことを知り始めるなら、その時、探求のまさしくその姿勢が、あなた自身の存在の奥底からあなたへ答えを引き寄せるでしょう。答えは、深い悟りとして、自ずからあなたのもとへ訪れるでしょう。」

 再び、私は彼の言葉をじっくり考えた。

 「真の自らを知りなさい」と彼は続けた。「そうすれば、その時、陽の光のごとく、真理があなたのハートの内から輝き出るでしょう。心に心配事はなくなり、本当の幸福が心にみなぎるでしょう。幸福と真の自らは、全く同じです。いったん、あなたがこの自らの自覚を得るなら、あなたはもはや疑念を抱かないでしょう。」

 彼は頭の向きを変え、その視線を講堂の遠くの端に定めた。彼が会話の限度に達したことが、その時、分かった。そうして我々の最後の会話は終わり、出発前に、寡黙という殻から運よく彼を引き出せたことを私は喜んだ。

2015年4月9日木曜日

『A Search in Secret India』 第9章 ⑤夢の中での導き

◇『秘められしインドでの探求(A Search in Secret India)』 邦題:秘められたインド

 我々がヤシの木に囲まれた中庭に馬車で入った時、ホタルが隠遁所の庭園中を飛び回り、暗闇の背景に光の奇妙なパターンを描いていた。そして、私が長い講堂に入り、床の上の座に身を沈めた時、崇高な静寂がこの場所に達し、空気に広がったように見えた。

 集まった客人は講堂のあちこちに列をなしてしゃがんでいるが、彼らの間にはざわめきも会話もない。角の寝台にマハルシは座り、彼の両足は下に折りたたまれ、彼の両手は無造作に両ひざに置かれている。あらためて、彼の姿は質素で地味だと私に印象づけたが、それでいて、威厳があり、印象的だ。彼の頭は、ホメロス時代の賢者の頭ように、堂々として落ち着いている。彼の両目は、講堂のはるか端の方をじっと見つめ、動かない。この眼差しが奇妙に定まっていることは、依然として困惑させるものだ。彼は最後の一筋の光が空から消えゆくのを窓ごしに見守っているに過ぎないのか、それとも彼は何か夢のような放心状態に夢中なために、この物質的世界をまるで見ていないのか。

 お香のいつもの煙が屋根の木製の梁の間をただよう。私は腰を落ち着け、マハルシに視線を定めようと試みたが、しばらくすると目を閉じたいという微(かす)かな衝動を感じた。賢者の付近で私をより深く貫きはじめた、つかみどころのない安らぎにあやしつけられ、私が半ば眠っているような状態に落ちるまで、さほど時間はかからなかった。ついに私の意識は途切れ、その後、私は鮮明な夢を体験した。

 私は5歳の小さな男の子になったようだった。アルナーチャラの神聖な山の周りを巻き上がる、でこぼこした道の上に私は立ち、マハルシの手を握っている。しかし、今や、彼は私のそばに高々とそびえ立つ姿をしている。彼は巨人サイズに成長したようだった。彼は隠遁所から私を連れ出し、見通すことのできない夜の暗闇にもかかわらず、道沿いに私を先導し、我々は共にゆっくりと歩いた。しばらくして、星々と月は協力して、我々の周囲にほのかな光を投げかけた。岩地の裂け目の周りと不安定に位置した非常に巨大な丸石の間を、マハルシが注意深く私を先導していることに私は気づいた。山は険しく、我々はゆっくりと登った。岩々と丸石の狭い裂け目に隠れ、密生した低木にかくまわれた、小さな隠遁所と人の住む洞窟が視界に入って来た。我々が通り過ぎる時、その住民たちは我々に挨拶しようと出てきた。彼らの姿は星明りの中で幽霊のような様相を呈したが、彼らが様々な類のヨーギであると私は認めた。我々は彼らのために立ち止まることなく、孤峯の頂きにたどり着くまで歩き続けた。我々はついに立ち止まり、何か重大な出来事が私に起ころうとしているという奇妙な予感で私の胸は高鳴っていた。

 マハルシは振り返り、私の顔をのぞき込んだ。それに応え、私は期待を込めて彼をじっと見上げた。私は心の中で謎めいた変化が非常な速さで起こっていることに気づいた。私を誘惑してきた古くからの動機は、私から去った。私の足をあちらこちらに運んできた切迫した欲求は、驚くほどの迅速さで消え去った。私の仲間との関係性を特徴づける嫌悪、不和、冷淡、利己性は、無の深淵へと崩れ去った。語ることのできない安らぎが私に降り注ぎ、私が人生から求めるべきものはこれ以上何もないことを今や私は知った。

 突然、マハルシは視線を山のふもとに向けるように私に言いつけた。私は素直にそのようにし、驚いたことに、地球の西半球がはるか下に広がっていることに気づいた。それは無数の人々で混み合っている。私はたくさんの人影として彼らをおぼろげに見分けたが、夜の暗闇はいまだ彼らを包み込んでいた。

 賢者の声が私の耳に届いた。彼の言葉はゆっくりと発された。

 「あなたがそこに戻る時、あなたが今感じている、この安らぎをあなたは味わうでしょう。しかし、その代価として、あなたはこれ以後、『私はこの体、もしくは、この脳である』という考えを捨て去ることになります。この安らぎがあなたに流れ入る時、あなたはあなた自身を忘れなければならないでしょう。なぜなら、あなたはそれにあなたの命を引き渡してしまっているだろうからです!」

 そして、マハルシは一筋の銀色の光の一端を私の手に置いた。

 その浸透する崇高さの感覚をいまだ持ったまま、私はその並外れて鮮明な夢から目覚めた。即座に、マハルシの目が私の目と合った。彼の顔は今や私の方向に向き、私の目をじっと見続けていた。

 その夢の背後に何があるのか。個人の人生の欲求や苦痛は、しばらくの間、忘却の彼方へと消えて行った。自らへの高貴な無関心、そして、私が夢の中で作りだした私の仲間への心からの憐れみのこの状態は、今、私が目覚めているにもかかわらず立ち去ろうとしない。奇妙な体験だ。

 しかし、その夢がその中に何らかの真実性を持つとしても、そのこと(体験?)は長く持つまい。それはまだ私にふさわしくない。

 どれぐらい私は夢の中に沈んでいたのか。というのも、講堂にいる全ての人が今や立ち上がり、寝るための準備をし始めたからだ。やむをえず、私も例に倣わねばならなかった。

 まばらに換気孔が設けられた、あの長い講堂で眠るのはあまりに息が詰まるので、私は中庭を選んだ。灰色のあご髭をした背の高い弟子が私のところに手さげランプを持ってきて、夜中ずっと灯し続けるように私に忠告した。蛇やチーターといった歓迎されない訪問者の可能性があるが、彼らは光に近づかないことが多い。

 地面はカラカラに固くなり、私はマットレスを持っていなかった。その結果、数時間、私は眠りに落ちなかった。しかし、問題なかった-私にはじっくり考えるべきことが十分にあった。マハルシの中で、人生がいまだ私の経験領域にもたらしたことのない最も謎めいた人格に出会ったと感じたからだ。

 賢者は私に相当な素晴らしい瞬間を運んだようだったが、その正確な性質をたやすく見定めることはできなかった。それはつかみどころがなく、計り知ることができず、おそらくは神聖なものだった。その夜、私が彼のことを思うたびに、あの鮮明な夢を思い出すたびに、奇妙な感覚が私を貫き、私の胸をおぼろげではあるが高尚な期待で高鳴らせた。

2015年4月6日月曜日

『A Search in Secret India』 第9章 ④アルナーチャラの大寺院

◇『秘められしインドでの探求(A Search in Secret India)』 邦題:秘められたインド

 私は乗り物を呼んでくるように言い付けて人を町区へ行かせた。寺院を視察したいと思ったからだ。もしその場所にあるなら、馬車を見つけてくるように私は彼に頼んだ。牛車は見る分には趣があるが、とても人が望みうる速度と快適さではないからだ。

 私が中庭にはいると、ポニーの2輪馬車が私を待っていることに気づいた。馬車には座る所がなかったが、そのような特徴はもはや私を困らせなかった。運転手はいかつい顔つきの男で、汚れた赤いターバンを頭に巻いている。彼の唯一の他の衣服は、腰帯になった漂泊されていない長い布であり、一方の端が両ふとももの間を通り、ウエストに押し込まれている。

 ほこりまみれの長い道を経て、ついに、巨大な寺院への玄関が、彫刻を施された浮き彫り模様の立ち昇る階層と共に、我々を迎えた。私は馬車を降り、大まかに探索し始めた。

 「アルナーチャラの寺院がどれほど古いのか私には分かりません」と私の連れ合いが質問に答えて述べた。「でも、ご覧のように、その時代は数百年前にさかのぼるに違いありません。」

 門の周りと寺院の出入り口には、小さな店と派手な売店が数店あり、覆いかぶさるヤシの木々の下に建てられている。そのそばには、みすぼらしい装いの聖画の行商人と真鍮製の小さなシヴァや他の神々の聖像の売り手が座っている。私は圧倒的多数のシヴァの彫像に心を打たれた。というのも、他の場所では、クリシュナとラーマが首座を占めているように思えたからだ。私の案内人は説明を与えた。

 「我々の神聖な伝説によれば、シヴァ神はかつて、神聖な赤い山の頂上に炎として現れました。そのために、寺院の神官たちは、数千年前に起こったに違いない、その出来事を記念して一年に一度、大きなかがり火に火をともします。シヴァがいまだ山を統治しているので、寺院はそれを祝うために建てられたのだと思います。」

 数人の巡礼者がぼんやりと露店をうかがっている。そこでは、これら小さな真鍮製の神々だけでなく、宗教的な物語に由来する何らかの出来事を描いた派手な多色石板画、タミル語とテルグ語で印刷されたインクしみだらけの宗教的人物に関する本、ふさわしいカーストや宗派の印をひたいにつけるための色つき塗料も買える。

 ハンセン病にかかった物乞いが、ためらいがちに私の方に近づいてきた。彼の手足の肉は、ぼろぼろに崩れかかっている。可哀想に、私が彼を追い払うのか、それとも、私の憐れみの念を起こさせることができるのか、どうも彼には確信が持てないようだ。彼の顔は、恐ろしい病によって硬直している。私は地面に施し物を置きながら、恥ずかしく思ったが、彼に触れることを恐れていた。

 人物が彫刻されたピラミッド構造状に形作られた門が、次に私の注意を引いた。この大きくそびえ立ったポルティコは、とがった先端が切り落とさられたエジプト由来のピラミッドのようだ。その3基の仲間とともに、門はその地方を見下ろしている。人はそれらに近づくずっと前、数マイル前から、それらを目にすることができる。

 塔の正面は、おびただしい彫刻と古風な趣のある小さな彫像で覆われている。その題材は、宗教的神話や伝説から取られている。そこには風変わりな雑然とした状態が表現されている。人は熱心な瞑想に夢中になったヒンドゥーの神々が独りでいる姿を見たり、なまめかしい抱擁をした折合わさった姿を目にとめ、不思議に思う。それは人に、ヒンドゥー教の中には全ての人の好みに合う何かがあり、この教義の一切を包含する性質とはそういった具合であることを思い出させる。

 私は寺院の境内に入り、気がつくと巨大な中庭の一部にいた。巨大な建造物が、複雑に入り組んだ列柱、回廊、歩廊、神殿、部屋、廊下、屋根のある場所、屋根のない場所を取り囲んでいる。ここには、アテネ近くの神々のあれらの宮殿のように、数分間の静かな驚嘆の中に人の感情を静める円柱状の美をもつ石の建築物はなく、むしろ暗く謎めいた陰気な聖域がある。その広大な奥行きは、よそよそしい肌寒い空気によって私に畏怖の念を起させる。その場所は迷路のようであるが、私の連れ合いは自信ありげな足取りで歩く。外では、塔がその赤みがかった石の彩色で魅力的に見えたが、内では、石造物は灰色である。

 私たちは一枚壁と平屋根、屋根を支える趣ある彫刻が施された柱がある長い回廊を通り抜けた。薄暗い廊下と暗い部屋へ移り、ついに、この古の寺院の外庭に立つ巨大なパルティコに到着した。

 「千柱講堂です!」 私が時の経過で灰色になった建造物をじっと見ていると、私の案内人が知らせた。彫刻が施された巨大な平らな石柱の密集した列が、私の前に広がっている。その場所は、さびれ、人けがない。その巨大な柱は、薄暗がりの中から怪しげにぼんやりと現れている。柱の表面の多くを覆っている古代彫刻をよく見るために、私はさらに柱に近づいた。それぞれの柱は、単一の石のかたまりからできていて、柱が支える屋根さえも何枚もの平らな石からできている。彫刻家の腕の助けで神々と女神がはしゃいでいるのを、再び、私は目にした。見知った動物と見知らぬ動物の彫刻を施された顔が、再び、私をじっと見つめた。

 我々はこれらの柱で支えられた歩廊の敷石の上をぶらぶら歩いて横切り、芯がひまし油に浸かった小さなお椀状のランプによって、あちこち照らされた暗い通路を通りぬけ、そうして、中央の囲い地の近くに到着した。その囲い地へ渡る時に、再び明るい日差しの中に出ることは心地よかった。今や、寺院の内部に点在する、五つの小さな塔を目にすることができる。それらは、高い壁に囲われた中庭の玄関口を特徴づける、ピラミッド状の塔そっくりに形作られている。私は我々の近くに立つ一基を調べ、それが煉瓦で建造されていて、その装飾された表面は、実際、石の彫刻ではなく、焼成粘土か何らかの耐久性のある石膏から形作られているという結論に達した。肖像のいくつかは明らかに塗料で引き立たされているが、今や色あせている。

 我々が囲い地に入り、この驚くほど大きい寺院の少し長めの暗い通路をぶらぶら歩いて回った後、私の案内人は、ヨーロッパ人が足を踏み入れることを許されない中央神殿に近づきつつあると私に警告した。しかし、至聖所は異教徒に禁止されているにしても、その入り口に通じる暗い廊下から垣間見ることは許されている。彼の警告を裏づけるかのように、太鼓をたたく音、どらを激しく打つ音、聖職者の単調な呪文を私は耳にした。その声は、年月を経た聖域の暗闇の中でいくぶん薄気味悪く響く、単調な旋律へ入り混じっていた。

 期待をこめて、私はちらりとのぞいた。薄暗がりの中から、聖像の前に設置された黄金に輝く炎、2~3の薄暗い祭壇照明、何らかの儀式に従事する数人の崇拝者の光景が浮かび上がる。私は聖職者らしい音楽家たちの姿を認めることはできなかったが、今や、法螺貝とシンバルが耳触りで異様な調べをその音楽に加えるのを耳にした。

 私の連れ合いは、私がいることが聖職者たちに明らかに歓迎されないので、これ以上留まらない方が私にとって良いだろうとささやいた。そこで直ちに、我々は、寺院の外側部分の眠気を催す神聖さの中へ退いた。私の探検は終わった。

 今一度、我々が入り口に到着した時、私は脇へ寄らねばならなかった。年配のバラモンが、小さな真鍮製の水差しをそばに置き、道の真ん中で地面に座っていたからだ。彼はひたいに派手なカーストの印を塗り、左手に割れた鏡の破片を持っていた。目下、額の上に現れる赤と白の三つ又のほこ-南部の正統派ヒンドゥー教徒のしるし-は、西洋人の目には、道化師のように異様に映る。寺院の門のそばの売店の中に座り、聖なるシヴァの小さな像を売る、しわの寄った老人が視線を上げ、私の視線と合わさった。彼の暗黙の要求に応じ、私は何かを買うために立ち止まった。

 町区の遠くの端のどこかで、私は大理石のミナレットの輝く白さを目に留めた。そこで、私は寺院を後にし、地元のモスクへ馬車で向かった。私の中にある何かが、モスクの優美なアーチと丸天井の繊細な美しさにいつも感動を覚える。再び、私は靴を脱ぎ、素敵な白い建物に入った。何とうまく設計されているのか。というのも、その丸天井の高さが、否応なく人の気分を高揚させるからだ!数人の崇拝者がいる。彼らは、小さな色彩豊かな礼拝用マットの上に座り、ひざまずき、平伏している。ここには謎めいた神殿はなく、派手な聖像もない。ムハンマドが、人と神の間に何ものも-聖職者ですら!-入るべきではないと記しているからだ。全ての崇拝者は、アッラーの面前において平等である。人がメッカの方を向く時、聖職者もパンディットも存在せず、人の思考に介在する上位の存在の階層制度も存在しない。

 我々が大通りを通って戻る時、両替店、砂糖菓子の露店、織物商人の店、穀類と米の売り手を私は目に留めた。全ては、その場所をあらしめた古の聖域への巡礼者のために存在している。

 今や、私はマハルシのもとへしきりに戻りたくなった。運転手はポニーを急きたて、我々の前に延びる道のりを足早に進ませた。私は振り返って、アルナーチャラの寺院を最後に一瞥した。9基の彫刻された塔が、(古代エジプト神殿の)双塔状の門のように空中へそびえ立っている。それらは、古代の寺院の建設に至った、神の名の下での忍耐強い労苦について私に語る。それは建設するために人の一生涯以上を要したに違いないからだ。再び、エジプトの奇妙な追憶が、私の心を貫いた。通りの住宅建築さえ、その低い家々と分厚い壁の中にエジプトの特徴を有していた。

 これらの寺院が見捨てられ、見放され、これらが現れ出た赤色と灰色のちりへとゆっくり崩れ去る時が、いつの日か来るのだろうか。それとも、人は新たな神々を見つけ、その神々を礼拝するための新たな寺院を建設するのだろうか。

 我々のポニーが、さらに向こうの岩が散在する山の斜面の一つにある隠遁所へ向かう道沿いに疾駆する間、自然が我々の目の前に美の華やかな行列を全面に展開していることに気がつき、息を飲んだ。太陽が、その大変な輝きを伴い、夜の寝床に休みに行く、東洋のこの時間を私は幾たび待ったことか!東洋の夕焼けが、その鮮やかな色合いの美しい揺らめきで、心をつかむ。それでも、このすべての出来事は、あっという間に終わった。半時間足らずのことだった。

 ヨーロッパのあの長引く夕べは、ここではほとんどなじみがない。西のはずれに、巨大な燃える火の玉が、密林に向かって目に見えて下がり始めた。空の丸天井からの急速な消失の前触れとして、それは最も際立ったオレンジの色合いを帯びた。その周りの空は、あらゆる色のスペクトラムを帯び、どんな画家にも決して与えられない芸術的なご馳走を我々の目に提供した。我々の周りの田園と木立は、深まった静寂へと入った。小鳥たちのチュッチュッとなく声はもはや聞こえない。野生の猿たちのキャッキャとなく声は収まった。赤い炎の巨大な円は、どこか他の次元へと素早く消えていった。夕べのカーテンがさらにいっそう厚く下り、すぐに、突き出た舌のような炎と広がった色彩の全景は暗闇に沈んでいった。

 静けさが私の思考に染み込み、その美しさは私の胸にぐっときた。この穏やかな5分間が、人生の残酷な上っ面の下に、美しく情け深い力がいまだ隠れているかもしれないという思いと我々を戯れさせる時、運命が我々に割り当てた、この時間を人がどうして忘れられるのか。この数分は、我々の単調な時間を恥じ入らせる。暗い虚無から、それは隕石のように現れ、希望のはかない尾っぽに火をともし、その後、我々の視界から消え去った。