2017年9月16日土曜日

元不可知論者、物理学教授、N.R.クリシュナムルティ・アイヤル氏の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

48.
N.R.クリシュナムルティ・アイヤル教授(1898-1994)は 、マドゥライのアメリカン・カレッジで33年間物理学を教えていました。1920、30、40年代、彼はアーシュラムの定期的な訪問客でした。彼はThe Essence of Ribhu Gitaを著しました。
  1914年4月、ティルパティへの途中、私の両親はヴィルーパークシャ洞窟にいるバガヴァーンに会いに行きました。他の全ての人々と共にバガヴァーンにお辞儀したとき、彼の恵み深く神聖なまなざしが私に定められました。しかし、私は他の少年たちと一緒にその場所を走り回っていたので、彼にほとんど注意を払いませんでした。帰宅した後、大きな変化が私に訪れました。その時まで、私はどの寺院にも行きたいと思ったことは一度もありませんでしたが、いわば、何か不可思議な魅力によって、私の町のティルチラパッリの岩の寺院の巨大で厳かなマトゥルブーテーシュワラ・リンガムに引っ張られるように感じました。一度、寺院の内部で、大いなる安らぎが私を圧倒しました。私が感じた喜びは形容しがたいものでした。

 1919年1月、ティルヴァンナーマライの姉の家を訪れる機会があったとき、私はスカンダーシュラムでバガヴァーンのダルシャンを得ました。この時もまた、バガヴァーンの恵み深いまなざしは私に印象付けられました。家に着き、朝食後に寝たとき、二時間以上私はしっかり意識がありましたが、同時に、私の体と周囲をまったく意識していませんでした。昼食に起き上がった後でさえ、私の周りの全てのものが夢のように感じました。私の困惑した表情を見た人々は私をからかいました。

 1923年、私の教師としての経歴の最初の年の終わりに、私は再びティルヴァンナーマライの姉を訪れ、アーシュラムに行きました。当時、私は、インドの政治的向上のために働いていたガナパティ・ムニのような人々に対してとても共感していました。私はまた、国の解放のために指一本も上げないバガヴァーンのような人々に対して怒りを感じていました。私は、その時、不可知論者でした。私は言いました-自然は自分で自分の面倒を見る。どこに創造者の必要があるのか。

 当時、アーシュラムには、母のサマーディを覆う小屋を除き、建物はありませんでした。バガヴァーンが彼の近くの犬を撫でながら、木の下のベンチに座っているのを私は目にしました。我々バラモンの間では、犬は清浄を汚す動物でした。マハルシへの私の敬意の大半は消え失せました。私は彼に尋ねました-あなたはそのように座っています。あなたの次のスティティ(状態)は何でしょうか。

 私の考えは、肉体の解消の後に生き残る魂があり、後で神に統合するという答えを彼から引き出すことでした。そうではないということを証明するために、私は彼と言葉で一戦交えたかったのです。数分経ちましたが、何の返答もやって来ませんでした。私は心の中で思いました。「この人は、都合の悪い質問に答えるのを避け、馬鹿げた無関心の沈黙の下に逃げ込んでいるのか」。ちょうどその時、バガヴァーンの声が響き渡りました。「スティティ、あなたの言うスティティとはどういう意味ですか」。

 私はその質問に備えていませんでした。私は心の中で思いました。「うわっ、この人はとても危険だ、彼は危いぐらい生き生きしてるぞ。しかるべき配慮をして答えないといけない」。私は考え始めました。もし私が彼に体について尋ねるなら、それは無益な質問だ。体は埋められるか燃やされるだろう。さあ、質問が心の状態についてであると私が言うなら、当然、彼は心を定義するよう私に尋ねるだろう。その答えは私の内に現れようとしない。私は穴にはまり込み、無力な口をきけない人のようでした。バガヴァーンの目には凄まじい輝きがあり、それは私自身の目をしっかり捕らえ続けました。私は体と世界の意識を共に失いました。それがどれほど続いたのか分かりません。我に返った後、私はマハルシがひどく恐ろしくなりました。我知らず、私は平伏し、一目散に逃亡しました。

 次の訪問のとき、アーシュラムのサルヴァーディカーリが私を昼食に招待し、私の到着の数週間前、私の父と母がアーシュラムにやって来て、バガヴァーンとアーシュラムにいる人々にビクシャーを差し上げたと私に言いました。昼食後、バガヴァーンの写真と小さな本を二冊-アルナーチャラ・ストゥーティ・パンチャカムとラマナ・ストゥーティ・パンチャカム-を彼は私にくださいました。私がこれらの贈り物をもってバガヴァーンに近づいたとき、彼は二冊の本の中の印刷ミスを万年筆で訂正し、それらを手のひらで撫で、その神聖な彼の手でもって私に返しました。

 夕食を終えた後、私はバガヴァーンの短い散歩について行き、尋ねました。
N.R.K: バガヴァーン、私はラーマ・ジャパをしています。私は「ラーマ、ラーマ、ラーマ」と唱えています。「アルナーチャラ・シヴァ、アルナーチャラ・シヴァ」と唱えることは、それより優れていませんか。 
バガヴァーン: いえ!いえ!両者は同じものです。「ラ」は「それは~である」を意味し、「マ」は「あなた」を意味します。アルナーチャラの「ア」は「それ」を意味し、「ル」は「あなた」を意味し、「ナ」は「である」を意味します。それゆえ、両方ともが「そが汝なり-あなたはそれである」を意味します。 
 あなたの心を口として使い、主ヴィシュヌのチャクラ(円盤状の武器)のように、ラーマという名前を心の中で途切れなく回転させましょう。他の誰にもあなたがジャパをしていることを知らせないようにしましょう。 
N.R.K: もし私が全ての時間をそのように使うなら、私の教職はどうなるでしょうか。私の仕事が危険にさらされるのではないでしょうか。
バガヴァーン: あなたが復唱する名前を持つ者が、その責任を完全に負うでしょう。あなたがそれについて心配する必要ありません。ラーマ・マントラを復唱し続けなさい。 (↑ Ramana Periya Puranam p318からの内容を追加し、読みやすいように対話形式にしています。 shiba注)

 アーシュラムを離れる前、サルヴァーディカーリがミーナクシ寺院の厳かな聖像、ナタラージャの写真を彼に送るよう私に頼みました。少年ラマナは、マドゥライを永久に離れる前、恍惚の涙をさめざめと流しながら、その像の前で長い時間立っていました。彼はまた、ティルチュリのラマナが生まれた家とそこの他のいくらかの場所の写真も欲しがりました。それらはスッダーナンダ・バーラティによるタミル語の伝記Sri Ramana Vijayamの中に配置されるよう意図されていました。私の生徒であり、熟練の写真家、P.R.S.マニの助けによって、その要望を満たすことに成功しました。

 1930年の終わり頃、私は寝たきりでした。痛みと苦しみがとてもひどかったもため、ただこれ以上痛みに耐えられないという理由から、私は真剣に自殺を考えていました。妻は彼女の両親に私の命が危ないと電報を打ちました。翌日、私は妻に数日以上生きられないかもしれないと告げました。

 かろうじてそれらの言葉を話した後、ティルヴァンナーマライから帰ったばかりで、偶然そこにいたシュリー・ラマナの少年時代の友人、ヴィラチ・マニ・アイヤルが、バガヴァーンのヴィブーティとクムクムのプラサードを取り出しました。彼は少量のクムクムを私の額(ひたい)に置き、ヴィブーティを私の眉の上にこすり付けました。即座に、ゾクゾクするような喜びが私の全身を震わせ、良好な健康状態の感覚で私を満たしました。私はベッドから体を起こし、妻に言いました。「とても具合がいいよ。私は死なないだろう。心配無用だ」。

 その夜のうちに、妻の両親が私のいとこのラージャゴーパル医師とともに到着しました。彼は我々をカルールの彼の家まで連れて行き、ひと月私を治療し、それまでに私は健康を完全に取り戻しました。その時、私はトリッチーで聞いた歌を思い出しました。「ジャイ・シュリー・ラマナ!我が主ラマナ、シヴァに勝利あれ!」。私の魂は同じ歌を歌っていました。

 私の66歳の父は脱腸と喘息の両方を患っていました。これらの病気は、バガヴァーンが生まれた家を手に入れるための交渉に必要だった、マドゥライとティルチュリ間の頻繁な旅のためにさらに悪化しました。取引が終わり、その不動産を3000ルピーで獲得した後、交渉に関わった他の人たちと共に父はティルヴァンナーマライに戻り、そこで彼は絞扼性脱腸に襲われました。

 その発症は突然で、深刻なものでした。彼を車でヴェールールの病院に運ぶことは可能でありませんでした。バガヴァーンの忠実な信奉者、アーシュラム住み込み医師のクップスワーミー・アイヤルは思い切って、地元の病院に手術台を即席で作りました。

 手術に取り掛かる前に、彼はバガヴァーンのもとに行き、彼に成功を祈りました。父は手術を無事に切り抜けました。それはマドゥライの専門医がその年齢と健康状態では致命的になるだろうと言っていたものでした。

 父の命が救われたことが明らかになったとき、私はバガヴァーンの前で平伏し、言いました。「この一回、バガヴァーンは奇跡をもたらし、父の命を救いました!」。バガヴァーンは不意に言葉を差しはさみ、言いました。「どうしてあなたは『一回』と言ってるのですか。どうしてあなたは『三回』と言っていないのですか」。同じような状況で父の命を救うために何年も前に彼の恩寵が求められ、手に入れられた、以前の二回の機会について、どうしてバガヴァーンが覚えていたのか、いや、むしろ、知っていたのかは、私にとって常に謎のままでしょう。