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2018年2月26日月曜日

神と運命 - 神(カルタ)は業(カルマ)よりも強し

◇「山の道(Mountain Path)」、1967年4月、p113~116

神と運命

A.デーヴァラージャ・ムダリアール
デーヴァラージャ・ムダリアールは、最古参の信奉者の一人です。彼は小誌の1964年10月号で、我々のために「マハルシと献身の道」という記事を記しました。主に衰えつつある視力のために、彼は1965年の終わりにアーシュラムを離れました。1966年1月号で、我々はアーシュラム広報にお別れの手紙を記しました。今、デーヴァラージャはすでに片目の白内障の手術を受け、再び字を書ことができます。我々は彼からのこの新たな記事をとても喜んで歓迎したいと思います。
(運命なる)動き続ける指は記し、記され
先へと進む。汝のあらん限りの祈りも、知恵も
それを呼び戻し、半行取り消させることあたわず
汝の全ての涙でも、その一語も洗い流せぬ
-ウマル・ハイヤームによるルバイヤートより

 私見では、これを記した時、ウマルは冷笑家ではなく、宿命の貫き通せない壁に出くわした熱心な探求者でした。大多数のヒンドゥー教徒もまた、運命に打ち勝つことはできないと信じています。彼らは、神が彼らのひたいに人生における彼らの運命を記し、その結果、全ての出来事は、心地よいものも痛々しいものも、定められたように彼らのもとにやって来るだろうと話します。しかしながら、カルマの問題を学んだ人々は、運命とは独断的な神によって彼らに課されたものではなく、因果法則の結果であり、各人がその過去の行為が引き起こした経験を経なければならないと言明します。人の各々の行為には、心地よいものであろうとも痛々しいものであろうとも、その結果が後に続き、誰もそれから逃れることはできません。一回の人生で行為の全ての結果を使い尽くすことが可能でないなら、カルマを使い尽くすために相次いで人生を経験しなればならないかもしれません。

 この教説は思慮深い思想家たちによって歓迎されてきました。なぜなら、それが我々が世界で見出す人と人との間の大きな相違にいくらかの理性的な説明を与えるからです。さもなければ、公明正大な愛情深い神によって創造され、統治された世界における膨大な相違をどうして説明しうるでしょうか。カルマの教説はヒンドゥー教にとってとても基本的なものであるため、我々はそれ抜きにヒンドゥー教を考えることはできせん。

 カルマは三つのカテゴリー-プラーラブダ、アーガーミ、サンチッタ-に分類されます。人が生まれるとき、この人生で片づけられる予定の蓄積したカルマの量が、プラーラブダ・カルマと呼ばれ、その残りがサンチッタです。今世で蓄積したものは、アーガーミと呼ばれます。少なくともプラーラブダは全ての人によって経験されなければならず、それからは逃れようがないと一般的に考えられています。私はここで、この事柄に関するバガヴァーンの教えを提供しようと思います。

 シュリー・クリシュナがアルジュナに語ること-「マーヤーによって惑わされ、あなたは戦うことを拒むが、あなた自身の本質があなたを戦うように強いるだろう*1」-に関して、ある信奉者がバガヴァーンに我々がいったい自由意志を持つのかどうか尋ねました。バガヴァーンは答えました。「あなたには、体とそのプラーラブダとしてそれにやって来る苦楽とあなた自身を同一視しない自由が常にあります」。これに続いて、私は言いました。「私は人の人生の重要な出来事があらかじめ定められていることは理解できますが、まさか人生のあらゆること-例えば、私が手に持つこのうちわを床の上に置くというような、どれほどささいな事でも、すでにあらかじめ定められているということであるはずがありません。まさかあなたは、これこれの日付の一日のこの特定の時間に私があなたの前で床の上にうちわ置くことが私の生まれる前に定められていたと言うのではないでしょうね」。バガヴァーンはためらうことなく答えました。「ええ(、言います)」。

 私が彼と交わした他の様々な会話から、これがバガヴァーンの教えであることを私は確信しています。私はここで、彼が若き賢者として彼の母親の一緒に家に戻るようにという涙ながらの願いを断ったときに、彼女に与えた返答にだけ言及しようと思います。「命じる彼が、プラーラブダに応じて各々の人生を形作っている。起こらないと運命づけられていることは、どれほどあなたが試みようとも、起こらないだろう。起こると運命づけられていることは、人がそれを阻止しせんと試みようとも、起こるだろう。これは確実である。そのため、最良の道は、静かにいることである」。

 しかしながら、もし純粋な原因と結果としてのカルマの法則が絶対的に不可侵かつ無慈悲なほどに至高であるなら、人は宗教や神や祈りが何の役に立つのか尋ねるかもしれません。人が彼を罪と苦しみから救い、安らぎと祝福を与えられる全てを愛する全能の神を頼らなかった時代は存在していなかったようです。ヴェーダの時代に始まり、シヴァ派とヴィシュヌ派両方の偉大なバクタたちの時代を通じて、わりあい近代に至るまで、どのような罪を人が犯そうとも憐み深き神が彼を救うことができると全く明確に述べる大量の宗教文献があります。火によって綿が燃やされるように、神の恩寵によって、プラーラブダを含め、全てのカルマを破壊することができるとも彼らは述べています。西洋の聖者と神秘家は同じことを言っていて、神が公平、公明正大であるから、罪びとを救うことができず、その罪のためにまずは彼を罰しなければならないという考えをからかっています。というのも、もしそうであるなら、憐みや愛、父性や母性といった神の他の属性はどうなるでしょうか。ヴィシュヌ派の信奉者は、神の中のヴァーッサリャ、つまり、慈愛の性質を強調し、牝牛のヴァーッサリャによって説明しています。子牛が生まれるやいなや、牝牛はその全身をなめ始め、子牛が不潔であるという事実を気に留めません。彼らは言います。神は罪びとを救いうるに先立って、彼が清らかになるのを待たず、見つけるとすぐに彼を救う-ただ人が救いを望み、それを求めて叫び、哀願するなら。苦しんでいる人が、「神は私を助けることができる」と十分に信頼して、助けと安らぎを求めて神を頼りとするなら、彼は確かに救われる。それが聖典の言うことであり、無数の聖者が言明することです。キリストは言いました。「労苦し、重荷を背負う汝ら皆よ、私のもとに来きなさい。そうすれば、私はあなた方に安息を与えよう。恐れるなかれ」。主クリシュナはほぼ同じことを言いました。アルジュナが、解放を手に入れうる全ての異なる種類のヨーガについてクリシュナが話さなければならなかったこと聞いた後、これら全ての指導で混乱し、それらに従うことができないと感じたと彼が不満を言ったとき、クリシュナは言いました。「では、全てのダルマを放棄し、私だけに寄る辺を求めなさい。嘆くなかれ。私があなたの全ての罪からあなたを救いましょう*2」。ここで要求されるものは、神への完全な委ねです。しかし、自分自身を完全に神の憐みに身を委ね、自分自身のために何も望まず、あらゆることを全てを愛する全知なる神に託すことは、思われるほど簡単ではありません。しかしながら、ここで私が主張したいことは、恩寵は全能であり、いかなる例外もなく人は蒔いたものを刈り取らねばならないと言われるカルマの法則にさえ打ち勝つことができるということです。私は気質的にこれを強く信じる傾向にあり、バガヴァーンが私のためにそれを裏付けてくれたと信じています。私はここで、私の小さな本 My recollections of Bhagavan Sri Ramana の101、102ページ上に、そのテーマに関して私が記したことを引用しようと思います。

 「私が一度ならずバガヴァーンと論じ合った別の点は、恩寵がプラーラブダ、つまり、運命をくつがえすことができる程度です。徹頭徹尾、私の言い分の主だった趣旨は、神は全能であり、彼にとって不可能なことは何もなく、もし人がそのために努力し、値するものだけを得るなら、得ることができるなら、恩寵にまるで居場所はないだろうということでした(そして、それは相変わらず私の今の確信です)。自分一人でか、他の人々と私がそのような議論に携わっていた時-私に味方する人いれば、反対する人もいました-、バガヴァーンは黙っていました。しかし、彼がいろいろな機会にした様々な発言や所見から、私は以下がこの事柄に対する彼の態度であるという結論に至りました-『もちろん、神に不可能なことは何もありません。しかし、あらゆることが神の意志、または、計画によって定められた秩序に従って、起こり、例外はほとんどありません。我々のプラーナにマールカンデーヤが何人いますか』」。

 他方で、多くの権威ある書籍では、ジニャーニからの一目が、過去、現在、プラーラブダを含めた我々の全てのカルマの結果から我々を救うことができると明確に述べられています。そして、シュリー・ジャナキ・マータ*3が彼女のタミル語の日記の中で公表したことですが、彼女がこの疑問をかつてバガヴァーンと議論し、彼の恩寵が人がプラーラブダに打ち勝つ手助けさえすると主張したとき、彼は彼女に言いました。「あなたがそのような信仰をもっているなら、そうなるでしょう」。

 私はこの引用に何も有益な付け加えができないことを分っていますが、マールカンデーヤへの言及を説明すべきかもしれません。プラーナに書かれていることですが、マールカンデーヤは16年間しか生きられないよう運命づけられていて、彼はシヴァに祈り、永久に16歳であるという恩恵を授かりました。バガヴァーンはそれに言及し、神聖なる恩寵の明白で劇的な介入はとても例外的であるという彼の趣旨を強調しました。

 いつ、なぜ、誰に恩寵が訪れるか人は言うことはできないとウパニシャッドの中で述べられています。それが選ぶ者にだけそれは到来すると言われています。百人が努力するかもしれませんが、その中の一人か二人だけが選ばれるのかもしれません。恩寵について、それが予測不可能であるということ以外、誰も何も予測できません。

 ここで、私の本 Day by Day with Bhagavan に記載されたポール・ブラントンからの以下の引用文に目を向けるのは興味深いでしょう。

 「神聖なる恩寵とは、活動中の広大無辺な自由意志の一つの顕現です。一切の自然法則に優越し、自然法則を相互作用にによって変更しうる、それ独自の未知の法則を通じ、それは物事の成り行きを不可思議な方法で変更できます。それは宇宙の中で最も力強い力です。」

 「それは完全な自らの委ねによって発動されたときにのみ、降りてきて、働きます。神は全ての存在のハートに住んでいるため、それは内から働きます。そのささやきは、自らの委ねと祈りによって清められた心の中でのみ聞くことができます。」

 上の二つの引用文は、D.C.デーサーイーという人による Divine Grace through total self-surrender と名づけられた本の中に含まれ、バガヴァーン自身が、その本に通読するとすぐ、それらを我々に読み上げました。

 神の恩寵は予測不可能であり、罪を免じ、カルマを消す力を持つという私の発言は、この恩寵が努力なしに得ることができること意味すると受け取られるべきではありません。逆に、大変な努力が必要です。人は、独力で自分自身を高めることができないことを認め、神の御足にくずれ落ち、叫ばなければなりません。「主よ、私は弱く、無力です。あなただけが私を救えます。私はあなたを寄る辺とします。あなたが私に望むことを行ってください」。これがなすべき努力です。我々自身のちっぽけな努力の無益さを理解した後の無努力の達成に向けての努力です。タゴールが言うように、「おぉ、汝自身の肩に汝自身を担わんとする、愚か者よ!おぉ、汝自身の門戸に物乞いをしに来る、乞食よ!一切を担うことができ、後悔して後ろを振り返ることのない彼の手に汝の一切の重荷を委ねよ」。我々がこれをするとき、神が責任をとるとタゴールは言います。「私が舵(かじ)を手放すとき、御身がそれを手にする時期が来たことを私は知る。なすべきことは即座になされるだろう。このあがきは無駄である」。

 宗教とは、私見では、人間の心に狼狽と絶望でなく、慰めと安堵をもたらすものであるべきです。もしそれができないなら、他の点においてどれほどあっぱれなものでも、知識人の称賛を勝ち取るためにどれほど哲学的思索にふけっていても、私はそれに用はありません。もし信奉者が神に保護を求めて近づくなら、「親愛なる息子よ、私はあなたを愛してますが、あなたを抱き上げ、私の保護下にあなたをかくまってあげたいのはやまやまなのですが、私の王国のおきては、あなたが戻ってきて、あなたの罪を取り除くか、もしくは、カルマを使い果たすまで、あなたを助けられないというものなのです」と言う神なるものに私は用はありません。むしろ私は神のことをキリストの放蕩息子のたとえ話の父親、道に迷った息子を絶えず注意深く捜していて、彼が引き返し、家路につくのを見た瞬間に、彼がまだ遠くにいるときでさえ、彼のもとに駆け寄り、抱擁し、家に連れ帰って、彼を洗い、真新しい衣服を与え、ごちそうのために太った子牛を屠った父親のようにみなすことを好みます。私は神がそのようであると本当に信じています。フランシス・トンプソンが The Hound of Heaven の中で言うように、神の恩寵こそが我々を追い求めていて、我々こそが逃げていっているのです。我々が世界の安っぽい目を引く飾りから背を向け、(「放蕩息子」のたとえのように)豚たちとの付き合いと我々が豚たちと分かち合ってきたもみ殻や皮の食事を断ち、神の方に向くのなら、その時、我々が神に向かって歩む一歩ごとに、神が我々に向かって十歩歩むと言われています。キリストと他の霊性の師たちはこう述べており、私はカルマの法則のもとに肉を一ポンド要求するシャイロックよりもむしろ彼らを信じることを好みます。バガヴァーンは Who am I? の中で言いました。「どれほど人が罪深くても、『あぁ、私は罪びとだ。どうして私が解放を得られるのか』と悲しみに沈んで泣き叫ぶのをやめ、自分が罪びとであるという思いすら捨て去り、熱心に自らへ瞑想を続けるなら、彼は間違いなく改められます」。

映画「ナザレのイエス」から放蕩息子のたとえ話

 私の信条は次のようです。「神聖なる恩寵を信じなさい。完全に自らを委ねて、それを請い求めなさい。そうすれば、あなたは救われるでしょう。一切の哲学的論争をいたずらに学識ある人々に任せなさい。あなたがただ彼のほうに向き、彼を寄る辺とするなら、あなたを迎え入れたいと切に願っている神に満足しなさい」。

 バガヴァーンは救いへの一つの確かな道として完全な自らの委ねの道を推薦し、献身を「ジニャーナの母」と呼んでいます。かのよく知られた初期のバガヴァーンの信奉者、シヴァプラカーシャム・ピッライ-彼のために Who am I? が書かれたのですが-は、彼の詩の一つの中で言います。「あなたと私、他の全てを動かす力があります。あなたの自我をその母の足元に置きなさい」。バガヴァーンの様々な行為と発言から、委ねの道を私にとって最良の方法だと彼がみなしていたことにわずかの疑いもありません。解放は自らの知-それは、自らでいることです、なぜなら、知ることとはいることだからですーを通じてのみ可能であると彼がはっきりと明言したことは真実です。けれども、それがもたらされるのは、必ずも、完全に委ねた者に、です。

(原注)
*1 バガヴァッド・ギーター、18章、59詩節
*2 同上、18章、66詩節
*3 彼女に関する記事について、小誌の1966年6月号、p105参照

2018年2月9日金曜日

マハルシと献身の道 - 「労苦し、重荷を背負う汝ら皆よ、私のもとに来たれ」

◇「山の道(Mountain Path)」、1964年10月、p206~209

マハルシと献身の道

A.デーヴァラージャ・ムダリアール
デーヴァラージャ・ムダリアールは、バガヴァーンの最古参の信奉者の一人です。弁護士を職業とし、彼は言葉が正確で、表現が明確であり、それゆえ、しばしばバガヴァーンに頼まれ、西洋の訪問客の質問に答える折に通訳を務めました。数年間、彼はアーシュラム日記をつけ、Day by Day with Bhagavan という題名で二冊出版されています。彼はまた My Recollections of Bhagavan Sri Ramana も記しています。両方ともアーシュラムから出版されています。上の説明は彼を理知的に思わせるかもしれませんが、以下の文章が示すように、彼の心根は純粋なバクタです。
    インドだけでなく、全ての宗教において、献身または委ねの道は、神に到達する、または、解放を得るための一つの方法として重んじられてきました。ヒンドゥー教で推奨される四つの主要な道は、カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナ-行為、献身、ヨーガに関する発達、知識であり、人間の人生における務めとは、それらの中の一つまたは複数の道によって神に達せんとすることであると考えられています。上の四つは、様々な人々が霊的に進化し、完成を得ることを願って修練する多様な技法を含みます。バガヴァーン・ラマナはよく、それら全ては良く、全て難しいが、大志を抱く者の気質や能力に応じてのみ、いずれかが彼に最も魅力的に映り、最も簡単に見えるかもしれないと言いました。彼はまた、どのような方法を修練しようとも、人は最終的にジニャーナに、つまり、絶対者、自らなる神聖な知に到達しなければならないと言いました。

 自らの実現を得るための最短かつ最も直接的な道は、「私は思う」「私は欲しい」「私はする」などのように我々が毎度言及する、この「私」または自我とは本当は誰か、どこからそれは生じるのか探求することであるとバガヴァーンが説いたことはよく知られています。この「私」とは心の別名であり、再び心とは思いの塊に過ぎません。心が外に出て、世界に関する思いに耽溺するのを許さずに、心が飛び出すところの源を見つけるために、絶え間なく、断固として心自体に心を引き戻すなら、心は我々を自らに連れ行くだろうと彼は説きました。この方法はヴィチャーラ、探求として知られており、ジニャーナ・マールガの部類に入ります。

 しかしながら、バガヴァーンが彼自身、ジニャーニと同じぐらいバクタである、知の人であるのと同じぐらい献身の人であったことは、あまりよく知られていません。私はこのテーマに関して詳細に記せますが、それはほとんど必要ありません。Five Hymns to Arunachala を一読すれば、彼がどれほど真摯で熱心な信奉者であったかを証明するのに十分です。私がここで明らかにしたいと望むことは、自らの探求を推薦し、質問者に「私は誰か」彼自身に問うように言うとき、バガヴァーンはしばしば次のように言って終えました-「もしあなたがそうする力がないと言うのなら、全ての面倒を見る唯一なる偉大な力に身を委ねなさい」。私は彼がこれを言うのを一度だけでなく、何度も聞きました。彼の最初期の本、かの偉大な短い著作 Who am I? の中でさえ、彼は言います-「神は、どれほど重くとも、全ての重荷を担う用意ができています。あなたの全ての重荷も彼に委ね、自由になってはどうですか。鞄を網棚に置かずに膝や肩に乗せている鉄道列車の乗客のような馬鹿な真似はよしなさい」。カルマ・マールガであれ、ヨーガであれ、私は彼が自発的にこのように推奨するのを聞いたことがありません。

 これに関連して、バガヴァーンの最古参の信奉者の一人であり、バガヴァーンの教えについて語る権威を疑い難く持つであろう方、故シヴァプラカーシャム・ピッライによるタミル語の詩からの一節を引用したいと思います。「全ての者にあなたはこの教えのみを授けた-あなたは誰か熟慮し、見つけ出しなさい。その後、もし、さらに誰かが従順にそれ以上を望むなら、あなたは最後の助言として言う-あなたや私、全てを動かす力(シャクティ)が存在します。その母の足元にあなたの自我を引き渡しなさい」。

 我々の国の多くの古の聖者たちだけでなく、二人だけ言及するなら、シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサとシュリー・ラームダースのような近代の聖者たちも、委ねというバクティの道を推奨しています。プラーナはさらに踏み込んで、この霊的暗黒時代、カリ・ユガの間は、バクティの道が最も適しており、最も修練しやすいと断言しています。何もかもを神に任せ、彼の足元に身を委ね、ただ彼の御名をいつも唱え続けなさい。他の何もする必要はありません-あなたは救われるでしょう。それが彼らの言うことです。

 しかし、誰が何と言おうとも、どれほどその方法が一見簡単に見えても、一たびあなたがそれを熱心に修練し始めるなら、委ねは、完全な本当の委ね、全く心に疑念を抱くことのない委ね、良いものであれ悪いものであれ、可もなく不可もないものであれ、あなたに降りかかる全てのものを神からもたらされるとして喜んで受け入れる委ねは、全くもって非常に困難なです。しかし、委ねが完全でないなら、効き目はないだろうと我々は教えられています。二つの物語があります-一つは偉大な叙事詩、マハーバーラタから、もう一つはシュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサによって語られたもので、これを例示しています。最初のものは、ドラウパディーの力強い夫たちが当時自由を失っていて、彼女が無防備になっていた時、邪悪なドゥルヨダーナとその友人たちが宮殿で彼女の衣服を脱がせようとし、彼女が最後の唯一の寄る辺としてシュリー・クリシュナに祈ったものです。しかし、彼女がサリーにしがみつき、腰からサリーを脱がされまいとする自然で、ほとんど無意識的な努力を放棄して初めて、彼からの助けがやって来ました。彼女が自分自身を助けようと苦闘する限り、神聖なる恩寵が彼女を助けるために湧き出ることはできませんでした。ラーマクリシュナによって語られる物語は、さらにいっそう力強いものです。洗濯人が衣類を洗っていた時、ある人がいちゃもんをつけ、彼をたたき始めました。洗濯人はヴィシュヌに助けを求めて叫びました。ヴィシュヌはその時、配偶者のラクシュミーとともに天界で興じていました。洗濯人の哀れを誘う叫び声を聞くや否や、彼は立ち上がり、地上に向かって駆け出しました。しかしながら、少しして、ラクシュミーは彼がのんびりぶらぶら歩いて帰って来るのを見ました。「どうしたんですか」と彼女は尋ねました。「どうしてあんなに突然、出て行ったのですか。それに、どうして今や急がずに戻って来たのですか」。
 
 主はそこで直ちに説明しました。「ある信奉者がたたかれて、私に助けと保護を願い求めました。それで、私は彼の救助に駆けつけなければなりませんでした。しかし、私がそこにつく前に、彼が自分自身を守るために棒を手に取りました。だから、どうして私が構う必要がありますか」。

 これがバガヴァーンが説いたことです-委ねは完全でなければならず、そうでなければ、効果的ではなくなるでしょう。あなたが霊的境地において何らかの進歩を期待しうる前に、あなたが持つもの全て、体、所有物、魂をグルに捧げる、差し出さければならないと我々の宗教文学の中で明確に説かれています。神、グル、自らは同等視されていることを我々はまた覚えておかなければなりません。そのような委ねは、我々の霊的目標、それをムクティ、モークシャ、ニルヴァーナ、解放や何とあなたが呼ぶのであれ、その達成のための十分かつ確実な手段として説かれてきています。アッラーフの意思への服従は、イスラム教の基本的な命令です。イエスは言いました。「労苦し、重荷を背負う汝ら皆よ、私のもとに来きなさい。そうすれば、私はあなた方に安息を与えよう」。クリシュナは言いました。「あなたの一切の義務を放棄し、私のみに寄る辺を求めよ。私はあなたを一切の罪から解放する。嘆くなかれ」。

 シュリー・クリシュナは、彼の御足に寄る辺を求め、完全に委ねるなら、他の何もする必要はない、他の何の義務にも気をもむ必要はないと明確に断言しました。この全き献身、自らの委ねの道は、全インド中の多くのバクタによって、特に、タミル地方の偉大なシヴァ派とヴィシュヌ派の詩聖たちによって、マハーラーシュトラのトゥカーラム、エークナート、ナームデーヴなど、そして、ベンガルのチャイタンヤによって、宣言され、従われてきました。私がすでに引用した、バガヴァッド・ギータのいわゆる「チャラナ・スローカ」で説かれるように、特にヴィシュヌ派は委ねの道を大変に重要視してきました。彼らはこの委ねをプラパッティと呼び、その教説をきわめて詳細に発展させ、その分枝がどれほど遠くまで及ぶか示しています。

 この「プラパッティ」の道の特に私にとって魅力的である一つか二つの側面にのみ言及しようと思います。例えば、他の道では神は目的であり、様々な他の物事が手段として使われるが、委ねの道では、手段と目的の両方が神であると彼らは言います。彼らが言う別のことは、他の道では二つ以上の手段がとられるかもしれないが、委ねの道では他の手段は必要ないか、許容さえされないということです。なぜなら、それは委ねへのあなたの信頼が完全でなく、それゆえにあなたの委ねそれ自体が存在しないことを暗示するだろうからです。彼らがこの論拠のために引用する一つの例示があります。ラーマーヤナで、インドラジットは「ブラフマー・アストラ」と呼ばれる強力な武器を使い、その神聖な力によってハヌマーンの手足をしばりました。ラークシャサたちは、しかしながら、念には念を入れようとして、彼を縄と鎖でも縛り始めました。するとすぐに、神聖なる武器は彼らのそれへの信頼の欠如のために働くのをやめました。完全に神に身を任せ、彼の愛と慈悲と力に安心し、彼の恩寵と意思による以外は何かなすことができると夢にも思わないことが、ヴィシュヌ派の信者によって説かれるプラパッティの方法であり、それは本当に熱心な信奉者にとって大変な価値があります。

 近代の聖者たちでさえ、グルに完全に委ねるなら、他の何もする必要はないと幸運な弟子たちに慈悲深くも言いました。かつてギリシュ・チャンドラ・ゴーシュがラーマクリシュナの前で涙を流し、どれほど単純で短くても、どの修練にも彼が従うことができないと言明したとき、ラーマクリシュナは喜んで彼に言いました。「では、私に委任状をください」-その意味することろは、「委ねなさい、そうすれば、後のことは私が行います!」。

 私はかつてバガヴァーンに言いました。「私はもう一人のギリシュです。あなた自身が私を救わなければなりません。全ての聖者にギリシュがいるはずです」。

 バガヴァーンは答えました。「でも、彼は委任状を渡しました」。

 「私も私に可能な程度、委ねました」と言いました。「それ以上、私に何ができますか」。

 バガヴァーンは何も言いませんでした。

 「委ねなさい、そうすれば、私があなたの面倒を見ます」と言うのは、バガヴァーンのやり方ではありませんでした。しかしながら、その点に関して以下の出来事は意義深いものです。バガヴァーンが体を離れる一年ほど前、ある午後、私は彼に言いました。「バガヴァーン、私はシヴァプラカーシャム・ピッライによる詩から3詩節歌います。なぜなら、それは私よりも上手く私が言いたいことを表せるからです」。そして、私は歌いました。その意味は次のとおりです。「私はあなたの教えにも指導にも従ってきませんでした。しかし、救いがたい獣だとして信奉者に愛想をつかし、見放すことはグルにとってふさわしいことですか。あなたがこのように私に我が道を行かせるのなら、何が私に起こることになるでしょうか。私は改心しませんし、あなたは私を正しも、変えもしないでしょう。我が主よ、あなた以外に今世や来世において他の助けが何か私にあるのでしょうか。では、どうお思いなのですか。これはあなたにとって正しい振る舞いですか」。

 バガヴァーンはすぐには返答せず、それは私にいくらか失望をもたらしました。一、二分後、彼は言いました。「私が何をしてもしなくても、あなたの務めは、ただ委ね、じっとしていることだけです」。

 幾人かの友人は、私がこれを「心配しないでいいです。私は何をすべきか知っているし、それを行うでしょう」ということを意味すると受け取ってかまわないと私に言いました。逆に、それは「あなたが本当に委ねるなら、不平を言う権利はありません。ですから、信奉者が不平をいうなら、それは委ねていないという印です」ということを意味するだけかもしれません。いずれにせよ、私は楽観主義者でいるのを好み、どれほど私の委ねが不完全であろうとも、彼の恩寵が完全である限り、彼が私の面倒を申し分なく見てくれるであろうと信じています。

 私は最近、Bhavan's Journal の中で、ヴァジュレシュワリに30年ほど住み、数年前に亡くなったスワーミー・ニティヤーナンダ(⇒)の教えのいくらかを読みました。弟子が彼に尋ねました。「私は何をすべきでしょうか」。彼は返答しました。「あなたは何もする必要ありません」。私はそれを「何もかもをグルに委ね、託す以外何も」ということを意味すると受け取ります。

 知識人はバクティの道を見下したくなるかもしれませんが、そのような態度は正当化されないということを十分に示すほど私は記したと思います。これを例示するための物語をもう一つして終わりにしましょう。トータープリーは、ラーマクリシュナが、タントラ教徒のグルをすでに得ていた後、グルとみなしたアドヴァイタの唱道者です。彼は人々が人格神を崇拝することに我慢ならず、ラーマクリシュナが始終カーリーについて話し、彼女を崇拝し、「母」と呼んでいることをからかっていました。彼は以前に一度も健康を損ねたことがありませんでしたが、突如、深刻で痛みがひどい種類の赤痢に襲われました。それはとてもひどかったため、数日後、彼はガンジス川に身を投げようと決意しました。彼は川に入り、対岸に向かっておそらく半マイルかそこら歩いたところで、水が膝よりも決して深くならないことに気づきました。ついに、ラーマクリシュナの「母」、カーリーが彼の前に現れ、そのようにして奇跡的に彼を改心させました。

 それゆえ、幾人かの哲学者や聖者さえもが委ねの道を非難するとしても、謙虚な信奉者をがっかりさせないようにしましょう。プリンの味は食べてみなければわかりません。それはあまねく世界中で、インドのバクタだけでなく、ペルシャのスーフィ、西洋東洋双方の神秘主義者に対して、うまくいき、成果を上げてきました。とりわけ、シュリー・クリシュナは、彼のもとに来て、彼の足元に寄る辺を求める全ての者を彼が救うという保証を与えています。疑うのはよして、委ね、永遠の安らぎと至福を達成しようではありませんか。

2017年2月1日水曜日

バガヴァーンのドヴァーダクシャラ・マントラ - その由来と意味

◇「山の道(Mountain Path)」、1971年7月、p168 & 「THE MAHARSHI」、2005年3/4月 etc

そのマントラはどのように私のもとにやって来たのか

T.K.S

 オーム・ナモー・バガヴァテー・ヴァースデーヴァヤというマントラは、若かりし頃、私を大変に魅了していました。それは私を大いに喜ばせたため、私は主ヴァースデーヴァについて絶えず考えていました。私にはこの体が40代に死ぬだろうという予感があり、その時までに主のダルシャンを得たいと望んでいました。私は断食し、絶え間なく主ヴァースデーヴァへの献身を修練しました。私は『シュリー・バガヴァッド・ギーター』と『シュリー・バーガヴァタム』を大いに喜んで読みました。その時、ギーターの中で、Jnani tu atmaiva me matam(私の見解では、ジニャーニは私自身の自らである)を読み、それはストレートに私の心に響き、次の思いが私に浮かびました。「ヴァースデーヴァ自身である、バガヴァーン・シュリー・ラマナが身近にいるのに、どうして私は別にヴァースデーヴァを崇拝すべきなのか」。留意されるべきは、この全てが、シュリー・バガヴァーンと共に彼のアーシュラムに居を定める前の私の若かりしころのことだということです。そのため、忠誠心に矛盾がないように、私はただ一つのマントラ、ただ一人の神(デーヴァタ)、ただ一冊の聖典が欲しかったのです。容易にシュリー・ラマナ・パラマートマンは崇拝すべき神に、彼の『Collected Works』は福音になりました。マントラに関しては、オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤが、オーム・ナモー・バガヴァテー・ヴァースデーヴァヤにきっちり対応するということが直感的に閃きました。この新たなマントラの文字を数えたのですが、それが(サンスクリット語で)12文字含んでいることに気づき、私はとてもうれしく思いました。私はこの全てをシュリー・バガヴァーンに伝え、彼はそのマントラを承認して下さいました。

 進んだ修練者(サーダカ)はこれを笑い、「直接浸(ひた)るべき至福の大海がそこにあるのに、どうしてマントラが必要なのか」と言うかもしれません。実を言えば、その中で私は伝統的な修練の方法(ウパサーナ)に従おうとしていたのです。それはバクティ(献身)の主要な要素の一つを形成しています。シュリー・バガヴァーンは彼の本質が全ての目撃者であることを明らかにしました。それでも、アドヴァイタは態度の中にのみあるべきであり、外の行為に決して示されてはならないという明確な訓令があります。

心中、常に不二の感覚を保て
しかし、決してそれを行為に表すな
我が息子よ、不二の感覚はたとえ三世界に適用されても
グルに対して用いられるべきでない

-シュリー・バガヴァーンのSupplement to the Forty Verses on Reality

 このようにして、オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤなるマントラが私のもとにやって来たのです!


Gayathri Girishによる「オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤ」


オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤ

T.S.ヴァイダヤナタン

 このマントラは、熱心な信奉者、シュリー・T.K.スンダレーサ・アイヤルに明らかにされ、続いて、バガヴァーンに承認され、彼の存在を希求します。それはバガヴァーンのドヴァーダクシャラ・マントラとして知られており、それが12文字であることを意味します。

 ヒンドゥー教では、実際のマントラを隠しておくことが一般的であり、実際にそのマントラを言うことなく、それを5か6文字のマントラと呼びます。これはそのマントラの高潔さ、純粋さを守るためになされ、手ほどきを受けてない人がそれを誤用しないためです。我々がシュリー・ナーガンマの『Letters from Sri Ramanasramam』の中で、ドヴァーダクシャラ・マントラが牝牛のラクシュミーの前でその臨終の日に唱えられていたということを読むとき、これが彼女が言及していたマントラです。実際の意味は、手短には、以下になります。

・オーム
 これは主シヴァのビジャ・マントラであり、その起源をジーヴァとシヴァの合一を表す、ソーハムに由来します。それはまた、主シヴァの内在的な形のことを指しています。それは時にプラナヴァと呼ばれ、全創造の背後の根源的な音であると信じられています。

・ナモー
 サンスクリット語のマナは、心を意味します。ジーヴァの心は世界に向かって出ていきます。言葉を逆さにすると、マナはナマになり、神もしくは内なる自らを頼りにすることを意味します。ナマハは非常に神聖な名前の共通の結びであり、「私はあなたを頼りにする」を意味します。上のように、ナモーは文法上強制されています。

・バガヴァテー
 バガを所有する者。神性を示す六つのバガがあります。神かその真の化身のみ、それらを所有できます。その特質とは、万能の力、ダルマ、名声、繁栄、知識、離欲です。

・シュリー
 いくつか意味がありますが、この文脈では、「恵み深い」を意味します。

・ラマナーヤ
 自らに楽しむ者

 そのため、マントラの意味は、「恵み深き神聖な主ラマナに帰依します」です。


Kali Dasによる「ラマナ・サッグル」、リズミカルで誰でも歌えるシンプルさ

ラマナ・サッグルx8
オーム・ナモー・バガヴァテーx3 シュリー・ラマナーヤ x2
アルナーチャラ・シヴァx6


-サーダナに関するバガヴァーンとの対話-

私が見た彼 - No.3

クンジュ・スワーミー

 約12年間、バガヴァーンに直接仕えて過ごした後、私はひたすらサーダナに専念したいという衝動を感じ始めました。しかしながら、バガヴァーンへの直接の奉仕を放棄することに私はたやすく甘んじられませんでした。私は数日間その問題をじっくり考えていたのですが、答えは奇妙な方法でやってきました。

 ある日、私が講堂に入ると、バガヴァーンが、彼への本当の奉仕とは彼の体に必要なものを世話することではなく、彼の教えの本質を追及すること、すなわち、自らを実現することに集中することであるとそこにいた他の人々に説明しているのを耳にしました。言うまでもなく、それは自動的に私の疑問を晴らしました。

 それゆえ、私はアーシュラムの務めを放棄しましたが、その時、どのように、実際、丸一日を実現の探求に費やすべきか決めるのが困難であると気づきました。私はその問題をバガヴァーンに委ね、彼は自らの探求を私の最終目標とし、自らの探求、瞑想、ジャパ、聖典の読誦をかわるがわる修練し、行っているものに飽きたり、困難であると感じるや否や、別のものへ変えるよう私に助言しました。やがて、サーダナは自らの探求、純粋な意識、または、実現(の探求)に安定するでしょうと彼は言いました。

 どのような道を熱望者に勧める前にも、バガヴァーンは初めに、どのような側面、形、または道に彼が自然と惹かれるのか彼から聞き出そうとし、その後、その人にそれに従うよう勧めたものでした。彼は時に、プージャから、ジャパ、ディヤーナ、そして最後にヴィチャーラへと進む、サーダナの伝統的な段階を是認したものでした。しかしながら、これらのどの方法でも、途切れのない厳しい修練は、それ自体、実現へ導くに足ると彼はよく言いました。
(THE MAHARSHI、1991年7/8月、抜粋)

2015年9月17日木曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第7章 グルとその恩寵

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p26-30

マハルシの福音

第1巻 第7章 グルとその恩寵

信奉者:
 グル・クリパとは何ですか。どのようにそれが自らの実現に通じるのですか。

マハルシ:
 グルは自らです・・・ 時にその人生において人はそれに不満足になり、そして、彼が持つものに満足しなくなり、神への祈りなどを通じ、彼はその望みの満足を求めます。彼の心は徐々に清められ、終に、彼は神を知ることを、世俗的な望みの満足よりも彼の恩寵を得ることを切望します。その時、神の恩寵が顕れはじめます。神はグルの形をとり、信奉者に姿を現し、彼に真理を説き、さらに交際によって彼の心を清めます。信奉者の心は力を得て、その時、内側に向かうことができます。瞑想によって、それはさらに清められ、わずかの波立ちもなく、静かなままあります。その穏やかな広がりが、自らです。

 グルは「内部」と「外部」の両方にいます。「外部」から、彼は心が内側に向くように後押しし、「内部」から、彼は自らに向かって心を引き寄せ、心を静める手助けをします。それがグル・クリパです。神とグルと自らの間に違いはありません。

信奉者:
 神智学協会では、彼らは彼らを導いてくれる師たちを探し出すために瞑想します。

マハルシ:
 師は内にいます。瞑想は、彼が外側のみにいるという無知な考えを取り除くためのものです。もし彼があなたが待ち望む見知らぬ人であるなら、彼は必ずや姿を消しもするはずです。そのような移ろいゆく存在がどのような点で必要ですか。しかし、あなたが自分は分離しているや自分は体であると思う限り、その限りは「外」の師もまた必要であり、彼は体を持っているかのように現れるでしょう。自分自身と体との間違った同一視が止むとき、師は自らに他ならないと見出されるでしょう。

信奉者:
 グルは、手ほどきなどを通じて、私たちが自らを知るのを手助けしてくれるのでしょうか。

マハルシ:
 グルはあなたの手をとり、耳元でささやきますか。あなたは彼をあなた自身であるものだと想像しているかもしれません。あなたが自分は体を持っていると考えるために、あなたは、彼もまたあなたに具体的な何かをする体を持つと考えます。彼の働きは内に、霊的領域にあります。

信奉者:
 どうすればグルは見つかりますか。

マハルシ:
 神は、内在していて、その恩寵によって、愛する信奉者を憐れみ、信奉者の発達に応じてその姿を顕します。信奉者は彼が人であると思い、2つの肉体の間の関係を期待します。しかし、グルは、神または自らの化身であり、内から働き、その人が内なる自らを実現するまで、彼がその方法の誤りを悟るのを助け、彼を正しい道に導きます。

信奉者:
 では、信奉者は何をすべきですか。

マハルシ:
 彼はただ師の言葉に従い、次第に内に進みさえすればいいのです。師は「内」と「外」の両方にいます。彼はあなたを内側に駆り立てるための状態を作り出し、同時に、あなたを中心(the Centre)に引き寄せるために「内部」を準備します。そうして、あなたが中心に据えられるために、彼は「外」から後押しし、「内」から牽引します。

 あなた自身の努力によって世界を征服できるとあなたは考えています。あなたが外面的に挫折し、内側に駆り立てられるとき、あなたは「あぁ!人よりも優れた力があるのだ!」と感じます。

 自我は、ライオンより力が劣る何によっても支配下に置くことができないとても力強い象のようです。ライオンとは、この例えにおいて、グルに他なりません。まさにそのまなざしは、象のごとき自我を震え上がらせ、殺します。

 あなたの栄光があなたが存在しなくなるところにあると、あなたはやがて知るようになるでしょう。その状態を得るために、あなたはあなた自身を委ねなければなりません。その時、師はあなたが導きを受けるのにふさわしい状態にいることを見て取り、彼はあなたを導きます。

信奉者:
 手ほどきも他のどのような具体的な行為も与えないグルの沈黙が、どうして彼の言葉などよりも力強くなれるのですか。そのような沈黙は、聖典の学習よりもどのように優れているのですか。

マハルシ:
 沈黙は、最も強力な形の働きです。聖典がどれほど膨大で、断固たるものであっても、それらは効果を欠いています。グルは沈黙し、恩寵は全てに行き渡ります。この沈黙は、寄せ集められた全ての聖典よりも膨大で、より断固たるものです。

信奉者:
 しかし、信奉者は幸福を獲得できるのですか。

マハルシ:
 信奉者は師に彼自身を委ねます。そして、それは彼によって保たれる個人性のわずかの痕跡もないということです。委ねが完全であるなら、一切の自意識は失われ、その時、苦しみも悲しみもあり得ません。

 永遠の存在(Being)とは、幸福に他なりません。それは天啓(思いがけない発見)として訪れます。

信奉者:
 どうすれば私は恩寵を獲得できますか。

マハルシ:
 恩寵は自らです。それもまた手に入れることはできません。あなたはただそれが存在することを知りさえすればいいのです。

 太陽はただ輝きだけです。それは暗闇を見ません。それでも、あなたは太陽が近づくや否や暗闇は消え失せると話します。そのようにまた、信奉者の無知は、暗闇という幻影のように、グルを見ることで消え去ります。あなたは太陽光に囲まれています。それでも、あなたが太陽を見たいのなら、その方向に向き、それを見なければいけません。そのようにまた、恩寵は今ここにありますが、あなたが行う適切なアプローチによって見出されます。

信奉者:
 恩寵は探求者の成熟を早められませんか。

マハルシ:
 その全てを師に任せなさい。無条件で彼に委ねなさい。2つのことの内の1つが行われなければいけません-あなたが己の無力を悟り、あなたを助けてくれる高き力を必要とするために、あなた自身を委ねるか、もしくは、苦しみの原因を吟味し、その源の中へ入り、自らに溶け込むことです。どちらの道でも、あなたは苦しみから解放されるでしょう。神またはグルは、彼自身を委ねた信奉者を決して見捨てません。

信奉者:
 グルまたは神への平伏の意義とは何ですか。

マハルシ:
 平伏とは、自我が鎮まることを意味します。そして、それはその源に溶け込むということです。神またはグルは、表向きの跪拝(きはい)、お辞儀、平伏によって欺かれません。彼は自我がそこにあるかないかを見ます。

信奉者:
 バガヴァーンはその恩寵のしるしとして、彼の葉っぱからいくらかプラサードを私に下さらないのでしょうか。

マハルシ:
 自我について思うことなく、食べなさい。その時、あなたが食べるものは、バガヴァーンのプラサードになります。

信奉者:
 学のある人は、グル・クリパを必要としていないという意味において、悟り(Enlightenment)により適しているのではないのですか。

マハルシ:
 学識者でさえ、学のない賢者の前でお辞儀しなければなりません。無学は無知であり、教養は博学な無知です。共に真の目的について無知です。賢者は異なる方向において無知です。彼にとって「他」がいないため、彼は無知です。

信奉者:
 贈り物がグルに捧げられるのは、彼の恩寵を獲得するためではありませんか。そのため、訪問者はバガヴァーンに贈り物を捧げます。

マハルシ:
 どうして彼らは贈り物を持ってくるのですか。私がそれを欲しがりますか。たとえ私が拒んでも、彼らは贈り物を私に押し付けます!何のために?魚を捕まえるために餌を与えるようではありませんか。釣り人はぜひとも魚に食べ物を与えたいと思っていますか。いいえ、彼はぜひとも魚を食べたいと思っています!

信奉者:
 モークシャを得る前に順々に手ほどきを与えるという神智学の考えは真実ですか。

マハルシ:
 モークシャをある人生で達成する人々は、その過去生で全ての手ほどきを経たに違いありません。

信奉者:
 必ずしもこの世界においてではありませんが、ジニャーニは死後に4種か5種の仕事を選ばなければならないと神智学は言います。

マハルシ:
 仕事に従事する人もいるかもしれませんが、全て(の人がそうするの)ではありません。

信奉者:
 あなたは目に見えないリシたちの僧会を意識していますか。

マハルシ:
 目に見えないなら、あなたはどうやって彼らを見れるのですか。

信奉者:
 意識の中で。

マハルシ:
 意識の中に、外側のものは何もありません。

信奉者:
 私は彼らを実現できますか。

マハルシ:
 あなたがあなた自身の現実を実現するなら、リシや師のそれもあなたに明らかになるでしょう。ただ1人の師しかおらず、それは自らです。

信奉者:
 輪廻転生は真実ですか。

マハルシ:
 無知がある限りのみ、輪廻転生は存在します。

 実際は、今も昔も、輪廻転生は全くありません。今後も、まるでないでしょう。これが真理です。

信奉者:
 ヨーギはその過去生を知ることができますか。

マハルシ:
 あなたは過去を知りたいと思っていますが、現在を知っていますか。現在を見出しなさい。そうすれば、残りはそれに倣うでしょう。私たちの現在の限られた知識でもってさえ、あなたは非常に苦しんでいます。どうしてあなたはあなた自身にさらなる知識を背負わせなければならないのですか。さらに苦しむためですか。

信奉者:
 バガヴァーンは、他者に自らを実現させるために超常的な力(神通力)を使いますか。それとも、そのためにはバガヴァーンの実現という単なる事実で十分ですか。

マハルシ:
 自らの実現の霊的な力は、全ての超常的な力の使用よりも遥かに力強いものです。賢者の中には自我がないため、彼にとって「他者」はいません。あなたに授けることができる最高の利益とは何ですか。それは幸福であり、幸福は安らぎから生まれます。安らぎは妨げがないところにだけ君臨でき、妨げは心に生じる思いによります。心自体が存在しないとき、完全な安らぎがあるでしょう。人が心を消し去っていないなら、彼は安らぎを得て、幸福でいることはできません。そして、彼自身が幸福でないなら、彼は「他者」に幸福を授けることはできません。しかしながら、心を持たない賢者にとって「他者」はいないため、彼の自らの実現という単なる事実、それ自体が、「他者」を幸福にするのに十分です。

2015年1月1日木曜日

ムクティ、ムクタ、ムクティへの道々- ウパデーシャ・サーラムに基いて

◇「山の道(Mountain Path)」、1965年1月 p9~11

自らの実現への道々

B.V.ラーダークリシュナン博士

 ヒンドゥー教の四つのプルシャルタ、または、人生の目標-ダルマ、アルタ、カーマ、モークシャ(正義、繁栄、楽しみ、解放)-の中で、最後が最上のものとみなされています。チャルヴァカを除く、ヒンドゥー教の全思想体系は、サンサーラ、または、(輪廻)転生からの人の最終的解放を信じています。この最終的解放は、モークシャ、ニルヴァーナ、カイヴァルヤ、アパヴァルガと様々に呼ばれています。それを得るために、カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナという様々な道があります。シュリー・ラマナは、この号に引用されるウパデーシャ・サーラムの中で、その有効性に応じて、それらを段階に分けます。

 シュリー・ラマナは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの体現者です。彼は観念的な哲学者ではなく、理論を詳しく説明することを好みませんでしたが、現実の直接的体験からくる知恵を持っていました。

 彼が説いた解放、または、ムクティとは、ブラフマンと一体となることです。というよりむしろ、アートマとブラフマンの同一性は常に継続していて、幻によって隠されているだけであるため、それは至高なる自らと同一であるという自覚に目覚めることです。

 我々の視界から隠されていますが、この同一性は永遠に存在しています。「絶対的な意味において現実であり、全ての中で最上であり、虚空のごとく全てを貫通し、あらゆる変化を免れ、完全に満足し、不分割であり、その本質は自らの光であることであり、その中に善も悪もなく、結果もなく、過去や現在や未来が存在する余地のない、それ、かの無形なるものが解放と呼ばれている」(*1)。それは以前に存在しなかったものが存在するようになることではありません。なぜなら、何であれ存在するようになるものには終わりがあり、それゆえに束の間のものです。そのため、ムクティは達成や獲得ではなく、成るという過程の停止でしかありません。それは自らの廃絶ではなく、意識の拡大と輝きによる、その無限性と絶対性の実現です。それは未来の時に託されるべきではなく、スヴァルガやブラフマ・ローカや他のどのような名前で呼ばれる場所に位置づけられるべきではありません。それはただ在ります。

 シュリー・ラマナは、ムクティは得られるべき新たな何ものでもなく、我々の本質であると我々にしばしば思い出させました。「自らを実現するということは存在しません。自らは常に実現されています」(*2)。それを知ることのみが妨げられていて、その妨げを我々は無知と呼びます。「『束縛されている私は誰か』探求し、自らの本質を知ることのみが解放です」(*3)。自らの内には、束縛も解放も存在しません。無我の境地が、唯一なる現実です。

 インドの全ての聖賢のように、これはグルの恩寵を通じて実現されうると彼は確言しました。しかし、これはグルが我々の外側にいる別の個人ではなく、顕現した自らであることを暗に意味します。我々が我々自身を体と同一視する限り、我々はグルを我々の外側にいる別の身体的な個人であるとみなします。しかし、実際、我々は体ではなく、彼もまた体ではありません。実現とは、この理論的な理解を直接的な知識に転換することです。たとえ我々が体をグルと間違えても、彼自身はそのような誤りを犯しません。彼は我々を導くためだけに外側に現れます。これが、シュリー・ラマナが、自ら、神、グルは同じものであると述べた時に意味することです。そのため、彼には、「虎の口に陥った獲物が決して逃れることを許されないのとまさしく同様に、グルの恩寵を得た彼は、間違いなく救われ、決して見捨てられません」(*4)という素晴らしい発言をすることができました。

 では、誰がグルなのでしょうか。シュリー・ラマナがその用語を使う高度な意味において、グルは普遍的な自らとの途切れることのない意識的な同一性の中にいる完璧な聖者のみでありえます。「グルとは、自らの深遠な深みの中にいかなる時も留まる者です。彼は彼自身と他者の間のどのような違いも決して見ず、『私の周りにいる人々は束縛や無知の暗闇の内にいるが、私は悟った、または、解放された者である』という考えをまったく免れています。彼の冷静さはどのような状況下でも決して揺るがされるはずがなく、彼は決して動揺しません。」(*5)

 そのような人はジーヴァン‐ムクタ、生きているうちに解放された者と呼ばれます。「ジーヴァンムクタは外的な対象物の現実性を感じることをまったく免れている。ただそのような感覚を持つように見えるだけである。・・・彼の心は完全にブラフマンに溶け込み、永遠の至福を楽しんでいる。彼は二元性を免れている。目覚めているが、彼は目覚めの状態の性質を免れている。この体の内にいる間にさえ、影のように付き従う『私』と『私のもの』という考えの欠如が、ジーヴァンムクタの特徴である。彼は過去の楽しみを引きずらず、未来を気に掛けず、現在を平静を持って眺める。彼は苦楽によってかき乱されず、(輪廻)転生の束縛を免れている。」(*6)

 ジーヴァンムクタが無知の支配下にあることがありえるのでしょうか。ありうるということが伝統的に認められています。これは白いキャンバスの上の黒い影になぞらえられます-それは彼にどのような影響も及ぼすことはできません。彼の継続する身体的存在は、壺を作った後で、しばらくの間、回転する陶工のろくろに例えられます。シュリー・ラマナは、それを電気が切られた後でも数回、回転する扇風機に例えたものでした。アジニャーナレーシャ、または、無知は、ろくろの継続する勢いです。解放された人にとって、それはさらなるカルマを作りません。彼の中に活動として見えるものは、アカルマ、即ち、無為、無執着の行為でしかありません(*7)。

 完全な解放は体の破壊の後にのみ得られうると言う人たちもいますが、それは知る人々から受け入れられません。シュリー・ラマナは、「(ジーヴァンムクティとヴィデーハムクティの間の)違いは存在しません。尋ねる人々のために、体を伴う覚者がジーヴァンムクタであり、彼が体を脱ぎ捨てた時にヴィデーハムクティを得ると言われていますが、この違いは傍から見る人にだけ存在し、彼には存在しません。彼の境地は、体を脱ぎ捨てる前と後で同じです」(*8)と明確に断言しました。

 では、彼はいまだカルマに束縛されているのでしょうか。シュリー・ラマナは我々に完璧な回答を与えて、彼はもはや彼自身を体と同一視していないため、体は(束縛されている)かもしれないが、彼は(束縛されて)いないと言いました。「実のところ、覚者は一切の運命を超越し、体にも、その運命にも束縛されていません。」(*9)

 さて、目的地の検討から道へ移りましょう。シュリー・ラマナは、カルマ、または、行為は決して解放に通じえないと説きます(*10)。しかしながら、愛着なく、神への奉仕の精神において行われる行為は、解放の道を示し、心を清めることができ、そうして、より効果的な道をとることを可能にします(*11)。崇拝や儀式という身体的行為、復唱のような声による行為、そして、瞑想のような純粋な心による行為は役立ち、この順序で、それぞれが先のものよりも役立ちます(*12)。

 行為の一つの形である呼吸の制御についての彼の判断も同様でした。「呼吸の制御の修練は心を抑制することに役立つだけであり、その最終的消滅をもたらすことはできません。」(*13)

 実際、彼は呼吸の制御は独立した技法ではなく、心の制御へ通じる道であると説きました。「呼吸の制御は心の制御に役立つものであり、そのような何らかの助けなくして心を制御できないと気づく人々のために勧められます。心を制御し、集中できる人々にとって、それは必要ありません。人が心を制御できるようになるまで、最初それを使うことはできますが、その後、放棄されるべきです」(*14)。「心は呼吸の制御の修練によって退きますが、呼吸と生命力の制御が継続する限りのみ、そのように退いたままにあります。それらが放たれる時、心もまた放たれ、即座に外に向かい、その微細な傾向の力を通じ、さ迷い続けます。」(*15)

 さあバクティの道へやって来ましたが、シュリー・ラマナは、熱烈な献身を通じて一切の思いを超え、真に「在る」ものの内に留まることが、至高なるバクティのまさにその本質であると言いました。真実のバクティは、自我を完全に委ねた結果、それが何も残らないことであり、自らの探求によって自我が存在しないと発見するのと同じことになると説きました。「ただ二つの道しかありません」と彼はしばしば言いました。「あなた自身に『私は誰か』問いなさい。もしくは、委ねなさい。」

 自らの実現への最も直接的な道が、自らの探求であると彼は説きました。それは、自らがすでに実現されていないと人に思わせる障害物を取り除くことによって、自らの実現へ直接的に通じます。「たとえ心が他の手段によって退くにしても、それは見かけ上そうあるだけです。それは再び生じます。」(*16)

 すでに説明したように、全ての技法の有効性を段階に分けましたが、時折、シュリー・ラマナは全ての方法を容認しました。彼はまた、自らの実現という最終的な境地は、どのような道やどのような宗教を通じて近づいても同じであると言いました。しかしながら、最も効果的な方法は、自らの探求です。「カルマ、バクティ、ヨーガ、ジニャーナの唯一の道は、カルマ、ヴィバクティ(献身の欠如)、ヴィヨーガ(分離)、アジニャーナ(無知)を持つのは誰なのか探求することである。この探求を通じて、自我は消え、それらの否定的な性質のどれもがかつて存在しなかった自らに住まう境地が真理として残る」(*17)。様々な色の牝牛からとられても、牛乳が一様に白色であるのとまさしく同様に、実現もまた、どのような宗派に属するのであれ、全ての人々にとって一様です(*18)。

 実際、自らの内に自我を溶け込ますことに通じるなら、全ての道は良いものです。信奉者が委ねと呼ぶものを、アドヴァイティンは知と呼びます。両者が同様に、自我をその源まで連れ戻し、そこにそれを溶かします(*19)。一方は、愛の祭壇の上に自我を捧げ、他方は、それが存在せず、決して存在しなかったことを発見します。自我の非存在という同じ究極の地点に、両者が到達します。

(*1)『Vedanta Sutras with Sankara's commentary』、1-1-4
(*2)『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 490. Sri Ramanasramam. v-
(*3)「Who Am I?」、p. 46-47. (『Collected Works of Ramana Maharshi』、Rider & Co.)

(*4)同上、p. 44.
(*5)『Ramana Maharshi and the Path of Self-Knowledge』 Arthur Osborne著、p. 140. Rider & Co.
(*6)『Shankaracharva's Viveka Chudamani』、w. 429-436.

(*7)『Bhagavad Gita』、IV, 20.
(*8)『Teachings of Ramana Maharshi in his own words』、p. 192、 Arthur Osborne編, Rider & Co.
(*9)同上、p. 188.
(*10)(この号に記載された)「Upadesa Saram」、 v. 2.
(*11) 同上、 v. 3.
(*12) 同上、 v. 4.

(*13)「Who am I?」、p. 43
(*14)『The Teachings』、p. 146.
(*15)「Who am I ?」、p. 42

(*16)同上、p. 42.
(*17)「Supplementary Forty Verses」、 v. 14 (『Collected Works』).
(*18)「Atma Satshatkara」、 v. 42 (『Collected Works』).
(*19)『Day by Day with Bhagavan』、 vol. 11、 p. 35. Devaraja Mudaliar著, Sri Ramanasramam.