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2017年9月16日土曜日

元不可知論者、物理学教授、N.R.クリシュナムルティ・アイヤル氏の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

48.
N.R.クリシュナムルティ・アイヤル教授(1898-1994)は 、マドゥライのアメリカン・カレッジで33年間物理学を教えていました。1920、30、40年代、彼はアーシュラムの定期的な訪問客でした。彼はThe Essence of Ribhu Gitaを著しました。
  1914年4月、ティルパティへの途中、私の両親はヴィルーパークシャ洞窟にいるバガヴァーンに会いに行きました。他の全ての人々と共にバガヴァーンにお辞儀したとき、彼の恵み深く神聖なまなざしが私に定められました。しかし、私は他の少年たちと一緒にその場所を走り回っていたので、彼にほとんど注意を払いませんでした。帰宅した後、大きな変化が私に訪れました。その時まで、私はどの寺院にも行きたいと思ったことは一度もありませんでしたが、いわば、何か不可思議な魅力によって、私の町のティルチラパッリの岩の寺院の巨大で厳かなマトゥルブーテーシュワラ・リンガムに引っ張られるように感じました。一度、寺院の内部で、大いなる安らぎが私を圧倒しました。私が感じた喜びは形容しがたいものでした。

 1919年1月、ティルヴァンナーマライの姉の家を訪れる機会があったとき、私はスカンダーシュラムでバガヴァーンのダルシャンを得ました。この時もまた、バガヴァーンの恵み深いまなざしは私に印象付けられました。家に着き、朝食後に寝たとき、二時間以上私はしっかり意識がありましたが、同時に、私の体と周囲をまったく意識していませんでした。昼食に起き上がった後でさえ、私の周りの全てのものが夢のように感じました。私の困惑した表情を見た人々は私をからかいました。

 1923年、私の教師としての経歴の最初の年の終わりに、私は再びティルヴァンナーマライの姉を訪れ、アーシュラムに行きました。当時、私は、インドの政治的向上のために働いていたガナパティ・ムニのような人々に対してとても共感していました。私はまた、国の解放のために指一本も上げないバガヴァーンのような人々に対して怒りを感じていました。私は、その時、不可知論者でした。私は言いました-自然は自分で自分の面倒を見る。どこに創造者の必要があるのか。

 当時、アーシュラムには、母のサマーディを覆う小屋を除き、建物はありませんでした。バガヴァーンが彼の近くの犬を撫でながら、木の下のベンチに座っているのを私は目にしました。我々バラモンの間では、犬は清浄を汚す動物でした。マハルシへの私の敬意の大半は消え失せました。私は彼に尋ねました-あなたはそのように座っています。あなたの次のスティティ(状態)は何でしょうか。

 私の考えは、肉体の解消の後に生き残る魂があり、後で神に統合するという答えを彼から引き出すことでした。そうではないということを証明するために、私は彼と言葉で一戦交えたかったのです。数分経ちましたが、何の返答もやって来ませんでした。私は心の中で思いました。「この人は、都合の悪い質問に答えるのを避け、馬鹿げた無関心の沈黙の下に逃げ込んでいるのか」。ちょうどその時、バガヴァーンの声が響き渡りました。「スティティ、あなたの言うスティティとはどういう意味ですか」。

 私はその質問に備えていませんでした。私は心の中で思いました。「うわっ、この人はとても危険だ、彼は危いぐらい生き生きしてるぞ。しかるべき配慮をして答えないといけない」。私は考え始めました。もし私が彼に体について尋ねるなら、それは無益な質問だ。体は埋められるか燃やされるだろう。さあ、質問が心の状態についてであると私が言うなら、当然、彼は心を定義するよう私に尋ねるだろう。その答えは私の内に現れようとしない。私は穴にはまり込み、無力な口をきけない人のようでした。バガヴァーンの目には凄まじい輝きがあり、それは私自身の目をしっかり捕らえ続けました。私は体と世界の意識を共に失いました。それがどれほど続いたのか分かりません。我に返った後、私はマハルシがひどく恐ろしくなりました。我知らず、私は平伏し、一目散に逃亡しました。

 次の訪問のとき、アーシュラムのサルヴァーディカーリが私を昼食に招待し、私の到着の数週間前、私の父と母がアーシュラムにやって来て、バガヴァーンとアーシュラムにいる人々にビクシャーを差し上げたと私に言いました。昼食後、バガヴァーンの写真と小さな本を二冊-アルナーチャラ・ストゥーティ・パンチャカムとラマナ・ストゥーティ・パンチャカム-を彼は私にくださいました。私がこれらの贈り物をもってバガヴァーンに近づいたとき、彼は二冊の本の中の印刷ミスを万年筆で訂正し、それらを手のひらで撫で、その神聖な彼の手でもって私に返しました。

 夕食を終えた後、私はバガヴァーンの短い散歩について行き、尋ねました。
N.R.K: バガヴァーン、私はラーマ・ジャパをしています。私は「ラーマ、ラーマ、ラーマ」と唱えています。「アルナーチャラ・シヴァ、アルナーチャラ・シヴァ」と唱えることは、それより優れていませんか。 
バガヴァーン: いえ!いえ!両者は同じものです。「ラ」は「それは~である」を意味し、「マ」は「あなた」を意味します。アルナーチャラの「ア」は「それ」を意味し、「ル」は「あなた」を意味し、「ナ」は「である」を意味します。それゆえ、両方ともが「そが汝なり-あなたはそれである」を意味します。 
 あなたの心を口として使い、主ヴィシュヌのチャクラ(円盤状の武器)のように、ラーマという名前を心の中で途切れなく回転させましょう。他の誰にもあなたがジャパをしていることを知らせないようにしましょう。 
N.R.K: もし私が全ての時間をそのように使うなら、私の教職はどうなるでしょうか。私の仕事が危険にさらされるのではないでしょうか。
バガヴァーン: あなたが復唱する名前を持つ者が、その責任を完全に負うでしょう。あなたがそれについて心配する必要ありません。ラーマ・マントラを復唱し続けなさい。 (↑ Ramana Periya Puranam p318からの内容を追加し、読みやすいように対話形式にしています。 shiba注)

 アーシュラムを離れる前、サルヴァーディカーリがミーナクシ寺院の厳かな聖像、ナタラージャの写真を彼に送るよう私に頼みました。少年ラマナは、マドゥライを永久に離れる前、恍惚の涙をさめざめと流しながら、その像の前で長い時間立っていました。彼はまた、ティルチュリのラマナが生まれた家とそこの他のいくらかの場所の写真も欲しがりました。それらはスッダーナンダ・バーラティによるタミル語の伝記Sri Ramana Vijayamの中に配置されるよう意図されていました。私の生徒であり、熟練の写真家、P.R.S.マニの助けによって、その要望を満たすことに成功しました。

 1930年の終わり頃、私は寝たきりでした。痛みと苦しみがとてもひどかったもため、ただこれ以上痛みに耐えられないという理由から、私は真剣に自殺を考えていました。妻は彼女の両親に私の命が危ないと電報を打ちました。翌日、私は妻に数日以上生きられないかもしれないと告げました。

 かろうじてそれらの言葉を話した後、ティルヴァンナーマライから帰ったばかりで、偶然そこにいたシュリー・ラマナの少年時代の友人、ヴィラチ・マニ・アイヤルが、バガヴァーンのヴィブーティとクムクムのプラサードを取り出しました。彼は少量のクムクムを私の額(ひたい)に置き、ヴィブーティを私の眉の上にこすり付けました。即座に、ゾクゾクするような喜びが私の全身を震わせ、良好な健康状態の感覚で私を満たしました。私はベッドから体を起こし、妻に言いました。「とても具合がいいよ。私は死なないだろう。心配無用だ」。

 その夜のうちに、妻の両親が私のいとこのラージャゴーパル医師とともに到着しました。彼は我々をカルールの彼の家まで連れて行き、ひと月私を治療し、それまでに私は健康を完全に取り戻しました。その時、私はトリッチーで聞いた歌を思い出しました。「ジャイ・シュリー・ラマナ!我が主ラマナ、シヴァに勝利あれ!」。私の魂は同じ歌を歌っていました。

 私の66歳の父は脱腸と喘息の両方を患っていました。これらの病気は、バガヴァーンが生まれた家を手に入れるための交渉に必要だった、マドゥライとティルチュリ間の頻繁な旅のためにさらに悪化しました。取引が終わり、その不動産を3000ルピーで獲得した後、交渉に関わった他の人たちと共に父はティルヴァンナーマライに戻り、そこで彼は絞扼性脱腸に襲われました。

 その発症は突然で、深刻なものでした。彼を車でヴェールールの病院に運ぶことは可能でありませんでした。バガヴァーンの忠実な信奉者、アーシュラム住み込み医師のクップスワーミー・アイヤルは思い切って、地元の病院に手術台を即席で作りました。

 手術に取り掛かる前に、彼はバガヴァーンのもとに行き、彼に成功を祈りました。父は手術を無事に切り抜けました。それはマドゥライの専門医がその年齢と健康状態では致命的になるだろうと言っていたものでした。

 父の命が救われたことが明らかになったとき、私はバガヴァーンの前で平伏し、言いました。「この一回、バガヴァーンは奇跡をもたらし、父の命を救いました!」。バガヴァーンは不意に言葉を差しはさみ、言いました。「どうしてあなたは『一回』と言ってるのですか。どうしてあなたは『三回』と言っていないのですか」。同じような状況で父の命を救うために何年も前に彼の恩寵が求められ、手に入れられた、以前の二回の機会について、どうしてバガヴァーンが覚えていたのか、いや、むしろ、知っていたのかは、私にとって常に謎のままでしょう。

2017年4月1日土曜日

シヴァプラカーシャム・ピッライ - 最も謙虚な師の教えの実践者

◇『ラマナ・ペリヤ・プラーナム(Ramana Periya Puranam)』、p31~34

シヴァプラカーシャム・ピッライ

V.ガネーシャン

 1902年、シヴァプラカーシャム・ピッライがバガヴァーンのもとに来た時、ガンビラム・セーシャイヤのように、彼は哲学を学んだ公務員でした。大学時代にさえ彼は内省的であり、「私は誰か」と熟思したものでした。「それは束の間の思いだと思っていました」とシヴァプラカーシャム・ピッライは後に述懐しました。彼はヴィルーパークシャ洞窟にバガヴァーンを訪ねました。ガンビラム・セーシャイヤ同様、バガヴァーンからの恩寵の一瞥だけで、彼は完全に心奪われました。とても実際的で、明快な考え方をする人であったため、彼のまさに最初の質問は、「スワーミー、私は誰ですか」でした。この質問は教えの水門を開放し、教えは今日まで世界中の諸文化に浸透しつつあります。バガヴァーンの教えへの彼のアプローチは、実践本位でした。シヴァプラカーシャム・ピッライはバガヴァーンに14の質問を提示し、バガヴァーンは石板と砂の上に答えを記しました。そのうち、答えは消されました。シヴァプラカーシャム・ピッライは、記憶をもとに、それらの質問への答えを記しました。

 シヴァプラカーシャム・ピッライ:「スワーミー、私は誰ですか。どうすれば救いが得られるのですか。」
 マハルシ:「絶え間ない内に向かう探求、『私は誰か』によって、あなたはあなた自身を知り、それにより救いを得るでしょう。」

 「私は誰ですか。」
 「本当の『私』、すなわち、自らは、体ではなく、五感のどれでもなく、感覚対象物でもなく、活動器官でもなく、プラーナでもなく、心でもなく、それらの認識がない深い眠りの状態でさえありません。」

 「私がそのどれでもないなら、他の何が私なのですか。」
 「『これは私でない』と言い、そのそれぞれを拒絶した後、唯一残るものが『私』であり、それは意識です。」

 「その意識の本質は何ですか。」
 「それは、わずかの『私』なる思いの痕跡さえない、サット‐チット‐アーナンダです。それはモウナやアートマとも呼ばれています。それは存在する唯一のものです。世界、自我、神の三つ組が分離した実体とみなされるなら、それらは単なる幻です-真珠母貝の銀色の外観ように。神、自我、世界は、実際、シヴァ・スワルーパ、アートマ・スワルーパです。」

 「どうすれば我々は、その現実を実現できますか。」
 「見られる物が消え去るとき、見る者、主体の本質が現れます。」

 「外側の物を見ながらも、それを実現することはできませんか。」
 「できません。なぜなら、見る者と見られる物は、縄とその中の蛇の外観のごとくであるからです。あなたが蛇の外観を取り除くまで、存在するものは縄でしかないと知ることはできません。」

 「いつ外側の物はいつ消え去るのでしょうか。」
 「全ての思いと活動の原因である心が消え去る時、外側の物もまた消え去るでしょう。」

 「心の本質とは何ですか。」
 「心とは思いでしかありません。それは力の一つの形です。それは世界として顕現します。心が自らの中に沈むとき、その時、自らが実現されます。心が飛び出すとき、世界が現れ、自らは実現されません。」

 「どうすれば心は消滅しますか。」
 「『私は誰か』なる探求を通じてのみ。この探求もまた心の活動ですが、それは、それ自体を含め、一切の心の活動を破壊します。火葬用の薪山をかき混ぜる棒そのものが、薪山と死体が焼かれた後、灰に帰すのとまさしく同様です。その時にのみ、自らの実現が訪れます。『私』なる思いは破壊されると、呼吸や他の生命の兆候も静まります。自我とプラーナは共通の源を持ちます。あなたが何を行うのであれ、利己心なく、つまり、『私がこれを行っている』という感覚なく、行いなさい。人がこの境地に達するとき、彼自身の妻でさえ彼には万物の母として現れるでしょう。真のバクティとは、自らへの自我の委ねです。」

 「心を破壊する他の道はありませんか。」
 「自らの探求以外、適切な方法はありません。心が他の手段で静められるなら、しばらくの間おとなしくしていますが、その後再び生じ、以前の活動を再開します。」

 「しかし、自己防衛といったような、全ての本能や傾向(ヴァーサナ)がいつ我々の中で抑えられるのでしょうか。」
 「あなたが自らの中に退けば退くほど、それらの傾向は衰えゆき、終には抜け落ちます。」

 「多くの生まれを通じて我々の心の中に染み込んでいる、これら全ての傾向を根絶することは本当に可能ですか。」
 「あなたの心にそのような疑問の余地を決して与えず、固い決意をもって自らの中に飛び込みなさい。この探求によって、心が常に自らに向けられるなら、心はやがては溶かされ、自らに変じます。あなたがどのような疑問を感じても、それを解明しようとせず、疑問が起こるのは誰なのか知ろうとしなさい。」

 「この探求をいつまで続けるべきでしょうか。」
 「あなたの心の中に思いを引き起こす傾向の痕跡がごくわずかでもあるかぎり。敵軍が砦を占拠している限り、彼らは出撃し続けるでしょう。あなたが出てくるに従い一人ひとり殺すなら、ついには砦はあなたの手に落ちるでしょう。同様に、思いが頭をもたげるたびに、この探求によってそれを押しつぶしなさい。一切の思いをその源で押しつぶすことが、ヴァイラーギャと呼ばれています。そのため、自らを実現するまで、ヴィチャーラは必要であり続けます。必要とされることは、継続的な途切れない自らの想起です。」

 「この世界とその中で起こることは、神の意志の結果ではないのですか。そして、もしそうなら、なぜ神の意志はこのようにあるべきなのですか。」
 「神は目的を持ちません。彼はどんな行為にも束縛されません。世界の活動は彼に影響できません。太陽を例にとりましょう。太陽は欲望、目的、努力なく昇りますが、それが昇るや否や、無数の活動が地上で起こります。その光線の中に置かれたレンズは、焦点で炎を作り出し、蓮華のつぼみは開き、水は蒸発し、生きとし生けるものは活動を開始し、続け、終にはやめます。しかし、太陽はそのようなどんな活動にも影響されません。太陽は、その性質に従い、定まった法則によって、何ら目的もなく活動するに過ぎず、目撃者でしかないからです。神についても同様です。あるいは、虚空を例にとりましょう。地水火風はその中にあり、その中にそれらの変形物を持ちますが、そのどれも虚空に影響しません。神についても同じです。生命が従属する創造、維持、破壊、覆い隠し、救いというその活動の中に、神は欲望や目的を持ちません。彼の法則に従って、生命はその行為の結果を得るため、その責任は生命にあり、神にありません。神はどんな行為にも束縛されません。」
 
 のちに、シヴァプラカーシャム・ピッライはさらに14の質問を提示しました。バガヴァーンはそれにも回答しました。これら24の質問と回答が、小冊子「私は誰か」を構成し、それはバガヴァーンの教えの核心を具現化し、探求者へのなくてはならない手引きです。それは我々が悟ることを可能にします-我々が、シュリー・ラマナ・マハルシに行き渡り、さらには全創造物に穢れなき真理として行き渡る、同じ自ら、同じ意識であることを。他の14の質問へのバガヴァーンの回答の要諦は、以下になります。

. 「私」として肉体の中に生じるものが、心です。「私」という感覚はハート、存在の核心から生じます。「私は誰か」問うことによって、注意は内に向かい、それゆえ、思いから逸らされます。この修練を粘り強く行うことにより、心は力を得て、源へ行き、自らに吸収されます。適量の質素な栄養のある食べ物を食べるというようなサットヴァな原則に従うこと、簡素な善行の規範を守ることが、心の清浄な性質の発展に最も寄与します。これが今度は、障害なく、どのような形も自らの中に生じる余地を与えることなく、人が自らの探求を追及するのを助けます。全てのヴァーサナは解消されるでしょう。人は、しっかりと絶え間なく、唯一なる自らに集中すべきです。人は逸れることなく、絶えず師の教えを実践すべきです。自らは至福です。深い眠りやサマーディなどの場合、もしくは、望ましい物が得られるときに、心が幸福を体験するときはいつでも、それは心がその欲望を手放し、自らの至福でいるためです。灼熱の太陽を避け、影を決して離れない賢明な人のように、人は心が外に向かい活動することを許さず、常に自らに吸収されているべきです。自らは、太陽のように、それが支える生き物のどんな活動にも影響されません。心を絶えず内側に向け続け、そのように自らとしていること、それのみがアートマ・ヴィチャーラ、自らの探求です。心が退くなら、他の全てが退くでしょう。自ら、人の本質の中にいること、留まること、それのみがムクティ、解放です。

 シヴァプラカーシャム・ピッライは、これらの教えを体現しました。彼は、自らの探求の後、どのように探求者たちが彼ら自身を自らの中に保つべきか示しました。彼はバガヴァーンを崇拝し、彼が言ったことを何でも吸収し、それを実践しました。しかしながら、バガヴァーンの教えを実践するとき、信奉者は誤解するかもしれません。例えば、バガヴァーンが放棄を褒め称えたとき、シヴァプラカーシャム・ピッライはバガヴァーンがサンニャーサを意図しているとばかり思いました。彼は家に行き、頭を剃り、布切れ一枚を身に着けました。彼は常に身に着けていた聖糸さえ捨てました。バガヴァーンは彼を見て、尋ねました。「どうして頭を剃ったのですか。髪を伸ばし、聖糸を身につけなさい」。その時、彼は、バガヴァーンがを意図していたことは、ジニャーナであり、外的な象徴でない、内なるサンニャーサであると理解しました。世界への、その対象物への愛着が、内から放棄されねばなりません。

 ヴィルーパークシャ洞窟とスカンダーシュラムで、彼は頻繁にバガヴァーンと共にいました。師のそばにいて、その教えを吸収したため、彼は精神的に成熟し始めました。そして、彼は仕事をやめ、自らの探求に完全に専念したくなりました。バガヴァーンはそのようにする許可を彼に与えませんでした。しかしながら、三年後、彼は再びまた、もうこれ以上仕事に行けませんとバガヴァーンに伝えました-仕事中でさえ、彼は自らの探求に没頭し、結果、事務仕事に関心を向けられませんでした。今度は、バガヴァーンは彼に職を辞す許可を与え、彼の村に戻り、サーダナを続けるよう求めました。

 彼は村のはずれの古いガネーシャの寺院に、また、時には近くの森に一人とどまりました。彼は絶えず探求を修練しました。この期間に、彼の意識状態と行動が突如変化しました。彼は明確な理由もなく笑いはじめ、タミル語で聖歌を大声で唱え、彼が出くわした全ての形に平伏し、聖灰の袋を挟み込んだ長い腰布を身に着けました。バガヴァーンは数年前にこの袋を彼に与え、体にその中身を塗りつけるよう求めました(これは私が出会った、バガヴァーンが信奉者に聖灰を塗り付けるよう指示した唯一の事例です)。シヴァプラカーシャム・ピッライは全身を聖灰で覆い、小さな杖を持ち歩き、カーストの制約を忘れ、いわゆるアウトカーストに占拠される火葬場やその他の地域をよく訪れました。この状態で、彼はまた、はるばる近くの門前町に歩いて行き、歩いて戻りました。彼に差し出されたおかゆと酸っぱい食べ物を誰からでも受け取りました。村に戻った時、彼は通常の意識を取り戻しました。それ以来、彼はバガヴァーンを年に何度も訪れ、毎回、15日ぐらい滞在しました。この間中ずっと、外のグルは彼を押し入れ続け、一方、内のグルはより長時間のアートマ・ヴィチャーラへとさらに内側に彼を引っ張っていました。しばしば、恍惚状態で、シヴァプラカーシャム・ピッライは多くの詩を作りました。バガヴァーンはそれらを高く評価し、承認しました。彼はそのいくつかを日々のパーラーヤナ、アーシュラムでの朗誦に含めさえしました。

 これらはシヴァプラカーシャム・ピッライの詩の中の四編です。

 「夜明けから日暮れまで、私は無駄話に日々を費やしている。瞬間でさえ、私は、『私は誰か』と思わない。わが主よ、あなたは私に告げた-あなたが一言話すなら、それは多くの言葉に増殖するだろう、と。ラマナ・デーヴァよ、私はあなたの信奉者のふりをしているに過ぎず、一者としてわが身を処していない。」

 「私は他者の悪行に聞き耳を立て、それについて語り、時間の大部分を浪費する罪びとである。私自身多くの欠点を持つが、他者がそれに言及するなら、私の心は怒りで沸き立つ。それに何ら害もないと思い、私は小さな嘘を口にするのをためらわない。おお、ラマナ・デーヴァよ、私があなたの信奉者であるかのように、あなたの足元に崩れ落ちるのは見せ場ではないのか。」

 「私は年老い、種々の病を患っているが、女性への欲望を滅ぼしていない。私の心なる亡霊は、その美しい顔を見、言葉を交わし、その蜜のごとき言葉に耳を傾けることを欲する。たとえ私が心に助言しても、それは退かず、彼女たちを追いかけ、さまよう。ラマナ・デーヴァよ、いつこの迷妄は終わり、私の心は堅固になるのか。」

 「私の資質や徳性が劣っていることは、あなたの知るところである。欠点に満ちた愚か者の中で、私が最下であることも、あなたの知るところである。あなたはこの全てを知っているのに、それでもあなたは私を探し、私を所有した。ラマナ・デーヴァよ、この不可思議をいかに私は説明しうるのか。」

 ある信奉者がかつてバガヴァーンに尋ねました。「バガヴァーン、シヴァプラカーシャム・ピッライは実に優れた禁欲行者でした。彼は逸れることなくあなたの教えを実践しました。彼の詩を読めば、自分の立ち位置はどこなのか疑問に感じます!彼がこの哀れな状態であるなら、私はどうなるでしょうか」。バガヴァーンは美しい返答で応じました。「神を称賛するとき、アーディ・シャンカラや他の賢者は、彼ら自身を叱りつけ、同じことを述べています。そのようにして、賢者は他者を導き、探求者に警告するのです」。

 ヴィシュワナータ・スワーミーは、シヴァプラカーシャム・ピッライが講堂のどこかに座っているのを知っていたので、シュリー・バガヴァーンに彼を教えて下さるよう頼んだことがあると私に話しました。講堂は信奉者で混みあっていました-おそらくは祭りの日だったのでしょう。バガヴァーンは最も遠く離れた角のほうを指さし、言いました。「ほら、あそこです!両腕で裸の上半身を覆い、田舎の村人のように目立たずに座っています。あれが我々のシヴァプラカーシャム・ピッライです。彼は飼いならされた猫のようにここで座っています。人は彼の事務所で彼を見るべきです。そこでは、彼は野生のライオンのようです。実直、正直、勤勉が彼を特徴づけており、そのために全ての人は畏怖と尊敬の念をもって彼に近づきます」。

 シヴァプラカーシャム・ピッライが年を取り、病気になり、彼の村から旅することができなくなったと知ることになり、私の父は、彼に会ったことありませんでしたが、クンジュ・スワーミーにチダンバラム近くの彼の村に自分を連れていくよう迫りました。シヴァプラカーシャム・ピッライの質素な風采と謙虚さは、傑出していました。彼の体は、精神的成熟性によって、溶けた黄金のように輝いていたものでした。父をシヴァプラカーシャム・ピッライに紹介する間、クンジュ・スワーミーは、シュリー・バガヴァーンの率直な教えをもたらした最も謙虚な学者の信奉者として彼を心から恭しく褒め称えました。シヴァプラカーシャム・ピッライは、謙遜の限りを尽くし、熱烈な愛情をもって、クンジュ・スワーミーの両手を握り、それを彼の目と頭の上に置きました。その目から涙を流しながら、彼は言いました。「この神聖な手は、わが師の聖なる体に触れ、仕えるという大変な幸運を得ました。それは私の人生で決して得ることのなかった功徳です。あなたは本当に恵まれていて、はるかに偉大です!」。この出来事を語った後、クンジュ・スワーミーは言いました。「このようにして、真に偉大な人々は、他者の栄光を高めるために自らを低きに置くのです。彼らにとって『他者』がどこにいますか。全ての者は、同じ唯一なる自らでしかありません!」。

 1948年にシヴァプラカーシャム・ピッライが体を降ろそうとしていた時、その知らせはバガヴァーンに伝えられました。バガヴァーンはとても長い沈黙に入りました。後に、彼が亡くなったという知らせが来たとき、バガヴァーンは確言しました-シヴァプラカーシャム・シヴァ・プラカーシャム・アーナール。「シヴァプラカーシャムはシヴァの光に溶け込んだ」という意味です。そうです、この美しき人物は、アルナーチャラ・シヴァのもとへ永遠に帰ったのでした。

(shiba注) こちらも参照のこと ⇒ シヴァプラカーシャム・ピッライによる「シュリー・ラマナ・ヴァチャナ・サーラム」、追加の翻訳あり

2017年2月1日水曜日

バガヴァーンのドヴァーダクシャラ・マントラ - その由来と意味

◇「山の道(Mountain Path)」、1971年7月、p168 & 「THE MAHARSHI」、2005年3/4月 etc

そのマントラはどのように私のもとにやって来たのか

T.K.S

 オーム・ナモー・バガヴァテー・ヴァースデーヴァヤというマントラは、若かりし頃、私を大変に魅了していました。それは私を大いに喜ばせたため、私は主ヴァースデーヴァについて絶えず考えていました。私にはこの体が40代に死ぬだろうという予感があり、その時までに主のダルシャンを得たいと望んでいました。私は断食し、絶え間なく主ヴァースデーヴァへの献身を修練しました。私は『シュリー・バガヴァッド・ギーター』と『シュリー・バーガヴァタム』を大いに喜んで読みました。その時、ギーターの中で、Jnani tu atmaiva me matam(私の見解では、ジニャーニは私自身の自らである)を読み、それはストレートに私の心に響き、次の思いが私に浮かびました。「ヴァースデーヴァ自身である、バガヴァーン・シュリー・ラマナが身近にいるのに、どうして私は別にヴァースデーヴァを崇拝すべきなのか」。留意されるべきは、この全てが、シュリー・バガヴァーンと共に彼のアーシュラムに居を定める前の私の若かりしころのことだということです。そのため、忠誠心に矛盾がないように、私はただ一つのマントラ、ただ一人の神(デーヴァタ)、ただ一冊の聖典が欲しかったのです。容易にシュリー・ラマナ・パラマートマンは崇拝すべき神に、彼の『Collected Works』は福音になりました。マントラに関しては、オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤが、オーム・ナモー・バガヴァテー・ヴァースデーヴァヤにきっちり対応するということが直感的に閃きました。この新たなマントラの文字を数えたのですが、それが(サンスクリット語で)12文字含んでいることに気づき、私はとてもうれしく思いました。私はこの全てをシュリー・バガヴァーンに伝え、彼はそのマントラを承認して下さいました。

 進んだ修練者(サーダカ)はこれを笑い、「直接浸(ひた)るべき至福の大海がそこにあるのに、どうしてマントラが必要なのか」と言うかもしれません。実を言えば、その中で私は伝統的な修練の方法(ウパサーナ)に従おうとしていたのです。それはバクティ(献身)の主要な要素の一つを形成しています。シュリー・バガヴァーンは彼の本質が全ての目撃者であることを明らかにしました。それでも、アドヴァイタは態度の中にのみあるべきであり、外の行為に決して示されてはならないという明確な訓令があります。

心中、常に不二の感覚を保て
しかし、決してそれを行為に表すな
我が息子よ、不二の感覚はたとえ三世界に適用されても
グルに対して用いられるべきでない

-シュリー・バガヴァーンのSupplement to the Forty Verses on Reality

 このようにして、オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤなるマントラが私のもとにやって来たのです!


Gayathri Girishによる「オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤ」


オーム・ナモー・バガヴァテー・シュリー・ラマナーヤ

T.S.ヴァイダヤナタン

 このマントラは、熱心な信奉者、シュリー・T.K.スンダレーサ・アイヤルに明らかにされ、続いて、バガヴァーンに承認され、彼の存在を希求します。それはバガヴァーンのドヴァーダクシャラ・マントラとして知られており、それが12文字であることを意味します。

 ヒンドゥー教では、実際のマントラを隠しておくことが一般的であり、実際にそのマントラを言うことなく、それを5か6文字のマントラと呼びます。これはそのマントラの高潔さ、純粋さを守るためになされ、手ほどきを受けてない人がそれを誤用しないためです。我々がシュリー・ナーガンマの『Letters from Sri Ramanasramam』の中で、ドヴァーダクシャラ・マントラが牝牛のラクシュミーの前でその臨終の日に唱えられていたということを読むとき、これが彼女が言及していたマントラです。実際の意味は、手短には、以下になります。

・オーム
 これは主シヴァのビジャ・マントラであり、その起源をジーヴァとシヴァの合一を表す、ソーハムに由来します。それはまた、主シヴァの内在的な形のことを指しています。それは時にプラナヴァと呼ばれ、全創造の背後の根源的な音であると信じられています。

・ナモー
 サンスクリット語のマナは、心を意味します。ジーヴァの心は世界に向かって出ていきます。言葉を逆さにすると、マナはナマになり、神もしくは内なる自らを頼りにすることを意味します。ナマハは非常に神聖な名前の共通の結びであり、「私はあなたを頼りにする」を意味します。上のように、ナモーは文法上強制されています。

・バガヴァテー
 バガを所有する者。神性を示す六つのバガがあります。神かその真の化身のみ、それらを所有できます。その特質とは、万能の力、ダルマ、名声、繁栄、知識、離欲です。

・シュリー
 いくつか意味がありますが、この文脈では、「恵み深い」を意味します。

・ラマナーヤ
 自らに楽しむ者

 そのため、マントラの意味は、「恵み深き神聖な主ラマナに帰依します」です。


Kali Dasによる「ラマナ・サッグル」、リズミカルで誰でも歌えるシンプルさ

ラマナ・サッグルx8
オーム・ナモー・バガヴァテーx3 シュリー・ラマナーヤ x2
アルナーチャラ・シヴァx6


-サーダナに関するバガヴァーンとの対話-

私が見た彼 - No.3

クンジュ・スワーミー

 約12年間、バガヴァーンに直接仕えて過ごした後、私はひたすらサーダナに専念したいという衝動を感じ始めました。しかしながら、バガヴァーンへの直接の奉仕を放棄することに私はたやすく甘んじられませんでした。私は数日間その問題をじっくり考えていたのですが、答えは奇妙な方法でやってきました。

 ある日、私が講堂に入ると、バガヴァーンが、彼への本当の奉仕とは彼の体に必要なものを世話することではなく、彼の教えの本質を追及すること、すなわち、自らを実現することに集中することであるとそこにいた他の人々に説明しているのを耳にしました。言うまでもなく、それは自動的に私の疑問を晴らしました。

 それゆえ、私はアーシュラムの務めを放棄しましたが、その時、どのように、実際、丸一日を実現の探求に費やすべきか決めるのが困難であると気づきました。私はその問題をバガヴァーンに委ね、彼は自らの探求を私の最終目標とし、自らの探求、瞑想、ジャパ、聖典の読誦をかわるがわる修練し、行っているものに飽きたり、困難であると感じるや否や、別のものへ変えるよう私に助言しました。やがて、サーダナは自らの探求、純粋な意識、または、実現(の探求)に安定するでしょうと彼は言いました。

 どのような道を熱望者に勧める前にも、バガヴァーンは初めに、どのような側面、形、または道に彼が自然と惹かれるのか彼から聞き出そうとし、その後、その人にそれに従うよう勧めたものでした。彼は時に、プージャから、ジャパ、ディヤーナ、そして最後にヴィチャーラへと進む、サーダナの伝統的な段階を是認したものでした。しかしながら、これらのどの方法でも、途切れのない厳しい修練は、それ自体、実現へ導くに足ると彼はよく言いました。
(THE MAHARSHI、1991年7/8月、抜粋)

2016年4月4日月曜日

『シュリー・ラマナ・ギーター』 第七章 自らの探求-適性と構成要素

◇『シュリー・ラマナ・ギーター(Sri Ramana Gita)』、Sri Vasistha Ganapati Muni著

第七章 自らの探求-適性と構成要素

1.
バーラドヴァージャ族のカルシュニとアーチャールヤ・ラマナとの間の
素晴らしき対話が、この第七章で語られる

This seventh chapter records the excellent conversation 
between Karshni of Bharadvaji line and Acharya Ramana.

In this seventh chapter, is told the excellent interchange 
between Karshni of the Bharadvaja clan and the Master Ramana.

2.カルシュニ曰く
自らの探求の特徴とは何ですか。何がその目的ですか
自らの探求によって得られうるよりも優れた成果を出しうるものが他にありますか

What is the nature of Self-enquiry? What is its purpose? 
Is there any greater good obtainable by the other means?

What is the form of Self enquiry? What is the use? 
Is there any other that can give greater result than can be obtained by Self-enquiry?

3.バガヴァーン曰く
全ての思いの集合体であると言われる
「私」なる思いの誕生の地が探求されねばならない

The 'I'-thought is said to be the sum-total of all thoughts. 
The source of the 'I'-thought has to be enquired into.

Deliberate on the birth place of the I-activity 
which is said to be the aggregate of all activities.

4.
これが自らの探求であり、聖典の学習ではない
その起源の地が探される時、自我は溶け込む

This is Self-enquiry, and not the study of scriptures. 
When the source is searched for, the ego gets merged in it.

This will be the Self enquiry, not an investigation into the Shastras. 
When the original place is searched, the I-concept gets merged.

5.
自らの反射でしかない自我が完全に消え去る時
真の自らが、あらゆる面で完全に、絶対的に、残る

When the ego, which is mere reflection of the Self, totally disappears, 
what remains is the true Self alone in all its plenitude and perfection.

The I-concept appears as the Self. When it gets lost, 
the true Self, complete all around remains as the absolute.

6.
自らの探求の成果とは、あらゆる苦しみの終焉である
これがあらゆる成果の中で最上のものである。これより優れた成果は存在しない

The result of Self-enquiry is freedom from all suffering. 
This is the highest of all fruits. There is nothing higher than this.

The result of Self enquiry will be the turning away from all miseries. 
This will be the climax of all results. There is no other result greater than this.

7.
驚くべきシッディ*が他の手段によって得られるやもしれないが
最終的に、あなたは探求によってのみ幸福(解放)を得る

Marvellous occult powers may be had through other means. 
But in the end Freedom can come only through Self-enquiry.

Though a person gets wonderful siddhis accomplished by other means, 
finally he is happy only by enquiry.
*達成、ここでは、「超常的な力」

8.カルシュニ曰く
この自らの探求に適した者であると誰が言われていますか
適性を獲得したことを自ら知ることはできますか

Who is considered fit for this enquiry? 
Can one by oneself know one's own fitness?

Who is said to be a fit person for the practice of this Self enquiry? 
Can a person know by himself that he has acquired fitness?

9.バガヴァーン曰く 
神の崇拝や他の手段によって、もしくは、過去生での善行によって浄められ
その心が体と感覚対象物に欠陥を感じる者

He whose mind has been purified through upasana and other means 
or by merit acquired in past lives, 
who perceives the imperfections of the body and sense-objects,

One who has been purified by waiting upon God and by other things 
or by good deeds in earlier births, 
one whose mind perceives the deficiencies in the body and sensory objects.

10.
その心が感覚対象物の中をさ迷うことに強い嫌悪を感じ
体が無常であると理解する者、彼は適した者であると言われる

and feels utter distaste whenever his mind has to function among sense-objects 
and who realises that the body is impermanent, he is said to be a fit person for Self-enquiry.

They call him a fit person whose mind wandering in sensory objects 
becomes completely disgusted and who thinks about the impermanence of the body.

11.
体の儚さへの理解、感覚対象物への離欲
これら二つの徴によって自分自身の適性を知りうる

By these two signs, that is by a sense of the transitoriness of the body
 and by non-attachment to sense-objects, one's own fitness for Self-enquiry can be known.

One's fitness can be inferred from these two signs, the thought of evanescence
in the body and a sense of dispassion in sensory objects.

12と13.カルシュニ曰く 
スナーナ、サンディヤー、ジャパ、ホーマ、スワーディヤーヤ、デーヴァ・プージャー*
サンキールタナ、ティールタ・ヤートラ、ヤジュニャ、ダーナ、ヴラタ*

これらは、離欲と識別によって探求に適した者にとって
役立ちますか、それとも、単に時間の無駄でしかないのでしょうか

When one is fit for Self-enquiry, by his non-attachment for sense-objects 
and by discrimination, are ceremonial baths, sandhya, repetition of mantras, 
oblations poured into the fire, chanting of Vedas, worship of Gods, bhajan, pilgrimage, 
sacrifice, giving in charity, and observance of special spiritual practices, 
of any use or are they a mere waste of time?

Sacred bath, japa in the Sandhyas, oblations in the sacred fire, Vedic recital, worship of
 the gods, singing the holy names, pilgrimage to sacred spots, sacrifice, charity, vows 
- all these, are they useful to a person empowered for enquiring 
by dispassion and discrimination? Or, are they intended simply to while away the time?
順に*沐浴*日に三度の勤行*神の名などの復唱*火の供儀*聖典読誦*神々の崇拝
順に*集団で音楽にのせて行うジャパ*聖地巡礼*祭式、崇拝*与えること、布施*誓戒

14.バガヴァーン曰く 
進取の気性に富む、欲望弱まりゆく適格者にとって
これら全ての行為は大いに心の浄化のためとなる

For competent beginners with waning attachments
 all these aids will make the mind increasingly pure.

For beginners and for all those eligible, with declining desires, 
all these actions contribute to a great deal of mental purification.

15.
心、口、体から生じる善い行為は
心、口、体から生じる逆の行為を破壊する

Virtuous activity of mind, speech and body 
destroys the contrary activity of mind, speech and body.

An action which is said to be a good deed arising out of mind, speech and body 
vanquishes another action arising out of mind, speach and body.

16.
完全に清浄な心の成熟した適格者にとって
この行為の網は世界の利益のためにある

All this (virtuous) activity of competent persons, mature 
and endowed with minds of highest purity, benefits the world.

For those fit mature persons, of utmost purity in mind, 
this network of actions is for the benefit of the world.

17.
他者の教化のため、福利のため、賢者は
成熟している時でさえ行為を行う。聖典の命(めい)への恐れからではない

Men of mature wisdom perform action for helping (by example) and for the welfare of others,
 not out of fear of (violating) scriptural injunctions.

For teaching others and for their welfare, the learned ones, 
even when mature, perform actions, not out of fear of the injunctions of the Shastras.

18.
徳行は探求に反しない、おお、人中(にんちゅう)の雄牛よ
愛着なく行われることにより、相違の認識を破壊するため

Virtuous actions, performed without a sense of difference and without attachment 
do not stand, O best of men, in the way of Self-enquiry.

O best amongst men, all that done without attachment,
 destroying the notion of division are sacred. They do not run counter to enquiry.

19.
自らを探求する成熟した人にとって、行為を行わないことも罪にならない
自らの探求が、最大の徳行、神聖の中の神聖であるがゆえに

The non-performance of prescribed actions by a mature person pursuing Self-enquiry is no sin. For, Self-enquiry is itself the most meritorious and most purifying (of actions).

For a mature person deliberating on his Self, non-performance of action does not lead to sin. Deliberation on one's Self is the most meritorious act, the sacred of sacreds.

20.
成熟した適格者のあり方は二通りあると見られている
ヨーガへの専念のための放棄、そして、他者のための配慮ある行為

Two ways of life are seen in the mature among competent seekers; 
renunciation of action for solitary communion and action for the good of others.

The poise of the mature fit persons is seen to be of two kinds: 
a rejection for one-pointed yoga and a regard for work for the sake of others.

21.カルシュニ曰く
ニルヴァーナへの自らの探求以外の道があるならば
一つですか、それとも、複数ですか。どうか私にバガヴァーンがお教え下さいますように

If besides Self-enquiry there be another way to nirvana, is it one or varied? 
May Bhagavan be pleased to tell me.

If there is a way other than Self enquiry for salvation, is it one or many? 
Bhagavan may kindly explain.

22.
一方は得るために努力し、他方は得る者へ向かう
長い間、前者は歩み、終には自らを得る

One strives to attain something; the other seeks the one who strives to attain. 
The former takes longer time and in the end attains the Self.

One strives to attain; the other reaches the attained. 
The first one traverses for long and finally attains the Self.

23.
瞑想する者の心は、ただ一つの形になる
心がただ一つの形であることは、本質に住まうことに通じる

The mind of one meditating on a single object becomes one-pointed. 
And one-pointedness of mind leads to abidance in the Self.

For the one, the mind becomes of one form through meditation. 
And the one form of the mind contributes to its stationing in one's true form.

24.
たとえ望まなくとも、瞑想する者は、自らへの安住を得る
しかし、探求者は、理解の上、自らに安住する

One who meditates attains, even without dersiring it, abidance in the Self. 
The seeker, on the other hand, knowingly abides in the Self.

Meditating even without desire, one gets stationed in the Self. 
On the other hand, the enquirer, with knowledge is established in the Self.

25.
神、マントラ、もしくは、他の優れた目標に瞑想する者にとって
瞑想の対象は、自らの偉大なる輝きの中に溶け込みうる

The deity, mantra, or any other excellent object on which one meditates 
merges in the end in the great effulgence of the Self.

For the one who meditates on a deity, Mantra or any other worthy goal, 
the object of meditation will finally get lost in the great effulgence of the Self.

26.
瞑想する者と自らを探求する者にとって共に、目的はそのように同一である
瞑想によって一方は安らかになり、知によって他方は静められる

The goal is thus same both for the one who meditates and the one who practises Self-enquiry. One attains stillness through meditation, the other through knowledge.

Thus the one who meditates and the one who deliberates on the Self,
both have the same goal. By meditating one has the peace and the other knowing appeased.

これがラマナの弟子、ヴァーシシュタ・ガナパティによって作られたブラフマンの知とヨーガの聖典
シュリー・ラマナ・ギーターの「自らの探求-適性と構成要素」と題される第七章である

This is the seventh chapter entitled 'Self-enquiry; competence and constitutes'
in Sri Ramana Gita, the Science of Brahman, and the Scripture of Yoga
composed by Ramana's disciple Vasishta Ganapati.

2016年3月20日日曜日

『シュリー・ラマナ・ギーター』 第六章 心の征服

◇『シュリー・ラマナ・ギーター(Sri Ramana Gita)』、Sri Vasistha Ganapati Muni著

第六章 心の征服

(1)
このようにハートに関する真理を説いた後、真理を知る者の中の最上の方
ラマナ・ムニは、心を征服する方法について語った

Having thus explained the truth regarding the Heart, Sri Ramana Muni,
the best among the knowers of truth, spoke of the method controlling the mind.

The sage Ramana, excellent among the knowers of the Truth, 
having thus defined the truth about the heart, spoke on the means of controlling the mind.

(2)
常に思いに取り付かれ、その心が感覚対象物に張り付いた人々にとって
ヴァーサナー(潜在傾向)の力のために、心は征服し難くなる

Men attached to sense-objects, ever obsessed by thought
find it difficult to control the mind because of the strength of their vasanas.

For men constantly active, their mind attached to sensory objects, 
because of their strong impressions, the mind becomes difficult to control.

(3)
人は呼吸の制御によって、揺れ動く心を征服すべきである
あたかも捕えられた動物のごとく、心は動かない

One should control the fickle mind by controlling the breath
and then it, like tethered animal, ceases to stray.

Man should subjugate that wavering mind by restraint of life-breath.
The mind does not move like an animal entangled in a net.

(4)
呼吸の制御によって、思いの抑制もまた達成される
思いが抑制されている時、人は思いの誕生の地に打ち立てられている

With the control of breath, control of thoughts also is achieved.
When thoughts are controlled one stands established at their source.

By the restraint of Prana, the check on the activities will be established.
When activities are checked, the person is established in the birthplace of these activities.

(5)
呼吸の制御とは、心による呼吸への傾注である
そのような継続的な傾注により、クンバカ(止息)が達成される

Control of breath means merely watching with the mind the flow of breath.
Through such constant watching kumbhaka does come about.

Watching the life breath by the mind is regulation of Prana.
Retention results by such watching all the time.

(6)
この方法でクンバカ(止息)を修練することができない者たちのために
クンバカ(止息)を達成するためのハタ・ヨーガの方法が定められている

For those unable to achieve kumbhaka this way,
the method of Hatha Yoga is prescribed.

For those who are not capable of practising retenton under this method,
The Hatha Yoga method of achieving retention is prescribed.

(7)
レチャカ(吐息)は一単位なされるべきであり、プーラカ(吸息)は一単位
クンバカ(止息)は四単位なされるべきである。そのようにして、ナーディー*の浄化が生じる

That is: rechaka should be done for one unit of time; pooraka for one unit;
 and kumbhaka for four units. Thus the channels of life force are purified.

Exhalation has to be done once, inhalation to be done once and the retention four times.
As a result the nerve channels are purified.
*プラーナ(生気、生命力、呼吸)の通り道、気道、気脈
(8)
浄められたナーディーにおいて、呼吸は徐々に抑制される
呼吸の完全な制御が、スッダ・クンバカ(清浄な止息)と言われている

When they become pure, the breath gets controlled gradually.
Complete contol of breath is called suddha kumbhaka.

In the purified nerve channels, Prana gradually comes under control.
The control of Prana by all means is said to be the pure retention.

(9)
他に、ジニャーニは言う-レチャカ(吐息)は「私は体である」という概念の放棄
プーラカ(吸息)自らの探求、クンバカ(止息)はサハジャ・スティティ*と

Others, that is, jnanis, define rechaka as giving up the idea 'I-am-the-body',
pooraka as the quest for the Self, and kumbhaka as sahaja-sthiti or abidance in the Self.

Other Jnanins say that the abandonment of the notion of the body as the Self is exhalation,
the seeking of one's Self is in inhalation and the natural state of poise is retention.
*自らに住まう)自然な境地
(10)
もしくは、マントラの復唱によって、心の征服は生じる
生気*とマントラは、心と一体になる

Also by repetition of mantras, the mind gets controlled.
Then the mantra becomes one with the mind and also with the prana.

Or else, by the japa of Mantra, subjugation of mind take place.
Then Prana and Mantra will become one with mind.
*プラーナ、生命力、3.4..5.8詩節では「呼吸」と訳している
(11)
マントラの音節と生気の合一が、ディヤーナと名付けられる
ディヤーナは、サハジャ・スティティのための堅固な土台として働く

When the syllables of the mantra become one with the prana, it is termed dhyana 
and when dhyana becomes deep and firm it leades to sahaja sthiti.

The union of the life force with the letters of the  Mantra is known as meditation.
Meditation acts as the firm ground for the natural state.

(12)
また、高貴な心を持つ偉大なる方々との常なる交際によって
心はそれ自体の(誕生の)地に溶け込む

Also by constant association with great, enlightened seers
the mind gets merged in its own source.

Or else, by keeping constant company with the great good men of exaleted minds,
mind wil get merged in its place.

これがラマナの弟子、ヴァーシシュタ・ガナパティによって作られたブラフマンの知とヨーガの聖典
シュリー・ラマナ・ギーターの「心の征服」と題される第六章である

This is the sixth chapter entitled 'THE MIND CONTROL'
in Sri Ramana Gita, the Science of Brahman, and the Scripture of Yoga
composed by Ramana's disciple Vasishta Ganapati.