2012年10月5日金曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第6章 アハムとアハム・ヴリッティ

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p63-68

マハルシの福音 

第2巻 第6章 アハムとアハム・ヴリッティ 

信奉者:
 自我によって始められた探求が、どうしてそれ自体の非現実性を明らかにできるのですか。

マハルシ:
 あなたがアハム・ヴリッティ(*1)が生じてくる源に飛び込むとき、自我の現象的(*2)存在は超越されます。

信奉者:
 しかし、アハム・ヴリッティは自我が現れる3つの形の1つでしかないのではありませんか。『ヨーガ・ヴァーシシュタ』や他の古文書は、自我を3重の形を持つと描いています。

マハルシ:
 そうです。自我は3つの体-粗大なもの、微細なもの、原因となるもの(*3)-を持つと描かれていますが、それは単に分析的な解説という目的のためでしかありません。仮に探求の方法が自我の形に依存するなら、自我がとるであろう形が実に多いため、あなたはどんな探求もまったく不可能になるだろうと思うかもしれません。ですから、ジニャーナ・ヴィチャーラという目的のために、あなたは自我がただ1つの形だけ、すなわち、アハム・ヴリッティの形を持つということに基づいて進まなければなりません。

信奉者:
 しかし、それがジニャーナを実現するために不十分であると判明するかもしれません。

マハルシ:
 アハム・ヴリッティという手がかりを追うことによる自らの探求は、匂いによって主人を追跡する犬も同然です。主人はどこか遠くの知らない場所にいるかもしれませんが、それは犬が主人を追跡する妨げにはまるでなりません。主人の匂いはその動物にとって確実な手がかりであり、彼が着る服や体格や身長など、他の何も重要ではありません。彼を探している間、犬は気を散らさずにその匂いをしっかりつかまえ、終には彼を探し出すことに成功します。

信奉者:
 アハム・ヴリッティの源の探求が、どうして他のヴリッティから抜きん出たものとして、自らの実現の直接的な手段とみなされるべきなのかという疑問がまだ残っています。

マハルシ:
 「アハム(अहम्)」という言葉そのものがとても示唆的です。その言葉の2文字、すなわち、ア(अ)とハ(ह)は、サンスクリット語のアルファベットの最初と最後の文字です。その言葉によって伝えられるように意図された示唆とは、それが全てを含んでいるということです。どのようにでしょうか?なぜなら、アハムは存在自体を表しているからです。

 「私」(という)性(質)('I'-ness)「私はいる」(という)性(質)('I-am'-ness )なる概念は、慣用的にアハム・ヴリッティとして知られていますが、本当は、それは心の他のヴリッティのようなヴリッティではありません。なぜなら、本質的な相互関係を持たない他のヴリッティと異なり、アハム・ヴリッティは心のそれぞれ全てのヴリッティに等しく、本質的に関係しています。アハム・ヴリッティがなければ、他のヴリッティは存在できませんが、アハム・ヴリッティは心の他のヴリッティに依存せず、単独で存続できます。アハム・ヴリッティは、そのため、他のヴリッティと根本的に異ります。

 ですから、アハム・ヴリッティの源の探求は、単に自我の1つの形の土台の追求だけではなく、「私はいる」性が生じて来る、まさにそのそのものの探求です。言いかえれば、アハム・ヴリッティという形の自我の源の探求、および、その実現は、ありうる一切の形の自我の超越を必然的に伴います。

信奉者:
 アハム・ヴリッティが本質的に全ての形の自我を含んでいると認めるにしても、どうしてそのヴリッティだけが自らの探求の手段として選ばれなければならないですか。

マハルシ:
 なぜなら、それがあなたの体験の中の唯一のそれ以上単純化できない所与(*4)であるから、その源を探し求めることが、自らを実現するためにあなたが採りうる、ただ1つの現実的な道のりであるからです。自我は原因となる体を持つと言われていますが、どうやってそれをあなたの探求の対象にできますか。自我がその形をとる時、あなたは眠りという暗闇(無知)に浸かっています。

信奉者:
 しかし、微細な形と原因となる形の自我は、心が目覚めている間に行われるアハム・ヴリッティの源への探求を通じて取り組まれるには、あまりにもつかみどころがないのではないですか。

マハルシ:
 いいえ。アハム・ヴリッティの源への探求は、自我のまさにその存在に届きます。ですから、自我の形の微細さは、重要な考慮すべき事柄ではありません。

信奉者:
 唯一の目的は、自我に決して依存していない、自らの無条件の純粋な存在(Being)を実現することであるのに、アハム・ヴリッティという形の自我に関係する探求がどうして役立ちうるのですか。

マハルシ:
 機能的観点からは、形や活動やその他の何とあなたがそれを呼ぼうとも(消えてゆくので、それは重要ではありません)、自我はたった1つの特徴しか持ちません。自我は、純粋な意識である自らと不活発で感覚のない肉体の間の結び目として機能します。自我は、そのため、チット・ジャーダ・グランティ(*5)と呼ばれています。アハム・ヴリッティの源へのあなたの探求の中で、あなたは自我の本質的なチット(意識)の側面を捉えます。そして、この理由のために探求は自らの純粋な意識の実現に必ず通じるのです。

信奉者:
 ジニャーニよって実現された純粋な意識と経験の根本的所与として受け取られる「私はいる」性の関係性は何ですか。

マハルシ:
 純粋な存在の未分化の意識とは、その言葉そのもの(フリト+アヤム=ハートが私である)によって表されるように、本当のあなたであるハート、フリダヤム(*6)です。そのハートから、「私はいる」性が人の体験の根本的所与として生じます。単独では、その性質はスッダ・サットヴァです。ジニャーニの中で「私」が存続するように見えるのは、このスッダ・サットヴァ・スワルーパ(*7)(つまり、ラジャスとタマスに汚されていない)においてです・・・

信奉者:
 ジニャーニの中で自我はサットヴァな形で存続していて、そのため、それが現実的なもののように見える。合っていますか?

マハルシ:
 いいえ。どのような形の自我の存在も、ジニャーニとアジニャーニの中どちらでも、それ自体見せかけです。しかし、目覚めている状態と世界を現実であると誤って思うアジニャーニにとって、自我もまた現実のように見えます。彼はジニャーニが他の個々人のように行為するのを見るため、ジニャーニに関しても個人性の何らかの概念を想定せざるを得ません。

信奉者:
 ではどのように、アハム・ヴリッティはジニャーニの中で機能しているのですか。

マハルシ:
 それは彼の中でまったく機能していません。ジニャーニのラクシャヤ(*8)はハートそのものです。なぜなら、彼は『ウパニシャッド』の中でプラジニャーナ(*9)として言及される、かの未分化の純粋な意識と全く同一であるからです。プラジニャーナはまさしくブラフマン、絶対者であり、プラジニャーナ以外にブラフマンは存在しません。

信奉者:
 ではどうして、この唯一無二の現実を知らないということがアジニャーニの場合に不幸にも起こるのですか。

マハルシ:
 アジニャーニは、ハートから生じる純粋な意識の光の反射に過ぎない心しか見ません。ハートそのものを彼は知りません。なぜでしょう。なぜなら、彼の心は外に向いていて、そのを一度も探したことがなかったからです。

信奉者:
 ハートから生じる意識の無限で未分化の光が、アジニャーニに現れるのを何が妨げているのですか。

マハルシ:
 壺の中の水が壺の狭い範囲内に巨大な太陽を映し出すのとまさしく同様に、個人の心のヴァーサナー、潜在的傾向は、反射媒体として働き、ハートから生じる意識の全てに行き渡る無限の光を捉え、心と呼ばれる現象を反射という形で表します。この反射のみを見て、アジニャーニは惑わされ、自分が有限の存在、ジーヴァであるという考えになります。

 心がアハム・ヴリッティの源への探求を通じて内向きになるなら、ヴァーサナーは消滅します。そして、反射媒体がないために、反射の現象、すなわち、心もまた、唯一の現実、ハートの光に吸収されて消えます。

 これが志高き者が知る必要のある全ての要点です。彼に否応なしに求められるものは、アハム・ヴリッティの源への熱心な一点に集中した探求です。

信奉者:
 しかし、彼が行うであろうどのような努力も目覚めている状態の心に限られています。心の3つの状態の内の1つでしか行われない、そのような探求が、どうして心そのものを破壊できるのですか。

マハルシ:
 アハム・ヴリッティの源への探求は、疑いなく、心の目覚めている状態でサーダカ(*10)によって始められます。彼の中で心が破壊されているとは言えません。しかし、自らの探求の過程そのものが、心の3つの状態そのものだけでなく、3つの状態の交替や変化もまた、彼の強烈な内に向かう探求に影響を及ぼせない現象の世界に属することを明らかにするでしょう。

 自らの探求は、心の強烈な内向を通じてのみ、本当に可能です。アハム・ヴリッティの源へのそのような探求の結果として最終的に実現されるものは、純粋な意識の未分化の光としてのまさしくハートです。その中に、心の反射した光は完全に吸収されます。

信奉者:
 では、ジニャーニにとって心の3つの状態の間の区別はないのですか。

マハルシ:
 心そのものが意識の光に溶け、失われるとき、どうして(区別が)ありえますか。

 ジニャーニにとって、3つの状態全てが等しく非現実です。しかし、アジニャーニはこれを理解することができません。なぜなら、彼にとって現実の基準は目覚めている状態ですが、ジニャーニとって現実の基準は現実そのものだからです。純粋な意識の、この現実は、本質的に永遠であり、そのため、あなたが目覚めている、夢を見ている、眠りと呼ぶものの間に等しく存続しています。その現実と一体である人にとって、心もなくその3つの状態も存在せず、そのため、内向きもなく、外向きもありません。

 彼の(状態)は常に目覚めている状態です。なぜなら、彼は永遠の自らに目覚めています。彼の(状態)は常に夢を見ている状態です。なぜなら、彼にとって世界は繰り返し現れる夢の現象に過ぎないからです。彼の(状態)は常に眠っている状態です。なぜなら、彼はいつでも「体が私である」という意識なくいるからです。

信奉者:
 では、シュリー・バガヴァーンは目覚めていて、夢を見ていて、眠っている状態で私と話していると考えるべきでしょうか。

マハルシ:
 あなたの意識的な体験が、心の外に向かう状態の期間に今、限られているため、あなたは現在の瞬間を目覚めている状態と呼びますが、その間中、あなたの心はずっと自らに気づいていません(逐語訳的には、「自らに眠っています」)。そのため、あなたは今、本当はぐっすり眠っているのです。

信奉者:
 私にとって、眠りは単なる空白です。

マハルシ:
 そうであるのは、あなたの目覚めている状態が、落ち着きのない心の興奮に過ぎないからです。

信奉者:
 空白ということで私が意味することは、眠る時に私はほとんど何にも気づいていないということです。これは私にとって存在しないも同然です。

マハルシ:
 しかし、眠る間、あなたは確かに存在しました。

信奉者:
 存在したとしても、私はそれに気づいていませんでした。

マハルシ:
 (笑いながら)あなたが眠る間に、あなたが存在しなくなったと本気で言うつもりはないわけですね!あなたがX氏として眠りについたなら、Y氏として眠りから起きたのですか。

信奉者:
 おそらくは記憶の働きによって、私は私の同一性を知っています。

マハルシ:
 仮にそうだとしても、一続きの意識がなければ、どうしてそれが可能ですか。

信奉者:
 しかし、私はその意識に気づいていませんでした。

マハルシ:
 いいえ。眠る時にあなたが気づいていないと誰が言うのですか。それはあなたの心です。しかし、あなたが眠る時に心は存在しなかったですよね。眠る間のあなたの存在や体験についての心の証言にどのような価値がありますか。眠る間のあなたの存在や意識を反証するために心の証言を求めることは、あなたの誕生を反証するためにあなたの息子の証言を求めることも同然です!

 覚えていますか、以前に一度、私が、存在と意識が2つの異なるものでなく、全く同じものであるとあなたに言ったことを。では、どんな理由にしろ、眠っている間にあなたが存在したという事実をあなたが認めざるを得ないと思うなら、あなたがその存在に気づいてもいたと確信しなさい。眠る時にあなたが本当に気づいていなかったものは、あなたの体の存在です。あなたはこの体の意識と永遠である自らの真の意識を混同しています。プラジニャーナは「私はいる」性の源であり、心の3つの束の間の状態によって影響されずに常に存続し、それによってあなたが同一性を損なわずに保つことを可能にしています。

 プラジニャーナは3つの状態を超えてもいます。なぜなら、それはそれらなしで、それらに関わりなく存続できるからです。

 アハム・ヴリッティをそのまでたどることによって、あなたのいわゆる目覚めている状態の間にあなたが求めるべきものは、その現実です。この探求における熱心な修練は、心とその3つの状態が非現実であり、あなたが純粋な存在自ら、ハートの永遠かつ無限の意識であることを明らかにするでしょう。

(*1)アハム・ヴリッティ・・・「私という思い」。ヴリッティは、「思い、心の働き」。
(*2)現象的・・・phenomenalの訳。哲学用語。現象・・・「本体・本質が外的に発現したもの」(goo国語辞典)
(*3)原因となる体・・・causal bodyの訳。夢を見ない深い眠りの時にとるとされている体。他の2つの体の原因となる体。
(*4)所与・・・英語のdatumの訳。哲学用語。思考の働きに先立ち、意識に直接与えられているもの。
(*5)チット・ジャーダ・グランティ・・・チットは「意識」、ジャーダは「意識のないもの、体」、グランティは「結び目」。
(*6)フリダヤム・・・「ハート、中心」。
(*7)スッダ・サットヴァ・スワルーパ・・・「(ラジャス・タマスに汚されていない)純粋なサットヴァの形(本質)」。
(*8)ラクシャヤ・・・「目的、標的、注意」。
(*9)プラジニャーナ・・・「神聖なる知、至高の智慧」
(*10)サーダカ・・・「霊的修練(サーダナ)をする人」。

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