2012年9月26日水曜日

自らの達成の力、あなたの重荷を神に委ねよ、全ヨーガの真髄

◇『サット・ダルシャナ・バシャヤとマハルシとの対話(Sat-Darshana Bhashya and Talks with Maharshi )』、p24~26

あなたの重荷を主に手渡しなさい 


信奉者:
 ここにいる時、私には確信があります。感銘を受けます。しかし、外に出て、社会や国のことを考え、あなたの答えである「汝自身を知れ」を思い出します・・・

マハルシ:
 あなたが弱い時、社会や国に何ができますか。はじめに、強くならねばなりません。しかし、あなたに告げますが、自らの達成は至高の力です。あなたがジニャーニになった時、行動するための力を失うのではないかと恐れないように。

信奉者:
 私はそれを恐れています。

マハルシ:
 恐れるべきではありません。ある特定のことを行うようにあなたが運命づけられているか、選ばれているなら、それは行われます。

信奉者:
 では、私は一切のことを放棄すべきでしょうか。タパス(禁欲生活)を行い、神に私の望みを叶えてもらうように頼むことはできませんか。

マハルシ:
 できます。しかし、タパスのために、または、願いが神に達するために、何らかのアビヤーサ(*1)、何らかのサーダナがあるはずです。あなたがサーダナにいる時、それが瞑想であっても祈りであっても、あなたはあなたの望みについて考えていますか、それとも神について考えていますか?

信奉者:
 私が瞑想中に私の望みについて考えるなら、それはまるでディヤーナではありません。

マハルシ:
 では、サカーマとニサカーマ、すなわち、それが欲によって動機づけられていても、欲のないものであっても、両方にとって同じディヤーナ、同じタパス、同じ瞑想があると考えなさい。あなたの望みが満たされる時でさえ、タパスは成長します。それは止みません。それがタパスの真の特色なのです。バクティの場合もまた同じです。

 さて、あなたに質問します。旅行かばんを持った人が鉄道客車に乗る時、彼はそれをどこにしまいますか。

信奉者:
 彼はそれを客室の中か、手荷物車にしまいます。

マハルシ:
 では、彼はそれを頭の上やひざに乗せて支えませんか。

信奉者:
 愚か者以外は誰もそうしないでしょう。

マハルシ:
 それを頭の上で支える人を愚か者とあなたが呼ぶならば、ヴィチャーラ・マールガ、知の道であれ、バクティ・マールガ、献身の道であれ、あなたが靈的生活に入った時、あなたの重荷を担うことは1000倍より愚かです。

信奉者:
 しかし、私の一切の責任、一切の義務を投げ出してもよいのですか。

マハルシ:
 では、寺院の塔(ゴープラ)をご覧なさい。塔にはたくさんの彫像があり、それぞれの角に一つ、大きな彫像があります。それを見ましたか。

信奉者:
 ええ、見ました。

マハルシ:
 では、次のことをあなたに言います。その大きな高い塔は、それらの彫像によって支えられています。

信奉者:
 どうしてそうなるのですか。どういう意味ですか。

マハルシ:
 私が言いたいのは、そのように話す時、あなたが一切の心配事、重荷、責任などを担わなければならず、そして、担っていると言う時のあなたの態度よりも、それは愚かでないということです。

 全世界の主(*2)が、一切の重荷を担っています。あなたは自分が担っていると想像しています。あなたは、一切の重荷を彼に手渡すことができます。あなたが行わなければならないことが何であれ、あなたはそれを適切な時に行うための道具にされます。それを行いたいという望みを持たなければ、それが行えないと思わないように。望みは、行うための力をあなたに与えません。力は主のものです。

信奉者:
 あなたがカルマ・ヨーガの真髄を私に教えていると理解すべきでしょうか。

マハルシ:
 これはカルマ・ヨーガの真髄であり、バクティ・ヨーガの真髄であり、もちろん、ジニャーナ・ヨーガの真髄でさえあります。というのも、はじめの道々は異なるかもしれませんが、それらの道は、終には、この場所に通じるからです。

(*1)アビヤーサ・・・宗教的な、もしくは聖なる修練。サーダナはジャパやプラーナーヤーマなど技法を直接指すが、アビヤーサはそれより指す範囲が広いみたいです。
(*2)主・・・「The Lord」の訳、あるじ、神

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