2012年9月13日木曜日

自らの探求とその他のサーダナ、「目撃者」の真意、善性の修養

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

1946年7月18日

 今朝、S.P.タヤルという名前の訪問客によって質問がなされました。

S.P.タヤル:
 私は20年近くサーダナをしてきましたが、進歩が見られません。私は何をすべきでしょうか。

バガヴァーン:
 私がそのサーダナが何か知っているなら、何か言うことができるかもしれません。

S.P.タヤル:
 毎朝5時ごろから、私は自らのみが現実であり、他の一切は非現実であるという思いに集中します。これを約20年間しているのですが、2・3分以上思いがさ迷うことなく集中することができません。

バガヴァーン:
 心が外に向かうたびに心を引き戻し、心を自らに据えること以外に成功するための方法はありません。瞑想、マントラ、ジャパ、ディヤーナ、その類の何も必要ありません。なぜなら、それらは我々の本質であるからです。必要とされる全ては、自ら以外の対象を考えるのをやめることです。瞑想とは、自らについて思うというよりもむしろ、自らでないものについて思うのをやめることです。あなたが外側の対象を考えるのをやめ、心を外に向かうのを防ぎ、内に向け、自らに据えるならば、自らのみが残ります。

S.P.タヤル:
 これらの思いや欲望の引きつける力を克服するために、私は何をすべきでしょうか。思いの制御を達成するために、私はどのように生活を律するべきでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたが自らに据えられば据えられるほど、他の思いはひとりでに落ちます。心は思いのかたまりに他ならず、「私という思い」はその全ての根です。あなたがこの「私」が誰か、それがどこから生じているのか見る時、一切の思いは自らに溶け込みます。

 生活を律すること-決まった時間に起きる、沐浴する、マントラやジャパなどを行う、儀式を行うなどのような-これら全ては自らの探求に魅力を感じなかったり、それができない人々のためのものです。しかし、この方法を修練することができる人にとっては、全ての規則や修練は不要です。

 ここで、K.M.ジブラジャニが言葉を挟み、「自らの実現を得る前に、超常的なビジョン(映像、光景)を見るという段階を経ることは必要でしょうか」と言いました。

バガヴァーン:
 ビジョンについて、そして、それが来るのか来ないか、どうして心配するのですか。

K.M.ジブラジャニ:
 私は(心配)していません。それを得ることがなくても失望することがないように、私はただ知りたいだけなのです。

バガヴァーン:
 ヴィジョンは必要な段階ではありません。ある人たちには来て、他の人には来ません。しかし、それが来ようが来まいが、あなたは常に存在しています。あなたはそれに張り付かなければいけません。

K.M.ジブラジャニ:
 私はいつも同じ中心ではなく、時には脳の中心に、また時には心臓に集中します。これは間違いでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたがどこに集中しても、どのような中心に集中しても、集中するあなたがいるに違いありません。そして、それがあなたが集中しなければならないものです。

 様々な人が様々な中心に集中します。脳や心臓だけなく、眉毛の間の場所や、鼻の先端や、舌の先端や、最も下にあるチャクラや、外にある対象さえにもです。そのような集中は、ある種の至福を感じる一種のラーヤに導くかもしれませんが、この全ての中で「私は在る(I AM)」という思いを失わないように注意が払われなければなりません。それら全ての経験の中で、あなたは存在することを決してやめません。

K.M.ジブラジャニ:
 つまり、私が目撃者でなければならないということでしょうか。

バガヴァーン:
 「目撃者」について話すことが、目撃者と彼が目撃している彼から離れた他の何かが存在するという考えに通じるべきでありません。「目撃者」が実際に意味することは、「見る者、見られるもの、見る」という過程を照らす光です。「見る者、見られるもの、見る」という三つ組みの前に、間に、後に、その輝きは存在しています。それのみが常に存在します。

K.M.ジブラジャニ:
 人が自らの実現に自身を備えるために、全てのの善なる、または、神的(daivic)性質を養うべきであると本で言われています。

バガヴァーン:
 全ての善なる、または、神聖な性質はジニャーナの中に含まれており、全ての悪い悪魔的(asuric)性質はアジニャーナの中に含まれています。ジニャーナが来る時、一切のアジニャーナは去り、全ての神聖な性質が自動的に訪れます。ある人がジニャーニであるなら、嘘を言うことや、何か悪いことをすることはできません。間違いなく、いくらかの本では、人は一つ一つ性質を養い、そうして究極のモークシャ(解放)のために備えるべきであると言われています。しかし、ジニャーナ、もしくはヴィチャーラ・マールガに従う人たちにとっては、彼らのサーダナ自体で全ての神聖な性質を得るのにまったく十分です。彼らはその他の何も必要としません。

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