2015年12月25日金曜日

アドヴァイタの文脈で見るキリスト教 - 魂(プシューケー)から霊(プネウマ)へ

◇「山の道(Mountain Path)」、1988年7月 p181~183

アドヴァイタとキリスト(教)信仰

ビード・グリフィス神父

 シュリー・ラマナ・マハルシには様々な宗教の人々の中から弟子がいますが、その多くはキリスト教徒です。それゆえ、伝統的キリスト(教)信仰を抱く者が不二の教説とマハルシのものであった「私は誰か」という探求の方法をどれほど受け入れることができるのか調べることは興味深いことかもしれません。一見したところ、伝統的なキリスト教はアドヴァイタ哲学からかけ離れたものであるように思えるかもしれませんが、より深い学びによって二つの教説には深遠な類似性が存在することが明らかになるやもしれません。この格好の例は、アドヴァイタとキリスト(教)信仰の調和にその人生を捧げたフランス人修道士、ル・ソー神父、スワーミー・アビシクターナンダの教えと人生に見出されます。彼にとっての決定的瞬間が訪れたのは、1949年1月、彼がティルヴァンナーマライのアーシュラムを訪問した時でした。彼はそれについて(以下のように)記しました。「私の心がその事実を認識しうる、ましてやそれを表現しうる前にさえ、この賢者の目には見えない光輪(栄光)は私に中の言葉より深い何かによって感じられていました。アルナーチャラの賢者の中に、私は永遠なるインドの比類なき賢者、その(インドの)賢者たち、その苦行者たち、その予言者たちの途切れない継承を認めました。それはあたかもインドの魂そのものが私自身の魂のまさにその深みを貫き、それと神秘的な交わりを持ったかのようでした。それは万物を貫通し、バラバラに切り裂き、巨大な深淵を開きました」。

 このフランス人修道士の人生を変え、その心に絶え間ない苦闘を引き起こしたのは、この体験でした。この圧倒的な不二の体験を彼のキリスト(教)信仰と調和させようとしながら、彼は日記にその苦闘を書き留めました。その体験は彼にとってさらに深まったのは、彼がティルコイルールのスワーミー・グナナーナンダのアーシュラムで6か月過ごした時、スワーミー・グナナーナンダの内に彼に真正なアドヴァイタの体験を伝えた真のグルを認めるようになった時でした。生涯、彼はこの比類ない体験の絶対的真理を疑い得ませんでしたが、それを伝統的キリスト(教)信仰と調和させることは絶え間ない苦闘でした。彼の本は、『Sacchidananda』の題名で英語に翻訳され、彼はそれをアドヴァイタ的体験へのキリスト(教)的アプローチと呼び、二つの教説を調和させる彼の最初の真剣な試みでしたが、後にこれを超えて行きさえしました。彼が最も深い理解の水準に達したのは、サンニャーサとウパニシャッドに関する随筆からなる『The Further Shore』という彼が記した最後の本の中でした。サンニャーサに関する随筆は元々、リシケーシュのシヴァーナンダ・アーシュラムの雑誌『Divine Life』に掲載され、多くのヒンドゥー教徒に非常に高く評価されています。この本自体が、アドヴァイタとキリスト(教)信仰を調和させることに彼がどれほど成功したのかについての良い試金石です。

 アンリ・ル・ソー、”スワーミージ”、内なる旅、10分ごろから場面はアルナーチャラへ

 我々がアドヴァイタ的体験とのキリスト教の関係を理解したいと思うなら、聖パウロに見出される体(ソーマ)と魂(プシューケー)と霊(プネウマ)の間の区別から始めるのが最良です。不幸にも、後代に、アリストテレスに基づいた体‐魂としての人間の概念が受け入れられるようになり、これは人と神の間に隔たりを残しました。神は人類の「外側」、人類より「上」(にいる)と思われ、神の内在性の感覚は失われがちになりました。しかし、初期の伝統では、聖霊とは、人と神の間の出会いの場であると理解されています。人の霊が神の聖霊に出会うのは、その地点です。聖パウロは「アンソロポス・プシューケーコス」、魂の人と「アンソロポス・プネウマティコス」、霊の人の区別をし、彼の理解するところの人生のまさにその目的とは、魂から霊へ、人から神へと進むことです。この理解において、人間とは、まずはじめに物質的有機体、体であり、世界の物質的有機体の一部です。現代物理学の見解では、全世界は「力の場」、「相互依存的関係性の複雑な網」であり、絶え間ない動的変化の状態にあります。それは「依存的生起(縁起)」という仏教的見解とシヴァの踊りというヒンドゥー教の神話に非常に近しいものです。そして、これは人間の物質的基礎、粗大な体または「アンナ・コーシャ」、「ムーラ・プラクリティ」です。

 キリスト教の伝統の魂、または、プシューケーは、ヒンドゥー教の伝統の微細な体に対応します。それは五感、欲求、感情だけでなく、想像力、理性、意思もまた含みます。カタ・ウパニシャッドの用語において、それは五感(インドリヤ)と心(マナス)と知性(ブッディ)、そして、アハンカーラ、「私の作り手」も含みます。プシューケーは自我、経験上の自ら、ジヴァートマンを中心とし、それがその本質的限界であると認識することが重要です。それゆえに、プシューケー、個々の分離した自らを超越しうること、そして、聖霊、アートマンに自分自身を開きうることに全てはかかっています。キリスト教の伝統のプネウマは、ヒンドゥー教の理解におけるアートマンに極めて密接に対応しています。それは人間性の超越の地点、創造されざるものへの創造物の開放、最終的解放への通路です。

 この観点から考えると、キリスト教の伝統において考えられるところの人間の堕落とは、プネウマからプシューケーへの、聖霊から魂への、無限かつ永遠なるものから有限で一時的なものへの転落に存します。同じ原則に基づいて、救済とは、聖霊の命への魂の返還、人が神との交わりを再び取り戻すことに存します。托身(受肉)によって、神は再び人に入り、神は人になり、聖霊の内の命へと魂は戻されます。これは(キリストの)復活を通して達成されています。復活において、イエスの体と魂は聖霊の命へと連れ行かれると理解されています。粗大な体は十字架の上で死に、墓に埋葬されました。次に、それは微細な体に変じ、彼は弟子たちにその微細な体で現れ、時間と空間の通常の様態を超えて現れ、消えました。最終的に、昇天において、体と魂は時間と空間を超え行き、無限で永遠なるものへと終に入り、その結果、人は神と一つになりました。

 キリスト教の啓示がこれらの用語において考えられるなら、それがどのようにアドヴァイタ的体験と関連しうるのか理解することは困難ではありません。魂、もしくは、心の体は、自我、アハンカーラを中心とし、本質的に二元的です。それは全てのことを主体と対象、心と物質、時間と空間という観点から考えます。しかし、我々が心の状態を超え、自我を超え行く時、我々は一切の二元性から自由の身となります。聖霊の中では、この一切の人間性は乗り越えられています。ヒンドゥー教の伝統におけるシャンカラであれ、仏教におけるナーガールジュナ、イスラム教におけるイブン・アル・アラビー、キリスト教におけるマイスター・エックハルトであれ、その最終的な境地において、二元性が存在しないことは全ての伝統の神秘主義者の体験です。全創造物がその初めから向かっているのは、この超越的な境地であり、人類の運命とは現在の分割された意識の状態から不二、無限、永遠である最終的な意識の境地へと進むことです。しかし、その不二の現実において、全ての神秘主義者が証言するように、この世界の全ての現実性が見出されます。我々は世界を時間と空間で分割され、瞬間ごとに変化していると見ますが、それは我々の現在の分割された意識の様態の限界でしかありません。我々が心の様態を超え行く時、我々は現実そのものを「totasimul」、完全かつ同時に見ます。シャンカラがタイッティーリヤ・ウパニシャッドの注釈の中で述べたように、「ブラフマンを知る者は、永遠であり、ブラフマンの本質から異なるものでなく、我々が真理、知、無限-サティヤム、ジニャーナム、アナンタムとして描いた、一回の認識を通して、一瞬に蓄積されたものとして、全ての好ましい物事を同時に楽しむ」のです。

 この世界が非現実であるということではありません。それどころか、「この全世界はブラフマンである」とウパニシャッドは確言します。しかし、我々がそれを認識する方法には欠陥があります。我々が「魂」から聖霊へ、心から心を超えたものへと進む時、その時、我々はこの世界をあるがままに見るでしょう。無限である真理と知-サティヤム、ジニャーナム、アナンタム-の完全性の中に、我々は全ての人と全てのものをあるがままに見るでしょう。これが救済のキリスト(教)的理解です。それは聖霊の無限の命への体と魂の移行です。イエス自身がその境地について、「私は父(なる神)の内におり、父(なる神)は私の内にいる」と言うことができ、弟子たちのために、「父(なる神)である、あなたが私の内におり、私があなたの内にいるように、彼らが一つになりますように。彼らが我々の内で一つになりますように」と祈ることができました。これがキリスト(教)的アドヴァイタ、完全な一体性の境地であり、その中に区別はいまだ見出されません。それは純粋な同一性の状態ではありません。イエスは、「私は父(なる神)である」でなく、「私は父(なる神)の内におり、父(なる神)は私の内にいる」と言っています。彼は、「私を見る者は、父(なる神)を見る」、そして、「私と父(なる神)は一つである」と言うことができます。けれども、彼は、「私は父(なる神)である」とは言えません。純粋なアドヴァイタがありますが、それでも、その不二性の中に区別は残ります。

 この区別は何でしょうか。三位一体というキリスト(教)の教説は、それを「関係」として描きます。存在(being)の完全な一体性はありますが、それでも、その存在の中に関係があります。現代物理学が世界を「相互依存的関係性の複雑な網」として描いていることが思い出されるでしょう。世界は相互に依存した統一体ですが、それは無数のエネルギーの振動から成り立ち、その関係性によって区別されているだけです。良く知られているように、物理学者はもはや原子の中の「粒子」について話さず、異なる周波数の波について話します。そのようにまた、我々が想像するように、人間は孤立した個人ではなく、時間にして創造の始まりまで及んでいる広大無辺な統一体の一部です。各人が、サーンキヤ哲学でマハットとして知られる広大無辺な意識という漠々たる領域の中の意識の中心です。そして、この意識とエネルギーからなる全世界は、至高のエネルギー(シャクティ)と至高の意識(シヴァ)の中に連れ行かれます。我々が見てきたように、世界はシヴァの踊りに比することができ、ギリシャ正教会において三位一体がペリコーレーシス-踊りとして知られているのは、非常に興味深いことです。世界の中心には、この永遠の踊り、純粋な意識の至福の中での位格(父と子と聖霊)の交わりが存在します。それでも、この存在(being)の中の多様性すべては、至高なる神性の不二の存在、不二の意識の中に含まれています。

 キリスト(教)的アドヴァイタに関する考察は、何かそのような世界と人の概念へと我々を導きます。しかし、全てが述べられた時、言葉は言いようのない、かの現実を表現しえないということを認めなければなりません。教会博士、聖トマス・アクィナスは、神その人、絶対的現実は人知にとって「omnino ignotus」-全くもって未知-のままであると言明しました。最終的に、彼は「ネーティ、ネーティ」であるとウパニシャッドをもって我々は言わなければなりません。究極的な真理が知られるようになるのは、沈黙の中であり、ヒンドゥー教徒であれ、カトリック教徒であれ、我々全員が、全てが知られている、その沈黙、その静寂、その究極的な神秘の中へと導かれつついます。「それが知られる時、全ては知られる」。

ビード・グリフィス神父

はっきり聞き取れるところだけ下に訳してます
ヴェーダーンタ、ヨーガ、仏教の教えやスーフィーの教えを通して、キリスト(教)信仰の深い次元を発見することは全く可能であると私は考えています。
我々は神のことを考えなければなりません。我々は何らかのイメージを必要とします。我々は何らかの概念を必要とします。我々は聖書や何らかの聖典を必要とします。それらは神についての理解を我々に与えるためのものです。それは我々の導き手ですが、我々はそこで止まるべきではありません。我々が作り上げた全てのイメージ、概念、考えは、イメージや概念を超える「超えてある神秘」へと我々を導かなければなりません。

2015年12月13日日曜日

バガヴァーン・ラマナの唯一性 ② - ラマナにとって「マラナ」は吉兆である

◇「山の道(Mountain Path)」、1987年4月 p87~90

 バガヴァーン・シュリー・ラマナの唯一性 

 K.スブラマニアン博士 

  マハルシは楽しみに水を差す人ではありませんでした。彼は心地よいユーモア感覚を持っていました。彼の先生が彼に会いにティルヴァンナーマライにやって来た時、マハルシは彼の詩の一つを差し上げました。それに大変に感銘をうけた先生は、その作品の中の詩節について二つ質問を尋ねました。マハルシは他の人々に向けて、「見なさい!学校で質問に答えることを恐れて、私はマドゥライを離れました。彼は再び質問を尋ねにはるばるやって来ました!」と言いました。

 マハルシは並外れた倹約家でした。彼は詩節を記すために新聞の余白を使ったものでした。彼はあまりに多くの花や葉っぱを摘むことをプージャーのためでさえ誰にも許しませんでした。地面に一粒の米を目にした時でさえ、それを拾い、そのあるべき場所に置きました。かつて、腰布が破れた時、彼は近くの茂みに行き、とげを一本取り、それに穴をあけ、針として使いました。彼は破れた腰布から糸を取り、即興で作った針と糸で縫い合わせました。

 どのような詩のはじめにも、マンガラ・スローカ、祈願の詩節を記すことが通例です。作品が無事に完成するために、神の祝福が祈願されています。マンガラは、吉兆を意味します。普通、マンガラ・スローカは一つだけ記されます。マハルシはウッラドゥ・ナールパドゥ(40詩節)に二つのマンガラ・スローカを記しました。最初のものは、「在るそれ」を意味するウッラドゥという言葉で始まります。二つ目は、「死」を意味するマラナという言葉で始まります。最初のスローカは「在るそれ(That which is)」を扱い、二つ目は「存在しないもの(that which is not)」を扱っています。死という言葉は、一般的にアマンガラ、すなわち、「不吉」です。おそらく、マハルシはマンガラ・スローカの中でマラナを使用した最初の人です。なぜなら、彼に彼自身を実現させたのは死の体験であったからです。他の人々にとっての死は、体の死です。しかし、彼の死の体験は体の意識の死、自我の死に帰着しました。彼にとって、死は吉兆でした。それは彼の役に立ちました。マンガラ・スローカの中でそれについて記すことを彼が選んだのも、不思議なことではありません。興味深いことに、「マラナ」という言葉の中には「ラマナ」という言葉があります。我々がマラナについて思う時、ラマナについても思わなければなりません。それは死の恐怖を追い払います。

 マハルシについての他の並外れたことは、言葉によっても、手を掲げることによっても彼が人々を祝福しなかったことです。いつ我々がどのアーシュラムへ行こうとも、アーチャーリヤやグルが人々を祝福していたり、プラサーダムを授けていることに気づきます。バガヴァーンは誰をも祝福せず、またブラサーダムを少しも授けませんでした。彼は人々に来たり、去ったりするよう決して求めませんでした。彼は人々にあれやこれやをするよう決して求めませんでしたが、それでも人々は彼に会いに行きました。彼の面前で彼らが大変な安らぎを享受したからです。シュリー・バガヴァーンは他者の中に彼自身を見、彼自身の中に他者を見ました。それゆえ、祝福する者はおらず、祝福される者はいませんでした。彼はまた、彼は誰にとってもグルではなく、また、誰も彼の弟子ではないと言いました。純粋なアドヴァイタの境地において、他者は存在せず、それゆえに、グルとシシュヤの問題は生じません。彼はそう言っただけでなく、人生の毎秒毎秒をそのように生きました。彼はティルヴァンナーマライに54年間住みました。しかし、彼はどのように彼の遺体を扱うべきか、どこに埋葬すべきか誰にも指示しませんでした。彼の離欲は完全でした。

 シュリー・バガヴァーンは時間と空間を超えていましたが、彼は最も時間に正確でした。食堂の鐘が鳴った時はいつでも、たとえシュリー・バガヴァーンが何かを話していても、彼は急に(話を)中断したものでした。彼は誰も待たされていないことを願っていました。たいていの時、彼は沈黙していました。しかし、不断の言葉と彼が言った、彼の力強い沈黙を通して、彼は通じ合いました。このコミュニケーションは、アーシュラムにやって来た人々だけに、また、人間だけに限ったものではありませんでした。彼はモウナ、つまり、沈黙を通して一切の疑いを晴らしたシュリー・ダクシナームールティでした。沈黙とは、シュリー・バガヴァーンによれば、舌の沈黙ではなく、心の沈黙です。

 マハルシに何度か会ったダンカン・グリーンリーズは記します。「ただ居るだけで、そのように、それ(人(格))が属する無の深遠の中に人(格)を沈み込ませることを私に可能にする人を私は他に知らない。普通の人から心を奪い去り、無時間の遍在する存在の歓喜の中に深く沈められるほどに、その恩寵を放つ人間は他に見当たらない」。

 シュリー・バガヴァーンは、サマーディにいるとも、それから出ているとも決して言いませんでした。彼は自らから決して逸れることなく、常にその中にいました。彼はその境地の中に常に留まりながら、様々なことを行いました。彼は「アヴィチュタ・スティタプラジニャ」でした。サマーディは彼の自然な境地でした。

 少年時代と青年時代に、私は何度かマハルシのもとを訪れたことがあります。行くたびに、私は表現しえない安らぎを感じました。あらゆる渇望と疑問は、彼の面前で消え失せました。彼は私に来るようにとも、去るようにとも求めませんでした。彼は完全に自由であり、この自由を全てのものに与えました。しかし、彼のもとを離れるたびに、私は全くもって嫌々ながら彼のもとを離れました。私は王子や農夫が彼の前で平伏しているのを目にしました。彼は彼らを皆同じように扱いました。

 マハルシの人生と教えは不可分です。シュリー・バガヴァーンがマドラスを離れ、ティルヴァンナーマライに向かった時、彼の兄の大学の学費を払うために兄から渡されていた5ルピーの内の3ルピーだけを持っていきました。バガヴァーンは、マドゥライからティンディヴァナムまでの列車の運賃だと彼が思った額だけを取りました。彼はアルナーチャラにその身を完全に委ねており、アルナーチャラに全てのことを任せていました。我々ならば誰もが、仮に状況が好ましくないなら、家に帰るお金を持っていなければならないと考え、5ルピー全額を取ったでしょう。バガヴァーンには、アルナーチャラが彼を受け入れてくれないのではないかというわずかの疑念さえありませんでした。ティルヴァンナーマライに到着するとすぐに、シュリー・バガヴァーンは真っ直ぐ寺院に行き、到着を報告しました。その後、彼はアイヤンクラム貯水池に行き、キウラーのムトゥクリシュナ・バガヴァタールの妻が彼に差し上げたお菓子を捨てました。彼にティルヴァンナーマライの知り合いは誰もいませんでした。いつ、どこで次の食事を得るのか、そもそも得るのかどうか彼は知りませんでしたが、アルナーチャラにその身を完全に委ねており、アルナーチャラが必要なことを行うと感じていたので、それについて心配しませんでした。また、彼は腰布に必要である布の分だけドーティをちぎり、残りを捨てました。彼は余分のカウピーナに興味はなく、残りの布をタオルとして使うことも考えませんでした。彼は絶対的最小限をとりました。

 17歳の少年は躍進を遂げ、浮世の塵をふるい落としました。これがヴァイラーギャであり、これが隠遁であり、これが完全な委ねです。

 彼は自らの知を強調し、それへ向かう道として自らの探求を強調しました。自らの探求は難しいと言った人々には、マハルシは神への完全な委ねを提案しました。委ねた時、大抵の人々は、委ねたのだから、あらゆることが自分たちの望み通りに進むだろうと期待します。マハルシは、完全な委ねは良いことと悪いことを平静に受け入れることを当然伴うと言いました。そのような委ねにおいて、幸せや不幸せを感じる自我は存在しません。実際、完全な委ねにおいて、自我は自らに溶け込んでいます。自分自身の意思は存在しません。マハルシは宗教と儀式を超えていました。彼の教えは、最も簡素であり、最も科学的です。探求する者を探し求めなさい。あなたは誰か見出しなさい。あなたは至福です。しかし、あなたの苦しみは、あなたが自分自身を体と同一視するためです。万物の源は自らです。自らの探求を通して、あなたの心を自らに溶け込ませなさい。その時、あなたはこの世界で幸せに役目を果たすことができます。自我が自らの中に失われる時、自らはその全き光輝と栄光において輝きます。

 シュリー・ラマナ・マハルシは新しいことを何も言いませんでしたが、彼はアドヴァイタを生きました。ガーンディーは、気落ちしている誰にでもシュリー・ラマナーシュラマムに行き、精神的なバッテリーを充電するよう求めたものでした。世の中に嫌気がさした人にとって、マハルシは元気をつけさせる強壮剤です。彼は純粋な意識である自らへの道を指し示しています。宗教に関係なく、彼は全ての人の心に訴えかけます。家住者であれ、サンニャーシであれ、彼の方法は全ての人が修練できます。それはどのような類の儀式もなく、最も科学的で、直接的です。その人生とその教えを通して、自我に心動かさずにいる時(dead to ego)、人は自らに気付く(alive to Self)ということを確証しています。真理の探求者は、ティルヴァンナーマライのアーシュラムへ行きます。そこでは、彼の存命時と同じように力強く、今、彼の活気に満ちた存在が感じられます。

 『Der Weg Zum Seibst(自らへの道)』の中で、有名な心理学者、カール・ユングはマハルシについて語ります。「我々がシュリー・ラマナの人生と教えの中に見つけるものは、インドの中で最も純粋なものです。その息遣いは世界から解放され、世界を解放する人のものであり、それは千年王国の聖歌です。この歌はただ一つの偉大な主題の上に築き上げられ、色とりどりの千の反射において、インドの精神の内にそれ自身を若返らせます。そして、その最も新しい化身がシュリー・ラマナ・マハルシその人です。・・・シュリー・ラマナの人生と教えは、インド人だけでなく、西洋人にとっても重要です。それは非常に興味深い記録を形づくるだけでなく、無自覚と自制の喪失という混沌のなかに自らを見失う恐れのある人類にとって警告するメッセージでもあります」。

 実現(悟り)は、求められずに、シュリー・バガヴァーンのもとへやって来ました。彼が実現を得た時、彼はヴェーダ、ウパニシャッドなどの知識を持っていませんでした。彼はペリヤ・プラーナム、63人の聖典シヴァ派の聖者の人生に関するタミル語の著作だけを読んでいました。16歳の時に彼が死に真っ向から向き合った時、自らの知という宝物は彼のもとへやって来ました。大変な決意と驚くべき勇気を持って、彼は一人で死と向き合いました。その言葉の意味を知ることなく、彼はブラフマンを体験しました。我々は皆、(知識として)それについてたいそう知っていますが、(体験として)それを知りません。

 1950年4月14日、午後8時47分、マハルシは普遍的な精神(遍在する聖霊)に溶け込みました。流星が一つ、空を照らし、それは国の様々な場所で見られました。ティルヴァンナーマライのアーシュラムで、マハルシの存在は今でさえ力強く感じられます。彼を探し求める全ての人にとって、彼が以前にそうであったのと同じく今も、彼に気軽に会うことができます。彼は周辺のない中心になっています。

2015年12月4日金曜日

バガヴァーン・ラマナの唯一性 ① - マハルシにプライバシーは存在しない

◇「山の道(Mountain Path)」、1987年1月 p8~10

バガヴァーン・シュリー・ラマナの唯一性

K.スブラマニアン博士
マハルシについて最も並外れたことは、24時間彼に会えることでした。彼に会うための許可は必要なく、特別なダルシャンの時間はありませんでした。我々の全員が、数時間ごとにプライバシーを要求します。我々は煩わされたくありません。我々にはいつも「煩わ」されているマハルシがいましたが、彼は決して煩わされていると感じませんでした。
  人々はよく彼の周りで眠ったものでした。彼が夜に外に出なければならない時、彼は注意深く足の踏み場を選んで進まなければなりませんでした。誰かが彼にたいまつを差し出した時、マハルシはその必要はないと言いました。信奉者たちに強く勧められ、彼はそれを受け取りました。彼は誰もが煩わされないような方法でそれを使いました。彼が夜に外に出なければならない時はいつも、お腹の近くでたいまつを照らし、その助けによって外への道を見つけたものでした。眠っている人たちを煩わすことになるかもしれなかったので、彼は地面の近くでたいまつを照らしませんでした。彼の他者への配慮とは、そういったものでした。

 しかし、この配慮は人間に限ったものではありませんでした。それは鳥獣や植物に及んでいました。時折、犬たちが講堂で眠ることを選んだ時、犬たちがその場所を汚してしまうと不平を言う人たちがいたものでした。犬たちがトイレに行けるように、マハルシは彼らを真夜中ごろに外に連れ出しました。犬、スズメ、孔雀、リス、猿、牝牛たちは、よく彼のもとに行きました。彼は彼らに話しかけ、彼らは彼の指示に従いました。彼は誰が蛇を殺すのも決して許しませんでした。「私たちは彼らの居場所にやって来ました。私たちは彼らに保護を与えるべきです」。彼の面前では、猿たちでさえ静かにいました。かつて、彼がアーシュラムの瞑想講堂にいたとき、猿が彼の近くに行こうとしました。少し心配になった人々は、その猿を追い払おうとしました。マハルシは猿を見て、彼の近くに来るように招きました。猿は彼の近くに行き、彼女の赤ちゃんを彼に見せました。マハルシは、「あなたたちみなが彼女を追い払おうとしました。彼女は赤ちゃんを見せに来ています。あなたたちは子や孫を連れて来ます。彼女が同じことをするのを許してはどうですか」と言いました。猿はしばらく留まり、喜びのかん高い声を上げながら去りました。リスたちが彼の寝椅子に登ったときは、たくさんの木の実をもらい、彼の手のひらからそれを食べました。彼は全ての存在に愛を放っていました。

 私たちは弟子がグルに仕えることを耳にしています。ここには、弟子に仕えた他に類を見ないグルがいました。彼は毎朝3時ごろに調理場に行き、野菜を切り、チャツネをすりつぶしたりしました。彼がこしらえたものはなんでも非常に美味でした。彼はおいしい料理に興味はありませんでしたが、信奉者への愛情からそれをこしらえました。

 ある時、マハルシの手に水ぶくれがいっぱいあった時、ヴィシュワナータ・スワーミーという信奉者が彼の仕事をすることを申し出ました。マハルシは水ぶくれで困っていないと言い、きつい手仕事やりつづけました。その信奉者はこれに耐えられず、ある日、マハルシよりずっと早く調理場に密かに入り、普段マハルシによって行われる仕事を全て終わらせました。マハルシが調理場に入った時、彼のする仕事がないことに気づきました。彼が何が起こったのか尋ねた時、ヴィシュワナータ・スワーミーが全ての仕事をしてしまったと聞かされました。マハルシは何も言いませんでした。彼がヴィシュワナータ・スワーミーに会った時、彼になぜそうしたのか尋ねました。ヴィシュワナータ・スワーミーは、マハルシの手に水ぶくれがある時に、チャツネをすりつぶしているのを見るのに耐えられなかったと言いました。マハルシは言いました。「初めのころ、私は食べ物を乞わなければなりませんでした。今、私は無料で食事を与えられています。私はこれに値する何らかの奉仕をすべきではありませんか。今日、あなたは私の仕事をしてしまいました。今日、私は何の奉仕もしていません。あなたのドーティを私に渡して下さい。あなたのためにそれを洗います」。ヴィシュワナータ・スワーミーは感動して涙しました。それ以後、彼はシュリー・マハルシの仕事に決して干渉しませんでした。

 ある信奉者たちは、少なくとも正午12時から午後2時の間の2時間、マハルシは煩わされるべきではないと思いました。彼らはその時間、彼をそっとしておこうと決めました。マハルシはこのことについて相談されませんでした。正午以降に訪問者が一人もいないことに気づいた時、マハルシは付添人に何が起こったのか尋ねました。正午12時から午後2時の間は訪問者が入るのを許可しないと決められたことを彼は告げられました。マハルシは講堂の外に出て、座り、「人々はいつでも私のもとにやって来ます。彼らの中には待つ余裕のない人もいます。彼らが私に会えないようにするなら、私が彼らに会いに行きましょう。あなたがたは扉を閉めておくかもしれませんが、私を閉じ込めることはできませんよ」と言いました。彼は規則を破りたくありませんでしたが、訪問者に不便をかけたくありませんでした。彼の他者への配慮とは、そういったものでした。

 ある時、アメリカ人女性がアーシュラムを訪問しました。彼女は地面にしゃがむことが困難であると分かり、マハルシに向けて足を伸ばしました。インドの伝統ではそのようにすることが失礼であることに彼女は気づいていませんでした。ある信奉者が彼女の所へ行き、他の人々のように足をたたみ、座るよう彼女に求めました。これに気づき、マハルシは、その女性はしゃがむことが困難であると分かったのだから、他の人々のようにしゃがむよう求められるべきではないと言いました。付添人がそれは失礼であると言った時、マハルシは、「ああ、そうなのですか。足を伸ばすことで、私はあなたたちみなに失礼なことをしていますね。あなたが言うことは私にも当てはまります」と言いました。そのように言って、彼は丸一日中、足を組んで座りました。彼に足を再び伸ばしてもらうためには、信奉者側の大変な説得を要しました。

 ある時、調理場で、ある「特別な」食事が別に用意されようとしているのをマハルシが目にした時、彼はなぜそれが用意されようとしているのか尋ねました。それが月経の期間にいる女性のためであると告げられた時、彼は言いました。「どうして彼女は別に調理された食べ物を食べなければならないのですか。どうして他の全ての人に出される食べ物を彼女に与えることができないのですか。月経であることは罪ですか。区別せず、皆のために用意された食べ物から彼女に出しなさい」。彼は他者への思いやりと配慮の必要性を強調しました。彼にとって、他者への気遣いは精神性の基礎でした。

 マハルシは女性に不利になる言葉を一言も発していません。女性が一緒にいることがサーダナの障害になると彼はいかなる時も言いませんでした。彼は家庭生活を放棄して、サンニャーサに入るよう決して誰にも勧めませんでした。ある時、彼は言いました。「サンニャーサは、個人性を放棄することであり、頭を剃り、黄土色のローブを身に着けることではありません。ある人は家住者であるかもしれませんが、自分はそれであると彼が思わなければ、彼はサンニャーシンです。逆に、人は黄土色のローブを着て、放浪するかもしれませんが、自分がサンニャーシンであると彼が思う限り、彼はそれではありません」。性的なことを根絶する方法を尋ねられた時、マハルシは、「体が自らであるという誤った考えを根絶することによって。自らに性(別)は存在しません。『私は体である』とあなたが考えるために、あなたは別の人を体として見て、性(別)の違いが生じます。しかし、あなたは体ではありません。真の自らでありなさい。その時、性(別)は存在しません」と答えました。マハルシは、自らの探求の道は女性にもたどることができると言いました。実際、彼は、解放された女性は解放された男性のように埋葬されるべきであると言いました。

 彼は我々のヴェーダおよびウパニシャッドの中で最良かつ最上である全てを体現していました。彼は古(いにしえ)のリシの系譜の出自でした。彼は完全に自由であり、この自由を他者に与えました。彼は決して何も求めませんでした。彼は何であれ自分のためにするように誰にも求めませんでした。たいていの時、彼は沈黙し、理解を超える安らぎを伝えました。彼はあらゆる面で並外れていましたが、平凡な生活を送りました。彼はあれやこれやを放棄するよう人々に助言しませんでした。彼は彼らに「行為者」という感覚を放棄するように求めました。彼は人々に来るように、もしくは、去るように求めませんでした。彼は奇跡や千里眼などを重視しませんでした。彼にとっては、自らの実現が最も重要なことでした。この実現は新たな何かの獲得ではなく、一切の偽装の除去でしかないと彼は言いました。彼は他者と共に食べ、他者に給仕された分だけしか、それ以上は少しも食べませんでした。彼はどんな特別待遇も許容しませんでした。ある時、信奉者がマハルシのために特別に用意されたチャワンプラシュを送った時、その信奉者に配慮して彼は一日か二日はそれを食べましたが、後でそれをみなに分け与えました。彼はとても具合が悪い時でさえ、どんな特別な食事も承諾しませんでした。全てのものが等しくみなに分け与えられることを彼は強調しました。「それが私にとって良いのなら、皆にとって良いのです」と彼はよく言ったものでした。

 彼の純朴さは、並外れたものでした。ディリップ・クマール・ローイは彼についてこのように記しました。「彼の自らを忘却した様子は、私にとって、やはり魅惑的でした。彼のどの態度にも不自然なものは何もありませんでした-装われたり、崇高な、無理に効果を狙ったものはありませんでした。日没の雲の上に美が座すように、彼の上には偉大さが楽々と座していました-しばしば、破壊的な効果を伴うにしても。というのも、いかに偉大なる人が行うべきかについての我々の一切の考えは、純朴な不賛成の微笑みをもって、彼によって払いのけられたように思えたからです」。

 彼は学者ではありませんでしたが、学者たちは疑問を解消するために彼のもとへ行きました。彼は自発的には決して何も記しませんでした。他者の要望に応じて彼が記したものが、本を埋めています。彼の母語はタミル語です。しかし、彼はタミル語だけでなく、彼が信奉者たちから聞き覚えた三つの言語、サンスクリット語、マラヤーラム語、テルグ語でも魅惑的な詩を記しました。それらの言語の学者たちは、彼の詩の美しさに驚嘆しています。
(次号に続く)
(shiba注)
上の題の「プライバシー」に関してですが、英語のprivacyには、「①私生活、②秘密、③隠遁」の意味があるので、そのような意味をこめています。

2015年11月22日日曜日

バリ王の物語-バガヴァーン・ヴィローチャナとバガヴァーン・シュクラの教え

◇「山の道(Mountain Path)」、1974年10月、p223~225

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅲ


バリ王の物語

M.C.スブラマニアンによるサンスクリット語からの翻訳(*1)

ヴァーシシュタ曰く:
 おお、ラグ族の満月よ、あなたもまた、バリのように、相違(多様性)の知覚を通じ、知恵を得られます。

シュリー・ラーマ曰く:
 主よ!どうぞバリの知恵を得る方法を説いてください。あなたのような聖者らは、へりくだって近づく者たちに寛容です。

ヴァーシシュタ曰く:
 世界のあるところに、パーターラとして知られる王国が地の下にあります。アシュラ(魔)たちに守られる、その巨大な王国に、ヴィローチャナの息子、バリという名の王がいました。全世界をあたかも児戯のごとくに征服し、自分自身を楽しみのあらゆる対象の支配者となし、彼はアシュラ族を数千万年統治しました。無限に長い年月(ユガ)が経過しました。無数のデーヴァとアシュラが生じては、倒れました。絶え間なく楽しみを享受することにより、やがてバリはそれらにうんざりしました。高所にある宮殿のテラスに座っている間、彼は以下のように考え始めました。「三世界の不可思議である我が王国、または、私が享受する多大な楽しみが何の役に立つのか。大きなものであれ、小さなものであれ、その楽しみが甘美であるのは、見せかけだけだ。それらは必然的に終わりを迎える。その中に何の幸福があるのか。人は繰り返し食べ、繰り返し妻を抱擁する。これは児戯のごとくであり、極めて恥じ入らせるものだ。どうして賢者が来る日も来る日も同じことを行うことに恥じ入らないのか。昼の後には夜が続き、行為の後には行為が続く。思うに、これは賢者にとっての関心事であるべきだ。同じ行為を毎日繰り返すことが何の役に立つのか。楽しみ以外の何ものかが、永続的な何ものかが存在するのか。私はこれに思いを凝らそう。」

 このように考え、バリは熟考し始めました。眉を寄せて、彼は座り、思いに沈みました。終に、彼は心の中で思いました。「今や私は思い出した。我が父、自らを実現した人であり、世界の始まりと終わりを知ったバガヴァーン・ヴィローチャナに私はかつて尋ねた。私は彼に尋ねた。『父上、いつ全ての悲しみ、喜び、迷妄が終わりを迎えるのか、どうぞ私にお教えください。それらの限界とは何ですか。いつ心の迷妄は終わりを迎えるのですか。どれが熱情を免れた境地ですか。父上、どこに我々は変わらない安息を得るのですか。人が永遠に平穏に留まれる純粋な至福の境地があるのか、私にお教えください」。我が父は返答した。「我が息子よ、何千もの三世界を含む広大な領域が存在する。大地、空、海、山、森、聖水、川、湖はそこに存在しない。それはまばゆく輝く偉大なる王によって統治され、彼はあらゆることを行い、あらゆる所に行き、まさしく全てであり、全く沈黙している。彼の大臣は聡明に彼の意図を実行する。彼は困難な仕事を成し遂げるが、単純なことでしくじる。彼は何も楽しめない。また、彼は何も知らない。彼は王国のために止むことなくあらゆることを行う。彼は孤独な場所で一人暮らす王の唯一の代理人である』。私は尋ねた。『おお、高貴なる方よ、身体的および精神的病を免れる、その場所はどちらにありますか。一体、どのようにそれは達せられますか。誰かその道を知っていますか。この大臣とは誰で、全ての世界をたやすく征服している我々によって征服されていない王とは誰ですか。』

 わが父は返答した。『我が息子よ!たとえ何十万のデーヴァとアシュラが突如として襲い掛かろうとも、その大臣を征服することはできない。彼に対して使われる剣、きね、投石器、ヴァジュラ、円盤、こん棒のような武器は、岩に向かって投げられた花のように崩れ落ちる。その大臣は山のように揺らぐことがないが、王が彼を征服することを望むなら、たやすくそうすることができる。我が息子よ!彼はある策略によってのみ征服しうる。というのも、怒った有毒なコブラのごとく、彼は彼に直接近づく誰をも滅ぼす。聞きなさい、わが息子よ!この王国の名を私はお前に告げよう。それは一切の悲しみを終わらせるモークシャ(解放)である。その王とは、一切の状態を超越する自ら(アートマン)である。大臣である賢者は、心である。感覚対象物への欲望が止むことが、その征服のための至高の策略である。それはまた、心である発情期の象を素早く制御するための策略でもある。もし人がすでに適切に指導を受けておらず、知恵を獲得したいならば、人はその心の四つの部分の二つを楽しみの享受に充て、第三の部分を聖典の学習に、第四の部分をグルへの奉仕に充てるべきである。すでに何らかの指導を受けている者は、一つの部分を楽しみに、二つの部分をグルへの奉仕に、一つの部分を聖典の意味の熟慮に充てるべきである。十分に指導されている者は、常にその心の二つの部分を聖典の学習と離欲の修養に、他の二つの部分を観想とグルへの奉仕に充てるべきである。そのように知恵と観想によって、わが息子よ、人は心の制御を獲得し、欲望を断ち、自らを実現すべきである。感覚的喜びの中の邪悪を認識は、人を観想に導き、観想から感覚的喜びの中の邪悪の認識が生じる。海と雲のごとく、それらは互いに補い合っている。愛する者よ!お前の国の習慣に従い、もっとも非難されない方法を通じて富を獲得せよ。有徳の人々との交際を真摯に培うために、それを使え。彼らとの交際と注意深い思考により培った、感覚的楽しみに対する離欲の助けによって、お前は自らを実現する』」。

 バリは心の中で思いました。「深遠な思索家であった父から、私はこれを以前に教わっていた。今や幸運にもそれを思い出し、私は真理を知った。私は今や五感の楽しみに対する完全な離欲を培った。幸運にも、私は神酒のごとき涼やかな静穏の喜びを得た。喜びと悲しみが平然と眺められる内なる静穏の境地の美しさは、素晴らしいものだ。私は誰か。この自ら(アートマン)とは何か。私は自らを実現したグル、ウシャナス(*2)に尋ねよう」。

 それに従い、バリは天空の寺院に住むシュクラについて黙想しました。やがて、バールガヴァ(*2)の姿をした全てに行き渡る無限の意識が、バリの館の宝石で飾られた窓に現れました。バリは貴重な宝石と香り高い花々の贈り物で彼を歓迎し、彼の足もとに平伏しました。彼は言いました。「太陽の光が人々が仕事を行えるようにするのとまさしく同様に、あなたの恩寵もまた私に、ある問題についてあなたに尋ねさせます。ここに実際存在するのは何ですか。そして、その限界とは何ですか。この体とは何ですか。この人とは誰ですか。私は誰ですか。あなたは誰ですか。これらの世界とは何ですか。どうぞ私にお教えください」。

 シュクラは答えました。「長々と話すべき何がありますか。私は天界へ行く途中なのです。おお、全アシュラの王よ!私はあなたに精髄を簡潔に告げましょう。お聞きなさい!意識のみが存在します。この世界は意識に他ならず、あなたは意識であり、私は意識であり、(様々な)世界は意識です。あなたが賢明であるなら、この確信を通じ、あなたはあらゆるものを得ます。そうでないなら、何度それを繰り返し言われても、(供儀の火の)灰の上に置かれた供物のごとく、それは無駄になります。思いによってかき乱された心が、束縛です。思いからの自由が、解放です。思いのない意識が、自ら(アートマン)です。これがヴェーダーンタの教えの全てです。この結論を受け入れ、真理を悟った理解でもって、あらゆるものを観察しなさい。あなたは無限の自らの境地を自動的に得ます。今、私は天界に行くところで、そこには七人の賢者が集っています。デーヴァ族に関連した務めのために、私はそこに出席しなければなりません」。

 こう述べた後、バガヴァーン・シュクラは空に立ち上りました。バリは、「この世界は意識である」という言葉に思いを凝らしました。彼は心の中で思いました。「バガヴァーンによって言明されたことは、理に適っている。三世界は意識でしかない。私は意識であり、これらの世界は意識である。この住まい(方位、地域?)は意識であり、行為は意識である。私は対象物とその知覚についての一切の考えを確かに免れている。私は絶対的に純粋である。私は常に知性である。私は別の知性に依存していない。私はあらゆるものを認識する至高の主である。私は一切の概念を免れた意識である。私は全世界に内に外に行き渡っている。私の一切の知覚対象は終わりを迎えた。私はまさに偉大なる意識である!」

 このように思い、極めて賢明なバリは、オームのアルダ・マートラ(*3)に黙想し始めました。何らの心の概念や想像、思う者‐思い‐思いの対象という観念もなく、バリは風のない場所に置かれた灯火のごとく真理を悟ったまま留まり、しばらくして至高の境地を得ました。その一切の欲望を消し去り、その心は一切の思いを免れ、バリは雲によって覆い隠されない秋空のごとく純粋な意識になりました。

 バリの配下であったアシュラたちが彼の宮殿に行った時、彼らは彼が概念のない瞑想に没頭しているのを見つけました。しかし、長い時間たって、彼は目覚めました。それから、「私」、もしくは、「私のもの」という考えをまるで持たずに、彼は全ての王の義務に従事し始めました。彼は平等なまなざしで成功と不運を見ました。彼の知恵は、喜びや悲しみのために、増すことも減ることもありませんでした。彼は何千もの希望と失望を抱き、何百もの利益と損失を得ましたが、彼は何も気にかけませんでした。

 今世と来世の物事を追い求める、この心を制御し、そして、世俗の活動に没頭しなさい。心をハートの洞窟に留めなさい。それは子供のようです。それが何かに夢中になる時はいつも、その場で直ちにそれを引き起こし、それを現実に定めなさい。このように心という野生の象を訓練し、四方八方でそれを縛ることによって、人は無上の至福を得ることができます。

原注↓
(*1)この連載の以前の回もまた、彼によって翻訳されました。
(*2)アシュラ族のグル、シュクラーチャーリヤの別名。
(*3)オーム、つまり、ブラフマンの最後の聞こえない音。
  

2015年11月8日日曜日

種族を超えた愛の光景を目撃した、T.R.A.ナーラーヤナ の思い出

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年4月 p98~100

どのようにして私はマハルシのもとへ行ったのか

T.R.A.ナーラーヤナ

 その年は1948年でした。

 私は当時、39歳でした。私は妻と四人の子供と共にマドラスに住んでしました。私はイギリスの大会社の支店長であり、幸せな環境にいたので、宗教的修練、または、靈的探求の必要性を何ら見出しませんでした。私は人生の望ましい物事を楽しむことに満足していました。

 私の部下の視察員の一人、シュリー・パールタサーラティと共に、私は小さな町々を旅していました。それは4月のある暑い日でした。シュリー・パールタサーラティと私はティルヴァンナーマライに行くためにヴィルップラムで列車に乗り込もうとしていた時、25歳ぐらいの若者が隣のドアを通って一等客車に入ろうとしていることに我々は気づきました。その人はとても太っていたため、あの手この手でそのかさばる体を持ち上げ、その一方で、明らかに彼の召使いであるプラットホームのもう一人の人がドアの向こうへと彼を押し込んでいました。シュリー・パールタサーラティと私自身を含め、プラットホームにいる人々が彼の苦境をじっと見る詮索好きな様子を彼は恥ずかしがってもいました。彼は何とか乗り込み、我々の隣の小部屋を占拠しました。

 列車が数分走った時、その人が我々の客室にやって来て、ラティラル・プレームチャンド・シャーと自己紹介し、話し始めました。 

 シュリー・ラティラルはサウラーシュトラ・ヴァイシャであり、ゴンダルで生まれ育ち、その土地の裕福な商人である父の一人息子でした。彼は6年前に結婚していました。10歳から体の中のあまりに多くの脂肪に悩まされ、今や25歳の彼は肉と苦しみの巨大な塊でした。脂肪を取り除いて、男らしくなりたいと、どれほど彼は望んだことでしょうか!

 3月の最後の週、シュリー・ラティラルは夜眠っている間にあるヴィジョンを得ました。彼は苦行者が微笑み、彼に手招きしているのを見ました。その微笑みと手招きは長い間続き、シュリー・ラティラルが目覚めた時、彼の心の目の前にはっきりとしたままでした。彼はそのヴィジョンについて誰にも話しませんでした。二日後、彼の妻はグジャラート語の雑誌を読んでいました。彼女の肩越しに見て、彼はヴィジョンの中で見た苦行者の写真を見ました。彼はその苦行者がバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシであると知るようになりました。彼はすぐさま父親のもとへ行き、信頼できる一家の召使いを伴ってのティルヴァンナーマライへの旅の手配をしました。バガヴァーンについて彼が知っていたこと全ては、グジャラート語の記事に載っていたことでした。それでも、彼は、バガヴァーンのもとへたどり着くや否や自分の苦しみは終わるだろうと確信していました。バガヴァーンのヴィジョンの微笑みと手招きは、彼にそのような確固とした確信を与えていました。

 シュリー・パールタサーラティはバガヴァーンのダルシャンを何回も得ており、彼に関する文献も相当読んでいました。丸々二時間の旅の間、彼とシュリー・ラティラルはバガヴァーンについて話しました。私は英語の小説を読んでいるという体(てい)でしたが、彼らの会話を興味深く、注意して聞いていました。

 ティルヴァンナーマライ駅で、シュリー・ラティラルは父親が彼が共に滞在するために手配した地元の商人に迎え入れられました。シュリー・パールタサーラティと私は、旅行者用のバンガローに向かいました。

 我々が入浴し、昼食をとった時、4時でした。シュリー・パールタサーラティは私がとてもビジネスライクであり、一分も無駄にはしないことを知っていました。市場を視察できますが、と彼は私に言いました。彼は私の返答にとても驚きました。「いいえ、パルタサラティー!最初にマハルシのダルシャンを得に行きます。その後、時間が許せば、寺院に行きます。仕事は後にしましょう!」

 シュリー・パールタサーラティと私がアーシュラムに入った時、5時ごろでした。バガヴァーンの母のサマーディの周りを歩き、我々はそのそばのベランダにやって来ました。50人ぐらいの人々がそこに座っていて、シュリー・ラティラルと彼のホストと彼の召使いも含まれていました。バガヴァーンは、いつものようには寝椅子にいませんでした。訪問者たちはひそひそ声で話し、彼がどこにいるのか見つけ出そうとしていました。

 十分ほど待って、バガヴァーンが彼の座に来ていないことを知った後、シュリー・パールタサーラティは合間にゴーシャラ(牛舎)や他の場所を見て回ってはどうかと私に提案しました。

 視察を終え、我々が別の側を通ってベランダに戻ろうとした時、我々は子供のような声を聞きました。「チェー、アサッテ(こら、お前というやつは!)」。我々の周りに子供は見当たりらず、そのため、その声の源を見つけ出そうとのぞきました。ベランダ近くの家庭菜園の中のナスの葉っぱ、女性の指、そして、他の植物の間の動きに我々は目をとめました。さらにじっと見ると、小さなヤギと小さなサルとリス-そして、バガヴァーン・ラマナ・マハルシが見えました!バガヴァーンはお尻をついて座り、その足は組まれて胸まで上がっていました。ヤギは彼の膝の間に身をすり寄せ、サルは頭を彼の右ひざにもたれさせ、リスは彼の左ひざに腰かけていました。左の手のひらに紙の小箱を持ち、バガヴァーンは右手の指で一つずつそこからピーナッツを取り出し、ヤギ、サル、リス、そして、彼自身に順に与えていました。彼の発言は、リスの唇の間に彼が置こうとしていたナッツをひったくろうとしたサルに向けられたようでした。我々がじっと見る間、四人の仲間は食べることを楽しみ続けていました。四人全員が等しく幸せなように見えました。彼らが互いを見つめ、一緒に離れずにいた様子はとても感動的でした。ヤギとサルとリスとバガヴァーンは、明らかにその種の違いを忘れていました!そして、我々も眺めながら、彼らの姿形の違いにもかかわらず、四人全員をただの親友として見ました。言葉では、それを見て、私の存在を通り抜けた感情を描くことはできません。稲妻の閃光のごとく超越的なるもののビジョンが現れ、存在、意識、至福、サット‐チット‐アーナンダの本質を私に示現しました。

 ナッツはなくなりました。バガヴァーンは紙を投げ捨て、年寄りが孫に話しかけるのとちょうど同じように、「ポンコダ!(みんな、行きなさい!)」と言いました。ヤギとサルとリスは去りました。バガヴァーンは立ち上がろうとしました。シュリー・パールタサーラティと私は急いで立ち去り、神聖なるものに立ち入ったことに罪の意識を感じましたが、-後悔はしませんでした。

 シュリー・パールタサーラティと私がベランダで再び座ったすぐ後、バガヴァーンが寝椅子にやって来ました。私は彼が我々を見たとは言えません。彼は我々に顔を向けて立ち、彼の目は、地上の何物をもはるか超えた上の何かに定められていました。その目は、その目の背後で輝いている光から物質的世界を遮断するスクリーンのようでした。時折、スクリーンの繊維を通って閃光が放たれ、その閃光は注がれた人々の目を冷まし、粗大な覆いを貫通し、彼らの内なる燈心に火をともしました。

 バガヴァーンは寝椅子の枕にもたれ、頭を左の手のひらで支えました。我々みなは座り、彼の顔を見ました。我々は座り続け、見続けました。誰も話さず、何の音も立てませんでした。しかし、その対面は重苦しい沈黙ではありませんでした。それは我々各人の最奥の存在が、バガヴァーンである至高なる意識と心通わせる生き生きとした体験でした。

 その美しさは、ヤギとサルとリスと共に親しげにピーナッツを食べるという、数分前に私が見た愚かしさの中にあるものと同じだという恐るべき気づきによって、私は呆然としました。私の心はその光景をずっと思い出していました。どのようにヤギが自分へのバガヴァーンの愛情を完全に信頼して彼の胸にすり寄ったのか。共にナッツをかむ時に、どのようにサルが嬉しそうににっこり笑い、どのようにバガヴァーンがにっこり笑い返したのか。どのようにリスがそのピンの頭のような目で夢を見ているかのようなバガヴァーンの目を見つめ、彼の鼻をその小さな左手でやさしくひっかいたのか。感覚的知覚の根底にあり、それを超えてある至高なる靈のヴィジョンは、家庭菜園のピーナッツ・パーティという控えめな光景によって味わいを添えられていました。

 バガヴァーンは寝椅子から立ち上がりました。我々はみな立ち上がりました。立ち去るべきだと暗黙の内に全員に了解されたようでした。我々は立ち去りました。私は今まで知らなかった安らぎと喜びを私の内側で感じました。他の人々の顔つきもまた、同じような様子を示していました。

 アーシュラムの門のところでシュリー・ラティラルと彼のホストと彼の召使いが牛車に乗り込むのを私は目にしました。シュリー・ラティラルの動作には新たな軽快さがありました。その若者のヴィジョンの中でのバガヴァーンの約束は、成就し始めたように見えました。

 私の人生において、あの日以来、多くのことが起こりました。私の物質的な状況は悪化しました。しかし、私の内面生活は、あの日以来、いつも、幸福でした。というのも、私はバガヴァーンのヴィジョンをとても多く得たからでした-とりわけ、私が非常に意気消沈していた時には。

 1953年、私はラージコートにいて、ロッジに一人で滞在していました。ある日、食堂にいた時、30歳ぐらいの人が私に近づいて来て、話しかけました。「私に見覚えありませんか」。「いいえ、すみません」と私は正直に返答しました。その人は続けました。「私はゴンダルのラティラルです!5年前のバガヴァーン・ラマナ・マハルシのダルシャンを覚えていませんか」。私はその人を再び見ました。彼は細く、筋張っていて、彼の顔は健康と幸福で輝いていました。私は愛情をこめて彼の手を握りました。彼は再び話しました。「シュリー・バガヴァーンは、素晴らしく完璧に彼の約束を果たしました。私を見てください。私は今や家業を経営していて、父は全く休んでいます。私には2歳になる息子がいて、1か月か2か月後、妻にもう一人子供が産まれることになっています」。

 私の心は即座にヤギとサルとリス-そして、バガヴァーン・ラマナ・マハルシに戻って来ました。バガヴァーンだけを思うことは決してできませんでした!

 長い間、そんな具合なのです。その光景はしばしば私の心の目にやって来ます。四人の友人がピーナッツ・パーティをする家庭菜園。

 そして、その美しき光景に私を導いてくれたシュリー・ラティラルとシュリー・パールタサーラティに私は感謝しています!

2015年11月3日火曜日

シヴァプラカーシャム・ピッライの遺産 「シュリー・ラマナ・ヴァチャナ・サーラム」

◇「山の道(Mountain Path)」、1984年10月 p229~230

シュリー・ラマナの言葉の精髄

シヴァプラカーシャム・ピッライ

 シヴァプラカーシャム・ピッライは、バガヴァーンに重要な質問、「私は誰か」を尋ね、沈黙の賢者の答えをその際立った教えとして保存した、幸運なバクタです。この知恵の宝庫は、今や、世界中の無数の探求者を導いています。

 彼は残りの人生をバガヴァーンの教えの観想に捧げました。時折、彼は数詩節記したものでした。この偉大なバクタは、1949年1月に亡くなりました。その後、彼の甥であり、彼の称賛者であるマニカム・ピッライがアーシュラムにやって来た時、バガヴァーンはシヴァプラカーシャム・ピッライの晩年について尋ねました。彼は「ピッライヤヴァルガル」(このようにバガヴァーンのシヴァプラカーシャム・ピッライを呼んでいました)が何か詩を後に残していないか尋ねました。甥はためらいがちに答えました。「バガヴァーン!確かに彼は私にいくらか原稿を残しましたが、彼の死後にそれを燃やし、他の人々に見せてはいけないという指示と共にでした」。「おや、そうですか!問題ありません。それを私に見せてみなさい!」。束からバガヴァーンは一枚手に取り、「この一枚で十分です」と言い、残りを返しました。

 後に、これは「ラマナ・ヴァチャナ・サーラム」の題で、ウッラドゥ・ナールパドゥへのシヴァプラカーシャム・ピッライのタミル語の注釈の前書きとして含められました。(サードゥ・オームとマイケル・ジェームズによる)その英訳が以下に記載されます。

シュリー・ラマナ・ヴァチャナ・サーラム

1-2
これが精髄である。これが精髄である。これがシュリー・ラマナの言葉の精髄である。

This is the essence, this is the essence, this is the essence of Sri Ramana's sayings.

3-4
言え、真の「あなた」とは誰か。あなた自身に専心せよ。実に、あなたは悪臭漂う肉体ではない。

Say who the real ' you ' are ; attend to yourself; truly you are not the foul-smelling flesh.

5-6
体は生まれ、体は死ぬ。体に意識はなく、眠る時、それは存在しない。

The body is born and the body will die ; the body is insentient and in sleep it does not exist.

7-8
意識こそが、あなたである。あなたこそが、意識である。意識こそが、生まれることもなく、死ぬこともなく存在するものである。

Consciousness alone is you ; you alone are consciousness; consciousness alone is that which exists without being born and without dying.

9-10
眠る時、意識はあるが、体はない。眠る時、体は存在しなかったと知る者が、あなたである。

In sleep there is consciousness but there is no body ; he who knows that the body did not exist in sleep is you .

11-12
体が生まれるのを知らない者が誰かいるのか。しかし、意識の誕生を知った者が誰かいるのか。

Is there anyone who does not know that the body is born? But is there anyone who knew the birth of consciousness?

13-14
上に述べられたことから、あなたは体ではない。あなたが体であるという邪悪な概念を破壊せよ。

From what is said above , (it is clear that) you are not the body ; (therefore) destroy the evil notion that you are the body.

15-16
あなたの本質とは何か常に思え。他の何をも思うな。

Always think what your real nature is; do not think of anything else.

17-18
「私は体である」という一つの思いが、根本である。それが退くなら、一切の思いは退く。

The one thought 'I am the body' is the root (of all thoughts); if it subsides, all thoughts will subside.

19-20
「この体は、意識ある『私』なのか」という探求こそが、「私は体である」という思いを破壊する。

The enquiry "Is this body the sentient 'I' ? " alone will destroy that thought 'I am the body' .

21-22
「私は体である」という錯覚を持つ者は、衣服や食べ物などのために精神的に苦しむ。

He who has the delusion 'I am the body' will mentally suffer for clothing, food and so on .

23-24
「私は体である」という錯覚を破壊する者は、衣服や食べ物などのために苦しまない。

He who destroys the delusion 'I am the body' will not suffer for clothing, food and so on .

25-26
たとえ死が近づいても、落胆するな。神により全てがなされていると知りて、在れ。

Even though death approaches, be not disheartened; knowing that all is done by God , be (in the actionless and care-free state of Self).

27-28
体は一つか、二つか、それとも、三つなのか知ることに、わずかの利益もない。

There is not the least benefit in knowing whether the body is one or two or three (that is, it is useless to try to know whether or not the body has three forms — the gross, subtle and causal).

29-30
我々が鋭く吟味し、それにより、この体を捨て去るならば、他のどの体も存在する余地はない。

If we keenly scrutinize (the feeling 'I' ) and thereby set aside this body (the gross body which we now identify as 'I'), there will be no room for any other body (to exist).

31-32
他と見なされる全ての現象(見せかけ)を「私」でないとして捨て去れ。

Set aside as not 'I' all the appearances which are seen as other (anya).

33-34
他である、がらくたのごとき原理の群れをまとめて捨て去れ。

Set aside collectively the garbage-like crowd of principles (tattvas) which are other (anya).

35-56
あなたが「私は誰か」とさらにさらに思う時、その思いのみが残り、他の一切の思いは灰に帰すだろう。

When you think more and more ' who am I', that thought alone will remain and all other thoughts will be reduced to ashes.

37-38
その思いすら灰に帰した時に残るであろう、思いのない境地、それのみが真の「あなた」であると知れ。

Know that the thought-free state which will remain when even that one thought (' Who am I') has been reduced to ashes, alone is the real 'You'.

39-40
生ずることも退くこともなく存在する、それが、あなたの真の自らであり、おのずから輝き出るだろう。

That which exists without rising and subsiding is your real Self, which will shine forth spontaneously.

41-42
太陽のごとく自らがそのように輝き出るまで、このように間違いなく追求せよ。

Until Self thus shines forth like the sun, pursue (the enquiry 'Who am I') in this manner without fail .

43-44
これが精髄である。これが精髄である。これがシュリー・ラマナの言葉の精髄である。

This is the essence, this is the essence, this is the essence of Sri Ramana's sayings.


◇「シュリー・ラマナーシュラマム公式HP、シヴァプラカーシャム・ピッライ」(、他

シュリー・ラマナの言葉の精髄

シヴァプラカーシャム・ピッライ

 シヴァプラカーシャム・ピッライは幸運な信奉者であり、バガヴァーンに重要な質問、「私は誰か」を尋ね、彼の答えを保存しました。この知恵の宝庫は、今や、世界中の無数の探求者を導いています。

 彼は残りの人生をバガヴァーンの教えの観想に捧げました。時折、彼は数詩節記したものでした。シヴァプラーカシャム・ピッライは1949年1月に亡くなりました。その後、彼の甥、シュリー・マニカム・ピッライがアーシュラムにやって来た時、バガヴァーンはシヴァプラカーシャム・ピッライの晩年について尋ねました。彼は「ピッライヤヴァルガル」(このようにバガヴァーンはシヴァプラカーシャム・ピッライを呼びました)が何か詩を後に残していないか尋ねました。甥はためらいがちに答えました。「バガヴァーン!確かに彼は私にいくらか原稿を残しましたが、彼の死後にそれを燃やし、他の人々に見せてはいけないという指示と共にでした」。「おや、そうですか!問題ありません。それを私に見せてみなさい!」。束からバガヴァーンは一枚手に取り、「この一枚で十分です」と言い、残りを返しました。

 シュリー・ピッライヤヴァルガルの追悼の神聖な日に、我々はバガヴァーンによって選らばれた彼の詩の英訳を提供します。

シュリー・ラマナ・ヴァチャナ・サーラム

信奉者らによる翻訳

これが精髄である。これが精髄である!
これこそがシュリー・ラマナの言葉の精髄である!
真のあなたは誰か、私に教えよ。真のあなたを探せ!
まさか、あなたが悪臭を放つ肉体であろうか
体は生まれ、体は死ぬ
深い眠りの中、体はそれ自体を知らない
あなたはである。があなたである
永遠なる知は決して生まれず、死にもしない
眠りの中、自ら自覚はあるが、体のそれはない
あなたのみが体の意識の欠如を目撃する
全ての者が体が生まれることを知っていないか
意識の誕生に気付く者が誰かいるのか
上に言明されたように、あなたは体ではない
あなたが体であるという虚偽の概念を破壊せよ
あなたの本質を絶え間なく探求せよ
他の思いを思うな
「私は体である」という根本の思いが退くなら
その時、他の全ての思いも退く
「体に気付いているのは誰か」-この探求のみが
「私は体である」という概念を取り除く
「私は体である」と思う、欺かれた者は
食べ物、衣服、その上、望みの物を渇望するだろう
「私は体である」という錯覚から解放されている彼-
彼の心は食べ物、衣服、膨大な望みの物を渇望しないだろう
死が近づいても、慌てふためくな
平静であれ、それは全て神の御業である
体が一つか、二つか、三つかと思いふけるな
そのような探求は無益である
あなたが注意深く観察するなら
体の意識の余地はまるでない
(あなたから)別れて見える全ての外観を拒絶せよ
「私でない」として拒絶せよ
他の全ての教義・信条はがらくたのごとき収集物である
それら全てを取り除け
繰り返し「私は誰か」探求すれば
私なる思いのみが留まり
残りは灰になるだろう
私なる思いが燃え尽きたとき
思いは奪われ、「真のあなた」を知るだろう
生ずることもなく、沈むこともない、それが真のあなたであり、燦然と輝いている
まばゆく輝く太陽のごとく、自らが輝くように
決して後退することなく、それであれ
これが精髄である、これが精髄である!
これこそがラマナの教えの精髄である!

2015年10月17日土曜日

ゴータマ・ブッダとラマナ・マハルシ - 賢者は同一の真理を語る

◇『The Call Divine(召命)』 Volume V、Book 5、1957年1月1日、p207~209

論文集-聖者たち

21. ブッダ

シュリー・R.P.チョウドリー著、ラングーン

 ブッダとシュリー・ラマナ・マハルシの教えの間には多分に類似性が存在します。ライオンたちが同じように吼えるのとまさしく同様に、賢者たちは同一の真理について語ります。

 悟りを得るとすぐに、ゴータマは有名な最初の説法を行い、ダルマチャクラ(法輪)を転じ始めました。ドゥッカ(苦)は存在の根本的な事実であり、仏教はこの苦しみという軸の周りを回転します。救いの体系の中の苦しみという事実の重要性を強調する必要はありません。「永続的でないものは、苦しみである」。苦しみは人生の重要な事実ですが、そこから逃れることは可能です(そのため、仏教は悲観的な宗教ではありません)。

 最初の説法で、ブッダは有名な四つの崇高な真理(四聖諦)-①苦しみ(苦)、②その原因(集)、③その消滅(滅)、④その消滅に通じる道(道)を説きました。苦しみの原因は渇望、タンハーであり、八つの道(八正道)に従うことによる、その完全な消滅は、苦しみの原因と共に苦しみを終わらせます。

 
四分で分かるブッダの四聖諦

 さて、質問が生じます。誰が苦しむのか。誰のタンハーなのか。その答えは、「自らならざるものの徴についての教説」と題する第二の説法で与えられます。

 ブッダは、「体(ルーパ)は、おお、比丘たちよ、自らではありません。それは病にかかりやすく、『私の体がこのようでありますように、あのようでありませんように』と我々は言えないため、それが自らであるはずがありません。体は自らでないため、病にかかりやすく、『私の体はこのようでありますように、あのようでありませんように』と我々は言えません」と言うことで始めました。これらの発言は、個人の構成要素である五つのスカンダ(五蘊)全て-ルーパ、物質または体(色)に加え、ヴェーダナー、感覚(受)、サンジニャー、認識(想)、サンスカーラ、心の作用因(行)、ヴィジニャーナ、意識(識)-に適用されます。その後で、ブッダは尋ねます-「あなたがたはどう思いますか、おお、比丘たちよ、体などは永続的ですか、それとも、永続的ではありませんか」。「永続的ではありません、主よ」と比丘たちは答えました。「永続的でないものはスカ(楽)をもたらしますか、ドゥッカ(苦)をもたらしますか」。「ドゥッカをもたらします、主よ」と比丘たちは返答しました。「では、苦しく、変化を被るものを見て、『これは私のものである。これは私である。これは私の自らである』と言うことは、適切ですか」。「いいえ、主よ」と比丘たちは答えました。「それゆえに、おお、比丘たちよ、どのようなルーパetcであれ、過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、内にあるものであれ、外にあるものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、良いものであれ、悪いものであれ、遠いものであれ、近いものであれ、全てのルーパetcはこのように見なされるべきです-『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の自らではない』。そのようにみなし、おお、比丘たちよ、気高い弟子はスカンダに無関心になります。無関心は離欲を生じ、離欲は解放に通じます」。(Disinterestedness>Dispassion>Deliverance、D³)

 別の機会に、上の説法を繰り返した後、ブッダは直喩を述べ、スカンダが我々にとっていかに無縁なものかを示します。「ある人が祇園精舎で巻き藁を集め、それを積み重ねて山にする時、その人が我々を積み重ねて山にしつつあると思う比丘は誰もいないでしょう。また、巻き藁の山に火がつけられている時に、我々が燃やされつつあると思う比丘は誰もいないでしょう。同様に、スカンダは我々とは全く別のものです。しかしながら、我々は愚かにもアナートマンである体と心を我々のまさしく自らとみなし、そのために、我々は苦しみます」。

 ブッダの最初の二つの説法は、彼の主な教えをまとめ上げています。例えば、有名な因果法則、プラティーティヤサムトパーダ(縁起)は、苦しみの原因についての第二の崇高な真理の中に暗示され、仏教の倫理は崇高な八つの道の中に凝縮されています。

カラニーヤ・メッタ・スッタ-慈愛(パーリ語のカラオケと英語の意味)

 「自らでない」を明白に意味する「アナートマン」という言葉は、「自らはない」を意味すると仏教徒にたいてい受け取られていて、自らは存在しないとブッダは説いた-彼は自我である自らを拒んだだけでなく、普遍的な自らも否定した-と主張されています。しかしながら、そのような結論は、上に引用した聖句によって是認されません。それによれば、ブッダが述べた全ては、どのスカンダも決して我々の自らとみなされるべきではないということであり、そこから導かれる唯一の論理的な結論は、一切のスカンダが完全に取り除かれている時、残るものは自らであるということです。束縛は自らならざるスカンダを自らとみなすことに存し、解放はスカンダを自らと脱‐同一視することによって得られます。アートマンを得るためには、解放への道をふさぐ自我である自らを拒否することが必要です。

 仏教はヒンドゥー教徒によって異端の烙印を押されてきました。しかしながら、仏教がバラモン教と異なるのは非本質的なところです。つまるところ、話す言葉は違えども、全ての国の賢者は同一の永遠の真理を宣言します。
 
 古くから続く同一の真理が、最も新たな賢者、自らなる現実の生ける化身であったシュリー・ラマナ・マハルシによって、再び語られています。彼に敬礼を!

2015年10月10日土曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第5章 ハートの場所

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p58-62

マハルシの福音

第2巻 第5章 ハートの場所

信奉者:
 しかし、私はある聖者によって彼の霊的体験が眉間で感じられると言われるのを聞きました。

マハルシ:
 以前、私が話したように、それは主体‐対象の関係性を超越する究極的かつ完全な実現です。それが達成されるとき、どこで霊的体験が感じられるかは重要なことではありません。

信奉者:
 しかし、問題は、2つの見解、すなわち、①霊的体験の中心は眉間である ②それはハートである、の内のどちらが正しいのかということです。

マハルシ:
 修練の目的上、あなたは眉間に集中してもかまいません。その時、それはバーヴァナ、心の想像的観想になるでしょう。しかしながら、アヌバーヴァ、実現の至高の状態は心を超越し、それとあなたは完全に同一化し、その中にあなたの個人性は完全に解消されます。その時、対象化された中心が、それと異なり、分離した主体としてのあなたによって経験されることはありえません。

信奉者:
 少しばかり異なる言葉で私の質問をしたいと思います。眉間は自らの座であると言うことができますか。

マハルシ:
 自らが意識の究極的な源であり、心の3つの状態すべての間に等しく存続しているとあなたは認めています。しかし、瞑想中の人が眠気に負けるときに何が起こるか見てみなさい。眠りの最初の兆候として、彼の頭はうつむき始めます。しかしながら、自らが眉間や頭の他のどの場所にでも位置しているなら、それは起こり得ません。

 眠りの間に自らの体験が眉間で感じられないなら、その中心が自らの座と呼ばれるとき、自らが己のあるべき場所をしばしば見捨てるということを必ずも暗示することになり、それは馬鹿げています。

 実のところ、サーダカは、その心を集中するどのような中心、チャクラにおいてでも彼の体験を得ることがあります。しかし、そのために、彼の体験のその特定の場所が、その事実そのものによって、自らの座にはなりません。

 聖者カビールの息子、カマールについて興味深い話があります。それは、頭が(そして、なおのこと眉間が)自らの座とは見なせないことを示す例として役立ちます。
 カビールはシュリー・ラーマを熱烈に信奉しており、彼が信奉する主を褒め称える人々に彼は必ず食べ物を与えました。しかしながら、ある時、そのような信奉者の集まりに食べ物を提供するための資金をたまたま彼は持ち合わせていませんでした。しかしながら、彼にとって、翌朝までに彼がどうにかして必要なあらゆる手はずを整えなければならないという以外の選択肢はあり得ませんでした。それで、彼とその息子は必要な食料を確保するために夜中に出かけました。
 話によれば、父親と息子が、彼らが壁に作った穴を通じて商人の家から食料を取り去った後、息子は、家族を起し、家に泥棒が入ったことを、道義上、ただ彼らに知らせるために、再び入りました。家族を起し、少年が穴を通ってまんまと逃げおおせ、反対側にいる父親に加わろうとしたとき、彼の体が隙間に詰まってしまいました。追跡する家族に身元を確認されるのを避けるため(というのも、もし見つかれば、翌日、信奉者たちへの食べ物の提供が全くなくなるだろうから)、彼は父親に呼びかけ、その首を切断し、一緒に持ち去るように言いました。それは行われ、カビールは盗んだ食料と息子の頭をもってまんまと逃げおおせ、家に着くとすぐにその頭は起こりうる発覚から隠されました。翌日、カビールはバクタたちにご馳走し、前夜に起こったことを全く気に留めていませんでした。「ラーマのご意思が」、彼は心の中で言いました、「私の息子が死ぬことであるなら、それが行き渡らんことを!」。夕方、カビールはその一行と共に、バジャナなどを伴い、いつも通り列をなして町へ出かけました。
 その間、泥棒に入られた家族は王様に報告し、頭を切り取られたカマールの体を取り出しましたが、手掛かりは得られませんでした。その身元を確認するために、王様は目立つように公道上に体をくくり付けました。それを要求したり、持ち去る者が誰であれ(というのも、どんな死体も、最後の儀式が親類縁者によってそれに行われなければ見捨てられないので)、その目的のために秘密裏に配置された警察に尋問されるか、逮捕されるようにです。
 バジャナもたけなわに、カビールとその一行が公道のそばを通った、そのとき、皆が驚愕したことに、(完全に死んだとみなされていた)頭を切り取られたカマルの体が、バジャナの一行によって歌われる調べに合わせて足踏みしながら手をたたき始めました。
    この話は、頭や眉間が自らの座であるという提言を反証しています。また、戦場において、突然の力強い剣の一撃によって戦闘中の兵士の頭が体から切り落されたとき、終には死んで倒れる前に、ほんのしばらくの間、体が戦うふりをして走ったり、手足を動かし続けたりすることに言及してもいいでしょう。

信奉者:
 しかし、カマールの体は何時間も前に死んでいたのではないですか。

マハルシ:
 カマールにとって、あなたが死と呼ぶものは、並外れた経験では全くありません。ここに彼がさらに年若かった時に起こったことについての話があります。
 少年のころ、カマールには同い年の友達がいて、よく彼と一緒におはじき遊びなどをしたものでした。彼らの間で守られる一般的な決まりは、彼らの内の1人がもう1人に1、2勝の借りがあるなら、翌日に同じだけ返却されなければならないということでした。ある晩、彼らは1勝をカマールの貸しで別れました。次の日、「勝ちの返還」を要求するために、カマールは少年の家に行きました。そこで彼は少年がヴェランダで横になっているのを目にしましたが、その一方で、彼の親族たちが彼のそばで涙していました。
 「どうかしましたか」とカマールは彼らに尋ねました。「昨晩、彼は僕と遊んでいて、僕に1勝の借りもあるんです」。親族たちはさらにいっそう涙し、少年は死んでいるのだと言いました。「いいえ」とカマールは言いました。「彼は死んでいません。ただ彼が僕に借りている勝ちを返却するのを逃れようとして、そんなふりをしてるだけです」。親族たちは抗議し、カマールに自分自身で少年が本当に死んでいることを、体が冷たく硬直していることを確かめるように求めました。「でも、この全ては、この子のふりに過ぎません。私は知っています。体が硬直して冷たいから何だっていうんですか。僕もそのようになれます」。そのように言って、カマールは横たわり、瞬く間に死んでいました。
 哀れな親族たちは、その時まで彼ら自身の子供の死に涙していたのですが、気が動転し、うろたえ、今やカマールの死にも涙し始めました。しかし、仰向けのカマールは立ち上がり、「もう分かりましたか。あなたたちが言うであろうように僕は死んでいましたが、僕は再び起きて、ぴんぴんしています。こうやって彼は僕を欺きたいのですが、彼のふりでこのように僕から逃れることはできません」と言明しました。
    話によれば、最後には、カマールの生来の聖者のごとき性質が死んだ少年に命を与え、カマールは彼に支払われるべき勝ちを取り戻しました。その教訓とは、体の死は自らの消滅ではないということです。体とそれの関係は誕生と死によって制限されません。そして、肉体の中のそれの場所は、例えば眉間のように、特定の場所で行われるディヤーナの修練のために、その中心で感じられる体験によって、範囲を定められません。自らの認識という至高の状態は、決してなくなりません。それは誕生と死だけでなく、心の3つの状態も超越します。

信奉者:
 シュリー・バガヴァーンが、自らは、その座はハートにあるが、どの中心やチャクラでも働くことがあると言うため、眉間での強烈な集中、ディヤーナの修練によって、この中心それ自体が自らの座となることは可能ではないのですjか。

マハルシ:
 それがあなたの注意を制御する場所を定めることによる集中の修練の段階に過ぎない限りは、自らの座についてのどのような考察も理屈の産物に過ぎません。あなたはあなた自身を主体、見る者とみなし、あなたが注意を定める場所は見られる対象になります。これはバーヴァナに過ぎません。逆に、あなたが見る者自身を見るとき、あなたは自らに溶け込み、あなたはそれと一体になります。それがハートです。

信奉者:
 では、眉間での集中の修練は望ましいものですか。

マハルシ:
 どのような類のディヤーナの修練であれ、その最終的結果は、サーダカが心を定める対象が主体と異なり、分離して存在するのを止めるということです。それら(主体と対象)は、唯一の自らになり、それがハートです。

 眉間の中心への集中の修練は、サーダナの方法の1つであり、それによって、差し当たり、思いは効果的に制御されます。その理由はこれです。全ての思いは、心の外向きの活動です。そして、思いは、体もしくは心の「視覚」の後にやって来ます。

 しかしながら、注意すべきは、この眉間に注意を定めるというサーダナは、ジャパを伴わなければならないということです。なぜなら、心を制御するためであれ、散らすためであれ、重要性において体の目に次ぐものは、体の耳であるからです。心を制御し、それによって心を鍛えるためであれ、心を散らし、それによって心を浪費するためであれ、重要性において心の目(つまり、心による対象物の映像化)に次ぐものは、心の耳(つまり、心による言葉の発声)です。

 ですから、例えば眉間のように、中心に心の目を定める間、あなたはナーマ(名)、もしくは、マントラ(聖なる音節)の心による発声も修練すべきです。そうでなければ、あなたはすぐに集中の対象を手放すでしょう。

 上に述べられたようなサーダナは、御名(ナーマ)、御言葉(マントラ)、もしくは、自ら-あなたがそれなんと呼ぶのであれとディヤーナのために選ばれた中心との同一化に通じます。純粋な意識自ら、もしくは、ハートが、最終的な実現です。

信奉者:
 どうしてシュリー・バガヴァーンは、チャクラのどこか特定の中心への集中を修練するよう私たちに指示しないのでしょうか。

マハルシ:
 ヨーガ・シャーストラには、サハスラーラ、脳が自らの座であると書いてあります。プルシャスークタは、ハートがその座であると主張します。起こりうる疑問をサーダカが避けられるように、私は彼に、「私」(という)性(質)、「私はいる」(という)性(質)なる「糸」、手がかりを手に取り、その源までそれを追跡するように言います。なぜなら、第1に、誰にとっても彼の「私」という概念について疑問を抱くことは不可能であり、第2に、どのようなサーダナが採用されても、最終目標は、あなたの体験の根源的な所与である「私はいる」性の源の実現であるからです。

 ですから、あなたがアートマ・ヴィチャーラを修練すれば、自らであるハートにあなたは達するでしょう。

2015年10月3日土曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第8章 安らぎと幸福

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p31

マハルシの福音

第1巻 第8章 安らぎと幸福

信奉者:
 どうすれば私は安らぎを得られますか。私はヴィチャーラを通してそれを獲得しないようです。

マハルシ:
 安らぎは、あなたの自然な状態です。その自然な状態を妨げるのは、心です。あなたのヴィチャーラは心の中だけで行われてきました。心とは何か吟味しなさい。そうすれば、それは消え去るでしょう。思いと離れて心というようなものはありません。それにもかかわらず、思いの出現のために、あなたはそれが飛び出してくる何かを推測し、それを心と名付けます。あなたがそれが何か知ろうと探るとき、心というようなものは実際にはないとあなたは見出します。心がそのように消失するとき、あなたは永遠の安らぎを実現します。

信奉者:
 詩、音楽、ジャパ、バジャナ、美しい風景を見ること、霊的な詩節からなる詩を読むことなどを通して、人は時に真の全一性の感覚を体験します。(個人の自分が存在する余地がない)その深い至福に満ちた平静の感覚は、バガヴァーンが話すハートの中へ入ることと同じですか。その修練はより深いサマーディへ、そして、究極的には現実なるもの(the Real)を完全に見通すことに通じるでしょうか。

マハルシ:
 心に心地よい物事が提供されるとき、幸福があります。それは自らに本来備わっている幸福であり、他の幸福はありません。そして、それはかけ離れた遥か遠くにありません。あなたが楽しいとみなす、それらの場合に、あなたは自らの中に潜りつつあり、その潜ることは、自存する至福に帰着します。しかし、観念連合*がその至福を他の物事や出来事に押し付けることを招いていますが、実際、その至福はあなたの内にあります。それらの場合に、無意識的にですが、あなたは自らの中へ飛び込みつついるのです。まさしく自ら、唯一の現実である、その幸福とあなたが同一であるという体験から生じる確信をもって、あなたが意識的にそのようにするなら、あなたはそれを実現と呼びます。私はあなたに自らの中に、つまり、ハートの中に意識的に潜ってほしいのです。

*観念連合・・・association of ideas、「ヒュームの連合観念説とは、ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、習慣的にその後に起った現象を結果だと思い込んでしまうという説である」とあるサイトに書かれています。ここでは、「ある現象」とは「心地よい物事」であり、「後に起こる特定のある現象」が「幸福」となるでしょうか。
 

2015年9月17日木曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第7章 グルとその恩寵

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p26-30

マハルシの福音

第1巻 第7章 グルとその恩寵

信奉者
 グル・クリパとは何ですか。どのようにそれが自らの実現に通じるのですか。

マハルシ:
 グルは自らです・・・ 時にその人生において人はそれに不満足になり、そして、彼が持つものに満足しなくなり、神への祈りなどを通じ、彼はその望みの満足を求めます。彼の心は徐々に清められ、終に、彼は神を知ることを、世俗的な望みの満足よりもの恩寵を得ることを切望します。その時、神の恩寵が顕れはじめます。神はグルの形をとり、信奉者に姿を現し、彼に真理を説き、さらに交際によって彼の心を清めます。信奉者の心は力を得て、その時、内側に向かうことができます。瞑想によって、それはさらに清められ、わずかの波立ちもなく、静かなままあります。その穏やかな広がりが、自らです。

 グルは「内部」と「外部」の両方にいます。「外部」から、彼は心が内側に向くように後押しし、「内部」から、彼は自らに向かって心を引き寄せ、心を静める手助けをします。それがグル・クリパです。神とグルと自らの間に違いはありません。

信奉者:
 神智学協会では、彼らは彼らを導いてくれる師たちを探し出すために瞑想します。

マハルシ:
 は内にいます。瞑想は、が外側のみにいるという無知な考えを取り除くためのものです。もしがあなたが待ち望む見知らぬ人であるなら、は必ずや姿を消しもするはずです。そのような移ろいゆく存在がどのような点で必要ですか。しかし、あなたが自分は分離しているや自分は体であると思う限り、その限りは「外」のもまた必要であり、彼は体を持っているかのように現れるでしょう。自分自身と体との間違った同一視が止むとき、自らに他ならないと見出されるでしょう。

信奉者:
 グルは、手ほどきなどを通じて、私たちが自らを知るのを手助けしてくれるのでしょうか。

マハルシ:
 グルはあなたの手をとり、耳元でささやきますか。あなたは彼をあなた自身であるものだと想像しているかもしれません。あなたが自分は体を持っていると考えるために、あなたは、もまたあなたに具体的な何かをする体を持つと考えます。の働きは内に、霊的領域にあります。

信奉者:
 どうすればグルは見つかりますか。

マハルシ:
 神は、内在していて、その恩寵によって、愛する信奉者を憐れみ、信奉者の発達に応じてその姿を顕します。信奉者はが人であると思い、2つの肉体の間の関係を期待します。しかし、グルは、神または自らの化身であり、内から働き、その人が内なる自らを実現するまで、彼がその方法の誤りを悟るのを助け、彼を正しい道に導きます。

信奉者:
 では、信奉者は何をすべきですか。

マハルシ:
 彼はただの言葉に従い、次第に内に進みさえすればいいのです。は「内」と「外」の両方にいます。はあなたを内側に駆り立てるための状態を作り出し、同時に、あなたを中心(the Centre)に引き寄せるために「内部」を準備します。そうして、あなたが中心に据えられるために、は「外」から後押しし、「内」から牽引します。

 あなた自身の努力によって世界を征服できるとあなたは考えています。あなたが外面的に挫折し、内側に駆り立てられるとき、あなたは「あぁ!人よりも優れたがあるのだ!」と感じます。

 自我は、ライオンより力が劣る何によっても支配下に置くことができないとても力強い象のようです。ライオンとは、この例えにおいて、グルに他なりません。まさにそのまなざしは、象のごとき自我を震え上がらせ、殺します。

 あなたの栄光があなたが存在しなくなるところにあると、あなたはやがて知るようになるでしょう。その状態を得るために、あなたはあなた自身を委ねなければなりません。その時、はあなたが導きを受けるのにふさわしい状態にいることを見て取り、はあなたを導きます。

信奉者:
 手ほどきも他のどのような具体的な行為も与えないグルの沈黙が、どうしての言葉などよりも力強くなれるのですか。そのような沈黙は、聖典の学習よりもどのように優れているのですか。

マハルシ:
 沈黙は、最も強力な形の働きです。聖典がどれほど膨大で、断固たるものであっても、それらは効果を欠いています。グルは沈黙し、恩寵は全てに行き渡ります。この沈黙は、寄せ集められた全ての聖典よりも膨大で、より断固たるものです。

信奉者:
 しかし、信奉者は幸福を獲得できるのですか。

マハルシ:
 信奉者はに彼自身を委ねます。そして、それは彼によって保たれる個人性のわずかの痕跡もないということです。委ねが完全であるなら、一切の自意識は失われ、その時、苦しみも悲しみもあり得ません。

 永遠の存在(Being)とは、幸福に他なりません。それは天啓(思いがけない発見)として訪れます。

信奉者:
 どうすれば私は恩寵を獲得できますか。

マハルシ:
 恩寵は自らです。それもまた手に入れることはできません。あなたはただそれが存在することを知りさえすればいいのです。

 太陽はただ輝きだけです。それは暗闇を見ません。それでも、あなたは太陽が近づくや否や暗闇は消え失せると話します。そのようにまた、信奉者の無知は、暗闇という幻影のように、グルを見ることで消え去ります。あなたは太陽光に囲まれています。それでも、あなたが太陽を見たいのなら、その方向に向き、それを見なければいけません。そのようにまた、恩寵は今ここにありますが、あなたが行う適切なアプローチによって見出されます。

信奉者:
 恩寵は探求者の成熟を早められませんか。

マハルシ:
 その全てをに任せなさい。無条件でに委ねなさい。2つのことの内の1つが行われなければいけません-あなたが己の無力を悟り、あなたを助けてくれる高き力を必要とするために、あなた自身を委ねるか、もしくは、苦しみの原因を吟味し、そのの中へ入り、自らに溶け込むことです。どちらの道でも、あなたは苦しみから解放されるでしょう。神またはグルは、彼自身を委ねた信奉者を決して見捨てません。

信奉者:
 グルまたは神への平伏の意義とは何ですか。

マハルシ:
 平伏とは、自我が鎮まることを意味します。そして、それはそのに溶け込むということです。神またはグルは、表向きの跪拝(きはい)お辞儀、平伏によって欺かれません。彼は自我がそこにあるかないかを見ます。

信奉者:
 バガヴァーンはその恩寵のしるしとして、の葉っぱからいくらかプラサードを私に下さらないのでしょうか。

マハルシ:
 自我について思うことなく、食べなさい。その時、あなたが食べるものは、バガヴァーンのプラサードになります。

信奉者:
 学のある人は、グル・クリパを必要としていないという意味において、悟り(Enlightenment)により適しているのではないのですか。

マハルシ:
 学識者でさえ、学のない賢者の前でお辞儀しなければなりません。無学は無知であり、教養は博学な無知です。共に真の目的について無知です。賢者は異なる方向において無知です。にとって「他」がいないため、は無知です。

信奉者:
 贈り物がグルに捧げられるのは、の恩寵を獲得するためではありませんか。そのため、訪問者はバガヴァーンに贈り物を捧げます。

マハルシ:
 どうして彼らは贈り物を持ってくるのですか。私がそれを欲しがりますか。たとえ私が拒んでも、彼らは贈り物を私に押し付けます!何のために?魚を捕まえるために餌を与えるようではありませんか。釣り人はぜひとも魚に食べ物を与えたいと思っていますか。いいえ、彼はぜひとも魚を食べたいと思っています!

信奉者:
 モークシャを得る前に順々に手ほどきを与えるという神智学の考えは真実ですか。

マハルシ:
 モークシャをある人生で達成する人々は、その過去生で全ての手ほどきを経たに違いありません。

信奉者:
 必ずしもこの世界においてではありませんが、ジニャーニは死後に4種か5種の仕事を選ばなければならないと神智学は言います。

マハルシ:
 仕事に従事する人もいるかもしれませんが、全て(の人がそうするの)ではありません。

信奉者:
 あなたは目に見えないリシたちの僧会を意識していますか。

マハルシ:
 目に見えないなら、あなたはどうやって彼らを見れるのですか。

信奉者:
 意識の中で。

マハルシ:
 意識の中に、外側のものは何もありません。

信奉者:
 私は彼らを実現できますか。

マハルシ:
 あなたがあなた自身の現実を実現するなら、リシやのそれもあなたに明らかになるでしょう。ただ1人のしかおらず、それは自らです。

信奉者:
 輪廻転生は真実ですか。

マハルシ:
 無知がある限りのみ、輪廻転生は存在します。

 実際は、今も昔も、輪廻転生は全くありません。今後も、まるでないでしょう。これが真理です。

信奉者:
 ヨーギはその過去生を知ることができますか。

マハルシ:
 あなたは過去を知りたいと思っていますが、現在を知っていますか。現在を見出しなさい。そうすれば、残りはそれに倣うでしょう。私たちの現在の限られた知識でもってさえ、あなたは非常に苦しんでいます。どうしてあなたはあなた自身にさらなる知識を背負わせなければならないのですか。さらに苦しむためですか。

信奉者:
 バガヴァーンは、他者に自らを実現させるために超常的な力(神通力)を使いますか。それとも、そのためにはバガヴァーンの実現という単なる事実で十分ですか。

マハルシ:
 自らの実現の霊的な力は、全ての超常的な力の使用よりも遥かに力強いものです。賢者の中には自我がないため、にとって「他者」はいません。あなたに授けることができる最高の利益とは何ですか。それは幸福であり、幸福は安らぎから生まれます。安らぎは妨げがないところにだけ君臨でき、妨げは心に生じる思いによります。心自体が存在しないとき、完全な安らぎがあるでしょう。人が心を消し去っていないなら、彼は安らぎを得て、幸福でいることはできません。そして、彼自身が幸福でないなら、彼は「他者」に幸福を授けることはできません。しかしながら、心を持たない賢者にとって「他者」はいないため、自らの実現という単なる事実、それ自体が、「他者」を幸福にするのに十分です。

2015年9月13日日曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第6章 自らの実現

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p22-25

マハルシの福音

第1巻 第6章 自らの実現

信奉者:
 どうすれば私は自らの実現を達成することができますか。

マハルシ:
 実現は新たに得られなければならないものではありません。それはすでにそこにあります。必要である全ては、「私は実現していない」という思いを取り除くことです。

 静寂や安らぎが、実現です。自らがいないときは片時もありません。疑いや非‐実現の感覚がある限り、自分自身からそれらの思いを取り除こうという試みが行われなければなりません。それらは自ら自らでないものとの同一視のためです。自らでないものが消え去るとき、自らのみが残ります。場所を空けるためには、邪魔なものが取り除かれればそれで十分です。どこかから場所が持ち込まれるわけではありません。

信奉者:
 ヴァーサナー・クシャヤなしには実現は可能ではないため、ヴァーサナーが効果的に破壊される状態を私はどのように実現すればいいのでしょうか。

マハルシ
 今、その状態(State、境地)にあなたはいます!

信奉者:
 それは自らにつかまることにより、ヴァーサナーが生じるその時に破壊されなければならないということですか。

マハルシ:
 あなたがあるがままにいるなら、それらは自ずから破壊されるでしょう。

信奉者:
 どうすれば私は自らに達するのでしょうか。

マハルシ:
 自らに達することはできません。仮に自らが達されるなら、自らが今ここになく、いまだ得られていないということを意味するでしょう。新たに得られるものは、失われもするでしょう。そのため、それは永続的ではなくなるでしょう。永続的でないものは、求め励むに値しません。そのため、自らは達されないと私は言います。あなた自らです。あなたはすでにそれなのです。

 事の真相は、あなたの至福に満ちた状態にあなたが無自覚であるということです。無知が起こり、至福である純粋な自らを覆い隠します。

 試みは、間違った知識に過ぎない、この無知の覆いを取り除くためだけに向けられます。間違った知識とは、自らと体や心などとの誤った同一視です。この誤った同一視は去らなければならず、その後、自らのみが残ります。

 ですから、実現は全ての人にとってあります。志高き人々の間で実現に差はありません。自分が実現できるのかどうかという、まさにその疑い、そして、「私は実現していない」という概念が、それ自体、障害物です。それらの障害物からも自由になりなさい。

信奉者:
 サマーディは何の役に立ちますか。その時、思いは存続しますか。

マハルシ:
 サマーディだけが真理を明らかにできます。思いは現実を覆い隠し、そのため、サマーディ以外の状態で、それはそれとして実現されていません。

 サマーディでは、「私はいる(I AM)」という意識のみがあり、思いはありません。「私はいる」という体験は、静かにいることです。

信奉者:
 ここで私が得たサマーディや静寂の体験をどうすれば私は再び経験できますか。

マハルシ:
 あなたの現在の体験は、あなたがいるところの雰囲気の影響によるものです。この雰囲気の外で、あなたはそれを体験できますか。その体験は断続的です。それが永続的になるまで、修練が必要です。

信奉者:
 人は時に、その中心が普段の自分外側にあり、全てを包含しているように思える、ある種の意識の鮮明な閃きを経験します。哲学的概念に関わることなく、その稀な閃きを得ること保つこと拡大することを目指して努力するために、どのようにバガヴァーンは私に助言されるのでしょうか。そのような体験の中でのアバヤーサは、隠遁を必要としますか。

マハルシ:
 外側に!誰にとって内や外がありますか。それらは、主体と対象がある限りのみ、存在できます。再び、誰にとってその2つがありますか。吟味すれば、あなたはそれらが主体のみに溶け込むことを発見するでしょう。誰が主体なのか確かめなさい。この探求は、主体を超える純粋な意識にあなたを導きます。

 普段の自分とは心です。この心は制限を伴っています。しかし、純粋な意識は制限を超えてあり、上に概説された吟味によって達されます。

 得ること自らは常にそこにあります。あなたはただ自らの啓示を妨げる覆いを取り除きさえすればいいのです。

 保つこと-あなたがいったん自らを実現するなら、それはあなたの直接的な即座の体験になります。それは決して失われません。

 拡大すること自らが拡大することはできません。というのも、収縮や拡張なく、それは変わらずにいるからです。

 隠遁自らに住まうことが独居です。なぜなら、自らに相容れないものはありません。隠遁は、ある場所や状態から別のものへとなるに違いありません。自らと離れて、一方も他方も存在しません。全て自らであるため、隠遁は不可能で、思いもよらないことです。

 アバヤーサは、本来の安らぎへの妨げの防止でしかありません。あなたがアバヤーサをしてもしなくても、あなたはいつもあなたの自然の状態にいます・・・ 質問も疑いもなく、あるがままでいることが、あなたの自然な状態です。

信奉者:
 サマーディを実現すると同時に、人はシッディも獲得しますか。

マハルシ:
 シッディを見せるためには、それらを認識する他者がいければなりません。それは、それらを見せる者の中にジニャーナがないことを意味します。ですから、シッディは一考の価値もありません。ジニャーナのみが目指され、得られなければいけません。

信奉者:
 私の実現は他者を助けますか。

マハルシ:
 ええ、しかもそれは、あなたがおよそ他者になしうる最高の助けです。偉大な真理を発見した人々は、自らの静かな深みで、そのようにしました。しかし、実際、助けられるべき「他者」はいません。というのも、金細工師が、金で作られた様々な宝飾品の中の金の価値をはかる間、金のみ見るように、自らを)実現した存在自らのみを見るからです。あなたがあなた自身を体と同一視するとき、名と形がそこにあります。しかし、あなたが体の意識を超越するとき、「他者」もまた消え去ります。自らの)実現者は、世界を彼自身と異なっていると見なしません。

信奉者:
 聖者らが他者と交わるなら、より良いのではないのでしょうか。

マハルシ:
 交わるべき「他者」はいません。自らが唯一の現実です。

信奉者:
 私は苦しむ世界を助けようとすべきではないのですか。

マハルシ:
 あなたを創造した力が、世界もまた創造しました。それがあなたの面倒をみれるなら、それは同様に世界の面倒もまたみれます・・・ 神が世界を創造したのなら、その世話をするのはの仕事であり、あなたの(仕事)ではありません。

信奉者:
 愛国者でいることは我々の義務ではありませんか。

マハルシ:
 あなたの義務はいること(to be)であり、あれやこれやでいることではありません。「私はいる、が私である(I AM THAT I AM)は、全ての真理を要約しています。その方法は「静かにいる(be still)」に要約されます。

 では、静寂とはどういう意味ですか。それは「あなた自身を滅ぼす」という意味です。なぜなら、全ての名と形が問題の原因だからです。「私‐私」が自らです。「私はこれである」が自我です。「私」が「私」のみとして保たれるとき、それは自らです。それが脇道にそれ、「私はあれこれである、私はだれそれである」と言うとき、それは自我です。

信奉者:
 神とは、では、誰ですか。

マハルシ:
 自らが神です。「私はいる」が神です。神が自らと離れているなら、自らのない神でなければならず、馬鹿げています。自らを実現するために必要とされる全ては、静かにいることです。それより何が簡単になれますか。それゆえ、アートマ・ヴィドヤーは最も達成し易いのです。

2015年8月25日火曜日

メルセデス・デ・アコスタ(アメリカから来た詩人、劇作家、小説家)の思い出

◇HP : Realizationより (http://realization.org/page/doc0/doc0039.htm#fn2)

私のラマナ・マハルシとの出会い

メルセデス・デ・アコスタ
メルセデス・デ・アコスタは、1920年代および30年代のキューバ系アメリカ人の映画脚本家であり、グレタ・ガルボ、マリーネ・ディートリッヒ、イサドラ・ダンカン、多くの他の美しい有名人との恋愛関係で有名でした。
「私はどんな男性からどんな女性も引き離せるわ」と彼女は友人に話すのを好みました。(ウェブサイトMr. Showbizからの引用)
1938年、彼女はラマナ・マハルシに会うためにアルナーチャラへ旅し、三日間滞在した。彼女は後に自伝の中で、それは人生で最も意義深い三日間だったと記しました。
1962年、彼女はシュリー・ラマナに自伝を一部送りました。この文章はそこから抜粋されたものです。彼女は自伝に以下のように献辞を記しました。
私が今までに知る、ただひとり完全に無我なる、世俗に無執着な、純粋な存在
バガヴァーン・ラマナ・マハルシへ
これは彼女が1938年にアルナーチャラに滞在した時に起こったことの彼女の記述です。

 「A SEARCH IN SECRET INDIA」(ポール・ブラントンによる本)は、私に深い影響を与えました。その中で、私は初めてラマナ・マハルシ、偉大なインドの聖賢について知りました。あたかもそれは、この聖者から発された何かがその本から私に投げかけられたかのようでした。彼について読んだ後、昼も夜も、私は他のことについて考えられませんでした。私は、いわば、彼に取り憑かれました。他のことを話すことさえできませんでした。この聖者に会いに行かねばならないという考えから私の気を逸らすことのできるものは何もありませんでした。この時以来、それについて話しすぎることは止めましたが、私の人生の全ての意識は、インドへと向い、ハリウッドから遠ざかりました。私は必ずそこへ行くだろうと予感しました-この時、そう示唆するものは何も存在しませんでしたが。それでも、私はマハルシに会い、その出会いは人生で最高の体験になるだろうと予感しました。

 私はごくわずかのお金しか持ち合わせていませんでした。危険を冒してインドへ行くにはあまりにわずかでしたが、何かが私をそこへと向かわせました。私は汽船会社へ行き、10月はじめ頃にジェノバからボンベイへ航行するインド船、S.S.ヴィクトリアの一番安い客室の一つを予約しました。その間に、妹に会いに私はダブリンへ飛びました。

 私はセイロンへの航路を予約していました。そこから南インドに渡り、ラマナ・マハルシが住むティルヴァンナーマライへ直接行くつもりでした。しかし、船がボンベイに寄港していた時、ノリナ・マキャベリがメヘル・バーバーからの伝言を携え、私に会いに船上に来ました。伝言は、コンスエロ(メヘル・バーバーの信奉者であった旅仲間の女性)と私は船から降り、ボンベイから2時間ほどのアフマドナガルに彼に会いに行かねばならないという内容でした。私はそうしたくはありませんでした。インドでの私の本来の目的は、マハルシに会うことだったからであり、私は彼のもとへ行きたくて仕方なかったのです。

 (著者はカリフォルニアでメヘル・バーバーに会い、しばらくの間、彼に相当の敬意を示していました。しかしながら、彼女の彼への信頼はインドへ行く前に衰え、そして、一たびそこへ行くと、それはほぼ消えてしまいました。メヘル・バーバーの要望で-それは彼女が同意したわずかの要望の一つでしたが-、彼女は初めにインドを旅してまわり、マハルシへの訪問を遅らせました。)

 マドラスで私は車を借りました。ティルヴァンナーマライに到着したいと切望していたので、床に就くことなく、夜間に移動し、ほぼ11時間車を走らせた後、朝の7時ごろに到着しました。寺院(アルナーチャレーシュワラ寺院)の前の小さな広場で車から降りた時、私はとても疲れていました。運転手は私をこれ以上先に連れて行けないと説明しました。私はアルナーチャラの山へ向き直り、熱い日差しの中、ほこりに覆われた道沿いに、町から2マイルほどある賢者が住む住まいへ急ぎました。その2マイルを走りながら、私が人生で最高の体験に向かって走っていることを私自身の内に深く知っていました。

 感動で満たされ、ぼう然となり、私がはじめて講堂へ入った時、どうすればいいのかよく分かりませんでした。強い日差しの下からいくぶん暗い講堂の中へと来たので、最初、見づらいものでした。それでも、私はすぐにバガヴァーンに気づきました。彼はブッダの姿勢で隅の寝椅子に座っていました。同時に、あたかも目に見えない風が激しく私を押しているかのように、私は講堂の中の何らかの強い力によって圧倒されるのを感じました。一瞬、私はめまいがしました。それから、私は正気に戻りました。大変驚いたことに、「こんにちは、どうぞ入って」と私に呼びかけるアメリカ人の声を突然耳にしました。それは元々はカリフォルニアのロング・ビーチから来たガイ・ハーグという名のアメリカ人の声でした。後で、彼がフィリピン諸島のアメリカ海軍を円満除隊し、その後、次第にインドへ進み、ボンベイに到着した時、ヨーガの勉強を始めたと彼は私に話しました。その時、彼はシュリー・ラマナ・マハルシについて耳にし、大いに彼に惹きつけられ、ティルヴァンナーマライに行こうと決めました。私が彼に出会った時、彼はすでにマハルシと一年間ともにいて、賢者とともに講堂で昼も夜も途切れることなく座っていました。

 彼は壁を背にして座っていたところから立ち上がり、私のほうへ来ました。私の手を取り、壁を背にした彼のそばの場所に私を連れて戻りました。最初、彼は私に話しかけず、私が気持ちを落ち着けられるようにしました。私は講堂を見回すことができましたが、私の視線はバガヴァーンへ引かれました。彼は正面をまっすぐ見ながら、ブッダの姿勢で完全にまっすぐ座っていました。彼の眼は瞬きせず、また、いかようにも動きませんでした。その眼は光に満ち満ちているように思えたので、眼が灰色であるという印象を受けました。後に、眼は茶色であると知りましたが、彼の眼に関しては様々な意見があります。腰布を除き、彼の体は裸でした。それと杖がただただ彼の唯一の所有物であると、すぐ後で気づきました。彼の体は引き締まり、日に焼けているかのように見えましたが、彼が行う唯一の運動は、午後5時のいつもの20分間の山歩きであり、時々、彼はその足もとに平伏しに来たヨーギたちに挨拶しました。

 彼は厳格な菜食主義者でしたが、彼の前に置かれたものを食べるだけで、どのような類の食べ物を欲することも決してありませんでした。彼がそこに座っている時、彼は彫像のように見えましたが、それでいて、何か尋常ならざるものが彼から発されていました。何らかの目に見えないレベルで、彼から靈的衝撃を受け取っているという感覚を私は持ちましたが、彼の視線は私のほうへ向けられていませんでした。彼は何も見ていないようでしたが、それでも、彼が全世界を見ることができ、意識していると私は感じました。

 「バガヴァーンは、サマーディにいます」とガイ・ハーグは言いました。

 私は周りを見回しました。床にしゃがんで、ブッダの姿勢で座って、もしくは、顔を下にしてうつ伏せになって、多くのインド人が祈っていました-彼らのうちの幾人かは声に出してマントラを唱えていました。小猿たちが何匹か講堂に入り、バガヴァーンに近づきました。彼らは彼の寝椅子によじ登り、陽気にキャッキャと鳴き、静寂を破りました。彼は動物を愛し、アーシュラムでは、どんな種族でも彼によって尊重され、歓迎されました。彼らは人間と同等に扱われ、いつも名前で呼びかけられました。病気の動物はバガヴァーンのもとに連れてこられ、良くなるまで、彼は寝椅子の上か彼のそばの床の上で保護しました。多くの動物が彼の腕の中で亡くなりました。私がそこにいた時、彼には大変お気に入りの牝牛がいて、牝牛は講堂を出たり入ったりし、彼のそばで横になり、彼の手をなめました。彼は動物の善良さについて話しをすることを好みました。動物たちがだれも互いに戦わず、攻撃しないのは、驚くべきことでした。

 一種の内的世界に夢中になって、インド人たちのマントラとハエの絶え間ないブンブンいう音に耳を傾けながら、講堂で数時間座った後、ガイ・ハーグがマハルシのそばに行って座るよう私に勧めました。彼は言いました。「いつバガヴァーンがサマーディから出てくるのか決して分かりません。彼が出てくる時、きっと彼は喜んであなたを見るでしょう。その瞬間、彼のそばに座っているほうが、あなたのためになるでしょう。」

 私はバガヴァーンの近くへ進み、彼の足もとに座り、彼に顔を向けました。ガイの言うとおりでした。この後間もなく、バガヴァーンは眼を開きました。彼は頭を動かし、私を直接見下ろし、彼の眼は私の眼の中を覗きました。この瞬間を言い表すことは不可能でしょう。私はそれを試みようとはしません。私が言えることは、この瞬間、あたかも突如、私の意識状態が相当高い程度まで引き上げられたかのように、私の内的存在が新たなレベルに持ち上げられるのを感じたということだけです。おそらく、このほんの一瞬、私はもはや人間の自分ではなく、自らでした。その後、バガヴァーンは私に微笑みかけました。私が以前に微笑みとは何なのか知らなかったように私には思えました。私は、「あなたに会いにはるばるやってきました」と言いました。

 沈黙がありました。私が彼に尋ねたいと思った多くの質問を記した紙きれを愚かにも私は持ってきていました。私はポケットの中をごそごそ探しましたが、彼の面前にいるだけで質問はすでに答えられていました。質問も答えの必要もありませんでした。それでもなお、私の鈍い知性は質問を言い表しました。

 「教えてください。誰に従えばいいのでしょうか、何に従えばいいのでしょうか。宗教の中に、哲学の中に、教えの中に探すことによって、私はこれを見出そうと何年もの間試みています」。再び、沈黙がありました。数分後、私にとってそれは長い時間に思えましたが、彼は話しました。

 「あなたは本当のことを話してはいません。あなたはただ言葉を使っているだけ-ただ話しているだけです。あなたは誰に従うべきか申し分なく十分に知っています。どうしてそれを私に確かめてもらう必要がありますか。」

 「私が私の内なる自分に従うべきだということでしょうか」と私は尋ねました。

 「私はあなたの内なる自分について何も知りません。あなたは自らに従うべきです。従うべき他の何も、誰も存在しません。」

 再び、私は尋ねました。「宗教、教師、グルについてはどうでしょうか。」
 
 「それらが自らの探求に役立つならば。しかし、それらは役立ちますか。あなた自身の外側を見るように教え、あなたの外側の天国や報いを約束する宗教が、それがあなたを手助けできますか。靈的ハートの中へ深く潜ることによってのみ、自らを見出すことができます」。彼は右手を右胸に置き、続けました。「ここにハートがあります。活動的な、靈的ハートです。それはフリダヤと呼ばれ、胸の右側に位置し、靈的な道の熟達者の内なる目には、はっきりと見えます。瞑想を通じ、あなたはこのハートの洞窟の中の自らを見出せるようになります。」

 とても奇妙なことですが、私が幼いころに、イグナシオ・スロアガが私に、「偉大な人々はみんなハートで動くんだ」と言いました。彼は手を私の身体的なハート(心臓)の上に置き、続けました。「ほら、ここにハートがあるよ。いつも忘れずに、それで考え、それで感じ、そして何よりも、それで判断しなさい。」

 しかし、覚者はその助言をさらに高い水準に引き上げました。彼は、「真のハートの中の自らを見出しなさい」と言いました。

 両方ともが、私の人生のちょうどその瞬間に、私に道を示しました。人々はバガヴァーンに、「私は神を見つけたいのです」と言ったものでした。彼の答えは、「まずは自らを見つけなさい。そうすれば、あなたは神について心配する必要はなくなるでしょう」でした。そして、かつて、ある人が彼に、「私はカトリック教徒か仏教徒のどちらになるべきか分かりません」と言いました。

 バガヴァーンは、「今、あなたは何ですか」と彼に尋ねました。

 彼は、「カトリック教徒です」と答えました。

 その後、彼は、「家に帰り、良いカトリック教徒になりなさい。そうすれば、あなたが仏教徒になるべきかどうか分かるでしょう」と言いました。

 バガヴァーンは、真の自らは時間を超越していると私に指摘しました。「しかし、」と彼は言いました。「無知にも関わらず、人は誰も死の事実を真剣に受け取りません。彼は彼の周りに死を見るかもしれませんが、彼は依然と自分は死なないと信じています。彼は信じています、というより、何か奇妙な方法で死は自分にとって存在しないと感じています。体が脅かされた時にだけ、彼は死の恐怖の餌食に陥ります。全ての人は自分自身が永遠であると信じています。そして、これは実際、真実です。この真理は、体が自らであるという人の無知な信念にも関わらず、現れ出ます。」
 
 他の人々のためにどのように祈ればいいのか私は彼に尋ねました。彼は、「あなたが自らの内に留まっているなら、他の人々は存在しません。あなたと私は同じものです。私があなたのために祈る時、私は私自身のために祈り、私が私自身のために祈る時、私はあなたのために祈ります。真の祈りとは、自らの内に留まることです。これがタット・トヴァム・アシ、それが汝である、の真意です。自らの中に分離はあり得ません。自らの内に留まること以外のあなた自身や他の人のための祈りは必要はありません」と答えました。

 「バガヴァーン、あなたはアートマ・ヴィチャーラ、私自身に私は誰かという質問を尋ねることによって自らの探求に着手すべきであると言います。あなたは誰か尋ねてもよろしいでしょうか」と私は言いました。「あなたが自らを知るなら、『私』、『あなた』、『彼』、『彼女』は消え去ります。彼らは純粋な意識に一緒に溶け込みます」とバガヴァーンは答えました。

 ある時、寺院からやって来た、いかにも人相の悪いと私が思った僧侶たちに気づき、バガヴァーンに彼らについての意見を述べました。彼は、「悪いとはどういう意味ですか。私にはあなたが良いや悪いと呼ぶもの違いが分かりません。私にとっては、それらは共に同じもの-コインの表と裏です」と言いました。私はうかつでした。バガヴァーンは、もちろん、二元性を超えていました。彼は愛憎を超え、善悪を超え、一切の対になる両極を超えていました。

 バガヴァーンとのこの体験について記すことは、彼が言った全てのこと、もしくは、彼の沈黙が暗示する全てのことを再現し、記録することは、無限のものを卵立てに入れようと試みるようなものです。

 小さな一つの章では、彼を実物通りに表わすことも、彼の悟りの印象を伝えることもまるでできませんし、私が彼の最上の知を説明しようと試みるほど十分に靈的に進歩している-仮に進歩があるとすればですが-とは考えていません。彼は私に深い影響を与え、そして今も与えています。彼が私の人生を変えたと言うのは僭越なことだと私は感じます。私の人生は、おそらく、それほどに重要ではありませんでした。しかし、私が彼の面前に、ただ「在る」だけで生涯にわたる十分な靈的滋養となる面前にいた後、私は間違いなく人生を違った風に見ました。私がインドから戻った時、見分けのつかない人々は私の中にほとんど変化を認めなかったかもしれません。しかし、私の意識全体には、変化が、変容が存在しました。そうでないことがありえますか。私は無我の、世俗に無執着の、完全に純粋な存在の空気の中にいたのです。

 私は三日三晩バガヴァーンとともに講堂で座りました。時々、彼は私に話しかけました。他の時は彼は沈黙していて、私は彼の沈黙を邪魔しませんでした。しばしば、彼はサマーディにいました。私はそこに彼ととも居続けたいと思いましたが、最後に彼は私にアメリカに帰るべきだと言いました。彼は、「『戦争』と呼ばれることになるものが起こりますが、実のところ、それは世界の大改革になります。全ての国と全ての人がその影響を受けます。あなたはアメリカに戻らねばなりません。今のところ、あなたの運命はインドにありません」と言いました。アーシュラムを発つ前、バガヴァーンは彼がヨーガ・ヴァーシシュタから選んだ数詩節を私に授けました。それには清浄な生活の道のための精髄が含まれていると彼は言いました。

 「一切の欲望が放棄される時に輝く、完成の境地に堅固にあり、そして、命あるうちに解放の境地に安らぎ、世界で陽気に振る舞え、おお、ラーガヴァ!」

 「内面的には一切の欲望を免れ、平静で、無執着であるが、外面的には四方八方に活動的で、世界で陽気に振る舞え、おお、ラーガヴァ!」

 「自我性を免れ、眠りにいるように心を無執着に保ち、空ごとく純粋で、常にけがれなく、世界で陽気に振る舞え、おお、ラーガヴァ!」

 「柔和に気高く身を処し、外面的には慣習に従い、しかし、内面的には一切を放棄し、世界で陽気に振る舞え、おお、ラーガヴァ!」

 「心の底では全く無執着であるが、いかにも愛着を持つかのごとく振る舞い、内面的は冷静で、外面的には熱意に満ちて、世界で陽気に振る舞え、おお、ラーガヴァ!」

 私はバガヴァーンに悲しげに別れを告げました。私が去ろうとする時、彼は「あなたはここに再び戻ってきます」と言いました。どうなのでしょうか。彼の身体的存在は去ってしまっているため、私は戻ることになるのでしょうか。それでも、あたかも私を引き戻すかのようなアルナーチャラの引力をしばしば私は感じます。彼がもはやその一部と化していた、彼の体が埋葬されている、あの聖なる山の引力を私は感じます。

 アーシュラムを去る前に、私自身で質問する機会がなかったいくつかの質問をガイ・ハーグがバガヴァーンに尋ねるために書き留めました。私は非常に多くの聖者や覚者が肉体的に病んでおり、苦しんでいたという事実に悩まされていました。私は、「彼らは完全な体を持つべきではないですか。どうして彼らは自分自身を治療しないのですか」と尋ねました。ヨーロッパで、私はガイから手紙を受け取り、彼は私の質問をバガヴァーンと議論したと記していました。彼は以下のように記していました。「靈的に完全は人は必ずしも完全な体を持つ必要がないとあなたに伝えるようにバガヴァーンは私に話しました。その理由は、彼がそれを説明するには、とても単純なものです。

 「自我と体と心は同じものです。バガヴァーンのように靈的に完全な人は、その三つのものを超えています。したがって、彼は癒すべき体を持たず、体を癒すための心や自我も持ちません。彼はその一切を超えています。なぜなら、それは幻だからです。彼は現実の中に生きています。クリスチャン・サイエンス教徒は心をつかみ、体を癒すことができます-というのも、それらは同じものだからです。アメリカインディアンもまた、この方法で癒します。それは信仰療法です。

 「しかし、靈的に完全な人の体が病気であるなら、それは体がそのカルマを使い果たしつつあるからです。バガヴァーンは実例を挙げてカルマを説明し、それは扇風機のようであり、自然の経過をたどらねばならず、電源が切られた後でさえゆっくりとしか止まらないと言いました。心が幻の中へ生まれ、それに見合った体と世界、つまり、それが(そのカルマによって)受けるに値する世界を築くと彼は言います。バガヴァーンは体と心が幻であると知っているため、どのような肉体的疾患や不快も経験するばずがありません。我々は彼に痛みや、体重の低下などを経験させます。それは我々の心の中にあり、彼の心の中にはありません。彼は実際は体を持ちません。あなたと私はこれを事実として実感できませんが。」

 別の手紙の中で、ガイは私の質問に答え、それは他の質問へとつながりました。私の質問とバガヴァーンの答えを彼は書き留めました。

質問:
  輪廻転生は事実ですか。
バガヴァーン:
 あなたは今、体を与えられているのではないですか。では、再びそうなります。しかし、体は幻であるがゆえに、その幻は繰り返し現れ、あなたが真の自らを見つけるまで、繰り返し現れ続けます。

質問:
 死とは何ですか、誕生とは何ですか。
バガヴァーン:
 体だけが死と誕生を持ちます。そして、それ(体)は幻です。現実の中には、誕生も死も存在しません。

質問:
 死と誕生の間には、どれほど時間の経過があるのでしょうか。
バガヴァーン:
 人は一年、もしくは三年、もしくは数千年後に生まれ変わるかもしれません。誰にも分かりません。ともあれ、時間とは何ですか。時間は存在しません。

質問:
 どうして私たちには過去生の記憶がないのですか。
バガヴァーン:
 記憶は心の一つの機能、幻の一部です。どうしてあなたは同じく幻である他の人生を思い出したいのですか。あなたが自らの内に留まるなら、過去も未来もなく、現在さえ存在しません。なぜなら、自らは時間-無時間の範囲外にあるからです。

質問:
 世界、心、自我、体は、全く同じものですか。
バガヴァーン:
 ええ。それらは全く同一のものです。心と自我は、一つのものですが、これを説明する言葉がありません。世界は心がなければ存在できず、心は我々が自我と呼ぶものがなければ存在できず、自我は体がなければ存在できません。

質問:
 では、私たちがこの体を去る時、つまり、自我が体を去る時、それ(自我)は他の体をすぐさまつかむのですか。
バガヴァーン:
 ええ、そうです。必ずつかみます。それは体がなければ存在できません。

質問:
 では、どんな種類の体をそれはつかむのですか。
バガヴァーン:
 物質的な体か、微細な心の体のどちらか。

質問:
 あなたは現在の物質的な体を粗大な体と呼びますか。
バガヴァーン:
 それを区別するためだけ、会話の中でそれを見分けるために。それは実際、微細な心の体でもあります。

質問:
 何が原因で我々は生まれ変わるのですか。
バガヴァーン:
 欲望。あなたの満たされていない欲望が、あなたを連れ戻します。そして、それぞれの場合、それぞれの体において、あなたの欲望が満たされる時、あなたは新しい体を作り出します。一者(一なるもの)に吸収され、そうして転生を終わらせるためには、あなたは欲望を克服しなければなりません。

質問:
 転生で性別が変わることはありますか。
バガヴァーン:
 ええ、もちろんです。私たちは何度もずっと両方の性別でいました。

質問:
 罪を犯すことは可能ですか。
バガヴァーン:
 幻を作り出す体を持つことが、唯一の罪です。体が私たちの唯一の地獄です。しかし、私たちが道徳律を守ることは正しいのです。罪についての議論は、あまりに難しいので、数行では言い表せません。

質問:
 自らを実現した人は、「私」の感覚を失うのですか。
バガヴァーン:
 もちろんです。

質問:
 では、あなたにとって、あなた自身と私自身の間に区別はありませんか。あそこにいるあの人、私の召使いなどはすべて同じものですか。
バガヴァーン:
 全ては同じものです。その猿たちも含めて。

質問:
 しかし、猿は人間ではありません。猿は違うのではありませんか。
バガヴァーン:
 猿は人間と全く同じものです。一なる意識の中で、全ての生物は同じものです。

質問:
 私たちが自らに溶け込む時、私たちは個人性を失うのでしょうか。
バガヴァーン:
 自らの中に個人性は存在しません。自らは、一なる至高のものです。

質問:
 では、個人性と自己同一性は失われるのですか。
バガヴァーン:
 深い眠りの中で、あなたはそれらを保持できないのではありませんか。

 質問:
 しかし、私たちはそれらをある誕生から別の誕生へと保持するのではありませんか。
バガヴァーン:
 ええ、そうです。「私」という思い(自我)は繰り返し再び生じ、ただそれぞれの時に、あなたは異なる体と体の周りの異なる環境をそれと同一視します。古い体を支配していたのとまさしく同様に、過去の行為(カルマ)が新たな体を支配します。あなたにその特定の体を与え、それを特定の家族、人種、性別、環境などの中に置いたのは、カルマです。

 バガヴァーンは言い足しました。「これらの質問は良いのですが、デ・アコスタ(彼はいつも私をデ・アコスタと呼んでいました)にこれらのことにあまりに頭を使いすぎてはいけないと伝えなさい。靈的ハートの洞窟の中の自らに心を静かに安らわせましょう。じきに、それは自然となり、質問の必要はなくなります。それが不活発であるということだと想像してはいけません。沈黙とは、唯一、真の活動なのです」。その後、ガイは、「バガヴァーンは、彼があなたに祝福を送ったとあなたに伝えるように言いました」と言い足しました。

 この伝言は大いに私を慰めました。

 ヨーロッパへの帰り道の途中、私の船はポートサイドに停泊しました。私はそこで下船し、砂漠を横切り、カイロへ車で移動し、そこで三日間滞在し、その後、船がアレキサンドリアで埠頭につけられていた時、再び乗り込みました。

 カイロで、私は古く有名なシェパード・ホテルに滞在しました。私はツタンカーメンの収蔵品を見ながら博物館の中で一日を過ごし、2日目はラクダにまたがり、スフィンクスと大ピラミッドを見に行きました。私がピラミッドに到着した時、ほとんど日は沈んでいました。私のガイドと膝をついたラクダに寄りかかって寝ている一人、二人のアラブ人をのぞいて、周りには誰もいませんでした。私はピラミッドの頂上に登ろうと決めました。それは空に向かってだんだんと細くなりながら、私の上にそびえ立ち、恐ろしく高く見えていましたが、登り始めるまで、それがどれほど高いのか分かっていませんでした。私は元気よく出発しましたが、ある程度距離を行くと疲れてきて、私のペースは落ちました。ピラミッドの踏み段は幅が狭く、浸食されていましたが、私は頂上にたどり着くことを決意していました。疲労困憊していましたが、私はついにやりました。太陽はすでに沈んでいました。私は振り返り、ピラミッドの険しく、畏怖の念を起させる斜面を見下ろしました。突如、私は非常に恐ろしいめまいに圧倒されました。頭がクラクラし、死へと陥りつつあると感じました。私は狭い踏み段にしゃがみ込み、ピラミッドの頂上にとても強くしがみついたので、私の爪は石にあたって割れ、指から出血しました。とても再び下を見る気にはなれませんでした。苦痛をもたらす恐怖が私を捕えました。私は冷たい汗が顔と首と背中一面に吹き出しているのを感じました。私はヒステリックになりました。どうすることもできませんでした。私は手を放せば落ちるだろうことを知っていましたが、長くはつかまっていられないことも知っていました。私は目をつむりました。私はマハルシが言ったこと-聖なるハートへ深く沈み込むことをを思い出しました。私の内のあらゆる能力、全ての力を奮い起こし、私はハートに集中しました。心の眼に、強い光のごとく、突然、私はそれを見ました。中心に、私に微笑みかけるマハルシの顔を見ました。即座に、私は落ち着きました。私は振り向き、下を見下ろしました。はるか下に、人が私に向かって手を振っているのを見ました。私は片手をゆるめ、頭上に掲げ、手を振り返しました。その人は誰か他の人を呼び始めました。別の人が彼に駆け寄ってきました。迅速に、彼らは登り始めました。彼らは巧みに、素早く登りましたが、私にとっては何時間にも思えました。おそらく、彼らが私にたどり着くまで35分ほどかかったでしょう。一人は縄を持っていました。彼はそれを私の腰回りに結び、やさしく私の顔を撫でました。彼は私には分からない言葉を何かつぶやきましたが、それが私を励ます親切な言葉であることは分かっていました。彼らに挟まれ、あたかも山を登っているかのように各人が縄を握りながら、私たちは降りはじめました。ついに、私たちは安全に下にたどり着きました。このしばらく後、ある覚者から、大ピラミッドを登ることは古代エジプトでは、偉大な宗教上の秘法の手ほどきを受けるために生徒が通らねばならない「恐怖の試練」の一つとみなされていると聞かされました。大志を抱く者は、ピラミッドのまさにその頂上に登ることを求められ、その頂上にたどり着くと、彼らは恐怖を克服することができ、この特別の試練に勝利しました。

 バガヴァーン・ラマナ・マハルシは、1950年4月14日に亡くなりました。彼は、「私は去って行くのでしょうか。一体、どこに私が行けますか。私はここにいます」と言いました。「ここ」という言葉によって、彼はどのような制限も暗示していません。むしろ彼が意図したことは、自らは「在る」ということです。不変かつ普遍的であるそれの中には、行くことも、来ることも、変化することも存在しません。私が彼の死を精神的打撃と思ったのはうかつなことでした。一体、どうして私が彼を失うことができますか。どうして人が誰かを失えますか。どうして人が永遠であるものを失えますか。最初のショックの中だけで、死という幻の中に捕えられて、人は身体的存在の死を嘆き悲しみます。それでも、インドで数百万の人々がマハルシの死を悼みました。ニューヨークタイムズの中の彼の死についての長い記事は、「ここインドでは、何千ものいわゆる聖者が無限者(神)との親密な関係を主張するが、シュリー・ラマナ・マハルシについて最も驚嘆すべきことは、彼が驚嘆すべきことを何も自分のものだと決して主張しなかったにも関わらず、みなの中で最も愛され、尊敬される者になったことであると言われている」と締めくくられています。

メルセデス・デ・アコスタを思い出して



 メルセデスの遺産(動画8:11から)
 メルセデスを研究した後、彼女について書かれた多くのものが、彼女と彼女の一生の仕事を公平に評価していないことが、全く明らかになりました。
 彼女が交際した女性たちは、メルセデスよりも、自分たちの名声をより気にかけたため、彼女の側の言い分が聞き入れられることはめったにありませんでした。
 メルセデスは聡明な芸術家であり、彼女がお金持ちの家の出であるために、彼女のたいへんな努力はしばしば見過ごされました。
 メルセデスは同時代の勇敢なレズビアンであり、新たな考え、芸術、創造性の促進を終始手助けしようと試みました。
 私たちの世代および未来の世代にとって、メルセデス・デ・アコスタを思い起こすことは、重要なことです。なぜなら、他者の承認を得るために自分自身を変えないことの重要性を彼女がまさに体現したからです。
 真実を話し、自分のセクシュアリティを隠さないことで、メルセデスは友人や恋人を失ったかもしれません。しかし、彼女は自らの人生を正直に生き、自分の夢を追い求めました。アコスタの人生の物語は、興味深いと同時に、洞察に満ち、歴史にその名が刻まれる権利を得ました。
「私が全く征服されてしまうことも 私の本当の秘密が理解されることも決してないでしょう。 情熱的に乱暴に、私の体は抱かれるかもしれません。けれども、私の霊は常に処女であり、抱かれることなく永遠にさすらい続けるでしょう!」

2015年8月13日木曜日

24年にわたる信奉者、M.G.シャンムカム の思い出

◇「山の道(Mountain Path)」、2010年10月 p31~35、FROM THE ARCHIVES

いかにしてシュリー・バガヴァーンはその聖なる御前に私を引き寄せたのか

M.G.シャンムカム
以下の文章は、記録保管所で発見されました。何かの不可解な理由から、それはこの雑誌に一度も掲載されていませんでした。
  彼のマハー・ニルヴァーナの日まで、1926年から24年間にわたり、シュリー・バガヴァーンと交際するという幸運に恵まれていたのにも関わらず、以前にこの文章を記さなかったことを、私は「The Mountain Path」の読者にお詫び申し上げねばなりません。その理由とは、誰にも知られることなくアートマ・ヴィチャーラを修練することが常により望ましいとかつてシュリー・バガヴァーンが私に語ったからです。

 故シュリー・デーヴァラージャ・ムダリアールとシュリー・T・P・ラーマチャンドラ・アイヤルとシュリー・バガヴァーンの他の信奉者たちは、後世の人々がそれを失うといけないからと、シュリー・バガヴァーンとの私の思い出と体験を記すように私に求めました。この頃、シュリー・バガヴァーンご自身が私の夢に現れ、この文章を書くように、また、タミル語の本、「Sri Bhagavan’s Life and His Sayings」を改訂するように私に命じました。その本は、彼の限りない恩寵を通じて私によって記され、早くも1930年に出版されました。さらにまた、その本が手に入れやすくなければならないと彼は私に言いました。

  いかにしてシュリー・バガヴァーンがその聖なる御前に私を引き寄せたのかを示すためには、私の初期の人生の手短な描写が必要です。

 私はマヤバラムに生まれ、14の歳から宗教的な気質を持っていました。当時、私はプージャーを行い、マントラを復唱し、ウパニシャッドとバガヴァッド・ギーターはもちろん、アドヴァイタに関するほとんど全ての宗教書を読んでいました。幼少期からの私の熱烈な願いとは、アドヴァイティンになることであり、今世でジーヴァンムクタのダルシャンを得るほと十分に恵まれているようにと心から願い、私は涙を流しながらスワーミ・ヴィヴェーカーナンダの写真の前で座ったものでした。

 私の最初のグルは、ティルチェンゴードゥのムルガッパ・デーシカルという名の人で、1922年に私は眉間の瞑想の手ほどきを受けました。いつものプージャーに加え、私はそれを日に三度、それぞれ一時間修練しました。これをいくらか修練した後、一種の脳の疲労と心に不快な状態が現れました。この時、ヒマラヤで12年間苦行を行ったスワヤムプラカーシャ・ヨーギニ・アンマルという名の人が父の招待で家にやってきました。私の父、故K.ゴーパラ・ピッライは、警部補であり、非常に敬虔でした。父とヨーギニは宗教的な議論をいくらか行い、それに私は加わりたいと思いましたが、父は私が若すぎるという理由で参加することを許しませんでした。私は苛立ち、大変に気落ちしました。ヨーギニが一人でいる時、私は彼女に私の精神生活と体験を語り、彼女の導きを懇願しました。彼女は大いに私を気に入り、眉間の瞑想は狂気(精神異常)に至ることもあるかもしれない。瞑想はハートで修練されねばならないと言いました。彼女は私にシュリー・ヴェンカタチャラパティのルーパ・ディヤーナの修練を手ほどきして下さいました。さらにまた、彼女は親切にも私の精神的探求のすべてにおいて父が私を手助けするように頼んで下さいました。

 三人目のグルは、マハーンミヤマチ・スワーミアールという名の人であり、ティルチェンゴードゥの山の斜面の洞窟の一つに住んでいました。私は彼からシュリー・バガヴァーンについて知りました。父と私は週に一度、スワーミアールを訪れたものでした。ある日、私が彼のアーシュラムへ行った時、あいにく3週間、彼が不在であると分かりました。彼が戻った後、このところずっと彼がどこに行っていたのか尋ねました。彼はティルヴァンナーマライに行き、シュリー・ラマナ・マハルシという名の偉大なジーヴァンムクタのダルシャンを得るという大変な幸運に恵まれ、(マハルシが)2、3語彼に話しかけたと言いました。そのような偉大な人物のダルシャンは、これ以後、生を受けない資格を人に与える、と。私は驚愕しました。その時以来、ティルヴァンナーマライへ行きたいという望みは頭から離れなくなりました。当時、私はセーラムの市立大学で財政法の授業を学んでいました。4か月が過ぎ去りました。大変驚いたことに、1926年に父が警部補としてティルチェンゴードゥからティルヴァンナーマライに転勤になりました。どうしていいか分からずに、私は困惑していました。ティルヴァンナーマライへ行きたいという私の望みは大変に強かったため、父のそばに行き、私が数学が苦手であるという口実で、勉強を中断して、シュリー・バガヴァーンのダルシャンを得るために彼とともにティルヴァンナーマライへ行くことを許してくれるように頼み、来年、チダンバラムのシュリー・ミーナークシ大学に入り、歴史を選択科目にとると話しました。私は拒絶を予期していました。なぜなら、どんな父親も息子が一年間勉強を無駄にすることを許さないでしょうから。しかし、信じられないことに、シュリー・バガヴァーンの恩寵がそこにはありました。父は快く私の願いをかなえ、ティルヴァンナーマライへ彼に同行することを許しました。

 父と家族の他のメンバーとともに、私はティルチェンゴードゥを離れ、ティルヴァンナーマライへ向いました。カートパーディで、我々は広軌からメーターゲージへ乗り換えなければなりませんでした。列車に乗ってすぐ後、私は半ば眠り、半ば目覚めているように感じました。その状態で、私は次のようなヴィジョンを得ました。「私はティルヴァンナーマライへ旅をし、道を尋ね、小屋がある場所にやってきた。小屋の内部で、私は背の高い男性が長椅子に横たわっているのを目にした。彼の前にはクムムディ(水差し)があった。私が小屋に入るとすぐに、クムムディの中に燃え立つようなジョーティ(光)があった」。私は目覚めました。

 ティルヴァンナーマライに到着してすぐ後、誰にも、愛する父にさえ告げずに、私はラマナーシュラマムへの道を尋ね、多少苦労してそこに到着しました。アーシュラムに入った時、驚愕したことに、私は同じ小屋、同じ背の高い男性を目にしました-彼が長椅子に座っていたことを除いてですが。そして、ヴィジョンの中で私が目にしたように彼の前にはクムムディがありました。

 私は彼の前で平伏し、彼は即座に私に尋ねました-「いつ来ましたか」、そして、「右手はどんな具合ですか」と。信じられない!シュリー・バガヴァーンが私の折れた右手について知る機会は全くありませんでした。さらにまた、シュリー・バガヴァーンによって私になされた最初の質問自体が、彼が私がやってくるのを知っていたことを示しています。彼はうなずき、身ぶりで私に座るように求めました。彼との私の最初の交際は、彼の聖なる御前における一時間の滞在の間に起こり、それは私に完全な平安、心の安らぎ、神経の落ち着きを与え、体は一本の藁のように軽く感じました。
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 その日以来、1926年から1950年まで私と彼との交際は途切れることなく、彼は私の精神的進歩に大いに良い結果をもたらし、私のこの世界の見かたを完全に変え、私は純粋なアドヴァイティンになりました。彼の恩寵によって、私はアートマ・ヴィチャーラという彼の方法を修練することができました。彼の深遠な沈黙によって、様々な聖典からの引用によって、その場ですぐに彼は私の疑問をすべて晴らしました。

 私の家族全員は、シュリー・バガヴァーンを信奉していました。彼は外見上は全く普通の人のように我々の中で行動しましたが、我々は多くの体験と奇跡を経験しました。シュリー・バガヴァーンの偉大さと全能性と彼の最上の純粋な意識(サハジャ・サマーディの境地)を示すためには、2つの例だけ挙げれば十分です。それはおよそ1935年か1936年であったと思います。早朝、私はシュリー・バガヴァーンに質問しました。「ニルヴィカルパ・サマーディの本質と境地とは何ですか」。彼は黙っていました。なぜ私がこの質問をしたのか、私は不思議に思いました。夕方、私は自らの探求という彼の方法を彼の目の前で非常に集中して修練しました。「私は誰か」という絶え間ない探求によって、私の心にはゆっくりと思いがなくなり、ゆっくりと心は「私」という思いのみに自覚的に瞑想し始めました。没入が始まり、心は内観的になり、「私」という思いに瞑想しながら、さらに深くに進みました。ハートは穏やかな振動によって感じられ、呼吸はとても浅くなりました。心は私を外側に連れ出そうと試みましたが、その瞬間、突然、何らかの力が私を完全に内側に引っ張り、その結果、自我は崩れ落ちました。その瞬間、体と世界の意識は完全に消え去り、それらに代わり、言葉で表現しえない形容しがたい至福と結びついた、深い「私」「私」という意識を伴う広大なものが存在しました。シュリー・バガヴァーンの咳の音によって、私はその最上の体験から目覚めました。膝をマッサージしているシュリー・バガヴァーンを除いて、講堂には誰もいませんでした。バガヴァーンは、「さあ、食事にしましょう」と言いました。私は最上の心の安らぎを感じました。食後、我々は講堂に戻り、バガヴァーンは、「あなたの体験はどうですか」と尋ねました。私は私の体験のすべてを物語りました。それから、シュリー・バガヴァーンは、それはアートマ・ヴィチャーラの絶え間ない修練によって得られる境地であり、それがサハジャになるまで継続的に修練し続けねばならないと言いました。彼はこの最上の境地について様々な聖典から引用しました。

 別の例は、脳充血のために弱り、ゆっくりと死へ向かっていた私の妹の例でした。彼女は今や意識がなくなりました。医者たちは最善を尽くしましたが、回復の見込みはないと明言し、親族全員に知らせるように父に頼みました。シュリー・バガヴァーンを非常に信奉していた母は、泣きながら叫びました。「おお、バガヴァーン。私たちはあなたの聖なる御前を離れたばかりです。なんという災いでしょうか!娘をお救いください!」 即座に、シュリー・バガヴァーンがカマンダラム(水差し)を携え、妹のそばを通り過ぎるのを母は目にしました。すぐに、妹は眠りからのように目覚め、水を求めました。

 少しの聖典の知識も持たず、彼に手ほどきをするグルを持ちませんでしたが、シュリー・バガヴァーンは16歳の時に死の恐怖を体験することによって自らの実現を得ました。彼は天性のジニャーニであり、アティアーシュラミとして知られる最高の部類のジニャーニに属していました。そのようなジニャーニは、何らかの忘れられた真理を説くために世界にまれに現れます。シュラヴァナ、マナナ、ニディディヤーサナという伝統的な方法に反し、バガヴァーンはアートマ・ヴィチャーラという直接的な方法を開示しました。それは何らの制約も要求せず、カーストや信条に関わらず、皆が修練できます。

 シュリー・バガヴァーンは具現化した魂(人)であるにもかかわらず、54年間、純粋な意識として我々とともに行動しました。そして、彼はいまだ我々の間で生きていて、彼の存在は真摯なすべての信奉者に強く感じられます。これは実際の体験です。ティルムーラルが、ジニャーニの影響は彼のサマーディで千年間継続すると言うように、彼は遍在し、全知ですが、現ラマナーシュラマムはシュリー・バガヴァーンの真の住まいであり、そこで彼はいつも純粋な絶対的意識としていつも力強く存在し、恩寵を全ての信奉者と訪問者に注いでいます。

 信奉者と訪問者は、バガヴァーンの住まい、ティルヴァンナーマライの現シュリー・ラマナーシュラマムを訪れることによって、この絶好の機会をどうぞ役立て、彼の豊かな恩寵を受け取って下さい。一たび訪れるならば、必ずや誰もが確信するでしょう。

2015年6月3日水曜日

「シュリー・アルナーチャラへの五つの宝石(Sri Arunachala Pancharatnam)」

◇「山の道(Mountain Path)」、1973年1月 p16~18

アルナーチャラ・パンチャラトナム

T.M.P.マハーデーヴァン

序論

 バガヴァーン・ラマナによって作られた「アルナーチャラへの五つの賛歌」の中で、この賛歌は元々サンスクリット語で記されました。優れたサンスクリット語学者であり、信奉者であるカーヴヤカンタ・ガナパティ・シャーストリは、1917年のある日にサンスクリット語で詩を作るようにバガヴァーンに請願しました。バガヴァーンは、自分はほとんどサンスクリット語を知らず、その言語に関する韻律論はさらに知る所が少ないと微笑んで答えました。しかし、カーヴヤカンタはそこで問題をそのままにしておく気はありませんでいた。彼はアールヤと呼ばれるサンスクリット韻律の一つの技法をバガヴァーンに説明し、請願を繰り返しました。夕方、彼がバガヴァーンを再び目にした時、絶妙なサンスクリット語で詩が用意されていて、アルナーチャラに呼びかける五つの短い詩節の中にヴェーダーンタの教えの全てを表現していました。

 この賛歌はアルナーチャラについての宝石のごとき五詩節から成り立ち、それゆえ、アルナーチャラ・パンチャラトナムなる名称です。最初の二詩節の中に、現実の本質が二つの水準-スワルーパ(本質的な)とタタシュター(付随的な)-から明らかにされています。残りの三詩節の中で、完成への道のりの概略が記されています。そのように、この短い詩の中に、バガヴァーンはスートラの形でヴェーダーンタの精髄を我々に授けます。それは彼の教えの中に見出される特有の強調点でもあります。タミル語を知る大志を抱く者たちのために、この詩はバガヴァーン自身によってタミル語のヴェンバに翻訳されています。その翻訳は、バガヴァーンによって記されたアルナーチャラについての他の四つのタミル語の詩にそれを加えて、「Arunachala Sthuthi Panchakam」という表題の下に出版したいと思った信奉者からの請願に応え、1922年に行われました。

 すでに述べたように、「アルナーチャラ・パンチャラトナム」の最初の二詩節の中で、現実の本質が指し示されています。ウパニシャッドは現実の本質を二つの方法で描きます-

 現実は、実在-意識-至福(サット-チット-アーナンダ)であり、その付随的な制限が世界の因果律です。現実なるものは、それ自体、無属性(ニルグナ)、無制限(ニルパーディカ)です。マーヤーのために、それは世界の原因のように見えます。第一詩節で、バガヴァーンはアルナーチャラ、至高なる自ら(パラマートマン)、即ち、無制限かつ無属性の実在-意識-至福に言及します。それは崇高な光であり、至福の大海です。その中に、多数性は、世界は存在しません。第二詩節で、アルナーチャラは、全世界の源かつ目的である神のように、世界の基盤として描かれています。しかしながら、創造は現実ではありません。それは幻の見せかけです。これが絵(映像)の類比の含意です。かつて、バガヴァーン自身がシュリー・ラマナーシュラマムの居住者へ意味を説明したように、「全世界はスクリーン上の絵のようです-スクリーンは赤き山、アルナーチャラです。生じ、沈むものは、それが生じたものから成り立っています。全世界の最終的な境地は、神アルナーチャラです」(Talks, p.215)。そのように、世界はアルナーチャラ‐ブラフマンの変形です。それはそれ自身で現実性を持ちません。アルナーチャラへの瞑想の目的のために、場所が体の中に割り当てられます-その場所は「ハート」であり、胸の左側にある身体的なハートではなく、右側にある精神的なハートです。アルナーチャラ自体が「ハート」として言及されるかもしれません。それは万物の中心であるからです。

 第三詩節で、バガヴァーンは自らの探求の道を教えます。これはジニャーナ・マールガ(知の道)と同じものです。アドヴァイタ・ヴェーダーンタによれば、ジニャーナはモークシャへの直接的な手段です。モークシャは新たに達成されるべきものではありません。それは自らの永遠の本質です。無知(アヴィドヤー)のため、それは認識されないままにあります。我々にそれを認識させるものは、自らについての真の知です。バガヴァーンのジニャーナ・マールガの定式化は、良く知られています。それは「私は誰か」という探求の形をとります。すべての人がこの道を歩むことができますが、確かで迅速な成功のためには、人は一点に集中した純粋な心を持たねばなりません。心を探求の道を実行するのに適したものにするための助けは、瞑想(ディヤーナ)、献身(バクティ)、行為(カルマ)です。第四、第五詩節で、バガヴァーンはこれらの鍛練に言及します。無私無欲の奉仕(カルマ・ヨーガ)は、心から一切の不純物を取り除きます。神への献身(バクティ・ヨーガ)と瞑想(ディヤーナ・ヨーガ)は、心に一点集中性を授けます。心が内に向き、その源に向かう時、それは至高なる自ら、アルナーチャラであるその源に溶け込みます。実在‐意識‐至福である完全な体験-これがすべての精神的鍛練の最終目的です。

バガヴァーン・ラマナのアルナーチャラ・パンチャラトナム
(アルナーチャラへの五詩節からなる賛歌)


(1)

おん身の光輝の中に全世界を飲み込む、恩寵で満ちた、神酒の大海!おお、アルナーチャラ、至高者そのものよ!おん身太陽となり、我がハートの蓮華を至福の内に開き給え!

Ocean of Nectar, full of Grace, engulfiing the universe in Thy Splendour! Oh Arunachala, the Supreme Itself! be Thou the Sun and open the lotus of my heart in bliss!

 これはバガヴァーン・シュリー・ラマナの「アルナーチャラ・パンチャラトナム」の最初の詩節です。ここで祈りは、ハートの蓮華の開花を求めています。ハートは蓮華になぞらえられています。なぜなら、それは主に捧げられるのに適したものであるからです。太陽が昇る夜明けに蓮華が開くのとまさしく同様に、ハートの開花は、主の恩寵がそれに降りきたる時にのみ果たされます。主は、太陽の中の太陽です。彼の恩寵によってこそ、個々人のハートは成熟性と純粋性を獲得するはずです。

 主は、アルナーチャラであり、不変のもの、絶えざる光です。彼は、至高なる自らです。彼は、恩寵と不死の大海です。彼こそが、邪悪で、不完全なもの一切を破壊します。アルナーチャラ以外の誰に、信奉者は永遠の命へ連れ行く聖なる輝きを求めて頼るのでしょうか。アルナーチャラの恩寵によってこそ、完全が得られます。

(2)

おお、アルナーチャラ!おん身の内に、全世界の絵(映像)が形作られ、留まり、溶け去る。これは崇高な真理である。おん身は、ハートの中で「私」として踊る、内なる自ら。「ハート」がおん身の名である、おお、主よ!

O Arunachala! in Thee the picture of the universe is formed, has its stay and is dissolved; this is the sublime Truth. Thou art the Inner Self, Who dancest in the Heart as 'I', 'Heart' is Thy name, Oh Lord!

 アルナーチャラは、至高なる神です。『タイッティーリヤ・ウパニシャッド』の聖句は、ブラフマンの本質を指し示して、そこから一切のものが存在するようになり、その中にそれらが住まい、そこへそれらが戻るものとして定義しています。ブラフマンは、全世界の基盤です。全世界の原因として、それは神と呼ばれています。しかし、どの創造の理論も満足のいくものにはなりえません。一者から多数のものがどのように現れるのかは、謎です。それゆえ、神が世界の質料因であり、作用因でもあると言われています。世界の起源、中間、終焉、全ては神の内にあります。そのように、バガヴァーン・シュリー・ラマナは、アルナーチャラの中に、この全てが現れると言います。それがそうでなければならないことは、実に不思議なことです。確かに、自らの腹から巣を編んで作り出す蜘蛛のような類比の助けによる説明が与えられてはいます。しかし、そういったどの説明も最終的に正当であることを意図してはいません。世界とその創造についての教えは、不二のブラフマンの実現への前置きとして与えられているに過ぎません。

 etacchitramという表現は、「これは絵のごとくである」を意味すると解釈されるかもしれません。芸術体験からの類比は、世界が単なる事実としてでなく、ブラフマンである最高の価値を示すものとしてみなされるために、与えられています。事実としてさえ、世界はその基礎をブラフマンに持ちます。ブラフマンはキャンバスであり、その上に世界の絵が描かれます。

 宇宙の現実性は、個人の現実性でもあります。ハートの内で、「私」、自らとしてそれは現れます。それそのものが「ハート」と呼ばれています。なぜなら、それは万物の中心であるからです。それはハートの内で踊ると言われています。なぜなら、それは万物を動かす原動力であるばかりでなく、歓喜の本源でもあるからです。

 アルナーチャラ、全世界の不動の基盤は、ハートの虚空の講堂(チダンバラム)で踊る舞踏王、ナタラージャと同じです。

(3)

内に向けられた純粋な心でもって、「私」なる思いがどこから生じたか探求する者は、自らの本質を悟り、おお、アルナーチャラ!大海の中の川のごとく、おん身の内に動きを止める。

He who inquires whence arise the ' I' thought, with a mind that is pure, inward-turned, and realizes his own nature, becomes quiescent, O Arunachala, in Thee, as a river in the ocean.

 ここでは、自らの探求の道が説かれています。その技法は、「私」なる思いをその源まで追跡することにあります。「私」なる思いは、全ての思いの中で最初に生じるものです。それはどこからやって来るのか。当然、それ自体が思いの性質を帯びた心を用いることによって、これを発見しなければなりません。しかし、この課題を達成できるのは、内に向かい、純粋である、かの心だけです。心が外に向かい、不純である時、それは注意散漫になり、散逸し、感覚の対象物にふけります。真理を知り、安らぎを見出すために、心はその外側にあるものの馬鹿げた追求に背を向けねばなりません。これを心が行えるのは、それが純粋である時だけです。純粋な心が内に向き、「私」なる思いの起源を探求する時、それはこの「私」が偽りの自分であることを発見します。この発見と共に、一切の思いは消え去り、真の自らのみが後に残ります。自我は自殺し、アルナーチャラである自らと一つになります。これが、川が海に合流し、その中に姿を消すことに例えられています。

 『ムンダカ・ウパニシャッド』(Ⅲ, ii, 8)は、次のように言明します-
流れる川が、名と形を捨て、大海の中に消え去るがごとく、 
賢なる者は、名と形から解放され、高きよりも高い、神聖なる方のもとへゆく

(4)

外的対象物を拒絶し、呼吸と心を制御して、心の中でおん身に瞑想し、ヨーギはおん身の光を見、おお、アルナーチャラ!おん身の内に喜びを見出す(または、これがおん身の栄光である)。

Rejecting the external objects, with breath and mind controlled, and meditating on thee within, the Yogi beholds thy light, O Arunachala, and finds his delight in Thee (or, this is Thy glory).

 ここでは、瞑想(ディヤーナ)の道である、ヨーガへの道のりの概略が述べられています。たいてい、心は対象物を楽しむために感覚器官を通ってそれへと流れ出ます。その喜びが対象物に存すると心は誤って思います。心がある対象物に失望する時、それは別のものに飛び付きます。ヨーガは、心が戻る過程です。ヨーガは、心を内に向けます。呼吸の制御は、心の制御の助けとして修練されます。体を鍛練し、呼吸を制御することは、心を手なずける助けになります。心が一点に集中され、自ら、または、神に定められる時、人は心の中に安らぎと喜びを見出します。最終的に、ヨーギは神を実現します。神は光の形-物質的な光でなく、純粋な意識または自覚-で見られます。アルナーチャラである、その光は、至高なる聖霊です。その光輝に匹敵するものはありません。その偉大さは、比類なきものです。この光を見ることとは、それであることです。ヨーギの個人性は溶け去り、至福である十全性のみがあります。

(5)

心をおん身に捧げ、おん身を見、全てをおん身の形として見ながら、絶え間ない愛を抱き、おん身を崇拝する彼は、おお、アルナーチャラ!至福である、おん身の内に没入し、勝利を得る。

With the mind offered unto Thee, seeing Thee, and seeing all as of Thy form, he who worships Thee with constant love conquers, O Arunachala, being immersed in Thee that art Bliss.

 最後の詩節では、献身の道が説かれ、私心ない行為の道もまたそれとなく説かれています。献身の本質は、個々人の魂を神への奉仕に完全に捧げることにあります。バクティは、花や果物といった外的なものを神に捧げることから始まるかもしれません。しかし、それが成熟する時、捧げられるものは、心です。信奉者が神をあらゆる所に見て、あらゆるものを神の表れとして見る時のみに、彼はこれを行えます。その時、彼はあらゆるものの内の神に仕え、それがカルマ・ヨーガの心髄です。そのような奉仕を通じ、信奉者の神への愛は力強く、ひたむきなものになります。そして、最終的に、彼は有限で、自ら動けない、苦しみに満ちた一切に勝利を得ます。彼は彼の個人性が溶け去ったことに、ブラフマンである無限の至福の海のみが存在することに気づきます。

2015年5月19日火曜日

カーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニ - 知の巨人、ラマナ・マハルシの命名者

◇『Ramana Smrti-Sri Ramana Maharshi Birth Centenary Offering』、p111~113

カーヴヤカンタ:学問とタパスの巨人

K.ナテーサン

 シュリー・カーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニ(1878-1936)は、同時に学者であり、詩人であり、愛国者であり、政治思想家であり、タパスヴィーであるという点で独特であり、彼の時代の最も尊敬された人物の1人でした。彼は人生のごく早い時期に、様々な分野なサンスクリット語の学問-ヴェーダ、ウパニシャッド、イティハーサ、プラーナ、マントラ、シャーストラ、アランカラ、アーユルヴェーダ、哲学、文法、詩学、天文学-をすべて習得しました。彼はサンスクリット語で流暢に話し、即興詩を作ることができました。ナディアで1900年に開催されたパンディットの集会は、彼の詩的能力に、とりわけ他の詩人によって始められた詩節を完成させるという特別な文学的課題の技量に大変に感銘を受けたため、カーヴヤカンタ(喉から自然と詩が湧き出る者)という称号を彼に授与しました。

 十二歳でさえサンスクリット語の詩人であったカーヴヤカンタは、宗教文学の泉でも大いに喉をうるおし、十八歳になる前には厳格な精神生活に十分準備が整っていました。結婚後、彼は精神的修練に真剣に取り組み、その目的のために様々な聖地を訪れました。彼はマントラ・ジャパを、インド独立の問題を含めた一切の問題を解決する、その力を固く信じていました。シヴァ・パンチャクシャリは彼のお気に入りのマントラであり、彼はそれを一千万回唱えました。1903年、彼はタパスを行うためにアルナーチャラにやってきました。彼がヴェールールでの教職を引き受ける前に、当時、ブラフマナ・スワーミーとして知られていたシュリー・ラマナ・マハルシを、彼は山の上で二度訪問しました。その組織力によって、彼は生徒集団を集めました。彼らのマントラ・ジャパは国の病を癒やし、その福利を促進するに十分な精神的な力を発生させるはずでした。国家の福利が個人の救済の上に位置すべきであるということは、ヴィヴェーカーナンダのように、実際、彼の強い確信でした。彼はすぐにヴェールールでの職を辞し、1907年にアルナーチャラへ戻りました。優れた業績を持つと自認し、大勢の追随者もまたそれを認める知的および精神的巨人、カーヴヤカンタは、それでも、彼の人生の目的が成就されていないと感じました。彼は以前に会ったブラフマナ・スワーミーのことを思い出し、再び彼の下へ行きました。このことは彼が未だ欠いているように思われた内なる安らぎを彼に与えるはずでした。その出会いはカーヴヤカンタだけにとってでなく、スワーミーの真の達成についてそのような優れた権威者から学ぶことができた、あまねく世界の人々にとっても意義深くありました。

クリシュナ・ダースによるオーム・ナマー・シヴァーヤ-アルナーチャラ

 カーヴヤカンタは、ブラフマナ・スワーミーが滞在していたヴィルーパークシャ洞窟に近づき、彼の前で平伏し、震える声で言いました。「読むべき一切のものを私は読みました。ヴェーダーンタ・シャーストラでさえ、私は完全に理解しました。私はジャパを心ゆくまで行いました。けれども、私はこの時まで、タパスとは何か理解していません。それゆえ、おん身の御足に寄る辺を求めました。どうかタパスの本質について私にお教えください」 。十五分間、シュリー・ラマナは沈黙してカーヴヤカンタをじっと見つめました。その後、彼は口を開きました。
この「私」という概念がどこから生じたのか見守るなら、心はその中へと吸収されます。それがタパスです。マントラが繰り返され、マントラの音が作り出される源に注意が向けられるなら、心はその中に吸収されます。それがタパスです。
  学者は喜びで満たされ、そのウパデーシャが独創的なものであり、ブラフマナ・スワーミーはマハルシであり、これ以後、そのように呼ばれるべきであると宣言しました。元の名前が(ティルパティの主にちなんで名づけられた)ヴェンカタラーマンであったブラフマナ・スワーミーに、彼はバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシという正式名を授けました。カーヴヤカンタは、今やシュリー・ラマナの主要な弟子でした。彼の弟子たちもまた、マハルシのもとへ来ました。彼らは多くの不確かな点についての説明を求め、それを得ました。(1913年から1917年にかけて)それらの質問と答えを記録した、彼の『Sri Ramana Gita』は、バガヴァッド・ギーターのように十八章に分割され、閃きの偉大な源です。彼の『Ramana Chatvarimsat』は、信奉者たちによく知られた賛歌であり、バガヴァーンの神殿で毎日唱えられています。様々な場所へ移りましたが、彼は最後にはカラグプル近隣の村に落ち着き、1936年に亡くなりました。彼の起伏に富んだ人生は、執筆、研究、タパス、弟子たちを導くことに費やされました。

 百以上に達するカーヴヤカンタの作品は、膨大な範疇に分類されます。賛歌、スートラ(警句)、注釈書、リグ・ヴェーダの研究、インドのための模範の形成、さらには小説まであります。『Uma Sahasram』は、千詩節の中で、聖母の栄光を歌います。終わりのほうの数百詩節は、シュリー・ラマナのまさに目の前で驚くほど短時間の内に作られ、カーヴヤカンタは4人にせっせと書き取らせました。『Indrani Saptasadi』、『Chandi Trisati』、『Gita Mala』は他の重要な作品であり、最後のものは、インドラやアグニのような神々の賛美です。 彼のスートラの中で最も群を抜いているのは、『Dasa Maha Vidya』についてのものです。それは十の広大無辺な力というテーマについて、ヴェーダーンタ的学派とタントラ的学派を調和させています。『Sahasranama』は、リグ・ヴェーダから抜粋されたインドラの千の名前を一列に並べています。彼のリグ・ヴェーダの注釈書は、説明を要する難解なテーマを読者の手の届く範囲にもたらしました。マハーバーラタについての彼の研究書は、そのヴェーダ的基礎についての問題を扱っています。シュリー・ラマナの『Ulladu Narpadu』のサンスクリット語の翻訳、『Satdarsanam』、そして、『Upadesa Saram』の彼の注釈は、シュリー・ラマナの信奉者たちにとても人気があります。

 カーヴヤカンタの燃えるような愛国心の証拠として、彼の『Indrani Saptasadi』から以下の例が挙げられるでしょう。
おお、母よ!我が国が、久しく打たれ、損なわれ、嘆いている、この国が繁栄するために、私はおん身の御足に寄る辺を求めます。
ダルマに仇なす者どもが滅びますように。我々の国の友邦が繁栄しますように。それは私の心を喜ばせるでしょう。おお、聖母よ!私はおん身の御足に寄る辺を求めます。
おお、インドラに愛されし人!密偵が我々の力強き人々のかかとをつけ回します。我々は悲しみをあらわにすることさえ恐れています。彼らは恩寵を求めて、おん身の御足に寄る辺を求めて、おん身を拝します。

2015年5月8日金曜日

シュリー・ラマナを讃える四十詩節(シュリー・ラマナ・チャトヴァーリムサット)

◇Sanskrit Documents collection - Forty Verses in Praise of Maharshi Ramana


    ある日の早朝、ティルヴァンナーマライのパチャイアンマン寺院で、シュリー・ヴァーシシュタ・ガナパティ・ムニと他の弟子たちみなが、いつものように完全に内に引き込まれて座っているバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシを前にして座っていました。ムニは、空からきらめく光が下りてきて、マハルシの額に六たび触れるのを目にしました。

 その光景は、マハルシが主スブラマニヤの化身に他ならないとムニに悟らせました。直ちに、ムニの中の詩人が、美しいサールドゥーラヴィクリーディタ韻律の八詩節に花開きました。

 後に、時々に応じて、ムニはマハルシを賞賛する多くの詩節を作り、それらは最初の八詩節と共に、シュリー・ラマナ・チャトヴァーリムサット、「シュリー・ラマナを讃える四十詩節」として集められました。これら四十詩節は、彼の存命時、バガヴァーンの面前で毎日唱えられ、彼の神殿で毎朝唱えられ続けています。詩節は、マハルシの人間的特徴と神なる特徴を共に描き、彼とスカンダの間に何の区別もしていません。

 これらの詩節はアヴァターラ・プルシャとジーヴァンムクタを扱い、並々ならぬ学識を持つ、大いに精神的に強靭な人に作られたため、各々の詩節は、マハルシの存在を呼び起こすことにおいて、マントラのように働き、全ての真摯な大志を抱く者にとっての真の恩恵です。
(SRI RAMANASRAMAMの公式HP、RESORCE CENTER、AUDIO 10の文章より


シュリー・ラマナ・チャトヴァーリムサット
(シュリー・ラマナを讃える四十詩節)

暗闇を超えて、輝ける神を私に示した
聖師、リシ・シュリー・ラマナの蓮華の御足を礼拝いたします

I bow to the lotus feet of the spiritual teacher Rishi Sri Ramana,
who showed me the Lord, shining, transcending darkness

vande śrīramaṇarṣer ācāryasya padābjam |
yo me’darśayad īśam bhāntam dhvāntam atītya ||

1.
彼自身の言葉は、汚れを取り除く。慈悲の大海であり、赤き山に楽しむ
鳥に担われし者*により語られる真理を知り、雄牛に担われし者*の沈黙の神秘を携える

The story of his own life removes impurities. He is an ocean of compassion,
taking delight in the red mountain (Arunachala). He knows the truth spoken
by the bird-borne Vishnu, and bears the mystery of the silence of the bull-borne Siva.

kathāyā nijayā kaluṣam haratā karuṇānidhinā’ruṇa śaila juṣā |
khaga vāhana bhāṣita tattva vidā vṛṣa vāhana mauna rahasya bhṛtā ||
*ヴィシュヌ *シヴァ
2.
ガナパティに始まる学識者の集いのグル、数多(あまた)の美徳の偉大なる宝庫
千の光線を放つもの*が雲に隠されるがごとく、その真の偉大さは体なる装いに隠されている

He is the guru of an assembly of learned men beginning with Ganapati, he is
a great repository of a wealth of virtues. Just as the thousand-rayed one (the sun)
 is hidden by a cloud, his true greatness is hidden by the garb of the body.

gaṇrāṇmukhasūrisabhāguruṇā guṇasanñcayaratnamahodadhinā|
ghanagūḍhasahasrakareṇa yathā tanukañcukaguptamahāmahasā ||
*太陽
3.
さ迷う五感を打ち負かすことに、他者の長所を称賛することに巧みである
偽りのない沈黙の安らぎに楽しみ、強く、非難される、恐るべき欲望の殺害者

Ingenious at defeating the roving senses, he is skillful in praising
the merits of others. He delights in the peace of silence which is without deceit, 
and is the the slayer of the strong, reviled, frightening passions.

catureṇa calendriyanigrahaṇe paṭunā parakīyaguṇagrahaṇe |
chalavarjita maunasamādhijuṣā balatarjita bhīkarakāmaruṣā ||

4.
適時のみに腹を満たし、断固たる誓いを立て、山のなぞえに住む
魚を旗印にする者*の武器により、その心を勝ちとることは難しく、自らの目覚めの方法を授けた

He fills his stomach only at the proper time, undertaking inflexible vows,
he lives on the slope the mountain. His heart is unable to be won over by the arrows of Cupid.
He is leading his devotees, and giving them the method for Self-Knowledge.

jaṭharam samaye paripūrayatā kaṭhinam vratam adritaṭe caratā |
jhaṣaketanaśastra durāpahṛdā kṛṣim ātmavibodhavidhau dadhatā ||
*愛の神
5.
恐れを生む生(せい)の大海を渡り、蓮華のごとき手は鉢として役立つ
そのまなざしは比類なく穏やかで、明るく輝き、蓮華の御足を頼りとする人々の恐れを取り除く

He has crossed the fear producing ocean of worldly life. He has a hands
as delicate as a lotus, which serve him as a bowl. His own gaze is unsurpassed
in calmness and brightness, and he removes the fear of those who resort to his lotus feet

bhavabhīkaravārinidhim taratā karatāmarasena supātravatā |
svadṛśā’ dhikaśītalakāntibhṛtā bhayam aṅghrisarojajuṣām haratā ||

6.
敬礼する、多大なる信愛を抱く人々にとっての宝、その存在は深い悲痛を破壊する
苦行者の義務を守り、あたり一面の暗闇を取り除く

He is a store-house of divine treasure for adoring devotees, his presence destroys dense misery. He maintains the duties of the ascetic, and he is preventing darkness all around.

namatām atibhaktimatām nidhinā ghanatāpa vidhūnanasannidhinā |
yatidharmatatim paripālayatā paritaśca tamo vinivārayatā ||

7.
蛇族の長*にのみ描きうる、あふれる美徳を持ち、心地よく、有益な、真実の言葉を話す
崇敬によって左右される幸福に支配されず、また侮辱に苦悩することもない

Having a flood of virtues able to be described only by Sesha, the leader of the serpents, 
he speaks words that are pleasing, beneficial and true. 
He is not governed by that happiness which is influenced by respect and honor (from others), 
nor does he have distress due to dishonor (from others).

phaṇināyakavarṇya guṇaughabhṛtā bhaṇitīh priyasatyahitā bhaṇatā |
bahumānavaśād ayatā sukhitām avamānatater avidūnavatā ||
*アディシェーシャ
8.
苦行者たちの王。その鋭く、光り輝く知性によって、断固として心を滅ぼした
喜びの波を常に帯び、内なる敵軍*を滅ぼした

He is the Lord of Ascetics. With his sharp and brilliant intellect, 
he has with firmness destroyed the ego. He is always bearing a wave of joy, 
and he has killed the array of inner enemies (the six passions).

yatinām adhipena kuśāgra-lasan matinā dhṛtināśita cittabhuvā |
laharīm pramadasya sadā vahatā nihatāntara śātrava samhatinā ||
*貪欲、怒りなど、六つの感情
9.
その功績によって一切を超越し、容易く得られはしない幸運な境地を勝ち得ている
「私のもの」なる意識から免れ、有徳の人々の友。彼はガナの主*のハートにしまわれている

Having transcended all by his own merits, 
he wins the supreme feet of the Lord, (which are) not easily accessible by others. 
He is free from the feeling of "mine'' and is the friend of the virtuous. 
He is treasured at heart by the Lord of the Ganas, Ganapati.

bhagavatpadam anyajanāsulabham svaguṇair adhigatya param jayatā |
mamatārahitena hitena satām nihitena gaṇaprabhuṇā hṛdaye ||
*ガナパティ
10.
山から生まれし者*の膝上を捨て去り、暗闇を取り除くために地上に住まう
人間の見た目をした、山を貫きし者*よ。この世界は、ラマナの内に守護者を見出した

Abandoning the lap of his Mother Parvati, he dwells on earth for the removal of darkness.
He is Skanda, having the appearance of a man. This world has found a Lord in Ramana!

dharaṇīdharajāṅkam api tyajatā dharaṇī tala vāsi tamodhutaye |
narave ṣabhṛtā nagarandhrakṛtā ramaṇena sanātham idam bhuvanam ||
*パールヴァティー*スカンダ
11.
苦行者であり、腰を飾る白い布切れのみを身につけている
至高なる師、人間の見た目をした孔雀にまたがりし者*。彼の内に、世界はグルを得た

He is an ascetic, wearing only a white piece of cloth adorning his loins. 
He is the Supreme guru, he is the peacock-riding Skanda,
wearing the guise of a man. In him the world has a Master!

parade śineva dhavalena vāsasah śakalena veṣṭita kaṭī-viśobhinā |
vara-deśikena nara-veṣa-dhāriṇā śikhivāhanena gurumat jagad bhavet ||
*スカンダ
12.
グナの網を乗り越えた完全なブラフマチャーリへ
マーヤーの作用によって死を免れえないグルへ、ターラカーの殺害者*へ敬礼いたします

Prostrations to him who has transcended the multitude of gunas
and is the perfect brahmachari! To him who is mortal by the workings of Maya, 
to the Guru, the enemy of Tarakasura (Skanda), prostrations!

atīta guṇajālāya naiṣṭhika brahmacāriṇe |
namo māyāmanuṣyāya gurave tārakāraye ||
*スカンダ
13.
乗るための孔雀族の王*はここにおらず、沐浴するための天上の川*もなく
飲むための偉大なる山の神々の王*の娘の乳房からの母乳なる神酒もない
歌を歌うための年を同じくするヴィーナを奏でるプラマタの王*たちもここにいない
では、なにゆえ黄金の山に居を定めたのか、おお、バガヴァーン、クラウンチャ山の破壊者*よ!

Here there is no king of the peacocks for riding, nor a celestial river for bathing, 
nor is there the nectar of milk from the breast of the daughter of the Mountain-Lord (Parvati). The divine vina-playing attendants of Shiva, who are your contemporaries,
are not even here to sing to thee! How is it then O Bhagavan,
Pounder of Krauncha hill,that you make your dwelling upon Arunachala ?

yānāyātra na kekinām kulapatih snānāya na svarṇadī
pānāya kṣitibhṛnmahendra duhitur na stanya-dugdhāmṛtam |
gānāya pramatheśvarāh savayaso naivātra vīṇābhṛto
vāsam śoṇagirau karoṣi bhagavan krauñcādri bhettah kutah ||
*パラヴァニ*ガンガー*ヒマヴァット*シヴァの従者、魔*スカンダ
14.
その顔は一つ、ウマー*の膝上から離れ、手に槍はない
死すべき定めにあり、どちら側にも旗を持つ神々の軍勢はいない
この装いは、世界で楽しむ迂闊(うかつ)な人々の目を覆うには十分であるが
おお、ターラカー*の敵よ!母の息子*の目からどこへ逃れるというのか

You have one face, you are separated from Mother Uma's lap!
You do not have a spear in your hand.
You are mortal, and there are no flag bearing armies of the gods on either side! 
This disguise is enough to cover the eyes of those unwary ones who delight in the world, 
but how will you, O enemy of Tarakasura, escape the notice your brother)?

ekam vaktram umāṅkavāsavirahah pāṇau na śaktyāyudham
martyatvam na patākinī ca pṛtanā pārśvadvaye nākinām|
veṣo’lam punareṣa mugdha nayana pracchādane bhūjuṣām
antardhānam upaiṣi tārakaripo kva stanyadāyādatah ||
*パールヴァティー*悪魔*ガナパティ
15.
ある人々は「ヨーガを知る者の中の先達」として、他の人々は「賢者*」として
または、「聖者*」として、またある人々は「正師*」として、あなたの蓮華の御足を崇拝する
人々の安らぎのために地上に生まれたラマナよ
二人か三人(のみ)が、ギリジャー*の膝上で休らう、聖なるグーハ*としてあなたを知る

Some (know you) as "the foremost of the knowers of yoga'', others as''gyAni'', 
some others as "sadhu'', while some thinking of you as "guru'' worship your lotus feet. 
Ramana, born on earth for the peace of men, (only) two or three know
 you as Lord Skanda, resting on the lap of Girija, the Divine Mother.

kecid yogavidām purahsara iti prajñāni buddhyā pare
sādhuh kaścid itītare gurudhiyā ke’pyaṇghri padmam tava|
sevante ramaṇābhidhāna manujakṣemāya jātah kṣitau
dvitrās tvām girijāṅkapīṭhanilayam jānanti devam guham ||
*プラジニャーニ、学識者*サードゥ*グル*パールヴァティー*スカンダ*ハートの洞窟に住まう者

16.
オームの意味は、幸いなる方、ヴァーニー*の心を奪いし者*に説かれた
その父*にさえ説かれんとして、あなたの顔は少しく上を向いた
その知恵の重みによって、今や、その長兄*のグルの地位をあなたは得た
おお、スブラマンヤ!最も若輩ながらも、その功績によって、あなたは全ての人より偉大になった

The meaning of OM was explained (by you) to Lord Brahma.  (Opening)your mouth,
you had undertaken to explain something to even your father(Shiva). O Subramanya,
even though you are the youngest, by your merits you have become greater than all! 
By the weight of your wisdom, you have obtained the state of Guru to your elder brother.

omkārārtham upādiśo bhagavate vāṇī manohāriṇe
tātāyāpyupadeṣṭum udyatam abhūt kiñcit tvadīyam mukham |
jyeṣṭhasyādya sahodarasya gurutām prāpto’si dhīgauravāt
subrahmaṇya kaniṣṭhatām api gatah sarvādhikah tvam guṇaih ||
*サラスワティー*ブラフマー*シヴァ*ガナパティ
17.
かつてヴェーダをその際(きわ)まで見た、賢者ドゥヴァイパーヤナ*により登られ
後に、その知の一部によって(無知の)暗闇を払い、恐れを破壊するシャンカラによって登られた
世界で苦しむ人々のための聖師の獅子座は、今や、あなたを待つ
おお、人として具現した主よ、おお、神軍の主*よ!

That Lion's seat of honor which was previously mounted by the wise Vyasa, who
saw the fullest extent of the Vedas, was afterwards occupied by fear destroying Sankara, 
who with a single portion of his knowledge dispelled the darkness (of ignorance). 
Now that throne of Acharya (to save) those who are suffering in the world awaits thee, 
O Lord embodied as man, O Army Chief of the Gods (Skanda)!

yat pūrvam śrutipāradarśi dhiṣaṇo dvaipāyano’dhyāruhat
paścād bodhakalāvidhūta timirah śaṅkāpahah śaṅkarah |
tat samprat yakhilāvanī talajuṣām ācāryasimhāsanam
deva tvām prativīkṣate naratano gīrvāṇasenāpate ||
*ヴィヤーサ*スカンダ
18.
ダルマが破壊されている時、三世界が悪行により悩まされている時
学識者が真理を見失い、無益に論争している時
至高なる神、御父(おんちち)の実在が疑われる時
あなたの他に誰が善人の寄る辺であるのか、おお、人間を装った孔雀にまたがる者*よ!

When dharma has been destroyed, when the three worlds are bewildered by wrong doing, 
When everywhere the way of words(polemics) has been brought together by men in vain
as true knowledge, When the true existence of the supreme Lord the Father is doubted,
Who but you is the refuge of the good, O peacock-mounted one, disguised as a man?

dharme nāśam upāgate tribhuvane paryākule pāpatah
prajñāne parito girām pathi mudhā sañcāryamāṇe janaih |
sadbhāve parameśvarasya ca pituh sandehaḍolām gate
dvīpah kaitavamartya kekituraga tvām antarā kah satām ||
*スカンダ
19.
離欲はあなたの富やもしれないが、どうしてあなたが慈悲を捨てされるのか
努力はあなたにとって非難さるべきやもしれないが、御父の御足への瞑想はどうなのか
欲望はあなたにとって禁じられているやもしれないが、敬礼する人々に庇護が与えられないのか
おお、人間に身をやつしたスカンダよ!あなたは好機を待っているのか

Dispassion may be your weatlh, but how can you forsake compassion?
Great effort may seem reprehensibile, but what of meditation on the feet of the Father? 
Desire may by prohibited by you, but is protection denied to your devotees? 
O Skanda, in the disguise of a man, do you await a proper opportunity?

vairāgyam tava vittam astu karuṇām śaknoṣi hātum katham
dūṣyaste’stu samudyamah pitṛpada dhyānam ca kim tādṛśam |
kāmaste’stu vigarhito vinamatām rakṣā ca kim garhitā
skanda cchadmamanuṣya kim nu samayam kañcit samudvīkṣase ||

20.
はるか遠ざかれ、誹謗よ!ダルマなる雄牛よ、これ以後、あなたは足なえではなくなる
混乱よ、この世を去れ!有徳の人々との交際が至る所で増さんことを
彼の兄弟*に答えて、この世界は卓抜したグル
シューラ*の後宮の妖艶な目の破壊者、神々しいバヴァーニー*の息子を得た

O detraction, go far away! Bull of dharma, henceforth you will not be lame! 
Leave the world, O confusion, may associtaion with the virturous increase everywhere! 
In association with his brother, this world has obtained the chief of gurus, the destroyer
of the demon Sura and of the amorous passions, Lord, son of the Divine Mother Parvati.

dūram yāhi kuvāda dharmavṛṣa te netah param paṅgutā
durbhrānte bhuvanam jahīhi parito vardhasva samsat satām |
sodaryeṇa samanvito bhuvamimām prāpto gurugrāmaṇīh
śūrāntah puranetra vibhramaharo devo bhavānīsutah ||
*ガナパティ*悪魔?*パールヴァティー
21.
「私」なる思いの秘められし誕生の地を得て、一切の二元性を振り落とし
感覚ある存在の様々な知性の中のまさしく自らとして輝き
世界と一切の体に行き渡る彼は、その栄光により輝き出る
グルの姿をした、かの者に敬礼せよ。おお、巨大な腹を持つ者*の弟よ!

He who has shaken off all duality having obtained the great secret of the place of birth
(of the "I'' thought), and who shines as the very self in the various intellects
of sentient beings, he who having pervaded the world and all bodies shines forth
with his glory, oh men! salute that one, in the form of the Guru, the brother of Ganapati!

janmasthānam avāpya guptam ahamo yo bhedam ādhūtavān
bhūtānām caratām pṛthagvidha dhiyām ātmaiva yo bhāsate |
deham sarvam idam jagacca vibhavād ākramya yah prollasat
yekas tam gurumūrtim ānamata re lambodarabhrātaram ||
*ガナパティ
22.
内外から暗闇を取り除き、光で満ちた永遠の
汚れなき境地を達成し、敬礼する人々の無知を根こそぎにし
この世界を見て、その中で戯れながらも、世界を超えている彼へ
世界のグル、悲しみの破壊者、シュリー・ラマナへ敬礼いたします

He who removes the darkness from within and without, having obtained 
that eternal state made of light, who uproots the ignorance of his devotees, 
who though seeing and sporting in this universe is beyond the universe, 
to him, Sri Ramana, the Guru of the world and destroyer of sorrow, salutations!

antaryaśca bahir vidhūtatimiram jyotirmayam śāśvatam
sthānam prāpya virājate vinamatām ajñānam unmūlayan |
paśyan viśvam apīdam ullasati yo viśvasya pāre parah
tasmai śrī ramaṇāya lokagurave śokasya hantre namah ||

23.
今や、あなたの吉祥なる眼差しの奔流によって
おお、ラマナ!一度でも私が祝福されますように

Oh Ramana, now, by the flowing forth of your splendid gaze, 
may I at once be blessed!

prasaratād itah śubhavilokitam |
ramaṇa te sakṛt phalatu me kṛtam ||

24.
おお、ラマナ!あなたは人々のグルである
分かれの存在しない、あなたの心は、真に偉大である

Oh Ramana, you are the Guru of men. 
Infinite is your heart, in which there is no differentiation.

ramaṇa janminām ayi bhavān guruh |
abhida āśayas tava mahān uruh ||

25.
「世界」、「私」、「至高者」の三つ組は私の中に輝く
分かれなき現実として。あなたの言葉によって、疑いなく


Your word destroys for me the triad of "world", "I", and "the Supreme", 
(and there remains) the one reality without differentiation, without doubt.

jagad aham parah sphurati me trayam |
sadabhidam girā tava visamśayam ||

26.
あなたの教えを通じ、私と不可分の意識によって
現実と私の間の相違は失われた

From your teaching, by knowledge inseparable from me, 
the difference between the reality and the ego is lost.

tvad upadeśato galati samvidā |
mayi niranyayā sadahamor bhidā ||

27.
私の内なる、かの汚れなきものをハートの中で
あなたの恩寵を得るならば、我々は体験しうる

Oh (Ramana), if your grace (extends to us), 
we could experience the supreme self in the pure heart, hidden within the ego.

ahami yo’ntaras tam amalam hṛdi |
anubhavema bhos tava kṛpā yadi ||

28.
慈悲はあなたの性質ではなく、おお、賢者らの主よ!
ハートの光輝として、あなたにとって自然である

Oh Lord of the wise! Compassion is not just a quality of yours. 
It is natural for you, as the effulgence of your heart.

na karuṇā guṇas tava vidāmpate |
hṛdayatejasah sahajabhaiva te ||

29.
あなたの体は、稲妻のごとくまばゆく輝き、おお、汚れなき方よ!
あなたのまなざしは、明るく輝き、行き渡っている

Oh spotless one, your body blazes like lightning. 
Bright and pervasive is your look.

tava tanur jvalat yanagha vidyutā |
tava dṛg ātatā lasati bhāsvatā ||

30.
あなたの心はハートによって溶かされている、おお、支配者よ!
あなたは至福によって永久(とわ)に輝く

Your mind has been dissolved by the heart, oh Lord! 
You are eternally shining with bliss.

kabalitam manas tava vibho hṛdā |
tvamasi santatam vilasito mudā ||

31.
人類と全世界の主、幸運な方にとって
あなたは料理人である。おお、自制ある者たちの主よ!

For the Divine Universal Lord of mankind, 
you are the cook, oh Lord of the self-controlled!

bhuvanabhūpater bhagavatah kṛte |
bhavasi pācako yamavatām pate ||

32.
これら人間の姿をした獣たちの「私」を殺害し、調理し
あなたは至高なるシヴァのための食事をこしらえる

Slaying the ego of these man-beasts (humans steeped in ignorance),
and cooking them, you prepare food for the supreme Shiva.

narapaśūn imān ahami tāḍayan |
paraśivaudanam vitanuṣe pacan ||

33.
その言葉によってだけでなく、その慈悲深い流し目によっても
人々のハートにはびこる暗闇を破壊する、グル・バガヴァーン・ラマナを礼拝いたします

I bow to the guru Bhagavan Ramana,
who destroys the darkness prevailing in the hearts of men,
not only by his words, but by his sidelong glances of grace and compassion.

timirāṇi na kevalam vacobhih karuṇāpāṅgavilokitaiś ca nṝṇām |
hṛdaye prasaranti mardayantam bhagavantam ramaṇam gurum namāmi ||

34.
生の大海へ幾度も幾度も飛び込み、疲れ切り
今や、あなたの蓮華の両の御足なる島に庇護を求める
おお、バガヴァーン・ラマナ!あらゆる吉祥の住まい
その流し目から信奉者たちへ溢れ出る恩寵によって我らを守りたまえ

Oh Bhagavan Ramana, diving again and again into the ocean of the world,
we are extremely tired. Now, at this moment, we approach the island
of your lotus feet for refuge. You, the merciful abode of virtues, please protect us
with the grace that pours out to your devotees from the glances of your eyes.

bhavajalanidhim gāham gāham cirād alasālasān
padajalaruha-dvandva-dvīpam śritāms tava samprati |
ramaṇabhagavan kalyāṇānām niketana pāhi naù
sadaya dayayā siktair bhaktān apāṅgavilokitaih ||

35.
母が乳を与えないならば、ああ、子の運命はどうなるのか
牛飼いが憤るならば、牝牛のための保護はどこにあるのか
聖師たる、あなたが、その御足を頼る人々の疑いを晴らさないならば
数多(あまた)の混乱によって打ち負かされた人々は、いかにこの生を渡り切るのか

If the mother would not give milk, alas, what would be the fate of the child? 
If the cowherd would be angry, where would be protection for the cow? 
If you Teacher, do not dispel the doubts of those resorting to your feet, 
how will those overcome by multiple confusions cross over this worldly existence?

yadi na jananī stanyam dadyāt śiśor bata kā gatih
yadi paśupatih krodham kuryāt paśor avanam kutah |
yadi padajuṣām ācārya tvam nihamsi na samśayam
bhramaśataparābhūta ete tarantu bhavam katham ||

36.
月のごとく輝かしいその微笑みは、安らぎで満ち、定まり
比類なき光沢を持つ、その大きな眼(まなこ)は、力に満ちている
ハートの蓮華の中に永遠に住い、その輝きは外へと流れ出る
おお、バガヴァーン・ラマナ!一体、いかな聖者があなたに比肩するのか

In your moon-like splendid smile peace reigns. 
Your large broad eyes are steady and unequalled in luster. 
You are eternally abiding in the lotus of the heart with your splendor outwardly flowing.
Oh Bhagavan Ramana! What Sage on earth is possibly your equal?

viśadahasite pūrṇā śāntih sudhākara sodare
sthirapṛthulayoh pūrṇā śaktir dṛśor atulārciṣoh|
hṛdayakamale nityā niṣṭhā bahiśca saratprabhe
ramaṇa bhagavan ko vā maunī samas tava bhūtale ||

37.
眼の中には、人の無知に終止符を打つデーヴィー・シャクティ
千の表情を持つ顔には、蓮華のごとき眼をしたヴィシュヌの妻、デーヴィー・シュリー*
発する言葉に隠さるるは、勝利をもたらす至高なるブラフマーの妻、デーヴィー*
おお、偉大なる体験を持つ全世界の聖師、ラマナよ!いかな凡人があなたを賞賛しうるのか

In your eyes is Devi Shakti, effecting the end of the man's ignorance. 
In your face of a thousand expressions is LakShmi, the wife of the lotus-eyed Vishnu. 
Concealed in your utterance is victory-causing Saraswati, supreme. 
Oh universal teacher Ramana of great experience! What ordinary man could praise you!

devī śakti riyam dṛśoh śritajanadhvānta kṣayādhāyinī
devī śrī riyam ambujākṣa mahiñī vaktre sahasracchade |
devī brahmavadhūr iyam vijayate vyāhāra-gūḍhā parā
viśvācārya mahānubhāva ramaṇa tvām stautu kah prākṛtah ||
*ラクシュミー*サラスワティー
38.
このシャクティの踊りが始まる重大な時節に
たとえ私自身があなたの御足から遥か遠くに離れていても、おお、バガヴァーン・ラマナ!
光り輝く太陽のごとき、あなたの全世界で最上たるシャクティが
遠く離れていないと知ることによって、私の心の悲しみは消え去った

Even though I myself am very far away from your holy feet Oh Bhagavan Ramana, 
when on this great occasion the dance of Shakti commences, 
the knowledge that your power, blazing as the sun and foremost in the universe,
is not remote from me, has caused the sorrow of my mind to vanish.

so’ham jāto ramaṇabhagavan pādayos te daviṣṭho
yadyapyasmin mahati samaye śaktilāsye pravṛtte |
sūryasyeva jvalitamahaso dūragām nātha śaktim
viśvasyāgryām tava mama mano vītaduhkham tathā’pi ||

39.
多くの賢者が住まうことより得られた、赤色の山が獲得した、かの幸運は、今やまさに比類がない
バガヴァーン・ラマナ・マハルシが、他の多くの聖地の中からこれを選んだがゆえに

Verily, that good fortune acquired by the red colored mountain (Arunachala), 
gained by the dwelling there of many sages, is now unequalled, 
because Bhagavan Ramana Maharshi has chosen this from among other holy places

tad bhāgadheyam asamānam anekamauni vāsārjitam kṣitibhṛtah khalu lohitasya |
aṅgīcakāra bhagavān ramaṇo maharṣir anyeṣu satsu yadimam bahuṣu sthaleṣu ||

40.
その並外れた安らぎ、卓越した至高なる力、最勝たる離欲、力強い慈悲心のために
偽善を払いのけた知、心地よい行いのために、ラマナ・マハルシは人類に指し示されている

For his extraordinary peace, supreme power, most extraordinary dispassion, intense compassion, for knowledge that has banished hypocrisy and for his sweet conduct,
Ramana Maharshi is indicated (as the ideal) for mankind.

śāntir nitāntam adhikā paramāsya śaktir vairāgyam adbhutatamam karuṇā tu sāndrā |
jñānam nirastakuhanam madhuram ca vṛttam nṝṇām nidarśanamayam ramaṇo maharṣih||

結びの詩節

ナラシンハの息子、ヴァーシシュタ・ガナパティは
拍子の整った四十詩節で、リシ、スカンダの化身、グル・ラマナを賞賛した

Vasishta Ganapati, son of Narasimha, has praised with forty measured verses
 the Rishi, the incarnation of Skanda, Guru Ramana.

nārasimhir gaṇapatir vāsiṣṭho ramaṇam gurum|
catvārimśanmitaih padyaih skandāmśam stutavān ṛṣim ||

☆shiba注☆翻訳にあたって、上記の英訳だけでなく、「Mountain Path 68年4月号 Vedaparayana」の英訳と「SRI RAMANASRAMAMの公式HP、RESORCE CENTER、AUDIO 10のpdf」の英訳、および、サンスクリット語の原文を参考にしています。