2015年10月10日土曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第5章 ハートの場所

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p58-62

マハルシの福音

第2巻 第5章 ハートの場所

信奉者:
 しかし、私はある聖者によって彼の霊的体験が眉間で感じられると言われるのを聞きました。

マハルシ:
 以前、私が話したように、それは主体‐対象の関係性を超越する究極的かつ完全な実現です。それが達成されるとき、どこで霊的体験が感じられるかは重要なことではありません。

信奉者:
 しかし、問題は、2つの見解、すなわち、①霊的体験の中心は眉間である ②それはハートである、の内のどちらが正しいのかということです。

マハルシ:
 修練の目的上、あなたは眉間に集中してもかまいません。その時、それはバーヴァナ、心の想像的観想になるでしょう。しかしながら、アヌバーヴァ、実現の至高の状態は心を超越し、それとあなたは完全に同一化し、その中にあなたの個人性は完全に解消されます。その時、対象化された中心が、それと異なり、分離した主体としてのあなたによって経験されることはありえません。

信奉者:
 少しばかり異なる言葉で私の質問をしたいと思います。眉間は自らの座であると言うことができますか。

マハルシ:
 自らが意識の究極的な源であり、心の3つの状態すべての間に等しく存続しているとあなたは認めています。しかし、瞑想中の人が眠気に負けるときに何が起こるか見てみなさい。眠りの最初の兆候として、彼の頭はうつむき始めます。しかしながら、自らが眉間や頭の他のどの場所にでも位置しているなら、それは起こり得ません。

 眠りの間に自らの体験が眉間で感じられないなら、その中心が自らの座と呼ばれるとき、自らが己のあるべき場所をしばしば見捨てるということを必ずも暗示することになり、それは馬鹿げています。

 実のところ、サーダカは、その心を集中するどのような中心、チャクラにおいてでも彼の体験を得ることがあります。しかし、そのために、彼の体験のその特定の場所が、その事実そのものによって、自らの座にはなりません。

 聖者カビールの息子、カマールについて興味深い話があります。それは、頭が(そして、なおのこと眉間が)自らの座とは見なせないことを示す例として役立ちます。
 カビールはシュリー・ラーマを熱烈に信奉しており、彼が信奉する主を褒め称える人々に彼は必ず食べ物を与えました。しかしながら、ある時、そのような信奉者の集まりに食べ物を提供するための資金をたまたま彼は持ち合わせていませんでした。しかしながら、彼にとって、翌朝までに彼がどうにかして必要なあらゆる手はずを整えなければならないという以外の選択肢はあり得ませんでした。それで、彼とその息子は必要な食料を確保するために夜中に出かけました。
 話によれば、父親と息子が、彼らが壁に作った穴を通じて商人の家から食料を取り去った後、息子は、家族を起し、家に泥棒が入ったことを、道義上、ただ彼らに知らせるために、再び入りました。家族を起し、少年が穴を通ってまんまと逃げおおせ、反対側にいる父親に加わろうとしたとき、彼の体が隙間に詰まってしまいました。追跡する家族に身元を確認されるのを避けるため(というのも、もし見つかれば、翌日、信奉者たちへの食べ物の提供が全くなくなるだろうから)、彼は父親に呼びかけ、その首を切断し、一緒に持ち去るように言いました。それは行われ、カビールは盗んだ食料と息子の頭をもってまんまと逃げおおせ、家に着くとすぐにその頭は起こりうる発覚から隠されました。翌日、カビールはバクタたちにご馳走し、前夜に起こったことを全く気に留めていませんでした。「ラーマのご意思が」、彼は心の中で言いました、「私の息子が死ぬことであるなら、それが行き渡らんことを!」。夕方、カビールはその一行と共に、バジャナなどを伴い、いつも通り列をなして町へ出かけました。
 その間、泥棒に入られた家族は王様に報告し、頭を切り取られたカマールの体を取り出しましたが、手掛かりは得られませんでした。その身元を確認するために、王様は目立つように公道上に体をくくり付けました。それを要求したり、持ち去る者が誰であれ(というのも、どんな死体も、最後の儀式が親類縁者によってそれに行われなければ見捨てられないので)、その目的のために秘密裏に配置された警察に尋問されるか、逮捕されるようにです。
 バジャナもたけなわに、カビールとその一行が公道のそばを通った、そのとき、皆が驚愕したことに、(完全に死んだとみなされていた)頭を切り取られたカマルの体が、バジャナの一行によって歌われる調べに合わせて足踏みしながら手をたたき始めました。
    この話は、頭や眉間が自らの座であるという提言を反証しています。また、戦場において、突然の力強い剣の一撃によって戦闘中の兵士の頭が体から切り落されたとき、終には死んで倒れる前に、ほんのしばらくの間、体が戦うふりをして走ったり、手足を動かし続けたりすることに言及してもいいでしょう。

信奉者:
 しかし、カマールの体は何時間も前に死んでいたのではないですか。

マハルシ:
 カマールにとって、あなたが死と呼ぶものは、並外れた経験では全くありません。ここに彼がさらに年若かった時に起こったことについての話があります。
 少年のころ、カマールには同い年の友達がいて、よく彼と一緒におはじき遊びなどをしたものでした。彼らの間で守られる一般的な決まりは、彼らの内の1人がもう1人に1、2勝の借りがあるなら、翌日に同じだけ返却されなければならないということでした。ある晩、彼らは1勝をカマールの貸しで別れました。次の日、「勝ちの返還」を要求するために、カマールは少年の家に行きました。そこで彼は少年がヴェランダで横になっているのを目にしましたが、その一方で、彼の親族たちが彼のそばで涙していました。
 「どうかしましたか」とカマールは彼らに尋ねました。「昨晩、彼は僕と遊んでいて、僕に1勝の借りもあるんです」。親族たちはさらにいっそう涙し、少年は死んでいるのだと言いました。「いいえ」とカマールは言いました。「彼は死んでいません。ただ彼が僕に借りている勝ちを返却するのを逃れようとして、そんなふりをしてるだけです」。親族たちは抗議し、カマールに自分自身で少年が本当に死んでいることを、体が冷たく硬直していることを確かめるように求めました。「でも、この全ては、この子のふりに過ぎません。私は知っています。体が硬直して冷たいから何だっていうんですか。僕もそのようになれます」。そのように言って、カマールは横たわり、瞬く間に死んでいました。
 哀れな親族たちは、その時まで彼ら自身の子供の死に涙していたのですが、気が動転し、うろたえ、今やカマールの死にも涙し始めました。しかし、仰向けのカマールは立ち上がり、「もう分かりましたか。あなたたちが言うであろうように僕は死んでいましたが、僕は再び起きて、ぴんぴんしています。こうやって彼は僕を欺きたいのですが、彼のふりでこのように僕から逃れることはできません」と言明しました。
    話によれば、最後には、カマールの生来の聖者のごとき性質が死んだ少年に命を与え、カマールは彼に支払われるべき勝ちを取り戻しました。その教訓とは、体の死は自らの消滅ではないということです。体とそれの関係は誕生と死によって制限されません。そして、肉体の中のそれの場所は、例えば眉間のように、特定の場所で行われるディヤーナの修練のために、その中心で感じられる体験によって、範囲を定められません。自らの認識という至高の状態は、決してなくなりません。それは誕生と死だけでなく、心の3つの状態も超越します。

信奉者:
 シュリー・バガヴァーンが、自らは、その座はハートにあるが、どの中心やチャクラでも働くことがあると言うため、眉間での強烈な集中、ディヤーナの修練によって、この中心それ自体が自らの座となることは可能ではないのですjか。

マハルシ:
 それがあなたの注意を制御する場所を定めることによる集中の修練の段階に過ぎない限りは、自らの座についてのどのような考察も理屈の産物に過ぎません。あなたはあなた自身を主体、見る者とみなし、あなたが注意を定める場所は見られる対象になります。これはバーヴァナに過ぎません。逆に、あなたが見る者自身を見るとき、あなたは自らに溶け込み、あなたはそれと一体になります。それがハートです。

信奉者:
 では、眉間での集中の修練は望ましいものですか。

マハルシ:
 どのような類のディヤーナの修練であれ、その最終的結果は、サーダカが心を定める対象が主体と異なり、分離して存在するのを止めるということです。それら(主体と対象)は、唯一の自らになり、それがハートです。

 眉間の中心への集中の修練は、サーダナの方法の1つであり、それによって、差し当たり、思いは効果的に制御されます。その理由はこれです。全ての思いは、心の外向きの活動です。そして、思いは、体もしくは心の「視覚」の後にやって来ます。

 しかしながら、注意すべきは、この眉間に注意を定めるというサーダナは、ジャパを伴わなければならないということです。なぜなら、心を制御するためであれ、散らすためであれ、重要性において体の目に次ぐものは、体の耳であるからです。心を制御し、それによって心を鍛えるためであれ、心を散らし、それによって心を浪費するためであれ、重要性において心の目(つまり、心による対象物の映像化)に次ぐものは、心の耳(つまり、心による言葉の発声)です。

 ですから、例えば眉間のように、中心に心の目を定める間、あなたはナーマ(名)、もしくは、マントラ(聖なる音節)の心による発声も修練すべきです。そうでなければ、あなたはすぐに集中の対象を手放すでしょう。

 上に述べられたようなサーダナは、御名(ナーマ)、御言葉(マントラ)、もしくは、自ら-あなたがそれなんと呼ぶのであれとディヤーナのために選ばれた中心との同一化に通じます。純粋な意識自ら、もしくは、ハートが、最終的な実現です。

信奉者:
 どうしてシュリー・バガヴァーンは、チャクラのどこか特定の中心への集中を修練するよう私たちに指示しないのでしょうか。

マハルシ:
 ヨーガ・シャーストラには、サハスラーラ、脳が自らの座であると書いてあります。プルシャスークタは、ハートがその座であると主張します。起こりうる疑問をサーダカが避けられるように、私は彼に、「私」(という)性(質)、「私はいる」(という)性(質)なる「糸」、手がかりを手に取り、その源までそれを追跡するように言います。なぜなら、第1に、誰にとっても彼の「私」という概念について疑問を抱くことは不可能であり、第2に、どのようなサーダナが採用されても、最終目標は、あなたの体験の根源的な所与である「私はいる」性の源の実現であるからです。

 ですから、あなたがアートマ・ヴィチャーラを修練すれば、自らであるハートにあなたは達するでしょう。

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