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2015年10月10日土曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第5章 ハートの場所

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p58-62

マハルシの福音

第2巻 第5章 ハートの場所

信奉者:
 しかし、私はある聖者によって彼の霊的体験が眉間で感じられると言われるのを聞きました。

マハルシ:
 以前、私が話したように、それは主体‐対象の関係性を超越する究極的かつ完全な実現です。それが達成されるとき、どこで霊的体験が感じられるかは重要なことではありません。

信奉者:
 しかし、問題は、2つの見解、すなわち、①霊的体験の中心は眉間である ②それはハートである、の内のどちらが正しいのかということです。

マハルシ:
 修練の目的上、あなたは眉間に集中してもかまいません。その時、それはバーヴァナ、心の想像的観想になるでしょう。しかしながら、アヌバーヴァ、実現の至高の状態は心を超越し、それとあなたは完全に同一化し、その中にあなたの個人性は完全に解消されます。その時、対象化された中心が、それと異なり、分離した主体としてのあなたによって経験されることはありえません。

信奉者:
 少しばかり異なる言葉で私の質問をしたいと思います。眉間は自らの座であると言うことができますか。

マハルシ:
 自らが意識の究極的な源であり、心の3つの状態すべての間に等しく存続しているとあなたは認めています。しかし、瞑想中の人が眠気に負けるときに何が起こるか見てみなさい。眠りの最初の兆候として、彼の頭はうつむき始めます。しかしながら、自らが眉間や頭の他のどの場所にでも位置しているなら、それは起こり得ません。

 眠りの間に自らの体験が眉間で感じられないなら、その中心が自らの座と呼ばれるとき、自らが己のあるべき場所をしばしば見捨てるということを必ずも暗示することになり、それは馬鹿げています。

 実のところ、サーダカは、その心を集中するどのような中心、チャクラにおいてでも彼の体験を得ることがあります。しかし、そのために、彼の体験のその特定の場所が、その事実そのものによって、自らの座にはなりません。

 聖者カビールの息子、カマールについて興味深い話があります。それは、頭が(そして、なおのこと眉間が)自らの座とは見なせないことを示す例として役立ちます。
 カビールはシュリー・ラーマを熱烈に信奉しており、彼が信奉する主を褒め称える人々に彼は必ず食べ物を与えました。しかしながら、ある時、そのような信奉者の集まりに食べ物を提供するための資金をたまたま彼は持ち合わせていませんでした。しかしながら、彼にとって、翌朝までに彼がどうにかして必要なあらゆる手はずを整えなければならないという以外の選択肢はあり得ませんでした。それで、彼とその息子は必要な食料を確保するために夜中に出かけました。
 話によれば、父親と息子が、彼らが壁に作った穴を通じて商人の家から食料を取り去った後、息子は、家族を起し、家に泥棒が入ったことを、道義上、ただ彼らに知らせるために、再び入りました。家族を起し、少年が穴を通ってまんまと逃げおおせ、反対側にいる父親に加わろうとしたとき、彼の体が隙間に詰まってしまいました。追跡する家族に身元を確認されるのを避けるため(というのも、もし見つかれば、翌日、信奉者たちへの食べ物の提供が全くなくなるだろうから)、彼は父親に呼びかけ、その首を切断し、一緒に持ち去るように言いました。それは行われ、カビールは盗んだ食料と息子の頭をもってまんまと逃げおおせ、家に着くとすぐにその頭は起こりうる発覚から隠されました。翌日、カビールはバクタたちにご馳走し、前夜に起こったことを全く気に留めていませんでした。「ラーマのご意思が」、彼は心の中で言いました、「私の息子が死ぬことであるなら、それが行き渡らんことを!」。夕方、カビールはその一行と共に、バジャナなどを伴い、いつも通り列をなして町へ出かけました。
 その間、泥棒に入られた家族は王様に報告し、頭を切り取られたカマールの体を取り出しましたが、手掛かりは得られませんでした。その身元を確認するために、王様は目立つように公道上に体をくくり付けました。それを要求したり、持ち去る者が誰であれ(というのも、どんな死体も、最後の儀式が親類縁者によってそれに行われなければ見捨てられないので)、その目的のために秘密裏に配置された警察に尋問されるか、逮捕されるようにです。
 バジャナもたけなわに、カビールとその一行が公道のそばを通った、そのとき、皆が驚愕したことに、(完全に死んだとみなされていた)頭を切り取られたカマルの体が、バジャナの一行によって歌われる調べに合わせて足踏みしながら手をたたき始めました。
    この話は、頭や眉間が自らの座であるという提言を反証しています。また、戦場において、突然の力強い剣の一撃によって戦闘中の兵士の頭が体から切り落されたとき、終には死んで倒れる前に、ほんのしばらくの間、体が戦うふりをして走ったり、手足を動かし続けたりすることに言及してもいいでしょう。

信奉者:
 しかし、カマールの体は何時間も前に死んでいたのではないですか。

マハルシ:
 カマールにとって、あなたが死と呼ぶものは、並外れた経験では全くありません。ここに彼がさらに年若かった時に起こったことについての話があります。
 少年のころ、カマールには同い年の友達がいて、よく彼と一緒におはじき遊びなどをしたものでした。彼らの間で守られる一般的な決まりは、彼らの内の1人がもう1人に1、2勝の借りがあるなら、翌日に同じだけ返却されなければならないということでした。ある晩、彼らは1勝をカマールの貸しで別れました。次の日、「勝ちの返還」を要求するために、カマールは少年の家に行きました。そこで彼は少年がヴェランダで横になっているのを目にしましたが、その一方で、彼の親族たちが彼のそばで涙していました。
 「どうかしましたか」とカマールは彼らに尋ねました。「昨晩、彼は僕と遊んでいて、僕に1勝の借りもあるんです」。親族たちはさらにいっそう涙し、少年は死んでいるのだと言いました。「いいえ」とカマールは言いました。「彼は死んでいません。ただ彼が僕に借りている勝ちを返却するのを逃れようとして、そんなふりをしてるだけです」。親族たちは抗議し、カマールに自分自身で少年が本当に死んでいることを、体が冷たく硬直していることを確かめるように求めました。「でも、この全ては、この子のふりに過ぎません。私は知っています。体が硬直して冷たいから何だっていうんですか。僕もそのようになれます」。そのように言って、カマールは横たわり、瞬く間に死んでいました。
 哀れな親族たちは、その時まで彼ら自身の子供の死に涙していたのですが、気が動転し、うろたえ、今やカマールの死にも涙し始めました。しかし、仰向けのカマールは立ち上がり、「もう分かりましたか。あなたたちが言うであろうように僕は死んでいましたが、僕は再び起きて、ぴんぴんしています。こうやって彼は僕を欺きたいのですが、彼のふりでこのように僕から逃れることはできません」と言明しました。
    話によれば、最後には、カマールの生来の聖者のごとき性質が死んだ少年に命を与え、カマールは彼に支払われるべき勝ちを取り戻しました。その教訓とは、体の死は自らの消滅ではないということです。体とそれの関係は誕生と死によって制限されません。そして、肉体の中のそれの場所は、例えば眉間のように、特定の場所で行われるディヤーナの修練のために、その中心で感じられる体験によって、範囲を定められません。自らの認識という至高の状態は、決してなくなりません。それは誕生と死だけでなく、心の3つの状態も超越します。

信奉者:
 シュリー・バガヴァーンが、自らは、その座はハートにあるが、どの中心やチャクラでも働くことがあると言うため、眉間での強烈な集中、ディヤーナの修練によって、この中心それ自体が自らの座となることは可能ではないのですjか。

マハルシ:
 それがあなたの注意を制御する場所を定めることによる集中の修練の段階に過ぎない限りは、自らの座についてのどのような考察も理屈の産物に過ぎません。あなたはあなた自身を主体、見る者とみなし、あなたが注意を定める場所は見られる対象になります。これはバーヴァナに過ぎません。逆に、あなたが見る者自身を見るとき、あなたは自らに溶け込み、あなたはそれと一体になります。それがハートです。

信奉者:
 では、眉間での集中の修練は望ましいものですか。

マハルシ:
 どのような類のディヤーナの修練であれ、その最終的結果は、サーダカが心を定める対象が主体と異なり、分離して存在するのを止めるということです。それら(主体と対象)は、唯一の自らになり、それがハートです。

 眉間の中心への集中の修練は、サーダナの方法の1つであり、それによって、差し当たり、思いは効果的に制御されます。その理由はこれです。全ての思いは、心の外向きの活動です。そして、思いは、体もしくは心の「視覚」の後にやって来ます。

 しかしながら、注意すべきは、この眉間に注意を定めるというサーダナは、ジャパを伴わなければならないということです。なぜなら、心を制御するためであれ、散らすためであれ、重要性において体の目に次ぐものは、体の耳であるからです。心を制御し、それによって心を鍛えるためであれ、心を散らし、それによって心を浪費するためであれ、重要性において心の目(つまり、心による対象物の映像化)に次ぐものは、心の耳(つまり、心による言葉の発声)です。

 ですから、例えば眉間のように、中心に心の目を定める間、あなたはナーマ(名)、もしくは、マントラ(聖なる音節)の心による発声も修練すべきです。そうでなければ、あなたはすぐに集中の対象を手放すでしょう。

 上に述べられたようなサーダナは、御名(ナーマ)、御言葉(マントラ)、もしくは、自ら-あなたがそれなんと呼ぶのであれとディヤーナのために選ばれた中心との同一化に通じます。純粋な意識自ら、もしくは、ハートが、最終的な実現です。

信奉者:
 どうしてシュリー・バガヴァーンは、チャクラのどこか特定の中心への集中を修練するよう私たちに指示しないのでしょうか。

マハルシ:
 ヨーガ・シャーストラには、サハスラーラ、脳が自らの座であると書いてあります。プルシャスークタは、ハートがその座であると主張します。起こりうる疑問をサーダカが避けられるように、私は彼に、「私」(という)性(質)、「私はいる」(という)性(質)なる「糸」、手がかりを手に取り、その源までそれを追跡するように言います。なぜなら、第1に、誰にとっても彼の「私」という概念について疑問を抱くことは不可能であり、第2に、どのようなサーダナが採用されても、最終目標は、あなたの体験の根源的な所与である「私はいる」性の源の実現であるからです。

 ですから、あなたがアートマ・ヴィチャーラを修練すれば、自らであるハートにあなたは達するでしょう。

2015年2月18日水曜日

心の集中という修練の目的、優先すべきは自分自身の現実を知ること

◇『バガヴァーンと日々をともにして(Day by Day with Bhagavan)』

1945年10月19日 朝

 ボンベイからの法廷弁護士がバガヴァーンに尋ねました。「私はバガヴァーンの著作などを読みました。それらを知的に理解することはできますが、体験では何も実現できていません。私はバガヴァーンの方法を六年間試みましたが、まるで進歩していません。私が瞑想する時、他の思いがやって来ます。都市に住み、仕事を行い、ここに時おり来るだけの私のような人々にとって、私がこれまでできたよりも我々がうまくいくように、バガヴァーンはどのようなサーダナを勧めるでしょうか」。

バガヴァーン:
 あなたの本質はいつもそこにあります。あなたの瞑想などは、一時的に訪れるだけです。現実はあなたの自らであるため、あなたにとって実現すべきもの何もありません。必要とされる全ては、非現実を現実とみなすことをあなたが放棄しなければならないということです。全ての瞑想、ディヤーナ、ジャパの目的は、それだけ-自らでないものに関する一切の思いを放棄すること、多くの思いを放棄し、一つの思いから離れずにいることです。

 サーダナに関して言えば、多くの方法があります。あなたは、「私は誰か」あなた自身に尋ね、ヴィチャーラを行ってもかまいませんし、もしそれがあなたにとって魅力的でないなら、「私はブラフマンである」などのディヤーナを行ってもかまいませんし、もしくは、ジャパにおいてマントラや名前に集中してもかまいません。目的は、心を一点に集中させること、心を一つの思いに集中し、そうして、我々の多くの思いを排除することです。そして、我々がこれを行うなら、終には、その一つの思いさえも消え、心はその源で消え去ります。

訪問者: 
 実際の修練で、私は私の努力においてうまくいかないことに気づきます。バガヴァーンの恩寵が私に降りてこなければ、うまくいきません。

バガヴァーン:
 グルの恩寵は、いつもそこにあります。あなたはそれが空高く、はるか離れたどこかや何かであり、下りて来なければならないと想像しています。実際、それはあなたの内に、あなたのハートの中にあり、あなたが心をその源に退けたり、溶け込ますことを達成する瞬間、泉から吹き出るように、あなたの内側から恩寵が現れ出ます。

別の訪問客:
 この世界の現実性とは何ですか。

バガヴァーン:
 あなたがはじめにあなたの現実性を知るなら、世界の現実性を知ることができます。たいていの人が彼ら自身の現実性について知ろうと思わずに、世界の現実性についてしきりに知りたがるのは奇妙なことです。あなたは、まずは、あなた自身の自らを実現し、その後、世界があなたと独立して存在するのか、あなたの前に来て、その現実性や実在を主張できるのか確かめなさい。

別の訪問客:
 例えば子供たちのように、罪のない人々にさえとても多くの苦しみが存在するのはなぜでしょうか。いったいどのように説明できるのでしょうか。前世などに関連してでしょうか。

バガヴァーン:
 世界に関して言えば、あなたがあなた自身の現実を知るなら、これらの質問は起こりません。これら全ての相違、あなたが言うような罪のない人々の痛みや苦しみは、あなたと独立して存在しますか。それらの物事を見て、それらについて尋ねるのは、あなたです。「私は誰か」という探求によって、あなたが見る者を理解するなら、見られるものについての全ての問題は完全に解決されます。

サイード博士:
 人が精神的利益を2年ほど願い求めても、聞き入れられないなら、彼はどうすべきですか。

バガヴァーン
 その願い事が叶えられないことが、彼のためであるかもしれません。

1945年12月28日 午後 (前略)

 我々のチャガンラル・ヨーギに紹介され、ジョーシー氏という人が、以下の質問をし、バガヴァーンは以下の答えを与えました。

質問1:
 「私は誰か」と考える時、「私はこの死すべき体ではなく、私はチャイタンヤ(*1)、アートマ、または、パラマートマである」という答えがやって来ます。そして、突然、別の質問が起こります-「なぜアートマはマーヤーに入ったのか」、もしくは、言い換えるなら、「なぜ神はこの世界を想像したのか」。

答え:
 「私は誰か」探求することは、実際には、自我、または、「私」なる思いの源を探しだそうと努めることを意味します。「私はこの体ではない」などのような他の思いを考えるべきではありません。「私」の源を探すことが、他の一切の思いを取り除く手段として役立ちます。あなたが述べたような他の思いを働かせる余地を与えるべきではなく、(それぞれの思いが生じる時に)誰にその思いが起こったのか尋ねることによって、そして答えが「私がその思いを得た」であるなら、この「私」は誰か、その源はどこからかさらに尋ねることによって、「私」なる思いの源を見出すことに注意を定めておくべきです。

質問2:
 アートマは、サークシャートカーラ(*2)の対象ですか。

答え:
 アートマは、そのままにあります。それはいつもサークシャート(*3)です。一方が知り、他方が知られるという二人のアートマは存在しません。それを知ることとは、それであることです。それは人がそこで他の何ものも意識しない境地です。それは意識そのものです。

質問3:
 「ブラフマ・サティヤム・ジャガット・ミティヤム(ブラフマンは現実であり、世界は非現実である)」の意味が私には理解できません。この世界は現実に存在しているのでしょうか、していないのでしょうか。ジニャーニは世界を見ないのでしょうか。それとも、彼はそれを異なる姿で見るのでしょうか。

答え:
 世界にその現実性や虚偽性について悩ませておきましょう。まずは、あなた自身の現実性について見出しなさい。その時、全ての物事が明らかになります。ジニャーニがどのように世界を見るかは、あなたが心配することではないでしょう。あなたはあなた自身を実現しなさい。その時、あなたは理解します。ジニャーニは、名と形からなる世界が自らを制限していないこと、自らがそれらを超えていることを知っています。

質問4:
 私はどのように崇拝すべきか知りません。崇拝する方法をどうぞ私にお示しください。

答え:
 「崇拝する者」と「崇拝されるもの」が存在しますか。崇拝する者である「私」を見出しなさい。それが最良の方法です。いつも見る者が追跡されなければなりません。

(*1)チャイタンヤ・・・意識、精神、知性
(*2)サークシャートカーラ・・・実現すること、明らかにすること
(*3)サークシャート・・・顕現している、明らかである

2014年11月30日日曜日

シュリー・ラマナ・マハルシのヴェーダンタ的神秘主義への貢献

◇「山の道(Mountain Path)」、1969年7月 p160~166

シュリー・ラマナ・マハルシのヴェーダンタ的神秘主義への貢献


G.V.クルカルニ教授

Ⅰ.導入

 ティルヴァンナーマライの偉大な現代の聖者、シュリー・ラマナ・マハルシは、神秘主義のどのような分野への彼の貢献についてもかかずらうことはありませんでした。16才の少年の時に実現(悟り)を達成して以来ずっと、彼はジニャーニの清浄な人生を送りました。彼はどのような哲学や形而上学にも、机上の学問にも興味はありませんでした。彼が実現したものを彼は簡素な言葉で必要とした人々に伝えました。彼はまた、彼の実現(悟り)へ通じる道を伝えました。仏陀のごとく、聖なる事柄に関して極めて実践的であったため、彼は本質的でないことにかかずらわず、本質的な、それも絶対的に本質的なことにのみ集中しました。彼は多くを記さず、多くを語りませんでした。『シュリー・アルナーチャラへの五つの賛歌』という例外を除き、彼が記し、語ったことは何であれ、弟子や探求者の質問への答えでした。彼はどのような新しい宗教も創設せず、どのような新しい哲学分派や体系も確立しませんでした。何であれ彼が伝えたことは、彼自身のものであり、過去の聖者たちの発言、ヴェーダーンタ及びその他の神秘主義の輝かしい伝統によって裏づけられています。彼はヴェーダーンタの古(いにしえ)の神秘主義的哲学を新たな見地から提示しました。従って、我々はカントやヘーゲルの哲学について語るように、彼の神秘主義的哲学について語ることはできません。ともかく、それは新しい道、人生への新しいアプローチではありましたが、それでも、それは古のものです。彼が説いた道は二つ-①探求の道、そして、②委ねの道です。目的は自我、チット‐ジャーダ‐グランティの完全な消滅です。彼自身の言葉では、「マールガナ・マールガ」(*1)と「マッジャナ・マールガ」(*2)です。『ラマナ・ギーター』では、第三の道、すなわち、呼吸の制御(プラーナ・ニローダ)もまた言及されていますが(*3)、これは「マールガナ・マールガ」の一部です。マハルシは、「はじめに、あなたが誰か見出しなさい、もしくは、委ねなさい」とよく言いました。ある弟子に彼の教えがシャンカラの教えと同じであるのか尋ねられた時、彼は、「人々はそのように言います。全ての実現した人が、その人自身の表現方法を持ちます」と答えました。彼は彼がシヴァの化身とみなしていたシャンカラに大いに敬意を払っており、『ヴィヴェーカチューダーマニ』や『アートマボーダ』のようなシャンカラのあまり重要でない作品をタミル語に翻訳しました。彼はヒンドゥー教徒だけでなく、イスラム教徒やキリスト教徒の古の伝統と過去の聖者も評価し、時には彼らの言葉を引用しました。彼はギーターと聖書は同じであり、「イスラム」という言葉は委ねを意味すると言いました。

Ⅱ.ヴェーダーンタ的神秘主義思想との類似点

 ヴェーダーンタ的神秘主義への彼の貢献や彼の教えの独自性の指摘に進む前に、ヴェーダーンタ的神秘主義思想の顕著な特徴に言及させていただきます。

 シュリー・ラマナはインドのリシの伝統に属しており、ラーダークリシュナン博士が述べるように、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの形而上学的立場を採用しています。彼はシュリー・シャンカラのアドヴァイタ的伝統を新たにし、バクティ礼賛の長い間の優位の後に、知の道の卓越性を蘇らせたと言われています。

 一般的に、ウパニシャッドは共通して神秘主義的思想の傾向を持ちますが、究極的現実への三つの異なるアプローチ、すなわち、宇宙論的、神学的、心理学的方法が存在します。最初の二つは究極的に3番目のもの、心理学的方法へ通じ、それは決定的な方法です。それは「私」という体験と我々が呼ぶものが、人生における我々の経験領域全体の核心であると述べることに存します。これは「私」と呼ばれる自分自身を通じて、究極的現実を達成するためのアプローチです。『ブラフマ・スートラ I. 1. i.』の注釈の中で、シャンカラはとても明確にこれを語ります。我々の純粋で、簡素な「私」という体験はブラフマンと同じであると彼は言います。「このアートマンはブラフマンである」(*4)、「意識がブラフマンである」(*5)、「そが汝なり」(*6)というような偉大なヴェーダーンタ的言明は、「私」としての純粋な意識と究極的現実の間のこの同一性を簡素な言葉で表現します。同じことがウパニシャッドに見出される様々な喩え話によって裏づけられています。例えば、『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』のヤージュニャヴァルキャと彼の妻との有名な対話(*7)、『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』のインドラとヴィローチャナとの対話(*8)、同じウパニシャッドのブルグとその息子シュヴェータケートゥとの対話(*9)は、まさしくこの真理を指し示しています。

 ヴェーダーンタはさらに、アートマン、もしくは、ブラフマンの本質は、実在、意識、至福であると述べます。それはオームカーラとして知られるものによって象徴されます。『マンドゥキャ・ウパニシャッドとガウダパーダのカーリカ』(*10)は、それが三つ半のマートラー-A+U+Mから成り立つと詳しく述べます。「A」は目覚めの状態に住まう自らを意味します。「U」は夢の状態に住まう自らを、「M」は深い眠りの状態に住まう自らを意味します。第四のもの(トゥリーヤ)はその一切を超越しています。全世界の名と形は、その礎にある、このオームの顕現として、束の間の様相です。言いかえれば、「ブラフマンは現実であるが、現象的世界は非現実である」。これは(その哲学的意味における)「ヴィヴェーカ」と伝統的に呼ばれています。ブラフマンから離れた世界は非現実であり、ブラフマンとしての世界は現実です。

 この教説はヴェーダーンタにおいて二つの方法-①肯定的なもの(アンヴァヤ)、②否定的なもの(ヴヤティレーカ)-で説明されています。「この全てはブラフマンである」(*11)、「この全てはアートマンである」(*12)、「ブラフマンはこの全てである」(*13)、「アートマンはこの全てである(*14)は前者の典型的表現ですが、「これではない、これではない」(*15)などの類は後者を表します。

 ヴェーダーンタの伝統は、現実を実現する二つの方法-①有神論的崇拝(サグナ・ウパサーナ)、②非‐有神論的崇拝(ニルグナ・ウパサーナ)-を定めています。前者はより明敏でない人向けであり、後者はより明敏で、より高度に発達した探求者向けです。これらの道は、しかしながら、相入れず、相反しているわけではありません。両者ともが同じ目的に通じます。

 ウパニシャッドの中のヤージュナヴァルキャとマイトレーイーの対話など(*16)で、我々は自らの探求の道に出会います。ヤージュニャヴァルキャは、「自らが見られ、聞かれ、熟考され、瞑想されねばならない」と言います。シャンカラはこの道を「ヴィチャーラ」(*17)や「ヴィヴェーカ」(*18)と呼び、彼のプラカラナ・グランタスでそれを褒め称えました。後にヴィドヤーラニャのような著者がそれに言及し、論じました。シャンカラは音を追うことに基づいた瞑想(ナーダーヌサンダーナ)(*19)に言及し、それはウパニシャッド的文献の中でも言及されています。『バガヴァッド・ギーター』は、15章の1詩節(*20)の中で、この探求の道に言及しています。

 ヴェーダーンタは、ダハラヴィドヤー(*21)、または、ハールダヴィドヤーにも言及しています。ハートがアートマンの座であり、自らの実現を得るために、人はそこに集中すべきであるとそれは述べます。『バガヴァッド・ギーター』(*22)でさえそれに言及します。

 自らの知と並んで、ヴェーダーンタはバクティの教説も褒め称えます。我々はこの教説への言及を特に『カタ・ウパニシャッド』(*23)と『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(*24)に見出します。シャンカラは彼のストートラの中でそれを褒め称え、ラーマーヌジャは『ブラフマ・スートラ』の彼の注釈書の中でそれを「プラパッティ」と呼びます。『バガヴァッド・ギーター』と『バーガヴァタ』はそれを雄弁に賞賛することで良く知られています。

 ヴェーダーンタは行為は必要であると述べますが、行為の放棄をより好みます(*25)。シャンカラは行為は知恵(ジニャーナ)の正反対であると述べます(*26)。『バガヴァッド・ギーター』では、しかしながら、統合が存在します。

 最後に、ヴェーダーンタは実現のためのグルの重要性を強調します。グルは尊敬すべきブラフマニシターであるべきであり(*27)、マントラにより、眼差しにより、触れることにより、沈黙により、探求者を導くことができます(*28)。彼の恩寵が実現のために不可欠です。『バガヴァッド・ギーター』は、「グルへの奉仕」をジニャーナを構成する美徳の中の一つであると称賛し(*29)。ジニャーニへの奉仕と交際を勧めます(*30)。ヴェーダーンタは、スルティと四つのマハーヴァーキャの権威をその中軸として認めています。

Ⅲ.ラマナ・マハルシと彼の教えの独自性

 実現(悟り)に関する限り、伝統的なアドヴァイタ的ヴェーダーンタとマハルシの教えに何らの違いもありません。上で言及されたヴェーダーンタの顕著な特徴の大部分は、マハルシの作品の中に居場所を見つけます。現実とそれへ通じる道が、両者によって扱われています。それへの心理学的方法が受け入れられ、好まれ、自らとブラフマンの同一性(ブラフマートマイキャ・バーヴァ)は当然のこととされ、肯定的表現法と否定的表現法の両者が承認され、(時には)有神論的方法と(常に)非‐有神論的方法が導きとして指し示され、探求と委ねの方法が定められ、自らは「ハート」に存していると言われています。尊敬すべきグルと彼の恩寵は実現に不可欠であるとみなされます。しかし、この全ての類似性を認めても、両者の表現法や方法論はいくらかの点において異なります。ラマナ・マハルシのメッセージには、いくらかの相違と顕著な特徴があり、ある点でそれは独特のものです。「同じ実現(悟り)を表現するのに、他の方法で言い表わすことはできますか」という質問へ答えて、彼が言い表わすように、「実現した人は、彼自身の言葉を使います」(*31)

 彼の言葉づかいが独特であっただけでなく、彼の人格もまた独特でした。あるいは、彼の人格が独特であったために、彼の言葉づかいもまた独特であったのかもしれません。我々が彼の伝記や彼自身によって述べられる説明を読む時、彼が16才の時に死と直面した時、ジニャーニ、完全に実現した(悟った)人になったことを見出します。そして、彼は、「誰が死につつあるのか」、「私は誰か」と内に問い、「体は死ぬかもしれないが、『私』(が死ぬの)ではない」と決定的に悟りました。これは彼の中に完全な変容をもたらしました。死はもはや彼を脅かさず、生は新たな意味を獲得しました。このように、この全ては聖典の学習でも、グルの足下でのどのような規律やサーダナの結果でもありませんでした。質問が尋ねられた時はいつでも、彼自身の体験を拠り所として、内から自然と彼にやって来たものを答えとして言いました。そのために、彼の質問への答えと彼の作品の中で、彼はいつも「私」の本質を強調しました。

 それは彼のメッセージのキーワードです。精神的な幸福に本当に関心がある人にとって、彼のメッセージは単純明快です。それは形而上学、専門用語、激しい議論、論争、机上の学問という棘のある密林へ通じません。実際のところ、人は学んだことを忘れなければなりません。それはヴェーダーンタ的作品の中で言及される、ブラフマンへの探求のための四つの必須条件(サーダナ・チャトゥシュタヤ)(*32)にこだわりません。必要とされることは、「私は誰か」知りたいという燃えるような熱望です。実を言えば、あらゆる人が、子供でさえも「私」を知っています。それは我々の活動と知識全ての中心です。しかし、我々が持つ「私」についての知識は、表面的なものでしかありません。これが表面的なものであるなら、本当の知識とは何でしょうか。他の何についても思うことなく、人がそれを絶えず吟味するなら、より深く深くに進み、この「私」の背後、その源へ行き、表面的な「私」は抜け落ち、ハートの中で、我々の内に遍く行き渡る「私‐私」の意識が感じられます。これが本当の「私」であり、神、アートマン、ブラフマンなど(どんな名前を使うのであれ)として知られています。そのため、人は現実または神を探して遠くに行く必要はありません。それは我々の非常に近くにあり、愛しいものであり、我々のまさにハートに存しています。マハルシは、これに関連して、二人の「私」は存在しないと注意します。「私」はただ一人です。体との誤った関わりのため、本当の「私」は、自我‐アハンカーラとして知られる表面的な、もしくは、偽の私として感じられます。私‐アハムは神、真のアートマンですが、接尾辞の「カーラ」が意味するように、アハンカーラは作りものです。

 マハルシは我々のこの「私」を吟味し、それに集中し、それを超越するように求めます。この探求の助けとして、心を静めるために、彼は呼吸の制御、または、呼吸を見守ることを勧めます。この道は彼によって「探求の道」、ヴィチャーラまたはマールガナ・マールガと呼ばれています。それが我々を一直線に現実へ導くため、彼はまたそれを「真っ直ぐな道」とも呼びます。他の一切の道は、究極的に、この道に通じます。

  マハルシは、ヴェーダンタ的文献の中で勧められる瞑想とヴィチャーラの間の相違をこのように指摘します。「瞑想は瞑想する対象を必要としますが、ヴィチャーラ、または、内観では、対象を持たない主体だけが存在します。瞑想はこのようにヴィチャーラと異なります。ヴィチャーラは過程であり、目的でもあります。『私は在る』は目的であり、究極の現実です。この純粋な存在に努力してつかまることが、ヴィチャーラです。それが自発的で、自然になる時、それが実現(悟り)です」(*33)

 同様に、ヴィチャーラは、「私はブラフマンである」(*34)や「私はアートマンである」という瞑想とは異なります。後者は心によるものか、知的なものでしかありません。マハルシは、「私はブラフマンである」というウパニシャッド的格言を説明し、それは「私はブラフマンである」ではなく、ブラフマンが「私」として存在することを意味し、「私はブラフマンである」「私はブラフマンである」と思いふけるように勧められていると思われるべきでないと述べました。

 「アートマンが見られねばならない!」などのウパニシャッド的言明は人々に正しく理解されていないとシュリー・ラマナは言います。彼は、「それはアートマンに、『私』という本当の自覚に、完全にのみ込まれることを意味します」(*35)と説明します。

 ヴェーダーンタの中で言及される単なるヴィヴェーカだけでは自らの実現のために十分ではないと彼はさらに指摘します(*36)。それは離欲(ヴァイラーギャ)を生じるため、役立ちます。しかし、解放のために最も不可欠なものとは、「アートマニシター」-自らに住まうことです。分別(ヴィヴェーカ)は、我々を放棄する者にすることによって、見せかけ(アーバーサ)を束の間のものとして捨て去り、永遠の真理であり存在のみにしっかりつかまるよう駆り立てることによって、我々を一歩だけ前に導けます(*37)

 シャンカラに帰せられる、ヴェーダーンタの中で多く引用される言明、「ブラフマンは現実であるが、世界は非現実である」は頻繁に誤解されています。シュリー・ラマナはこれに関連して、「アドヴァティンやシャンカラの学派が世界の存在を否定したり、彼らがそれを非現実とみなすと言うことはまったく正しくありません。それどころか、彼らにとってそれは他の人々よりも現実的なのです。彼らの世界は常に存在しますが、他の学派の世界は起源・成長・衰退を持ち、それゆえに現実になりえません。ただ、彼らが言うことは、世界は世界として現実でないが、世界はブラフマンとして現実であるということです。全てはブラフマンであり、ブラフマン以外何も存在せず、世界はブラフマンとして現実です。シャンカラはマーヤーが存在しないと言います。マーヤーの実在を否定し、それをミティヤや、非実在と呼ぶ彼をマーヤー・ヴァーディと呼ぶことはできません」(*38)と言います。

 この全ては、ヴェーダーンタのなかで暗示されているものが、彼自身の実現(悟り)の観点から、彼によって明示され、詳説されているということを明確に示しています。彼はまた、ヴェーダーンタの中の古い概念や用語と彼が使った新しい概念や用語の区別を大胆に指摘しました。

 例えば、彼が自らの探求に関連して使った「フリダヤム」という言葉は、古いヨーガ的文献の中で使われる胸の(アナーハタ・)チャクラと異なります。それは左側の身体的なハート(心臓)とも異なります(*39)。「フリダヤム」(ハート)はハート(心臓)と呼ばれる身体的器官とは異なると彼は説明します。「フリダヤム」は「アヤム」と「フリット」の二語からなり、「これが中心である」を意味します。そのように、フリダヤムまたはハートは自らの表現であると言われています。胸部のその場所は、右側であり、左側ではありません。それは自らの座であるということもできますが、これはただ理解のためだけに言われています。自らはあらゆる場所にいて、それを位置づけるのは正しくありません。しかし、ただ我々が体の意識であるから、我々はそれをそのように説明しなければなりません。この「フリダヤム」は、古いヴェーダンタ的およびタントラ的文献の中の「フリダーカーシャ」と異なります。ダハラヴィドヤーやハールダヴィドヤーへの言及はすでになされていますが、カパリ・シャーストリは、『サッド・ダルシャナ・バシャヤ』への紹介の中で、ダハラヴィドヤーとシュリー・ラマナの「サッドヴィドヤー」の違いを指摘しています(*40)。前者においては、「瞑想の目的のために、人は想像力豊かな心によって、サグナ・ブラフマンまたは人格神の概念を形作らねばならず、それをフリド・グーハ、ハートの空洞と呼ばれる場所に据え、それに瞑想します。サッドヴィドヤーでは、人格神や非人格神いづれについての知性的な知識を持つことは不可欠ではなく、プルシャの特別な象徴や、プルシャの住まう場所としてどのような空洞を心に抱いたりする必要もありません。想像上のダハラ・アーカーシャ、ハート‐中心の空洞の中にサグナ・ブラフマンが据えられ、そこで瞑想されねばならないと勧められてもいません。遍く行き渡るブラフマンは、あらゆる人のハートの中の自らであり、不滅の私なる意識として光り輝き、自分自身の存在の起源であり支えの真剣な探求は、自然と生命力(生気)を駆り立て、もしくは、心を刺激し、それ自体の活動の起源に向けさせます。この自らの探求において、ハートの中の無知の結び目(フリダヤ‐グランティ)は緩められ、最終的には断ち切られます。人(魂)は身体的なもつれから解放され、その真実の境地を取り戻します。『私という思い』、または、自我意識の起源であり支えは、そのように、ハートの中で自分自身の自らとして実現されます」と彼は言います。

 シュリー・ラマナが強調した別のことは、ヴェーダーンタ的作品やシャンカラによってもまた言及されるように(*41)、人は深い眠りの中で自らの本質である至福を無意識に享受しているということです。あなたも私も、世界とその問題も、死も存在しません。自我は自らに溶け込んでいます。人々は眠りが無知であると言いますが、そうではありません。我々はこの教えを深い眠りから学ぶべきです。我々の本質の探求は、深い眠りの中の我々のこの体験で始まるべきです。

 シュリー・ラマナはこの道をマハー・ヨーガと呼びます。他のヨーガでは、ヴィヨーガ、つまり、神または自らからの分離が含意されます。はじめに、分離が当然のこととされ、それから、合一のための手段が勧められます。しかし、この真っ直ぐな道においては、我々は自らであるので、すでに自らとの合一が存在しています。我々は我々が自らであるとただ知らねばならないだけです。そのため、この道は他の一切のヨーガに勝っています。それはそれら全てを結びつけます(*42)。このマハー・ヨーガでは、すでに詳述されたように、自我の源の探求が存在し、その消滅に帰着します。マハルシは我々がすでに実現されていると強調します。重要であるのは、我々が実現されていないという偽りを取り除くことです。実現(悟り)は獲得されるべき新たな何ものでもありません。仮にそうであるなら、価値はないでしょう。その考えはヴェーダーンタ的ですが、マハルシはそれを非常に明示的に発展させました。

 伝統的ヴェーダーンタはスルティを固く信仰しており、それを権威あるものとみなしています。シャンカラはこの点をとても強調し、ウパニシャッドの中のこれらの優れた発言を熟考するよう我々に求めました。彼はこれをヒンドゥー教を復活させるという目的で行いました。しかし、シュリー・ラマナは、ヴェーダやヴェーダーンタへの彼の堅固な信仰にもかかわらず、それらに頼り、それらを熟考するように我々に求めません。宗教を持つかもしれない、あるいは、持たないかもしれない現代人のために、彼は「私は誰か」という探求を定め、それは机上の学問も、儀式を行うことも要求せず、極めて重大で、直接的な探求になりえます。「人は知恵の目によってその自らを知るべきです。自らは五つの覆いの内にありますが、書籍はそれらの外にあります」(*43) と彼は言いました。

 この道は、それへの盲目的信仰を持つように求めないため、現代人に魅力的です。人は自ら実験し、真理を確かめ、見出さねばなりません。そのように、それは完全に科学的で、理性的です。なぜなら、科学は、ただ誰それがそれを言うという理由だけで何も受け入れられるべきでないということを要求します。人の誤りえない体験が、ここでの真の導き手です。それはどのような教義、教説からも自由であり、形骸化した伝統に妨げられず、どのようなカースト、信条、(肌の)色にも制限されないため、それは普遍的であり、全ての人に向けられています。

 シュリー・ラマナは、探求の道をたどることができない人々に委ねの道を定めました。この道では、人はどのような外側の仲介者にではなく、自分の真の自らに、自分の思い、心配などを含めたあらゆるものを委ねばなりません。両方にとって自らにのみ込まれることが共通するため、マハルシはこれら両方の道が根本的には一つであると述べます。

 これらの道における困難は、人間の姿をとる必要のない尊敬すべきグルの導きと恩寵によって取り除かれます。真のグルは内におり、慈悲心から、探求者を導くために彼は人間の姿をとります。グルは体ではありません。グルの視点からは、師‐弟子の関係性は存在せず、弟子の視点からは、そのような関係性が存在します。グルとの内なる接触は、身体的接触より価値あるものです。

 行為と知識(ジニャーナ)に関して、シュリー・ラマナの考えはシャンカラのものとは異なるように見えます。彼は結果への望みを持たない無私の行為と神への委ねを勧めます。そのような行為は救いに通じます。行為と知識は相反しません。手は忙しいかもしれませんが、頭は穏やかで、冷静であり、自らに没頭しています。行為には感覚がないため、束縛も、解放もできません。「私が行っている」という概念が束縛です。人は自らの実現を得るために世捨て人になる必要はありません。家庭生活から離れ、森に隠遁する必要もありません。「私はサンニャーシンである」という思いも同様に有害です。我々がどこにいようとも、心を静めようと試み、自らの知に達することができます。この時代の人々にとって、そのような教えは非常に適し、価値あるものです。

 自分の実現(悟り)に照らして、彼はヴェーダーンタ的およびヨーガ的文献の中で多用される古い用語に新たな定義を与えました。
ディヤーナ-瞑想者、瞑想、瞑想対象という三つ組の存在しない、自らなる自然な無心の境地
ウパサーナ-瞑想時の(自らという)自然な(無努力の)境地
シュラバナ-ヴェーダーンタ的文献やグル自身の言葉を聞くこと、もしくは、私という思いの源が体などと異なると直観的に知ること
マナナ-自らの探求
ニディディヤーサナ-自らへの内在
プラーナーヤーマ-心によって呼吸を見守ること 
  • 呼気(吐く息)=私はこれではない(ナーハム)  
  • 吸気(吸う息)=私は誰か(コーハム)  
  • 呼吸の停止=私は彼である(ソーハム)
独居-心を静めること
   要約すれば、二つの道についての彼の洞察力に富む詳細な論じ方、ヴェーダーンタ的真理への彼の再解釈と拡充、理性的で科学的なアプローチを伴う、自らの知(ジニャーナ)への彼の独占的かつ包括的な強調と現代人の必要性への理解-彼の最高の聖なる悟りに由来する、この全ては、ヴェーダーンタ的神秘主義への彼独自の貢献を成しています(*44)

 これだけではなく、これらの真理を深く悟らせるために彼がとった方法も同様に独自のものでした。彼は沈黙を通じ雄弁に話しました。「沈黙は途切れのない言葉です」と彼は言いました。彼が話した時はいつでも、彼の答えは短く、実際は、しばしばユーモアに富み、質問者を内に向けるように意図されていました。それは真っ直ぐなアプローチでした。彼の独特の人格、彼の慈悲に満ちた射抜くような神聖な眼差し、とりわけ彼の沈黙は、探求者の心を落ち着ける影響を持ち、彼らの疑問や問題を晴らしました。

 彼の人生と作品を学ぶ人々にとって、ヴェーダーンタ的神秘主義だけでなく、世界の神秘主義への彼の多大な貢献は、比類ないものに映ります。

原注:
(*1)『Sri Ramana Gita』(1996) II, 9.
(*2)同上
(*3)同上
(*4)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., IV. 4. 5 ; II. 5. 3.
(*5)『アイタレーヤ・ウパニシャッド』., V. 3
(*6)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VI. 8. 7.
(*7)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., II. 4. 1-4. IV. 5. 1.
(*8)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VIII. 7. 1.
(*9)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VI. 8. 7.
(*10)『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., I. 1.
(*11)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., III. 14. 1.
(*12)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., II. 4. 6.
(*13)『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., II. 2. 11.
(*14)同上., V I I . 25. 2.
(*15)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., III. 9. 26.
(*16)『カタ・ウパニシャッド』., II .1.
(*17)『ヴィヴェーカチューダーマニ』, 124.
(*18)同上
(*19)『プラボーダ・スダーカラ』, 13.
(*20)『バガヴァッド・ギーター』., XV . 4.
(*21)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VIII. 1. 2. 3.
(*22)『バガヴァッド・ギーター』.,  XVIII . 61.
(*23)『カタ・ウパニシャッド』., II. 23.
(*24)『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』., VI. 23 ; 18, 14.
(*25)『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., I. 2. 11.
(*26)『ケーナ・ウパニシャッドへのシャンカラの注釈』
(*27)『カタ・ウパニシャッド』., II. 9 ; 『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., 1. 2. 12 ; 『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., IV. 14. 2.
(*28)『バガヴァッド・ギーター』., XV . 38.
(*29)同上., XIII. 7.
(*30)同上., IV. 34.
(*31)『Talks with Sri Ramana Maharshi』, (1958) p. 182.
(*32)『ブラフマ・スートラへのシャンカラの注釈』, I. 1. 1.
(*33)『Thus Spake Ramana』, (1967) pp. 48-9.
(*34)同上., pp. 72-3.
(*35)『Sad Barsana Bhashya』, 23.
(*36)『Ramana Gita』, (1966) I, 5.
(*37)『Talks with Sri Ramana Maharshi』, (1958) p. 39.
(*38)『Thus Spake Ramana』, (1967) pp. 75-76.
(*39)『Ramana Gita』, (1966) V, 10.
(*40)『Sad Barsana Bhashya』: Introduction, p. 27.
(*41)『ブラフマ・スートラへのシャンカラの注釈』, II. 1. 6.
(*42)『Upadesa Sara』, (1965) 10.
(*43) 『Who am I?』, (1968) p. 10.
(*44) 『The Mountain Path』, January 1966, Editorial参照

2014年2月15日土曜日

ラマナ・マハルシの使命 - 危機の時代における精神的価値観の復活

◇「山の道(Mountain Path)」、1979年4月 p86~90

マハルシの使命


サダーシヴァ・ラオ博士

 「ラマナは誰なのか」という問いは、年若いころの彼の宗教的知識に驚愕したマハルシの初期の幾人かの弟子たちの心を捉えました。彼らは彼は神の化身か、過去からの偉大な聖者と認められうると信じました。しかし、誰もマハルシに直接に質問する勇気はありませんでした。その問いへの最も重要な答えは、1935年に著名なチベット語の聖典の翻訳者であるエヴァンス・ウエンツ氏によってなされた質問に答える時に、マハルシ自身によって与えられました。その問いは、「マハルシは自らを実現するのにどれぐらい時を要しましたか」です。

 マハルシは、「名と形が認識されているために、その質問が尋ねられています」と説明しました。名と形の下に、実在なる現実(自ら)があります。その中には「私」も「あなた」も「彼」もなく、現在も過去も未来もありません。そして、それは時間と空間を超え、言葉での表現を超えています。それゆえ、彼は自らが実現される時、質問は生じないと言いました。マハルシはさらに言いました。

 「バナナの木が、実をつけて枯れる前、その根元に新芽を作り、植え替えられたその新芽が同じく根元に新芽を作るのとまさしく同様に、沈黙において、リシである弟子たちの疑いを晴らした古(いにしえ)の原初の師、ダクシナームールティもまた常に増えゆく芽を残しています。グルはダクシナームールティの新芽です。」

 マハルシの答えの2番目の部分は、きっと質問者の心の中のマハルシの正体についての質問か疑いによって促されたのでしょう。それはダクシナームールティがまさに一番初めのグルであり、彼が沈黙において教えを説いたリシである弟子たちが次にはグルとなり、彼らの弟子たちも次にはグルとなり、プランテイン(バナナ)の木が増えるように、グルの数が増えてゆく結果になります。最後に、マハルシは、グル(マハルシ)がかのダクシナームールティの新芽(弟子)であると言うことによって質問者の心の中にある疑問に答えます。

 最後の文は、マハルシがダクシナームールティの直弟子であるという意味にとれるかもしれません。それはまた、一般的な意味において、彼が太古の系譜のグルの一人であるという意味にも取れるかもしれません。どちらの選択肢で理解されるかは重要ではありません。なぜなら、彼らはみな最高の序列のグルだろうからです。そのようなグルは、世界の歴史によって、とりわけ、インドの精神史によって示されているように、世界の師(ジャガッドグル)として重要な特別の使命において以外、名と形からなる世界にやって来ません。振り返ってみて、バガヴァーン・ラマナ・マハルシが至高の師であり、彼が特定の使命を帯びて世界の師としてやって来たことにほとんど疑いありません。彼の使命の評価は、彼の到来を必要とした世界の状況と彼の教えの正確な性質と目的を注意深く学ぶことによって可能です。比較のための背景として、10世紀ほど前に特定の使命を帯びてやって来た、もう一人の広く認められる世界の師、シャンカラーチャーリヤの時代と教えについて短く触れます。シャンカラーチャーリアとバガヴァーン・ラマナ・マハルシは共に、アドヴァイタとジニャーナ・マールガの立場から説きましたが、彼らの使命の目的は異なりました。

シャンカラーチャーリヤの時代と教え

 8世紀にシャンカラーチャーリヤが到来した時、ヒンドゥー教の社会はその根本的な宗教的教義に関して混乱状態にありました。約4000年前、(ヴィヤーサとも知られる)クリシュナ・ドゥヴァイパーヤナがヴェーダーンタ・ダルシャナ学派を創設しました。その時以来、それはウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、ブラフマスートラとして知られる聖典に加え、ヒンドゥー教に宗教的土台を与えました。紀元前500年ごろ、主ブッダによって創設された仏教が起こりました。彼もまた世界の師でした。それはヒンドゥー教の集団の中で一般の人々の向上のために展開し、ヴェーダのニヴリッティ・マールガ(行者の道)を模範とした倫理-宗教的運動でした。ヒンドゥー教と仏教の宗教的教義の間に対立はありませんでした。しかしながら、約13世紀後、インドの仏教徒集団が様々な教義を持つ複数の学派に分かれた時、二つの間に溝が生まれました。ヒンドゥー教の社会はそれ自身の宗教的教義に関して混乱状態にありました。シャンカラーチャーリヤがヴェーダーンタ、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、ブラフマスートラの権威への信仰の復活を促すためにやってきたのは、その時代でした。彼は上記の権威ある聖典が、個別の生命、ジーヴァと同一であるただ一つの無限なる至高の現実、ブラフマンを明らかにしていることを証明するために、論理でもって主導的な学者的な論敵を説き伏せねばなりませんでした。彼は32年という短い人生において、ヒンドゥー教の宗教的基礎のほとんど奇跡的な復活のための堅固な土台を築きました。彼は徒歩で全土を旅し、四つの地域に僧院を設立しました。加えて、彼は一般の人々の利益のために上述の聖典の明快な注釈書を記し、短い哲学的作品を記し、ダクシナームールティへの賛歌を含む多くの献身を表す賛歌を作りました。彼の教えは今日に至るまで圧倒的大多数のヒンドゥー教徒の宗教的教義の源として受け継がれています。

根本的価値観における危機

 19世紀の終わりごろ、バガヴァーン・ラマナ・マハルシの到来の時、状況は全く異なるものでした。精神的価値観に純粋な物質的主義的価値観が取って替わることによって引き起こされた、ほとんど全ての国に影響する、急速に進行する世界的危機がありました。科学技術は19世紀中ごろから発展し始め、ほとんどの国の産業の発展と人々の経済的状況を改善する手助けをしました。現代科学はそれと共に物質主義的見解をもたらしました。行為の支配的な動機は、社会的犠牲や結果を顧みない自己利益と物質的獲得になりました。宗教が単なる形式的行為へ衰えると共に、精神的価値観は1世紀かそこらの間に薄くすりきれ、結果、科学によってもたらされた新しい物質的価値観は容易くそれに置きかわることができました。これは、科学の発展により最も多くの利益を受けたヨーロッパやアメリカのより発展した社会で圧倒的に起こりました。20世紀において科学技術が加速したペースで発展したため、世界の人類の幸福を促進するための主要な動機を与える力として、物質主義に完全な信頼が寄せられるようになりました。この信頼はつかの間のものでした。原子力科学における進歩が、人類の幸福のために用いられるどころか、全ての人々を抹殺するために使われた時に、それは粉々にされました。それは科学の過ちではなく、人間とその動機の過ちでした。物質的価値観への信頼の喪失と支柱となる永続的な価値観の欠如によって、西洋のより富裕な人々の間、特に、若い世代の間で深い不満足感が顕著です。彼らは核による全滅以外の人類の行く末を予期していません。進歩的な思想家は、人類が生き残ろうとするならば、物質的価値観が精神的で人間味のある価値観で和らげられるべきだと理解しています。しかし、どのようにそのような価値観を取り戻しうるのか誰も示していません。西洋からの多くの人が、人生における新しい意味と目的を求め、インドとその豊富な精神的遺産に期待を寄せ始めています。

マハルシの教え

 マハルシの教えは、今世紀(20世紀)のはじめの50年間のうちに、人々に伝えられました。この世界的危機の時代での彼の到来と彼の教えの性質は、全世界の人々にとってこの上ない重要性をもっています。彼の教えは、いかなる宗教や宗教的哲学の布教とも関係していませんでした。それはさらにもっと先へ進み、全ての人の能力の範囲内に十分ある簡素な聖なる修練を人々に教えています。それは自分自身の努力を通じて、聖なる知恵(ジニャーナ)とそれに伴う全てのものを獲得するためのものです。そのような計り知れない重要性をもつ務めに従事した世界の師は過去にいません。彼は旅に出かけず、教えを広めるための専門書を著しませんでした。彼の教えは、沈黙の恩寵(モウナ・ディークシャー)の授けと共に彼の話す言葉を通じ、直接的に本人によって彼に引き寄せられた個々人に伝えられました。これはダクシナームールティから始まる偉大なグルの最高の聖なる伝統に一致しています。偉大なグルの恩寵はとても力強いため、遅かれ早かれ、それを受け取る全ての人がその生涯の内にグルの教えを理解し、修練を始め、成功するのを助けます。恩寵は現世における個人のその後の人生にも同様に効果的です。マハルシは、「私は誰か」という小冊子の中で言います。「虎の口に落ちた獲物が決して逃れることを許されないのとまさしく同様に、グルの恩寵を受け取った人は間違いなく救われ、決して見捨てられません」。恩寵を受け取った全ての人が、終には益されます。ますます多くの個々の信奉者が世界中からマハルシに引き寄せられました。マハルシは、南インドの聖なるアルナーチャラ山の影にあるアーシュラムに留まりながら、半世紀の間に彼の恩寵によって膨大な数の個々人に届くことができました。

私は誰か?

 マハルシが説いた聖なる修練は、「私は誰か」見出すための簡素な内なる探求です。それは誰も否定できない「自分が存在している」という確信以外、個人が受け入れるための事前の条件を要求しません。この確信は、人が自分自身に関して「私」や「私は(~で)ある」と言うたびごとに主張されています。家庭の中の静けさにおいて、それぞれの人によって行われるべき修練とは、内に向けられた心でもって「私」(もしくは、「私はいる」)に一点集中することです。これはその人自身、または、その存在への心の一点集中に等しいです。ひたむきな信念を持って行われる時、心は深く内に向き、聖なるハートの内深く達し、それに沈み、自らに触れるようになります。これが「私は誰か」という質問への答えです。それは言葉での答えでなく、自ら、もしくは、ハートの中に住む至高の存在の心による直接的な体験です。マハルシはこれを、「自らである、その源を探し求める心」と表現しています。個人が彼の心によって自らと触れることを習得する時、彼の努力は終わります。グルの恩寵が、彼の心の不純物からなる「自我」を取り除くために、彼を助けにやって来て、その結果、個人は自らの完全な道具となります。これが一般的に自らの実現と呼ばれていて、人間にとって可能な最高の聖なる達成です。

バナナの木の喩え

 次の質問が尋ねれるかもしれません。「この地味な個々人による修練における成功が、どうして世界の人々へ精神的価値観を復活させる助けとなるのか」。

 答えは、修練は地味に見えるかもしれませんが、それは全てのヨーガの中で最高であり、最も崇高なものであり、ジニャーナ・ヨーガやヴィチャーラ・マールガとして知られているという事実の中に見出されます。それはヴェーダのリシの時代からやって来て、インドの豊富な精神的遺産を建設するために時代を下って来ました。マハルシはそれを簡単にし、全ての人間の手の届く範囲に持ってきました。グルの恩寵により、この修練を受け継ぐものは、ジニャーナ(聖なる知恵)を得た者であるジニャーニになります。彼のまさにその存在が、彼に触れに来た人々を通じ、世界を益します。それゆえ、彼はバナナの木の喩えでマハルシによって描かれたグルが増えてゆく過程を動かし始めることができます。

 これが至高の師、バガヴァーン・ラマナ・マハルシがそのためにやって来た偉大な使命です。最初のグル、ダクシナームールティが築いたように、彼は全ての国が増えゆくグルの核を持つのを保証することによって、彼の使命の堅固な土台を築きました。全てのサッドグルのように、マハルシは彼の恩寵を受け取った全ての人、そして、自らへの内なる探求を始めるために彼の恩寵を請い願う他の人々を導き続けています。

2014年2月9日日曜日

バクティはジニャーナの母である - バクティとジニャーナのサーダナ

◇「山の道(Mountain Path)」、1976年4月 p96~98

バクティはジニャーナ・マーターである


 M.サダーシヴァ・ラオ博士

 一般的には、バクティの道の神の名への瞑想は、ジニャーナの道の自らへの瞑想よりもより簡単で分かりやすいと思われています。実のところ、サーダナ、つまり、聖なる修練としてのバクティ瞑想に関して、公にされた情報はほとんどありません。バガヴァーン・ラマナ・マハルシが自らの探求を説くまでは、ジニャーナ瞑想の正確な性質はさらにもっと不明瞭なものでした。13世紀以降に生きたマハーラーシュトラの偉大な聖者たちが、今日知られているようなバクティの道を明らかにし、彼らによって作られ、今日まで受け継がれる見事なバジャン、つまり、献身を表す歌を通じてそれを広めました。それらはバクティの道の主要な情報源であり、非常に気持ちを鼓舞するものです。それらのバジャンにおいて、聖者たちはバクティの道を詳しく述べただけでなく、彼らの絶対的な体験を語ることによって、バクティ・サーダナを一端をうかがわせました。絶対的な体験とはジニャーナであり、バクティ・サーダナが、神への強烈なバクティ、つまり、献身という最初のアプローチに関して以外、その本質において自らの探求と異ならないことを示唆しています。

 バガヴァーンは言いました。「バクティはジニャーナ・マーターである(バクティはジニャーナの母である)」(*1)。バクティの道はジニャーナに通じ、自らの探求もまたジニャーナにのみ通じます。バクティの目的は、神への完全な委ねと表現されます。バガヴァーンは、「完全な委ねは、ジニャーナの別名です」(*2)と言います。再び、彼は、「バクタが委ねと呼ぶものを、ヴィチャーラ(自らの探求)を修練する人はジニャーナと呼びます。両者とも自我を源へ連れ戻し、それをそこで溶け込ませようと試みています」(*3)と言います。神の名と形への瞑想に関して、彼は信奉者に言います。「あなたが『私は名と形である』と思う限りは、ジャパにおいてもあなたは神の名と形から逃れられません。あなたが『私は名と形ではない』と悟る時、名と形はひとりでに抜け落ちます。他の努力は必要ありません。ジャパやディヤーナは自然と、自ずから、それに通じます。(神の)名と神は異なりません」(*4)

 自らの探求と瞑想に関わる他の一切のサーダナの核心は、バガヴァーンによって以下のように説明されます。

 「ハートに住まう無知の形である『私』という思い(自我)が破壊されるまで、心はハート(自ら)の中に留められねばなりません。これがジニャーナです。これがディヤーナでもあります・・・。それゆえ、人が心を自らの中に保つ技術を獲得するなら、他のことを心配する必要はありません。」(*5)

 どのように心を自らに到達させ、留められるのかを示すために、以下の文章が学ばれるかもしれません。それは簡潔に集中の本質を表しているだけでなく、集中に適当なサーダナにも言及しています。

 「サーダナに関しては、多くの方法があります。あなたはあなた自身に『私は誰か』尋ねるヴィチャーラを修練するかもしれません。もしくは、それがあなたに魅力的でないなら、『私はブラフマンである』(へ)のディヤーナに携わるかもしれません。ないしは、他の方法では、あなたはジャパにおいてマントラや(神の)名へ集中するかもしれません。目的は心を一点に集中すること、一つの思いに集中し、そうして、多くの思いを排除することです。そして、我々がこれを行うなら、終には、その一つの思いさえ消え、心はその源で消え去ります。(*6)(斜体は著者による)

 ここで述べられたはじめの二つのサーダナは、ジニャーナの道に属し、次の二つはバクティの道に属します。最後の文は、両方の道を含むサーダナ全体を要約しています。それはより十分な理解のため、以下のように詳しく説明できます。

 瞑想は、一つの思い(自らの探求では「私」という思い、バクティでは神の名)への(内に向けられた)心の一点集中を修練することによって始られます。同時に、集中を妨げる、迷い出る全ての思いを閉めだすために努力が行われます。この修練によって、心は一点に集中し、迷い出る思いがなくなります。結果、瞑想はより深くなり、心は(聖なる)ハート、自らへ沈みます。自らは、純粋な(思いのない)意識です。ただ一つの思いは、思いのない状態で生き残れません。心がハートに留められるなら、心から自我が取り除かれ、自らの中に溶け込み(消滅し)ます。

 初心者のために、さらなる説明が必要かもしれません。心から迷い出る思いを取り除くはじめの修練の後、ただ一つの思い-「私」、または、(神の)名-への集中はより深くなってゆき、ついには心はハートに溶け込みます。その後、それはサマーディと呼ばれる一切の思いがないハートへの内在のみとなり、終には、人はそれが自分自身の普通の状態であると気づきます。これが自らの実現として知られているものです。言及されるハートはその名前の身体的器官ではなく、精神的中心、自らそのものです。自らは思いを越えてあります。どのような外側の対象物とも関係しない、ただ一つの思いは、心全体を深く内に運び、ハート、または、自らに沈みます。自らの知はそれを対象物として知ることではありません。それはヴァーサナーが取り除かれた心が自らに溶け込む時に、自らと一体であることです。サマーディ、思いのない状態での心の自らの中の内在は、自らへの絶対的な溶け込みをもたらします。純粋な心そのものが、自らです。それは純粋で、無限の(絶対的な)意識でもあります。

 自らの探求とバクティ瞑想の違いは、最初のアプローチにあります。ジニャーナの道のアプローチは、名や形のない神の非人格的な側面、すなわち、自ら、至高の実在に対してです。バクティの道では、アプローチは、名や形やその他の属性を持つ自分で選んだ人格神へです。自らの探求では、集中のために採用されるただ一つの思いは、「私」という思いです。瞑想が深く進む時、その思いは純粋になり、純粋な私、または、純粋な自覚へ帰着します。バガヴァーンはまた、眠りから目覚めるとすぐに経験される、その同一性や環境を意識するようになる前の過渡的な「私」の認識を推奨しました(*7)

 心全体が内に潜り、ハートに沈む時、完成が見出されます。それは自分自身の現実の生き生きとした体験です。瞑想やサマーディの間だけでなく、その後さえも、彼は彼自身を自らと一体として経験します。バクタは彼の神との一体性を感じますが、神の名と形は抜け落ちたでしょう。それらは思いのない状態では生き残れないからです。全ての二元性は、超越的な状態がはじめて経験される時に、一時的に消えます。未発達の心はハートに長く留まれず、二元性の世界にさ迷い出るでしょう。その経験が無努力で、自発的になるまで、それを深い瞑想において蘇えらすべきです。これはバガヴァーンによって、「自らに住まう」と呼ばれています。彼は信奉者に自らにいつも住まうように助言しました。それはタパスの最高の形であり、ヴァーサナーを取り除きます。更なる進展は、神、もしくは、グルの恩寵によります。バガヴァーンが指摘したように、「それ(恩寵)は実際あなたの内側に、あなたのハートの中にあり、(どのような方法によってでも)あなたがその源(ハート)での心の沈潜、もしくは、溶け込みを果たす瞬間に、恩寵が内から押し寄せます」(*8)。心が自らに溶け込んだ時のバクティ・サーダナの極致は、マハーラーシュトラの聖者たちによって様々な様子で美しく表現されています。聖者ジニャーネーシュワル(*9)曰く、「不死なる名は、サマーディの達成のためのサーダナである」。聖者ナームデーヴ(*10)曰く、「と私の間の一切の二元性が消える時、名はパラマートマン彼自身であると見出される」。聖者ゴーラ・クンバ(*11)曰く、「ニルグナへ達するために、私はサグナを通らねばならかった」。聖者トゥカーラーム(*12)曰く、「水の中の塩のように、私はおん身と一体となり、炎の中の樟脳のように、後に何も残さず、私はおん身の中に溶け込んだ」。

(*1)原注、『Day by Day with Bhagavan』、p39
(*2)原注、同上、p176
(*3)原注、同上、p38
(*4)原注、同上、p184
(*5)原注、「Self-enquiry」、p35
(*6)原注、『Day by Day with Bhagavan』、p30~31
(*7)原注、『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p275~279、288 ; 1937年1月3日、talk.314に「trasitional I(過渡的な私)」についての記述があります。
(*8)原注、『Day by Day with Bhagavan』、p31
(*9)ジニャーネシュワル・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Dnyaneshwar
(*10)ナーム・デーヴ・・・、http://en.wikipedia.org/wiki/Namdev、「kotobank」にナーム・デーオでのっています。
(*11)ゴーラ・クンバ(ル)・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Gora_Kumbhar
(*12)トゥカーラーム・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Tukaram、「kotobank」にのっています。

詩聖トゥカーラームのアバング



「アヌ・レニ・ヤ・トゥーカダ」、歌:Bhimsen Joshi
       
トゥカは言う、私は小さきものよりも小さいが、しかし、虚空を満たしている
私の体を超越し、私は私の死体を取り除いた。つまるところ、物質的世界は幻に過ぎない
私はこの物質的世界の三つ組を捨て去り、真の知でもって輝くようになった
トゥカは言う、今や私の存在は他者のためにのみある

2013年7月7日日曜日

常に「あなた」に留まれ / あなたは虚空ではなく、その目撃者である

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p277~279 後略

1946年7月21日

 午後、ウッタル・プラデーシュ州のジャーンシーからの年配の訪問者、バルガヴァ氏は以下の二つの質問をしました。
  1. 始めから終りまで、私はどのように「私」を探し求めるべきですか。
  2. 瞑想する時、私は真空(*1)や虚空(*2)が存在する段階に達します。そこから、私はどのように進むべきですか。
バガヴァーン:
 映像、音、その他の何があっても、もしくは、虚空があっても、気にすることはありません。この全ての間にあなたは存在していますか、それとも、あなたは存在していませんか。あなたが虚空を経験したと言えるためには、その虚空の間にさえ、あなたはそこにいたに違いありません。その「あなた」に据えられることが、始めから終わりまでの「私」の追求です。ヴェーダーンタに関する全ての本の中に、弟子によってなされ、グルによって答えられた虚空、もしくは、残された無に関するこの質問をあなたは見つけます。対象を見たり、経験を持ち、そして、見たり、経験することをやめる時に虚空を見出すのは心ですが、それは「あなた」ではありません。あなたは、その経験と虚空を共に照らしている絶え間ない輝きです。それは劇場の光のようであり、劇が進行している間に劇場、俳優、劇をあなたが見ることを可能にしますが、輝くままあり、劇がすべて終わった時にあなたが「劇は上演していない」と言うことを可能にします。また、別の例もあります。我々は我々の周りの対象物を見ますが、完全な暗闇の中でそれらを見ることができず、「私は何も見ていない」と言います。その時でさえ、目が何も見ていないと言うために目はそこにあります。同様に、あなたが言及した虚空の中にさえ、あなたはそこにいるのです。

 あなたは、粗大、微細、原因という三つの体、目覚め、夢、深い眠りという三つの状態、過去、現在、未来という三つの時間、そしてまた、その虚空の目撃者です。10番目の男の話の中で、10人それぞれが数え、それぞれが自分自身を数えるのを忘れ、9人しかいないと思った時、彼らが一人いなくなっており、それが誰か分からないと思う段階があります。そして、それが虚空に対応します。我々は我々の周りに見る全てが永遠であり、我々がこの体であるという概念にとても慣れ親しんでいるため、この全てが存在しなくなる時、我々もまた存在しなくなったと想像し、恐れます。

 また、バガヴァーンは『ヴィヴェーカチューダーマニ』から212、213詩節を引用しました。その中で弟子は、「五つの覆いを自らでないとして取り除く後に、私は全く何も残っていないと気づきます」と言い、グルは、それによって(自我とその創造物と含む)全ての変形とその消失(つまり、虚空)が知覚される自ら、もしくは、それはいつもそこにあると答えました。バガヴァーンはこのテーマについて話を続け、言いました。

バガヴァーン:
 自ら、もしくは、「私」の本質は、輝きに違いありません。あなたは全ての変形とその消失を知覚します。どのようにでしょうか。あなたが輝きを別の人から得ると言うことは、どのように彼がそれを得たのかという質問を提起し、推論の連鎖に終わりはないでしょう。ですから、あなた自身が輝きなのです。このいつもの例は以下になります。あなたは様々な原料からなり、様々な形のあらゆる種類のお菓子を作りますが、それはみんな甘く感じます。なぜなら、その中の全てに砂糖があり、甘さは砂糖の本質だからです。そして、同様に、全ての経験とその消失は、自らの本質である輝きを含んでいます。砂糖がなければ、あなたが作るものの中のどれ一つも甘く感じられないのとまさしく同様に、自らがなければ、それは経験できません。

 (少し後で)はじめ、人は自らを対象物として見ます。次に、人は自らを虚空として見ます。次に、人は自ら自らとして見ます。この最後のみにおいて、見ることは存在しません。なぜなら、見ることは在ることです。

(*1)真空・・・「vaccum」の訳
(*2)虚空・・・「void」の訳

2013年2月15日金曜日

肉体的要求の満足、二種の欲望、自らの探求と「アハム・ブラフマースミ」

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』

Talk 266. (p230~232)

ムスリムの教授(以下、信奉者):
 人は欲望を放棄すべきであると言われています。しかし、抑えがたい体の要求があります。どうすべきでしょうか。

マハルシ:
 大志を抱くものは、三つの必需品を備えなければなりません。それは、①イッチャー、②バクティ(献身)、③シュラッダー(*1)です。イッチャーとは、体への愛着のない(飢え、渇き、排泄のような)肉体的要求の満足を意味します。それがなされないなら、瞑想は進歩できません。バクティとシュラッダーはすでに知られています。

信奉者:
 二種類の欲望-より卑俗なものとより高貴なもの-があります。より卑俗な欲望をより高貴な欲望に変えるのは、我々の義務ではありませんか。

マハルシ:
 そうです。

信奉者:
 では、バガヴァーン、あなたは三つの必需品があり、その中でイッチャーは体などへの愛着のない自然な欲求の満足であると言いました。私は一日に3回か、4回の食事をとり、肉体的要求にとても注意を払っているため、体に虐げられています。私が体から離れ、肉体的要求という苦悩から逃れる状態は存在しますか。

マハルシ:
 有害であるのは愛着(ラーガ(*2)、ドゥヴェシャ(*3))です。行為そのものは悪くありません。3回か、4回食べることに害はありません。ただし、「私はそういう食べ物じゃなくて、こういう食べ物が欲しい」などと言ってはいけません。

 加えて、あなたはそれらの食事を目覚めている12時間にとりますが、寝ている時間には食べていません。眠りがあなたをムクティ(解放)に導きますか。単に活動しないことが人をムクティに導くと思うことは間違いです。

信奉者:
 サデーハ・ムクタとヴィデーハ・ムクタがいると言われています(*4)

マハルシ:
 解放は存在しません。すると、どこにムクタ(解放された者)がいますか。

信奉者:
 ヒンドゥー教のシャーストラ(聖典)は、ムクティについて語らないのですか。

マハルシ:
 ムクティは自らと同意語です。ジーヴァン・ムクティとヴィデーハ・ムクティは無知な人のためにあります。ジニャーニは、ムクティもバンダ(束縛)も意識していません。束縛、解放、ムクティの序列は、無知を振り落とすためにアジニャーニに向けて全て語られています。ムクティしか存在せず、その他の何も存在しません。

信奉者:
 それはバガヴァーンの立場からは結構なことです。しかし、我々に関してはどうですか。

マハルシ:
 「彼」と「私」という違いはジニャーナの障害です。

信奉者:
 しかし、バガヴァーンが高い序列に属し、我々が制限されているということは否定できません。バガヴァーンは我々を(神)と一つにしてくれますか。

マハルシ:
 寝ている時、あなたは制限に気づいていましたか。

信奉者:
 私は現在の状態に私の眠りの状態をもたらし、それついて話すことはできません。

マハルシ:
 その必要はありません。それらの三つの状態は不変の自らの前を交替します。あなたはあなたの眠りの状態を思い出すことができます。それがあなたの本当の状態です。その時、制限はありませんでした。「私という思い」が生じた後で、制限が生じました。

信奉者:
 どのようにして自らを達成すべきですか。

マハルシ:
 自らは達成できません。なぜなら、あなたが自らであるからです。

信奉者:
 そうです。私の中に不変の自らと変化する自分がいます。二人の自分がいます。

マハルシ:
 変化する性質は思いに過ぎません。全ての思いは、「私という思い」が生じる後に生じます。その思いが誰に生じるのか確かめなさい。そうするれば、あなたは思いを超越し、思いは退きます。つまり、「私という思い」の源を突き止め、あなたは完全な「私‐私」を実現します。「私」が自らの名前です。

信奉者:
 「私はブラフマンである(アハム・ブラフマースミ)」と瞑想したらよいのでしょうか。

マハルシ:
 その聖句は「私はブラフマンである」と思うことを意図していません。アハム(私)は、全ての人に知られています。ブラフマンは、全ての人の中にアハム(私)として住しています。その「私」を見出しなさい。その「私」はすでにブラフマンです。そのように考える必要はありません。単純に、その「私」を見出しなさい。

信奉者:
 シャーストラの中で覆い(さや)を捨て去ることが述べられていませんか。

マハルシ:
 「私という思い」の生起の後、「私」と体、感覚、心などとの誤った同一視が存在します。「私」は間違ってそれらと交わっており、真の「私」は見失われています。汚された「私」から純粋な「私」へ移るために、この捨て去ることが述べられています。しかし、それは正確には自らでないものを捨て去ることを意味するのでなく、現実の自らを見つけることを意味します。

 現実の自らは、無限の「私‐私」です。つまり、「私」は完全なものです。それは永遠です。始まりも、終わりもありません。別の「私」は生まれ、死にもします。それは永遠ではありません。変化する思いが誰にあるのか確かめなさい。それらは「私という思い」の後に生じると見出されます。「私という思い」を捕まえなさい。思いは退きます。「私という思い」の源を突き止めなさい。自らのみが残ります。

信奉者:
 理解することが困難です。理論は分かります。しかし、実践はどうですか。

マハルシ:
 その他の方法は自らの探求に着手できない人たちのためにあります。「アハム・ブラフマースミ」を繰り返し言うために、もしくは、それを思うためにさえ、行為者は必要です。それは誰ですか。それは「私」です。その「私」でありなさい。それが直接的な方法です。その他の方法もまた、究極的には、この自らの探求という方法に全ての人を導きます。

信奉者:
 私は「私」に気づいています。しかし、私の問題は解決していません。

マハルシ:
 その「私という思い」は純粋でありません。それは体や感覚との交わりにより汚れています。誰に問題があるのか確かめなさい。「私という思い」にです。それを捕まえなさい。その時、その他の思いは消えます。

信奉者:
 分かりました。どのようにそれを行うべきですか。それが全ての問題です。

マハルシ:
 「私」「私」「私」と考え、他の一切の思いを排除して、その一つの思いにつかまりなさい。

(*1)シュラッダー・・・直接的に対応する英語はなく、広い意味を表す。「信念(faith)」に加え、「信頼(trust)、自信(confidence)、忠実(loyalty)」などとも関係づけられる。
(*2)ラーガ・・・「愛着」。
(*3)ドゥヴェシャ・・・「嫌悪」。
(*4)サデーハ/ヴィデーハ・・・デーハは「体」を意味する。サデーハは「体を持つ」、ヴィデーハは「体を持たない」。

◇『Ramana Smrti-Sri Ramana Maharshi Birth Centenary Offering』、p104 抜粋

 ある日、シュリ-・マハルシに、サーダナ、すなわち、修練がなければ精神的に進歩することは全くないということが示唆されました。少し経って、彼は以下のことを述べました。

 人を束縛するのは、心です。そして、人を解放するのも、その同じ心です。心は、サンカルパとヴィカルパ-欲望と性質から成り立っています。欲望が、性質を形作り、決定します。欲望には二種類-高貴なものと卑俗なもの-あります。卑俗な欲望とは、愛欲と強欲です。高貴な欲望とは、悟りと解放に向けられます。卑俗な欲望は、理解力を汚染し、曇らせます。サーダナは、高貴な欲望が備わった大志を抱く者にとって簡単です。落ち着きが精神的進歩の基準です。清められた心をハートへ沈めなさい。その時、務めは終わります。これが全ての聖なる修練の精髄です!

2013年2月1日金曜日

心の制御 - アルジュナとクリシュナの対話、修練による心の練磨

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』p420、421

1948年5月1日
(186)集中と離欲 

 製本する仕事に忙しくて、今朝、私はアーシュラムに少し遅れて来ました。その時、だいたい9時頃でした。その時までに、昨日ここに来たマハーラーシュトラ出身のある紳士が、いくつかの質問をしたようでした。途切れることなく雄弁に、バガヴァーンはそれに答えていました。神酒で満たされた言葉が、ガンジス川の水の速い流れのように、彼から出てくるようでした。ある信奉者はそれを英語に翻訳していました。私は遅く来たことを残念に思いました。私は急いで講堂に入り、座りました。その時、「アバヤーサ(心を一つの対象へ集中すること)」と「ヴァイラーギャ(離欲)」に関する質問が議論されていました。バガヴァーンは、以下のように説明しました。

彼は漸進的な修練を通じ、平静を達成すべきである。そして、不動によって制御された理性を通じ、心を神に確立し、彼は他の何をも思うべきでない。(バガヴァッド・ギーター、6章25詩節)

He should through gradual practice attain tranquillity; and having established the mind in God through reason controlled by steadfastness, he should not think of anything else. (Gita, VI: 25)

落ち着きのない、気難しい心を、それが追い求め走る、それら全ての対象から引き留め、彼はくり返しそれを神に集中すべきである。(同、6章26詩節)

Restraining the restless and fidgety mind from all those objects after which it runs, he should repeatedly concentrate it on God. (Gita, VI: 26)

 この教え全てにも関わらず、アルジュナの疑いは解消されず、さらに質問しました:

なぜなら、クリシュナよ、心はとても不安定で、荒々しく、頑強で、力強いのです。それゆえに、私はそれを制御するのは、風(を制御するの)と同様に難しいと考えます。(同、6章34詩節)

For, Krishna, the mind is very unsteady, turbulent, tenacious and powerful; therefore, I consider it as difficult to control as the wind.(Gita, VI: 34)

 これに返答して:

アルジュナよ、疑いなく、心は不安定で、抑制するのは難しい。しかし、瞑想と離欲の修練を通じ、それは制御されうる。おお、クンティーの息子よ。(同、6章35詩節)

The mind is without doubt unsteady and difficult to curb, Arjuna, but it can be controlled through practice of meditation and dispassion, O son of Kunti. (Gita, VI: 35)

 そのように主クリシュナは言いました。それゆえに、サーダカが修練と離欲を持つことがとても重要なのです。

 質問者の一人が、「ギーターの第2章では、探求の道に加えてディヤーナ(瞑想)を修練することが最良であると言われていますが、第12章では献身の道が最良であると言われています。これら二つをどのように調和させればいいのでしょうか」と言いました。

 バガヴァーンは、「最初、サーダカはジニャーナの道で瞑想を修練するように求められています。彼はそのようにできませんでした。次はヨーガで、それからカルマで、最後にはバクティです。そういう風に、その人に最も合う道をたどれるように相次いで教えられています。ともかく、どのような道でも目的地は一つです。主クリシュナの考えは、それぞれの人の精神的な発達に応じて、それぞれの道が簡単であろうということです」と言いました。 


◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 91. 1935年11月6日

 ベンガル地方からの訪問者が尋ねました。「どのように心は制御されるのですか」。

マハルシ:
 あなたは何を「心」と呼んでいるのですか。

信奉者:
 神のことを思うために座る時、思いが他の対象にさ迷います。私はそれらの思いを制御したいのです。

マハルシ:
 『バガヴァッド・ギーター』では、さ迷うことは心の性質であると言われています。人は思いを神に注がねばなりません。長い間の修練により、心は制御され、安定します。

 心の動揺とは、思いという形での心のエネルギーの浪費から生じる弱さです。人が心を一つの思いに張り付ける時、エネルギーは節約され、心はより強くなります。

信奉者:
 心の力の意味は何ですか。

マハルシ:
 気を散らさずに、一つの思いに集中する能力です。

信奉者:
 それはどのように達成されますか。

マハルシ:
 修練によって。信奉者は神に集中します。探求者、ジニャーナ・マールガの追随者は自らを追求します。両者にとって、修練は等しく困難です。

信奉者:
 たとえ心を自らの探求へ注いでも、長い間の苦闘の後に心は彼から逃れはじめ、しばらく後までその人はそのいたずらに気づきません。

マハルシ:
 それはそうでしょう。初期の段階では、心は長い間隔で探求へ戻ります。継続的な修練と共に、心はより短い間隔で戻り、最終的に全くさ迷わなくなります。眠っているシャクティが顕れるのは、その時です。純粋な(サットヴァな)心には思いがありませんが、活動的な(ラジャスな)心は思いで満ちています。純粋な心は、生命の流れ(Life-current)に変じます。

信奉者:
 その流れを体験する前に、思いの様相に入ることから心を遠ざけられるのですか。

マハルシ:
 ええ。流れはあらかじめ存在しています。

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p332~333 

46年10月18日 

 午後、シモガからの訪問客がバガヴァーンに、「どのように動揺する心を静めるべきですか」と尋ねました。バガヴァーンは、「その質問をするのは誰ですか。それは心ですか、それとも、あなたですか」と答えました。訪問者は、「心です」と言いました。

バガヴァーン:
 あなたがこの心とは何か見るならば、心は静められます。

訪問者:
 どのように心とは何か見るべきですか。

バガヴァーン:
 心についてのあなたの考えは何ですか。

訪問者:
 私の考えでは、心とは思いです。

バガヴァーン:
 心とは思いのかたまりです。しかし、全ての思いの源は「私という思い」です。ですから、この「私」は誰か見出そうと試みるならば、心は消えます。あなたが外側の物事を考える時に限ってのみ、心は存在します。しかし、あなたが外側の物事から心を引き込み、心、すなわち、「私」について考えさせる時、言い換えれば、心を内に向ける時、心は存在しなくなります。
 

2012年10月5日金曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第6章 アハムとアハム・ヴリッティ

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p63-68

マハルシの福音 

第2巻 第6章 アハムとアハム・ヴリッティ 

信奉者:
 自我によって始められた探求が、どうしてそれ自体の非現実性を明らかにできるのですか。

マハルシ:
 あなたがアハム・ヴリッティ(*1)が生じてくる源に飛び込むとき、自我の現象的(*2)存在は超越されます。

信奉者:
 しかし、アハム・ヴリッティは自我が現れる3つの形の1つでしかないのではありませんか。『ヨーガ・ヴァーシシュタ』や他の古文書は、自我を3重の形を持つと描いています。

マハルシ:
 そうです。自我は3つの体-粗大なもの、微細なもの、原因となるもの(*3)-を持つと描かれていますが、それは単に分析的な解説という目的のためでしかありません。仮に探求の方法が自我の形に依存するなら、自我がとるであろう形が実に多いため、あなたはどんな探求もまったく不可能になるだろうと思うかもしれません。ですから、ジニャーナ・ヴィチャーラという目的のために、あなたは自我がただ1つの形だけ、すなわち、アハム・ヴリッティの形を持つということに基づいて進まなければなりません。

信奉者:
 しかし、それがジニャーナを実現するために不十分であると判明するかもしれません。

マハルシ:
 アハム・ヴリッティという手がかりを追うことによる自らの探求は、匂いによって主人を追跡する犬も同然です。主人はどこか遠くの知らない場所にいるかもしれませんが、それは犬が主人を追跡する妨げにはまるでなりません。主人の匂いはその動物にとって確実な手がかりであり、彼が着る服や体格や身長など、他の何も重要ではありません。彼を探している間、犬は気を散らさずにその匂いをしっかりつかまえ、終には彼を探し出すことに成功します。

信奉者:
 アハム・ヴリッティの源の探求が、どうして他のヴリッティから抜きん出たものとして、自らの実現の直接的な手段とみなされるべきなのかという疑問がまだ残っています。

マハルシ:
 「アハム(अहम्)」という言葉そのものがとても示唆的です。その言葉の2文字、すなわち、ア(अ)とハ(ह)は、サンスクリット語のアルファベットの最初と最後の文字です。その言葉によって伝えられるように意図された示唆とは、それが全てを含んでいるということです。どのようにでしょうか?なぜなら、アハムは存在自体を表しているからです。

 「私」(という)性(質)('I'-ness)「私はいる」(という)性(質)('I-am'-ness )なる概念は、慣用的にアハム・ヴリッティとして知られていますが、本当は、それは心の他のヴリッティのようなヴリッティではありません。なぜなら、本質的な相互関係を持たない他のヴリッティと異なり、アハム・ヴリッティは心のそれぞれ全てのヴリッティに等しく、本質的に関係しています。アハム・ヴリッティがなければ、他のヴリッティは存在できませんが、アハム・ヴリッティは心の他のヴリッティに依存せず、単独で存続できます。アハム・ヴリッティは、そのため、他のヴリッティと根本的に異ります。

 ですから、アハム・ヴリッティの源の探求は、単に自我の1つの形の土台の追求だけではなく、「私はいる」性が生じて来る、まさにそのそのものの探求です。言いかえれば、アハム・ヴリッティという形の自我の源の探求、および、その実現は、ありうる一切の形の自我の超越を必然的に伴います。

信奉者:
 アハム・ヴリッティが本質的に全ての形の自我を含んでいると認めるにしても、どうしてそのヴリッティだけが自らの探求の手段として選ばれなければならないですか。

マハルシ:
 なぜなら、それがあなたの体験の中の唯一のそれ以上単純化できない所与(*4)であるから、その源を探し求めることが、自らを実現するためにあなたが採りうる、ただ1つの現実的な道のりであるからです。自我は原因となる体を持つと言われていますが、どうやってそれをあなたの探求の対象にできますか。自我がその形をとる時、あなたは眠りという暗闇(無知)に浸かっています。

信奉者:
 しかし、微細な形と原因となる形の自我は、心が目覚めている間に行われるアハム・ヴリッティの源への探求を通じて取り組まれるには、あまりにもつかみどころがないのではないですか。

マハルシ:
 いいえ。アハム・ヴリッティの源への探求は、自我のまさにその存在に届きます。ですから、自我の形の微細さは、重要な考慮すべき事柄ではありません。

信奉者:
 唯一の目的は、自我に決して依存していない、自らの無条件の純粋な存在(Being)を実現することであるのに、アハム・ヴリッティという形の自我に関係する探求がどうして役立ちうるのですか。

マハルシ:
 機能的観点からは、形や活動やその他の何とあなたがそれを呼ぼうとも(消えてゆくので、それは重要ではありません)、自我はたった1つの特徴しか持ちません。自我は、純粋な意識である自らと不活発で感覚のない肉体の間の結び目として機能します。自我は、そのため、チット・ジャーダ・グランティ(*5)と呼ばれています。アハム・ヴリッティの源へのあなたの探求の中で、あなたは自我の本質的なチット(意識)の側面を捉えます。そして、この理由のために探求は自らの純粋な意識の実現に必ず通じるのです。

信奉者:
 ジニャーニよって実現された純粋な意識と経験の根本的所与として受け取られる「私はいる」性の関係性は何ですか。

マハルシ:
 純粋な存在の未分化の意識とは、その言葉そのもの(フリト+アヤム=ハートが私である)によって表されるように、本当のあなたであるハート、フリダヤム(*6)です。そのハートから、「私はいる」性が人の体験の根本的所与として生じます。単独では、その性質はスッダ・サットヴァです。ジニャーニの中で「私」が存続するように見えるのは、このスッダ・サットヴァ・スワルーパ(*7)(つまり、ラジャスとタマスに汚されていない)においてです・・・

信奉者:
 ジニャーニの中で自我はサットヴァな形で存続していて、そのため、それが現実的なもののように見える。合っていますか?

マハルシ:
 いいえ。どのような形の自我の存在も、ジニャーニとアジニャーニの中どちらでも、それ自体見せかけです。しかし、目覚めている状態と世界を現実であると誤って思うアジニャーニにとって、自我もまた現実のように見えます。彼はジニャーニが他の個々人のように行為するのを見るため、ジニャーニに関しても個人性の何らかの概念を想定せざるを得ません。

信奉者:
 ではどのように、アハム・ヴリッティはジニャーニの中で機能しているのですか。

マハルシ:
 それは彼の中でまったく機能していません。ジニャーニのラクシャヤ(*8)はハートそのものです。なぜなら、彼は『ウパニシャッド』の中でプラジニャーナ(*9)として言及される、かの未分化の純粋な意識と全く同一であるからです。プラジニャーナはまさしくブラフマン、絶対者であり、プラジニャーナ以外にブラフマンは存在しません。

信奉者:
 ではどうして、この唯一無二の現実を知らないということがアジニャーニの場合に不幸にも起こるのですか。

マハルシ:
 アジニャーニは、ハートから生じる純粋な意識の光の反射に過ぎない心しか見ません。ハートそのものを彼は知りません。なぜでしょう。なぜなら、彼の心は外に向いていて、そのを一度も探したことがなかったからです。

信奉者:
 ハートから生じる意識の無限で未分化の光が、アジニャーニに現れるのを何が妨げているのですか。

マハルシ:
 壺の中の水が壺の狭い範囲内に巨大な太陽を映し出すのとまさしく同様に、個人の心のヴァーサナー、潜在的傾向は、反射媒体として働き、ハートから生じる意識の全てに行き渡る無限の光を捉え、心と呼ばれる現象を反射という形で表します。この反射のみを見て、アジニャーニは惑わされ、自分が有限の存在、ジーヴァであるという考えになります。

 心がアハム・ヴリッティの源への探求を通じて内向きになるなら、ヴァーサナーは消滅します。そして、反射媒体がないために、反射の現象、すなわち、心もまた、唯一の現実、ハートの光に吸収されて消えます。

 これが志高き者が知る必要のある全ての要点です。彼に否応なしに求められるものは、アハム・ヴリッティの源への熱心な一点に集中した探求です。

信奉者:
 しかし、彼が行うであろうどのような努力も目覚めている状態の心に限られています。心の3つの状態の内の1つでしか行われない、そのような探求が、どうして心そのものを破壊できるのですか。

マハルシ:
 アハム・ヴリッティの源への探求は、疑いなく、心の目覚めている状態でサーダカ(*10)によって始められます。彼の中で心が破壊されているとは言えません。しかし、自らの探求の過程そのものが、心の3つの状態そのものだけでなく、3つの状態の交替や変化もまた、彼の強烈な内に向かう探求に影響を及ぼせない現象の世界に属することを明らかにするでしょう。

 自らの探求は、心の強烈な内向を通じてのみ、本当に可能です。アハム・ヴリッティの源へのそのような探求の結果として最終的に実現されるものは、純粋な意識の未分化の光としてのまさしくハートです。その中に、心の反射した光は完全に吸収されます。

信奉者:
 では、ジニャーニにとって心の3つの状態の間の区別はないのですか。

マハルシ:
 心そのものが意識の光に溶け、失われるとき、どうして(区別が)ありえますか。

 ジニャーニにとって、3つの状態全てが等しく非現実です。しかし、アジニャーニはこれを理解することができません。なぜなら、彼にとって現実の基準は目覚めている状態ですが、ジニャーニとって現実の基準は現実そのものだからです。純粋な意識の、この現実は、本質的に永遠であり、そのため、あなたが目覚めている、夢を見ている、眠りと呼ぶものの間に等しく存続しています。その現実と一体である人にとって、心もなくその3つの状態も存在せず、そのため、内向きもなく、外向きもありません。

 彼の(状態)は常に目覚めている状態です。なぜなら、彼は永遠の自らに目覚めています。彼の(状態)は常に夢を見ている状態です。なぜなら、彼にとって世界は繰り返し現れる夢の現象に過ぎないからです。彼の(状態)は常に眠っている状態です。なぜなら、彼はいつでも「体が私である」という意識なくいるからです。

信奉者:
 では、シュリー・バガヴァーンは目覚めていて、夢を見ていて、眠っている状態で私と話していると考えるべきでしょうか。

マハルシ:
 あなたの意識的な体験が、心の外に向かう状態の期間に今、限られているため、あなたは現在の瞬間を目覚めている状態と呼びますが、その間中、あなたの心はずっと自らに気づいていません(逐語訳的には、「自らに眠っています」)。そのため、あなたは今、本当はぐっすり眠っているのです。

信奉者:
 私にとって、眠りは単なる空白です。

マハルシ:
 そうであるのは、あなたの目覚めている状態が、落ち着きのない心の興奮に過ぎないからです。

信奉者:
 空白ということで私が意味することは、眠る時に私はほとんど何にも気づいていないということです。これは私にとって存在しないも同然です。

マハルシ:
 しかし、眠る間、あなたは確かに存在しました。

信奉者:
 存在したとしても、私はそれに気づいていませんでした。

マハルシ:
 (笑いながら)あなたが眠る間に、あなたが存在しなくなったと本気で言うつもりはないわけですね!あなたがX氏として眠りについたなら、Y氏として眠りから起きたのですか。

信奉者:
 おそらくは記憶の働きによって、私は私の同一性を知っています。

マハルシ:
 仮にそうだとしても、一続きの意識がなければ、どうしてそれが可能ですか。

信奉者:
 しかし、私はその意識に気づいていませんでした。

マハルシ:
 いいえ。眠る時にあなたが気づいていないと誰が言うのですか。それはあなたの心です。しかし、あなたが眠る時に心は存在しなかったですよね。眠る間のあなたの存在や体験についての心の証言にどのような価値がありますか。眠る間のあなたの存在や意識を反証するために心の証言を求めることは、あなたの誕生を反証するためにあなたの息子の証言を求めることも同然です!

 覚えていますか、以前に一度、私が、存在と意識が2つの異なるものでなく、全く同じものであるとあなたに言ったことを。では、どんな理由にしろ、眠っている間にあなたが存在したという事実をあなたが認めざるを得ないと思うなら、あなたがその存在に気づいてもいたと確信しなさい。眠る時にあなたが本当に気づいていなかったものは、あなたの体の存在です。あなたはこの体の意識と永遠である自らの真の意識を混同しています。プラジニャーナは「私はいる」性の源であり、心の3つの束の間の状態によって影響されずに常に存続し、それによってあなたが同一性を損なわずに保つことを可能にしています。

 プラジニャーナは3つの状態を超えてもいます。なぜなら、それはそれらなしで、それらに関わりなく存続できるからです。

 アハム・ヴリッティをそのまでたどることによって、あなたのいわゆる目覚めている状態の間にあなたが求めるべきものは、その現実です。この探求における熱心な修練は、心とその3つの状態が非現実であり、あなたが純粋な存在自ら、ハートの永遠かつ無限の意識であることを明らかにするでしょう。

(*1)アハム・ヴリッティ・・・「私という思い」。ヴリッティは、「思い、心の働き」。
(*2)現象的・・・phenomenalの訳。哲学用語。現象・・・「本体・本質が外的に発現したもの」(goo国語辞典)
(*3)原因となる体・・・causal bodyの訳。夢を見ない深い眠りの時にとるとされている体。他の2つの体の原因となる体。
(*4)所与・・・英語のdatumの訳。哲学用語。思考の働きに先立ち、意識に直接与えられているもの。
(*5)チット・ジャーダ・グランティ・・・チットは「意識」、ジャーダは「意識のないもの、体」、グランティは「結び目」。
(*6)フリダヤム・・・「ハート、中心」。
(*7)スッダ・サットヴァ・スワルーパ・・・「(ラジャス・タマスに汚されていない)純粋なサットヴァの形(本質)」。
(*8)ラクシャヤ・・・「目的、標的、注意」。
(*9)プラジニャーナ・・・「神聖なる知、至高の智慧」
(*10)サーダカ・・・「霊的修練(サーダナ)をする人」。

2012年9月7日金曜日

「私という思い」につかまる、恩寵とサッドグル、自らと自我である自分

◇『サット・ダルシャナ・バシャヤとマハルシとの対話(Sat-Darshana Bhashya and Talks with Maharshi )』、p3~6

最初の疑問


信奉者:
 あなたは、自らの探求によって自らを実現できると言います。この探求の特徴は何ですか。

マハルシ:
 あなたは心です。もしくは、あなたは自分は心であると思っています。心とは思いに他なりません。さて、一切の特定の思いの背後に、「私」という一般的な思いがあり、それはあなた自身です。この「私」を最初の思いと呼ぶことにしましょう。それが何であるか見出すために、この「私という思い」に張り付き、それを問いなさい。この問いがあなたを強く捉える時、あなたは他の思いを考えられません。

信奉者:
 私がそのようにして、私自身、つまり、「私という思い」につかまる時、他の思いが行ったり来たりし、私は自分自身に「私は誰か」問いかけますが、答えはやってきません。このような状況にいることはサーダナでしょうか。

マハルシ:
 これは人々がよくする間違いです。あなたが自らの真剣な探求をする時に起こることは、「私という思い」が一つの思いとして消え、深みから他の何かがあなたをつかみます。そして、それは探求を開始した「私」ではありません。

信奉者:
 その他の何かとは何ですか。

マハルシ:
 それは現実の自ら、私の真意です。それは自我ではありません。それは至高の存在そのものです。

思いの排除


信奉者:
 しかし、探求を始める時、他の思いを排除しなければならないとあなたはよく言っていますが、思いには終わりがありません。一つの思いを排除するなら、他のものがやって来て、まったく終わりがないように思えます。

マハルシ:
 私はあなたが思いを排除し続けなければならないとは言っていません。あなたがあなた自身に、そう、「私という思い」につかまり、そして、あなたの関心がそのただ一つの考え(概念)にあなたを留まらせる時、他の思いは排除され、自動的に消えます。

信奉者:
 それでは、思いの排除は必要ではないでしょうか。

マハルシ:
 ええ。それは、一時的に、もしくは、しばらくの間、必要かもしれません。思いが生じる時に、一切の思いを排除し続けるならば終わりがないとあなたは想像しています。いいえ。終わりはあります。あなたが油断せず、思いが起こる時に、一切の思いを排除する厳しい努力をするならば、あなた自身の内なる自らに深く深く入りつつあることにすぐに気づきます。そこでは、思いを排除するあなたの努力は不要です。

信奉者:
 それでは、努力なく、緊張なくいることが可能です!

マハルシ:
 それだけでなく、ある程度を超えて、あなたが努力をすることは不可能なのです。

信奉者:
 私はさらに教え導かれたいのです。私はまったく努力すべきでないのでしょうか。

マハルシ:
 今、あなたが努力なくいることは不可能です。あなたがより深くに進む時、あなたにとって努力することは不可能です。

ヴィチャーラと恩寵


信奉者:
 では、私は外側の助けなしで済ますことができ、自分自身の努力でより深みにある真理に独力で入ることができます。

マハルシ:
 そうです。しかし、あなたが自らの探求に捉えられているというその事実こそが、神聖な恩寵(アルル(*1))の顕れです。それはハート、内なる存在、現実の自ら(*2)の中で燦然と輝いています。それは、あなたを内側から引き込みます。あなたは外側から入ろうと試みなければなりません。あなたの試みがヴィチャーラ(熱心な探求)であり、深い内なる動きが恩寵(アルル)です。それゆえに、恩寵がなければ真のヴィチャーラはなく、ヴィチャーラのない人には現に働いている恩寵はないと私は言います。両方ともが必要です。

(*1)アルル・・・タミル語。அருள்(Arul)。「神の恩寵、恵み」。
(*2)現実の自ら・・・「the Real Self」、本当の自分。

サッドグル


信奉者:
 サッドグルの恩寵がなければ人は自らに達することができないとあなたはどこかで述べました。正確には、それはどういう意味ですか。グルとは何ですか。

マハルシ:
 知の道の観点からは、自らという至高の境地がサッドグルです。それは、あなたが自分自身と呼ぶ、自我である自分とは異なります。

信奉者:
 では、それが私自身の至高の境地であるなら、サッドグルの恩寵がなければ、それに達することができないということをどういう意味において述べたのですか。

マハルシ:
 自我である自分は、ジーヴァです。それは一切の主(サルヴェーシュワラ)と異なります。私心のない献身を通じ、ジーヴァは主に近づき、主は恵み深くも名と形を帯び、ジーヴァを彼自身に取り込みます.... それゆえ、グルは主以外の何者でもないと言われています。彼は神の恩寵が人間として具現化したもの(化身)であるとギーターは言います。真のグルは神自身です。誰がこれを疑えますか。

信奉者:
 しかし、人間のグルを一人も持たなかったように思える人もいくらかいます。

マハルシ:
 そうです。さる偉大な方々の場合は、神が彼らの光の中の光として内側から彼自身を表します。

信奉者:
 では、真の献身(バクティ)とは何ですか。

マハルシ:
 私が行う、もしくは、私自身が行っていると私が思うことは何であれ、本当は、主の行いである。本当は、何ものも私のものではない。私はここに主への奉仕のためにいる。この奉仕の精神(アルル・ウルヴァム)が、実際、至高の献身であり、真の信奉者は至高の存在を万物に内在する主とみなします。名と形による崇拝は、全ての名と形の向こうへ人を導きます。完全な献身は、終には、至高の知になります。

 はじめバクティが世俗的な望みによって動機づけられてさえいても、望みが叶えられた時にバクティは止みません。それは揺らぐことのない信仰によって増大し、完全に成長し、実現という至高の境地になります。

信奉者:
 では、ジニャーナの道とは何ですか。

マハルシ:
 自我がはぎ取られる時、人は自然に至高なる自らの自覚に自分自身を打ち立てます。

信奉者:
 バクティとジニャーナが、どうして共に同じ目的に通じると言えるのですか。

マハルシ:
 どうして言えませんか。両方の道が、一切の理解を超える至高なる安らぎの境地(モウナム)にあなたを導きます。

2012年7月13日金曜日

神の最初の名であり、最も偉大なマントラ - 「私」の復唱という修練

◇『DAY BY DAY WITH BHAGAVAN From the Diary of A.DEVARAJA MUDALIAR』、p223、p265、p344

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年5月8日

 午後に、北インドからの若いサードゥとの以下の対話がありました。

サードゥ:
 私は、私は誰か知りたいのです。アーリヤ・サマージ派は、私はジーヴァートマ(*1)であると、私が心とブッディ(*2)を浄化するなら、神を見ることができると言います。私は何をすべきか分かりません。バガヴァーンがふさわしいと思うなら、何をすべきか私に教えて頂けないでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたは多くの用語を使っています。ジーヴァートマ、心、ブッディ、神とは、どういう意味ですか。そして、あなたは神に会いに行きたいのですが、神はどこにいて、あなたはどこにいますか。

サードゥ:
 私はそれら全ての用語がどういう意味か分かりません。

バガヴァーン:
 では、アーリヤ・サマージ派があなたに言うことを気にしないように。あなたは神や他の物事について知りませんが、あなたが存在することをあなたは確かに知っています。あなたはそれについて疑いを抱けません。ですから、あなたは誰か見出しなさい。

サードゥ:
 それが私の知りたいことです。どうすれば私は見出せますか。

バガヴァーン:
 他の全ての思いを遠ざけ、あなたの体のどの場所に「私」が生じるのか見出そうとしなさい。

サードゥ:
 しかし、私はそれについて考えることができません。

バガヴァーン:
 どうしてですか。あなたが他の物事について考えられるなら、あなたは、「私」について、そして、あなたの体のどこにそれが生じるかについて考えられます。他の思いがあなたの気を逸らすということであるなら、唯一の方法は、あなたの心がさ迷うたびに引き戻し、それを「私」に定めることです。それぞれの思いが生じるときに、あなた自身に「誰に、この思いがあるのか」尋ねなさい。答えは「私に」となるでしょう。それから、その「私」にしっかり捉まりなさい。

サードゥ:
 「私は誰か」をマントラにするために、私はそれを繰り返し言い続けるべきですか。

バガヴァーン:
 いいえ。「私は誰か」は、マントラではありません。それは、その他の一切の思いの源である「私という思い」が、あなたの中のどこに生じたかあなたは見出さなければならない、という意味です。しかし、このヴィチャーラ・マールガがあなたにとってあまりに難しすぎると感じるなら、あなたは「私、私」と繰り返し言い続けてもかまいません。それはあなたを同じ目的地に導くでしょう。「私」をマントラとして使っても差し支えありません。それは神の最初の名です。

 神はあらゆる所にいますが、その側面においてを思い描くことは困難です。それで聖典には、「神はあらゆる所にいる。はあなたの内にもいる。あなたはブラフマンである」と書かれています。ですから、「私はブラフマンである」と思い出しなさい。「私」の復唱は、終には、あなたを「私はブラフマンである」と悟るように導くでしょう。

(*1)ジーヴァートマ・・・「個々の生命である自分」。パラマートマ(至高の自ら)と対比される。
(*2)ブッディ・・・「知性、分別する機能」。

46年6月28日

 午後に、カンナの妻が、書面でバガヴァーンに懇願しました。「私は聖典に通じていませんし、私にとって自らの探求の方法はあまりに難し過ぎると感じます。私は、7人の子どもがいて、たくさんの家事がある女性であり、それは瞑想のための時間を私にほとんど残しません。バガヴァーンが私に、何かより単純で、簡単な方法を授けてくれることを願います。」

バガヴァーン:
 自分自身を見るために誰も鏡を必要としないように、自らを知るために聖典の学習や知識は必要ありません。一切の知識は、自らでないとして、終には、ただ放棄されることだけを求められます。家事労働や子供の世話もまた、必ずしも障害ではありません。あなたがそれ以上何もできないなら、あなたがどのような仕事をしていても、あなたが座ってようと立っていようと歩いていようと、『私は誰か』の中で勧められるように、少なくともその間ずっと「私、私」と心の中で言い続けなさい。「私」は神の名です。それは全てのマントラの中で最初の、最も偉大なマントラです。オームでさえ、それに次ぐものです。

46年11月24日

 チェノイ婦人は、本(『私は誰か』)の中の「たとえ『私』『私』と言い続けても、それはあなたを自ら、もしくは、現実に連れて行くでしょう」と書かれている箇所に言及して、それがなされるべき適切なことではないのかどうか尋ねました。私(ムダリアール氏)は、「その本には、思いを内側に向け、全ての思いの根源である『私』がどこから起こったか見出そうとすることからなる探求の方法に従おうとしなければならないと書いてあります。もし、そうすることができないと感じたら、ジャパで人々が使う『クリシュナ』や『ラーマ』のようなマントラであるかのように、単に『私』『私』と繰り返し言い続けてもかまいません。その狙いは、他の全ての思いを排除するために、1つの思いに集中することです。そうすれば、終には、その1つの思いさえ消えるでしょう」と説明しました。これに関して、チェノイ婦人は、「人がただ単に『私』『私』と機械的に繰り返しても、それは役に立つのでしょうか」と私に尋ねました。私は、「人が『私』や、『クリシュナ』のような他の言葉を使うとき、『私』や他の何かの名前で人が呼ぶ神についての何らかの考えを確かに心に抱きます。人が『ラーマ』や『クリシュナ』を繰り返し唱え続けるとき、木をその背後にある意味として考えていることはできません」と答えました。この全ての後で、バガヴァーンが言いました。「あなたは今、私は努力していて、『私』『私』や他のマントラを口にしていて、瞑想を行っていると思っています。しかし、あなたが最終段階に達するとき、瞑想はあなたの側のなんらの努力なしに続いて行くでしょう。あなたはそれから逃れることも、それを止めることもできません。というのも、瞑想、ジャパは、あなたがそれを他の何と呼ぼうとも、あなたの本質だからです」。

2011年12月18日日曜日

「自らの探求に関する対話」-シュリー・ヤラマンチリの日記から

◇「自らの探求に関する対話(Dialogue on self-enquiry)」(*1)
以下の対話は、1928年にバガヴァーンと会い、自らの探求についてバガヴァーンと議論したシュリー・ヤラマンチリと呼ばれる信奉者の日記に由来するものです。それは1982年の2月に、「Arunachala Ramana」に発表されました。
質問:
 どのようにしてアートマンを実現すべきですか?

バガヴァーン:
 誰のアートマンですか?

質問:
 私のです。

バガヴァーン:
 では、あなた自身がそれを実現しなければいけません。

質問:
 私はそれを実現し、知ることができません。

バガヴァーン:
 誰にそれが知られていないのですか?

質問:
 私自身にとってです。

バガヴァーン:
 その「私自身」は誰か知ろうとしなさい。

質問:
 それはあなたが教えなければならないことです。

バガヴァーン:
 (笑いながら)あなたは私を試しにここに来たようですね。私があなたが何であるか言うなら、本当にあなたのためになりますか?あなたにただ私が言うだけで、あなたは満足しますか?あなた自身に「私は誰か」尋ねなさい。問いかけた後、自分自身の内側からあなたは答えを得て、それはあなたを満足させます。

質問:
 私はサーダナを長い間してきましたが、無駄でした。

バガヴァーン:
 あなたは「アハム(*2)」を探し求めなければならないでしょう。そうすれば、その見せかけの「私」は消えます。

質問:
 その詳しい過程を教えてください。

バガヴァーン:
 心とは、実のところ、思いのかたまりです。そして、全ての思いは「私」から飛び出します。ですから、それは最初の思いです。派生的な思いに溺れずに、探求者は第一(根本)の思いであるこの「私」に集中しなければなりません。

質問:
 ある思いと「私」との間の違いは何ですか?

バガヴァーン:
 思いは独立していません。思いは「私」と関わっている時にのみ、立場があります。しかし、「私」は独りで立てます。実際は、この「私」も独立していません。今度は、それはアートマンに支えられています。

 幾度も幾度も、それは自らから生じ、そこに沈みます。それは深い眠りにおいて退き、目覚めにおいて再び現れます。我々はその誕生の地を内に向けられた視野でもって探しださなければなりません。

質問:
 私はそのように問いかけていますが、答えを得ていません。

バガヴァーン:
 あなたがその質問を熱心に尋ね、内に進むなら、誤った「私」は消え、真の「私」が現れます。

質問:
 真の「私」とは何ですか?

バガヴァーン:
 それは我々が「魂」や「神」と呼ぶものです。

質問:
 私が探求を始める時、膨大な思いがやってきて、道をふさぎ邪魔をします。私が一つ取り除くなら、代わりに別のものが現れます。終わりがないように思えます。

バガヴァーン:
 私はあなたに思いと格闘するように言っていません。あなたがそのように探求を行うなら、終わりはありません。ここに秘密があります。「私」という全ての思いの源があり、我々はそれを捕まえ、それがどこから生じるか確かめなければなりません。これが絶対的に必要です。犬が匂いの跡をたどることにより主人を突き止めるように、あなたは(真の)魂である源に到達するために、「私」の内なる発達をたどらなければなりません。

質問:
 このことから、私は人が自分の努力で源に達することができると理解しました。

バガヴァーン:
 あなたが自分自身を知ろうと欲するようになるのは、神の恩寵によってです。この自分自身を知ろうとする欲求そのものが、アートマンの恩寵の明らかな証(あか)しです。ですから、あなたの努力の源としてすでに働いている恩寵が存在しています。恩寵は自らの外側の性質ではなく、まさにその本質です。それはハートの中に住んでおり、あなたを内にそれ自体へ引き寄せます。あなたがしなければならない唯一の務めは、注意を内に向け、「私」の源を探すことです。これが、あなたが費やさなければならない唯一の個人的努力です。ですから、恩寵のないところには自らの探求への欲求はない、(と言えるの)です。

質問:
 それでは、グルは必要ないのでしょうか。

バガヴァーン:
 必要な時に、自らそのものが外側のグルの形をとり、その過程へあなたを誘(いざな)います。彼はあなたを内へ押し入れ、すでにそこにいる内なるグルにあなたを手渡します。終には、ハートに住まうアートマンがそこであなたを抱擁します。

質問:
 では、この方法の際立った特徴が何であるか教えていただけるでしょうか。

バガヴァーン:
 「私」という実感はいつも我々の中にあります。ですから、自らからの放射物である、この「私」を通じて自らを見出すことは比較的簡単です。さらに、「私」が多くの形に枝分かれする前に、この方法を通して「私」という元々の形に我々の注意を向けるなら、それは源での「私」の直接的な解消に通じます。

 そうでなく、あなたが「私」がすでに多くの形をとった時に探求を始めるなら、あなたはその惑わす力に押し流され、その源には決してたどり着きません。

質問:
 自らは名前がなく、無形です。それでは、名と形を持つ、この「私」を問うことによって、どうしてそれを見つけられるのですか。

バガヴァーン:
 偽の「私」、または、自我は、魂と体の間に位置し、それらをつないでいます。魂は意識あるものですが、体は意識をもちません。偽の「私」はそれらを結び合わせています。そのため、それは精神と物質の間の結び目(チット・ジャーダ・グランティ)(*3)とも言われています。

 このことから、我々はそれがその足を自らに置き、その頭を体に置いていることが分かります。それゆえに、自我の起源を探求することによって、容易に無形の自らに進み、到達できるのです。

(*1)http://sri-ramana-maharshi.blogspot.com/2008/05/dialogue-on-self-enquiry.htmlからの翻訳です。
(*2)アハム・・・「私」
(*3)チット・ジャーダ・グランティ・・・チットは「意識」、ジャーダは「意識がないもの」、グランティは「結び目」。