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2017年10月12日木曜日

オランダ人による「秘められしインドでの探求」-マハルシは人々を解放する

◇「山の道(Mountain Path)」、2014年4月、p9~15、FROM THE ARCHIVES

シュリー・ラマナ・マハルシ

アルナーチャラの賢者

Gualtherus Mees著
この文章は、アーシュラムの記録保管所で最近発見されました。それはオランダ人学者によって記され、オランダのデーフェンテルで、1939年8月にオランダ語の雑誌 Mensdhen Kosrnos, III No.3.に発表されました。Mees博士は素晴らしい学者であり、ヒンドゥー教についての古典 、Dharma and Societyを記しました。彼の代表作は、全三巻の象徴主義の解説、 The Revelation in the Wildernessです。1936年、33歳のとき、彼はバガヴァーンのもとに来ました。彼は多くのバガヴァーンの写真をとり、そのアルバムは今、記録保管所の収蔵品の中にあります。英訳は著者によるものだと思います。
    4年間、私はインドを旅しています。私は多くのヨーギとサードゥを村に、ジャングルに、時には町にさえ、この広大な大陸全域において訪ねました。聖者や賢者とみなされている人について耳にすれば、私はいつも彼を訪ねに行き、たいていはがっかりしましたが、時折、私が期待したものを見つけました。しかしながら、よく言われるように、本当に重要である人々には、私はいつも偶然に出会いました。ラマナ・マハルシは、この法則の例外です。私が思うに、マハルシは、存命のマハルシたちの中で公の生活を送ることを厭わない唯一の人です。この公開なる犠牲的行為は大変なものですが、しかし、彼を困らせたり、かき乱すものは何もないということを人は何度も何度も思い出さなければなりません。

 マハルシが送る生活は、短い時間で他のどのような人をも発狂させるでしょう。というのも、事実上、彼の生活のあらゆる瞬間、彼は公衆の関心の中心にいます。瞬間でさえ、彼は一人でいません。それは聖なる動物か神の生活です。

 言葉の通常の意味においては睡眠とは呼びえない、数時間のひと眠りの後、マハルシは起き上がり、アーシュラムの簡素な調理場に行き、コミュニティーの簡素な、もちろん、純粋な野菜だけの食事のために野菜を切り、調理することに数時間従事します。この仕事において、そのような早い時間に偶然目覚めている他の人たちに手助けされています。6時半過ぎ、沐浴の後、朝食、米粉でできたケーキが付いたコーヒーがとられます。その後、マハルシはアーシュラムの講堂の長椅子の上で事実上一日中座り、そこを離れるのは11時と8時の食事の間と神聖な山の斜面を少し散歩する間だけです。

 日の出と日の入りに、伝統的なヴェーダ学派のバラモンがやって来て、賢者の足元に座りながら、ヤジュルヴェーダからの賛歌を唱えます。さらに正確には、それは賛歌を半分は歌い、半分は唱えていると表現されるかもしれません。それは非常に印象的で、厳粛な方法です。

 一日中、訪問客が行き来し、頭の上で手を組んで体をまっすぐに伸ばして床に平伏することによって、神に捧げる敬意をもってマハルシにあいさつします。この敬意の表明は、他の人への通常のあいさつ以上に賢者に感銘を与えません。そのように賢者たちに敬意を表することは古典的なインドの伝統であり、マハルシは人々が望むように自己を表現する完全な自由を彼らに残しています。訪問者たちはマハルシの足元で何時間か座り、講堂には賢者の長椅子といくつかの本箱以外何も見当たりません。彼らは瞑想し、宗教的な歌、頻繁にアルナーチャラ・シヴァの栄光をたたえた賛歌を歌い、時に宗教的か哲学的な問題に関する質問をマハルシに尋ねます。

 通例、マハルシは黙っていますが、彼が何かの役に立ちうると思うなら、時に長い説明をするかもしれません。そして、彼は訪問者たちに、とりわけ子供たちが彼に会いに来るなら、心地よい言葉をいつでも喜んで話します。態度と振る舞いにおいて、いつも彼は自然で、飾りません。彼は私が知ることで恩恵を得ている、最も飾らない、のびのびとした人物であると私はわずかの躊躇もなく言えるでしょう。あらゆる見せ掛けは完全にありません。分析心理学の概念を使うなら、彼はペルソナを持たない人です。彼の態度が印象付けようと意図していないという、まさにその事実によって、彼の人格はそのような圧倒的な印象を与えています。多くのサードゥとヨーギは、訪問者や信奉者たちに彼らの知恵、神聖さ、もしくは、靈的な力を確信させたいと思います。印象付けようとするわずかの試みでも、しかしながら、真実の印象の可能性をただちに私から奪い去ります。

 この並外れた人物から発する雰囲気を描くことは極めて困難です。両極端が彼の中で出会っています。彼の子供のような無邪気さと高貴な知恵によって、よく親しんでいるものによって、そして、著しく非凡な何ものかによって、人はただちに感銘を受けます。

 マハルシは人生の大部分をアルナーチャラの聖山で隠遁して過ごしましたが、隠遁が世俗での生活よりも良いや、悟りを得るために必須であるとは彼は決して言いません。自らの実現に至る人は周囲の状況によっていかようにも妨げられたり、影響されることなく、どこにでも住むことができると彼は言います。彼の言葉の一つは次の通りです。「放棄とは、上辺(うわべ)を捨て去ることではなく、自我が沸き上がることの解消です。真のサンニャーシンにとって、独居と活動的な人生の間に違いはありません」。完全に公開された彼自身の生活において、彼はこれを実証しています。彼に影響を及ぼすものは何もないと人は感じ、人は知ります。とりわけ、数週間にわたり何千もの人々が毎日彼のもとに来て、警官が交通を規制しなければならない、ティルヴァンナーマライの寺院の祭りの時期、そのような公の生活なる犠牲的行為を可能ならしめるには超人的な力が必要であると人はまた感じます。

 仏教徒のニルヴァーナ、もしくは、ニッバーナに対応する意識の状態、サマーディについては多くの話があり、そのような靈的な放心または没頭、忘我の状態-もしそのようにそれを呼ぶのを好むなら-を私は数人のインドの賢者たちにおいて見ました。様々な種類のサマーディがあり、誰もがそれ独自の専門用語を持ちます。ここで、それらの用語が何であるかはあまり重要ではありません。マハルシの中にのみ、最高の境地、もはや忘我ではなく、絶対的な意識の状態である忘我の境を感じ、見ます。その中に魅力的な要素が形作られるのは、彼が言葉で言い表せない意識の状態に吸収されていると同時に、それでいて彼の周りの日々の生活のまったく通常の物事に気付いているという事実によってです。彼にとっては、彼の中では、「最も高きものと最も低きもの」が一体になっています。おそらく、「一体になっている」だけではなく、本質において一つであると実現されています。神と世界と彼の最深の自らは、彼にとって一つです。

 彼の教義は、最も高みにある哲学的観念論のそれです。それはアドヴァイタ・ヴェーダーンタ、ヒンドゥー教の一元論的哲学あり、一人の人間存在の中に体現されています。手短には、それは以下のようになります。「個々の主体と神聖な主体は、本質において一つである。それが唯一の真理であり、現実である。世界は、これから離れて、その現実の観点からは、無数の見せかけ、変化する夢のようである。あらゆる人の内で起こる創造の過程が、マーヤーである」。

 世界に住む人にとって(実際、あらゆる人が住んでいますが)、マーヤーは「幻」ではなく、考慮に入れなければならず、逃れ去ることのできない事態です。多くの西洋の思想家たちの非難は、このマーヤーの概念に基づき、ヒンドゥー教は厭世的であり、悲観的であるというものですが、これは根拠のないものです。ヒンドゥー教は大いに「実際的な感覚」を持っています。おそらくは、やや持ちすぎています!マーヤーは戯れです。マーヤーは自らの実現に必要です。人はそれを完全に受け入れるべきです。受容の中で、それは靈性の道になります。

 マハルシは生を見通します。彼のメッセージはインドの全ての偉大なリシたちのそれであり、新たな比較によってのみ印象的です。彼の面前、彼の存在は、解放する要素を形作っています。彼は、いわば、人類にとって巨大な磁石です-人々を束縛するためでなく、人々が一緒に持ち運ぶ重荷や問題から人々を解放するために引き付けるものです。他の教師たちはしばしば訪問者や弟子たちを新たな枷(かせ)で縛ります。人々は直感的にこれを感じるため、彼らはそのような教師たちから距離を置きがちです。マハルシに関しては、しかしながら、彼が「彼らをどうかしたい」と全く思わないことを彼らは直感的に感じます。それゆえ、彼の面前では皆が自由の感覚を得ます。さらに、マハルシの面前での素晴らしい体験は、マハルシが彼ら自身の魂に入ることにはなく、彼ら自身の魂の中で彼ら自身のマハルシが目覚めようとしていることにあるのを彼らは感じます。信愛を、その言葉の感傷的な意味において、マハルシの面前に見出すことを期待すべきではなく、また、それを探すべきではありません。

 マハルシは賢者、ジニャーニですが、ラーマクリシュナのように忘我状態になりやすいバクタではありません。しかし、彼は暖かい人情味に満ちていて、バクティ、愛を推奨します。彼の世界における宗教と奉仕の概念は、例えば、以下のような短詩の中に表現されています。

八つの形からなる、この天地万象
神自身の形として我々がただ認め
全世界に敬愛をもって仕えるならば
それが最勝たるの崇拝である

ウパデーシャ・サーラム、第五詩節

    瞑想とはマハルシにとって、自らの実現に向けての秩序だった努力でしかありません。彼が言うには、それは体の特定の姿勢でなく、目を閉じることでもなく、一日の特定の時間のための何かでもなく(もちろん、これら全てのことはその体系において助けになりますが)-人生の活動と休息の全局面にわたる昼夜を問わない一日中の人生の態度です。「最良の形の瞑想とは、単に目覚めの状態にだけ継続するのではなく、大志を抱く者の夢の状態と深い眠りの状態に及ぶ、それです。瞑想は、『私は瞑想している』という意識や考えの余地を残さないほどに力強くあるべきです。」
 
 彼の助言を求め、彼のもとにやって来た誰にでも彼は寛大に助言を与えました。しかし、彼は人々が大っぴらに彼の弟子と称することや、彼をグルとして掲げることを許しませんでした。彼の他の人々との関係性は内的なものであり、話すにはあまりにも微妙で、あまりにも神聖過ぎるテーマです。非常にしばしば、彼の助言の要点は、訪問者たちを励まして彼らの真の私を探求させることです。どこに意識の基礎があるのか。人々はジーヴァ-個々の私とシヴァ-世界が本質において一つであることを発見しなければなりません。単なる推論を通じてこの結論に達することにあまり価値はありません。その意味における理解がなければ、それは害にさえなるかもしれません。

 多くのヨーロッパ人がすでにマハルシを訪問し、彼について記しています。この驚嘆すべき人物の中の根幹となる要素が、まず第一に彼の言葉や行為の中になく、彼の存在という、彼の現前という単純な事実の中にあるのに、世界のごくわずかの人々しかこの恩恵にあずかれないことは、ほとんど気の毒なことです!私が話した幾人かのヨーロッパ人は、マハルシを訪れた後、この訪問のためだけにはるばるインドにやってくる以上の価値があるとみなしていました。

 高い位の英国軍将校(アラン・チャドウィック)は、ただマハルシに会うためだけに、数年前にインドにやって来て、それ以来、アーシュラムに留まっています。相当不慣れな南インドの環境において、ヨーロッパ人にとって-それも、特に英国人にとって-それは大した偉業となるものです。

 結びに、マハルシの著作から、上で言及された英国人によってマハルシと共同で翻訳された詩節のいくつかを選び出します。

あなたがどのような名や形に対して祈ろうとも
それは遍く行き渡る至高者を見出す
手段でしかない。あなたが気づくようになりますように-
汚れなきの中のあなたの真の自ら
そして、それに、祝福に満ちた安らぎに溶け込みますように!
なぜなら、そのようにして完全なる実現が見出されている!
(40詩節、8)

正反対の二組のもの、三組のものも
全てがその源を現実である何ものかの内に持つ
その礎(いしずえ)ハートの深みの中で探し出せ
この礎が見出されるなら、それらは消え去る
それを見出した人々のみが真理を知っている
そして、そのような人々は決して困惑しないであろう
(40詩節、9)

体が自らであると思う人にとって
「私はこれでない」や「私はそれである」という思いは
探求に役立つ。しかし、どうして人はこれを
「私はそれである」を常に思い続けなければならないのか
「私は人間である」と思う人が存在するのか
その思いなく、人は常にそれのみである
(40詩節、36)

人の真の自らから離れて、他の誰が存在するのか
他の人々が言うことが何だというのか
それはまさしく自分自身を褒めたり、けなしたりするかのごとくである
それゆえ、汝が分離している決してと感じず
汝自身の現実である、それから逸することもなく
」の内にしっかと汝を常に立たせよ
(40詩節・補遺、38)

朗々とした声で我に宣言させよ
ヴェーダーンタの本質、そして、他の学派
全ての真髄を。自我を死なせ
汝自身をそれであらせよう!その時、残さるるは
純粋な意識、「」である自ら
そして、これこそが唯一なる現実である
(40詩節・補遺、40)

(shiba注)以上の詩節の元の英文は、アーシュラム発行のThe Poems of Sri Ramana Maharshiに掲載されているチャドウィック少佐が翻訳した英文と部分的に異なっていますが、ここではThe Poems of Sri Ramana Maharshiの英文の日本語訳をのせています。

2017年4月24日月曜日

恐れなき者、シュリー・ラマナ- 一切の恐怖の克服が賢者の証である

◇『The Call Divine(召命)』 Volume Ⅴ、Book 12、1957年8月1日

2017年4月24日、バガヴァーンの第67回アラダナ(命日法要)に、その遺徳を偲んで
(文shiba)

恐れなき者、シュリー・ラマナ

チャガンラル・V・ヨーギ、マドラス

 生きとし生けるものに最も深く根差した最大の恐怖は、死の恐怖です。死の恐怖を完全に克服した稀有な巨人たちは、片手で数えられるほどです。世事に夢中になっている人々は、死を恐れるあまり、それを口にすることさえ嫌がります。彼らは、死への言及を避けることで、その到来を延期できるという甘やかな幻想を抱いています。そのような人々と対照的に、常に死に立ち向かう覚悟のある人々は、いつも陽気で、恐れを知りません。

 死の恐怖を免れていることは、確かに人間にとって崇高な境地です。しかし、その至高の境地は死の征服そのものなのです。アルナギリの賢者、シュリー・ラマナは、弱冠17才で、この靈的高みの頂きに到達し、それ以後、マハー・ニルヴァーナを得るまで、その至高の境地に留まりました。

 ヴェンカタラーマン(当時のシュリー・ラマナの名前)が学生としてマドゥライで叔父と一緒に暮らしていた時、彼は17才ぐらいでした。その時期のある日、彼が上の階の床に横になっていたとき、驚嘆すべき体験をしました。彼は実際に死の状態を経験したのです。けれども、彼は心の中で完全に意識があり、生き生きとしていました。彼は体が突如、厚板のように固くなったことに気づきました。彼の手先、足先、四肢全ては不活発になり、その結果、動かすことさえできませんでした。彼は横に向くこともできませんでした。全ての死の兆候が体に存在しましたが、驚くべきは、彼が体に起こっていた全てに完全に気づいていたことでした。そのため、体が死んだという事実について疑いは全くありませんでした。

 そして、この死体のような状態で、以下の思いが彼に起こりました。

 「親類が来て、この体が死んでいることに気づけば、彼らはそれを火葬場に運び、燃やして灰にするだろう。しかし、それは私の存在を無にするだろうか。私は生きている、そして、確実に生き続けるだろう。私の原初の存在なる、この意識、それこそが私の真の自らだ。自らは永遠に生きている。体はいつでも滅びうる。私は体ではない。私は自ら以外の何物でもない」。

 そうこうするうちに体は復活し始め、短い時間で正常になりました。かくして、シュリー・ラマナに、この類い稀な死の体験がやって来ては去ってゆき、後に彼が自ら以外の何物でもないという色あせることのない真理の実現を残しました。

 古き時代、ナチケータは死の神、ヤマのもとへ行き、その心をつかむことに成功しました。ヤマは彼を気に入り、自らの真理を彼に明らかにしました。我々の時代には、ヴェンカタラーマン少年もまた死を抱擁し、偉大な真理を得た後、生還しました。ヴェンカタラーマンは死なるライオンのひげをその巣穴の中でつかみました(捨て身で死に立ち向かいました)。この二つの出来事の間の類似はとても明確であるため、シュリー・ラマナの信奉者の多くは、彼が死の主自身から手ほどきを受け、ヤマが彼の師であると信じています。

 マハーラーシュトラの偉大なる賢者、聖トゥカーラムは、彼の歌の一つの中で歌います。「私は私自身の目でもって私の死を見た」。このことは彼がシュリー・ラマナのように、生きている間にさえ死の体験を得たことも示しています。どのように聖トゥカーラムがこの素晴らしい体験を得たのか、彼の心と体にそれがどのような影響をもたらしたのかは、それについて彼が何も記していないため、我々の知るところではありません。それ以上の比較は、そのため、不可能です。

 最大の恐怖、すなわち、死の恐怖を克服した後、シュリー・ラマナはあらゆる類の恐怖から完全に解放されました。まさしく、彼はシュリー・ラマナ、恐れなき者となりました。それ以来、彼は決して恐れなかっただけでなく、恐れなき心と勇気で他者を満たしました。

 1908年、ティルヴァンナーマライはペストの流行に見舞われ、人々は慌てふためき町から逃げました。そのため、町は荒涼たる様相を呈しており、ヒョウたちが白昼堂々と商店街をうろついていました。アルナーチャラ山のふもとに位置するパチャイアンマン女神の寺院に避難する人々もいました。当時、シュリー・ラマナはこの寺院で暮らしていました。彼のダルシャンのためにやって来て、そこに滞在していたランガスワミ・アイエンガーと呼ばれる信奉者は、用を足すために隣接する森に行きました。彼が歩いていると、行く道にヒョウが座っているのを目にしました。彼は追い払おうとしましたが、これはただヒョウを激怒させ、ヒョウは彼にうなり始めました。シュリー・アイエンガーは震え上がり、一目散に逃げ出し、身の安全を図るために寺院に向かって駆け出しました。彼はシュリー・バガヴァーンの名前をこの間中ずっと唱えていました。ヒョウは、その習性と本能に従い、怯えて走るアイエンガーを追いかけました。彼の足が彼を運びうる限界の速さで走っていると、シュリー・バガヴァーンが彼に向ってやって来るのを目にしました。激しくあえぎながら、シュリー・アイエンガーは叫びました。「バガヴァーン!助けてください。ヒョウが私を追いかけてきます」。シュリー・ラマナはただ笑い、彼に尋ねました。「でも、どこにヒョウがいるのですか」。アイエンガーはその頃には後ろを振り返られるほどに回復し、驚いたことにヒョウが全然いないことに気づきました!シュリー・アイエンガーの心から恐怖のわずかの痕跡も除き去るために、シュリー・ラマナは彼に同行して彼が最初にヒョウを見た場所に行きました。しかし、驚いたことにアイエンガーはそこでもヒョウを見ませんでした。これは彼を安心させ、彼は恐怖を免れました。シュリー・ラマナは、そうして、彼自身の恐れを知らない性質を通じて信奉者の恐怖を取り除きました。

 続いて起こった別の出来事には、似たような語るべき話があります。ある時、マドラスからの信奉者が、シュリー・バガヴァーンに敬意を表するためにパチャイアンマン寺院にやって来ました。彼は近くの貯水池に沐浴しに行きました。夕闇へと消えゆく黄昏(たそがれ)時でした。シュリー・ラマナは、その時、寺院で誰かと話すのに忙しくしていました。出し抜けに彼は会話を打ち切り、何か急な用事を思い出したかのように、足早に貯水池にまっすぐ向かいました。あわやというところで彼はそこに到着しました。トラが不用心な沐浴者に背後から今にも跳びかからんとしていたのです。信奉者はトラに気づいておらず、とてもくつろいで沐浴していました。しかし、シュリー・バガヴァーンが誰かに「そこのあなた、向こうに行きなさい」と呼びかけているのを見聞きしたとき、彼は振り返り、トラを目にし、ただただ恐怖に襲われました。トラは、もちろん、シュリー・バガヴァーンの命を受るとすぐに体の緊張を緩め、向きを変え、茂みの中に消え去りました。その時になってやっと、信奉者は安堵のため息をつきました。彼の命を救うというシュリー・バガヴァーンのとりなしに大いに感謝して、彼はシュリー・バガヴァーンを前にして地面にひれ伏し、繰り返し感謝の意を表しました。

 この出来事はシュリー・バガヴァーンの完全に恐れなき心だけでなく、トラのような獰猛な動物に対してさえ、彼が限りない愛と完全な支配力を持つことを示しています。そのような愛は、最高水準の恐れなき心を得た後にのみ、訪れうるものです。他に何が信奉者にとびかからんとするトラに勝ち得たでしょうか。信奉者もまた、シュリー・ラマナがトラをとても愛情深く、恐れずに扱うのを目にするとすぐに、恐れなき心で満たされました。

 1896年9月1日、シュリー・バガヴァーンがティルヴァンナーマライに到着した後、しばらく彼は巨大なアルナーチャレーシュワラ寺院に住みましたが、なにがしかの理由で彼は寺院の敷地自体の中で数回住まいを変えました。その時、彼は住むための全く人が訪れることのない場所を探し求めました。千本の柱のある広々としたマンダパムの中に、そのような場所が片隅にありました。それは放置された地下寺院であり、その中にはシヴァ・リンガが安置されていました。それは地表面より下にあったため、誰かがそれをパーターラ・リンガムとふさわしく名づけました。内部は真っ暗闇であったため、それは崇拝されないままで、地下室も掃除されないままでした。そのため、人々は踏み段を下りて行くのを怖がっていました。しかし、シュリー・ラマナの場合は異なりました。彼は完全に恐れを知らなかっため、この寂しい地下室を滞在地に選びました。彼は下りて行き、都合のいい姿勢で座り、すぐに深いサマーディに入りました。心に恐怖の高まりが生じることさえなく、何か月か彼はその恐ろしい地下牢のような場所に住みました。

 バガヴァッド・ギーターの以下の一節に描かれるように、まさしくシュリー・バガヴァーンは賢者、シュティタプラジニャでした。

その心が情欲、恐怖、怒りから解き放たれた者は、賢者、シュティタプラジニャと呼ばれる

 1922年にシュリー・ラマナーシュラマムが開かれる前、シュリー・バガヴァーンは、アルナーチャラ山の斜面に位置するスカンダーシュラムと呼ばれる素敵な洞窟で長年暮らしていました。1922年に彼の崇敬される母、シュリー・アラガンマルがこの世の煩わしさを捨て去った(亡くなった)のは、ここでした。シュリー・バガヴァーンと数人の信奉者は、このアーシュラムの前壁を建てるために力仕事を行っていました。壁が建設中のとき、ある日、ヘビがそこにやって来ました。それを目にするや否や信奉者たちは怯え、仕事を投げ出し、右往左往の大わらわでした。シュリー・ラマナは彼らがたいそう怖がっているのを目にし、ただ笑い、そのヘビに呼びかけ、言いました。「そこのあなた、向こうに行きなさい。この友人たちがあなたをたいそう怖がってますので」。ヘビは即座にシュリー・バガヴァーンの要請に従い、すぐに視界から消えました。このようにして、彼自身に備わっている恐れなき心によって、シュリー・バガヴァーンは恐れなき心と勇気で信奉者を満たしました。

 1924年に、強盗団がシュリー・ラマナーシュラマムを襲撃し、窓ガラスを打ち壊し、戸棚をこじ開け、アーシュラムに火をつけるぞと脅したとき、シュリー・バガヴァーンは動じず、全く恐れないままでした。強盗団は、居住者たち、そしてバガヴァーンさえも、強(したた)かに打ちつけるまでに及びました。その時でさえも、シュリー・バガヴァーンは全く恐れませんでした。泥棒たちが戸棚と他の箱のカギを要求したとき、ある居住者がアーシュラムのカギ束をもって町に出ていたため、彼らに渡すことは不可能でした。シュリー・ラマナは泥棒たちにこの事実を穏やかに伝えましたが、それでも彼らは暴れまわり、彼を殺すぞと脅しました。この一連の出来事と襲撃の間のシュリー・ラマナの穏やかで冷静な態度は、いかにシュリー・バガヴァーンが生きとし生けるものの根元的な性向、すなわち、死の恐怖を超越しているかを明確に示しています。

 これら全てとシュリー・ラマナの人生の他の多くの出来事は、人も獣も彼に恐怖心を抱かせることができず、彼の完全に恐れなき心が勇気と大胆さで他者を満たしたということを示しています。それは全ての信奉者に教訓を教え込む彼の方法でした。彼は惜しげなく彼が持つもの全てを与え、幸運にもその一部でさえ吸収できた人々は救われ、高められました。

 恐れなき者、シュリー・ラマナに恭しくお辞儀いたします。

ラマナーシュラマムでのバガヴァーンの第67回アラダナ(命日法要)の様子

2015年12月13日日曜日

バガヴァーン・ラマナの唯一性 ② - ラマナにとって「マラナ」は吉兆である

◇「山の道(Mountain Path)」、1987年4月 p87~90

 バガヴァーン・シュリー・ラマナの唯一性 

 K.スブラマニアン博士 

  マハルシは楽しみに水を差す人ではありませんでした。彼は心地よいユーモア感覚を持っていました。彼の先生が彼に会いにティルヴァンナーマライにやって来た時、マハルシは彼の詩の一つを差し上げました。それに大変に感銘をうけた先生は、その作品の中の詩節について二つ質問を尋ねました。マハルシは他の人々に向けて、「見なさい!学校で質問に答えることを恐れて、私はマドゥライを離れました。彼は再び質問を尋ねにはるばるやって来ました!」と言いました。

 マハルシは並外れた倹約家でした。彼は詩節を記すために新聞の余白を使ったものでした。彼はあまりに多くの花や葉っぱを摘むことをプージャーのためでさえ誰にも許しませんでした。地面に一粒の米を目にした時でさえ、それを拾い、そのあるべき場所に置きました。かつて、腰布が破れた時、彼は近くの茂みに行き、とげを一本取り、それに穴をあけ、針として使いました。彼は破れた腰布から糸を取り、即興で作った針と糸で縫い合わせました。

 どのような詩のはじめにも、マンガラ・スローカ、祈願の詩節を記すことが通例です。作品が無事に完成するために、神の祝福が祈願されています。マンガラは、吉兆を意味します。普通、マンガラ・スローカは一つだけ記されます。マハルシはウッラドゥ・ナールパドゥ(40詩節)に二つのマンガラ・スローカを記しました。最初のものは、「在るそれ」を意味するウッラドゥという言葉で始まります。二つ目は、「死」を意味するマラナという言葉で始まります。最初のスローカは「在るそれ(That which is)」を扱い、二つ目は「存在しないもの(that which is not)」を扱っています。死という言葉は、一般的にアマンガラ、すなわち、「不吉」です。おそらく、マハルシはマンガラ・スローカの中でマラナを使用した最初の人です。なぜなら、彼に彼自身を実現させたのは死の体験であったからです。他の人々にとっての死は、体の死です。しかし、彼の死の体験は体の意識の死、自我の死に帰着しました。彼にとって、死は吉兆でした。それは彼の役に立ちました。マンガラ・スローカの中でそれについて記すことを彼が選んだのも、不思議なことではありません。興味深いことに、「マラナ」という言葉の中には「ラマナ」という言葉があります。我々がマラナについて思う時、ラマナについても思わなければなりません。それは死の恐怖を追い払います。

 マハルシについての他の並外れたことは、言葉によっても、手を掲げることによっても彼が人々を祝福しなかったことです。いつ我々がどのアーシュラムへ行こうとも、アーチャーリヤやグルが人々を祝福していたり、プラサーダムを授けていることに気づきます。バガヴァーンは誰をも祝福せず、またブラサーダムを少しも授けませんでした。彼は人々に来たり、去ったりするよう決して求めませんでした。彼は人々にあれやこれやをするよう決して求めませんでしたが、それでも人々は彼に会いに行きました。彼の面前で彼らが大変な安らぎを享受したからです。シュリー・バガヴァーンは他者の中に彼自身を見、彼自身の中に他者を見ました。それゆえ、祝福する者はおらず、祝福される者はいませんでした。彼はまた、彼は誰にとってもグルではなく、また、誰も彼の弟子ではないと言いました。純粋なアドヴァイタの境地において、他者は存在せず、それゆえに、グルとシシュヤの問題は生じません。彼はそう言っただけでなく、人生の毎秒毎秒をそのように生きました。彼はティルヴァンナーマライに54年間住みました。しかし、彼はどのように彼の遺体を扱うべきか、どこに埋葬すべきか誰にも指示しませんでした。彼の離欲は完全でした。

 シュリー・バガヴァーンは時間と空間を超えていましたが、彼は最も時間に正確でした。食堂の鐘が鳴った時はいつでも、たとえシュリー・バガヴァーンが何かを話していても、彼は急に(話を)中断したものでした。彼は誰も待たされていないことを願っていました。たいていの時、彼は沈黙していました。しかし、不断の言葉と彼が言った、彼の力強い沈黙を通して、彼は通じ合いました。このコミュニケーションは、アーシュラムにやって来た人々だけに、また、人間だけに限ったものではありませんでした。彼はモウナ、つまり、沈黙を通して一切の疑いを晴らしたシュリー・ダクシナームールティでした。沈黙とは、シュリー・バガヴァーンによれば、舌の沈黙ではなく、心の沈黙です。

 マハルシに何度か会ったダンカン・グリーンリーズは記します。「ただ居るだけで、そのように、それ(人(格))が属する無の深遠の中に人(格)を沈み込ませることを私に可能にする人を私は他に知らない。普通の人から心を奪い去り、無時間の遍在する存在の歓喜の中に深く沈められるほどに、その恩寵を放つ人間は他に見当たらない」。

 シュリー・バガヴァーンは、サマーディにいるとも、それから出ているとも決して言いませんでした。彼は自らから決して逸れることなく、常にその中にいました。彼はその境地の中に常に留まりながら、様々なことを行いました。彼は「アヴィチュタ・スティタプラジニャ」でした。サマーディは彼の自然な境地でした。

 少年時代と青年時代に、私は何度かマハルシのもとを訪れたことがあります。行くたびに、私は表現しえない安らぎを感じました。あらゆる渇望と疑問は、彼の面前で消え失せました。彼は私に来るようにとも、去るようにとも求めませんでした。彼は完全に自由であり、この自由を全てのものに与えました。しかし、彼のもとを離れるたびに、私は全くもって嫌々ながら彼のもとを離れました。私は王子や農夫が彼の前で平伏しているのを目にしました。彼は彼らを皆同じように扱いました。

 マハルシの人生と教えは不可分です。シュリー・バガヴァーンがマドラスを離れ、ティルヴァンナーマライに向かった時、彼の兄の大学の学費を払うために兄から渡されていた5ルピーの内の3ルピーだけを持っていきました。バガヴァーンは、マドゥライからティンディヴァナムまでの列車の運賃だと彼が思った額だけを取りました。彼はアルナーチャラにその身を完全に委ねており、アルナーチャラに全てのことを任せていました。我々ならば誰もが、仮に状況が好ましくないなら、家に帰るお金を持っていなければならないと考え、5ルピー全額を取ったでしょう。バガヴァーンには、アルナーチャラが彼を受け入れてくれないのではないかというわずかの疑念さえありませんでした。ティルヴァンナーマライに到着するとすぐに、シュリー・バガヴァーンは真っ直ぐ寺院に行き、到着を報告しました。その後、彼はアイヤンクラム貯水池に行き、キウラーのムトゥクリシュナ・バガヴァタールの妻が彼に差し上げたお菓子を捨てました。彼にティルヴァンナーマライの知り合いは誰もいませんでした。いつ、どこで次の食事を得るのか、そもそも得るのかどうか彼は知りませんでしたが、アルナーチャラにその身を完全に委ねており、アルナーチャラが必要なことを行うと感じていたので、それについて心配しませんでした。また、彼は腰布に必要である布の分だけドーティをちぎり、残りを捨てました。彼は余分のカウピーナに興味はなく、残りの布をタオルとして使うことも考えませんでした。彼は絶対的最小限をとりました。

 17歳の少年は躍進を遂げ、浮世の塵をふるい落としました。これがヴァイラーギャであり、これが隠遁であり、これが完全な委ねです。

 彼は自らの知を強調し、それへ向かう道として自らの探求を強調しました。自らの探求は難しいと言った人々には、マハルシは神への完全な委ねを提案しました。委ねた時、大抵の人々は、委ねたのだから、あらゆることが自分たちの望み通りに進むだろうと期待します。マハルシは、完全な委ねは良いことと悪いことを平静に受け入れることを当然伴うと言いました。そのような委ねにおいて、幸せや不幸せを感じる自我は存在しません。実際、完全な委ねにおいて、自我は自らに溶け込んでいます。自分自身の意思は存在しません。マハルシは宗教と儀式を超えていました。彼の教えは、最も簡素であり、最も科学的です。探求する者を探し求めなさい。あなたは誰か見出しなさい。あなたは至福です。しかし、あなたの苦しみは、あなたが自分自身を体と同一視するためです。万物の源は自らです。自らの探求を通して、あなたの心を自らに溶け込ませなさい。その時、あなたはこの世界で幸せに役目を果たすことができます。自我が自らの中に失われる時、自らはその全き光輝と栄光において輝きます。

 シュリー・ラマナ・マハルシは新しいことを何も言いませんでしたが、彼はアドヴァイタを生きました。ガーンディーは、気落ちしている誰にでもシュリー・ラマナーシュラマムに行き、精神的なバッテリーを充電するよう求めたものでした。世の中に嫌気がさした人にとって、マハルシは元気をつけさせる強壮剤です。彼は純粋な意識である自らへの道を指し示しています。宗教に関係なく、彼は全ての人の心に訴えかけます。家住者であれ、サンニャーシであれ、彼の方法は全ての人が修練できます。それはどのような類の儀式もなく、最も科学的で、直接的です。その人生とその教えを通して、自我に心動かさずにいる時(dead to ego)、人は自らに気付く(alive to Self)ということを確証しています。真理の探求者は、ティルヴァンナーマライのアーシュラムへ行きます。そこでは、彼の存命時と同じように力強く、今、彼の活気に満ちた存在が感じられます。

 『Der Weg Zum Seibst(自らへの道)』の中で、有名な心理学者、カール・ユングはマハルシについて語ります。「我々がシュリー・ラマナの人生と教えの中に見つけるものは、インドの中で最も純粋なものです。その息遣いは世界から解放され、世界を解放する人のものであり、それは千年王国の聖歌です。この歌はただ一つの偉大な主題の上に築き上げられ、色とりどりの千の反射において、インドの精神の内にそれ自身を若返らせます。そして、その最も新しい化身がシュリー・ラマナ・マハルシその人です。・・・シュリー・ラマナの人生と教えは、インド人だけでなく、西洋人にとっても重要です。それは非常に興味深い記録を形づくるだけでなく、無自覚と自制の喪失という混沌のなかに自らを見失う恐れのある人類にとって警告するメッセージでもあります」。

 実現(悟り)は、求められずに、シュリー・バガヴァーンのもとへやって来ました。彼が実現を得た時、彼はヴェーダ、ウパニシャッドなどの知識を持っていませんでした。彼はペリヤ・プラーナム、63人の聖典シヴァ派の聖者の人生に関するタミル語の著作だけを読んでいました。16歳の時に彼が死に真っ向から向き合った時、自らの知という宝物は彼のもとへやって来ました。大変な決意と驚くべき勇気を持って、彼は一人で死と向き合いました。その言葉の意味を知ることなく、彼はブラフマンを体験しました。我々は皆、(知識として)それについてたいそう知っていますが、(体験として)それを知りません。

 1950年4月14日、午後8時47分、マハルシは普遍的な精神(遍在する聖霊)に溶け込みました。流星が一つ、空を照らし、それは国の様々な場所で見られました。ティルヴァンナーマライのアーシュラムで、マハルシの存在は今でさえ力強く感じられます。彼を探し求める全ての人にとって、彼が以前にそうであったのと同じく今も、彼に気軽に会うことができます。彼は周辺のない中心になっています。

2015年12月4日金曜日

バガヴァーン・ラマナの唯一性 ① - マハルシにプライバシーは存在しない

◇「山の道(Mountain Path)」、1987年1月 p8~10

バガヴァーン・シュリー・ラマナの唯一性

K.スブラマニアン博士
マハルシについて最も並外れたことは、24時間彼に会えることでした。彼に会うための許可は必要なく、特別なダルシャンの時間はありませんでした。我々の全員が、数時間ごとにプライバシーを要求します。我々は煩わされたくありません。我々にはいつも「煩わ」されているマハルシがいましたが、彼は決して煩わされていると感じませんでした。
  人々はよく彼の周りで眠ったものでした。彼が夜に外に出なければならない時、彼は注意深く足の踏み場を選んで進まなければなりませんでした。誰かが彼にたいまつを差し出した時、マハルシはその必要はないと言いました。信奉者たちに強く勧められ、彼はそれを受け取りました。彼は誰もが煩わされないような方法でそれを使いました。彼が夜に外に出なければならない時はいつも、お腹の近くでたいまつを照らし、その助けによって外への道を見つけたものでした。眠っている人たちを煩わすことになるかもしれなかったので、彼は地面の近くでたいまつを照らしませんでした。彼の他者への配慮とは、そういったものでした。

 しかし、この配慮は人間に限ったものではありませんでした。それは鳥獣や植物に及んでいました。時折、犬たちが講堂で眠ることを選んだ時、犬たちがその場所を汚してしまうと不平を言う人たちがいたものでした。犬たちがトイレに行けるように、マハルシは彼らを真夜中ごろに外に連れ出しました。犬、スズメ、孔雀、リス、猿、牝牛たちは、よく彼のもとに行きました。彼は彼らに話しかけ、彼らは彼の指示に従いました。彼は誰が蛇を殺すのも決して許しませんでした。「私たちは彼らの居場所にやって来ました。私たちは彼らに保護を与えるべきです」。彼の面前では、猿たちでさえ静かにいました。かつて、彼がアーシュラムの瞑想講堂にいたとき、猿が彼の近くに行こうとしました。少し心配になった人々は、その猿を追い払おうとしました。マハルシは猿を見て、彼の近くに来るように招きました。猿は彼の近くに行き、彼女の赤ちゃんを彼に見せました。マハルシは、「あなたたちみなが彼女を追い払おうとしました。彼女は赤ちゃんを見せに来ています。あなたたちは子や孫を連れて来ます。彼女が同じことをするのを許してはどうですか」と言いました。猿はしばらく留まり、喜びのかん高い声を上げながら去りました。リスたちが彼の寝椅子に登ったときは、たくさんの木の実をもらい、彼の手のひらからそれを食べました。彼は全ての存在に愛を放っていました。

 私たちは弟子がグルに仕えることを耳にしています。ここには、弟子に仕えた他に類を見ないグルがいました。彼は毎朝3時ごろに調理場に行き、野菜を切り、チャツネをすりつぶしたりしました。彼がこしらえたものはなんでも非常に美味でした。彼はおいしい料理に興味はありませんでしたが、信奉者への愛情からそれをこしらえました。

 ある時、マハルシの手に水ぶくれがいっぱいあった時、ヴィシュワナータ・スワーミーという信奉者が彼の仕事をすることを申し出ました。マハルシは水ぶくれで困っていないと言い、きつい手仕事やりつづけました。その信奉者はこれに耐えられず、ある日、マハルシよりずっと早く調理場に密かに入り、普段マハルシによって行われる仕事を全て終わらせました。マハルシが調理場に入った時、彼のする仕事がないことに気づきました。彼が何が起こったのか尋ねた時、ヴィシュワナータ・スワーミーが全ての仕事をしてしまったと聞かされました。マハルシは何も言いませんでした。彼がヴィシュワナータ・スワーミーに会った時、彼になぜそうしたのか尋ねました。ヴィシュワナータ・スワーミーは、マハルシの手に水ぶくれがある時に、チャツネをすりつぶしているのを見るのに耐えられなかったと言いました。マハルシは言いました。「初めのころ、私は食べ物を乞わなければなりませんでした。今、私は無料で食事を与えられています。私はこれに値する何らかの奉仕をすべきではありませんか。今日、あなたは私の仕事をしてしまいました。今日、私は何の奉仕もしていません。あなたのドーティを私に渡して下さい。あなたのためにそれを洗います」。ヴィシュワナータ・スワーミーは感動して涙しました。それ以後、彼はシュリー・マハルシの仕事に決して干渉しませんでした。

 ある信奉者たちは、少なくとも正午12時から午後2時の間の2時間、マハルシは煩わされるべきではないと思いました。彼らはその時間、彼をそっとしておこうと決めました。マハルシはこのことについて相談されませんでした。正午以降に訪問者が一人もいないことに気づいた時、マハルシは付添人に何が起こったのか尋ねました。正午12時から午後2時の間は訪問者が入るのを許可しないと決められたことを彼は告げられました。マハルシは講堂の外に出て、座り、「人々はいつでも私のもとにやって来ます。彼らの中には待つ余裕のない人もいます。彼らが私に会えないようにするなら、私が彼らに会いに行きましょう。あなたがたは扉を閉めておくかもしれませんが、私を閉じ込めることはできませんよ」と言いました。彼は規則を破りたくありませんでしたが、訪問者に不便をかけたくありませんでした。彼の他者への配慮とは、そういったものでした。

 ある時、アメリカ人女性がアーシュラムを訪問しました。彼女は地面にしゃがむことが困難であると分かり、マハルシに向けて足を伸ばしました。インドの伝統ではそのようにすることが失礼であることに彼女は気づいていませんでした。ある信奉者が彼女の所へ行き、他の人々のように足をたたみ、座るよう彼女に求めました。これに気づき、マハルシは、その女性はしゃがむことが困難であると分かったのだから、他の人々のようにしゃがむよう求められるべきではないと言いました。付添人がそれは失礼であると言った時、マハルシは、「ああ、そうなのですか。足を伸ばすことで、私はあなたたちみなに失礼なことをしていますね。あなたが言うことは私にも当てはまります」と言いました。そのように言って、彼は丸一日中、足を組んで座りました。彼に足を再び伸ばしてもらうためには、信奉者側の大変な説得を要しました。

 ある時、調理場で、ある「特別な」食事が別に用意されようとしているのをマハルシが目にした時、彼はなぜそれが用意されようとしているのか尋ねました。それが月経の期間にいる女性のためであると告げられた時、彼は言いました。「どうして彼女は別に調理された食べ物を食べなければならないのですか。どうして他の全ての人に出される食べ物を彼女に与えることができないのですか。月経であることは罪ですか。区別せず、皆のために用意された食べ物から彼女に出しなさい」。彼は他者への思いやりと配慮の必要性を強調しました。彼にとって、他者への気遣いは精神性の基礎でした。

 マハルシは女性に不利になる言葉を一言も発していません。女性が一緒にいることがサーダナの障害になると彼はいかなる時も言いませんでした。彼は家庭生活を放棄して、サンニャーサに入るよう決して誰にも勧めませんでした。ある時、彼は言いました。「サンニャーサは、個人性を放棄することであり、頭を剃り、黄土色のローブを身に着けることではありません。ある人は家住者であるかもしれませんが、自分はそれであると彼が思わなければ、彼はサンニャーシンです。逆に、人は黄土色のローブを着て、放浪するかもしれませんが、自分がサンニャーシンであると彼が思う限り、彼はそれではありません」。性的なことを根絶する方法を尋ねられた時、マハルシは、「体が自らであるという誤った考えを根絶することによって。自らに性(別)は存在しません。『私は体である』とあなたが考えるために、あなたは別の人を体として見て、性(別)の違いが生じます。しかし、あなたは体ではありません。真の自らでありなさい。その時、性(別)は存在しません」と答えました。マハルシは、自らの探求の道は女性にもたどることができると言いました。実際、彼は、解放された女性は解放された男性のように埋葬されるべきであると言いました。

 彼は我々のヴェーダおよびウパニシャッドの中で最良かつ最上である全てを体現していました。彼は古(いにしえ)のリシの系譜の出自でした。彼は完全に自由であり、この自由を他者に与えました。彼は決して何も求めませんでした。彼は何であれ自分のためにするように誰にも求めませんでした。たいていの時、彼は沈黙し、理解を超える安らぎを伝えました。彼はあらゆる面で並外れていましたが、平凡な生活を送りました。彼はあれやこれやを放棄するよう人々に助言しませんでした。彼は彼らに「行為者」という感覚を放棄するように求めました。彼は人々に来るように、もしくは、去るように求めませんでした。彼は奇跡や千里眼などを重視しませんでした。彼にとっては、自らの実現が最も重要なことでした。この実現は新たな何かの獲得ではなく、一切の偽装の除去でしかないと彼は言いました。彼は他者と共に食べ、他者に給仕された分だけしか、それ以上は少しも食べませんでした。彼はどんな特別待遇も許容しませんでした。ある時、信奉者がマハルシのために特別に用意されたチャワンプラシュを送った時、その信奉者に配慮して彼は一日か二日はそれを食べましたが、後でそれをみなに分け与えました。彼はとても具合が悪い時でさえ、どんな特別な食事も承諾しませんでした。全てのものが等しくみなに分け与えられることを彼は強調しました。「それが私にとって良いのなら、皆にとって良いのです」と彼はよく言ったものでした。

 彼の純朴さは、並外れたものでした。ディリップ・クマール・ローイは彼についてこのように記しました。「彼の自らを忘却した様子は、私にとって、やはり魅惑的でした。彼のどの態度にも不自然なものは何もありませんでした-装われたり、崇高な、無理に効果を狙ったものはありませんでした。日没の雲の上に美が座すように、彼の上には偉大さが楽々と座していました-しばしば、破壊的な効果を伴うにしても。というのも、いかに偉大なる人が行うべきかについての我々の一切の考えは、純朴な不賛成の微笑みをもって、彼によって払いのけられたように思えたからです」。

 彼は学者ではありませんでしたが、学者たちは疑問を解消するために彼のもとへ行きました。彼は自発的には決して何も記しませんでした。他者の要望に応じて彼が記したものが、本を埋めています。彼の母語はタミル語です。しかし、彼はタミル語だけでなく、彼が信奉者たちから聞き覚えた三つの言語、サンスクリット語、マラヤーラム語、テルグ語でも魅惑的な詩を記しました。それらの言語の学者たちは、彼の詩の美しさに驚嘆しています。
(次号に続く)
(shiba注)
上の題の「プライバシー」に関してですが、英語のprivacyには、「①私生活、②秘密、③隠遁」の意味があるので、そのような意味をこめています。

2014年11月30日日曜日

シュリー・ラマナ・マハルシのヴェーダンタ的神秘主義への貢献

◇「山の道(Mountain Path)」、1969年7月 p160~166

シュリー・ラマナ・マハルシのヴェーダンタ的神秘主義への貢献


G.V.クルカルニ教授

Ⅰ.導入

 ティルヴァンナーマライの偉大な現代の聖者、シュリー・ラマナ・マハルシは、神秘主義のどのような分野への彼の貢献についてもかかずらうことはありませんでした。16才の少年の時に実現(悟り)を達成して以来ずっと、彼はジニャーニの清浄な人生を送りました。彼はどのような哲学や形而上学にも、机上の学問にも興味はありませんでした。彼が実現したものを彼は簡素な言葉で必要とした人々に伝えました。彼はまた、彼の実現(悟り)へ通じる道を伝えました。仏陀のごとく、聖なる事柄に関して極めて実践的であったため、彼は本質的でないことにかかずらわず、本質的な、それも絶対的に本質的なことにのみ集中しました。彼は多くを記さず、多くを語りませんでした。『シュリー・アルナーチャラへの五つの賛歌』という例外を除き、彼が記し、語ったことは何であれ、弟子や探求者の質問への答えでした。彼はどのような新しい宗教も創設せず、どのような新しい哲学分派や体系も確立しませんでした。何であれ彼が伝えたことは、彼自身のものであり、過去の聖者たちの発言、ヴェーダーンタ及びその他の神秘主義の輝かしい伝統によって裏づけられています。彼はヴェーダーンタの古(いにしえ)の神秘主義的哲学を新たな見地から提示しました。従って、我々はカントやヘーゲルの哲学について語るように、彼の神秘主義的哲学について語ることはできません。ともかく、それは新しい道、人生への新しいアプローチではありましたが、それでも、それは古のものです。彼が説いた道は二つ-①探求の道、そして、②委ねの道です。目的は自我、チット‐ジャーダ‐グランティの完全な消滅です。彼自身の言葉では、「マールガナ・マールガ」(*1)と「マッジャナ・マールガ」(*2)です。『ラマナ・ギーター』では、第三の道、すなわち、呼吸の制御(プラーナ・ニローダ)もまた言及されていますが(*3)、これは「マールガナ・マールガ」の一部です。マハルシは、「はじめに、あなたが誰か見出しなさい、もしくは、委ねなさい」とよく言いました。ある弟子に彼の教えがシャンカラの教えと同じであるのか尋ねられた時、彼は、「人々はそのように言います。全ての実現した人が、その人自身の表現方法を持ちます」と答えました。彼は彼がシヴァの化身とみなしていたシャンカラに大いに敬意を払っており、『ヴィヴェーカチューダーマニ』や『アートマボーダ』のようなシャンカラのあまり重要でない作品をタミル語に翻訳しました。彼はヒンドゥー教徒だけでなく、イスラム教徒やキリスト教徒の古の伝統と過去の聖者も評価し、時には彼らの言葉を引用しました。彼はギーターと聖書は同じであり、「イスラム」という言葉は委ねを意味すると言いました。

Ⅱ.ヴェーダーンタ的神秘主義思想との類似点

 ヴェーダーンタ的神秘主義への彼の貢献や彼の教えの独自性の指摘に進む前に、ヴェーダーンタ的神秘主義思想の顕著な特徴に言及させていただきます。

 シュリー・ラマナはインドのリシの伝統に属しており、ラーダークリシュナン博士が述べるように、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの形而上学的立場を採用しています。彼はシュリー・シャンカラのアドヴァイタ的伝統を新たにし、バクティ礼賛の長い間の優位の後に、知の道の卓越性を蘇らせたと言われています。

 一般的に、ウパニシャッドは共通して神秘主義的思想の傾向を持ちますが、究極的現実への三つの異なるアプローチ、すなわち、宇宙論的、神学的、心理学的方法が存在します。最初の二つは究極的に3番目のもの、心理学的方法へ通じ、それは決定的な方法です。それは「私」という体験と我々が呼ぶものが、人生における我々の経験領域全体の核心であると述べることに存します。これは「私」と呼ばれる自分自身を通じて、究極的現実を達成するためのアプローチです。『ブラフマ・スートラ I. 1. i.』の注釈の中で、シャンカラはとても明確にこれを語ります。我々の純粋で、簡素な「私」という体験はブラフマンと同じであると彼は言います。「このアートマンはブラフマンである」(*4)、「意識がブラフマンである」(*5)、「そが汝なり」(*6)というような偉大なヴェーダーンタ的言明は、「私」としての純粋な意識と究極的現実の間のこの同一性を簡素な言葉で表現します。同じことがウパニシャッドに見出される様々な喩え話によって裏づけられています。例えば、『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』のヤージュニャヴァルキャと彼の妻との有名な対話(*7)、『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』のインドラとヴィローチャナとの対話(*8)、同じウパニシャッドのブルグとその息子シュヴェータケートゥとの対話(*9)は、まさしくこの真理を指し示しています。

 ヴェーダーンタはさらに、アートマン、もしくは、ブラフマンの本質は、実在、意識、至福であると述べます。それはオームカーラとして知られるものによって象徴されます。『マンドゥキャ・ウパニシャッドとガウダパーダのカーリカ』(*10)は、それが三つ半のマートラー-A+U+Mから成り立つと詳しく述べます。「A」は目覚めの状態に住まう自らを意味します。「U」は夢の状態に住まう自らを、「M」は深い眠りの状態に住まう自らを意味します。第四のもの(トゥリーヤ)はその一切を超越しています。全世界の名と形は、その礎にある、このオームの顕現として、束の間の様相です。言いかえれば、「ブラフマンは現実であるが、現象的世界は非現実である」。これは(その哲学的意味における)「ヴィヴェーカ」と伝統的に呼ばれています。ブラフマンから離れた世界は非現実であり、ブラフマンとしての世界は現実です。

 この教説はヴェーダーンタにおいて二つの方法-①肯定的なもの(アンヴァヤ)、②否定的なもの(ヴヤティレーカ)-で説明されています。「この全てはブラフマンである」(*11)、「この全てはアートマンである」(*12)、「ブラフマンはこの全てである」(*13)、「アートマンはこの全てである(*14)は前者の典型的表現ですが、「これではない、これではない」(*15)などの類は後者を表します。

 ヴェーダーンタの伝統は、現実を実現する二つの方法-①有神論的崇拝(サグナ・ウパサーナ)、②非‐有神論的崇拝(ニルグナ・ウパサーナ)-を定めています。前者はより明敏でない人向けであり、後者はより明敏で、より高度に発達した探求者向けです。これらの道は、しかしながら、相入れず、相反しているわけではありません。両者ともが同じ目的に通じます。

 ウパニシャッドの中のヤージュナヴァルキャとマイトレーイーの対話など(*16)で、我々は自らの探求の道に出会います。ヤージュニャヴァルキャは、「自らが見られ、聞かれ、熟考され、瞑想されねばならない」と言います。シャンカラはこの道を「ヴィチャーラ」(*17)や「ヴィヴェーカ」(*18)と呼び、彼のプラカラナ・グランタスでそれを褒め称えました。後にヴィドヤーラニャのような著者がそれに言及し、論じました。シャンカラは音を追うことに基づいた瞑想(ナーダーヌサンダーナ)(*19)に言及し、それはウパニシャッド的文献の中でも言及されています。『バガヴァッド・ギーター』は、15章の1詩節(*20)の中で、この探求の道に言及しています。

 ヴェーダーンタは、ダハラヴィドヤー(*21)、または、ハールダヴィドヤーにも言及しています。ハートがアートマンの座であり、自らの実現を得るために、人はそこに集中すべきであるとそれは述べます。『バガヴァッド・ギーター』(*22)でさえそれに言及します。

 自らの知と並んで、ヴェーダーンタはバクティの教説も褒め称えます。我々はこの教説への言及を特に『カタ・ウパニシャッド』(*23)と『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(*24)に見出します。シャンカラは彼のストートラの中でそれを褒め称え、ラーマーヌジャは『ブラフマ・スートラ』の彼の注釈書の中でそれを「プラパッティ」と呼びます。『バガヴァッド・ギーター』と『バーガヴァタ』はそれを雄弁に賞賛することで良く知られています。

 ヴェーダーンタは行為は必要であると述べますが、行為の放棄をより好みます(*25)。シャンカラは行為は知恵(ジニャーナ)の正反対であると述べます(*26)。『バガヴァッド・ギーター』では、しかしながら、統合が存在します。

 最後に、ヴェーダーンタは実現のためのグルの重要性を強調します。グルは尊敬すべきブラフマニシターであるべきであり(*27)、マントラにより、眼差しにより、触れることにより、沈黙により、探求者を導くことができます(*28)。彼の恩寵が実現のために不可欠です。『バガヴァッド・ギーター』は、「グルへの奉仕」をジニャーナを構成する美徳の中の一つであると称賛し(*29)。ジニャーニへの奉仕と交際を勧めます(*30)。ヴェーダーンタは、スルティと四つのマハーヴァーキャの権威をその中軸として認めています。

Ⅲ.ラマナ・マハルシと彼の教えの独自性

 実現(悟り)に関する限り、伝統的なアドヴァイタ的ヴェーダーンタとマハルシの教えに何らの違いもありません。上で言及されたヴェーダーンタの顕著な特徴の大部分は、マハルシの作品の中に居場所を見つけます。現実とそれへ通じる道が、両者によって扱われています。それへの心理学的方法が受け入れられ、好まれ、自らとブラフマンの同一性(ブラフマートマイキャ・バーヴァ)は当然のこととされ、肯定的表現法と否定的表現法の両者が承認され、(時には)有神論的方法と(常に)非‐有神論的方法が導きとして指し示され、探求と委ねの方法が定められ、自らは「ハート」に存していると言われています。尊敬すべきグルと彼の恩寵は実現に不可欠であるとみなされます。しかし、この全ての類似性を認めても、両者の表現法や方法論はいくらかの点において異なります。ラマナ・マハルシのメッセージには、いくらかの相違と顕著な特徴があり、ある点でそれは独特のものです。「同じ実現(悟り)を表現するのに、他の方法で言い表わすことはできますか」という質問へ答えて、彼が言い表わすように、「実現した人は、彼自身の言葉を使います」(*31)

 彼の言葉づかいが独特であっただけでなく、彼の人格もまた独特でした。あるいは、彼の人格が独特であったために、彼の言葉づかいもまた独特であったのかもしれません。我々が彼の伝記や彼自身によって述べられる説明を読む時、彼が16才の時に死と直面した時、ジニャーニ、完全に実現した(悟った)人になったことを見出します。そして、彼は、「誰が死につつあるのか」、「私は誰か」と内に問い、「体は死ぬかもしれないが、『私』(が死ぬの)ではない」と決定的に悟りました。これは彼の中に完全な変容をもたらしました。死はもはや彼を脅かさず、生は新たな意味を獲得しました。このように、この全ては聖典の学習でも、グルの足下でのどのような規律やサーダナの結果でもありませんでした。質問が尋ねられた時はいつでも、彼自身の体験を拠り所として、内から自然と彼にやって来たものを答えとして言いました。そのために、彼の質問への答えと彼の作品の中で、彼はいつも「私」の本質を強調しました。

 それは彼のメッセージのキーワードです。精神的な幸福に本当に関心がある人にとって、彼のメッセージは単純明快です。それは形而上学、専門用語、激しい議論、論争、机上の学問という棘のある密林へ通じません。実際のところ、人は学んだことを忘れなければなりません。それはヴェーダーンタ的作品の中で言及される、ブラフマンへの探求のための四つの必須条件(サーダナ・チャトゥシュタヤ)(*32)にこだわりません。必要とされることは、「私は誰か」知りたいという燃えるような熱望です。実を言えば、あらゆる人が、子供でさえも「私」を知っています。それは我々の活動と知識全ての中心です。しかし、我々が持つ「私」についての知識は、表面的なものでしかありません。これが表面的なものであるなら、本当の知識とは何でしょうか。他の何についても思うことなく、人がそれを絶えず吟味するなら、より深く深くに進み、この「私」の背後、その源へ行き、表面的な「私」は抜け落ち、ハートの中で、我々の内に遍く行き渡る「私‐私」の意識が感じられます。これが本当の「私」であり、神、アートマン、ブラフマンなど(どんな名前を使うのであれ)として知られています。そのため、人は現実または神を探して遠くに行く必要はありません。それは我々の非常に近くにあり、愛しいものであり、我々のまさにハートに存しています。マハルシは、これに関連して、二人の「私」は存在しないと注意します。「私」はただ一人です。体との誤った関わりのため、本当の「私」は、自我‐アハンカーラとして知られる表面的な、もしくは、偽の私として感じられます。私‐アハムは神、真のアートマンですが、接尾辞の「カーラ」が意味するように、アハンカーラは作りものです。

 マハルシは我々のこの「私」を吟味し、それに集中し、それを超越するように求めます。この探求の助けとして、心を静めるために、彼は呼吸の制御、または、呼吸を見守ることを勧めます。この道は彼によって「探求の道」、ヴィチャーラまたはマールガナ・マールガと呼ばれています。それが我々を一直線に現実へ導くため、彼はまたそれを「真っ直ぐな道」とも呼びます。他の一切の道は、究極的に、この道に通じます。

  マハルシは、ヴェーダンタ的文献の中で勧められる瞑想とヴィチャーラの間の相違をこのように指摘します。「瞑想は瞑想する対象を必要としますが、ヴィチャーラ、または、内観では、対象を持たない主体だけが存在します。瞑想はこのようにヴィチャーラと異なります。ヴィチャーラは過程であり、目的でもあります。『私は在る』は目的であり、究極の現実です。この純粋な存在に努力してつかまることが、ヴィチャーラです。それが自発的で、自然になる時、それが実現(悟り)です」(*33)

 同様に、ヴィチャーラは、「私はブラフマンである」(*34)や「私はアートマンである」という瞑想とは異なります。後者は心によるものか、知的なものでしかありません。マハルシは、「私はブラフマンである」というウパニシャッド的格言を説明し、それは「私はブラフマンである」ではなく、ブラフマンが「私」として存在することを意味し、「私はブラフマンである」「私はブラフマンである」と思いふけるように勧められていると思われるべきでないと述べました。

 「アートマンが見られねばならない!」などのウパニシャッド的言明は人々に正しく理解されていないとシュリー・ラマナは言います。彼は、「それはアートマンに、『私』という本当の自覚に、完全にのみ込まれることを意味します」(*35)と説明します。

 ヴェーダーンタの中で言及される単なるヴィヴェーカだけでは自らの実現のために十分ではないと彼はさらに指摘します(*36)。それは離欲(ヴァイラーギャ)を生じるため、役立ちます。しかし、解放のために最も不可欠なものとは、「アートマニシター」-自らに住まうことです。分別(ヴィヴェーカ)は、我々を放棄する者にすることによって、見せかけ(アーバーサ)を束の間のものとして捨て去り、永遠の真理であり存在のみにしっかりつかまるよう駆り立てることによって、我々を一歩だけ前に導けます(*37)

 シャンカラに帰せられる、ヴェーダーンタの中で多く引用される言明、「ブラフマンは現実であるが、世界は非現実である」は頻繁に誤解されています。シュリー・ラマナはこれに関連して、「アドヴァティンやシャンカラの学派が世界の存在を否定したり、彼らがそれを非現実とみなすと言うことはまったく正しくありません。それどころか、彼らにとってそれは他の人々よりも現実的なのです。彼らの世界は常に存在しますが、他の学派の世界は起源・成長・衰退を持ち、それゆえに現実になりえません。ただ、彼らが言うことは、世界は世界として現実でないが、世界はブラフマンとして現実であるということです。全てはブラフマンであり、ブラフマン以外何も存在せず、世界はブラフマンとして現実です。シャンカラはマーヤーが存在しないと言います。マーヤーの実在を否定し、それをミティヤや、非実在と呼ぶ彼をマーヤー・ヴァーディと呼ぶことはできません」(*38)と言います。

 この全ては、ヴェーダーンタのなかで暗示されているものが、彼自身の実現(悟り)の観点から、彼によって明示され、詳説されているということを明確に示しています。彼はまた、ヴェーダーンタの中の古い概念や用語と彼が使った新しい概念や用語の区別を大胆に指摘しました。

 例えば、彼が自らの探求に関連して使った「フリダヤム」という言葉は、古いヨーガ的文献の中で使われる胸の(アナーハタ・)チャクラと異なります。それは左側の身体的なハート(心臓)とも異なります(*39)。「フリダヤム」(ハート)はハート(心臓)と呼ばれる身体的器官とは異なると彼は説明します。「フリダヤム」は「アヤム」と「フリット」の二語からなり、「これが中心である」を意味します。そのように、フリダヤムまたはハートは自らの表現であると言われています。胸部のその場所は、右側であり、左側ではありません。それは自らの座であるということもできますが、これはただ理解のためだけに言われています。自らはあらゆる場所にいて、それを位置づけるのは正しくありません。しかし、ただ我々が体の意識であるから、我々はそれをそのように説明しなければなりません。この「フリダヤム」は、古いヴェーダンタ的およびタントラ的文献の中の「フリダーカーシャ」と異なります。ダハラヴィドヤーやハールダヴィドヤーへの言及はすでになされていますが、カパリ・シャーストリは、『サッド・ダルシャナ・バシャヤ』への紹介の中で、ダハラヴィドヤーとシュリー・ラマナの「サッドヴィドヤー」の違いを指摘しています(*40)。前者においては、「瞑想の目的のために、人は想像力豊かな心によって、サグナ・ブラフマンまたは人格神の概念を形作らねばならず、それをフリド・グーハ、ハートの空洞と呼ばれる場所に据え、それに瞑想します。サッドヴィドヤーでは、人格神や非人格神いづれについての知性的な知識を持つことは不可欠ではなく、プルシャの特別な象徴や、プルシャの住まう場所としてどのような空洞を心に抱いたりする必要もありません。想像上のダハラ・アーカーシャ、ハート‐中心の空洞の中にサグナ・ブラフマンが据えられ、そこで瞑想されねばならないと勧められてもいません。遍く行き渡るブラフマンは、あらゆる人のハートの中の自らであり、不滅の私なる意識として光り輝き、自分自身の存在の起源であり支えの真剣な探求は、自然と生命力(生気)を駆り立て、もしくは、心を刺激し、それ自体の活動の起源に向けさせます。この自らの探求において、ハートの中の無知の結び目(フリダヤ‐グランティ)は緩められ、最終的には断ち切られます。人(魂)は身体的なもつれから解放され、その真実の境地を取り戻します。『私という思い』、または、自我意識の起源であり支えは、そのように、ハートの中で自分自身の自らとして実現されます」と彼は言います。

 シュリー・ラマナが強調した別のことは、ヴェーダーンタ的作品やシャンカラによってもまた言及されるように(*41)、人は深い眠りの中で自らの本質である至福を無意識に享受しているということです。あなたも私も、世界とその問題も、死も存在しません。自我は自らに溶け込んでいます。人々は眠りが無知であると言いますが、そうではありません。我々はこの教えを深い眠りから学ぶべきです。我々の本質の探求は、深い眠りの中の我々のこの体験で始まるべきです。

 シュリー・ラマナはこの道をマハー・ヨーガと呼びます。他のヨーガでは、ヴィヨーガ、つまり、神または自らからの分離が含意されます。はじめに、分離が当然のこととされ、それから、合一のための手段が勧められます。しかし、この真っ直ぐな道においては、我々は自らであるので、すでに自らとの合一が存在しています。我々は我々が自らであるとただ知らねばならないだけです。そのため、この道は他の一切のヨーガに勝っています。それはそれら全てを結びつけます(*42)。このマハー・ヨーガでは、すでに詳述されたように、自我の源の探求が存在し、その消滅に帰着します。マハルシは我々がすでに実現されていると強調します。重要であるのは、我々が実現されていないという偽りを取り除くことです。実現(悟り)は獲得されるべき新たな何ものでもありません。仮にそうであるなら、価値はないでしょう。その考えはヴェーダーンタ的ですが、マハルシはそれを非常に明示的に発展させました。

 伝統的ヴェーダーンタはスルティを固く信仰しており、それを権威あるものとみなしています。シャンカラはこの点をとても強調し、ウパニシャッドの中のこれらの優れた発言を熟考するよう我々に求めました。彼はこれをヒンドゥー教を復活させるという目的で行いました。しかし、シュリー・ラマナは、ヴェーダやヴェーダーンタへの彼の堅固な信仰にもかかわらず、それらに頼り、それらを熟考するように我々に求めません。宗教を持つかもしれない、あるいは、持たないかもしれない現代人のために、彼は「私は誰か」という探求を定め、それは机上の学問も、儀式を行うことも要求せず、極めて重大で、直接的な探求になりえます。「人は知恵の目によってその自らを知るべきです。自らは五つの覆いの内にありますが、書籍はそれらの外にあります」(*43) と彼は言いました。

 この道は、それへの盲目的信仰を持つように求めないため、現代人に魅力的です。人は自ら実験し、真理を確かめ、見出さねばなりません。そのように、それは完全に科学的で、理性的です。なぜなら、科学は、ただ誰それがそれを言うという理由だけで何も受け入れられるべきでないということを要求します。人の誤りえない体験が、ここでの真の導き手です。それはどのような教義、教説からも自由であり、形骸化した伝統に妨げられず、どのようなカースト、信条、(肌の)色にも制限されないため、それは普遍的であり、全ての人に向けられています。

 シュリー・ラマナは、探求の道をたどることができない人々に委ねの道を定めました。この道では、人はどのような外側の仲介者にではなく、自分の真の自らに、自分の思い、心配などを含めたあらゆるものを委ねばなりません。両方にとって自らにのみ込まれることが共通するため、マハルシはこれら両方の道が根本的には一つであると述べます。

 これらの道における困難は、人間の姿をとる必要のない尊敬すべきグルの導きと恩寵によって取り除かれます。真のグルは内におり、慈悲心から、探求者を導くために彼は人間の姿をとります。グルは体ではありません。グルの視点からは、師‐弟子の関係性は存在せず、弟子の視点からは、そのような関係性が存在します。グルとの内なる接触は、身体的接触より価値あるものです。

 行為と知識(ジニャーナ)に関して、シュリー・ラマナの考えはシャンカラのものとは異なるように見えます。彼は結果への望みを持たない無私の行為と神への委ねを勧めます。そのような行為は救いに通じます。行為と知識は相反しません。手は忙しいかもしれませんが、頭は穏やかで、冷静であり、自らに没頭しています。行為には感覚がないため、束縛も、解放もできません。「私が行っている」という概念が束縛です。人は自らの実現を得るために世捨て人になる必要はありません。家庭生活から離れ、森に隠遁する必要もありません。「私はサンニャーシンである」という思いも同様に有害です。我々がどこにいようとも、心を静めようと試み、自らの知に達することができます。この時代の人々にとって、そのような教えは非常に適し、価値あるものです。

 自分の実現(悟り)に照らして、彼はヴェーダーンタ的およびヨーガ的文献の中で多用される古い用語に新たな定義を与えました。
ディヤーナ-瞑想者、瞑想、瞑想対象という三つ組の存在しない、自らなる自然な無心の境地
ウパサーナ-瞑想時の(自らという)自然な(無努力の)境地
シュラバナ-ヴェーダーンタ的文献やグル自身の言葉を聞くこと、もしくは、私という思いの源が体などと異なると直観的に知ること
マナナ-自らの探求
ニディディヤーサナ-自らへの内在
プラーナーヤーマ-心によって呼吸を見守ること 
  • 呼気(吐く息)=私はこれではない(ナーハム)  
  • 吸気(吸う息)=私は誰か(コーハム)  
  • 呼吸の停止=私は彼である(ソーハム)
独居-心を静めること
   要約すれば、二つの道についての彼の洞察力に富む詳細な論じ方、ヴェーダーンタ的真理への彼の再解釈と拡充、理性的で科学的なアプローチを伴う、自らの知(ジニャーナ)への彼の独占的かつ包括的な強調と現代人の必要性への理解-彼の最高の聖なる悟りに由来する、この全ては、ヴェーダーンタ的神秘主義への彼独自の貢献を成しています(*44)

 これだけではなく、これらの真理を深く悟らせるために彼がとった方法も同様に独自のものでした。彼は沈黙を通じ雄弁に話しました。「沈黙は途切れのない言葉です」と彼は言いました。彼が話した時はいつでも、彼の答えは短く、実際は、しばしばユーモアに富み、質問者を内に向けるように意図されていました。それは真っ直ぐなアプローチでした。彼の独特の人格、彼の慈悲に満ちた射抜くような神聖な眼差し、とりわけ彼の沈黙は、探求者の心を落ち着ける影響を持ち、彼らの疑問や問題を晴らしました。

 彼の人生と作品を学ぶ人々にとって、ヴェーダーンタ的神秘主義だけでなく、世界の神秘主義への彼の多大な貢献は、比類ないものに映ります。

原注:
(*1)『Sri Ramana Gita』(1996) II, 9.
(*2)同上
(*3)同上
(*4)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., IV. 4. 5 ; II. 5. 3.
(*5)『アイタレーヤ・ウパニシャッド』., V. 3
(*6)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VI. 8. 7.
(*7)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., II. 4. 1-4. IV. 5. 1.
(*8)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VIII. 7. 1.
(*9)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VI. 8. 7.
(*10)『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., I. 1.
(*11)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., III. 14. 1.
(*12)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., II. 4. 6.
(*13)『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., II. 2. 11.
(*14)同上., V I I . 25. 2.
(*15)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』., III. 9. 26.
(*16)『カタ・ウパニシャッド』., II .1.
(*17)『ヴィヴェーカチューダーマニ』, 124.
(*18)同上
(*19)『プラボーダ・スダーカラ』, 13.
(*20)『バガヴァッド・ギーター』., XV . 4.
(*21)『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., VIII. 1. 2. 3.
(*22)『バガヴァッド・ギーター』.,  XVIII . 61.
(*23)『カタ・ウパニシャッド』., II. 23.
(*24)『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』., VI. 23 ; 18, 14.
(*25)『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., I. 2. 11.
(*26)『ケーナ・ウパニシャッドへのシャンカラの注釈』
(*27)『カタ・ウパニシャッド』., II. 9 ; 『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』., 1. 2. 12 ; 『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』., IV. 14. 2.
(*28)『バガヴァッド・ギーター』., XV . 38.
(*29)同上., XIII. 7.
(*30)同上., IV. 34.
(*31)『Talks with Sri Ramana Maharshi』, (1958) p. 182.
(*32)『ブラフマ・スートラへのシャンカラの注釈』, I. 1. 1.
(*33)『Thus Spake Ramana』, (1967) pp. 48-9.
(*34)同上., pp. 72-3.
(*35)『Sad Barsana Bhashya』, 23.
(*36)『Ramana Gita』, (1966) I, 5.
(*37)『Talks with Sri Ramana Maharshi』, (1958) p. 39.
(*38)『Thus Spake Ramana』, (1967) pp. 75-76.
(*39)『Ramana Gita』, (1966) V, 10.
(*40)『Sad Barsana Bhashya』: Introduction, p. 27.
(*41)『ブラフマ・スートラへのシャンカラの注釈』, II. 1. 6.
(*42)『Upadesa Sara』, (1965) 10.
(*43) 『Who am I?』, (1968) p. 10.
(*44) 『The Mountain Path』, January 1966, Editorial参照

2014年6月8日日曜日

C.G.ユング博士が語るシュリー・ラマナの現代人にとっての重要性

◇『五十周年記念(Golden Jubilee Souvenir)』 p114~117

シュリー・ラマナと現代人への彼のメッセージ 


C.G.ユング博士 (チューリッヒ)
 Zammer博士の『Der Weg Zum Seibst(自らへの道、または、バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシの人生と教え)』へのC.G.ユング博士の前書きからの抜粋。
  シュリー・ラマナは、インドの大地の真の息子です。彼は誠実であり、それに加え、全く驚嘆すべき格別の人物です。インドにおいて、彼は汚れのない場所の中でも最も汚れのない地点です。

 我々がシュリー・ラマナの人生と教えの中に見つけるものは、インドの中で最も純粋なものです。その息遣いは世界から解放され、世界を解放する人のものであり、それは千年王国の聖歌です。この歌はただ一つの偉大な主題の上に築き上げられ、色とりどりの千の反射において、インドの精神の内にそれ自身を若返らせます。そして、その最も新しい化身がシュリー・ラマナ・マハルシその人です。

 自らと神の同一性は、ヨーロッパ人にとって衝撃的に感じられます。シュリー・ラマナの言葉の中で表現されているように、それは特に東洋の悟りです。心理学は、そのようなことを目的とすることは心理学の範囲をはるかに超えていると述べる以外は、それにさらに何も貢献できません。しかしながら、インド人にとって聖なる源としての自らが神と異ならないことは明確です。そして、人が彼の自らに留まる限り、彼は神に包摂されているだけでなく、彼は神自身であり、シュリー・ラマナはこの点において非常にはっきりしています。

 東洋の修練の目的は、西洋の神秘主義のそれと同じです。焦点は、「私」から自ら、人から神へ移し替えられます。これは自らの中に「私」が、神の中に人が消えることを意味します。同様の努力が『霊操』(*1)の中で記述されており、その中で「個人資産」である「私」は、可能な限り最大限、キリストの所有(者性)に従属させられます。シュリー・ラーマクリシュナは自らに関して同じ立場をとりました。ただ彼に関しては、「私」と自らの間のジレンマがもう少し前面に出ています。シュリー・ラマナは、聖なる修練の真の目的は「私」の解消であると間違いなく明言しています。ラーマクリシュナは、しかしながら、この点に置いていくぶん躊躇する態度を示してます。彼は、「私の意識が続く限り、その限りは真の知(ジニャーナ)と解放(ムクティ)は不可能です」と言いましたが、しかし、彼はアハンカーラの致命的な性質を知っているに違いありません。彼は、『この合一(サマーディ)を得て、この「私」から脱することができる人は何とわずかなのでしょうか。それはまずめったに起こりません。思う存分に話し、あなた自身を絶え間なく分離しなさい。しかし、この「私」はいつもあなたのもとへ帰ります。ポプラの木を切りなさい。明日にはそれが新たな芽をつくっていることに気づきます。この「私」がついに破壊できないと分かった時、それを僕(しもべ)である「私」としていさせましょう』と言いました。この譲歩に関して、シュリー・ラマナは確かにより徹底的でした。

 この二つの数量-「私」と自ら-の間の変化する関係は、東洋の内観的な意識が、西洋の人間にはほとんど達成できない程に探求した経験の領域を表現します。東洋の哲学は、我々のものとはまるで異なり、我々に非常に価値のある現在を描きますが、しかしながら、我々はそれを「所有するために獲得するに違いありません」。シュリー・ラマナの言葉は、今一度、インドの精神が内なる自らの熟考において数千年もの間に蓄積した最も重要なものを要約しています。そして、マハルシの個人の人生と作品は、もう一度、解放する原初の源を見つけるためのインドの人々の心の奥底にある努力を例示しています。私が「もう一度」と言ったのは、インドがとなり、それと共に国際社会に参加するという運命的な段階の前に立っているからです(*2)。その指導原理は、魂の「孤独」と安らぎだけを除き、すべてのものをその計画下におきます。

 東洋の国々は、精神的財産の急速な崩壊に脅かされており、その場所にやってきたものは、西洋(人)の心の最良のものに属しているとはいつもみなすことができないものです。それゆえに、人はシュリー・ラーマクリシュナやシュリー・ラマナのような聖者を現代の預言者とみなすのかもしれません。彼らは我々にインドの何千年もの精神的文化を思い出させるだけでなく、それを体現しています。彼らの人生と教えは、西洋文明の新しい物事すべてや、世界への物質科学的および商業的関心の中に魂の要求を忘れないようにという印象的な警告となっています。政治的、社会的、知的分野において獲得し、所有しようとする息つく暇もない衝動、それは西洋人の魂の中の表面的な、満たされない情熱をかきまわし探しながら、東洋でも絶え間なく広がりつつあり、いまだ見過ごされるべきでない結果を生む恐れがあります。インドだけでなく、中国においても、その中でかつては魂の命が栄えた多くのものが、すでに失われています。西洋の外面化の文化は、真に多くの悪を取り除くことができ、その破壊はとても望ましく、都合がよいように思えます。しかし、経験が示すように、この進歩は精神的文化の喪失とあまりに密接にもたらされます。秩序立ち、衛生的に設けられた家に住むことは疑いなくより快適ですが、この家に誰が住むのか、そして、彼の魂が同じような秩序や純粋さの状態、すなわち、外面的な生活のために役立つ家のような状態を楽しんでいるのかについての問いには答えません。一度、人が外面的な物事の追求に向けられるなら、経験が示すように、生活必需品だけでは彼は決して満足せず、よりいっそうのものを常に求めて努力します。その先入観に忠実に、彼は常に外面的な物事の中にそれを探します。外面的な成功すべてにもかかわらず、内面的には同じままであることを彼は完全に忘れ、それゆえに、彼の周りの他の人のように2台の自動車ではなく、1台しか所有していない時に自分の貧しさについて不平を言います。確かに、人の外面的な生活は多くの改善や美化を生みますが、心がそれに追いついていない程度に応じ、その価値を失います。全ての「必需品」の供給は、疑いなく、過小評価されるべきでない幸福の源です。しかし、その上、それを超えて、人は要求を掲げます。それはどのような外面的な物品でも満たすことはできません。そして、この世界の「素晴らしいもの」を探し求めるこの声が聞き届けられるのが少なくなるにつれ、人生の状況のただ中で、心は説明しえない不運と理解しえない不幸の源になります。彼は人生から全く異なる何かを期待したのでしょうが。外面化は不治の苦しみに通じます。なぜなら、誰もがいったいどうして人が自分自身の性質のために苦しむのか理解できないからです。誰もが自分自身の満たされないという性質に驚かずに、それを自分の生得権とみなしています。彼の魂の食事の偏りがついには心の平静への最も深刻な妨げになると彼は理解しません。これこそが西洋人の病を形づくるものであり、彼はその貪欲な落ち着きのなさを全世界に感染させるまで休みません。

 東洋の知恵と神秘主義は、それゆえ、彼らが独自のまねできない話ぶりで話すなら、我々に語るべきたいへん多くのことを持っています。彼らは我々に、同様の考えをもつ我々自身の文化の中に我々が所有しており、すでに忘れ去られてしまったものを思い出させ、重要でないと脇によけたもの、すなわち、我々の心の運命に我々の注意を向けます。シュリー・ラマナの人生と教えは、インド人だけでなく、西洋人にとっても重要です。それは非常に興味深い記録を形づくるだけでなく、無自覚と自制の喪失という混沌のなかに自らを見失う恐れのある人類にとって警告するメッセージでもあります。

(*1)『霊操』・・・イグナティウス・ロヨラ著の『Exercitia Spiritualia』の日本語訳。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E6%93%8D
(*2)Der Weg Zum Seibst』は1944年出版。『Golden Jubilee Souvenir』の初版は1946年9月に発行。インドの独立は1947年8月15日。

2014年5月24日土曜日

バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシの年表

◇「山の道(Mountain Path)」、1979年1月 p23~25

 ookuwaさんの「マハルシの年表」(http://ookuwablog.blog94.fc2.com/blog-entry-6.html)もぜひ参考にして下さい。とても詳しくのっています。(文:shiba)

- マハルシの人生における重要な出来事 -


1879年 

12月30日、月曜日-タミル暦のプラマディ年、マールガリ月、16日に相当-プナルヴァス星-アールドラ・ダルシャン日-ティルチュリで午前1時に生誕(「シュリー・スンダラ・マンディラム」)。

1891年

   初等教育をティルチュリで修めた後、ディンディグルに移動。

1892年 

2月18日 : 父スンダラム・アイヤルの死。マドゥライへ移動。スコット中学校とアメリカン・ミッション高校で学ぶ。

1895年 

   11月1日 : ある年配の親戚の人が彼に言った「アルナーチャラ」を耳にする。

1896年 

(6月半ばごろ) : 完全で、永久的な自らの実現に帰着するマドゥライでの「死の体験」(「シュリー・ラマナ・マンディラム」)。-8月29日、土曜日 : マドゥライを離れ、アルナーチャラへ-9月1日、火曜日 : アルナーチャラに到着-寺院の敷地内の千柱講堂、イルッパイ樹の下、パーターラ・リンガ(地下室)の中、時にはゴープラムに滞在。

1897年

町外れにあるグルムールタムに移動(その年の初めごろ)。その寺院に隣接するマンゴー果樹園に滞在(1年半)。

1898年 

5月 : 叔父のネッリアッパ・アイヤルがマンゴー果樹園にいるバガヴァーンを訪問。
9月 : パヴァラ・クンドルへ移動。
12月 : 母アラガンマルがパヴァラ・クンドルにいるバガヴァーンを訪問。

1899年

2月 : アルナーチャラ山へ移動。山の上の様々な洞窟に滞在するが、ヴィルーパークシャ洞窟にほとんど滞在する。マンゴーの木の洞窟を夏の住居として使う。

1901年

シヴァプラカーシャム・ピッライによって尋ねられた質問に答える(「私は誰か」)。

1902年

ヴィルーパークシャ洞窟で、ガンビーラム・セーシャイヤーによって尋ねられた質問に答える(「自らの探求」)。

1905年

ペスト流行の6ヶ月間、パチャイアンマン・コーリに移動-山に戻る。

1907年

11月18日 : バガヴァーンとカーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニとの重要な出会い。バガヴァーンはムニにウパデーシャを授ける。

1908年

(1月から3月) : (ガナパティ・ムニと他の人と共に)パチャイアンマ・コーリに滞在し、再びヴィルーパークシャ洞窟に戻る。
アーディ・シャンカラ作の「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」と「ディルク・ディクシャ・ヴィヴェーカ」をタミル語の散文に翻訳。

1911年

11月 : 最初の西洋人であるF.H.ハンフリーがバガヴァーンに出会う。

1912年

ヴァスデーヴァ・シャーストリーと他の人の面前において、亀岩での2回目の死の体験。

1914年

母の病からの回復のために、アルナーチャラへ祈り(歌)を捧げる。

1915年

「ポッパドムの歌」が母のために書かれる。以下のものも、ヴィルーパークシャの日々の間に書かれる。
「アルナーチャラ・アクシャラ・マナ・マーライ」、「アルナーチャラ・パディカム」、「アルナーチャラ・アシュタカム」、「デーヴィーカ・ロッタラ」の翻訳、アーディ・シャンカラ作の「ダクシナームールティへの賛歌」・「グル・ストゥーティ」・「ハスターマラカ・ストートラ」の翻訳。

1916年

スカンダーシュラムへ移る。

1917年

サンスクリット語で「アルナーチャラ・パンチャラトナム」を作る。
母がスカンダーシュラムに定住。「シュリー・ラマナ・ギーター」がガナパティ・ムニによりサンスクリット語で著される。

1922年

5月19日、金曜日 : 母のマハー・サーマディ。
12月半ば : シュリー・ラマナーシュラマムが現在ある場所に移動。

1927年

「ウパデーサ・サーラ」をタミル語、サンスクリット語、マラヤーラム語で作る。
4月24日 : 「アートマ・ヴィドヤ」を作る。

1928年

「ウラドゥ・ナルパドゥ」(40詩節)をタミル語とマラヤーラム語で作る(「サット・ダルシャナム」)。

1930年

サンスクリット語の「サット・ダルシャナム」(ガナパティ・ムニによるタミル語からの翻訳)。

1933年

アーガマ、「サルヴァジニャーノータラム」の中の「アートマ・シャークシャートカーラ」をタミル語に翻訳。

1936年

「シュリー・ラマナ・ギーター」をマラヤーラム語に翻訳。

1939年

9月1日、火曜日 : バガヴァーンによりマトゥルブーテーシュワラ寺院のために基礎が置かれる。

1940年 

「バガヴァッド・ギーター」から42詩節を選び、タミル語とマラヤーラム語に翻訳。

1946年

9月1日 : バガヴァーンのアルナーチャラ到着、50周年記念式典。

1947年

2月 : 「エーカートマ・パンチャカム」をテルグ語とタミル語で作る。

1948年

1月18日 : 牝牛のラクシュミーがニルヴァーナを得る。
アーディ・シャンカラ著の「アートマ・ボーダ」をタミル語に翻訳。

1949年

3月17日、火曜日 : バガヴァーンの面前で、マトゥルブーテーシュワラ寺院のクンバービシェーカム。

1950年

4月14日、金曜日 : 午後8時47分、バガヴァーンのブラフマ・ニルヴァーナ。その瞬間、鮮やかに輝く流れ星が、南(現在のニルヴァーナ・ルーム)から出て、空を横切り、ゆっくり北側に動き、アルナーチャラ山頂の背後に消えるのがインドの様々な場所で多くの人に目撃される。

2014年2月15日土曜日

ラマナ・マハルシの使命 - 危機の時代における精神的価値観の復活

◇「山の道(Mountain Path)」、1979年4月 p86~90

マハルシの使命


サダーシヴァ・ラオ博士

 「ラマナは誰なのか」という問いは、年若いころの彼の宗教的知識に驚愕したマハルシの初期の幾人かの弟子たちの心を捉えました。彼らは彼は神の化身か、過去からの偉大な聖者と認められうると信じました。しかし、誰もマハルシに直接に質問する勇気はありませんでした。その問いへの最も重要な答えは、1935年に著名なチベット語の聖典の翻訳者であるエヴァンス・ウエンツ氏によってなされた質問に答える時に、マハルシ自身によって与えられました。その問いは、「マハルシは自らを実現するのにどれぐらい時を要しましたか」です。

 マハルシは、「名と形が認識されているために、その質問が尋ねられています」と説明しました。名と形の下に、実在なる現実(自ら)があります。その中には「私」も「あなた」も「彼」もなく、現在も過去も未来もありません。そして、それは時間と空間を超え、言葉での表現を超えています。それゆえ、彼は自らが実現される時、質問は生じないと言いました。マハルシはさらに言いました。

 「バナナの木が、実をつけて枯れる前、その根元に新芽を作り、植え替えられたその新芽が同じく根元に新芽を作るのとまさしく同様に、沈黙において、リシである弟子たちの疑いを晴らした古(いにしえ)の原初の師、ダクシナームールティもまた常に増えゆく芽を残しています。グルはダクシナームールティの新芽です。」

 マハルシの答えの2番目の部分は、きっと質問者の心の中のマハルシの正体についての質問か疑いによって促されたのでしょう。それはダクシナームールティがまさに一番初めのグルであり、彼が沈黙において教えを説いたリシである弟子たちが次にはグルとなり、彼らの弟子たちも次にはグルとなり、プランテイン(バナナ)の木が増えるように、グルの数が増えてゆく結果になります。最後に、マハルシは、グル(マハルシ)がかのダクシナームールティの新芽(弟子)であると言うことによって質問者の心の中にある疑問に答えます。

 最後の文は、マハルシがダクシナームールティの直弟子であるという意味にとれるかもしれません。それはまた、一般的な意味において、彼が太古の系譜のグルの一人であるという意味にも取れるかもしれません。どちらの選択肢で理解されるかは重要ではありません。なぜなら、彼らはみな最高の序列のグルだろうからです。そのようなグルは、世界の歴史によって、とりわけ、インドの精神史によって示されているように、世界の師(ジャガッドグル)として重要な特別の使命において以外、名と形からなる世界にやって来ません。振り返ってみて、バガヴァーン・ラマナ・マハルシが至高の師であり、彼が特定の使命を帯びて世界の師としてやって来たことにほとんど疑いありません。彼の使命の評価は、彼の到来を必要とした世界の状況と彼の教えの正確な性質と目的を注意深く学ぶことによって可能です。比較のための背景として、10世紀ほど前に特定の使命を帯びてやって来た、もう一人の広く認められる世界の師、シャンカラーチャーリヤの時代と教えについて短く触れます。シャンカラーチャーリアとバガヴァーン・ラマナ・マハルシは共に、アドヴァイタとジニャーナ・マールガの立場から説きましたが、彼らの使命の目的は異なりました。

シャンカラーチャーリヤの時代と教え

 8世紀にシャンカラーチャーリヤが到来した時、ヒンドゥー教の社会はその根本的な宗教的教義に関して混乱状態にありました。約4000年前、(ヴィヤーサとも知られる)クリシュナ・ドゥヴァイパーヤナがヴェーダーンタ・ダルシャナ学派を創設しました。その時以来、それはウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、ブラフマスートラとして知られる聖典に加え、ヒンドゥー教に宗教的土台を与えました。紀元前500年ごろ、主ブッダによって創設された仏教が起こりました。彼もまた世界の師でした。それはヒンドゥー教の集団の中で一般の人々の向上のために展開し、ヴェーダのニヴリッティ・マールガ(行者の道)を模範とした倫理-宗教的運動でした。ヒンドゥー教と仏教の宗教的教義の間に対立はありませんでした。しかしながら、約13世紀後、インドの仏教徒集団が様々な教義を持つ複数の学派に分かれた時、二つの間に溝が生まれました。ヒンドゥー教の社会はそれ自身の宗教的教義に関して混乱状態にありました。シャンカラーチャーリヤがヴェーダーンタ、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、ブラフマスートラの権威への信仰の復活を促すためにやってきたのは、その時代でした。彼は上記の権威ある聖典が、個別の生命、ジーヴァと同一であるただ一つの無限なる至高の現実、ブラフマンを明らかにしていることを証明するために、論理でもって主導的な学者的な論敵を説き伏せねばなりませんでした。彼は32年という短い人生において、ヒンドゥー教の宗教的基礎のほとんど奇跡的な復活のための堅固な土台を築きました。彼は徒歩で全土を旅し、四つの地域に僧院を設立しました。加えて、彼は一般の人々の利益のために上述の聖典の明快な注釈書を記し、短い哲学的作品を記し、ダクシナームールティへの賛歌を含む多くの献身を表す賛歌を作りました。彼の教えは今日に至るまで圧倒的大多数のヒンドゥー教徒の宗教的教義の源として受け継がれています。

根本的価値観における危機

 19世紀の終わりごろ、バガヴァーン・ラマナ・マハルシの到来の時、状況は全く異なるものでした。精神的価値観に純粋な物質的主義的価値観が取って替わることによって引き起こされた、ほとんど全ての国に影響する、急速に進行する世界的危機がありました。科学技術は19世紀中ごろから発展し始め、ほとんどの国の産業の発展と人々の経済的状況を改善する手助けをしました。現代科学はそれと共に物質主義的見解をもたらしました。行為の支配的な動機は、社会的犠牲や結果を顧みない自己利益と物質的獲得になりました。宗教が単なる形式的行為へ衰えると共に、精神的価値観は1世紀かそこらの間に薄くすりきれ、結果、科学によってもたらされた新しい物質的価値観は容易くそれに置きかわることができました。これは、科学の発展により最も多くの利益を受けたヨーロッパやアメリカのより発展した社会で圧倒的に起こりました。20世紀において科学技術が加速したペースで発展したため、世界の人類の幸福を促進するための主要な動機を与える力として、物質主義に完全な信頼が寄せられるようになりました。この信頼はつかの間のものでした。原子力科学における進歩が、人類の幸福のために用いられるどころか、全ての人々を抹殺するために使われた時に、それは粉々にされました。それは科学の過ちではなく、人間とその動機の過ちでした。物質的価値観への信頼の喪失と支柱となる永続的な価値観の欠如によって、西洋のより富裕な人々の間、特に、若い世代の間で深い不満足感が顕著です。彼らは核による全滅以外の人類の行く末を予期していません。進歩的な思想家は、人類が生き残ろうとするならば、物質的価値観が精神的で人間味のある価値観で和らげられるべきだと理解しています。しかし、どのようにそのような価値観を取り戻しうるのか誰も示していません。西洋からの多くの人が、人生における新しい意味と目的を求め、インドとその豊富な精神的遺産に期待を寄せ始めています。

マハルシの教え

 マハルシの教えは、今世紀(20世紀)のはじめの50年間のうちに、人々に伝えられました。この世界的危機の時代での彼の到来と彼の教えの性質は、全世界の人々にとってこの上ない重要性をもっています。彼の教えは、いかなる宗教や宗教的哲学の布教とも関係していませんでした。それはさらにもっと先へ進み、全ての人の能力の範囲内に十分ある簡素な聖なる修練を人々に教えています。それは自分自身の努力を通じて、聖なる知恵(ジニャーナ)とそれに伴う全てのものを獲得するためのものです。そのような計り知れない重要性をもつ務めに従事した世界の師は過去にいません。彼は旅に出かけず、教えを広めるための専門書を著しませんでした。彼の教えは、沈黙の恩寵(モウナ・ディークシャー)の授けと共に彼の話す言葉を通じ、直接的に本人によって彼に引き寄せられた個々人に伝えられました。これはダクシナームールティから始まる偉大なグルの最高の聖なる伝統に一致しています。偉大なグルの恩寵はとても力強いため、遅かれ早かれ、それを受け取る全ての人がその生涯の内にグルの教えを理解し、修練を始め、成功するのを助けます。恩寵は現世における個人のその後の人生にも同様に効果的です。マハルシは、「私は誰か」という小冊子の中で言います。「虎の口に落ちた獲物が決して逃れることを許されないのとまさしく同様に、グルの恩寵を受け取った人は間違いなく救われ、決して見捨てられません」。恩寵を受け取った全ての人が、終には益されます。ますます多くの個々の信奉者が世界中からマハルシに引き寄せられました。マハルシは、南インドの聖なるアルナーチャラ山の影にあるアーシュラムに留まりながら、半世紀の間に彼の恩寵によって膨大な数の個々人に届くことができました。

私は誰か?

 マハルシが説いた聖なる修練は、「私は誰か」見出すための簡素な内なる探求です。それは誰も否定できない「自分が存在している」という確信以外、個人が受け入れるための事前の条件を要求しません。この確信は、人が自分自身に関して「私」や「私は(~で)ある」と言うたびごとに主張されています。家庭の中の静けさにおいて、それぞれの人によって行われるべき修練とは、内に向けられた心でもって「私」(もしくは、「私はいる」)に一点集中することです。これはその人自身、または、その存在への心の一点集中に等しいです。ひたむきな信念を持って行われる時、心は深く内に向き、聖なるハートの内深く達し、それに沈み、自らに触れるようになります。これが「私は誰か」という質問への答えです。それは言葉での答えでなく、自ら、もしくは、ハートの中に住む至高の存在の心による直接的な体験です。マハルシはこれを、「自らである、その源を探し求める心」と表現しています。個人が彼の心によって自らと触れることを習得する時、彼の努力は終わります。グルの恩寵が、彼の心の不純物からなる「自我」を取り除くために、彼を助けにやって来て、その結果、個人は自らの完全な道具となります。これが一般的に自らの実現と呼ばれていて、人間にとって可能な最高の聖なる達成です。

バナナの木の喩え

 次の質問が尋ねれるかもしれません。「この地味な個々人による修練における成功が、どうして世界の人々へ精神的価値観を復活させる助けとなるのか」。

 答えは、修練は地味に見えるかもしれませんが、それは全てのヨーガの中で最高であり、最も崇高なものであり、ジニャーナ・ヨーガやヴィチャーラ・マールガとして知られているという事実の中に見出されます。それはヴェーダのリシの時代からやって来て、インドの豊富な精神的遺産を建設するために時代を下って来ました。マハルシはそれを簡単にし、全ての人間の手の届く範囲に持ってきました。グルの恩寵により、この修練を受け継ぐものは、ジニャーナ(聖なる知恵)を得た者であるジニャーニになります。彼のまさにその存在が、彼に触れに来た人々を通じ、世界を益します。それゆえ、彼はバナナの木の喩えでマハルシによって描かれたグルが増えてゆく過程を動かし始めることができます。

 これが至高の師、バガヴァーン・ラマナ・マハルシがそのためにやって来た偉大な使命です。最初のグル、ダクシナームールティが築いたように、彼は全ての国が増えゆくグルの核を持つのを保証することによって、彼の使命の堅固な土台を築きました。全てのサッドグルのように、マハルシは彼の恩寵を受け取った全ての人、そして、自らへの内なる探求を始めるために彼の恩寵を請い願う他の人々を導き続けています。

2013年6月15日土曜日

マハルシの甥(弟の息子)、T.N.ヴェンカタラーマンが学んだ手痛い教訓

◇『静かなる力(The Silent Power)』、p96~98

幸運な男の子 


セイン

 バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシは、偉大な聖者としてみなに良く知られています。しかし、ほんのわずかの人しか彼の博愛と人類愛について知りません。さらに少ないのは、彼の父親や母親のような愛情を経験した者です。それらすべての人の中で、一人の少年だけがバガヴァーンと共に眠り、父親がするような扱いを楽しむ大変に羨ましい機会を得ました。彼はそのまたとない栄誉を得た唯一無二の人です。

 これは1920年のことでした。バガヴァーンはヴィルーパークシャ洞窟からスカンダーシュラムへ行き、信奉者の小集団が彼の周りに集まっていました。聖者の偉大さは全世界に響き渡っていました。信奉者らは、インドのあらゆる場所から彼のダルシャンを求めて来ていました。男性は山の上のアーシュラムで一日中バガヴァーンと共にいる特権を楽しみましたが、女性は日没後はそこに留まることを許されていませんでした。

 マハルシには弟と妹がいて、彼の兄はあまりに早く亡くなっています。ティルヴェンガドゥ寺院で事務員として働いていた弟のシュリー・ナーガスンダラム・アイヤルには、小さな息子がいました。シュリー・ラマナーシュラマムには幸運なことに、そして彼の家族には不運なことに、面倒を見てもらえない2歳の男の子を残して彼の妻が亡くなった時、彼はサンニャーサ(隠遁期)に入りました。両親がこの子供を孤児として残した時、一般的に「アッタイ(叔母)」として知られているマハルシの妹は子供の世話を引き受け、惜しみない愛情と気遣いで彼を育てました。それは彼女自身に子供がいないからだけでなく、この男の子が一家全体の唯一の子孫でもあったからです。この子は遠くの南部に住んでいたアッタイと彼女の夫によって、バガヴァーンと(プールヴァーシュラマの)父親-今後、彼はシュリー・ニランジャナーナンダ・スワーミーとして知られますが-に会うために年に二度三度、ティルヴァンナーマライへ連れて行かれました。彼らにはティルヴァンナーマライの山の近くに家を提供されていました。毎朝、アッタイは山を登り、夕方に街へ帰り、スカンダーシュラムに男の子を残しました。

 最初、大変に愛している男の子にどんな不便でも起こるのを恐れ、アッタイがそうするのをためらっていた時、バガヴァーンは「私が見守っているから大丈夫ですよ」と言いました。

 夜に男の子はバガヴァーンの聖なる手から食べ、バガヴァーンは彼をそばに寝かせ、毛布でくるみ、あやして彼を寝かしつけました。彼は誠実な母親がなしうるあらゆる気遣いを彼に注ぎました。朝早く、彼は男の子を泉に連れて行き、粉で彼の歯を磨き、彼の顔を洗いました。朝にアッタイは駆け登ってきたものでした。バガヴァーンは子供と共に地下水路の上に座り、子供に「あなたのアッタイが来ましたよ。あなたに会いに彼女がどんなに急いで走ってくるのかごらん」と言ったものでした。彼女が現れるとすぐ、バガヴァーンは「あなたの男の子を連れて行きなさい。ほら、彼は無事ですよ」と彼女に言いました。

 男の子へのこのあふれんばかりの愛情は、マハルシが彼に厳格であることの妨げには全くなりませんでした。以下の出来事は、バガヴァーンが男の子に今に至るまで彼が忘れていない実際的な教訓を与えたことを明らかにします。

 スカンダーシュラムで、ノンディと名付けられた猿が住んでおり、みんなのペット(お気に入り)でした。マハルシは、彼の信奉者らに与えられる食事は何であれその猿にも与えられるべきで、猿がどこかに行っていない時、帰ってきた時のために猿の分を別にとっておくべきであると命じていました。そのような場合には、食べ物は洞窟の内の窓のそばに置かれ、よろい戸は閉まっていましたが、掛け金で締められていませんでした。これが習慣でした。

 彼のアーシュラムへの定期訪問の中の一回のある日、男の子は信奉者らに振る舞われたお菓子をおいしそうに食べました。彼はいつもの分よりも少し多く食べました。猿は不在で、その分け前は閉じられた窓の近くに置かれていました。男の子は自分の分を食べ、窓へ行き、猿の分からも食べ始めました。突然、猿が来て、窓を開け、男の子がその分け前を食べているのを見ることになりました。それによって男の子は頬に一撃を加えられました。びっくりして怖くなり、男の子は泣き叫び、信奉者たちは彼を慰めようとしました。バガヴァーンがその場に現われ、状況を理解し、「あなたはそれを受けるに値します。なぜ彼(猿)の分を欲しがったのですか。あなたはもう十分に食べていました。あなたはそれで満足するべきだったのです」と男の子に言いました。愛する子供をなだめるどころか、バガヴァーンは彼を正しました。子供は静かになり、バガヴァーンの言葉を心に留めました。

 「他人の所有物に手をつけないように。あなたの持っているもので満足しなさい。あなたの持っているものを平等に分け合いなさい。あなたの周りにいる全ての人と分け合いなさい。貧しい人を助けなさい。悪事があなたの前で行われた時、気づかないでいないように。できるならそれを正しなさい、もしくは、少なくとも正義のためにはっきり言いなさい」。これらはあの日、少年がマハルシの言葉から理解できた貴重な真理のいくつかです。

 その幸運な男の子は、スワーミー・ラマナナンダ(シュリー・T.N.ヴェンカタラーマン、シュリー・ラマナーシュラマムの前会長、マハルシの家系の唯一の子孫)です。

2012年9月23日日曜日

バガヴァーン・ラマナ・マハルシとは誰なのか。どこにいるのか。

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』、p165~166、抜粋  

(84)ラマナとは誰か

アムリタナータの質問:

慈悲の宝庫として名高い
アルナーチャラの洞窟にいる、このラマナとは誰ですか
彼はヴァラルチですか、イーシャ(*1)・グルですか
ハリ(*2)ですか、ヤーティンドラ(*3)ですか
私はグルのマヒマー(*4)を知りたいのです

バガヴァーンの答え①:

アルナーチャラ・ラマナはパラマートマー(*5)そのものであり
意識として、ハリから以下の
一切生命のハートの中に戯れている
彼は至高の存在である
あなたがジニャーナの眼を開き、真理を見るならば
それはあなたに明らかとなる

バガヴァーンの答え②:(『Sri Ramana Lila』にある英訳)

ヴィシュヌから始まる全て(の者)の蓮華の形をしたハートの奥底に 
純粋な知性(絶対的な意識)として
パラマートマーが輝いている
彼はアルナーチャラ・ラマナと同じである
心が彼の愛に溶け、彼がそこで最愛の人として住まう
ハートの最奥に到達するとき
純粋な知性である微細な眼が開き
彼が純粋な意識として現れる

(*1)イーシャ・・・「主、神」。動詞の語根である「ish-」が、「所有する」や「支配する」を意味するので、神がイーシャと呼ばれるときは、神がすべてを所有し、支配していることを含意している。
(*2)ハリ・・・ビシュヌ/ナーラーヤナの別名。
(*3)ヤーティンドラ・・・文字どうりの意味は「修行者の王」。yatinは「修行者」を意味し、インドラは「王」を意味する。
(*4)マヒマー・・・「超自然的な力、栄光」。
(*5)パラマートマー・・・「至高の」を意味するパラと、「自分自身」を意味するアートマンが組み合わさった語。「個別の自分」を意味するジーヴァートマーと対比される


◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhgavan)』 (p162、p164)

46年3月1日 

 オズボーン氏がバガヴァーンに言いました。「バガヴァーン、昨夜、ヌーナ(4歳ぐらいの彼の娘)が我々に、『サイード博士は、私の世界で一番の友達よ』と言いました。そこで直ちに、我々は彼女に、『バガヴァーンはどうなの』と尋ねました。彼女は、『バガヴァーンは世界にいないわ』と答えました」。

 バガヴァーンは子供のこの発言に驚き、思わず彼の指は鼻へと上がり、そこで鼻をつかみ、言いました。「子どもがするには、なんと賢明な発言でしょうか!優れた人々でさえその発言の意味することを理解できません。彼らは、『世界にいなければ、他のどこにいるのですか』と彼女に尋ねるべきでした」。

 そこで直ちに、オズボーン氏は答えました。「ええ。我々は彼女に尋ねました。彼女は、『バガヴァーンは世界の外にいるわ』と言いました」。

46年3月5日 朝

 バガヴァーンは、昨日、「ヌーナが、『バガヴァーンは世界にいないけど、世界の外にいるわ』と言った時に、彼女が何を意図したのか、または感じたのかが分かると良いでしょう」と言ったようでした。それで、今日、オズボーン氏は以下の書き物を取り出し、バガヴァーンに手渡しました。

 「私はヌーナに、『バガヴァーンは世界にいない』をどのような意味で言ったのか尋ねました。はじめ彼女は恥ずかしがって、何も言いませんでした。私は、『サイード博士は世界にいると思っているんじゃないの』と言いました。彼女は、『うん』と言いました。『バガヴァーンが世界にいないなら、それじゃあ、どこにいるの』と私は尋ねました。ヌーナは、『アーシュラムと天国に』と答え、少し後に、『私たちが見ることができないバガヴァーンは、どこにだっているの。私たちがとても良ければ、彼を見れるの。みんながバガヴァーンだけど、バガヴァーンほど良くはないの』とつけ加えました。どれほどが純粋な直感で、どれほどが時折の会話から彼女が理解し、覚えていることなのか言うことは困難です。時々、それがほんの直感であることに疑いはありません。たとえば、ある時コダイカーナルで、私が彼女に『おやすみ』と言うときに、彼女に祈っていたのか尋ねると、彼女は、『もう、眠りたいわ。眠ることは祈ることよ』と言いました」。

 上の文を見た後、バガヴァーンとバララムは共に、「眠ることは祈ることとは、とても分別ある発言です」と言っていました。私は理解できなくて、バガヴァーンにそれについて尋ねました。彼はそれが、「眠ること、すなわち、心を静めることは本当の祈りである」を意味していると理解したのだと説明しました。彼は私に、「眠り」とは、「眠っているが、それでいて眠っていない至福をいつ私は得るのか」などとタミル語の書籍で言及されるのをよく耳にする「眠らない眠り」と解釈されるべきであると言いました。


◇『バガヴァーンに師事して(At the Feet of Bhagavan)』、p56

 シュリー・バガヴァーンは山の上のヴィルーパークシャ洞窟にいました。午後7時を過ぎたある晩に、アルナーチャラを周りを回るために、彼らはみな、山を下ってきていました。他の信奉者たちはみな、先立って行きました。シュリー・カーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニだけが、バガヴァーンと共にいて、彼らはゆっくりと洞窟からの階段を下りていました。

 彼らが数歩、歩いた時、突然、シュリー・マハルシは立ち止まり、彼と共にシュリー・カーヴヤカンタも立ち止まりました。星をちりばめた空に、満月が明るく輝いていました。月と美しい空を指して、シュリー・バガヴァーンは言いました。「ナーヤナ(*1)!月と一切の星々がの内に存在し、太陽自身がその衛星と共にの腰の周りを回っているならば、私は誰ですか。私は誰ですか」。

 このシュリー・マハルシの発言は、彼の幸せな弟子に、「シュリー・ルドラ(*2)」、「プルシャ・スークタ(*3)」、そして、アタルヴァ・ヴェーダの「スカンバ(*4)・スークタ」に記されているような、ヴェーダの偉人として師を心に描かせました。彼はまさしくその全てであり、彼方のそれでした。彼でないものは何もありません。

 後に、シュリー・カーヴヤカンタは、この啓示を信奉者全てに知らせました。

(*1)ナーヤナ・・・テルグ語。シュリー・カーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニの愛称。「お父さん」。
(*2)スリー・ルドラ・・・ルドラ(シヴァの通り名)にささげられたヤジュルヴァ・ヴェーダの中の賛歌
(*3)プルシャ・スークタ・・・広大無辺の存在であるプルシャにささげられたリグ・ヴェーダの中の賛歌
(*4)スカンバ・・・「すべての存在を支えるもの、支柱」

2011年12月17日土曜日

デイヴィッド・ゴッドマン氏によるバガヴァーン・ラマナの紹介

◇「Living the Inspiration of Sri Ramana Maharshi」、p3からの抜粋(

デイヴィッド・ゴッドマンとマーロク(現在、アメリカで教鞭をとるインド人の学者)の対談

マーロク:
 あなたは、あなたが本に記していた人々に明らかに尊敬の念を持っています。そのことは、事実について客観的でいることを難しくしませんでしたか。たとえば、もし、あなたがその人々や彼らの生き方で何か「あまり好ましくないこと」(少なくとも一般的な読者にはそう思われること)を見たとして、彼らに対する尊敬の念を持っているとするなら、本にそれ含めないようにする傾向がありえたのではないですか。

デイヴィッド:
 まず、ラマナ・マハルシについて始めましょう。私は彼の生き方と教えについて、その最後の25年の大部分を研究していますが、その全期間おいて、人々が彼について悪く考えるだろうという理由から公開しないようにした出来事は、ただの一つもありません。

 彼の振る舞いや態度は、いつでも非の打ちどころのないものでした。我々が聖者らしさを連想する全ての性質が彼の中にありました。親切、寛容、謙虚、平等、忍耐など。

 数十年間、彼は完全に公衆の目にさらされた生活をしていました。彼は自分専用の私室を持たなかったため、そのあらゆる行動と言動は調べることができました。トイレに行ったとき以外、彼は決して閉ざされたドアの後ろにいませんでした。1940年代まで、あなたが朝の午前2時に彼に会いに行きたかったなら、彼が生活する講堂に歩いて入り、共に座れました。

 時折、信用を失墜させようとして彼に関する話をでっちあげる人もいましたが、彼のすぐそばで行動する人は誰もその話を信用しませんでした。単純にスキャンダルや不品行の余地は皆無でした。なぜなら、彼の生き方はまったく公然のもので、聖者そのものでした。彼はお金を決して扱いませんでしたし、誰の悪口も言いませんでした。杖と水差し以外何も持っていませんでした。そして、彼は決して女性と二人っきりになりませんでした。彼の生き方を一度も観察したことがない人だけが、彼についてのスキャンダルをでっちあげ、他の人がそれを信じることを期待できました。

 部外者が彼についての話をでっち上げた時、シュリー・ラマナはうんざりした様子というより、むしろ楽しそうに反応したものでした。1930年前半、不満を持った元信奉者が彼についてひどく中傷する内容の小冊子を出版した時、アーシュラムの管理者はシュリー・ラマナとアーシュラムの名誉を守るため、裁判所に行き、著者を相手取って訴訟を起こそうとしました。シュリー・ラマナは彼を引き留め、「かわりに正面の門のところで販売したらどうですか。良い信奉者は、それを読んでその一言も信じないでしょう。悪い信奉者は、それを信じて離れていくでしょう。そうすれば、ここに来る人が少なくなるでしょう」 と言いました。

 もちろん、管理人はそのような提案に決して同意できませんでした。というのも、そのような口汚い小冊子がアーシュラムの敷地内で売られることに信奉者たちは我慢できなかったでしょうから。しかしながら、この出来事全体は、シュリー・ラマナの性格の興味深い一面を表しています。彼は個人的な批判に動揺しなかっただけでなく、たまにそれを楽しんでいましたし、非常に喜んでいるように見えることさえありました。

 聖典では、称賛と非難への反応が、悟りが起こる前にもっとも消えにくいものの一つであると述べられています。それはシュリー・ラマナにおいて全くありませんでした。

 非常にわずかな人しか聞いたことのない別の話をさせてください。昔、シュリー・ラマナが生活していた講堂には、スクラップブックがありました。新聞に彼に関する記事が載ると、誰かがそれを切り取って本にはりつけました。それらは彼の生活や教えやアーシュラムに関する情報を与える中立的な報告か、とても好意的にラマナを推薦するものでした。ある日、非常に批判的な報告が紙面に現れました。シュリー・ラマナは自分でそれを切り取って、スクラップブックの表紙にはりつけ、ショックを受けた全ての信者の異議を却下しました。彼は、「全ての人が自分の意見を持つべきです。どうして良い報告だけを保存しなければならないのですか。どうして悪い報告を伏せなければならないのですか」と言いました。

 これはシュリー・ラマナについて悪い話がないということを言うための遠回しの方法です。ですから、悪い話を伏せておくという問題は起こりません。

 数年前、私は1920年代はじめからシュリー・ラマナと共にいたクンジュ・スワーミーと私の友人のマイケル・ジェイムズと座りながら話をしていました。クンジュ・スワーミーは彼の本の1冊を改訂していて、シュリー・ラマナに悪い印象を与えるだろうと彼が思う2、3の話を削除しました。私にとっては、その削除は意味のないものでした。

 たとえば、1918年にサードゥ・ナタナナンダがシュリー・ラマナのところに初めて来た時、彼は街の寺院にいたある人に道を尋ねました。彼が話しかけたその人は、「その人に会いに行って時間を無駄にしないほうがいい。私は彼を16年間訪問している。彼は全ての人に全く無関心だ」と言いました。

 クンジュ・スワーミーは、バガヴァーンを16年間訪問してもその恩恵を感じないことがありうると人々に思って欲しくなかったので、この答えを削除したかったのです。私にとって、このことは、この特定の訪問者の精神的な未熟さの不名誉であり、シュリー・ラマナの変容させる力への批判ではありません。この話はシュリー・ラマナの偉大さを認識できない人を強く非難していて、シュリー・ラマナ自身を非難していません。 雨は1日に24時間降るかもしれません、しかし、不毛の土地では何も育たないでしょう。

 ともかく、マイケルはクンジュ・スワーミーに、「あなたがシュリー・ラマナと関わってきた30年間(1920-50)で、とても悪かったり恥ずべきことなので、彼の公のイメージに傷がつくと思い、あなたが誰にも言えないとか、公開できないと感じるようなことをシュリー・ラマナが行ったり、述べたりしたことを今まで見たことがありますか」と尋ねました。クンジュ・スワーミーは少し考えて、「いいえ」と言いました。「では、我々は話を検閲して削除することによって誰を守っているのでしょうか」とマイケルは尋ねました。彼は返答を得ませんでした。

 クンジュ・スワーミーは、シュリー・ラマナが彼のもとへやって来た全ての人を変容させる偉大なる全能の存在でないとかすかにさえ読者に思わせるかもしれない話を取り除くことを、グルへのバクティ(献身)の表現であると思っていました。私は別の見解です。私はシュリー・ラマナのイメージを良くしようとする必要があるとは全く思いません。彼の人生の検閲されない真実が、自ら語るからです。



デイヴィッド・ゴッドマン氏へのインタビュー

A.W.チャドウィック少佐によるバガヴァーン・ラマナの紹介

◇『A Sadhu’s Reminiscences of Ramana Maharshi』、A.W.チャドウィック少佐

A.W.チャドウィック少佐とバガヴァーン・ラマナ

-p22~23からの抜粋-


 バガヴァーンはとても美しい人でした。彼は目に見える光、もしくはオーラ(香気)で輝いていました。彼は私が今まで見た中でもっとも繊細な手をしており、それだけで彼自身を表すことができ、言葉といっても良いぐらいでした。彼の目鼻立ちは整っており、彼の目の奇跡的な働きは有名でした。彼の額は広く、頭の円頂は私が今まで見た中で最も高いものでした。インドで、これは智慧の円頂として知られているので、そうあるのはまったく自然なことでした。彼の体の形は美しく、中背でしたが、これは見てはっきり分かるものではありませんでした。彼の人格がそびえ立っていたため、彼は身長が高いように見えていたからです。彼はたいへんユーモアのセンスがあり、話すときに微笑みが顔から遠ざかることは決してありませんでした。

 彼はレパートリーにたくさんの冗談を持っており、偉大な俳優でした。彼が話すどんな話の主人公も、いつも劇のように表現しました。物話がとても感動的になると、彼は感情にあふれ、先に進めませんでした。人々が家族の話を携えて彼のところに行くと、幸福に笑い、時には家族を亡くした人と共に涙を流しました。この方法で、彼は他者の感情に報いているようでした。

 彼は決して怒鳴りませんでした。彼がたまに怒っているように見えても、彼の安らかな外観にその兆しはありませんでした。その後すぐに彼と話すと、彼は穏やかに、まったく静かに応じました。他の人では、原因がなくなった後でさえ、怒りのなんらかの影響がまだしばらくは残ります。我々はみな、内面の平静を取り戻すために時間を要しますが、彼には何の反応もありませんでした。

 彼は決してお金に触れませんでした。それを嫌っていたからでなく、日常生活の目的ために必要であると知っていましたが、彼がお金をまったく必要としていなくて、それに興味がなかったからでした。お金や贈り物はアーシュラムに届きました。なるほど、それは結構なことで、運営するためにはそれらが必要でした。しかし、その心配をしたり、人にくれるよう頼む必要はありませんでした。神が与えるものでした。

 人々は彼がしゃべらないと言いましたが、これは彼に関するその他の馬鹿馬鹿しい伝説の多くと同じく、本当ではありません。彼は不必要に話しませんでした。彼の見かけの沈黙は、ただ、我々の間でいかに多くの馬鹿馬鹿しいおしゃべりが行われているかを示しました。

 彼はあらゆる類の簡素さを好み、床に座ることを好みました。しかし、長いす(寝台)が彼に押し付けられると、それは24時間の大部分、彼の家となりました。

 可能な限り、彼は決してひいきされるのを許しませんでした。食堂では、この点において非常にかたくなでした。たとえ何か特別な薬や強壮剤が彼に与えられたとしても、彼はすべての人と分けることを望みました。「これが私にとって良いなら、残りの人にとっても良いはずです」と述べ、食堂の周りでそれを配らせました。

 彼は一日に数回(アルナーチャラの)山を歩きました。地上にあるもので彼が愛着を持っているものがあるとするならば、その山に違いありませんでした。彼はそれを愛し、それは神そのものであると言っていました。
 

-p32~33からの抜粋-


 彼は所作がとても優美であり、彼が食事をとるのを見るのは楽しみでした。彼はいつも葉っぱ(のお皿)をとても奇麗に後に残したので、それは使われていなかったように見えました。インド人の流儀で綺麗に食べることは、それだけで一つの技術であり、バガヴァーンはその名人でした。

 彼はいつも几帳面に清潔であり、彼の体はかすかな芳香を放っていましたが、彼は決して香水石鹸を使いませんでした。昔、彼はかぎ煙草を使っていましたが、私がアーシュラムに加わる前にやめていました。食事の後すぐ山へ散策に出かける前に、彼は普段よくキンマを噛んでいたものでした。その後すぐ、彼は念入りに口をゆすぎました。彼の唇には汚れが全くなく、数分だけ噛み、その後は、単に消化剤としてでした。

 ある朝、バガヴァーンは出かけようとしていて、付添人がキンマを彼に渡すのをただ待つのみでした。散歩の時間になる時、それはいつも彼のそばに置かれていました。何かの理由で、付添人はそれをしませんでした。講堂にいた全ての人が期待して待っていましたが、(アーシュラムの)運営陣が特別に使わされた人たち以外誰もバガヴァーンに仕えることを許さなかったので、それについて何もできませんでした。ついにバガヴァーンは立ち上がり、それなしで講堂を離れました。その日から、彼は二度と(キンマを)噛みませんでした。彼は誰にも、そのようなことを世話するのが義務である付添人にさえ不便をかけず、またどのような習慣にも束縛されていませんでした。全ての人がキンマが体が痛みに耐えることを助けると思っていたので、我々みながこの不幸な出来事を残念に思いました。しかし、体の健康の何が重要だったのですか。彼はよく、「体そのものが最悪の病です」と言いました。

 バガヴァーンはいつも途方もない安らぎを発していましたが、ジャヤンティ、マハープージャー、ディーパムなどの祝典のように、アーシュラムに人々が集まる機会に、それは並外れた程度に高まりました。多くの人々が何らかの隠された力の蓄えを呼び起こすようであり、そのような時に彼と共に座るのは素晴らしい体験でした。彼の目はうっとりとしたまなざしを呈し、古くからの信奉者が平伏した時にそれを認める時折の笑顔を除き、周囲に気づいていないかのように、彼は完全に静止して座りました。



◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、 p7

45年3月31日 

 数日前の夜、夕食後、バガヴァーンが講堂の東のベランダにある簡易ベッドの上で休んでいた時、何やら面白いことが起こりました。彼は南に顔を向けていました。チャドウィックは、バガヴァーンの背後に座っていました。バガヴァーンが腰を下ろし、クッションに寄り掛かるとすぐ、チャドウィックは背後からこっそりと気付かれずにバガヴァーンを(うちわで)あおぎました。バガヴァーンが振り返って見ると、チャドウィックはうちわを引っ込め、じっとしていました。バガヴァーンが顔を南に向けると、チャドウィックは再びあおぎ始めました。バガヴァーンは振り返ると、チャドウィックはやめました。バガヴァーンはどのようにそよ風が彼に当たったか分からないままでした。すると、チャドウィックが笑い出し、バガヴァーンもその笑いに加わりました。このことは、非常に卓抜した師とさえ、どのように信奉者が戯れられ、両者とも子供のように冗談を楽しめるかを示しています。