2014年6月8日日曜日

C.G.ユング博士が語るシュリー・ラマナの現代人にとっての重要性

◇『五十周年記念(Golden Jubilee Souvenir)』 p114~117

シュリー・ラマナと現代人への彼のメッセージ 


C.G.ユング博士 (チューリッヒ)
 Zammer博士の『Der Weg Zum Seibst(自らへの道、または、バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシの人生と教え)』へのC.G.ユング博士の前書きからの抜粋。
  シュリー・ラマナは、インドの大地の真の息子です。彼は誠実であり、それに加え、全く驚嘆すべき格別の人物です。インドにおいて、彼は汚れのない場所の中でも最も汚れのない地点です。

 我々がシュリー・ラマナの人生と教えの中に見つけるものは、インドの中で最も純粋なものです。その息遣いは世界から解放され、世界を解放する人のものであり、それは千年王国の聖歌です。この歌はただ一つの偉大な主題の上に築き上げられ、色とりどりの千の反射において、インドの精神の内にそれ自身を若返らせます。そして、その最も新しい化身がシュリー・ラマナ・マハルシその人です。

 自らと神の同一性は、ヨーロッパ人にとって衝撃的に感じられます。シュリー・ラマナの言葉の中で表現されているように、それは特に東洋の悟りです。心理学は、そのようなことを目的とすることは心理学の範囲をはるかに超えていると述べる以外は、それにさらに何も貢献できません。しかしながら、インド人にとって聖なる源としての自らが神と異ならないことは明確です。そして、人が彼の自らに留まる限り、彼は神に包摂されているだけでなく、彼は神自身であり、シュリー・ラマナはこの点において非常にはっきりしています。

 東洋の修練の目的は、西洋の神秘主義のそれと同じです。焦点は、「私」から自ら、人から神へ移し替えられます。これは自らの中に「私」が、神の中に人が消えることを意味します。同様の努力が『霊操』(*1)の中で記述されており、その中で「個人資産」である「私」は、可能な限り最大限、キリストの所有(者性)に従属させられます。シュリー・ラーマクリシュナは自らに関して同じ立場をとりました。ただ彼に関しては、「私」と自らの間のジレンマがもう少し前面に出ています。シュリー・ラマナは、聖なる修練の真の目的は「私」の解消であると間違いなく明言しています。ラーマクリシュナは、しかしながら、この点に置いていくぶん躊躇する態度を示してます。彼は、「私の意識が続く限り、その限りは真の知(ジニャーナ)と解放(ムクティ)は不可能です」と言いましたが、しかし、彼はアハンカーラの致命的な性質を知っているに違いありません。彼は、『この合一(サマーディ)を得て、この「私」から脱することができる人は何とわずかなのでしょうか。それはまずめったに起こりません。思う存分に話し、あなた自身を絶え間なく分離しなさい。しかし、この「私」はいつもあなたのもとへ帰ります。ポプラの木を切りなさい。明日にはそれが新たな芽をつくっていることに気づきます。この「私」がついに破壊できないと分かった時、それを僕(しもべ)である「私」としていさせましょう』と言いました。この譲歩に関して、シュリー・ラマナは確かにより徹底的でした。

 この二つの数量-「私」と自ら-の間の変化する関係は、東洋の内観的な意識が、西洋の人間にはほとんど達成できない程に探求した経験の領域を表現します。東洋の哲学は、我々のものとはまるで異なり、我々に非常に価値のある現在を描きますが、しかしながら、我々はそれを「所有するために獲得するに違いありません」。シュリー・ラマナの言葉は、今一度、インドの精神が内なる自らの熟考において数千年もの間に蓄積した最も重要なものを要約しています。そして、マハルシの個人の人生と作品は、もう一度、解放する原初の源を見つけるためのインドの人々の心の奥底にある努力を例示しています。私が「もう一度」と言ったのは、インドがとなり、それと共に国際社会に参加するという運命的な段階の前に立っているからです(*2)。その指導原理は、魂の「孤独」と安らぎだけを除き、すべてのものをその計画下におきます。

 東洋の国々は、精神的財産の急速な崩壊に脅かされており、その場所にやってきたものは、西洋(人)の心の最良のものに属しているとはいつもみなすことができないものです。それゆえに、人はシュリー・ラーマクリシュナやシュリー・ラマナのような聖者を現代の預言者とみなすのかもしれません。彼らは我々にインドの何千年もの精神的文化を思い出させるだけでなく、それを体現しています。彼らの人生と教えは、西洋文明の新しい物事すべてや、世界への物質科学的および商業的関心の中に魂の要求を忘れないようにという印象的な警告となっています。政治的、社会的、知的分野において獲得し、所有しようとする息つく暇もない衝動、それは西洋人の魂の中の表面的な、満たされない情熱をかきまわし探しながら、東洋でも絶え間なく広がりつつあり、いまだ見過ごされるべきでない結果を生む恐れがあります。インドだけでなく、中国においても、その中でかつては魂の命が栄えた多くのものが、すでに失われています。西洋の外面化の文化は、真に多くの悪を取り除くことができ、その破壊はとても望ましく、都合がよいように思えます。しかし、経験が示すように、この進歩は精神的文化の喪失とあまりに密接にもたらされます。秩序立ち、衛生的に設けられた家に住むことは疑いなくより快適ですが、この家に誰が住むのか、そして、彼の魂が同じような秩序や純粋さの状態、すなわち、外面的な生活のために役立つ家のような状態を楽しんでいるのかについての問いには答えません。一度、人が外面的な物事の追求に向けられるなら、経験が示すように、生活必需品だけでは彼は決して満足せず、よりいっそうのものを常に求めて努力します。その先入観に忠実に、彼は常に外面的な物事の中にそれを探します。外面的な成功すべてにもかかわらず、内面的には同じままであることを彼は完全に忘れ、それゆえに、彼の周りの他の人のように2台の自動車ではなく、1台しか所有していない時に自分の貧しさについて不平を言います。確かに、人の外面的な生活は多くの改善や美化を生みますが、心がそれに追いついていない程度に応じ、その価値を失います。全ての「必需品」の供給は、疑いなく、過小評価されるべきでない幸福の源です。しかし、その上、それを超えて、人は要求を掲げます。それはどのような外面的な物品でも満たすことはできません。そして、この世界の「素晴らしいもの」を探し求めるこの声が聞き届けられるのが少なくなるにつれ、人生の状況のただ中で、心は説明しえない不運と理解しえない不幸の源になります。彼は人生から全く異なる何かを期待したのでしょうが。外面化は不治の苦しみに通じます。なぜなら、誰もがいったいどうして人が自分自身の性質のために苦しむのか理解できないからです。誰もが自分自身の満たされないという性質に驚かずに、それを自分の生得権とみなしています。彼の魂の食事の偏りがついには心の平静への最も深刻な妨げになると彼は理解しません。これこそが西洋人の病を形づくるものであり、彼はその貪欲な落ち着きのなさを全世界に感染させるまで休みません。

 東洋の知恵と神秘主義は、それゆえ、彼らが独自のまねできない話ぶりで話すなら、我々に語るべきたいへん多くのことを持っています。彼らは我々に、同様の考えをもつ我々自身の文化の中に我々が所有しており、すでに忘れ去られてしまったものを思い出させ、重要でないと脇によけたもの、すなわち、我々の心の運命に我々の注意を向けます。シュリー・ラマナの人生と教えは、インド人だけでなく、西洋人にとっても重要です。それは非常に興味深い記録を形づくるだけでなく、無自覚と自制の喪失という混沌のなかに自らを見失う恐れのある人類にとって警告するメッセージでもあります。

(*1)『霊操』・・・イグナティウス・ロヨラ著の『Exercitia Spiritualia』の日本語訳。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E6%93%8D
(*2)Der Weg Zum Seibst』は1944年出版。『Golden Jubilee Souvenir』の初版は1946年9月に発行。インドの独立は1947年8月15日。

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