ラベル 「私」の復唱 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 「私」の復唱 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年5月28日水曜日

バガヴァーンとデーサーイー氏の対話 - 自らの探求の方法、苦しみ

◇「山の道(Mountain Path)」、1969年10月 p260~263

 以下の対話は、当ブログの2013年8月4日投稿の記事、「バガヴァーンとの対話①」とよく似た内容ですが、より詳しく記録されたものとなっています(文:shiba)。

探求とサーダナ
1944年8月24日午前8時、南インド、ティルヴァンナーマライ、シュリー・ラマナーシュラマムにおいて、バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシと南インド鉄道、国際鉄道技術者協会、上級技官、シュリー・D.C.デーサーイーとの間で交わされた質問と答えの報告。
シュリー・デーサーイー:
 探求の間、「私は誰か(コーハム)」などを、ちょうどマントラのジャパのように何度も何度も、それへの感覚と理解をもって心の中で繰り返すべきですか、それとも、それらをはじめに一度か二度尋ね、その後、心を自我の源-ハートに、そして、世俗的な思いや疑いが生じるのを防ぐ努力に集中するべきですか。

シュリー・マハルシ:
 コーハムのジャパは正しくありません。一度だけ質問をして、その後、自我の源を見つけること、思いが再び起こるのを防止することに集中しなさい。

シュリー・デーサーイー:
 探求の間、深く、リズミカルに息を吸い、吐き、このコーハムという文句を息に合わせるように努力すべきですか。

 それとも、コーハムやクトーハム(*1)などの質問を繰り返し言いながら、吸う息と吐く息に注意を払うべきですか。

シュリー・マハルシ:
 それなしで探求に集中できるなら、あなたは呼吸に注意すべきではありません。探求のみに集中できないなら、呼吸に注意しなければならない人もいるかもしれません。探求の間に、ケヴァラ・クンバカ(*2)を修練する人もいるかもしれません。心を安定させ、思いを制御するためにも、秩序だったプラーナーヤーマの助けを必要とする人もいるかもしれません。

 これらすべての修練は、心がそれらの助けなしに探求を修練するほどに十分力強くなった時、放棄されるべきです。プラーナーヤーマは、いつものように注意して修練されるべきです。それはクンバカの力と持続時間を徐々に増します。それは心を一点に集中させます。それなしで集中できないなら、その助けを借りなさい。

 プラーナーヤーマは、心という馬を制御するための手綱、もしくは、思いという車輪を制御するためのブレーキのようです... 「私は誰か」と「私はどこから来たか」は、全く同じです。それらは自我のみに言及しています。現実の自らの場合には、そのような質問が尋ねられるはずはありません。

シュリー・デーサーイー:
 コーハムなどの質問を、「マノー・ブッディ・アハンカーラ・チッタ・ニナーハム(*3)」というようなシュリー・シャンカラによって与えられる答えと交互に行うべきですか。それとも、コーハムという質問それぞれの後に、シヴォーハム(*4)という文句を繰り返すべきでしょうか。

シュリー・マハルシ:
 探求へのシヴォーハムなどのような示唆的な答えは、瞑想の間、心に与えられるべきではありません。真実の答えは、自然と訪れます。自我が与えるどのような答えも、正しいはずがありません。これらの断言や自己暗示は、他の方法に従う人々にとっては役に立つかもしれませんが、この探求の方法においてはそうではありません。あなたが尋ね続けるなら、答えは訪れます。探求の方法がディヤーナであり、無努力の境地がジニャーナです。

シュリー・デーサーイー:
 私はグルデーヴの教えと著作に従い、グル・マントラ(*5)のジャパにより、サグナ瞑想を修練してきました。私は今、「私は誰か」という探求の方法に従い、瞑想を修練できますか。私がそうしたいと感じるなら、私はこの瞑想を始めるのにふさわしいのでしょうか。

シュリー・マハルシ:
 「私」もまたグル・マントラです。神の最初の名は、「私」です。オームでさえ後から来ました。アートマ、現実の自らは、いつも「私‐私」です。ジャパをする人、すなわち、アハムなくして、マントラは存在しません。アハムのジャパは、いつも内で続いています。

 ジャパはディヤーナに通じ、ディヤーナはジニャーナに通じます。あなたの好みに応じて、サグナ瞑想、または、探求の方法を修練してかまいません。その人に最も適した方法だけが、その人にとって魅力的に映ります。

シュリー・デーサーイー:
 私は上に述べたサグナ瞑想の他に、ジャパ、マントラの書き取り、キールタナ、バジャン、スワディヤーヤ、聖なる教えの布教、講義、宗教的な出版物の無料配布というような、他の形のサーダナも修練してきました。

 余分な時間があるなら、「私は誰か」という探求に加えて、私はそれらを続けるべきでしょうか。それとも、それらのいくつか、もしくは、全部を削り、探求のみにもっと時間を費やすべきでしょうか。
 上の修練は、探求における私の進歩を早めるのに役立つでしょうか。

シュリー・マハルシ:
 「あなたは誰か」という知(識)を手放さなければ、内なる支配者に促され、全ての活動を行い続けてもかまいません。活動はあなたの努力がなくても続きます。あなたがなすように定められていることを、あなたは避けられません。活動は自発的に起こります。あなたはまた、ジャパやキールタナなどが何を意味するのか理解しなければなりません。あなたであるものになり、留まりなさい。真のジャパはいつも続いています。ジャパと神は、全く同じです。聖者ナームデーヴによって説かれた名についての哲学をご覧なさい。

シュリー・デーサーイー:
 「私は誰か」という探求において、「私」は自我のことを指しているのですか、それとも、アートマンのことですか。

シュリー・マハルシ:
 探求において、「私」は自我のことを指しています。

シュリー・デーサーイー:
 信仰、謙虚さ、委ねの私の現在の性質は、十分に熱心なものですか。それとも、未だとても不完全であり、さらなる発展を必要としますか。

 そうであるなら、恩寵とアートマンの実現における早期の成功に値するために、どうすれば素早くそれらを完成へと発展できますか。

シュリー・マハルシ:
 そのような不完全、資質の欠如などの思いを抱かないように。あなたはすでに完全です。不完全と発展の必要性という考えを取り除きなさい。実現されるべき、もしくは、消滅させられるべき何ものもありません。あなたは自らです。自我は存在していません。探求を続け、実現されるべき、もしくは、消滅させられるべき何かがあるのか確かめなさい。制御されるべき心があるのか確かめなさい。努力さえも、存在しない心によってなされています。

シュリー・デーサーイー:
 瞑想の間、背筋を真っ直ぐに保ち、鹿の皮やクシャーサナ(*6)などの上に座り、シッダーサナ(*7)で座ることは探求において役立ちますか。それとも、それらは全く必要ありませんか。それらは進歩を早めませんか。

シュリー・マハルシ:
 真のアーサナは、自らという現実、または、源に「打ち立てられていること」です。あなたの自らに座りなさい。自らがどこに座りに行けますか。あらゆるものが自らに座しています。「私」の源を見つけだし、そこに座りなさい。自らがアーサナなどの助けなしには実現できないという考えを持たないように。それらは全く必要ありません。主要なことは、自我の源を探求し、それに到達することです。姿勢などのようなそれらの細かなことは、心をそらし、それらや体に向けるかもしれません。

シュリー・デーサーイー:
 (探求のための心の素早い鍛練のための)余分な時間のあいだのスワディヤーヤに最も役立つ書籍はどれですか。

シュリー・マハルシ:
 あなたが好きなどの本を読んでもかまいません。自ら(アートマン)が、真の本です。あなたが好きな時にいつでも、それに目を通せます。誰もそれを取り去れません。それはいつも読まれるように手元にあります。余分な時間にも、あなたの自らにつかまりなさい。その後、どんな本でも読めます。

シュリー・デーサーイー:
 瞑想の間に疑い、恐怖、心配が私を悩ませるなら、どうしたらそれらを最も効果的に取り除けますか。

シュリー・マハルシ:
 あなた自身に「それらの疑い、恐怖、心配が誰に起こるのか」尋ねなさい。そうすれば、それらは消えます。それらに注意を払うのをやめなさい。内なる自らに注意を払いなさい。恐怖などは、二人いる時、つまり、あなたと別に、あなたと離れて、あなたの外側に誰か他の人がいる時にのみ起こり得ます。あなたが心を内に自らに向けるなら、恐怖などは消えます。

 あなたが疑いや恐怖を一つ取り除くなら、別の疑いや恐怖が生じます。それに終わりはありません。それらを全滅させる最良の方法は、「それらが誰に起こるのか」尋ねることです-そうすれば、それらは消えます。葉を一枚一枚摘むことによって木を枯らすのは、不可能です。あなたが少しの葉を摘むころに、他の葉が成長します。木の根-自我-を取り除きなさい。そうすれば、その葉や枝と共に木全体が枯れます。予防が治療より優れています。

シュリー・デーサーイー:
 私は体の内の源を探すべきですか。

シュリー・マハルシ:
 自我は体の内に生じます。それゆえ、まずは、その源を体の内に探してもかまいません。あなたが源に達する時、内も外もありません。なぜなら、源、または、自らはすべてに行き渡っています。実現の後、あらゆるものは自らの内にあります。

シュリー・デーサーイー:
 源は胸の中央線の右側にありますか。

シュリー・マハルシ:
 ハートは、「私」という思いが生じる場所として定義されています。ハートは、(意識の)中心を意味します。それは肉体のどの部分とも同一視できません。

シュリー・デーサーイー:
 講堂に座っている間、あなたの聖なる響きへの心の受容性を高めるために、そして、講堂での努力の頻度と持続時間を増すため、もしくは、そのような努力をやめるために、私に何ができますか。

シュリー・マハルシ:
 心を静かに保ちなさい。それで十分です。この講堂に座ることはあなたの役に立ちます。努力の目的は、一切の努力を取り除くことです。静寂が達成される時、力は明確に感じられます。聖なる響きは、あらゆる所に存在します。それは心が静まった時に現れます。

シュリー・デーサーイー:
 瞑想時の努力の間、折に触れ、あなたの目や顔を見つめるなら、それは役立ちますか。それとも、私は目を閉じておくべきですか。閉じるなら、私は目をアージニャー・チャクラ(*8)に集中するべきですか、それとも、ハートの奥深くに集中すべきですか。自分の部屋で探求を修練している時、目を閉じるべきですか、それとも、何らかの献身の対象に定めるべきですか。

シュリー・マハルシ:
 他のどこよりもむしろ、あなたの自ら、アートマを見なさい。目は開いたままでも、閉じたままでもかまいません-それは些細なことです。あなたがそれを「私(I)」や「目(EYE)」と綴ろうとも、ただ一人の私だけがいます。目を開けたり、閉じたりしても意味はありません。注意は、内なる私に集中すべきです。あなたは開いたり、閉じたりできる「私」ではありません。あなたの好みや気持ちに応じて、目を閉じたり、開いたりしてもかまいません。それは些細なことであり、重要ではありません。あなたが自らについて思う時、あなたは世界について思わなくなります。あなたが部屋にいて、目を閉じ、外を見ないなら、窓を閉じても、開いたままにしても、それは些細なことです。体が部屋であり、目が窓です。

 アージニャー・チャクラなどを見ることは、この方法では必要ありません。それは心が外に出て、外側の対象に向かうのを防ぐのに役立つかもしれません。自らに集中しなさい。自らなくしてチャクラは存在しません。それらはあなたなくして存在しません。あなたはそれら全てです。全ての中心(チャクラ)は、ハートにあります。ハートは、アナーハタ・チャクラ(*9)ではありません。後者は、脊髄に存在します。ハートは、「私」です。

シュリー・デーサーイー:
 瞑想の間やそれ以外の時間に、私はとても無知であるか、もしくは、とても無邪気であり、この世界で耐えがたい痛みや拷問に苦しむ何百万の人々についての思いによって困惑し、気が重くなります。つまり、(a)干ばつ、貧困、失業による貧しい人々の飢餓; (b)衛生の習慣への無知、食事、貧困によって引き起こされた無知な人々の病による痛みと苦しみ; (c)罪のない女性や子供への空爆; (d)洪水、地震などによる罪のない貧しい人々の苦しみ; (e)食べ物のために動物を殺すこと; (f)自然において上位の動物によって虫や下位の動物が食べられていること、など。

 私はこの全ては過去世の彼らの邪悪なカルマのせいにちがいないと自分自身を納得させようと努めるのですが、どのように、そして、誰によって彼らにそのような行為を犯すよう強いるほどに彼らの自由意思が向けられたのかということについて疑問が依然として生じます。それが欲望のせいであるなら、どうして、もしくは、どのように彼らは欲望やそのような傾向をそもそも抱くようになったのですか。それがアヴィドヤーやデーハードヤーサ(*10)などのせいであるなら、どうして彼らにその責任がありますか。

シュリー・マハルシ:
 まずは、自我が存在するのかどうか、それらの思いによって気が重くなるのは誰か見出しなさい。体についての考えをどのようにしてあなたが得たのか見出しなさい。あなたの自我というこの問題を解決しなさい。その後で、解決すべき何かが残っているのか確かめなさい。

「アートマ(ニルヴァーナ)・シャトカム」、歌:S.P.バラスブラマニヤン

(*1)クトーハム・・・「私はどこから来たか」
(*2)ケヴァラ・クンバカ・・・クンバカは「呼吸の停止」。ケヴァラは「~だけ、純粋な」など。
(*3)シュリー・シャンカラ作、「アートマ(ニルヴァーナ)・シャトカム」の第1詩節、「マナスでも、知性でも、自我でも、チッタでも私はない」。マナスは「知覚する働き」、知性は「判断する働き」、チッタは「印象、記憶の貯蔵庫」など。
(*4)同じく、「アートマ(ニルヴァーナ)・シャトカム」の各詩節の最後に繰り返される文句。「シヴァは私である」。
(*5)グル・マントラ・・・「グルはブラフマー、グルはヴィシュヌ、・・・」というマントラ。
(*6)クシャーサナ・・・クシャ草で編まれた敷物。
(*7)シッダーサナ・・・達人座という座り方。
(*8)アージニャー・チャクラ・・・表面的な活動場所は、眉の間やおでこ辺り。
(*9)アナーハタ・チャクラ・・・表面的な活動場所は、胸の中央。
(*10)デーハードヤーサ・・・デーハは「体」。アドヤーサは「付加」。自分を体と同一視すること。

2013年8月4日日曜日

バガヴァーンとの対話① - 自らの探求、マントラ、アーサナ、書籍など

◇「山の道(Mountain path )」、1981年1月

シュリー・ラマナ・マハルシとの対話

スワーミー・マードハヴァ・ティールタ

質問:
 私は誰か。その問いは誰に向けられてますか。

答え:
 その問いは自我に向けられていて、アートマに向けられていません。

質問:
 「私は誰か」という探求と共に「私はシヴァである」と言うべきでしょうか。もしくは、「私は心、知性、体ではない」などと言うべきでしょうか、言うべきでないのでしょうか。

答え:
 探求の過程において、心の中のそのような問いに返答しないように。答えは内からやって来させるべきです。自我の答えは本物ではありません。ジニャーナ・マールガ(知の道)の方法により答えを得るまで探求を続けなさい。この探求は瞑想と呼ばれています。その状態から生じる動きなく、安らかなジニャーナマヤ(完全な知)が、ジニャーナ(知)です。

質問:
 現在、私は聖像の形に瞑想しています。また、グルから受けた指導に従い、ジャパもしています。私は「私は誰か」という探求を行うのに適していますか、適していませんか。

答え:
 「私」もまたグル・マントラです。『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド(*1)で、神の最初の名は「私」であったと言われています。オームは後で存在するようになったに過ぎません。アートマは常に「私‐私」と言います。ジャパの行為者がなければ、ジャパはまるで存在しません。全て(の人)が「私」のジャパをします。それに集中することにより、瞑想は成功します。そのような瞑想の成果はです。それでも、あなたが形への瞑想を続けたいと思うなら、そのようにしてかまいません。その人に合うサーダナが、その人にとっての適切な方法です。

質問:
 私は宗教的な教えを出版することによる宣伝(布教)の仕事をしています。そして私はジャパ、マントラ、執筆、主の偉業を歌うこと、研究、指導をしています。これを続けるべきでしょうか、続けるべきでないでしょうか。言い換えれば、「私は誰か」という探求を行っている間、私は先に述べたすべての仕事を続けるべきでしょうか。

答え:
 自らの探求を離れることなく、その全ての仕事を行いたいならば、そのようにしてかまいません。あなたははじめにジャパ、歌うこと、奉仕が何であるか理解しなければなりません。「私は在る」としてありなさい(*2)。現実が真のジャパです。ジャパと神は一つです。名と名付けられる物の間には同一性が存在します。偉大な信奉者、ナームデーヴ(*3)は言いました(ここで、バガヴァーンは「The Vision」の古い写しを手にとりました)。「は全世界に完全に行き渡っている。は不死であり、多くの形からなっている。そのものが形であり、形そのものがである。と形の間に区別は存在しない。神は顕現し、と形を帯びた。を超えるマントラは存在しない。人がその「私」を十分に知る時にのみ、の遍く行き渡る性質は理解され得る。彼自身を知る時、彼はをあらゆる場所に見出す。知識、瞑想、苦行の修練によって、誰もを実現できない。そうでなく、あなた自身をグルの御足に委ね、あなたの中の「私」が誰か知ることを習え。その「私」の源を見つけた後、自明の存在であり、一切の二元性を欠く一体性の中にあなたの個人性を溶け込ませよ。そのこそが全世界に行き渡り、浸透している。はパラブラフマンそのものである。そこに違いは存在しない。」

質問:
 私の現在の状態において、十分な信仰、謙虚、委ねが私の中にありますか。そうでなければ、どのようにそれらを完全にすればいいですか。

答え:
 あなたは完全です。ですから、不完全という考えを捨てなさい。破壊されるべき何ものも存在しません。自我は現実のものではありません。心こそが努力をなし、心は現実ではありません。人が蛇であると想像する縄を殺す必要がないのとまさしく同様に、心を破壊する必要はありません。心の形を知ることによって心は消えます。ニヴリッティは、ニティヤー・ニヴリッティに属しています(人は永遠に破壊されているものを破壊できません)。

質問:
 特定の姿勢で座るべきですか、もしくは、草の敷物の上に座るべきですか。

答え:
 自らに安立していることが本当の姿勢です。その姿勢にしっかりといなさい。どんな姿勢でアートマが座りますか。アーサナ(姿勢)がなければ自らの知は存在しないと言うことは間違いです。アートマはそれらを必要としません。特定の種類の姿勢をとることの強制は、心を不安定にします。

質問:
 スワディヤーヤ(*4)のためにどんな本を読むべきですか。

答え:
 自らが本当の本です。あなたはその本の中のどこでも目を通すことができ、誰もそれをあなたから取り去れません。あなたが思いだす時はいつでも、自らへ向きなさい。その後で、あなたは好きなものを読めます。

質問:
 どのように瞑想中に起こる疲労、恐怖、心配に打ち勝つべきですか。

答え:
 誰にそれらが起こるのか見出しなさい。この探求を行うことにより、それらのものは消えます。それらのものは永続的ではありません。それらに注意を払わないように。二元性の知識が存在する時、恐怖が生じます。あなたが「私と離れて他者が存在する」と思う時にのみ、恐怖がやってきます。あなたが心を自らへ向けるならば、恐怖や心配は消え去ります。現在の状態において、心が不安定な時、あなたが一つの恐怖を取り除くなら、別のものが起こり、それに終わりはありません。次から次へと木の葉をむしるのは骨の折れる仕事です。自我が全ての源です。あなたが根を破壊するなら、葉や枝は枯れます。

質問:
 あなたの近くで座っている間、あなたのアートマの力を受け取るために、どのような類の心の状態を我々はもつべきですか。

答え:
 心を静かに保ちなさい。それで十分です。あなた自身を静かに保つなら、この講堂に座り、あなたは聖なる助けを得ます。全ての修練の目的は、全ての修練を放棄することです。心が静かになる時、自らの力が経験されます。自らはあらゆる所に行き渡っています。心が安らかにあるなら、人はそれを経験し始めます。

質問:
 体の内に「私」の源はありますか。

答え:
 自我は体の内にあるので、はじめ、その探求は体の内で行われます。その源が見出される時、内も外もありません。ハートの内を探求することは、「私は誰か」という探求を意味します。

質問:
 ハートは体の内の右側にありますか。

答え:
 「私」が生じる場所がハートです。知の中心としてのハートを知りなさい。

質問:
 どちらが私にとっていいですか。あなたの目と口をしっかりと見ることですか。それとも、私は目を閉じて座り、心を特定のものに集中すべきですか。

答え:
 あなた自身の本質をしっかりと見なさい。目が開いていても、閉じていても重要ではありません。一者(One)はあらゆる所にいます。ですから、あなたが目を開いていても、そうでなくても全く同じです。あなたが瞑想したいなら、あなたの内にある「私」に対して瞑想しなさい。それはアートマです。それは目を持たないため、目を開いたり、目を閉じたりする必要はありません。あなたが自らの知を得る時、世界についてのどのような考えも存在しません。あなたが部屋に座っている時、窓が開いていても、閉まっていても、あなたは依然として同じ人です。同様に、あなたが現実(Reality)の境地に住まう時、目が開いていても、閉じていてもまったく同じです。外側の活動が続いても、続かなくても、大した問題ではありません。

質問:
 瞑想の間と後で、私は世界の不幸な人々についての多くの思いを持ちます。

答え:
 はじめに、この「私」が現実であるのか見出しなさい。それらの思いを得るのは「私」であり、結果としてあなたは弱さを感じます。それゆえ、どのように体との同一化が生じるのか見出しなさい。体の意識が全ての苦しみの根本原因です。あなたが「私は誰か」という探求を行う時、あなたはその源を見出し、「私」は破壊されます。その後、もはや質問は存在しません。

(*1)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』・・・ヤージュニャバルキャの作と思われる10の「ムキャ(主要な)・ウパニシャッド」の一つ。紀元前5百年より前に成立。意味は「偉大なる知の森」。
(*2)「Be as you are」の訳。「あるがままにいなさい」と意訳されますが、直訳的には「『私は在る(I AM)』としてありなさい」と訳せると思います。
(*3)ナームデーヴ・・・インド、マハーラーシュトラ州の詩聖。西暦1270~1350。
(*4)スワディヤーヤ・・・自らを学ぶこと

2013年2月15日金曜日

肉体的要求の満足、二種の欲望、自らの探求と「アハム・ブラフマースミ」

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』

Talk 266. (p230~232)

ムスリムの教授(以下、信奉者):
 人は欲望を放棄すべきであると言われています。しかし、抑えがたい体の要求があります。どうすべきでしょうか。

マハルシ:
 大志を抱くものは、三つの必需品を備えなければなりません。それは、①イッチャー、②バクティ(献身)、③シュラッダー(*1)です。イッチャーとは、体への愛着のない(飢え、渇き、排泄のような)肉体的要求の満足を意味します。それがなされないなら、瞑想は進歩できません。バクティとシュラッダーはすでに知られています。

信奉者:
 二種類の欲望-より卑俗なものとより高貴なもの-があります。より卑俗な欲望をより高貴な欲望に変えるのは、我々の義務ではありませんか。

マハルシ:
 そうです。

信奉者:
 では、バガヴァーン、あなたは三つの必需品があり、その中でイッチャーは体などへの愛着のない自然な欲求の満足であると言いました。私は一日に3回か、4回の食事をとり、肉体的要求にとても注意を払っているため、体に虐げられています。私が体から離れ、肉体的要求という苦悩から逃れる状態は存在しますか。

マハルシ:
 有害であるのは愛着(ラーガ(*2)、ドゥヴェシャ(*3))です。行為そのものは悪くありません。3回か、4回食べることに害はありません。ただし、「私はそういう食べ物じゃなくて、こういう食べ物が欲しい」などと言ってはいけません。

 加えて、あなたはそれらの食事を目覚めている12時間にとりますが、寝ている時間には食べていません。眠りがあなたをムクティ(解放)に導きますか。単に活動しないことが人をムクティに導くと思うことは間違いです。

信奉者:
 サデーハ・ムクタとヴィデーハ・ムクタがいると言われています(*4)

マハルシ:
 解放は存在しません。すると、どこにムクタ(解放された者)がいますか。

信奉者:
 ヒンドゥー教のシャーストラ(聖典)は、ムクティについて語らないのですか。

マハルシ:
 ムクティは自らと同意語です。ジーヴァン・ムクティとヴィデーハ・ムクティは無知な人のためにあります。ジニャーニは、ムクティもバンダ(束縛)も意識していません。束縛、解放、ムクティの序列は、無知を振り落とすためにアジニャーニに向けて全て語られています。ムクティしか存在せず、その他の何も存在しません。

信奉者:
 それはバガヴァーンの立場からは結構なことです。しかし、我々に関してはどうですか。

マハルシ:
 「彼」と「私」という違いはジニャーナの障害です。

信奉者:
 しかし、バガヴァーンが高い序列に属し、我々が制限されているということは否定できません。バガヴァーンは我々を(神)と一つにしてくれますか。

マハルシ:
 寝ている時、あなたは制限に気づいていましたか。

信奉者:
 私は現在の状態に私の眠りの状態をもたらし、それついて話すことはできません。

マハルシ:
 その必要はありません。それらの三つの状態は不変の自らの前を交替します。あなたはあなたの眠りの状態を思い出すことができます。それがあなたの本当の状態です。その時、制限はありませんでした。「私という思い」が生じた後で、制限が生じました。

信奉者:
 どのようにして自らを達成すべきですか。

マハルシ:
 自らは達成できません。なぜなら、あなたが自らであるからです。

信奉者:
 そうです。私の中に不変の自らと変化する自分がいます。二人の自分がいます。

マハルシ:
 変化する性質は思いに過ぎません。全ての思いは、「私という思い」が生じる後に生じます。その思いが誰に生じるのか確かめなさい。そうするれば、あなたは思いを超越し、思いは退きます。つまり、「私という思い」の源を突き止め、あなたは完全な「私‐私」を実現します。「私」が自らの名前です。

信奉者:
 「私はブラフマンである(アハム・ブラフマースミ)」と瞑想したらよいのでしょうか。

マハルシ:
 その聖句は「私はブラフマンである」と思うことを意図していません。アハム(私)は、全ての人に知られています。ブラフマンは、全ての人の中にアハム(私)として住しています。その「私」を見出しなさい。その「私」はすでにブラフマンです。そのように考える必要はありません。単純に、その「私」を見出しなさい。

信奉者:
 シャーストラの中で覆い(さや)を捨て去ることが述べられていませんか。

マハルシ:
 「私という思い」の生起の後、「私」と体、感覚、心などとの誤った同一視が存在します。「私」は間違ってそれらと交わっており、真の「私」は見失われています。汚された「私」から純粋な「私」へ移るために、この捨て去ることが述べられています。しかし、それは正確には自らでないものを捨て去ることを意味するのでなく、現実の自らを見つけることを意味します。

 現実の自らは、無限の「私‐私」です。つまり、「私」は完全なものです。それは永遠です。始まりも、終わりもありません。別の「私」は生まれ、死にもします。それは永遠ではありません。変化する思いが誰にあるのか確かめなさい。それらは「私という思い」の後に生じると見出されます。「私という思い」を捕まえなさい。思いは退きます。「私という思い」の源を突き止めなさい。自らのみが残ります。

信奉者:
 理解することが困難です。理論は分かります。しかし、実践はどうですか。

マハルシ:
 その他の方法は自らの探求に着手できない人たちのためにあります。「アハム・ブラフマースミ」を繰り返し言うために、もしくは、それを思うためにさえ、行為者は必要です。それは誰ですか。それは「私」です。その「私」でありなさい。それが直接的な方法です。その他の方法もまた、究極的には、この自らの探求という方法に全ての人を導きます。

信奉者:
 私は「私」に気づいています。しかし、私の問題は解決していません。

マハルシ:
 その「私という思い」は純粋でありません。それは体や感覚との交わりにより汚れています。誰に問題があるのか確かめなさい。「私という思い」にです。それを捕まえなさい。その時、その他の思いは消えます。

信奉者:
 分かりました。どのようにそれを行うべきですか。それが全ての問題です。

マハルシ:
 「私」「私」「私」と考え、他の一切の思いを排除して、その一つの思いにつかまりなさい。

(*1)シュラッダー・・・直接的に対応する英語はなく、広い意味を表す。「信念(faith)」に加え、「信頼(trust)、自信(confidence)、忠実(loyalty)」などとも関係づけられる。
(*2)ラーガ・・・「愛着」。
(*3)ドゥヴェシャ・・・「嫌悪」。
(*4)サデーハ/ヴィデーハ・・・デーハは「体」を意味する。サデーハは「体を持つ」、ヴィデーハは「体を持たない」。

◇『Ramana Smrti-Sri Ramana Maharshi Birth Centenary Offering』、p104 抜粋

 ある日、シュリ-・マハルシに、サーダナ、すなわち、修練がなければ精神的に進歩することは全くないということが示唆されました。少し経って、彼は以下のことを述べました。

 人を束縛するのは、心です。そして、人を解放するのも、その同じ心です。心は、サンカルパとヴィカルパ-欲望と性質から成り立っています。欲望が、性質を形作り、決定します。欲望には二種類-高貴なものと卑俗なもの-あります。卑俗な欲望とは、愛欲と強欲です。高貴な欲望とは、悟りと解放に向けられます。卑俗な欲望は、理解力を汚染し、曇らせます。サーダナは、高貴な欲望が備わった大志を抱く者にとって簡単です。落ち着きが精神的進歩の基準です。清められた心をハートへ沈めなさい。その時、務めは終わります。これが全ての聖なる修練の精髄です!

2012年7月13日金曜日

神の最初の名であり、最も偉大なマントラ - 「私」の復唱という修練

◇『DAY BY DAY WITH BHAGAVAN From the Diary of A.DEVARAJA MUDALIAR』、p223、p265、p344

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年5月8日

 午後に、北インドからの若いサードゥとの以下の対話がありました。

サードゥ:
 私は、私は誰か知りたいのです。アーリヤ・サマージ派は、私はジーヴァートマ(*1)であると、私が心とブッディ(*2)を浄化するなら、神を見ることができると言います。私は何をすべきか分かりません。バガヴァーンがふさわしいと思うなら、何をすべきか私に教えて頂けないでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたは多くの用語を使っています。ジーヴァートマ、心、ブッディ、神とは、どういう意味ですか。そして、あなたは神に会いに行きたいのですが、神はどこにいて、あなたはどこにいますか。

サードゥ:
 私はそれら全ての用語がどういう意味か分かりません。

バガヴァーン:
 では、アーリヤ・サマージ派があなたに言うことを気にしないように。あなたは神や他の物事について知りませんが、あなたが存在することをあなたは確かに知っています。あなたはそれについて疑いを抱けません。ですから、あなたは誰か見出しなさい。

サードゥ:
 それが私の知りたいことです。どうすれば私は見出せますか。

バガヴァーン:
 他の全ての思いを遠ざけ、あなたの体のどの場所に「私」が生じるのか見出そうとしなさい。

サードゥ:
 しかし、私はそれについて考えることができません。

バガヴァーン:
 どうしてですか。あなたが他の物事について考えられるなら、あなたは、「私」について、そして、あなたの体のどこにそれが生じるかについて考えられます。他の思いがあなたの気を逸らすということであるなら、唯一の方法は、あなたの心がさ迷うたびに引き戻し、それを「私」に定めることです。それぞれの思いが生じるときに、あなた自身に「誰に、この思いがあるのか」尋ねなさい。答えは「私に」となるでしょう。それから、その「私」にしっかり捉まりなさい。

サードゥ:
 「私は誰か」をマントラにするために、私はそれを繰り返し言い続けるべきですか。

バガヴァーン:
 いいえ。「私は誰か」は、マントラではありません。それは、その他の一切の思いの源である「私という思い」が、あなたの中のどこに生じたかあなたは見出さなければならない、という意味です。しかし、このヴィチャーラ・マールガがあなたにとってあまりに難しすぎると感じるなら、あなたは「私、私」と繰り返し言い続けてもかまいません。それはあなたを同じ目的地に導くでしょう。「私」をマントラとして使っても差し支えありません。それは神の最初の名です。

 神はあらゆる所にいますが、その側面においてを思い描くことは困難です。それで聖典には、「神はあらゆる所にいる。はあなたの内にもいる。あなたはブラフマンである」と書かれています。ですから、「私はブラフマンである」と思い出しなさい。「私」の復唱は、終には、あなたを「私はブラフマンである」と悟るように導くでしょう。

(*1)ジーヴァートマ・・・「個々の生命である自分」。パラマートマ(至高の自ら)と対比される。
(*2)ブッディ・・・「知性、分別する機能」。

46年6月28日

 午後に、カンナの妻が、書面でバガヴァーンに懇願しました。「私は聖典に通じていませんし、私にとって自らの探求の方法はあまりに難し過ぎると感じます。私は、7人の子どもがいて、たくさんの家事がある女性であり、それは瞑想のための時間を私にほとんど残しません。バガヴァーンが私に、何かより単純で、簡単な方法を授けてくれることを願います。」

バガヴァーン:
 自分自身を見るために誰も鏡を必要としないように、自らを知るために聖典の学習や知識は必要ありません。一切の知識は、自らでないとして、終には、ただ放棄されることだけを求められます。家事労働や子供の世話もまた、必ずしも障害ではありません。あなたがそれ以上何もできないなら、あなたがどのような仕事をしていても、あなたが座ってようと立っていようと歩いていようと、『私は誰か』の中で勧められるように、少なくともその間ずっと「私、私」と心の中で言い続けなさい。「私」は神の名です。それは全てのマントラの中で最初の、最も偉大なマントラです。オームでさえ、それに次ぐものです。

46年11月24日

 チェノイ婦人は、本(『私は誰か』)の中の「たとえ『私』『私』と言い続けても、それはあなたを自ら、もしくは、現実に連れて行くでしょう」と書かれている箇所に言及して、それがなされるべき適切なことではないのかどうか尋ねました。私(ムダリアール氏)は、「その本には、思いを内側に向け、全ての思いの根源である『私』がどこから起こったか見出そうとすることからなる探求の方法に従おうとしなければならないと書いてあります。もし、そうすることができないと感じたら、ジャパで人々が使う『クリシュナ』や『ラーマ』のようなマントラであるかのように、単に『私』『私』と繰り返し言い続けてもかまいません。その狙いは、他の全ての思いを排除するために、1つの思いに集中することです。そうすれば、終には、その1つの思いさえ消えるでしょう」と説明しました。これに関して、チェノイ婦人は、「人がただ単に『私』『私』と機械的に繰り返しても、それは役に立つのでしょうか」と私に尋ねました。私は、「人が『私』や、『クリシュナ』のような他の言葉を使うとき、『私』や他の何かの名前で人が呼ぶ神についての何らかの考えを確かに心に抱きます。人が『ラーマ』や『クリシュナ』を繰り返し唱え続けるとき、木をその背後にある意味として考えていることはできません」と答えました。この全ての後で、バガヴァーンが言いました。「あなたは今、私は努力していて、『私』『私』や他のマントラを口にしていて、瞑想を行っていると思っています。しかし、あなたが最終段階に達するとき、瞑想はあなたの側のなんらの努力なしに続いて行くでしょう。あなたはそれから逃れることも、それを止めることもできません。というのも、瞑想、ジャパは、あなたがそれを他の何と呼ぼうとも、あなたの本質だからです」。