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2020年4月16日木曜日

シュリー・ナーガンマとの出会い - バガヴァーンは時空を超えて働く

◇『THE MAHARSHI』、Mar/Apr 2018 Vol.28 no.2、Dennis Hartel Dr.Anil K.Sharma編著(

シュリー・ナーガンマとの出会い
1977年5月、(ニューヨークの)アルナーチャラ・アーシュラムのアルナーチャラ・バクタ・バガヴァットとデニス・ハーテルは、ボンベイを訪問中でした。シュリー・P.V.ソーマスンダラムは、ボンベイの防衛会計監査長官のシュリー・R.ヴェンカタラーマンと共に、彼らを連れてシュリー・ナーガンマを訪問しに行きました。彼女はその時、癌の治療を受けられるところに姪と共に滞在していました。彼女に会う2度目の訪問で、テープレコーダーが持ってこられ、西洋の信奉者たちのために会話が録音されました。シュリー・ナーガンマは癌に関連する痛みでひどく苦しんでいましたが、恵み深くも承諾しました。彼女は彼女の書籍から読み上げ、詩を朗読しました。その詩の中の1つは、肉体的な苦しみに耐えるために彼の力と彼の落ち着きを彼女に与えてくれるようにバガヴァーンに願い求めて、彼女が記したばかりのものでした。
    それらの会話のいくらかは、その場で英語に翻訳されました。彼女の最近の詩と録音の他の部分は、後でアーンドラ・プラデーシュ(州)のビマヴァラムのDr.リンゲーシュワラ・ラオによって翻訳されました。

 当時の彼女の置かれた状況下でナーガンマが言ったことをよりよく理解するために、私たちは彼女の2014年英語版のLetters from and Recollections of Sri Ramanasramamから第28章を以下に複写します。この章の中で、それらの訪問、そして、自分のこの世での終わりが近いと彼女に思わせた状況もまた言及されます。

第28章 忍耐(苦難、試練)

 この本の初めで、1976年2月に、私はマドラスで癌の手術を受け、その後、休息と療養のためにバンガロールとボンベイに行ったことに言及しました。その時、私は正常な健康状態を取り戻したかのように見えました。しかしながら、1977年2月、左腕の裏側に痛みが現れ、徐々に首まで広がりました。人々はたぶんリューマチ性の痛みか何かでしかないだろうと言いました。私自身は、しかしながら、疑念を抱いていました。

 私の妹の息子、バローダのインド石油化学会社の上級管理者として当時働いていた、Dr.G.R.N.シャーストリが、気分転換に彼の住まいに私を招待し、それで私はそこに行きました。1か月ほど後、痛みは大いに増し、こぶが最初の手術の場所に現れました。地元の医者たちは、私が手術後に受けたコバルト療法のためで、しばらくすると消えるかもしれないと述べましたが、それどころか、こぶは痛みとともに大きくなっていきました。そのため、私は専門家による治療のためにボンベイに戻るほか仕方ありませんでした。

 ボンベイで、癌の専門家たちに診察してもらいました。入念な検査の後、彼らは、こぶは癌性のものであると、さらなる手術については考えられないと、唯一の希望はコバルト療法にかかっているが成功は疑わしいと述べました。コバルト療法が即ちに施され、それもまたほとんど役に立たないことが分かり、中止されました。全てのアロパシーの医者たちが、その症状は回復の見込みがなく、手の施しようがないとあきらめました。その間、鎮静剤の使用にもかかわらず、責めさいなむ痛みがありました。それは1977年5月の間のことでした。

 薬による回復の望みがないため、平然と痛みに耐える力を私に与えてくださいと昼も夜も私はバガヴァーンに祈りました。私はまた詩節を書いても彼に訴えました。祈りと瞑想が私の唯一の寄る辺でした。私の力は徐々に減退し、私はほとんど寝たきりになりました。ボンベイでは私を看護するための適切な用意ができなかったため、私のいとこのG.R.サルマは、私を飛行機でバンガロールまで連れていくことに決め、実際に私のためにチケットを購入しました。

 (ラマナ)アーシュラムの会長、シュリー・T.N.ヴェンカタラーマンとその妻がそこで働いている彼らの息子に会いに偶然ボンベイにやってきたのは、その重大時でした。1977年5月14日の午後3時ごろ、彼らは、シュリー・R.ヴェンカタラーマンとその妻とともに、私を訪問しました。シュリー・R.ヴェンカタラーマンはボンベイの防衛会計監査長官であり、バガヴァーンの優れた信奉者でした。彼はホメオパシーを趣味で行っていました。彼らはみな、私が経験しているもがき苦しみにたいそう心を痛めていました。私は痛みの軽減を求めるバガヴァーンへの祈りを含んだ紙を会長に礼儀正しく手渡しました。その哀れな状況を見て、シュリー・R.ヴェンカタラーマンは、私の義理の息子のシュリー・S.R.アヴァダニを脇に連れ行き、自分がホメオパシーの治療を試せるかどうか尋ねました。アロパシーの医者たちがすでにその症状を回復の見込みはないとあきらめていたため、私たち自身がホメオパシーを試すことを考えていて、そのため、その申し出は私たちにとって天の配剤のように思われました。私たちは快くそれに承諾しました。それは私たちにとって、あたかもバガヴァーン自身がヴェンカタラーマン、彼の信奉者の1人を特別に私を治療するために送ったように思われました。ヴェンカタラーマンはその夜にも薬を調合し、彼の家は私たちの家にとても近かったため、翌朝に私たちのもとに来て、治療を始めました。それは1977年5月15日、日曜日のことでした。

 その日から、彼は日に1、2度来て、次々薬を試しました。初期の段階で痛みはかなり増し、こぶは弾けて開きました。それを好ましい兆候とみなし彼は治療を続け、ついにバガヴァーンの恩寵によって痛みは徐々に退きはじめました。その間に、パルシー教徒の信奉者が私のもとにやって来て、彼の妻は癌で亡くなったが、癌の症状に特に効果的であると報告されている薬を持つチベット人の医者がいると私に話しました。しかしながら、彼女の妻の病はその時までにあまりに進行していたため、その薬は彼女の症状には使うことはできませんでした。彼はそのチベット人の医者の特別代表がボンベイにいると、彼を私のところに連れてくると言いました。2日後、P.V.ソーマスンダラム、ニューヨークからのアルナーチャラ・バクタ・バガヴァットとカナダからの信奉者がもう1人、私に会いに来ました。同時に、チベット人の医者の特別代表も来ました。彼は私を診察し、彼の師は患者と個人的に会うことなく治療することはしないと、彼はその時チベットにいると、私がそこに行くか彼がボンベイに来るための手配をしなければならないと言いました。私は声を上げました。「チベットに行くですって!私はカイラーサ・ヤトラ(旅)に出る用意をしていて、イーシュワラの最後の呼びかけを待っているところです。私はバガヴァーンの信奉者による現在の治療に満足してます」。

 2、3日後、カナダからの信奉者、ソーマスンダラムと他の信奉者たちが来て、私は激痛に苦しんでいましたが、彼らがカナダで使うために録音するものを何か私に読んでほしいと主張しました。6月10日、痛みがかなり和らいだので、私は散歩に出かけるための十分な力を得ました。私がヴェンカタラーマンに、私はカイラーサ・ヤトラへ準備しているところだったのに、あなたは私の計画すべてを台無しにしてしまったと話したとき、彼は、私の薬が効いたので、私はあなたを代わりにアルナーチャラ・ヤトラに送り出しているところです、と涼しげに言いました。

 私はそれがバガヴァーンへの彼の厚い信仰心ゆえだったのか、それとも、彼を通じて働いているバガヴァーンの恩寵のゆえだったのか分かりませんが、こぶは次第に小さくなっていき、痛みは徐々に減りました。私は日に日に力を得て、昔のごとく自由に動き回り始めました。以前に私に会ったボンベイの信奉者たちは、断然、治癒はまさに奇跡に他ならないという意見でした。以前に私を診察したボンベイの高名な医者たちは、それをほとんど信じられませんでした。

 1977年9月まで私はボンベイに留まり、(その後)親族と一緒にヴィジャヤワーダに行き、そこに2か月ほど滞在し、私の家「ラマナ・サダナム」を引き払い、マドラスへと離れました。偶然にもシュリー・R.ヴェンカタラーマンがその時までにマドラスに転勤していて、そのため私は必要とされる薬を全て彼から受け取り、これらのスムルトゥル(記憶、上の経緯のこと)の原稿を弟のD.S.シャーストリに見せ、1977年11月27日の夜にアルナーチャラムに到着しました。翌早朝、私はアーシュラムに行き、バガヴァーンのサマーディの前で平伏しました。カイラーサ・ヤトラの準備をしているところだった者が、今やアルナーチャラ・ヤトラ中であり、今一度バガヴァーンのサマーディの前で平伏できるのは実に奇跡的なことでした。運命が大きな役割を果たしたようで、私は今一度アーシュラムに滞在するという幸運に恵まれ、アーシュラム当局の意向に従い回顧録を書いているところです。

 私が書いた原稿は信奉者の1人によって清書され、印刷の準備ができています。マカラ・サンクランティ(1月ごろに行われる祝祭)の吉日に、私のささやかな捧げ物として、私はシュリー・ラマナ・バガヴァーンの蓮華の足元に原稿を置きました。

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 こうして、1978年1月14日に、シュリー・ナーガンマはその最後の文章を締めくくりました。彼女はさらにもう2年と2か月生き、しばしばシュリー・ラマナーシュラマムに住んでいました。

 1977年5月にボンベイで行われた録音について、Dr.リンゲーシュワラ・ラオは、それを聞いた後、彼女が当日、甚だしい苦しみに耐えていたのは信じ難いと言及しました。なぜなら、彼女の声は力と幸福に満ち溢れて聞こえたからです。彼女は初めに、バガヴァーンがバガヴァッド・ギーターのある詩節についての質問に答えているReminiscences(回顧録)という題の彼女のテルグ語の本から朗読しました。その後、さらにシュリー・ナーガンマは彼女の最初のバガヴァーンへの訪問に関する私たちの質問に答えました。彼女は、「最初に私がバガヴァーンに会ったまさにその日に、私の頭上から莫大な重荷が永久に取り除かれました。私が初めて彼を見たまさにその瞬間に、私はもはや他のどこにも行く、他のどのサードゥに会う、シュリー・ラマナーシュラマム以外の他のどの聖地を訪れる必要はないことを知っていました。バガヴァーンはそれ以後、私の唯一の寄る辺でした」と言いました。

 さらに彼女はバガヴァーンのマハー・サマーディについて話しました。「バガヴァーンが亡くなったとき、私は全てのものを失ったかのように感じました。大変な空虚感が私を圧倒しましたが、徐々にひとりでに私から去りました。バガヴァーンの逝去の直後、アーシュラムには何か不安定さがあり、それで私は、私のあとに残された心を静めるために役立つだろうという希望をもって巡礼に行くことに決めました。私はカーシー、ラーメーシュワラムや他の聖地を訪れましたが、アーシュラムに戻りたいと切望しました。わたしはそこの状況が落ち着いたと聞き、それで戻りました」。

 彼女はテルグ語でいくつか詩節を書いたところで、その詩を作った理由を説明しながら話を続けました。「クリシュナ・ムールティという名前の信奉者が、誰かがバガヴァーンの痛みを自分自身に引き受ければバガヴァーンはいくらか楽になるかもしれないとバガヴァーンの病の間に私に手紙をよこしました。

 翌日、私はバガヴァーンのもとに行き、クリシュナ・ムールティの手紙を彼に読み上げ、あなたがいつもあなたに差し上げられた全ての甘味を私たちと分かち合うように、あなたは今やその痛みも平等に分かち合わなければなりませんと言い足しました。バガヴァーンはただ、「ウーム、ウーム」とだけ答えました。(注:これはほとんど何でも意味することができます。「大丈夫です」、「見てみましょう」、さらには「分かりました」の間のどこかです。彼の発言に明確な意味付けをすることは困難です。)

 シュリー・ナーガンマは続けました。「今、バガヴァーンのニルヴァーナから25年ほど後に、私も左肩に癌があります。25年の後、彼はついに私の祈りをかなえました。しかしながら、痛みは激しいものです。それで、今、私は痛みとその帰結に耐える彼の力と安らぎを私に授けてくださるよう祈っています」。

 深い感情をこめ、シュリー・ナーガンマはその詩を私たちに読み上げました。

アルナーチャラ・ラマナ!
私自身をあなたの足元に置いてこのかた
私の心は他の住まいを探さなかった。
私は決してどんな物質的獲得のためにも祈らなかった。
「恵みの授け手」よ、苦しみの中、私は今そうする。
癌は私の中に居を構え、
殺すことなく私を殺している。
私はそれが消え去ることでなく
私が勇敢に耐え忍び、委ねることを懇願する。
あなたが腫瘍に耐えた落ち着きを私に授けたまえ
私をあなたの娘にしたまえ、(それを)永遠に持つにふさわしく。
あなたが苦しむのを見るのを厭い、私は分け前を求めた。
そして今やそれは与えられ、私の力は私のもとを去った。
痛みに加え、あなたの安らぎを
私に授けたまえ、おお、主よ、「病の殺害者」よ。

 言うまでもなく、シュリー・ナーガンマの祈りは再び聞き入れられました。いえ、それ以上でした。彼女は落ち着きを授けられ、彼女の「病の殺害者」もその役割を果たしました。驚くべき治癒が続き、彼女は力を取り戻した後、数か月、ラマナーシュラマムに住むことができました。その後、バンガロールを訪問中、短期間の病の後、1980年3月31日に死すべき体を離れました。

 シュリー・ナーガンマのLetters from Sri Ramanasramamは、常に霊的文献の名著のままあるでしょう。師の中の師としてだけでなく、まことに愛すべき父、母、そして、王子と乞食にとって等しい友としても、バガヴァーンの全人格をとらえている本は他にありません。

 1980年のシュリー・ラマナーシュラマムでのナーガンマの最後の滞在の間、彼女が彼女の師であり主であるアルナーチャラ・ラマナの生誕100周年記念式典に出席したとき、ジョアンとマシュー・グリーンブラットは、彼女をしばしば訪問することによって彼女の存在を最大限生かしました。1980年6月号のMountain Pathのシュリー・ナーガンマを偲んで書かれた短い記事の中で、ジョアンは(次のように)記しました:

 「私たちは、どうやってシュリー・バガヴァーンの面前で起こった全てをそんなにも詳しく覚えているのか彼女に尋ねました。彼女は、シュリー・バガヴァーンが日課の散歩に出かけたとき、自分は講堂を離れ、メモを少し取っていたと私たちに話しました。夜、彼女は真夜中まで眠り、目覚めるとすぐ、手紙を書き始め、その少しのメモを詳しく説明したものでした。彼女はいつもシュリー・バガヴァーンが彼女のそばに座っているかのように感じました。

 「アーシュラムの皆が、彼女の存在、彼女が全く謙虚に簡素に頭を垂れてアーシュラム構内を歩いて行くのを見れないことを寂しく思うでしょう。彼女のドアはいつも信奉者たちに開かれていて、四六時中人々が行き来し、彼女の話と思い出をしきりに聞きたがったものでした。『何ごとも秘密にできないということが私の習慣になっています。聞いたことは何でも他の人に話したくなります』と彼女は言いました。

 「彼女の体の死について聞いた後、クンジュ・スワーミは一番美しく微笑み、私たちに声高に言いました。『彼女は立ち去っていません。彼女はただティルヴァンナーマライにやって来ただけです』。世界中の信奉者は、彼女が私たちに残した宝物によって(これまで)心豊かになっていて、(これからも)なり続けるでしょう。安らかな静寂の中で皆が眠る間、その深夜の寝ずの番の中で1人の女性は目を覚ましていて、そのハートの深みから記していました。彼女、シュリー・ナーガンマに、私たちはいつも感謝するでしょう」。

2018年5月3日木曜日

シュリー・バガヴァーンとアーシュラムのリスたち - 巣の中に留まれ

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

シュリー・ナーガンマ著
1946年1月3日
(20) リス

 我々の同胞であるリスが、どれほどバガヴァーンに対して勝手気ままに振舞っているか、あなたは知っていますか。二、三年前、リスたちの中に、一匹とても活発ないたずらっ子がいました。ある日、たまたま彼が食べ物を求めてやって来たとき、バガヴァーンは読書か何かで手がいっぱいだったため、彼に食べ物を与えるのが少し遅れました。そのいたずらっ子は、バガヴァーン自身が彼の口にもっていかないと何も食べようとしませんでした。おそらくは遅れたことに怒って、彼は不意にバガヴァーンの指を少し噛みましたが、バガヴァーンはそれでも彼に食べ物を与えませんでした。バガヴァーンは面白がり、言いました。「あなたは悪い子ですね!私の指を噛みました!もうあなたに食べ物をあげません。行きなさい!」 そのように言って、彼はそのリスに数日食べ物を与えるのをやめました。

 その子が静かになんかしているでしょうか。いいえ。彼はあちらこちらをはい回って、バガヴァーに許しを請い始めました。バガヴァーンは窓台とソファーにナッツを置き、彼に自分で食べるように言いました。でも、ダメです。彼はそれに触れようとさえしません。バガヴァーンは無関心を装い、気づかないふりをしました。しかし、彼はバガヴァーンの足にはい上がり、体に飛び乗り、肩によじ登り、注意を引こうとたいそう多くのことを行いました。その時、バガヴァーンは我々みなに言いました。「ほら、この子は私の指を噛んだいたずらを許して、私が手ずから彼に食べさせようとしないことをやめるよう私に頼んでいますよ」。

 「悪い子ですね!どうして私の指を噛んだのですか。もう、あなたに食べものをあげませんよ。これはあなたへの罰です。ほら、ナッツはあそこです。全部食べなさい」と言って、彼はリスを数日間追い払いました。リスもまたその頑固(な態度)をやめようとしませんでした。何日か経ち、信奉者への慈悲ゆえに、バガヴァーンはついに敗北を認めざるをえませんでした。信奉者が救いを得るのは粘り強さを通じてだと、その時、私に思い浮かびました。

 そのリスはそれで終わりませんでした。彼は大勢の仲間を集め、ソファーの真上の講堂の屋根に巣を作り始めました。彼らは梁に糸くずやココナッツ繊維などを詰め込み始めました。風があるときはいつでも、そういったものがよく落ちてきたものでした。そのため、人々は怒り、彼らを追い払い始めました。バガヴァーンは、しかしながら、リスたちが巣を作るための十分な場所がなく、講堂の人々が彼らを追い払っていることを思い、心を痛めていました。そのような存在への彼の愛情の深さを理解するには、ただ我々はそのような機会にバガヴァーンの顔を見さえすればいいのです。

 私がいつもの手紙の中でリスたちについてあなたに書いたことをバガヴァーンに伝えると、彼はいかにも楽しそうに言いました。「そのリスたちについては壮大な物語があります。しばらく前、彼らは私の上の梁の近くに巣を持っていたものでした。彼らは子、孫をもうけ、そうして彼らの家族のメンバーはとても多くなりました。彼らは好きなようにこのソファーの上で遊びまわっていたものでした。私がいつもの散歩に出かけたとき、枕の下に隠れる子供のリスたちがいました。私が戻り、枕にもたれたとき、彼らが押しつぶされることがありました。我々はこの光景に耐えることができなかったので、マーダヴァはリスたちを巣から追い出し、その上に木の板を打ち付けてふさぎました。人が彼らのことを書きたいと思うなら、彼らに関する多くの出来事があります」。

******


バガヴァーン・ラマナ・マハルシとリスたち

上記の訳文と重複しない部分のみ

   バガヴァーンは動物を愛していて、アーシュラムでは、どのような種類(の動物)も彼によって尊重され、歓迎されました。彼らは人間と同等に扱われ、いつも名前で呼ばれていました。病気の動物がバガヴァーンのもとに連れてこられると、彼の寝椅子の上か、彼のそばの床の上で良くなるまで彼に保護されました。多くの動物が彼の腕の中で亡くなりました。彼は動物たちの善良さについて話をすることが好きでした。

 ジャダ・バーラタ賢者は、亡くなる際に彼の飼っていた鹿への束の間の思いに襲われ、最後に残った愛着を払いのけるために鹿として再び生まれなければならなかったとプラーナに記されています。

 バガヴァーンは、運命によって彼と触れ合うよう導かれた動物たちに対して、人々に対するのと同じ気遣いを示しました。そして、動物たちは人間に劣らず彼に魅了されました。

 食事時には、アーシュラムの犬たちに最初に食べ物が与えられ、次にやって来た物乞いたち、最後に信奉者たちというのが正規のアーシュラムの規則でした。彼は決して動物を「それ」と呼ばず、いつも「彼」や「彼女」と呼びました。「若い衆に食べ物をあげましたか」-彼が言及していたのはアーシュラムの犬たちだったでしょう。「すぐ、ラクシュミーにお米をあげてください」-彼が意図したのは牝牛のラクシュミーでした。

 クリシュナ・ビクシュという信奉者がかつて彼に尋ねました。「我々が夕食の葉っぱをそんなに几帳面に片づけてしまったら、犬や猫、サルやネズミやアリが飢えてしまうでしょう」。
 バガヴァーンは答えました。「なるほど、あなたがそれほど慈悲深いのなら、あなた自身が食事をとる前に動物たちに食べ物を与えてはいかがですか。彼らがあなたのこそげ落としたものをおいしく食べると思いますか」。

 バガヴァーンは言いました。「我々はどのような魂がこれらの体に居住しているのか、どの部分の彼らの終わっていないカルマのために彼らが我々との交際を求めたのか知りません」。

 バガヴァーンが旧講堂にいたとき、彼は文字通りリスたちに囲まれていました。彼らは彼の寝椅子じゅうを、彼の体の上を、彼の枕の下さえも駆け回ったものでした。
 バガヴァーンは、彼の体の体重で押しつぶされるリスがいないように、座ったり、もたれたりする前に非常に気を付けなければなりませんでした。

 旧講堂の屋根に、リスたちは巣を作ったものでした。かつて、生まれたばかりのリスたちがバガヴァーンのソファーの上に落ちました。彼らの目はまだ開いておらず、それぞれの赤ちゃんの大きさは1インチ(2.54cm)以上ではなかったかもしれません。彼らは真新しい肉体で真っ赤な色をしていて、触れるには全く華奢でした。母リスは彼らを無視しました。さあ、どうしたらいいのですか。そのように華奢な生き物にどうやって食べ物をやって世話すればいいのですか。
 赤ちゃんリスは、バガヴァーンの手のひらにいました。バガヴァーンの顔は彼らへの愛情で輝きました。バガヴァーンを取り囲む人々の顔にはクエスチョン・マークがありましたが、彼自身はうれしそうで、朗らかでした。彼は綿をいくらか持ってくるよう頼みました。彼は彼らのために柔らかいベッドを作りました。彼はまた少しの綿を手に取り、先がとても細くなるまでひねり、先端部分は鋭い針のように見えました。
 彼はそれを牛乳に浸し、その小さな口にそれを絞り出しました。一定の時間ごとに、バガヴァーンはこの慈悲の行いを繰り返しました。彼らが成長し、走り回るまで、彼は大変な気遣いと愛情をもって彼らを世話しました。彼らは逃げ出さず、ただ彼らの「母親」の周りを走っていました-彼ら自身の母親よりもはるかに優しい(母親の)!

 バガヴァーンの講堂で、ダルシャンは人間の独占物ではありませんでした。決まった時間に、リスたちは講堂のそばの大きな木から降りてきて、その正当な分け前を要求しました。美しい孔雀もまたその後に続きました。バガヴァーンはとても優し気に彼らのほうを見ました。「あぁ、お腹が空きましたか!」と彼は言い、いくらかナッツと穀物を彼らに与えました。母親に食べ物を与えられた後の子供のように、その後、彼らは幸せそうに立ち去ったものでした!

 時々、リスたちは寝椅子をよじ登りってきました。バガヴァーンは彼らを優しくなで、手に入るものをなんでも彼らに与え、リスたちは誰の邪魔をすることもなく立ち去ったものでした。

 かつて、猫が若いリスたちの母リスを食べました。再び、バガヴァーンは若者たちの世話をする仕事を引き受けました。彼は信奉者たちに教えるために日常の出来事を使うことを好んだため、彼らに言いました。
 「この小さい子たちは、知恵が巣の中に留まることにあることを知りません。彼らは外に出ようとし続けます。一切の苦しみは外にあるのですが、彼らは内に留まれません。同様に、心が外に向かわず、ハートの中に沈んだままでいるなら、その時、幸福のみがあるでしょう。しかし、心は出て行き続けます」。
 ランガスワーミーが、「心を内に保つための道は何ですか」と尋ねた時、バガヴァーンは言いました。
 「私が今していることと全く同じです。若いリスが出ていくたびに、私は巣の中に戻し続けています。私がそれをし続けるなら、彼は巣の中に留まる幸福を学びます」。

 リスたちは、カシュー・ナッツを求めてバガヴァーンのソファーの方にやって来ました。バガヴァーンの近くの缶の中によくあったナッツは空になっていました。代わりに、ピーナッツが与えられました。リスたちはそれを食べようとせず、ありとあらゆる方法で不満を表し始めました。「私たちは持ってないんですよ、皆さん。どうしたらいいのですか」とバガヴァーンは言い、彼らをなだめました。ダメです。彼らはなだめられようとはしませんでした。不満の印として、彼らはバガヴァーンの手足をはい回り続けました。
 そのため、バガヴァーンは、貯蔵庫にカシュー・ナッツの蓄えがあるのか行って、見つけてくるようクリシュナスワーミーに頼みました。クリシュナスワーミーは行って、ナッツを2、3個持ってきました。「それで全部ですか」とバガヴァーンは尋ねました。クリシュナスワーミーは、彼らがその夜パヤサムの支度をしていて、それだけしかあげられないと言いました。バガヴァーンはムッとして、言いました。
 「なるほど。カシュー・ナッツの量がいつもより少し減れば、パヤサムは味わいが減るでしょうね。かわいそうに。このリスたちは(カシュー・ナッツ)以下のものを好まず、私にせがみ続けています。倉庫の管理人はパヤサムに入れなければならないと言って、カシュー・ナッツをあげるのを断りました。パヤサムの中にカシュー・ナッツがなければ、誰が迷惑するのでしょうか。カシュー・ナッツがないために、この子供たちがどれほど気をもんでいるのか御覧なさい!」
 そうして、パヤサムに入るべきカシュー・ナッツは、リスたちの腹の中に入り、また、(将来、リスたちに食べさせるために)彼のそばの缶に入りました。
 その日の夕方、アナンタナーラーヤナ・ラオ医師がマドラスから2ヴィサ(約4.5kg)のカシュー・ナッツを持ってきて、リスたちのために持ってきたと言いました。微笑んで、バガヴァーンはクリシュナスワーミーに向かって言いました。
 「これを御覧なさい。彼らは欲しいものをなんでも得ます。あなたに懇願する必要はありません。このカシュー・ナッツは彼らの所有物です。注意深く保管しておいてください。貯蔵庫に引き渡されないように注意してください」。

 年齢とリューマチのために、バガヴァーンは杖の助けを借りて歩き始めなければなりませんでした。ある日、彼がアーシュラム敷地へと2、3段(階段を)降りようとしていると、アーシュラムの犬に追われるリスが彼の足元を走り抜けました。
 彼は犬に呼びかけ、杖を彼らの間に投げました。その際、彼は足を滑らせ、倒れたことで鎖骨を折りました。犬は気を散らされ、リスは助かりました。
 信奉者を保護するとき、バガヴァーンは己の身の安全を気にかけませんでした。それは一匹のリスでしかないかもしれませんが、彼にとって一番の関心事は彼の友人であるリスを守ることでした。彼自身の身の安全には全く関心がありませんでした。

 別の機会に、ペットのリスたちの一匹が外に走り出す機会を待ち構えていました。バガヴァーンは述べました。
 「皆が外に駆け出したいと思います。際限なく外に出て行きます。幸福は内にあり、外にはありません」。

2018年4月5日木曜日

風変わりな陳情者 - 賢者は物言わぬ動物の訴えを聞く

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

シュリー・ナーガンマ著
1946年1月2日
(19) 私の無言の訴えを聞いてくれませんか

 あなたはジャガディーシャ・シャーストリ()に会ったことがありましたよね。彼がここにいたとき、彼と一緒に犬が講堂によく入って来ました。とりわけ賢い犬でした。シャーストリや彼の奥さんがバガヴァーンの講堂にやって来たとき、犬が入ってきて、行儀のよい子供のように座り、彼らと一緒に出て行ったものでした。人々は犬が講堂に入らないようにするためにできることを何でもしましたが、無駄でした。

 かつて、その年配の夫婦がマドラスに行ったとき、彼らは犬を誰かに預け、15日間帰ってきませんでした。最初、はじめの四、五日の間、犬は講堂の中を探し、見て回り、その後、彼らがよく訪れていた全ての場所を歩き回りました。疲れて、おそらくはその甲斐のない努力に嫌気がさして、ある朝の10時ごろ、犬はバガヴァーンのソファーにやって来て、バガヴァーンをじっと見つめながら、そこに立っていました。その時、私は最前列に座っていました。バガヴァーンは新聞を読んでいました。クリシュナスワーミーたちは犬を脅して追い出そうとしましたが、無駄でした。私も犬に出ていくようにお願いしました。だめです、犬は動こうとはしませんでした。この騒ぎはバガヴァーンの注意をそらし、彼はそちらを見ました。バガヴァーンは犬と我々の興奮した様子をしばらく観察しました。その後、彼は新聞をわきにやり、あたかも彼の沈黙によって犬の言葉を理解したかのように、犬に向かって手を振り、言いました。「おや、どうかしましたか。あなたの家族がどこに行ったのか尋ねているのですね。ああ、なるほど、分かりました。彼らはマドラスに行っています。一週間後に戻るでしょう。怖がらないでいいですよ。心配いりません。落ち着きなさい。大丈夫ですか。さあ、行きなさい」。

 バガヴァーンが説明を終えるが早いか、犬は向きを変え、その場所を離れました。そのすぐ後、バガヴァーンは私に述べました。「あれを見ましたか。犬は家族がどこに行ったのか、いつ帰ってくるのか私に尋ねていました。どれほどここの人々が追い払おうとしようとも、私がその質問に答えるまで動こうとしませんでした」。

 かつて、奥さんが何かの理由でムチで犬に罰を与え、部屋に半日閉じ込めたようでした。外に出るのを許された後、彼女に不満を言うかのように、犬はバガヴァーンのもとにまっすぐに来て、アーシュラムに滞在し、四、五日、彼らの家に行きませんでした。バガヴァーンは犬の食事を用意し、女性を次のように叱りました。「あなたは犬に何をしたのですか。一体どうして犬はあなたに怒っているのですか。犬は私に不満を言いにやって来ました。どうしてですか。何をしたのですか」。ついに、彼女はバガヴァーンの面前で自分の非を認め、たいそうなだめすかして、犬に家に帰ってもらいました。

2017年3月15日水曜日

自分自身、自らを知る場合にのみ、真のサマーディとなる

◇「山の道(Mountain Path)」、1964年10月 p239、247

兄への手紙-4
サマーディ

ナーガンマ著

 今朝、バガヴァーンの前に座っていたヨーロッパ人が、通訳を介して、言いました。「マーンドゥーキョーパニシャッドには、どれほどのディヤーナ(瞑想)やタパス(禁欲行)が行われようとも、サマーディもまた体験されなければ、モークシャ(解放)はあり得ないと述べられています。そうなのでしょうか」。

 バガヴァーンは返答しました。「正しく理解されるなら、それらは同じものです。あなたがそれをディヤーナやタパスやサマーディや他の何と呼んでも、違いはありません。油の流れのように、安定し、継続的なそれが、タパスであり、ディヤーナであり、サマーディです。その者自身の自らであることが、サマーディです。」

質問者:
 しかし、マーンドゥーキャでは、モークシャを得る前に、サマーディが必ず体験されねばらならないと言われています。

バガヴァーン:
 おや、そうでないと誰が言いましたか。マーンドゥーキャだけでなく、全ての聖典の中で、それは述べられています。しかし、あなたがあなた自身を知る場合にのみ、それは真のサマーディです。生命のない物のように、しばらくの間、じっと座っていることが何に役立ちますか。仮にあなたの手に腫れものができ、クロロホルムをかけ、それを手術してもらうとしましょう。あなたはその時、痛みをまるで感じません。ですが、それはあなたがサマーディにいることを意味しますか。これもまた同じことです。人はサマーディとは何か知らなければなりません。そして、あなた自身を知ることなく、一体どうしてサマーディを知ることができますか。自らが知られるなら、サマーディは自動的に知られるでしょう。

 そうしている間に、タミル人の信奉者がティルヴァーチャカムを開き、「追求に関する10の歌」を歌い始めました。終わりのほうの一節に、こうありました。「おお、イーシュヴァラ、あなたは逃れようとするが、私はあなたをしっかりつかんでいる。ゆえに、どこへあなたが行けるのか。どうしてあなたが私から逃れられるのか」。バガヴァーンは微笑んで意見を述べました。「どうやらは逃れようとしていて、彼らはをしっかりつかんでいるようですね!がどこに逃れられるというのでしょうか。がどこに存在していませんか。は誰ですか。この全ては一つの野外劇でしかありません。同じ本の中に別の連続した10の歌があります。その一つは次のようになります。『おお、我が神よ!あなたは私の心をあなたの住まいとした。あなたあなた自身を私に与え、その代わりに、あなたの中へ私を取り込んだ。主よ、我々の内のどちらがより賢明なのか。あなたが私に手渡されるなら、私は終わりなき至福を享受するが、あなたが私を取り込んでも、あなたにとって私は何に役立つのか。我が父なる神よ、私への限りない憐れみの中、あなたが私の体をあなたの寺院とした時、私は何をあなたに与えられるというのか』。これは、『私』というようなものはないということを示しています。その美しさを御覧なさい。『私』というようなものがない所に、誰が行為者ですか。献身であれ、自らの探求であれ、サマーディであれ、何が行われていますか。」

2016年2月23日火曜日

目覚め、夢、夢を見ない眠り ⇒ 目覚めた意識ある眠り、純粋な意識

◇「山の道(Mountain Path)」、1964年7月 p174、175

兄への手紙-3
三つの状態を超えて

ナーガンマ著
1947年9月6日

 先月、義理の妹(姉?)がここに滞在していた間に、「ヴィチャーラ・マニ・マーラー」のテルグ語版を印刷業者から受け取りました。午後、バガヴァーンはそれを訂正し、その後、私に回しました。それを読むや否や、義理の妹が私にswapnathyantha nivritthi の意味を私に尋ねました。私は自分自身はっきり分かっていなかったので、何とかかんとか言ったのですが、彼女は十分に満足しませんでした。バガヴァーンは気づき、「どうかしましたか。何か間違いがありますか」と言いました。

 「いえ、彼女はswapnathyantha nivritthi の意味を尋ねているのです」と私は返答しました。

 「それは絶対的に夢を見ない眠りという意味です」とバガヴァーンは優しく言いました。

 「ジニャーニが夢を全く見ないということは本当でしょうか」と私は尋ねました。

 「彼は夢の状態を持ちません」とバガヴァーンは返答しました。

 義理の妹はまだ満足していませんでしたが、人々が他の事について話し始めたので、私たちはその問題をそのままにしておかざるを得ませんでした。夜になってようやく、彼女は私に言いました。「ヴァーシシュタには、ジニャーニは行為を行うように見えるだけで、行為は彼に何の影響も与えないと言われています。私たちはこの本当の意味をバガヴァーンに尋ねるべきでした」。

 「バガヴァーンがどれほど慈悲深いかあなたは知っているでしょう。あなたの疑問を取り除く何らかの機会を彼が見つけますよ」と私は返答しました。

 私たちが翌朝8時にアーシュラムへ行った時、偶然にもバガヴァーンがまさにその点をスンダレーサ・アイヤルにちょうど説明しているところでした。はやる思いでこの機会に乗じ、義理の妹は再びその問題を取り上げました。「夢の状態だけでなく、三つの状態全てが、ジニャーニにとって非現実です」とバガヴァーンは彼女に言いました。「ジニャーニの真の状態は、その三つの状態がどれも存在しないところにあります。」

 「目覚めの状態もまた、夢と同等ではありませんでしたか」と私は尋ねました。

 「ええ。夢は短い間続きますが、これはより長く続きます。それが唯一の違いです。」

 「では、眠りもまた、夢ですか」と私は尋ねました。

 「いえ、眠りは現実のものです。心の活動がない時、どうしてそれを夢であると言えるでしょうか。しかしながら、それは心の空白の状態であるため、それはアヴィドヤー(無知)であり、それゆえに拒絶されなければなりません」と彼は答えました。

 「しかし、眠りもまた、夢の状態であると言われていませんか」と私は食い下がりました。

  「術語学上、そのように言った人もいるかもしれません」とバガヴァーンは認めました。「しかし、実際、何も分離して存在しません。長いや短い期間は、夢と目覚めの状態にだけ当てはまります。我々がとても長い間生きていて、これらの家や所有物は我々にとってまったく明々白々であるため、まさかそれが全て夢であるはずがないと言う人もいるかもしれません。しかし、夢でさえ、それが続く間は長いように思えることを我々は思い出さなければなりません。目覚めて初めて、それが短い間だけしか続かなかったことを悟ります。同じように、人がジニャーナ(実現)を得る時、この人生は束の間のように思われます。夢を見ない眠りは、無知を意味します。ですから、純粋な意識の状態を選び、それは拒絶されるべきです。」

 義理の妹が、その時、割って入りました。「深い眠りの中で起こる至福は、サマーディの中でも体験されると言われていますが、眠りは無知の状態であるという発言とそれはどのように調和させられますか。」

 「そのために眠りは拒絶されるべきなのです。眠りの中に至福があるのは真実ですが、人はそれに気づいていません。人は後に目覚めてはじめて、それについて知り、よく眠ったと言います。サマーディは、この至福を目覚めたままいる間に体験することを意味します」とバガヴァーンは返答しました。

 「では、それは目覚めた、もしくは、意識ある眠りということですね」と私は尋ねました。

 「ええ、そういうことです」と彼は言いました。

 義理の妹は、その時、彼女を悩ませていた、もう一つの同種の質問を持ち出しました。「ヴァーシシュタでは、ジニャーニは他者には様々な活動に従事しているように見えるが、実のところ、彼はそれに全く影響されていないと言われています。他者にそのように思えるのは彼らの異なる見解のためでしょうか、それとも、彼は本当に影響を受けないのですか」。

 「彼は本当に影響を受けません」とバガヴァーンは返答しました。

 「人々は夢の中と目覚めている間の両方において喜ばしいヴィジョンについて話します。それらは何ですか」と彼女は尋ねました。

 「ジニャーニにとって、それら全ては同じもののように見えます」と彼は返答しました。

 しかしながら、彼女は食い下がりました。「バガヴァーンの伝記の中で、ガナパティ・ムニがティルボッティユールにいて、バガヴァーンがティルヴァンナーマライにいた時、彼はバガヴァーンのヴィジョンを得て、そのまさに同じ時間にバガヴァーンも表敬を受け取る感覚を得たと述べられています。そういったことはどのように説明できるでしょうか。」

 「そういったことは神聖なヴィジョンとして知られていることであると私はすでに述べています」とバガヴァーンは謎めいた答えをしました。その後、彼は沈黙を帯び、それは彼が会話を続ける気がないことを示唆していました。