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2015年2月27日金曜日

哲学の迷宮に惑うことなく源へ進め、ニルヴァーナとは何か

◇『グル・ラマナ(GURU RAMANA-memories and notes)』、第2部-対話、p55、p88~89

第7章 哲学の危険性

1937年4月10日

 その主要な関心が人間とその構造である、大いに学識のある訪問者が、シュリー・バガヴァーンに人間の様々な体、コーシャとその機能、アートマ‐ブッディ‐マナスなどを体験から説明することを望みました。

バガヴァーン:(短い説明が加えられた後)
 入り組んだ迷路のような様々な学派の哲学は、物事をはっきりと説明し、真理を明らかにすると主張しますが、実際、それらは混乱が存在する必要もない所に混乱を作り出します。何を理解するためにも、理解する者が存在することが必要なはずです。体、アハンカーラ、ブッディ、創造、神、マハートマー、世界-自らでないものについて一体どうして心配するのでしょうか。あなた自身のままあり、安らかにいてはどうですか。ヴェーダーンタを例にとりましょう。それは15のプラーナ、その名称と機能について話し、生徒はそれらを暗記するように求められます。ただ一つのプラーナが体の中で生命を維持する全ての働きをしていると彼が教わるなら、それで十分ではありませんか。また、アンタカラナは、思うこと、欲すること、意図すること、論理的に思考することなどと言われています。どうしてこの細かなことがいりますか。アンタカラナや、これら全てのプラーナを誰か見たのでしょうか。それらは本当に存在しますか。その全ては哲学の教師により彼らの過剰な分析によってこしらえられた概念的区分です。この全ての概念はどこで終わりますか。どうして混乱が作り出され、その後、説明して取り除かれねばならないのでしょうか。哲学の迷宮で道に迷わず、彼らみなが生じた源へ真っ直ぐ向かう人は、幸運です。

第13章 ニルヴァーナ


<1> 1937年5月5日

 訪問者がニルヴァーナの意味を尋ねました。

バガヴァーン:
 ニルヴァーナとは、そこに分離の感覚が存在せず、自我がその源、ハートに沈んだ、かの境地です。

<2> 1937年4月20日

 C氏は著名な神智学者によって記された『ニルヴァーナ』という本を読み、その中で著者は眠りに入った後でニルヴァーナを体験したと主張し、その中で彼はニルヴァーナである光の海の中の光の鮮やかな中心として「師らを見」ました。C氏はそれをシュリー・バガヴァーンの教えと調和させることができませんでした。それで、彼は師にそれについて尋ねました。

バガヴァーン:
 ニルヴァーナは、完全なる境地です。その中に見ることも、聞くことも、経験することも存在しません。ただ純粋な「私は在る」という自覚のみあります。あなたが読んだものから説明したニルヴァーナは、全くの想像です.... まあ、それらが人を利己的でなくさせ、彼に最高の真理のための準備をさせるという限りは、あれこれの似たような運動は良いものです。奉仕もまた同じ目的、自らの実現に通じます-それが私心のないものであるなら。

C氏:
 しかし、絶対的な知への準備ができた人がどれほど、そして、どうして相対的なものを得ようとしなければならないのですか。

バガヴァーン:
 あらゆることはしかるべき時期に起こります。絶対的なものへの準備ができた人は、何らかの形でそれについて耳にすることとなり、その後、その修練を始めます。彼は即座にアートマヴィドヤーの価値を認識し、断固としてどこまでもそれを追求します。

2013年3月26日火曜日

マハー・ニルヴァーナ(偉大なる寂滅)② - カラムチャンダリ軍医の記録

◇『静かなる力(The Silent Power)』、p142~145

最後は安らかであった

P.V.カラムチャンダニ中佐
シュリー・マハルシに付き添った軍医の目撃談
ここでは、どのようにシュリー・マハルシがその最後の瞬間でさえも、自然と速やかに真摯な望みと祈りに応じたかが、師のマハー・ニルヴァーナの物悲しくも感動的に荘厳な背景を書き表した高名な医者により詳述されています。
  最後の2か月間、バガヴァーン・シュリー・マハルシにつき添うという並みはずれた栄誉は、いくぶん思いがけなく、私の側の何らの計画もなしにやってきました。

 私がティルッチで働いていた15年ほど前、北インド出身の友人が私に手紙を送り、ティルヴァンナーマライとシュリー・ラマナ・マハルシについての詳細を尋ねました。その町とその聖者を見たことも聞いたこともなく、どちらにも関心がないと書いて私は返信しました。

 昨年12月、私は北アコットに配属され、ほんのすぐ後に軍医が私のところに来て、ティルヴァンナーマライの病院を訪れるように勧め、その機会を利用してシュリー・ラマナ・マハルシに会えると付け加えました。ティルヴァンナーマライへの何気ない言及は友人の質問の記憶を呼び起こしましたが、私にはその地方の町へ行こうとする駆り立てるような衝動はありませんでした。

 しかしながら、公務により、何か月か後に私はティルヴァンナーマライにやって来ました。視察業務が終わった時、私はアーシュラムを訪問してはどうかとの提案を受けました。私は同意しました。私はアーシュラムに行き、そこでシュリー・バガヴァーンに会いました。

 シュリー・マハルシに会う前に、肉腫ため彼が4回の手術を受けたということを聞かされていました。私が彼を診察した時、腕のひじの上に小さな潰瘍をみつけました。潰瘍の上端には、腫れがありました。それが手術の後に再び生じている腫瘍の成長なのか、一般的な炎症なのか私は確信が持てませんでした。疑いを晴らすためペニシリン(の投与)を提案しましたが、ペニシリンは投与されず、そのうちに、それは腫瘍の成長であると判明しました。

 ほんの6週間のちに、再び私はティルヴァンナーマライに呼ばれました。私がこの時分にシュリー・バガヴァーンに会った時、前方の2インチの場所を除き、大きな腫瘍が左手の上腕をほとんど覆っていることに気づきました。この腫瘍は出血し、リンパ液を失わせ、それにより直接的に体液システムを枯渇させていました。これに加え、痛みがあり、それは体を疲弊させていました。大量出血とリンパ液の喪失以上に、痛みは悩ませる特徴でした。

 シュリー・バガヴァーンが患った腫瘍の種類は紡錘形の肉腫で、おそらくは尺骨神経の鞘から生じていました。これは刺すような痛みという特徴を伴う大変に苦痛を与える腫瘍です。医学用語では、これを電撃痛と呼びますが、シュリー・バガヴァーンはそれを虫が腕を這い上ったり下りたりしているようなものと表現しました!まるで体が彼に属していないかのように彼は痛みに耐えました。私が痛みがあるかどうか彼に尋ねた時はいつも、シュリー・バガヴァーンは大したことではないと言いました。

 私が再びやってきたこの時期に、腫瘍は猛烈に成長し、体を急速に弱らせ、また、シュリー・バガヴァーンの確固不抜とした人格の内に何らかの痛みの感覚を生じさせていました。私はこれを一つの小さな出来事によってしか例示できません。シュリー・バガヴァーンの逝去の数日前、ある人が腫瘍の上の布に触れ、彼の顔に痛みの表情が現れました。腫瘍の上の布に触れただけで、腫瘍そのものには触れていないと言いました。それに対してシュリー・バガヴァーンは、その布が山々の重さを支えていると返答しました!

 私はシュリー・バガヴァーンに今月13日の真夜中ごろに会いに行きました。私は彼が目を閉じて休んでいるのを見ました。彼が目を開けた時、彼は付添人すべてに部屋から去るように頼みました。彼はこれを6回くり返して言い、これは譫妄(せんもう)であると判断されました。しかし、私は彼を診察し、彼が十分に意識があり、全く譫妄の状態ではないと気づきました。私は付添人たちに、シュリー・バガヴァーンの指示に従って、部屋の外に出るように求めました。夜通し、私は彼とともに座りました。呼吸は困難でした(我々が呼ぶところのチェーンストークス呼吸です)。痛みはとても激しいものでした。なぜなら、ほんのわずかの動きでさえも痛みの兆候を表したからです。

 私は朝方に離れ、夕方に戻りました。シュリー・バガヴァーンが息を引き取るほんの2時間前でした。その時に彼のそばにいるというこの栄誉は私が祈り願ったものでしたが、ほとんど期待していませんでした。私が彼の部屋に入った時、シュリー・バガヴァーンの目は閉じていました。彼はベッドにもたれ支えられ、呼吸はとても荒いものでした。唇が乾き切っており、私は水を数滴差し上げました。私は少しの果物ジュースの方がいいだろうと思いました。私は彼に、「バガヴァーン、オレンジジュースを差し上げましょうか」と尋ねました。私は質問を2回くり返し、それぞれにシュリー・バガヴァーンは「いいえ」を意味して頭を振りました。

 その時、奇妙なことが起こりました。私は彼のそばに立ち、祈るように熱心に心の中で質問を繰り返していました。突如、シュリー・マハルシは「はい」を意味してうなずき、口を開きました。私は彼にジュースをティースプーン3杯差し上げました。毎回、彼は口を開いて、ジュースを飲みこみました。これがシュリー・バガヴァーンがとった最後の栄養でした。これは午後7時45分ごろでした。

 8時10分前に、シュリー・マハルシの脈拍はまだ取れました。信奉者の大集団がいつ何時でも息を引き取るかもしれないと予期し、恐れながら、悲嘆にくれて外で待っていました。私はそれがすぐ起こる可能性はないと感じ、行きわたる緊張を和らげるために、生命に差し迫った危険はないとの趣旨の公示がだされました。これにより集まった信奉者は少し落ちつきました。9時25分前、脈拍はまだ取れ、呼吸はとても荒く、苦労するものでした。この力強い人物がそのような苦痛を被るのを見るのは言いようもなく心苦しいものでした。私はどうしてそのような偉大なる魂(人物)がこのような苦悩を経験しなければならないのか心の中で問いました。彼は他者のカルマを彼自身に引き受けたのか。彼がこれほどの苦痛を被るならば、他の人はどうなるのか。シュリー・バガヴァーンは、自分自身から苦しみを除くことはできないのか。シュリー・バガヴァーンを見つめながら立っていた時、そのような思いが私の心にのしかかりました。

 私の苦しみに答えを与えるかのように、状況が変わりました。それも、突如として変わりました。脈拍は消え、呼吸はゆっくりと、安らかになりました。そのような時期と段階において、それはとても稀な特徴でした。呼吸は徐々にゆっくりとなり、終に、9時13分前に完全に停止しました。我々は(彼が)息を引き取ったということを、その後に呼吸がないという事実のみから判断できました。普通の人の場合にたいてい(見受けられる)息を引き取ったことを知らせる痙攣、もがき、あえぎは、シュリー・バガヴァーンの場合にはそこに存在しませんでした。そして、とてもゆっくりと穏やかに、シュリー・バガヴァーンは肉体の器からの解放を手に入れました。これが最後でした。

 いいえ。どうしてそうなるでしょうか。シュリー・バガヴァーンに始まりも終わりもありません。

2013年3月22日金曜日

マハー・ニルヴァーナ(偉大なる寂滅)① - シャンカル・ラオ医師の記録

◇『沈黙の力(The Silent Power)』、p135~141

シュリー・バガヴァーンへの治療-1つの記録

シャンカル・ラオ医師
シャンカル・ラオ医師は引退した地方医療官であり、ほとんど病気の初めからシュリー・マハルシに付き添っていました。この文章の中で、彼はマハルシの病、そして、彼がそれに耐える様子の生き生きとした詳細な描写を記しています。
  バガヴァーンに医師として1年以上仕えたことは、非凡な栄誉であり、非凡な経験でした。それは最高の教育であり、比類ない特色をもつ訓練でした。それにより、私はシュリー・マハルシの超人的で神のような人格のみならず、人間的な人格を生き生きとかいま見ました。

 丸1年の間、私は病がシュリー・バガヴァーンの肉体の力と生命力をむしばむことに残酷に成功するのを見ていました。病は彼の無執着と平静に影響するのに失敗し、私は痛みと苦しみを伴うこの病気がどうにか不名誉な敗北にまみえるのを初めて目撃しました。これは、ついにはマハルシが死すべき鞘(覆い)を振い落とすことになる以下の病の歴史の記録に裏づけられます。

 1948年12月の2週目に、私はシュリー・ラマナーシュラマムにはじめてやってきました。その時、シュリー・バガヴァーンに乾燥エンドウ豆ぐらいの大きさの小さな瘤(こぶ)がひじの裏(*1)の皮膚の下にできていました。私がそれについて彼に尋ねると、彼は3か月ほど前に転んだことによるのかもしれないと言いました。圧迫により、それはよく痛みました。1か月の内に、それは小さなビー玉の大きさへ成長しました。シュリー・バガヴァーンは、ひじを表面が固いものの上に置く時にいつも痛みを感じていたので、それを取り除くことを勧めました。1949年2月9日、それは取り除かれました。1週間の内に、傷口は完治しました。

 3月の1週目に、それが成長していることが再び分かりました。3月の半ばごろ、マドラスのラガヴァチャリ医師が助手と一緒に来て、かなりの量の周辺組織とそれを覆う皮膚と共に、それを完全に取り除きました。顕微鏡検査で、それが肉腫であると判明しました。

 肉腫とは若い人々に一般的に起こる肉(筋肉と脂肪の組織)の悪性腫瘍で、他方、年配の人は皮膚や粘膜からの腫瘍である癌になります。これらの悪性腫瘍は、単なる腫瘍のように覆いや皮膜の中にしまわれていません。腫瘍の周りの組織の中のどこかの大変小さな細胞でさえ別の腫瘍へと成長し始めることがあります。細胞のいくつかが血管を通して体の他の部分に運ばれ、類似した第二の腫瘍を作ることがあります。

 2回目の手術の後、傷口は治らず、数日後に新しい腫瘍が現れ、それはおびただしく出血しはじめました。医師と放射線医がマドラスから来て、一時的に緩和するためにラジウム(療法)が行われました。彼らは腫瘍から数インチ上で手を切断することだけが病気を治しうると助言しました。シュリー・バガヴァーンの信奉者間の意見の総意は、切断に反対でした。シュリー・バガヴァーンもまた、その必要はないと言いました。切断という考えは諦められました。

 ラジウム療法の結果、腫瘍の成長は少しおさまりましたが、1949年の6月に再び成長し始めました。アーユルヴェーダの治療を試みることを希望する信奉者らがいて、地方のアーユルヴェーダの医師が治療を始めました。シュリー・バガヴァーンの健康は衰え、敗血症が起こり、腫瘍は非常に急速に成長し続けました。

 マドラスからの外科医らが再び来るように要請されました。彼らは唯一の治療として手術を勧め、周辺組織の白色の範囲と共に腫瘍が透熱性のメスで取り除かれました。その後、ラジウム(療法)が行われました。これは8月14日のことでした。

 3か月のあいだ腫瘍の成長は現れず、傷口の皮がむけた表面から採取された小片さえ陰性であると報告されたので、その結果はとても好ましいように見えました。しかしながら、1949年12月のはじめ、小さな瘤がもとの腫瘍の成長の痕から数インチはなれた腕の中央に現れつつある疑いが生じました。そこで、再びマドラスから医師たちが来て、それを第2の腫瘍で、それも非常に小さなものであると診断し、彼らは簡単に取り除くつもりでした。

 12月19日、腫瘍は手術されましたが、腫瘍を取り除くために深部組織にメスがいれられた時、腫瘍が筋肉の深部まで広がっていることが発見されました。よりいっそう大きな手術が必要となり、それにもかかわらず、外科医は再発の可能性を除外できないと感じました。

 外科医たちが治癒の望みをあきらめたので、ホメオパシーが試みられました。2月の中頃までに、手術創の上端で腫瘍は再び成長をはじめ、シュリー・バガヴァーンを治療していたホメオパシーの治療者は再発を防げなかったので、マラバルからアーユルヴェーダの医師が呼ばれ、治療を開始しました。これもうまくいかなかったので、信奉者の一人によって、カルカッタからカヴィラジ・ジョゲンドラナス・シャーストリがシュリー・バガヴァーンを治療するために招かれました。この期間中ずっと、シュリー・バガヴァーンの全身の健康状態は衰え続け、腫瘍の成長は急速に増しました。

 4月2日ごろまでに、私は終わりが近いと感じました。4月9日の日曜日の夜に、脈がとても弱くなり、心臓の機能が徐々に低下することは極度の疲労をもたらしまた。その日まで隣接した浴室に歩いて行けたシュリー・バガヴァーンはそのようにできなくなり、ベッドを離れられなくなりました。

 2月からシュリー・バガヴァーンの血圧は低下しはじめました。死の2週間前、血圧は88/48で、最低では66/36に達しました。予期された最後は4月14日、午後8時47分に訪れました。

 肉体に対するシュリー・バガヴァーンの態度は、完全な無執着でした。病気と痛みは彼の心に何の影響も残しませんでした。彼が病を治療されるにまかせていたのならば、彼が苦痛の軽減を求めたというより、信奉者が望んだからでした。彼の態度はいつも、肉体の病に対する至高の無関心でした。

 そのように、彼は信奉者によって決定されたどんな治療も疑わずに受け入れる理想的な患者でした。治療におけるどのような変更でも彼がそれを許可するときはいつでも、彼の唯一の関心は特定の治療が試みられることについて信奉者の間で合意があるべきであるということだけでした。彼個人としては、関心がありませんでした。

 彼のそばにいた全ての人にとって、時には非常に耐えがたい性質であった痛みを、苦しんでいる様子を表情にさえあらわさずに彼が耐える様子は驚くべきことでした。手(足)の下方に差すような痛みがあった病の後期のある時、彼のダルシャンを求めてきた紳士がお辞儀をし、ティルヴァンナーマライを去ることを告げました。シュリー・バガヴァーンは、その時どこも悪い所がないかのように、彼にいつも通りの恵み深いまなざしと微笑みを向けました。その紳士が去って初めて、シュリー・バガヴァーンは痛みがひどいことを認め、自分自身にその手当てがなされることを許しました。

 病の後期における腫瘍は大変な大きさに成長していたので、そのような光景になれている医療従事者でさえ、それを見た時ショックを受けました。腫瘍が手当てされる時、シュリー・バガヴァーンはそれを見て、冗談をよく言ったものでした。彼は医師たちが包帯の位置を調整するのを手伝いさえしました。

 腫瘍まわりの皮膚が蒸留アルコール(rectified spirit)で消毒されていたある時に、いくらかが腕の他の部分にかかり、体にも落ちました。シュリー・バガヴァーンは冗談っぽく自分は魂の沐浴(spirit bath)をしていると言い、シュリー・シャンカラーチャーリヤによる「アートマ・ボーダ」の最後の詩節(*2)を引用しました。それは単なる冗談ではなく、その中に深遠な聖なる教えも含まれていました。

 ある晩、腫瘍が手当てされていた時、腫瘍から大量の出血があり、2・3人のバクタは感情を隠すことができませんでした。彼は彼らの方を見て、「どこに私が行くのでしょうか。それに、どこに私が行けるのですか」と言いました。彼が強調して「私」という時はいつでも、彼はいつもアートマンを意味していました。

 しばらく前、腫瘍を治療をしていた時、シュリー・バガヴァーンが日光浴をして、数分のあいだ腫瘍を日光に晒してはどうかという提案がなされました。ハエを防ぐために、香料がかまどに入れられ、彼が座る椅子の真下に置かれました。シュリー・バガヴァーンは冗談っぽく、我々は腫瘍の前で香料を焚き(ドーパム)、光を振る(ディーパム)ことによって、立ち去ってもらうように腫瘍に敬意を表していると言いました。

 ある日の午後、私の友人の一人がシュリー・バガヴァーンの写真を撮りました。夜に私たちは連れだって行き、私が傷の手当てをしている時、シュリー・バガヴァーンは写真のことに触れ、例として写真撮影の科学を使いながら深遠な聖なる講話をしました。シュリー・バガヴァーン曰く、「写真を撮るとき、暗闇で銀塩がフィルムにかぶせられ、そしてカメラの中でフィルムが光にさらされた時、外の光によって引き起こされた痕跡が写ります。フィルムがカメラに入れられる前に光に晒されるならば、フィルムの上には何の痕跡も写りません。我々のジーヴァについても同じです。それがいまだ闇の中にいる時は、漏れ入る小さな光により、その上に痕跡をつけることができます。しかし、知の光がすでにそれに押し寄せている時どのような外の対象の痕跡も得られません」。よく似たやり方で、彼はよく医療の付添人(主治医ら)を、深遠な聖なる教育がちりばめられた冗談で楽しませました。

 病気の期間中ずっと、彼は主治医らがどのような医療の体系に属していても、彼らに恥ずかしい思いをさせたくないと望んでおり、それは結果として凌ぐことのできない完璧な医者同士の間の礼儀の決まりとなりました。彼がアーユルヴェーダやホメオパシーのような特定の医学体系の治療を受けている時に、誰かが彼が被っている強い痛みの治療を提案したなら、いつも彼は付き添っていた医者にその人を紹介し、その人にその医者の同意を得るように求めました。

 ある時、彼を手術した外科医らが切断を除いて何もシュリー・バガヴァーンを治せないと打ち明け、古参のある信奉者が別の医学体系の高名な医者を連れてきました。この紳士はシュリー・バガヴァーンに会い、話をしました。シュリー・バガヴァーンはいつも通りの恵み深い微笑みで彼を迎え、この新しい医者はシュリー・バガヴァーンが彼の治療を望んでいると思いました。それはシュリー・バガヴァーンに特徴的なことで、信奉者の多くに目撃されたことなのですが、各々の人が彼のところへ行くと、その人は師が彼のみに恩寵を注ぎ、信奉者の中で最も彼が愛されているという感覚をもって戻りました!私はこのことを知っていたので、この医者をシュリー・バガヴァーンのもとに連れてゆき、彼に治療のための同意を得るように求めました。シュリー・バガヴァーンはこのことに微笑んで、「今、私を治療しているこれこれという医者を知っていますか。彼と話をしましたか。彼は何と言いましたか」と言いました。その紳士は途方に暮れ、去らなければなりませんでした。 
 
 バガヴァーンを目にし、彼の日常の会話に耳を傾けることさえ、彼の近くにいる人にとっては教育でした。宗教や哲学に関する本を読む必要はありませんでした。彼の全ての哲学と世々の哲学は、バガヴァーンの人生の中にありました。なぜなら、彼の人生が最高の哲学の顕れだったからです。彼は講義しませんでした。彼は外の博学な学者の啓発のために本を記さず、完全な人生を送ることにより、彼に触れにやって来た人々にどの本が与えられるよりも優れた教育を与えました。現代のもっとも偉大な聖なる人物が去ると共に、世界は生きている教師、最高の意味におけるグルを失いました。

(*1)ひじの裏・・・医学的には「ひじの表」が手のひらの側で、「ひじの裏」が手の甲の側のようです。
(*2)最後の詩節・・・68詩節:「今ここに、あらゆる場所で得ることができる、透明で、温かく、常に清涼なアートマンという水に沐浴する彼は、特別な中心地や時節のなかに探される必要はない。そのような人は行為なく留まっている。彼はすべてを知るものである。彼はすべてに行き渡っており、常に不死である。」