第7章 哲学の危険性
1937年4月10日
その主要な関心が人間とその構造である、大いに学識のある訪問者が、シュリー・バガヴァーンに人間の様々な体、コーシャとその機能、アートマ‐ブッディ‐マナスなどを体験から説明することを望みました。
バガヴァーン:(短い説明が加えられた後)
入り組んだ迷路のような様々な学派の哲学は、物事をはっきりと説明し、真理を明らかにすると主張しますが、実際、それらは混乱が存在する必要もない所に混乱を作り出します。何を理解するためにも、理解する者が存在することが必要なはずです。体、アハンカーラ、ブッディ、創造、神、マハートマー、世界-自らでないものについて一体どうして心配するのでしょうか。あなた自身のままあり、安らかにいてはどうですか。ヴェーダーンタを例にとりましょう。それは15のプラーナ、その名称と機能について話し、生徒はそれらを暗記するように求められます。ただ一つのプラーナが体の中で生命を維持する全ての働きをしていると彼が教わるなら、それで十分ではありませんか。また、アンタカラナは、思うこと、欲すること、意図すること、論理的に思考することなどと言われています。どうしてこの細かなことがいりますか。アンタカラナや、これら全てのプラーナを誰か見たのでしょうか。それらは本当に存在しますか。その全ては哲学の教師により彼らの過剰な分析によってこしらえられた概念的区分です。この全ての概念はどこで終わりますか。どうして混乱が作り出され、その後、説明して取り除かれねばならないのでしょうか。哲学の迷宮で道に迷わず、彼らみなが生じた源へ真っ直ぐ向かう人は、幸運です。
第13章 ニルヴァーナ
<1> 1937年5月5日
訪問者がニルヴァーナの意味を尋ねました。
バガヴァーン:
ニルヴァーナとは、そこに分離の感覚が存在せず、自我がその源、ハートに沈んだ、かの境地です。
<2> 1937年4月20日
C氏は著名な神智学者によって記された『ニルヴァーナ』という本を読み、その中で著者は眠りに入った後でニルヴァーナを体験したと主張し、その中で彼はニルヴァーナである光の海の中の光の鮮やかな中心として「師らを見」ました。C氏はそれをシュリー・バガヴァーンの教えと調和させることができませんでした。それで、彼は師にそれについて尋ねました。
バガヴァーン:
ニルヴァーナは、完全なる境地です。その中に見ることも、聞くことも、経験することも存在しません。ただ純粋な「私は在る」という自覚のみあります。あなたが読んだものから説明したニルヴァーナは、全くの想像です.... まあ、それらが人を利己的でなくさせ、彼に最高の真理のための準備をさせるという限りは、あれこれの似たような運動は良いものです。奉仕もまた同じ目的、自らの実現に通じます-それが私心のないものであるなら。
C氏:
しかし、絶対的な知への準備ができた人がどれほど、そして、どうして相対的なものを得ようとしなければならないのですか。
バガヴァーン:
あらゆることはしかるべき時期に起こります。絶対的なものへの準備ができた人は、何らかの形でそれについて耳にすることとなり、その後、その修練を始めます。彼は即座にアートマヴィドヤーの価値を認識し、断固としてどこまでもそれを追求します。
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