バガヴァーンとの日々
A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から
46年5月8日
午後に、北インドからの若いサードゥとの以下の対話がありました。
サードゥ:
私は、私は誰か知りたいのです。アーリヤ・サマージ派は、私はジーヴァートマ(*1)であると、私が心とブッディ(*2)を浄化するなら、神を見ることができると言います。私は何をすべきか分かりません。バガヴァーンがふさわしいと思うなら、何をすべきか私に教えて頂けないでしょうか。
バガヴァーン:
あなたは多くの用語を使っています。ジーヴァートマ、心、ブッディ、神とは、どういう意味ですか。そして、あなたは神に会いに行きたいのですが、神はどこにいて、あなたはどこにいますか。
サードゥ:
私はそれら全ての用語がどういう意味か分かりません。
バガヴァーン:
では、アーリヤ・サマージ派があなたに言うことを気にしないように。あなたは神や他の物事について知りませんが、あなたが存在することをあなたは確かに知っています。あなたはそれについて疑いを抱けません。ですから、あなたは誰か見出しなさい。
サードゥ:
それが私の知りたいことです。どうすれば私は見出せますか。
バガヴァーン:
他の全ての思いを遠ざけ、あなたの体のどの場所に「私」が生じるのか見出そうとしなさい。
サードゥ:
しかし、私はそれについて考えることができません。
バガヴァーン:
どうしてですか。あなたが他の物事について考えられるなら、あなたは、「私」について、そして、あなたの体のどこにそれが生じるかについて考えられます。他の思いがあなたの気を逸らすということであるなら、唯一の方法は、あなたの心がさ迷うたびに引き戻し、それを「私」に定めることです。それぞれの思いが生じるときに、あなた自身に「誰に、この思いがあるのか」尋ねなさい。答えは「私に」となるでしょう。それから、その「私」にしっかり捉まりなさい。
サードゥ:
「私は誰か」をマントラにするために、私はそれを繰り返し言い続けるべきですか。
バガヴァーン:
いいえ。「私は誰か」は、マントラではありません。それは、その他の一切の思いの源である「私という思い」が、あなたの中のどこに生じたかあなたは見出さなければならない、という意味です。しかし、このヴィチャーラ・マールガがあなたにとってあまりに難しすぎると感じるなら、あなたは「私、私」と繰り返し言い続けてもかまいません。それはあなたを同じ目的地に導くでしょう。「私」をマントラとして使っても差し支えありません。それは神の最初の名です。
神はあらゆる所にいますが、その側面において彼を思い描くことは困難です。それで聖典には、「神はあらゆる所にいる。彼はあなたの内にもいる。あなたはブラフマンである」と書かれています。ですから、「私はブラフマンである」と思い出しなさい。「私」の復唱は、終には、あなたを「私はブラフマンである」と悟るように導くでしょう。
(*1)ジーヴァートマ・・・「個々の生命である自分」。パラマートマ(至高の自ら)と対比される。
(*2)ブッディ・・・「知性、分別する機能」。
46年6月28日
午後に、カンナの妻が、書面でバガヴァーンに懇願しました。「私は聖典に通じていませんし、私にとって自らの探求の方法はあまりに難し過ぎると感じます。私は、7人の子どもがいて、たくさんの家事がある女性であり、それは瞑想のための時間を私にほとんど残しません。バガヴァーンが私に、何かより単純で、簡単な方法を授けてくれることを願います。」
バガヴァーン:
自分自身を見るために誰も鏡を必要としないように、自らを知るために聖典の学習や知識は必要ありません。一切の知識は、自らでないとして、終には、ただ放棄されることだけを求められます。家事労働や子供の世話もまた、必ずしも障害ではありません。あなたがそれ以上何もできないなら、あなたがどのような仕事をしていても、あなたが座ってようと立っていようと歩いていようと、『私は誰か』の中で勧められるように、少なくともその間ずっと「私、私」と心の中で言い続けなさい。「私」は神の名です。それは全てのマントラの中で最初の、最も偉大なマントラです。オームでさえ、それに次ぐものです。
46年11月24日
チェノイ婦人は、本(『私は誰か』)の中の「たとえ『私』『私』と言い続けても、それはあなたを自ら、もしくは、現実に連れて行くでしょう」と書かれている箇所に言及して、それがなされるべき適切なことではないのかどうか尋ねました。私(ムダリアール氏)は、「その本には、思いを内側に向け、全ての思いの根源である『私』がどこから起こったか見出そうとすることからなる探求の方法に従おうとしなければならないと書いてあります。もし、そうすることができないと感じたら、ジャパで人々が使う『クリシュナ』や『ラーマ』のようなマントラであるかのように、単に『私』『私』と繰り返し言い続けてもかまいません。その狙いは、他の全ての思いを排除するために、1つの思いに集中することです。そうすれば、終には、その1つの思いさえ消えるでしょう」と説明しました。これに関して、チェノイ婦人は、「人がただ単に『私』『私』と機械的に繰り返しても、それは役に立つのでしょうか」と私に尋ねました。私は、「人が『私』や、『クリシュナ』のような他の言葉を使うとき、『私』や他の何かの名前で人が呼ぶ神についての何らかの考えを確かに心に抱きます。人が『ラーマ』や『クリシュナ』を繰り返し唱え続けるとき、木をその背後にある意味として考えていることはできません」と答えました。この全ての後で、バガヴァーンが言いました。「あなたは今、私は努力していて、『私』『私』や他のマントラを口にしていて、瞑想を行っていると思っています。しかし、あなたが最終段階に達するとき、瞑想はあなたの側のなんらの努力なしに続いて行くでしょう。あなたはそれから逃れることも、それを止めることもできません。というのも、瞑想、ジャパは、あなたがそれを他の何と呼ぼうとも、あなたの本質だからです」。
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