マハルシの福音
第2巻 第4章 ハートは自らである
信奉者:
シュリー・バガヴァーンは、ハートを意識の座として、そして自らと同一として話します。ハートとは、厳密には何を意味するのですか。
マハルシ:
ハートについての質問が起こるのは、あなたが意識の源を探すことに興味があるからです。考え深い人々みなにとって、「私」とその性質についての探求は抗しがたい魅力があります。
神、自ら、ハート、意識の座、それをどのような名で呼ぶのであれ、まったく同じです。理解されるべき点はこれです-ハートは人の存在のまさにその核心、中心を意味し、それがなければ何物も存在しません。
信奉者:
しかし、シュリー・バガヴァーンは、肉体の中にハートのための特定の場所を、それは胸部にあり、中央から指幅2つ分(約3.8cm)右にあると明確に述べています。
マハルシ:
ええ。賢者たちの証言によれば、それは霊的体験の中心です。この霊的ハート-中心は、同じ名前で知られる血を押し出す、筋肉でてきた器官とは全く異なります。霊的ハート-中心は、体の器官ではありません。ハートについてあなたが言える全ては、それがあなたの存在のまさにその核心であるということです。あなたが目覚めていても眠っていても夢見ていても、仕事に従事していてもサマーディに浸っていても、(サンスクリット語のその言葉が文字通り意味するように)あなたと本当は全く同一であるそれであるということです。
信奉者:
その場合、どうして体のどこかの部分にそれを位置づけられるのですか。ハートのための場所を定めることは、時間と空間を超えているそれに生理的な制限を課すことを暗示するでしょう。
マハルシ:
その通りです。しかし、ハートの場所について質問をする人は、自分自身を体を伴ってか、体の内に存在しているとみなしています。今、この質問をしながら、あなたの体だけがここにあって、あなたはどこか別の所から話しているとあなたは言うでしょうか。いいえ、あなたはあなたの体の存在を認めています。この観点から、肉体に関するどのような言及も行われるようになっています。
真実を言えば、純粋な意識は分割できず、部分なく存在します。それは姿形を持たず、「内」と「外」を持ちません。それにとって、「右」も「左」も存在しません。純粋な意識は、ハートであり、全てを包含しています。そして、何ものもその外側に、それと離れて存在していません。それが究極の真理です。
この絶対的な見地からすれば、ハート、自ら、または、意識が、それに割り当てられる特定の場所を肉体の中に持つはずがありません。その理由は何でしょうか。体そのものが心の投影に過ぎず、心は光輝くハートの貧弱な反射でしかありません。その中に万物が含まれる、それを、唯一の現実の微小な現象的な顕現でしかない肉体の内のわずかな部分として、どうして限定できますか。
しかし、人々はこれを理解していません。彼らは肉体と世界の用語で考えざるをえません。たとえば、あなたは、「祖国からヒマラヤを越えて、このアーシュラムにはるばるやって来ました」と言います。しかし、それは真実ではありません。本当のあなたである全てに行き渡る唯一の霊(Spirit)にとって、「到着」や「出発」やどのような移動がどこにありますか。あなたは、あなたが常にいている場所にいます。このアーシュラムに到着するまで、あちらこちらに移動したり、運ばれたのは、あなたの体です。
これは単純な真理ですが、自分自身を対象的世界に住む主体であるとみなす人にとって、それは何かまったく空想的なこととして思われます!
肉体の中にハートの場所が割り当てられるのは、一般的な理解の水準に降りてくることによってです。
信奉者:
では、ハート-中心の体験が胸の特定の場所にあるというシュリー・バガヴァーンの言明を私はどのように理解すべきでしょうか。
マハルシ:
真実かつ絶対的な見地からすれば、純粋な意識としてのハートは時間と空間を超越しているということをいったんあなたが受け入れれば、残りのことを正しい見方で理解することがあなたにとって簡単になるでしょう。
信奉者:
私がハートの場所についての質問をしているのは、その基準においてだけです。私はシュリー・バガヴァーンの体験について尋ねているのです。
マハルシ:
肉体と全く無関係の、心を超越している純粋な意識は、直接的な体験の問題です。ちょうど普通の人がその体の存在を知っているように、賢者たちはその体のない永遠の存在(Existence)を知っています。しかし、意識の体験は、身体的認識がない場合だけでなく、それを伴う場合でもありえます。純粋な意識の体のない体験において、賢者は時間と空間を超えていて、ハートの位置についての疑問はその時全く起こりえません。
しかしながら、肉体は意識と離れて(生命をもって)存続できないので、身体的認識は純粋な意識によって維持されなければなりません。その本質として、前者は、無限で永遠である後者に制限され、決して後者と同一の広がりを持つことはできません。体の意識は、賢者が同一性を実現している純粋な意識のモナド(*1)のような小規模の反射に過ぎません。彼にとって、そのため、体の意識は、彼自身である自ら光り輝く無限の意識の、いわば、反射した光線でしかありません。賢者がその身体的存在に気づいているのは、この意味においてのみです。
純粋な意識としてのハートの体のない体験の間、賢者は全く体に気づいていないため、その絶対的体験は、彼が身体的認識を伴っている時に行われる一種の感覚の想起によって、肉体の範囲内に位置づけられます。
信奉者:
ハートの直接的な体験もなく、後に続く想起もない私のような人たちにとって、事はいくぶん理解することが難しいようです。ハート自体の場所について、おそらく、私たちはある種の当て推量に頼らなければなりません。
マハルシ:
一般の人に場合にさえ、ハートの位置の決定が当て推量に頼ることになるなら、その問題は確かに十分な考慮に値しません。いいえ、あなたが頼らなければならないのは、当て推量ではなく、間違いのない直観です。
信奉者:
誰にとってその直観があるのですか。
マハルシ:
誰も彼もにとって。
信奉者:
シュリー・バガヴァーンは、私がハートの直観的な知識を持っていると思っているのですか。
マハルシ:
いえ、ハートの(直観的な知識)でなく、あなたの自己認識に関連するハートの場所の(直観的な知識)です。
信奉者:
シュリー・バガヴァーンは、私が肉体の中のハートの場所を直観的に知っていると言うのですか。
マハルシ:
もちろんです。
信奉者:
(自分自身を指さして)個人的に私についてですか-シュリー・バガヴァーンが言及しているのは。
マハルシ:
ええ。それが直観です!たった今、どのように手振りであなた自身を指し示しましたか。あなたは指を胸の右側に置きませんでしたか。それがまさにハート-中心の場所です。
信奉者:
それでは、ハート-中心の直接的な知識がないとき、私はこの直観に頼らなければならないのですね。
マハルシ:
その何がいけませんか。(小中の)男子生徒が「この計算を正しくしたのは、僕です」と言うときや、彼が「あなたにその本を走って取ってきましょうか」とあなたに尋ねるとき、彼は計算を正確に行った頭を指さすでしょうか、それとも、あなたに本を取ってくるために彼を素早く運ぶだろう足を(指さす)でしょうか。いいえ、どちらの場合でも、彼の指は全く自然に胸の右側に向けられ、そうして、彼の中の「私」(という)性(質)の源がそこにあるという深淵な真理を無邪気に表します。そのように彼に彼自身を、自らであるハートを指し示させるのは、間違いのない直観です。その行為はまったく何気ないもので、普遍的です、言い換えれば、それは全ての人の場合に同じです。
肉体の中のハート-中心の場所について、あなたはこれより有力などんな証拠が必要ですか。
(*1)モナド・・・単子。哲学で、宇宙を構成する形而上学的な単純実体。特に、ライプニッツ哲学の根本原理(デジタル大辞泉)。
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