1948年5月1日
(186)集中と離欲
製本する仕事に忙しくて、今朝、私はアーシュラムに少し遅れて来ました。その時、だいたい9時頃でした。その時までに、昨日ここに来たマハーラーシュトラ出身のある紳士が、いくつかの質問をしたようでした。途切れることなく雄弁に、バガヴァーンはそれに答えていました。神酒で満たされた言葉が、ガンジス川の水の速い流れのように、彼から出てくるようでした。ある信奉者はそれを英語に翻訳していました。私は遅く来たことを残念に思いました。私は急いで講堂に入り、座りました。その時、「アバヤーサ(心を一つの対象へ集中すること)」と「ヴァイラーギャ(離欲)」に関する質問が議論されていました。バガヴァーンは、以下のように説明しました。
彼は漸進的な修練を通じ、平静を達成すべきである。そして、不動によって制御された理性を通じ、心を神に確立し、彼は他の何をも思うべきでない。(バガヴァッド・ギーター、6章25詩節)
He should through gradual practice attain tranquillity; and having established the mind in God through reason controlled by steadfastness, he should not think of anything else. (Gita, VI: 25)
落ち着きのない、気難しい心を、それが追い求め走る、それら全ての対象から引き留め、彼はくり返しそれを神に集中すべきである。(同、6章26詩節)
Restraining the restless and fidgety mind from all those objects after which it runs, he should repeatedly concentrate it on God. (Gita, VI: 26)
この教え全てにも関わらず、アルジュナの疑いは解消されず、さらに質問しました:
なぜなら、クリシュナよ、心はとても不安定で、荒々しく、頑強で、力強いのです。それゆえに、私はそれを制御するのは、風(を制御するの)と同様に難しいと考えます。(同、6章34詩節)
For, Krishna, the mind is very unsteady, turbulent, tenacious and powerful; therefore, I consider it as difficult to control as the wind.(Gita, VI: 34)
これに返答して:
アルジュナよ、疑いなく、心は不安定で、抑制するのは難しい。しかし、瞑想と離欲の修練を通じ、それは制御されうる。おお、クンティーの息子よ。(同、6章35詩節)
The mind is without doubt unsteady and difficult to curb, Arjuna, but it can be controlled through practice of meditation and dispassion, O son of Kunti. (Gita, VI: 35)
そのように主クリシュナは言いました。それゆえに、サーダカが修練と離欲を持つことがとても重要なのです。
質問者の一人が、「ギーターの第2章では、探求の道に加えてディヤーナ(瞑想)を修練することが最良であると言われていますが、第12章では献身の道が最良であると言われています。これら二つをどのように調和させればいいのでしょうか」と言いました。
バガヴァーンは、「最初、サーダカはジニャーナの道で瞑想を修練するように求められています。彼はそのようにできませんでした。次はヨーガで、それからカルマで、最後にはバクティです。そういう風に、その人に最も合う道をたどれるように相次いで教えられています。ともかく、どのような道でも目的地は一つです。主クリシュナの考えは、それぞれの人の精神的な発達に応じて、それぞれの道が簡単であろうということです」と言いました。
◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』
Talk 91. 1935年11月6日
ベンガル地方からの訪問者が尋ねました。「どのように心は制御されるのですか」。
マハルシ:
あなたは何を「心」と呼んでいるのですか。
信奉者:
神のことを思うために座る時、思いが他の対象にさ迷います。私はそれらの思いを制御したいのです。
マハルシ:
『バガヴァッド・ギーター』では、さ迷うことは心の性質であると言われています。人は思いを神に注がねばなりません。長い間の修練により、心は制御され、安定します。
心の動揺とは、思いという形での心のエネルギーの浪費から生じる弱さです。人が心を一つの思いに張り付ける時、エネルギーは節約され、心はより強くなります。
信奉者:
心の力の意味は何ですか。
マハルシ:
気を散らさずに、一つの思いに集中する能力です。
信奉者:
それはどのように達成されますか。
マハルシ:
修練によって。信奉者は神に集中します。探求者、ジニャーナ・マールガの追随者は自らを追求します。両者にとって、修練は等しく困難です。
信奉者:
たとえ心を自らの探求へ注いでも、長い間の苦闘の後に心は彼から逃れはじめ、しばらく後までその人はそのいたずらに気づきません。
マハルシ:
それはそうでしょう。初期の段階では、心は長い間隔で探求へ戻ります。継続的な修練と共に、心はより短い間隔で戻り、最終的に全くさ迷わなくなります。眠っているシャクティが顕れるのは、その時です。純粋な(サットヴァな)心には思いがありませんが、活動的な(ラジャスな)心は思いで満ちています。純粋な心は、生命の流れ(Life-current)に変じます。
信奉者:
その流れを体験する前に、思いの様相に入ることから心を遠ざけられるのですか。
マハルシ:
ええ。流れはあらかじめ存在しています。
◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p332~333
46年10月18日
午後、シモガからの訪問客がバガヴァーンに、「どのように動揺する心を静めるべきですか」と尋ねました。バガヴァーンは、「その質問をするのは誰ですか。それは心ですか、それとも、あなたですか」と答えました。訪問者は、「心です」と言いました。
バガヴァーン:
あなたがこの心とは何か見るならば、心は静められます。
訪問者:
どのように心とは何か見るべきですか。
バガヴァーン:
心についてのあなたの考えは何ですか。
訪問者:
私の考えでは、心とは思いです。
バガヴァーン:
心とは思いのかたまりです。しかし、全ての思いの源は「私という思い」です。ですから、この「私」は誰か見出そうと試みるならば、心は消えます。あなたが外側の物事を考える時に限ってのみ、心は存在します。しかし、あなたが外側の物事から心を引き込み、心、すなわち、「私」について考えさせる時、言い換えれば、心を内に向ける時、心は存在しなくなります。
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