体の中の退く場所
信奉者:
あなたが尋ねられた時はいつも、あなたは「はじめに、疑問が誰に起こるのか知りなさい」、「疑う者を誰か疑えますか」、「他者についての話に進む前に、あなた自身を知りなさい」など言います。これは質問者を扱うためのあなたの手にある真のブラフマーストラ(至高の武器)です。私は...
マハルシ:
ええ。あなたは何を言わんとしているのでしょうか。
信奉者:
どうぞ我々の段階まで来て、我々の疑いをとり除いて下さい。あなたは我々の立場を理解できます。我々はあなたの立場を理解できません。あなたは遥か高みにいて、我々は遥か下にいます。あなたが望めば、あなたは我々のもとに来れますが、我々はあなたのもとに行けません。
マハルシ:
あなたは何を言いたいのでしょうか。
信奉者:
自らはあらゆる所にあると言われています。ブラフマンは遍在しています。それははるか向こうにあり、それは自らでもあります。私の自らがブラフマンであるなら、私はあらゆる所にいるはずです。しかし、私はこの体の中にいるか、もしくは、この体に制限されているという感覚があります。たとえ私がこの体と異なっているとしても、私はそれから不可分です。同様に、私は心と不可分です。「私」でさえも心の一部であるようです。脳がなければ、心はどこにありますか。この体の一部である脳や心がなくても、私が存在できると私にはまるで想像できません。
マハルシ:
終わりましたか。疑いは決して止みません。一つの疑いが取り除かれるなら、別のものがとってかわります。それはあたかも木の葉を一枚一枚取り除くようなものです。たとえ一切の葉が切り取られても、新しい葉が生えます。木そのものが根こそぎにされなければなりません。
信奉者:
何ができるでしょうか。疑問を考え、言い表わすことは悪いことでしょうか。
マハルシ:
いいえ。唯一の確かな治療薬は、疑う彼を知ることです。疑う者を誰も疑えません....
信奉者:
それが私が恐れていたことです。私はさるぐつわをかまされ....
マハルシ:
いいえ。助け船を出しましょう。仮に私があなたに答えを与えるとしても、それがあなたの全ての疑いを静めるでしょうか.... あなたは自分が体や心などであると言いました。あなたが自分自身であると言う、この心とは何ですか。あなたは心はとても多くの機能を含むあらゆる思いであると言います.... 「私」は心の一部です。心は体の一部ですね?
信奉者:
私はそうであるとは言いません。しかし、あたかもそうであるかように感じます。
マハルシ:
ええ、では、先に進みましょう。あなたは心です。心は脳に位置しているか、もしくは、それと同一のものです。同時に、あなたは自分が心と異なっているが、それから分離していないと言いました。そうではありませんか。では、我々の全ての思い、感情、情熱、欲望、愛着、衝動、本能、要するに、我々である全て、我々が感じ、考え、知る全てを体の中に位置づけましょう。「私」が考えか、思いか、感情であれ、あなたはどこに「私」を位置づけるのでしょうか。
信奉者:
感覚、感情などは、体の神経管に、神経構造にすべて位置する、つまり、生じると言われています。しかし、脳に位置する心はそれらに気づいています。それは反射作用と呼ばれています。
マハルシ:
そのように、あなたが「私」を心の一部として考えるなら、あなたはそれを脳に位置づけるでしょう。しかし、私はあなたに、この「私」はなるほど心の一部ですが、しかし、そのまさしく根本の部分であり、それ自身を心と異なり、心を使用していると感じているのだと言います。
信奉者:
私はそれを認めます。
マハルシ:
それでは、この「私」は根本的な思い、本質的な(内奥の)感情、自明の経験、目覚めている状態のように心が活動的でない深い眠りでさえも継続する自覚なのです。では、あなた自身によれば、根本的な部分である「私」は体に位置しているはずです。
信奉者:
それはどこですか。
マハルシ:
あなた自身がそれを見出さねばなりません。しかし、あなたはそれを体の解剖によっては見つけられません。
信奉者:
では、どのように?心の解剖によってですか。
マハルシ:
ええ、あなたが心であるので、あなた自身を解剖し、どこにあなた(「私」)がいるのか見出さなければなりません。それゆえに、私は「汝自身を知れ」と言います。
信奉者:
しかし、この「私」のための場所、中心が本当にあるのですか。
マハルシ:
あります。それは自分の中心であり、眠る時、心は脳での活動からそこに退きます。それはハートであり、いわゆる血液の器とは異なります。それは胸の中央にあるアナーハタ・チャクラ、ヨーガの本で言及される六つの中心の一つではありません。
信奉者:
では、それはどこにありますか。おそらく、私はそれを後で知るのでしょうが。そのような自分の中心が体にあるなら、ブラフマンはアートマンであり、それが全てに行き渡っているなどどうして言われなければならないのですか。
マハルシ:
はじめに体に位置する自分だけに留め、それを見出しなさい。その後、ブラフマン、一切‐存在(the All‐Presence)について考えることができます。
では、私自身とは何か
信奉者:
私はハートが何であるか、どこにあるのかなど知りたいです。しかし、まずは、この疑いを晴らしたいと思います。私は自分自身の真理に無知であり、私の知識は限られ、不完全になってきています。あなたは、「私」が自ら、アートマンと意味すると言います。しかし、アートマンはいつも自らに気づいていますが、私は気づいていません....
マハルシ:
人々はいつもこの混乱に陥ります。あなたが「自分自身」と呼ぶものは、生まれも死にもしない現実の自らではありません。
信奉者:
では、あなたは、私が私自身と呼ぶものが体か、もしくは、体の一部であると認めています。
マハルシ:
しかし、体は物質(ジャーダ)です。それは決して知らず、いつも知られるものです。
信奉者:
では、私がアートマン、自らでもなく、アナートマン、「自らでないもの」でもないなら....
マハルシ:
助け船を出しましょう。精神と物質、自らと体の間に、アハンカーラ、自我である自分、ジーヴァ、生ける者と呼ばれる何かが生まれています。今、あなたが自分自身と呼ぶものはこの「自我である自分」であり、常に意識のある自らとも、意識のない物質とも異なりますが、同時に、精神と物質、チェータナとジャーダの特徴を帯びています。
信奉者:
では、あなたが「汝自身を知れ」という時、あなたはこの「自我である自分」を知るように求めているのですか。
マハルシ:
しかし、「自我である自分」がそれ自身を知ろうと試みる瞬間に、それはその性質を変えます。「自我である自分」はそれが吸収されたジャーダの性質を次第に帯びなくなり、自らという意識、アートマンの性質をますます帯び始めます。
自らの秘密の場所
信奉者:
では、あなたが「汝自身を知れ」という時、誰に呼びかけているのですか。
マハルシ:
何であれ、あなたであるものに。あなたに「汝自身を知れ」という提案が与えられています。「自我である自分」が自身の起源を知る必要性を感じるか、もしくは、それ自身を超越するように駆り立てられる時、その提案を受け、より深く進み、そこで、それ自身の真実の源と現実を発見します。そのように、それ自身を知り始める「自我である自分」は、その自らを知る結果になります。
信奉者:
今しがた、あなたはハートが自らの中心であると言っていました。
マハルシ:
ええ。それは自らのだだ一つの至高の中心です。それについて疑いを持つ必要はありません。現実の自らはそこに、ジーヴァ、もしくは、「自我である自分」の背後にあるハートの内にいます。
信奉者:
では、それが体の中のどこにあるのか教えてください。
マハルシ:
あなたはそれをあなたの心で知ることはできません。(胸の右側を指さして)私があなたにここが中心である言っても、あなたはそれを想像により悟ることはできません。それを悟る唯一の直接的な方法は、自分自身を想像することをやめ、自分自身であろうと試みることです。その時、あなたは中心がそこにあると悟り、自動的に感じます。
これが中心、ハートであり、聖典ではフリット・グーハ(ハートの洞窟)、アルル・ウッラムとして述べられています。
信奉者:
私はどの本にもそれがそこにあると述べられているのを見つけませんでした。
マハルシ:
私がここに来たずっと後で、マラヤーラム語版の『アシュタンガ・フリダヤム』の中の1詩節に偶然出くわしました。それはアーユルヴェーダの標準的な作品であり、その中でオージャス・シュターナ(*1)が、意識(サムヴィット)の座と呼ばれる胸の右側に位置していると述べられています。しかし、それがそこに位置していると言う他の作品を私は知りません。
信奉者:
古代作家が「ハート」という用語でこの中心を意味したと私は確信してよいですか。
マハルシ:
ええ、そうです。しかし、その体験の場所を確認するよりもむしろ、その体験を持とうと試みるべきです。人は見たい時、彼の目がどこに位置しているか探しに行く必要はありません。あなたがハートに入りたいと思うなら、ハートはそこで常にあなたに開かれており、たとえあなたが気づいていなくても常にあなたの全ての行動を支えています。自らがハートの中にあると言うよりもむしろ、ハートそのものであると言うほうがおそらくより適切でしょう。実際は、自らは中心そのものです。それはあらゆる所にあり、それ自身を「ハート」、自らという自覚として気づいています。それゆえに、私は「ハートが御身の名である」と言ったのです。
信奉者:
誰か他に主をハートと名付け、そのように主を呼びましたか。
マハルシ:
私がこのことを言ったずっと後で、ある日、聖アッパル(*2)のテヴァーラムの賛歌に偶然出会い、そこで彼は主をウッラムという名で触れていました。それはハートと同じです。
信奉者:
あなたがハートがプルシャ、アートマンの至高の中心であるという時、それは六つのヨーガの中心の一つではないとほのめかしました。
マハルシ:
上から下までに含まれるヨーガのチャクラは、神経構造の中の様々な中心です。それらは様々な種類の力や知識を示す様々な段階を象徴しており、至高のシャクティが位置するサハスラーラ、千の花びらを持つ蓮華に至ります。しかし、シャクティの働き全体を支える自らは、そこに位置しておらず、ハートの中心からそれを支えています。
信奉者:
では、それはシャクティの顕れと異なりますね?
マハルシ:
実際は、自らと別にシャクティの顕れは存在しません。自らがこの全てのシャクティとなっています....
ヨーギンが恍惚状態、サマーディの最高の中心に昇る時、彼が気づいていてもいなくても、その状態の彼を支えているのはハートの中の自らです。しかし、彼がハートの中で気づいているならば、彼がどのような状態にいて、どのような中心にいても、いつでも至る所に存在し、永遠で、不変であるのは、同じ真理、同じハート、唯一の自ら、聖霊であると知っています。タントラ・シャーストラは、ハートをスーリヤ・マンダラ(*3)、もしくは、太陽と呼び、サハスラーラをチャンドラ・マンダラ、もしくは、月と呼びます。それらの象徴は、二つの、アートマ・シュターナとシャクティ・シュターナの相対的重要性を表しています。
(*1)オージャス・シュターナ・・・生命力の場所、座
(*2)聖アッパル・・・17世紀のシヴァ派の詩聖ティルナーヴッカーラルの別名で、「父」を意味する。
(*3)マンダラ・・・「円」を意味するサンスクリット語。
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