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2020年4月16日木曜日

シュリー・ナーガンマとの出会い - バガヴァーンは時空を超えて働く

◇『THE MAHARSHI』、Mar/Apr 2018 Vol.28 no.2、Dennis Hartel Dr.Anil K.Sharma編著(

シュリー・ナーガンマとの出会い
1977年5月、(ニューヨークの)アルナーチャラ・アーシュラムのアルナーチャラ・バクタ・バガヴァットとデニス・ハーテルは、ボンベイを訪問中でした。シュリー・P.V.ソーマスンダラムは、ボンベイの防衛会計監査長官のシュリー・R.ヴェンカタラーマンと共に、彼らを連れてシュリー・ナーガンマを訪問しに行きました。彼女はその時、癌の治療を受けられるところに姪と共に滞在していました。彼女に会う2度目の訪問で、テープレコーダーが持ってこられ、西洋の信奉者たちのために会話が録音されました。シュリー・ナーガンマは癌に関連する痛みでひどく苦しんでいましたが、恵み深くも承諾しました。彼女は彼女の書籍から読み上げ、詩を朗読しました。その詩の中の1つは、肉体的な苦しみに耐えるために彼の力と彼の落ち着きを彼女に与えてくれるようにバガヴァーンに願い求めて、彼女が記したばかりのものでした。
    それらの会話のいくらかは、その場で英語に翻訳されました。彼女の最近の詩と録音の他の部分は、後でアーンドラ・プラデーシュ(州)のビマヴァラムのDr.リンゲーシュワラ・ラオによって翻訳されました。

 当時の彼女の置かれた状況下でナーガンマが言ったことをよりよく理解するために、私たちは彼女の2014年英語版のLetters from and Recollections of Sri Ramanasramamから第28章を以下に複写します。この章の中で、それらの訪問、そして、自分のこの世での終わりが近いと彼女に思わせた状況もまた言及されます。

第28章 忍耐(苦難、試練)

 この本の初めで、1976年2月に、私はマドラスで癌の手術を受け、その後、休息と療養のためにバンガロールとボンベイに行ったことに言及しました。その時、私は正常な健康状態を取り戻したかのように見えました。しかしながら、1977年2月、左腕の裏側に痛みが現れ、徐々に首まで広がりました。人々はたぶんリューマチ性の痛みか何かでしかないだろうと言いました。私自身は、しかしながら、疑念を抱いていました。

 私の妹の息子、バローダのインド石油化学会社の上級管理者として当時働いていた、Dr.G.R.N.シャーストリが、気分転換に彼の住まいに私を招待し、それで私はそこに行きました。1か月ほど後、痛みは大いに増し、こぶが最初の手術の場所に現れました。地元の医者たちは、私が手術後に受けたコバルト療法のためで、しばらくすると消えるかもしれないと述べましたが、それどころか、こぶは痛みとともに大きくなっていきました。そのため、私は専門家による治療のためにボンベイに戻るほか仕方ありませんでした。

 ボンベイで、癌の専門家たちに診察してもらいました。入念な検査の後、彼らは、こぶは癌性のものであると、さらなる手術については考えられないと、唯一の希望はコバルト療法にかかっているが成功は疑わしいと述べました。コバルト療法が即ちに施され、それもまたほとんど役に立たないことが分かり、中止されました。全てのアロパシーの医者たちが、その症状は回復の見込みがなく、手の施しようがないとあきらめました。その間、鎮静剤の使用にもかかわらず、責めさいなむ痛みがありました。それは1977年5月の間のことでした。

 薬による回復の望みがないため、平然と痛みに耐える力を私に与えてくださいと昼も夜も私はバガヴァーンに祈りました。私はまた詩節を書いても彼に訴えました。祈りと瞑想が私の唯一の寄る辺でした。私の力は徐々に減退し、私はほとんど寝たきりになりました。ボンベイでは私を看護するための適切な用意ができなかったため、私のいとこのG.R.サルマは、私を飛行機でバンガロールまで連れていくことに決め、実際に私のためにチケットを購入しました。

 (ラマナ)アーシュラムの会長、シュリー・T.N.ヴェンカタラーマンとその妻がそこで働いている彼らの息子に会いに偶然ボンベイにやってきたのは、その重大時でした。1977年5月14日の午後3時ごろ、彼らは、シュリー・R.ヴェンカタラーマンとその妻とともに、私を訪問しました。シュリー・R.ヴェンカタラーマンはボンベイの防衛会計監査長官であり、バガヴァーンの優れた信奉者でした。彼はホメオパシーを趣味で行っていました。彼らはみな、私が経験しているもがき苦しみにたいそう心を痛めていました。私は痛みの軽減を求めるバガヴァーンへの祈りを含んだ紙を会長に礼儀正しく手渡しました。その哀れな状況を見て、シュリー・R.ヴェンカタラーマンは、私の義理の息子のシュリー・S.R.アヴァダニを脇に連れ行き、自分がホメオパシーの治療を試せるかどうか尋ねました。アロパシーの医者たちがすでにその症状を回復の見込みはないとあきらめていたため、私たち自身がホメオパシーを試すことを考えていて、そのため、その申し出は私たちにとって天の配剤のように思われました。私たちは快くそれに承諾しました。それは私たちにとって、あたかもバガヴァーン自身がヴェンカタラーマン、彼の信奉者の1人を特別に私を治療するために送ったように思われました。ヴェンカタラーマンはその夜にも薬を調合し、彼の家は私たちの家にとても近かったため、翌朝に私たちのもとに来て、治療を始めました。それは1977年5月15日、日曜日のことでした。

 その日から、彼は日に1、2度来て、次々薬を試しました。初期の段階で痛みはかなり増し、こぶは弾けて開きました。それを好ましい兆候とみなし彼は治療を続け、ついにバガヴァーンの恩寵によって痛みは徐々に退きはじめました。その間に、パルシー教徒の信奉者が私のもとにやって来て、彼の妻は癌で亡くなったが、癌の症状に特に効果的であると報告されている薬を持つチベット人の医者がいると私に話しました。しかしながら、彼女の妻の病はその時までにあまりに進行していたため、その薬は彼女の症状には使うことはできませんでした。彼はそのチベット人の医者の特別代表がボンベイにいると、彼を私のところに連れてくると言いました。2日後、P.V.ソーマスンダラム、ニューヨークからのアルナーチャラ・バクタ・バガヴァットとカナダからの信奉者がもう1人、私に会いに来ました。同時に、チベット人の医者の特別代表も来ました。彼は私を診察し、彼の師は患者と個人的に会うことなく治療することはしないと、彼はその時チベットにいると、私がそこに行くか彼がボンベイに来るための手配をしなければならないと言いました。私は声を上げました。「チベットに行くですって!私はカイラーサ・ヤトラ(旅)に出る用意をしていて、イーシュワラの最後の呼びかけを待っているところです。私はバガヴァーンの信奉者による現在の治療に満足してます」。

 2、3日後、カナダからの信奉者、ソーマスンダラムと他の信奉者たちが来て、私は激痛に苦しんでいましたが、彼らがカナダで使うために録音するものを何か私に読んでほしいと主張しました。6月10日、痛みがかなり和らいだので、私は散歩に出かけるための十分な力を得ました。私がヴェンカタラーマンに、私はカイラーサ・ヤトラへ準備しているところだったのに、あなたは私の計画すべてを台無しにしてしまったと話したとき、彼は、私の薬が効いたので、私はあなたを代わりにアルナーチャラ・ヤトラに送り出しているところです、と涼しげに言いました。

 私はそれがバガヴァーンへの彼の厚い信仰心ゆえだったのか、それとも、彼を通じて働いているバガヴァーンの恩寵のゆえだったのか分かりませんが、こぶは次第に小さくなっていき、痛みは徐々に減りました。私は日に日に力を得て、昔のごとく自由に動き回り始めました。以前に私に会ったボンベイの信奉者たちは、断然、治癒はまさに奇跡に他ならないという意見でした。以前に私を診察したボンベイの高名な医者たちは、それをほとんど信じられませんでした。

 1977年9月まで私はボンベイに留まり、(その後)親族と一緒にヴィジャヤワーダに行き、そこに2か月ほど滞在し、私の家「ラマナ・サダナム」を引き払い、マドラスへと離れました。偶然にもシュリー・R.ヴェンカタラーマンがその時までにマドラスに転勤していて、そのため私は必要とされる薬を全て彼から受け取り、これらのスムルトゥル(記憶、上の経緯のこと)の原稿を弟のD.S.シャーストリに見せ、1977年11月27日の夜にアルナーチャラムに到着しました。翌早朝、私はアーシュラムに行き、バガヴァーンのサマーディの前で平伏しました。カイラーサ・ヤトラの準備をしているところだった者が、今やアルナーチャラ・ヤトラ中であり、今一度バガヴァーンのサマーディの前で平伏できるのは実に奇跡的なことでした。運命が大きな役割を果たしたようで、私は今一度アーシュラムに滞在するという幸運に恵まれ、アーシュラム当局の意向に従い回顧録を書いているところです。

 私が書いた原稿は信奉者の1人によって清書され、印刷の準備ができています。マカラ・サンクランティ(1月ごろに行われる祝祭)の吉日に、私のささやかな捧げ物として、私はシュリー・ラマナ・バガヴァーンの蓮華の足元に原稿を置きました。

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 こうして、1978年1月14日に、シュリー・ナーガンマはその最後の文章を締めくくりました。彼女はさらにもう2年と2か月生き、しばしばシュリー・ラマナーシュラマムに住んでいました。

 1977年5月にボンベイで行われた録音について、Dr.リンゲーシュワラ・ラオは、それを聞いた後、彼女が当日、甚だしい苦しみに耐えていたのは信じ難いと言及しました。なぜなら、彼女の声は力と幸福に満ち溢れて聞こえたからです。彼女は初めに、バガヴァーンがバガヴァッド・ギーターのある詩節についての質問に答えているReminiscences(回顧録)という題の彼女のテルグ語の本から朗読しました。その後、さらにシュリー・ナーガンマは彼女の最初のバガヴァーンへの訪問に関する私たちの質問に答えました。彼女は、「最初に私がバガヴァーンに会ったまさにその日に、私の頭上から莫大な重荷が永久に取り除かれました。私が初めて彼を見たまさにその瞬間に、私はもはや他のどこにも行く、他のどのサードゥに会う、シュリー・ラマナーシュラマム以外の他のどの聖地を訪れる必要はないことを知っていました。バガヴァーンはそれ以後、私の唯一の寄る辺でした」と言いました。

 さらに彼女はバガヴァーンのマハー・サマーディについて話しました。「バガヴァーンが亡くなったとき、私は全てのものを失ったかのように感じました。大変な空虚感が私を圧倒しましたが、徐々にひとりでに私から去りました。バガヴァーンの逝去の直後、アーシュラムには何か不安定さがあり、それで私は、私のあとに残された心を静めるために役立つだろうという希望をもって巡礼に行くことに決めました。私はカーシー、ラーメーシュワラムや他の聖地を訪れましたが、アーシュラムに戻りたいと切望しました。わたしはそこの状況が落ち着いたと聞き、それで戻りました」。

 彼女はテルグ語でいくつか詩節を書いたところで、その詩を作った理由を説明しながら話を続けました。「クリシュナ・ムールティという名前の信奉者が、誰かがバガヴァーンの痛みを自分自身に引き受ければバガヴァーンはいくらか楽になるかもしれないとバガヴァーンの病の間に私に手紙をよこしました。

 翌日、私はバガヴァーンのもとに行き、クリシュナ・ムールティの手紙を彼に読み上げ、あなたがいつもあなたに差し上げられた全ての甘味を私たちと分かち合うように、あなたは今やその痛みも平等に分かち合わなければなりませんと言い足しました。バガヴァーンはただ、「ウーム、ウーム」とだけ答えました。(注:これはほとんど何でも意味することができます。「大丈夫です」、「見てみましょう」、さらには「分かりました」の間のどこかです。彼の発言に明確な意味付けをすることは困難です。)

 シュリー・ナーガンマは続けました。「今、バガヴァーンのニルヴァーナから25年ほど後に、私も左肩に癌があります。25年の後、彼はついに私の祈りをかなえました。しかしながら、痛みは激しいものです。それで、今、私は痛みとその帰結に耐える彼の力と安らぎを私に授けてくださるよう祈っています」。

 深い感情をこめ、シュリー・ナーガンマはその詩を私たちに読み上げました。

アルナーチャラ・ラマナ!
私自身をあなたの足元に置いてこのかた
私の心は他の住まいを探さなかった。
私は決してどんな物質的獲得のためにも祈らなかった。
「恵みの授け手」よ、苦しみの中、私は今そうする。
癌は私の中に居を構え、
殺すことなく私を殺している。
私はそれが消え去ることでなく
私が勇敢に耐え忍び、委ねることを懇願する。
あなたが腫瘍に耐えた落ち着きを私に授けたまえ
私をあなたの娘にしたまえ、(それを)永遠に持つにふさわしく。
あなたが苦しむのを見るのを厭い、私は分け前を求めた。
そして今やそれは与えられ、私の力は私のもとを去った。
痛みに加え、あなたの安らぎを
私に授けたまえ、おお、主よ、「病の殺害者」よ。

 言うまでもなく、シュリー・ナーガンマの祈りは再び聞き入れられました。いえ、それ以上でした。彼女は落ち着きを授けられ、彼女の「病の殺害者」もその役割を果たしました。驚くべき治癒が続き、彼女は力を取り戻した後、数か月、ラマナーシュラマムに住むことができました。その後、バンガロールを訪問中、短期間の病の後、1980年3月31日に死すべき体を離れました。

 シュリー・ナーガンマのLetters from Sri Ramanasramamは、常に霊的文献の名著のままあるでしょう。師の中の師としてだけでなく、まことに愛すべき父、母、そして、王子と乞食にとって等しい友としても、バガヴァーンの全人格をとらえている本は他にありません。

 1980年のシュリー・ラマナーシュラマムでのナーガンマの最後の滞在の間、彼女が彼女の師であり主であるアルナーチャラ・ラマナの生誕100周年記念式典に出席したとき、ジョアンとマシュー・グリーンブラットは、彼女をしばしば訪問することによって彼女の存在を最大限生かしました。1980年6月号のMountain Pathのシュリー・ナーガンマを偲んで書かれた短い記事の中で、ジョアンは(次のように)記しました:

 「私たちは、どうやってシュリー・バガヴァーンの面前で起こった全てをそんなにも詳しく覚えているのか彼女に尋ねました。彼女は、シュリー・バガヴァーンが日課の散歩に出かけたとき、自分は講堂を離れ、メモを少し取っていたと私たちに話しました。夜、彼女は真夜中まで眠り、目覚めるとすぐ、手紙を書き始め、その少しのメモを詳しく説明したものでした。彼女はいつもシュリー・バガヴァーンが彼女のそばに座っているかのように感じました。

 「アーシュラムの皆が、彼女の存在、彼女が全く謙虚に簡素に頭を垂れてアーシュラム構内を歩いて行くのを見れないことを寂しく思うでしょう。彼女のドアはいつも信奉者たちに開かれていて、四六時中人々が行き来し、彼女の話と思い出をしきりに聞きたがったものでした。『何ごとも秘密にできないということが私の習慣になっています。聞いたことは何でも他の人に話したくなります』と彼女は言いました。

 「彼女の体の死について聞いた後、クンジュ・スワーミは一番美しく微笑み、私たちに声高に言いました。『彼女は立ち去っていません。彼女はただティルヴァンナーマライにやって来ただけです』。世界中の信奉者は、彼女が私たちに残した宝物によって(これまで)心豊かになっていて、(これからも)なり続けるでしょう。安らかな静寂の中で皆が眠る間、その深夜の寝ずの番の中で1人の女性は目を覚ましていて、そのハートの深みから記していました。彼女、シュリー・ナーガンマに、私たちはいつも感謝するでしょう」。

2018年3月5日月曜日

自動的な神聖な活動 - ただ賢者の目に留まれば、即ち、救いがある

◇「山の道(Mountain Path)」、1966年4月、p160

自動的な神聖な活動

G.V.スッブラマイヤ教授

 1937年10月31日、私の2歳の娘インディラが小児性けいれんに2回かかり、2回目は最初のものより深刻でした。突然、彼女は意識を失い、全ての生命維持に必要な器官は機能を停止し、彼女は死んだも同然のように見えました。アロパシー(≒現代医学)の医者はどうすることもできないとはっきり言い、アーユルヴェーダの治療を勧めました。老人が彼のタバコのパイプで両目の間に焼き印を押すことで、子どもは弱弱しくうめき、わずかに生活機能が再開しました。依然、彼女は回復せず、瀕死の状態で横たわっていました。あいついで二人のアーユルヴェーダの医師が呼びにやられましたが、見つかりませんでした。この危機に、シュリー・バガヴァーンの写真が目に留まり、私はひれ伏し、心の中で言いました。「おお、バガヴァーン、人の手による助けは全て失敗したため、ただあなただけが救わなければなりません」。起き上がり、私は機械的に戸棚を開け、電報の用紙を取り出し、子供へのシュリー・バガヴァーンの恩寵を懇願する急信を書きました。電報局は、電報は午後7時にアーシュラムにつくだろうと私に伝言しました。ちょうど午後7時にアーユルヴェーダの医師が二人同時に到着し、またシュリー・V.V.ナーラーヤナッパもやってきて、私の手に私宛の封筒を置き、言いました。「さあ、シュリー・バガヴァーンの子供へのプラサーダムをどうぞ」。その時、それは、私の祈りに対するシュリー・バガヴァーンの奇跡的な応答のように思われました。シュリー・ナーラーヤナッパは、それは昨年、彼が病気だった時に私が彼のために手に入れ、彼が同じ封筒の中に保存しておいたプラサーダムだと説明しました。今や、患う子供のためにそれを役立てようと彼は思いました。二人の医者は、互いに相談しながら子供を治療し、彼女が危機を脱したことを私に請け負いました。その夜、私は子供のそばで眠りながら、驚くべき夢を見ました。私はシュリー・バガヴァーンの講堂にいました。いつものように、シュリー・バガヴァーンは長椅子にもたれていました。彼の前には黒ずんだ、恐ろしい顔つきをした巨人のような背の高さの人が立っていました。シュリー・バガヴァーンは、講堂を去るよう三たび人差し指で彼に指示しました。それに応じて、その見知らぬ人は第一出入口から出ていきました。そして、シュリー・バガヴァーンは私のほうに向き、私をそばに呼び、尋ねました。「子供の具合はどうですか」。私は答えました。「バガヴァーン、あなたの恩寵によって、彼女は元気になっています」。そして、シュリー・バガヴァーンは、「彼女は大丈夫でしょう。心配いりません」と言い、その手を私の背中に置きました。彼が触れることで、私の心は躍り、そして、夢は終わりました。翌朝、私はアーシュラムから以下のような返答を受け取りました。「昨晩、午後7時にあなたの電信を受け取り、それはシュリー・バガヴァーンに閲覧されました。その子が回復せんがために、我々は彼女へのシュリー・バガヴァーンの恩恵をあなたに保証します。どうか心配なさらないように」。

 上の出来事と夢を説明している私の手紙への返答に、アーシュラム当局は記しました。「シュリー・バガヴァーンの恩寵を通じて、あなたの子供がほとんど危機的な状態から回復したことが分かり、我々はとても喜ばしく思います」。

 その後のクリスマス休暇の間に、再びアーシュラムを訪ねた時、私はシュリー・バガヴァーンに電報を読むやいなや彼が何を思ったのか尋ねました。彼はただこう言いました。「ええ、あなたの伝言を読みましたし、時計がその時、7時を打っていることにも気づきました」。

 私は再び繰り返し言いました。「バガヴァーン、あなたは子供を救うために何かしなければならないと思わなかったのでしょうか」。

 一直線に、シュリー・バガヴァーンの答えがやって来ました。「子供を救おうという思いでさえ、サンカルパ(望み)です。何のサンカルパも持たない者がジニャーニです。実際、そのような思いは不要です。あることにジニャーニの目がとまる瞬間に、それ自体が最高の善に通じる自動的な神聖な活動が始まるのです」。バガヴァーンが英語で述べた「自動的な神聖な活動(the automatic divine activity)」という語句を除き、会話は全てテルグ語でした。

(原注)『Sri Ramana Reminiscences』より、シュリーラマナーシュラマムから入手可能

2017年9月16日土曜日

元不可知論者、物理学教授、N.R.クリシュナムルティ・アイヤル氏の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

48.
N.R.クリシュナムルティ・アイヤル教授(1898-1994)は 、マドゥライのアメリカン・カレッジで33年間物理学を教えていました。1920、30、40年代、彼はアーシュラムの定期的な訪問客でした。彼はThe Essence of Ribhu Gitaを著しました。
  1914年4月、ティルパティへの途中、私の両親はヴィルーパークシャ洞窟にいるバガヴァーンに会いに行きました。他の全ての人々と共にバガヴァーンにお辞儀したとき、彼の恵み深く神聖なまなざしが私に定められました。しかし、私は他の少年たちと一緒にその場所を走り回っていたので、彼にほとんど注意を払いませんでした。帰宅した後、大きな変化が私に訪れました。その時まで、私はどの寺院にも行きたいと思ったことは一度もありませんでしたが、いわば、何か不可思議な魅力によって、私の町のティルチラパッリの岩の寺院の巨大で厳かなマトゥルブーテーシュワラ・リンガムに引っ張られるように感じました。一度、寺院の内部で、大いなる安らぎが私を圧倒しました。私が感じた喜びは形容しがたいものでした。

 1919年1月、ティルヴァンナーマライの姉の家を訪れる機会があったとき、私はスカンダーシュラムでバガヴァーンのダルシャンを得ました。この時もまた、バガヴァーンの恵み深いまなざしは私に印象付けられました。家に着き、朝食後に寝たとき、二時間以上私はしっかり意識がありましたが、同時に、私の体と周囲をまったく意識していませんでした。昼食に起き上がった後でさえ、私の周りの全てのものが夢のように感じました。私の困惑した表情を見た人々は私をからかいました。

 1923年、私の教師としての経歴の最初の年の終わりに、私は再びティルヴァンナーマライの姉を訪れ、アーシュラムに行きました。当時、私は、インドの政治的向上のために働いていたガナパティ・ムニのような人々に対してとても共感していました。私はまた、国の解放のために指一本も上げないバガヴァーンのような人々に対して怒りを感じていました。私は、その時、不可知論者でした。私は言いました-自然は自分で自分の面倒を見る。どこに創造者の必要があるのか。

 当時、アーシュラムには、母のサマーディを覆う小屋を除き、建物はありませんでした。バガヴァーンが彼の近くの犬を撫でながら、木の下のベンチに座っているのを私は目にしました。我々バラモンの間では、犬は清浄を汚す動物でした。マハルシへの私の敬意の大半は消え失せました。私は彼に尋ねました-あなたはそのように座っています。あなたの次のスティティ(状態)は何でしょうか。

 私の考えは、肉体の解消の後に生き残る魂があり、後で神に統合するという答えを彼から引き出すことでした。そうではないということを証明するために、私は彼と言葉で一戦交えたかったのです。数分経ちましたが、何の返答もやって来ませんでした。私は心の中で思いました。「この人は、都合の悪い質問に答えるのを避け、馬鹿げた無関心の沈黙の下に逃げ込んでいるのか」。ちょうどその時、バガヴァーンの声が響き渡りました。「スティティ、あなたの言うスティティとはどういう意味ですか」。

 私はその質問に備えていませんでした。私は心の中で思いました。「うわっ、この人はとても危険だ、彼は危いぐらい生き生きしてるぞ。しかるべき配慮をして答えないといけない」。私は考え始めました。もし私が彼に体について尋ねるなら、それは無益な質問だ。体は埋められるか燃やされるだろう。さあ、質問が心の状態についてであると私が言うなら、当然、彼は心を定義するよう私に尋ねるだろう。その答えは私の内に現れようとしない。私は穴にはまり込み、無力な口をきけない人のようでした。バガヴァーンの目には凄まじい輝きがあり、それは私自身の目をしっかり捕らえ続けました。私は体と世界の意識を共に失いました。それがどれほど続いたのか分かりません。我に返った後、私はマハルシがひどく恐ろしくなりました。我知らず、私は平伏し、一目散に逃亡しました。

 次の訪問のとき、アーシュラムのサルヴァーディカーリが私を昼食に招待し、私の到着の数週間前、私の父と母がアーシュラムにやって来て、バガヴァーンとアーシュラムにいる人々にビクシャーを差し上げたと私に言いました。昼食後、バガヴァーンの写真と小さな本を二冊-アルナーチャラ・ストゥーティ・パンチャカムとラマナ・ストゥーティ・パンチャカム-を彼は私にくださいました。私がこれらの贈り物をもってバガヴァーンに近づいたとき、彼は二冊の本の中の印刷ミスを万年筆で訂正し、それらを手のひらで撫で、その神聖な彼の手でもって私に返しました。

 夕食を終えた後、私はバガヴァーンの短い散歩について行き、尋ねました。
N.R.K: バガヴァーン、私はラーマ・ジャパをしています。私は「ラーマ、ラーマ、ラーマ」と唱えています。「アルナーチャラ・シヴァ、アルナーチャラ・シヴァ」と唱えることは、それより優れていませんか。 
バガヴァーン: いえ!いえ!両者は同じものです。「ラ」は「それは~である」を意味し、「マ」は「あなた」を意味します。アルナーチャラの「ア」は「それ」を意味し、「ル」は「あなた」を意味し、「ナ」は「である」を意味します。それゆえ、両方ともが「そが汝なり-あなたはそれである」を意味します。 
 あなたの心を口として使い、主ヴィシュヌのチャクラ(円盤状の武器)のように、ラーマという名前を心の中で途切れなく回転させましょう。他の誰にもあなたがジャパをしていることを知らせないようにしましょう。 
N.R.K: もし私が全ての時間をそのように使うなら、私の教職はどうなるでしょうか。私の仕事が危険にさらされるのではないでしょうか。
バガヴァーン: あなたが復唱する名前を持つ者が、その責任を完全に負うでしょう。あなたがそれについて心配する必要ありません。ラーマ・マントラを復唱し続けなさい。 (↑ Ramana Periya Puranam p318からの内容を追加し、読みやすいように対話形式にしています。 shiba注)

 アーシュラムを離れる前、サルヴァーディカーリがミーナクシ寺院の厳かな聖像、ナタラージャの写真を彼に送るよう私に頼みました。少年ラマナは、マドゥライを永久に離れる前、恍惚の涙をさめざめと流しながら、その像の前で長い時間立っていました。彼はまた、ティルチュリのラマナが生まれた家とそこの他のいくらかの場所の写真も欲しがりました。それらはスッダーナンダ・バーラティによるタミル語の伝記Sri Ramana Vijayamの中に配置されるよう意図されていました。私の生徒であり、熟練の写真家、P.R.S.マニの助けによって、その要望を満たすことに成功しました。

 1930年の終わり頃、私は寝たきりでした。痛みと苦しみがとてもひどかったもため、ただこれ以上痛みに耐えられないという理由から、私は真剣に自殺を考えていました。妻は彼女の両親に私の命が危ないと電報を打ちました。翌日、私は妻に数日以上生きられないかもしれないと告げました。

 かろうじてそれらの言葉を話した後、ティルヴァンナーマライから帰ったばかりで、偶然そこにいたシュリー・ラマナの少年時代の友人、ヴィラチ・マニ・アイヤルが、バガヴァーンのヴィブーティとクムクムのプラサードを取り出しました。彼は少量のクムクムを私の額(ひたい)に置き、ヴィブーティを私の眉の上にこすり付けました。即座に、ゾクゾクするような喜びが私の全身を震わせ、良好な健康状態の感覚で私を満たしました。私はベッドから体を起こし、妻に言いました。「とても具合がいいよ。私は死なないだろう。心配無用だ」。

 その夜のうちに、妻の両親が私のいとこのラージャゴーパル医師とともに到着しました。彼は我々をカルールの彼の家まで連れて行き、ひと月私を治療し、それまでに私は健康を完全に取り戻しました。その時、私はトリッチーで聞いた歌を思い出しました。「ジャイ・シュリー・ラマナ!我が主ラマナ、シヴァに勝利あれ!」。私の魂は同じ歌を歌っていました。

 私の66歳の父は脱腸と喘息の両方を患っていました。これらの病気は、バガヴァーンが生まれた家を手に入れるための交渉に必要だった、マドゥライとティルチュリ間の頻繁な旅のためにさらに悪化しました。取引が終わり、その不動産を3000ルピーで獲得した後、交渉に関わった他の人たちと共に父はティルヴァンナーマライに戻り、そこで彼は絞扼性脱腸に襲われました。

 その発症は突然で、深刻なものでした。彼を車でヴェールールの病院に運ぶことは可能でありませんでした。バガヴァーンの忠実な信奉者、アーシュラム住み込み医師のクップスワーミー・アイヤルは思い切って、地元の病院に手術台を即席で作りました。

 手術に取り掛かる前に、彼はバガヴァーンのもとに行き、彼に成功を祈りました。父は手術を無事に切り抜けました。それはマドゥライの専門医がその年齢と健康状態では致命的になるだろうと言っていたものでした。

 父の命が救われたことが明らかになったとき、私はバガヴァーンの前で平伏し、言いました。「この一回、バガヴァーンは奇跡をもたらし、父の命を救いました!」。バガヴァーンは不意に言葉を差しはさみ、言いました。「どうしてあなたは『一回』と言ってるのですか。どうしてあなたは『三回』と言っていないのですか」。同じような状況で父の命を救うために何年も前に彼の恩寵が求められ、手に入れられた、以前の二回の機会について、どうしてバガヴァーンが覚えていたのか、いや、むしろ、知っていたのかは、私にとって常に謎のままでしょう。

2017年8月12日土曜日

ジョン・A・チャンプニーズ (体に不自由のあるイギリス人)の思い出

◇「山の道(Mountain Path)」、1986年7月、p175~181

 どのように私はバガヴァーンのもとに来たのか

 ジョン・A・チャンプニーズ

 私はかなり変わった子供であったに違いありません。中等学校の時、私のおもちゃの一つが、水に浸かっているとき鮮やかな緑の染料を出していることに気づき、これはまさしく火星の精霊を呼び起こすためのものだと私は決めました。ある日、洗面所で、私はこの緑色の化合物を壁に塗り始め、私の信心の助けとなるように、紙をびりびり破いて火をつけました。黒煙の雲が学校の実験室から出ているのが目撃されると、消防隊が呼ばれました。異教の儀式に歓喜し、うっかり放火をはたらいている、この若い車いすに縛られた変人を目にすることは、校長にとって全く喜ばしいことではなかったはずです。

 10代後半の朝食後のある朝、母が健康雑誌を拾い読みしていたのを私は覚えています。ヨーガの長所を褒めたたえるディスプレー広告が私の注意を引きました。母にその言葉の意味をたずねると、それは体の姿勢の体系-実際、インドの体操の一種-であり、肉体的健康と長寿に資することになっていると彼女は答えました。引き続き彼女は、私の深刻な身体的障害のため、そのテーマへの私の興味は全く不適当であると言い足しました。彼女は正しく、確かにその広告は身体的幸福(健康)を大いに強調していました。

 しかしながら、私が感じていたものは「興味」とは言い難いものでした。なぜなら、何らかの理由から、ヨーガというまさにその言葉は私の胸の中に火を燃え上がらせたからです。食事を済ませることもなく、松葉づえを身に着け、よたよた歩いて外に出て、特別に改造した車まで行き、すぐに地元の貸し出し図書館まで-私自身や他の誰の好みにとってもあまりに速い速度で-運転し、ヨーガに関する本を5冊取り寄せました。

 翌週かそこらの間、私は食卓の前に座り、手を組んで親指をくるくる回しながら、本が到着するのを待っていました。この落ち着かない様子は母をいらだたせ、その訓練はボール一杯分のすりおろしたニンジンをむしゃむしゃ食べる間に逆立ちするような奇異な癖-ウサギによってはるかに効率よく行われうると彼女が正しくも主張した習慣-を身につける結果になるだけだという旨の証拠を(彼女は)提供し続けました。それよりも重要なものがヨーガにはあるはずだという立場を私は熱情的に継続し、私の身体的障害に起因する痛みや不快から解放する神秘的な螺旋や液状の恍惚状態を夢見ていました。

 ある晩、口論を終わらせんとして、父は卓越した良識でもって、その言葉が実際に何を意味しているか知るために辞書を持ち出してはどうかと提案しました。私は乗り気でこの助言に素早く従い、見出し語を見つけました : "yog'a, n. 信奉者の魂と遍在する靈との再結合をもたらすことを目的としたヒンドゥー教の哲学的瞑想および禁欲主義の体系。"

 私が得ていたかもしれない個人的勝利の利己的な感覚は、それが私に人生には確かに目的があるということを証明したという事実によって素早く縮こまりました。本が届いたとき、私は即座にむさぼり読みましたが、定義に関して「正しい」ことによる私の勝利はピュロス王のそれ(割に合わない勝利)
でした。なぜなら、それら(の本)は全てヨーガの目的がサマーディの至福であることに合意していましたが、その目的がニンジンをムシャムシャ食べることや体をもつれ合わせようとすること-重度の身体障害を持つ誰かさんには不可能なこと-なしには得られないということを規定する点においても同意見だったからです。

 絶望の時期に、私のヨーガへの情熱が身体的健康の強調によってどのように挫(くじ)かれつつあるのか図書館長に話し、精神的および靈的な道のりの輪郭を示す何か読むべきもの-端的に言えば、ハンディキャップのある人を分け隔てすることのない実現の方法-を私のために探してもらえるか彼女に尋ねました。彼女は自分が調べられるものは調べましょうと約束し、驚くほど短期間の内に、私への本が到着したという伝言が私の家に伝えられました。

 私はオースチン・ミニに乗って図書館へと馳せ参じ、図書館員は私にアーサー・オズボーンによるRamana Maharshi and the Path of Self-Knowledgeを差し出しました。習慣どおり、私は素早く遊び紙を探し、読みました-「知恵と理解のヨーガ(の修練)は・・・・煩雑な運動や無理して体をもつれさせる必要は・・・・ありません』。それはあたかも私の内部に閉じ込められた蝶が今まさに解き放たれたかのようでした!

 私は本を読みながら、私の魂の前庭で気分を浮き立たせる恋愛関係が展開されつつあるような感覚を覚えました。私の注意はアルナーチャラに釘づけにされ、奇妙にも本のページ自体がティルヴァンナーマライの香り、色、雰囲気を放っていました。別世界の使命に乗り出すためにティルチュリという村を離れた若者について読みました。私をまっすぐに見通し、私をのぞき込み、私をからかい、私と戯れる、この非常に美しい少年の写真を見つめながら、私の心臓が鋭い音をたてるように感じました。そして、私が年を取った年配の男性としてのマハルシの写真を熟視したとき、彼の慈悲が私の悪癖と弱点を理解し、一瞥でそれらを覆い隠したことを私は知りました。その後、その顔は私の全存在に浸透し、バガヴァーンは私の心を溶かしました。

 「マハーサマーディ」の章を読むや否や、両親が気付くといけないから、私は涙が顔から流れ落ちないようにしなければいけませんでしたが、両目をうるませないようにすることはできず、その抑圧の試みのせいでまぶたの背後がチクチク痛むのは、無数の針や星で刺されるようでした。

 その本の総合的な影響は、呆然とした方向感覚の喪失のそれでした。なぜなら、私の家庭生活なる小さな宇宙は、今やあまり重要でないように思えたからです-事実、それはほとんど重要でないように思えました。肝心であったのは、この信頼できる(credible)人-ラマナ・マハルシ-が、ニルヴァーナ、すなわち、自らの実現という信じがたい(incredible)境地を達成したこと、ごく最近まで我々の間で生活していたことでした。

 その頃、私は鮮明な夢を見ました。夢の中、砂砂漠で、私はバガヴァーンを前にして足を組んで座っていました。その後、私の自我が身体的に完全な体を帯びたことに気づきましたが、ほとんど全ての夢で私のスクシューマ・シャーリアは目覚めている時の体と同様にハンディキャップがあるように見えました。いつものように、バガヴァーンは沈黙していましたが、あまりにも輝きを放っていたために空気そのものが黄金のオーラをまとっていました。3人目の男が私の右に足を組んで座っており、しばらく後、彼は口を開き、バガヴァーンに質問しましたが、バガヴァーンは返答を差し控えました。数分経過後、その男は再び質問し、今回はその声に切迫した様子がありました。そのうちにバガヴァーンの唇から返答が発されましたが、彼はとても静かに話したので、彼が言っていたことを私は聞き取れませんでした。その男は文句を言い始め、まもなく彼の話し方は口汚くなりました。次の瞬間、彼はバガヴァーンから顔をそむけ、あまりに不機嫌に立ち去ったために彼の足は土煙と砂ぼこりを蹴り上げました。土の一部が私にかかりましたが、その大部分はバガヴァーンにかかり、彼は顔を私の方向に向け、静かではあるがとても強調して言いました。「あなたの怒りよりも、むしろ、あなたの愛をもらいたいですね」。

 私の即座の反応は驚愕のそれでした。「私はあなたに対して怒ったことは決してありません。あなたを罵ったのは別の人です-私でありません!」と言おうと試みましたが、その言葉は喉から出てこようとせず、この息の詰まる感覚は夢が消えつつ、終わりつつあることを意味するのを私は知っていました。私はまた知っていました-虚構の存在なる、この(夢の)世界の崩壊が、私の無言の訴えへの答えは私自身で解かなければならないであろう何かであることを意味することを。

 この夢は私にティルヴァンナーマライのラマナーシュラマムに手紙を書かせました。自由にコミュニティーに滞在してよいということを手紙でガネーサンから聞いたとき、私の熱意は高まり、インドに行こうとする私の決意は増しました。しかしながら、私はアーシュラムに私の身体的障害を知らせることを怠っており、私の家族は、公正を期してそれについて絶対伝えるべきだと指摘しました。それで私は再びガネーシュに手紙を書き、彼に完全に状況を説明しました。しかし、私の心が私が得るかもしれない返答への悪い予感で一杯であったことを認めざるをえません。しばらくして、手紙がインドから舞い戻ってきました。それは私が恐れていた答えを含んでいました。それは極めて思いやり深い手紙でしたが、私が意図した旅行を思いとどまらせようとしていました。シュリー・バガヴァーンの恩寵は時間と空間を超越すること、彼の愛には際限がないこと、そして、彼のサニッディ、彼の存在の直接的な体験を得るためには、ただ彼について瞑想し、考しなければならないだけであるとそれは指摘していました。もちろん、アーシュラム当局は全くもって正しかったのです。シュリー・バガヴァーンは、ティルヴァンナーマライにその身で旅することができない人々にとって恵み深さそのものです。実際、時折、彼はそこに行くことができない人々によりいっそう恵み深くさえあると大胆にも付け加えさせていただきたいと思います。しかし、遠い昔である1970年に、二十(はたち)の未熟な若者として、私はそのように見ることはできませんでした。なぜなら、夢にバガヴァーンが現れたことは、まい進し、付き添いなしで旅をする力を私に与えたからです。しかし、これは行うには非常に愚かなことであったかもしれないことを今や私は分かっています。

 私は何が起ころうとも到着する予定であることをアーシュラムに知らせ、ルシア・オズボーン夫人がアーシュラム近くの彼女の家で私の世話をすることを親切にも了承しました。それは、(夫の)アーサー(・オズボーン)が亡くなったばかりであることを考慮すれば、彼女の側の極めて思いやりのある行為でした。

 ティルヴァンナーマライへの旅は行われ、それはとても美しく、興味深いものでしたが、私は根本的な間違いをしていました。若いヴェンカタラーマンが、一気に自らの実現を得た後、16の年でアルナーチャラヘ赴いたために、同じことが私にも起こるだろうと私は自然に思い込んでいました。私はアーサーの本に深く心動かされていて、バガヴァーンは夢の中で私のもとに現れました。今やただ一つのことだけが残っていました-私はティルヴァンナーマライに行き、私と車いすが旧講堂に入る手助けを誰かがしてくれます。次に、私は瞑想し、ラマナの顔つきを見るとすぐに彼はしかるべく私を手ほどきし、その後、私に完全な自らの実現が与えられ、ニルヴァーナの至福に浸ります。おしまい、おしまい。

 しかしながら、私は確かにアルナーチャラに行き、彼らは確かに旧講堂に(そこのかなりやっかいな踏み段にもかかわらず)私を入れてくれましたが、バガヴァーンは私に手ほどきせず、やすやすと実現を私に手渡しもしませんでした。私は希少疾患に苦しんでいるときに、専門家に会うために地球を半周旅する患者のように感じました-あいにく彼がついに待合室に入ると、医者はほんの少しもその症例に関心をがないようなのです。

 私はティルヴァンナーマライを愛していましたが、バガヴァーンからサークシャートカーラムを得なかったために、憂鬱の波が私を圧倒したものでした。実際、最も優れた靈的体験は、イングランドの頃にあったのです。

 後に私が発見したのは、実のところ、バガヴァーンはその専門の医者であり、悪い時は彼がその気遣いを引っ込めたことを意味しないということです。患者が治療のために医者に行くとき、彼はその患者に多大な痛み苦しみを引き起こす養生法を課すかもしれません。しかし、彼がその苦しみ、苦悩を負わせるとき、彼は患者自身のためにそれを行っています。なぜなら、長い目で見れば、それが最良の治療形態であり、最後にはそれが患者を元気にするであろうことを彼は知っているからです。

 私が1970年にインドを離れたとき、私は「正しく理解していなかったのだ」と感じていました。そして、自らの実現は最もシンプルなものではあるが、達成するのは最も難しいものであることも私はもう分かっていました。私は大学での生活を始めました。そして、バガヴァーンの教えは自我を小さくすることを目指していますが、大学の授業がそれを大きくすることを直接的に推奨していることに気づき、幾分ぞっとしました。他の自我とのあまり穏やかでない口論と論争の技術のために、それは手入れされ、水を与えられ、耕され、愛情深く整えられました。バガヴァーンの恵み深い写真は私の部屋に留まっていました。学生たちの意見は時に思いやりのあるものでしたが、残念ながら大抵、彼らは私の深く根付いた信念をからかい、それを原始的と呼びました。挙句の果てに、母が病気になり始めました。

 卒業すると、ぱちんこで放たれた石のように私は家から放り出されました。私は仕事と生活する場所を見つけなければなりませんでした。運命がこのように重度障害のある人を扱うとき、人生はとても、とても厳しいものですが、最も辛く、最も悲しいことは、私がバガヴァーンを手放したことでした。

 三年の「独立した生活」の後、一本の濡れたひものように私はかみ砕かれ、吐き出されているように感じていました。76年の秋、母が自殺し、私は自動車事故で足を骨折しました。全ては三日の間の内でした。それから回復した後、私はケンブリッジ大学出版局で専門の校正係として働きました。しかしながら、障害に加えての2年間のこの常勤の仕事と一人での生活は、私の健康を損ない始めました。私はきちんと食事をとれず、骸骨のように見え始めました。

 1979年のある日、私はある男に会い、彼は私が一人で悪戦苦闘しているのを見たくないと言い、私の面倒を見ることができないか私に尋ねました。彼が私と同居するようになり、私の物理的な負担を手助けしてくれた、その日から、私の健康は改善し始めました。

 そのデイビッドは強硬な無神論者であり、辛辣な反キリスト主義者であり、そのため控えめに言って我々はいつも見解が一致するわけではなかったと言わなければなりません。しかし、あなた自身の家をはじめに整頓せよ、というバガヴァーンの言明に私が従っていたなら、物事は我々両者にとってずっと良いものになっていたでしょう。

 1984年2月の終わりごろのある日、私は落胆の真っただ中に陥って、デイヴィッドが食料雑貨類をもって帰ってくるのを待ちながら、ケンブリッジのミル・ロードで車の中に座っていました。私は彼が入った店を見上げると、ARJUNA WHOLEFOODSという言葉を読みました。そして、霧に包まれた歳月と絶望の瘴気を通じて、私は次の言葉を聞きました。「ヨーガの目的、クリシュナがいる時はいつでも、弓に熟達するアルジュナがいる時はいつでも、美が、勝利が、喜びが、全ての正義がある」(第18章78節)。そして、私は主クリシュナが私に命綱を投げているのを感じました。我々が家に帰ると、飢えた犬が食べ物に覆いかぶさるように、私はギーターに覆いかぶさりました。そして、(全)18章が終ったとき、私は声をあげて泣きました。私はバガヴァーンについて改めて読みたいと思いましたが、アーシュラムの本を開くことさえできませんでした。なぜなら、私はバガヴァーンを手放していて、彼が私に対して怒り、非難していると思っていたからです。もちろん、当時、私はバガヴァーンとクリシュナの間に本質的な違いがないことを理解していませんでした。

 ついに、私は勇気を奮い起こし、Ramana Maharshi and the Path of Self-Knowledgeを開き、それを再度読むにつれ、同じ喜びと涙が私の存在に押し寄せ、同じ切望が、過ぎ去りし日々に私の魂を包んでいた、かのまったく同じ熱情が私を圧倒しました。私は全てのアーシュラムの本を読み、それらを徹底的に吟味し、守銭奴がその金銭を守るようにそれらを守りました。

 私のサーダナの最初、バガヴァーンがなかなか私に体験を与えなかったとすれば、彼は今その埋め合わせをしていました。たびたび、私は彼の美しい存在と一つでいたいと切望しました。しかし、私のサーダナは方向性を欠き、全く率直に言って、瞑想は相変わらず困難でした。

 1984年6月12日の夕方、強情で手に負えない心と一日中戦い、疲れ切って、ベッドに横たわっていました。その後、一瞬、焼けつくような不協和音が私の頭の中を荒れ狂っていましたが、次の瞬間には、全てのものが完璧に穏やかに落ち着きました。

 この静寂の深みから、私は歌を聞きました。とても美しい歌であり、それは私の心を鷲掴みにし、私に泣きたいと、それと同時に、笑いたいと思わせました。私は音量を上げるためにラジオのほうを見ましたが、ラジオはスイッチが切れていました。しかし今や、音量を上げる必要はありませんでした。なぜなら、壁自体が歌い始めたからです。私は開いているフランス窓に視線を向け、あたかも夜気が、星々が呼んだかように、耳を傾けました。

オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム
オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム・シヴァ ア-ウ-ム
オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム

 私にとって、この恍惚の踊りに加わらないことは、火に燃えないように頼むようなものだったでしょう。そして、ナタラージャとしてバガヴァーンが長年待ち焦がれていた手ほどきを私に与えたとき、喜びと驚嘆と共に、私は魂を歌に合わせ、その存在にうち震えました。私は歌を歌って私自身を寝かしつけ、翌朝、バガヴァーンの前で十字を切り、心の中で彼にそのマントラを伝えました。私は真夜中の恋人を得たばかりの恥ずかしがりやの少女のように感じました。この気恥ずかしさの感情は本当に馬鹿げたものでした。なぜなら、これはシュリー・バガヴァーンが私に授けたギートーパデーシャ、教えの歌だったからです。私はとても値しないと感じ、感謝の念から、私のサーダナの助けになるようにノート、the Diary of a Devoteeをつけ始めました。

 私はシュリー・バガヴァーンが人々を確かに助けることを示したいと思いましたが、私とは違い、彼はとても辛抱強く、その人が必要とし、それを受け取る用意があるときにのみ助けます。そしてまた、バガヴァーンからの手ほどきや直接的な手助けは、人生の全ての問題が終わりを迎えることを意味しないということを私は理解しました。事実、サーダカの人生は、しばしば、困難で汚されています。かつて、ある人が冗談交じりに、「SRI RAMANA MAHARSHI」は「I AM A HARSH MAN, SIRRA!(君よ、私は厳しい人である!)」のアナグラムであると私に指摘し、冗談の中に多くの真実があると私は答えました。実に、シュリー・バガヴァーンがその子供たちを真っすぐな狭い道へと導き、彼らに良いことだけでなく悪いことも受け入れるように教えるとき、彼はとても厳しくなりえます。けれども、仮に我々が時に人生について不平を言わないならば、我々は人間ではないでしょう。それゆえ、間違いなくサーダカではないでしょう。

 1985年の秋、私の世話をする私の忠実な付添人であり仲間のデイヴィッドを連れて、ティルヴァンナーマライに再び旅しました。彼はアーシュラムでの生活をこれっぽっちも楽しみにしていませんでした。私は彼の見解を理解し、彼が私の身体的要求を手助けするために、そして、それが世界で何よりも私がしてほしいことであると彼が知っているために私に付き添っていることをよく分かっていました。

 滞在二日目の夜、数分間の黙とうのために、彼は私を新講堂に押し上げました。私がじっと見ていたとき、彼がバガヴァーンの肖像画を見上げているのを目にしました。その時、驚いたことに、彼の目から涙が流れ出ていることに私は気づきました。そして、その後、驚きは驚嘆へと変わりました。デイヴィッドが、無神論者で反キリスト主義のデイヴィッドが、無意識的な服従の行為として前のめりに倒れたのです!人々の心を盗み、搾り上げる方を見て、私もまた泣いていることに気づきました。

 ガネーシュが北インドの旅から戻った時、15年の長い別離の後、我々は両手を広げて相会い、大いに心喜ばせて思い出を語り、いつものように師について話しました。

 デイヴィッドと私はアーシュラム向かいの訪問客用の立派な住居に宿泊し、食堂で食事をとることは我々にとって大きな喜びでした。我々の胃は体質的にやや弱く、我々に面倒をかけていましたが、ティルヴァンナーマライにいて、バガヴァーンのプラサードであるアーシュラムの食べ物をとっている間、我々が病気に苦しまなかったのは奇妙なことです。アーシュラムのスタッフは親切そのものであり、我々が欲しいものがあれば何でも、ただ頼みさえすればよく、我々の頼みは聞き入れられました。

 私が経験したThe Mountain Pathの編集長、シュリー・V・ガネーサンとの愛の絆は、親愛の情の響きを私の存在の核心の内にとても深く触れさせたため、折に触れ、私である(I AM)万物のまさにその本質が、一言も話さずに踊るアルナーチャラの喜びに打ち震え、共鳴しました。どうして彼がそんなにも私に親切だったのか私は理解できませんでしたし、依然、私はそれを理解できていません。そんな具合に、バガヴァーンへの私の愛は毎分ごとに増していますが、依然、私が彼を理解していないことを私はまた分かっています。どうして私に(理解)できるでしょうか。なぜなら、理解することは、対象化すること、測ること、制限することであるからです。ティーカップの中にある水が大海の広大さを測ることを一体どうして望めるでしょうか。

 私が知る全ては、私の中には邪悪なものがいまだ多くあり、私は悪いこと行いますが、何かの理由でバガヴァーンは今や私を愛したいと決意したということです。このサーダナのようなものによって、彼は私の人生を裏返し、上下逆さまにし、前後逆にしました。彼は私の心を拾い上げ、あたかも濡れたスポンジのように、それから涙を絞り出しました。しかし、涙と信愛を通じて、全世界の物質的盛衰を超越し、包摂する、全く異なった完全に澄み切った現実を私は垣間見ました。人生が進むにつれ、私は目を瞑(つむ)り、決定をますますバガヴァーンに任せています。なぜなら、彼は私のグルであり、私が称賛する方、私が非難する方、私の苦しみであり喜び、私のプルショーッタマ、私を助けるのに最もふさわしい人であるからです。
 

2017年6月25日日曜日

バガヴァーンの甥の息子、ガネーサンによる回顧録② - 崇高なるラマナ

◇「山の道(Mountain Path)」、1985年7月、p165~169、Moment Remembered

 崇高なるラマナ

 V.ガネーサン

我々の師にまつわる逸話をもう一回分書き留めることができ、うれしく思います

 十代のころ、大学で学んでいたとき、私はしょっちゅうマドゥライに行かなければなりませんでした。私はN.R.クリシュナムルティ・アイヤル教授の家に滞在したものでした。常に活発に大学の仕事をしていましたが、彼が完全にシュリー・バガヴァーンへの思いに夢中であることに私は気づきました。事実、バガヴァーンの級友であった彼の父、N.S.ランガナータ・アイヤルが存命時、父も息子も夜更けまでバガヴァーンとその栄光について大声で話していたものでした!

 今や、シュリー・N.R.クリシュナムルティ・アイヤルは老境に入り、公認会計士であり、シュリー・バガヴァーンの忠実な信奉者である次男のシュリー・K.V.ラマナンと共に、ティルヴァンナーマライ自体に滞在しています。彼が奥さんと共にアーシュラムのゲストハウスにひと月過ごしに来たことで、我々みなは大いに喜びました。彼の滞在中、私は彼とより親密な交際をする機会を得ました。彼の本、Essence of Ribhu Gitaはバガヴァーンの命日、4月17日に発売されました。

 彼とのそのような喜ばしい会合の一つの間に、私は彼に特別な質問をしました。「バガヴァーンはあなたに何を教えましたか」。N.R.クリシュナムルティ・アイヤル教授は記します:

 「私はシュリー・バガヴァーンの個人的な習慣を観察し、彼の例に倣おうと試みました。バガヴァーンの日常生活の中で気づかされることは、

   ①身ぎれいさ、衣服が整っていること、額にヴィブーティとクムクムを習慣的につけること
   ②周りの人々と全ての楽しみを分かち合うこと
   ③タイム・スケジュールの厳格な遵守
   ④それがどれほど『低く』ても、役立つ仕事を行うこと
   ⑤いったん手に取った仕事を決してやり残したままにしないこと
   ⑥あらゆる行為に完璧を追求すること
   ⑦時間・モノ・お金の厳しい節約
   ⑧寝ている間やひとしきりの重労働の後の休息を除いた絶え間ない活動
   ⑨自分自身を他者より優れていると決してみなさないこと
   ⑩常に真実を話すこと、もしくは
     真実を表すことが他者の評判を傷つけたり、下げたりするなら、固く沈黙を守ること
   ⑪完全な自助自分自身でできる仕事を別の人にするよう決して頼まないこと
   ⑫もし(責任が)あれば、他者に責任転嫁せず、失敗の全責任を負うこと
   ⑬成功と失敗を平静に受け取ること
   ⑭他者の平安を決して妨げないこと
   ⑮食事を食べた後、葉っぱやお皿をきれいにしておくこと
   ⑯他者のことにまったく口出ししないこと
   ⑰将来についての心配を避けること

 これらはシュリー・ラマナが模範を示してその信奉者たちに教えた教訓です。体と心と魂のありったけの力で、我々はマハルシの例に倣おうと試みるべきです。

 魂の領域でマハルシが教えたことについて言葉は役に立たないので、私はあえて記しません。」

* * * *

 バガヴァーンはウパデーシャ・サーラムを四つの言語で記しています。テルグ語とサンスクリット語版は二行連句であり、タミル語は三行詩ですが、マラヤーラム語は四行詩です。ムルガナールでさえ、ウパデーシャ・サーラムの特定の詩節について疑問があるなら、拡大マラヤーラム語版を参照したものでした。マラヤーラム語版にはクンジュ・スワーミーが以下に指摘するように、別の特徴があります。

 「靈的な書物にはたいてい最後にパラスルティがあり、その書物を読むことによって生じるであろう利益を記述しています。ダクシナムールティ・ストートラのように、バガヴァーンはそのようなパラスルティをサンスクリット語原文からタミル語に翻訳しましたが、彼のどの作品にもパラスルティを与えることを避けています。しかし、マラヤーラム語のウパデーシャ・サーラムの中で、彼はパラスルティのつもりで30詩節の後に2詩節を付け足しました。バガヴァーンがそれらの詩節を付け加えたのは、マラヤーリ人の信奉者、バーラクリシュナ・スワーミーの求めに応じたものでした。

 私が講堂に入ったとき、バガヴァーンは私にそれらを見せました。そこには、『さあクンミを行い、手を叩こう。おお、娘たちよ!』というリフレインがありました。私はクンミは女性たちのためだけなのですかと発言しました。バガヴァーンは黙っていました。次の日、ムルガナールが講堂に入ったとき、バガヴァーンは彼に言いました。『彼が異議を唱えたので、私は<娘たち>という言葉を<信奉者たち>に変えました』。そのあと、私のほうを向き、彼は言いました。『さあ満足しましたか』。マラヤーラム語のウパデーシャ・サーラムは各詩節を『さあクンミを行い、手を叩こう。おお、信奉者たちよ』というリフレインで締めくくっています。バガヴァーンは恩寵の大海でした!」

 マラヤーラム語のパラスルティ:(省略)

 さあこれがK.K.ナンビアールによる上の英訳です。

 「(自らなる住まいに)十分に打ち立てられ、手を叩きながらクンミを踊り、このウパデーシャ・サーラムを喜びあふれて歌え。一切の苦しみからの自由と永遠の至福が得られるだろう。これについて疑いは存在しない。」

 「おお、信奉者たちよ!あなたを害することなく苦しみが完全に去るように、至福が得られるように、あなたがみな、このウパデーシャ・サーラムと共に手を叩き、クンミを踊れ」

* * * *

 ロダ・マッキーヴァ夫人は、奇妙ではあるが感動的な出来事を私に語りました。「バガヴァーンの最後の日々において、彼の健康を心配し、信奉者たちはあらゆる類の薬をバガヴァーンに送ったものでした。それらは戸棚に注意深く保管されていました。ある日、彼は大きなガラス製のジャーを求め、全ての小さい瓶をジャーに移し、よく混ぜるように命じました。彼は朝と晩にスプーンひと匙とると知らせました。薬のいくつかはかなり毒性が強かったため、我々は心配していました。『人々は私への愛情からこれらの薬を私に送ります。彼らを喜ばせるために私はそれら全てを取らなければなりません!』とバガヴァーンは主張しました。医者がやって来て、彼も怖がりました。その混合物は異様なものでした-アロパシー、アーユルヴェーダ、ホメオパシー、ハーブ、生化学物質、灰、粉末、毒物の-死に至る調合!バガヴァーンは頑として譲りませんでした。しかし、我々が自身のルールに訴え、我々一人ひとりにひと匙を要求したとき、彼は心やわらぎ、その飲み物を飲むという考えをあきらめました!」。

* * * *

 シュリー・クンジュ・スワーミーは以下の興味深い逸話を語りました。

 「バガヴァーンの存命時、真剣な探求者たち-B.V.ナラシンハ・スワーミー、ポール・ブラントン、ヨーギ・ラーミア、ムルガナール、ムナーガラ・ヴェンカタラーマイアー、S.S.コーエンなど-は隣接するパラコーットゥに滞在ました。かつてドイツ人がそこに滞在していて、精力的にサーダナを行っていました。彼はバガヴァーンのパラコーットゥでの昼の散歩の間に彼に会うことに熱心でした。旧講堂の外で、様々な機会にバガヴァーンが何人かの探求者に個人的な指導と実際的な援助をよくしていたことは多くの人には知られていません。この真剣なドイツ人は彼らの中の一人でした」。

 このようにして、クンジュ・スワーミーはどのようにバガヴァーンが彼を手助けしたのか知ることになりました。「ある日、郵便配達人がドイツ人のコテージの鉄製の扉をドンドン叩いていました。隣接した小屋に住む我々全員の邪魔になるには十分な騒音を長い時間たてていました。我々は郵便配達人に加わり、扉をたたき、ついにバガヴァーンがパラコーットゥ周辺のお昼の散歩をする時間となりました。バガヴァーンはどうして我々全員がドイツ人のコテージの入り口にいるのか尋ねました。ドイツ人に電報(海底電信)があり、彼にこの大音量を聞かせることに成功できていないことを彼に知らせました。バガヴァーンは笑い、言いました。『私が犯人です!彼は長く深い瞑想に入りたがっていて、周りの騒音が彼を邪魔しているとかつて私に不満を言いました。私は蜜蝋を手に入れ、それを綿と混ぜ合わせ、彼への耳栓を作りました。それは完全防音です!』 彼がバガヴァーンと会う時間になり、ドイツ人は耳栓を外しながら出て来ました。当然ながら、彼はバガヴァーンと共に彼のコテージにいる群衆を見て驚きました!

 それ以来、我々もまたそのような蜜蝋製の耳栓を作り、真剣な信奉者たちはこれが邪魔されずに瞑想をする大きな助けになると分かりました!」

* * * *

 偉大なヴィーナ奏者、カーメーシュワリ・アンマルという音楽界で人気のある女性がいます。彼女は音楽をサーダナとして修練し、アーシュラムに来た時はいつもバガヴァーンの前で演奏したものでした。ある日、講堂の全ての人を感動させる、とても素晴らしい演奏会を開いた後、彼女は尋ねました。「バガヴァーン!これは自らの実現の手段として役立ちますか」。バガヴァーンは沈黙を守りました。しばらく後、彼女は言いました。「トゥヤーガラージャ聖者などは音楽を通じて神を得ていませんか。私も彼らに倣うべきではないのでしょうか。彼ら皆が得たように、私も究極の目的を得ないのでしょうか」。バガヴァーンは一呼吸おいてから、テルグ語で言いました。「彼らは実現の後、偉大な音楽を作りました。彼らは音楽を通じてそれを得ていません!そのために、その音楽は永遠の命を得ているのです」。

* * * *

 これは引退した副登記官、R.ナーラヤナ・アイヤルがかつて私に話したことです。「シュリー・バガヴァーンの肉体的苦痛に対する反応はいつも私にとって謎めいたものでした。(バガヴァーンの古参の付添人から知らされたのですが)彼がかつて煮え立ったおかゆ(カンジ)をそのお尻にこぼし、しばらく後になって初めてバガヴァーンはそれに気づいたということは本当だったのか私は彼に尋ねました。シュリー・バガヴァーンはその出来事を次のように語りました。

 『私は米が茹でられていた容器からカンジを漉し取っていたのです!私は床の上に座っていました。煮え立ったカンジは床の上の小さめの容器に集められる予定でしたが、私は誰かと話していて、知らないうちにカンジが容器の中でなく、床の上に落ちました。床は私のほうに傾斜していたので、それは私のお尻の下にたどり着きました。それが冷えた後ではじめて、私はそれに気づきました。もちろん、水ぶくれになり、Zam Buk(軟膏)が後で塗られました。気づいた後、確かに痛みがありました。でも、だから何ですか』。
 
 自らの実現至福は、おそらく、その他の経験をかき消してしまうのでしょう!」。

* * * *

 バガヴァーン存命時のアーシュラム公認の写真家、T.N.クリシュナスワーミ医師は、素晴らしい信奉者でした。彼がバガヴァーンを撮った数千枚の写真は一枚残らずバガヴァーンの許可を得てのみ撮られたものですが、一枚だけはの許可なく-要するに、こっそりと-撮られたものだったと彼はかつて私に話しました。それは彼の蓮華の御足の写真でした。彼は付添人に花をいくつかの足元に置くよう頼み、あたかもの前で平伏するかのように、カメラをとても上手に配置したので、彼はいい写真を撮ることができました。なんという神聖な遺産をT.N.Kは我々みなに残したのでしょうか!

 我々の会話の一つの中で、彼は言いました。

 「マドラスでの忙しい生活のために、ティルヴァンナーマライに行ったとき、たいてい私はそこで一日だけか一日の一部しか過ごせませんでした。私はいつもカメラを持っていき、マハルシとずっと一緒に過ごし、できるだけ多くの彼の写真を撮りました。が私のしつこさを迷惑がることを私は心配しましたが、は決して迷惑がりませんでした。私はが歩き、座り、食べ、足を拭くところを写真に収めました。私はが微笑み、笑い、話し、沈黙している、そして、サマーディにいるところを捕らえました。かつてが山を登っていると雨が降り出し、は手作りのヤシの葉の傘を勧められ、私はそれを使っているを撮影しました。私は普通の傘を使い、そうしながら満面に笑みを浮かべたの別の写真を撮りました。


 「時々、の教えが『私は体ではない』であるのに、写真にそんなにも注意を払うことは馬鹿げていはしないか思ったものでした。私は影を追っていたのではないか、それを永続させようとさえしていたのではないか。当時、私はの教えにほんのわずかしか注意を払っていませんでした。私はただの人格の美しさと恩寵にだけ魅了されていました。を写真に収めることは計り知れない喜びを私に与えました。の教えよりも重要でした。

 「後に、がもはや肉体的には我々と共にいない時、私はの教えに向かいました。その時、彼の存在恩寵がそれに向けて私を準備していたことに私は気づきました。子供が母親に引き付けられるように、わけも知らずに、私はに引き付けられていました。そして、子供が母親から得るように、私はから栄養を得ていました。それ以後、が肉体的に我々と共にいるときに、彼の存在を十全に享受していたことを私はうれしく思いました!」

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 「クンバコーナムのアイアンガー・スワーミー」の方でよく知られている、シュリー・ランガスワーミ・アイアンガーは、バガヴァーンのとても忠実な信奉者でした。彼の信愛はとても熱烈なものであったため、彼は師の名、「ラマナ」を口にしようとしませんでした。ラマナ・ストゥーティ・パンチャカムのような賛歌を朗誦しているときでさえ、「ラマナ」という言葉が現れたときはいつでも彼はその言葉について沈黙を守りましたが、残りの詩節を流ちょうに続けました。例えば、アクシャラマナマーライの90詩節では、「あなたが『ラマナ』であるので、私はこの全てを言いました」を「あなたが・・・・であるので、私はこの全てを言いました」と彼は言ったものでした。サット・グル・ラマナへの熱烈なバクティを知り、彼の周りの人々さえ彼の近くでは「ラマナ」という言葉を口にしませんでした!かつて、旧講堂で、とても有名な人がうかつにもバガヴァーンに「ラマナ」と呼びかけました。アイアンガー・スワーミーは自然と彼の頬をピシャリと叩きました!後に、アイアンガー・スワーミーのエーカ・バクティについて知るようになると、腹を立てるのでなく、この紳士はアイアンガー・スワーミーを心から賞賛しました!