2014年7月31日木曜日

空性(スンニャター) - スワバーヴァ・スンニャとプラパンチャ・スンニャ

◇「山の道(Mountain Path)」、1988年7月 p160~161

スンニャと知恵

G.ナーラーヤン

 教育と科学において、人は頻繁に開かれた心の必要性について話します。新たな資料を受け取り、新たな状況を観察し、提供された証拠を比較考量し、それに応じて態度や見解を変えるためには、見解や先入観にとらわれないでいる必要があります。開かれた心は、その見方において論理的である上に理性的です。これは、科学と人文学の両方において、学び、発見するための重要な取り組み方です。

 知識は、必要であり、役立ちますが、いつも限界があります。誰も何についてであれ完全な知識を持ちません。ある程度の知識はありますが、それと共に、無知の影があります。我々は、人間や動物や植物であれ、何であれ生きているものを知識を通じて完全に理解することはできません。ですから、人は過去の知識と経験の重圧なく、新たに見ることを習わなければなりません。空っぽの心とは、無選択の自覚を通じて、それ自体をこの条件付けから解放しています。良い音色の空っぽの太鼓のように、それは傾聴するために見事に調律されていて、正しい調べと音を出します。傾聴において、解放があり、それから正しい行動が現れます。空っぽの心はそれ自体を新たになものにするため、それは若く、爆発的に現在に変じることができます。

 「私は誰か」という永遠の問いかけがあります。私は記憶や希望や恐れのかたまりである。私はいくらかの知識と経験を得た。あなたがさらに調べると、家の中央の梁(はり)のように「私」という思いがあります。経験、知識、記憶は、この「私」という思いに関係しています。それでは、「私」という思いとは何でしょうか。あなたがそれを調べれば調べるほど、それは無の領域にいっそう後退します。それは実体ではなく、架空の過程です。

 禅仏教に興味深い話があります。ある裕福な商人は、ある禅師の弟子です。彼の心は混乱し、落ち着きなく感じます。彼は動揺し、この問題を解決できません。それで、彼は禅師のもとへ行き、報告します。「私の心は混乱しています。どうぞ私に安らぎをお与えください」。禅師は答えます。「あなたの心を出して見せなさい。そうすれば、私がそれに安らぎを与えましょう」。弟子が自分の心を注視すると、心は彼の支配から逃れ、無の領域に後退します。心という過程は消え、突然の悟りと安らぎがあります。それは言葉で捉えることのできない実存的跳躍です。

 ラマナ・マハルシのような真理を悟った聖者は、この死の体験を経て、自我を超越し、「私は体でも、心でもなく、不死なる精神である」と宣言しました。これは知識や学識の成果ではなく、ましてや知的分析の結果でもありません。そのような洞察は、知性のまさにその源であり、瞑想の中でそれ自体を空っぽにしている心と密接に関係しています。永遠の現在に住む、そのような聖者から、偉大なる祝福が発っせられます。

摩訶般若波羅蜜多心経、プラジニャー・パーラミター・フリダヤ・スートラム(ハート・スートラ)

 語源的に、「スンニャ」という言葉は、「膨らむ、広がる」を意味するスヴィという語根に由来しています。スンニャは、充溢を受け入れる虚空です。ブッダはスンニャター(*1)について語りましたが、それを詳細に説明したのは、偉大な仏教の聖者、ナーガールジュナ(紀元1世紀)でした。理解しなければならないスンニャターの本質的な二つの側面があります。現象的世界において、それはスワバーヴァ(*2)・スンニャであり、それ自身の独立した、本質的な現実性を欠いていることを意味します。無条件に、絶対的に現実であるものは、ただの一つも存在しません。あらゆるものは混成され、何か他のものに条件づけられています。それは相対性の領域です。世界は独立したものの集合体ではなく、変化し、関わり合う一連の過程です。物事とは、単に、この過程の中の出来事(事象)です。

 絶対なるものの見解からは、スンニャターはプラパンチャ(*3)・スンニャを意味します。それには思いの構築、言語化、結果として生じる複数性がありません。そのため、それは人間の言葉では、「ある」や「ない」という言葉では表現できません。スンニャターには複数性がないため、それは部分に分解できない不可分の統一体です。スンニャターは理論や信仰ではなく、深遠な洞察的体験です。それはそれ自体が目的ではなく、心をプラジニャー(超越的な知恵)へ導くための手段です。この洞察から、相対的、現象的世界に現実なるもの、絶対なるものとしてしがみつくことない巧みさが生まれるために、幻からの解放があります。

 人はスンニャターの本質、スンニャ‐タットヴァとは何か知りたいと思います。それはナーガールジュナの「アパラプラトヤヤム・シャーンタム・プラパンチャイル・アプラパンチタム・ニルヴィカルパム・アナーナールタム・エータット・タットヴァシャ・ラクシャナム」(*4)引用することによって最もうまく説明されます。
  1. アパラプラトヤヤムは、一方によって他方に教えられたり、分け与えたりできない洞察を意味します。
  2. シャーンタムは、経験に基づく心によって影響されない静止した性質を意味します。
  3. プラパンチャイル・アプラパンチタム:それは言葉で表現する心によって表現できません。
  4.  ニルヴィカルパム:それは思いとその投影物を超越しています。
  5. それはアナーナールタムであり、不二を意味します。
    スンニャターは、明晰さの成果である、より優れた形の知性を手に入れることができます。それは単なる賢さや能力ではありません。正しい思考と正しい行動がこの知性から流れ出ます。ナーガールジュナはスンニャターを理論や概念に変えないようにと我々に警告します。「ブッダによって、スンニャターは一切の見解や主義を不要とするために言明された。スンニャターそのものをもう一つの主義に変える者たちは、まったく見込みがなく、手の施しようがない」。

(*1)スンニャター・・・パーリ語。サンスクリット語ではシューニャター。スンニャ(空)+ター(性質)、空性。
(*2)スワバーヴァ・・・サンスクリット語。パーリ語ではサバーヴァ。スワは「自ら」、バーヴァは「成ること」。本質、自性。
(*3)プラパンチャ・・・サンスクリット語。パーリ語ではパパンチャ。現象的世界、その苦しみと幻惑。
(*4)ナーガールジュナ著、『ムーラマドヤマカーリカー(中論)』、第18章「アートマパリークシャ」、第9詩節

2014年7月28日月曜日

アーシュラム敷地内に埋葬された唯一のグリハスタ、H.C.カンナ の思い出

◇『ラマナ・ペリヤ・プラーナム(Ramana Periya Puranam)』、p382~386

H.C.カンナ

V.ガネーシャン

 バガヴァーンの注目すべき信奉者、ハリ・チャンド・カンナ、または、H.C.カンナは、カーンプルの大家族の出身でした。彼の両親の10番目の子供であり、彼はとても幼い時にさえ人生の鋭い観察者でした。彼の父親は子供たちの面倒をよく見ました。カンナはとても幸福で、満ち足りた子供でした。しかしながら、世界にはとても不幸である多くの人々がいることに彼は気づきました。彼の限られた経験は、お金を持つ者が幸福であると彼に告げました。それがために、彼はお金をたくさん稼ごうと決心しました。彼は並外れて成功した保険代理人になり、多額のお金を稼ぎました。そのうちに、彼はとても敬虔な女性、プレーマヴァティーと結婚しました。「良く食べ、良く飲み、快適な生活を送っているから、自分は幸福だ」とカンナは確信していました。

 彼は仕事のために広く旅しなければなりませんでした。当時、ほとんどホテルはありませんでした。人が泊まれる唯一の場所は、政府のゲストハウスであり、それはほとんどイギリス人のためだけのものでした。インド人はめったに招待されませんでした。カンナは、世才に長けた人であり、どのように金にものをいわせればいいのか知っていました。彼はそこに滞在するためにゲストハウスの管理人か、従業員にわいろを贈ったものでした。ある日、客から多額のお金を集めた後、彼は歓喜に酔った様子でゲスト・ハウスに戻りました。彼の金箱(かねばこ)が溢れかえっていたからです。ゲストハウスに着くや否や、警備員が、「あなたは毎回、私に30ルピーをくれます。私の妻は赤ちゃんを産もうとしています。医者は状況は深刻であり、彼女の命を救いたければ90ルピー払わなければならないと言います。どうかそのお金を私に下さい。次の3回、私はあなたからお金を受け取りません」と言いました。警備員の給料そのものがほんの15ルピー程度であったので、当時、それは大変な金額でした。しかしながら、カンナはおかしな気分でいました。彼は300ルピーを放り出し、「飲み物と手に入れられる最高の菜食でない食べ物を私に持ってきなさい。あなたの嘆願は後にしましょう」と命じました。警備員が言うとおりにした時、カンナは金箱を開け、警備員に見せびらかし、「今日、どれほど多くのお金を私が集めたのか見なさい!」と自慢しました。彼は自分自身の成功に酔いしれ、箱を閉めることを忘れていました。それだけでなく、彼は内側から部屋に鍵をすることさえも忘れていました。

 当時、政府のゲストハウスは町の外れにいつもありました。それはたいていとても荒れ果てた地域に位置していました。大酒を飲んだ夜の後、カンナが朝に目覚めた時、扉が閉まっていることに気づきました。警備員はいつものように外で座っていました。カンナは警備員に、「あなたは妻が赤ちゃんを産もうとしていると言いました。どうしてここにいるのですか」と尋ねました。警備員は、「あなたがいた状態であなたを置いていくことが、どうして私にできますか。仮に私が出て行ったなら、泥棒があなたからお金を奪ったでしょう」と答えました。「でも、あなたの妻はどうなんですか」と驚いたカンナは尋ねました。「今、それを確かめに行きます」と警備員は答えました。カンナは返答に驚愕しました。これまでずっと、彼は幸福が自分自身の必要や欲望を満たすことにあると思っていました。しかし、ここには、その人の妻が危機的な状況にいることを知っているのにも関わらず、彼がお金を与えることを拒否した人がいます。彼が酒に酔った状態で横になっている間に、お金を奪おうという考えはその人に思い浮かびさえしませんでした。そのため、人生には個人的満足を超えた重要なことがあったのです。彼はそれが一体何であるのか知りたいと思い、そうして彼の探求が始まりました。

 彼は『バガヴァッド・ギーター』を読みました。これによって彼は最高の聖なる真理を体験するためにはグルを得ることが必要であると確信しました。夜に家の全ての扉と窓に鍵をかけるのは、カンナの習慣でした。彼は自分の寝室の扉にさえ鍵をかけたものでした。ある夜、真夜中ごろ、彼は奇妙な感覚と共に目覚めました。彼は誰かが部屋にいるように感じました。彼は目を開け、彼が知っているサードゥが彼の前に座っているのに気付きました。サードゥの足は変形していました。サードゥは彼に話しかけ、「朝の4時に私のもとに来なさい」と言いました。カンナは妻を起こし、起こったことを話しました。朝にサードゥを訪問することを彼女に伝えました。その間、サードゥは彼の弟子に、偉大なマハートマーが来つつあり、彼を迎え入れるために、自分が持ちあげられて、門の外に置かれなければならないと告げました。カンナがサードゥを目にした時、彼は身震いし、この人が自分のグルであると思いました。しかしながら、足の不自由なサードゥは、「私はあなたのグルではありません。ラマナ・マハルシがあなたのグルです」と言いました。カンナは驚いて口がきけませんでした。なぜなら、彼は以前にラマナ・マハルシについて耳にしたことがなかったからです。昨晩、彼の部屋に不可思議に現れた、このサードゥに自分自身を委ねる用意をしてやって来たのに、今、その人は自分は彼のグルではないと言っていました。カンナはマハルシについての情報を得たいと思いました。サードゥの弟子のバトナーガル教授は、「私はマハルシについていくらか知っています」と言いました。こう言いながら、彼はカンナにウパデーシャ・サーラムを一冊贈りました。その本には、ラマナーシュラマムの住所も記載されていました。カンナの父は、「私がお前の子供たちの面倒をみよう。私はポール・ブラントンの本の書評を読んだことがある。ラマナ・マハルシは本物の聖者のようだ。行きなさい!」と申し出ました。

 それで、1941年に、プレーマヴァティーとカンナはバガヴァーンもとにやって来ました。残りの信奉者と同じように、バガヴァーンは彼を見ました。その様子から、バガヴァーンが自分に「私のもとに来るのに、とても長い時間かかりましたか」と尋ねているようにカンナは感じました。即座に、カンナはこの人が自分のグルであると知りました。彼は頻繁にアーシュラムを訪れましたが、バガヴァーンが「私があなたのグルです」と率直に明言して欲しいとも思いました。彼はバガヴァーンに、「バガヴァーン、私は外側のグルを必要としています。『私があなたのグルです』と私に言って下さい」と言いました。通例のやり方で、バガヴァーンは、「グルは内にいます」と答えました。カンナは容赦なく追求し、「いいえ、バガヴァーン。あなたは私に、『私があなたのグルです』と言わなければなりません」と嘆願しました。その場面の美しさをちょっと見てください!弟子が大変に聡明である時、グルはなおのこと聡明になります!バガヴァーンは、「外のグルが、グルは内にいると言っています!」と続けました。これは単に如才ない答えではありませんでした。バガヴァーンがこのことを彼に述べた時、カンナはそれを体験しました。彼は自分自身の内に脈打つ振動を感じました。バガヴァーンの強烈な、射ぬくような眼差しは、彼の存在を深く貫き、カンナに聖なる目覚めの実感を残しました。確かに、バガヴァーンは外側から彼を見ましたが、体験は内から生じており、内なるグルが彼に「私」の体験を授けていました。バガヴァーンの眼差しの美しさはそのようでした。

 私(V.ガネーサン)は彼を深く慕っていました。以前に、アーシュラムでの私の仕事の一つはその維持のためのお金を集めることであったと私は述べました。カンナは資産家であったので、私が資金を求めて彼に近づいた時はいつでも私を手助けしました。しかし、その間じゅう、彼はまた私に、「目覚めさない、ガネーサン!これはあなたがなさなければならない唯一の務めではありません!これはあなたの務めの一部に過ぎません。自らの実現を達成することが、我々の最上の義務です」と忠告しました。私が親しみをこめてヒンドゥー語で父を意味するピタジと呼んだ、この高貴な人に私は大変に世話になっています。私がとてもピタジと近しかったので、私は彼に、「どれぐらいあなたはここに来ましたか。その手ほどきを受けた後、あなたがバガヴァーンのもとに来る必要がどこにありますか」と思いきって言いました。彼は、「グルによって明らかにされた真理は至高であるため、染み込み、完全に自分のものになるには時間を要します。外のグルの近くにいることは、不可欠です。それゆえ、私は出来る限り多くやって来ました。私の一切の疑いはぬぐい去られ、深まって行く内なる安らぎ-疑いが確かにぬぐい去られたという証拠-がありました」と答えました。

 それから、私はピタジに、「あなたがバガヴァーンとの間で交わした対話のいくつかを語ってはいただけませんか」と尋ねました。彼は、「それは『Day by Day with Bhagavan』という本の中にすでにあります」と答えました。間をおいて、彼は言いました。「私はバガヴァーンに私の苦悩を記した紙切れを手渡しました。それを読んだ後、バガヴァーンは、『これは不満です。彼は、「私はあなたのもとへやって来ています。今回、私はあなたの足元にほぼ一か月留まりました。私の状況にはまったく改善が見られません。私のヴァーサナーは以前のように強いままです。私が帰る時、私の友人たちは私を笑い、滞在して何か良かったのか尋ねるでしょう」と記しています』と意見を述べました」。カンナに向き直り、バガヴァーンは慈悲深く、「ジニャーナがまだやって来ていないや、ヴァーサナーが消えていないと考えて、どうしてあなたの心を苦しめるのですか。思いに余地を与えないように。聖者ターユマーナヴァルが、彼の詩節の一つの中で、この紙に書かれていることとほとんど同じことを述べています」と言いました。それから、バガヴァーンはデーヴァラージャ・ムダリアールにその詩節を読み、タミル語が分からない人たちのために英語に翻訳するように頼みました。これがその詩節の翻訳です。「心が私をあざ笑う。私があなたに千回教えても、あなたは無関心だ。それでは、私はどのようにして安らぎと至福を得ればいいのか」。デーヴァラージャ・ムダリアールはカンナに、「あなたはそのようにバガヴァーン不満を述べた唯一の人ではありません。私は同じように一度ならず不満を言い、いまだに言います。それでも、私は自分自身に何の改善も見られません」と言いました。これに対して、カンナは、「何の改善も見られないだけでなく、より悪くなったように思います。ヴァーサナーは今、より強くなっています。私にはそれが理解できません」と言いました。

 それから、カンナは、「輝きに心を加えたものが、ジーヴァートマ、個々人であり、輝きのみがパラマートマン、究極の真理である。正しいでしょうか、バガヴァーン?」と尋ねました。バガヴァーンはうなずいて同意しました。彼は白いタオルを指さし、「我々はこれを白い布と呼びます。しかし、布とその白さは分離できません。結合して自我を形作る輝きと心についても同じです」と述べました。次に、彼は、「よく本の中で示される例もまた、あなたの役に立つでしょう。劇場の中のランプがパラマートマン、もしくは、あなたが述べたような輝きです。それは、それ自身と舞台と役者を照らします。我々は舞台と役者をその光によって見ますが、劇が上演されていない時に、その光は依然として続きます。別の例は、心と比較される鉄の棒です。火がそれに加わり、赤熱します。それは真っ赤になり、火のようにものを燃やせるにもかかわらず、火と違い、それは明確な形を持ちます。我々がそれを叩くなら、その打撃を受けるのは棒であり、火ではありません。棒はジーヴァートマであり、火は自ら、または、パラマートマンです」と付け加えました。

 バガヴァーンはカンナだけでなく、彼の妻プレーマヴァティーもまた手助けしました。ある午後、講堂にいる時、プレーマヴァティーはバガヴァーンに書面で懇願しました。「私は聖典に学んでいませんし、自らの探求の方法は私にとってあまりに難し過ぎます。私は女で、7人の子どもがいて、家庭の世話がたくさんあります。そのため、瞑想のための時間がほとんどありません。バガヴァーンが、何かより複雑でない、簡単な方法を私に授けて下さることを願います」。バガヴァーンは大変な慈悲の気持ちを持ってプレーマヴァティーを見て、「誰も自分自身を見るために鏡を必要としないように、聖典の学習や知識は自らを知るために必要ではありません。一切の知識は、自らでないとして、終には、ただ放棄されなければなりません。家庭内の仕事や子供の世話もまた、必ずしも障害ではありません。あなたがそれ以上何もできないならば、どのような仕事をしていても、座っていたり、立っていたり、歩いているのであれ、『私は誰か』の中で勧められているように、少なくとも『私、私』と心の中でその間ずっと思い続けなさい。『私』とは神の名です。それは全てのマントラの中で最も偉大な最初のマントラです。オームでさえ、それに次ぐものです」と言いました。

 ピタジは信念と根気の人でした。かつて、彼がバガヴァーンの面前において講堂で昼食をとっていた時、バガヴァーンのプラサードを家族全員に自分が持って運ばなければならないというとても強い衝動を感じました。そのための最良の方法は、バガヴァーンが食事をしたお皿を運ぶことだと彼は思いました。(グルが食べたものの残りものを食べるなら、魂(心)を精神的に高めるということを信じているヒンドゥー教徒もいます。)特にその日、バガヴァーンは、とても柔らかいバナナの葉っぱの上で食事をしました。彼は心の中で、「私がバガヴァーンの空の葉っぱを盗むのを目撃する人が食堂に誰もいないように私を祝福して下さい」とバガヴァーンに祈りました。彼は目を閉じて祈り、目を開けた時、驚き、安堵したことに、食堂に他に誰もいませんでした。彼は座席から飛び上がり、バガヴァーンの空の葉っぱを手にとり、それを上着の内側に包み、山に向かって駆け出しました。大きな岩の後ろに隠れ、彼は柔らかい葉の小さなかけらをとり、それを神聖なプラサードとして食べました。彼は長い葉っぱのバランスを保ち、カーンプルに運びました。彼は泊っていた共有のゲストハウスに戻り、それを注意深くうまく包装した後、スーツケースの底に隠しました。彼は誰も彼を見ていないことを確かめました。彼の中に溜まっていく緊張に打ち勝つために、彼は町に出かけました。

 彼が午後にアーシュラムに戻った時、取り調べが彼を待ち受けていました。サルヴァーディカーリーは盗まれた葉っぱについて知らされ、誰が禁じられた行為を行ったのかについて幅広く取り調べを行っていました。昼食を給仕した郵便局長のラージャ・アイヤルは、最後に食堂に残っていたのはカンナであったとチンナ・スワーミーにすでに知らせていました。カンナは事務所に呼び出されました。彼は心の中でバガヴァーンと不平を言い始めました。「ああ、バガヴァーン、あなたは恵み深く他の人に気づかれずに葉っぱを盗むという私の願いを叶えてくれました。今や、あなたは私を暴露しようというのですか。これがあなたの恩寵ですか。チンナ・スワーミーに私を暴露しないことで、私が盗みを無事に完了するまで果たすように手助けして下さい」。チンナ・スワーミーはカンナを迎え入れ、ずうずうしい葉っぱ泥棒の非道について彼に語りました。カンナは彼に同意し、犯人を見つけだし、十分に罰するべきであると言い、その間中ずっと、それが起こらないようにバガヴァーンに祈っていました。彼はバガヴァーンの講堂に走って行き、平伏しました。バガヴァーンは彼にいたずらっぽく微笑み、それはカンナにバガヴァーンの恩寵が自分にあるという保証を明確に示しました。「怖がらなくてよろしい。全て大丈夫です」。ピタジは1970年代に大変な敬意をもってこの出来事を語り、「その神聖なプラサードを携え、私はその日にカーンプルに出発しました。私は家族それぞれ全員にそれを分け与えました。バガヴァーンを同じぐらい深く信奉している子供たちは、我々それぞれが私にそのプラサードを盗むことを可能にしたバガヴァーンに深い感謝の気持ちを抱いていることをよく知っていました。それはすべてシュリー・バガヴァーンの恩寵です!」と締めくくりました。

 「ある日、カーンプルで、バガヴァーンの病気の最後の日々の間-1950年3月-私はバガヴァーンが私を呼んでいるという感覚と共に突然目覚めました。私は赤ん坊の娘と共に妻を連れ、アルナーチャラに到着しました。私がバガヴァーンの前に立った時、彼は歓迎するほほ笑みを浮かべ、彼の付添人に不思議なまなざしを送りました。後で、私はその付添人にそれについて尋ねました。彼は、『今朝、バガヴァーンは私にカーンプルのカンナがここにいるのか尋ねました!そして、あなたはここにいます!』と言いました。私が今日いるのは、全く、バガヴァーンの私への的を得た気遣い、バガヴァーンが私に恩寵を注いで下さるおかげです」と目に涙を浮かべ、ピタジは言いました。

 バガヴァーンが体を下ろした時、彼がアーシュラムにいたのかどうか私は彼に尋ねました。「ええ!バガヴァーンは彼の近くにいるように私を祝福して下さりました。あの運命の夜、その出来事が起こった後、バガヴァーンの体は信奉者がダルシャンを持てるように新講堂に安置されました。師の体の周りにつけるための大きな花輪を買いに、私は町に走って行きました。生涯、私は私の贈り物が一番初めになるように言い張る癖がありました。そのような考えから、私は町から花輪を急いで持って行き、付添人の助言のもとに、恭しくそれを指示された角に置きました。付添人は、翌朝、花輪が捧げられる時、私のものが最初になることを私に請け負いました。翌朝、私が新講堂にやって来た時、私は衝撃を受けました。私の花輪は最も底にあり、その上によく似た大きな花輪が山と積まれていました。私は強くバガヴァーンに祈りました。『バガヴァーン!あなたが体の中で光り輝く時、あなたはいつも私の内なる願いを心ゆくまで満たしてくれました。今、私は祈ります。どうぞこの私の単純な願いを満たして下さい。私の花輪があなたの体を飾る最初のものになりますように!』」。間をおいて、彼は、「適当な時に、付添人が全ての花輪を運びました。見てください、何という恩寵ですか!彼が花輪をバガヴァーンの体の近くに置いた時、花輪の山を裏返し、私の花輪が一番上に現れました!バガヴァーンは私の子供っぽい願いも同様に満たして下さいました。普遍的な真理であるバガヴァーンは、彼に捧げられた願いをいつも満たしてきましたし、(これからも)いつも満たします!バガヴァーンはまさしく恩寵の大海です!」と付け加えました。

 カンナには多くの責務がありました。数百万ルピーに関係する財産争議のために、かつて彼はデリーに行きたいと思いました。私たちは親しい間柄になっていたので、彼はよく私に相談しました。ある日、彼は、「デリーに行きたいのですが、私はアルナーチャラで死にたいのです」と言いました。私は彼に、「ピタジ、あなたがアルナーチャラから離れたら、ことによると、何かのはずみで、そこで亡くなるかもしれませんよ」といいました。翌朝、彼は私を抱擁し、「私は旅行を取りやめました。ここにいます。どのような危険も冒したくありません。訴訟とお金は駄目にさせましょう。私はここに居続けます。私はアルナーチャラだけで体を下ろしたいのです」と言いました。次に、彼は私に質問をしました。「あなたの母親が亡くなる時、あなたは彼女のそばにいましたね、そうですか?あなたの母親がどのように亡くなったのか、どうぞ教えて下さい」。私は彼に、「私の母は完全に意識のある幸福な状態で全く見事に亡くなりました。彼女の最後の瞬間に、彼女の目は閉じたままでしたが、認識の兆候があり、我々みながバガヴァーンのアクシャラマナマーライを歌った時、献身の表情で応じました」と言いました。それを熱心に聞いた後、ピタジは、「私もそのように亡くなるでしょう」と言いました。

 1984年6月末ごろのある日、突然、彼は自分が亡くなりつつあると感じました。彼は妻に、「プレーマヴァティー、ガネーサンを呼んで。彼にすぐ来るように頼んで」と大声で叫びました。その後、カンナは椅子を手にとり、バガヴァーンの大きな写真の前にそれを置きました。彼は椅子に座り、意識を保ち、息を引き取りました!私が到着した時には、彼はもう亡くなっていました。彼が即座に亡くなったという医者の判断は、私にとっては、亡くなる時、ピタジが完全に意識があったという十分な証拠です。私個人にとって、ピタジは英雄でした。彼は体の要求に屈することを拒み、彼の注意を完全にバガヴァーンに向けることによってその苦しみを克服しました。彼はそのように絶対的にバガヴァーンを信頼していたので、師は彼を完全な意識の中に吸収しました!彼は家庭を持つ人でしたが、ピタジの体はアーシュラムの敷地内に埋葬されるあらゆる権利を持っていると強く感じました。私はこれに反対する人々を何とか説得しました。ピタジの体はチャドウィックとコーエンのサマーディの隣に埋葬され、信奉者は今日でさえそれに敬意を表します。彼はラマナーシュラマムに埋葬された聖者やサンニャーシの中で唯一のグリハスタです。

 真理とは、追い求められなければならない単なる概念ではありません。あなた自身が真の真理なのです。バガヴァーンは、ジャコウジカの香りについて語るヴェーダーンタの聖典によく言及したものでした。鹿は自分自身の体から来る香りに気づかず、そのため、その素晴らしい芳香を探して走ります。その素晴らしい芳香を探して死ぬまで走る鹿もいると言われています。ジャコウジカのように、どうして我々が真理を追い求めなければならないのでしょうか。我々が真理です。どうして出てゆくのですか。我々をハートの内なる真理ままにあらせてください。バガヴァーンの恩寵によって、アルナーチャラが我々を吸収します。真理に留まることとは、アルナーチャラに吸収されていることです。

 かつて、バガヴァーンは誰がディーラであるのか尋ねられました。バガヴァーンは、「自分が誰であるか知る者」と答えました。ディーラの文字通りの意味は、勇敢です。真理のままにあることが、勇猛果敢の最高の形です。バガヴァーンの古くからの信奉者たちみなが、この性質を持っていました。自分たちもまた常に、ただディーラでしかないということを自分たち思い出させるために、我々はこれらの信奉者たちと人生を共にせねばなりません。この没入の境地は、いつでも-今この時にも、起こります。

 我々はアルナーチャラに溶け込むためにアルナーチャラのもとへ来ました。バガヴァーンはこれを「aikiam akkikol」と言及しました。バガヴァーンが「彼女をあなたの自らに吸収しなさい」と言った時、彼は母親のためだけに祈っていたのではありません。彼は我々一人ひとりのために祈っていました。我々は目覚めなければなりません。それは我々を目覚めさせる呼びかけです。ジャコウジカのように我々に無益に真理を追い求めさせないでください。我々に真理は我々の内にあると理解させてください。かの実現の境地は没入です。それはアルナーチャラでもあります。内に潜り、自らに留まることとは、アルナーチャラに吸収されることです。この境地は時間や空間の中に起こりません。それは永遠の今の中にあり、我々は永遠にその今の中にいます。

2014年7月14日月曜日

シュリー・ダッタートレーヤの24人のグル、体という25人めのグル

◇『バガヴァーンの言葉に添って生きて(Living by the Words of Bhagavan)』、p223~225

バガヴァーンとの対話:7

 トリッチーからの信奉者が彼の息子を講堂に連れてきました。ナマスカーランをバガヴァーンに行った後、彼は座りました。その子供は、まだとても幼かったのですが、明らかにとても心配そうな様子を示していました。

 彼ら二人が座った後、バガヴァーンは「どの列車で来ましたか」と尋ねました。

 その信奉者は、「今朝の8時30分にやって来ました」と答えました。

 それから、バガヴァーンは、「ダッタートレーヤ(心配そうな顔つきの少年)は元気ですか」と尋ねました。

 信奉者は、「あらゆる種類の薬やマントラを試しましたがうまくいかず、最後の拠り所としてシュリー・バガヴァーンのもとへ来ました」と答えました。彼はこう言いながら、哀願する仕草で手を組み合わせました。

 シュリー・バガヴァーンは男の子に話しかけました。「ダッタートレーヤという名前なのに、どうしてそのように心配しなければいけないのですか。あなたはいつも幸福に満ちていなければいけません。そうではなく、どうしてあなたは至福を心によって台無しにしなければいけないのですか」。

 それから、バガヴァーンは、男の子と他の全ての信奉者に、古(いにしえ)の偉大なジニャーニ、ダッタートレーヤの伝説(*1)を語りました。

・・・

 ダッタートレーヤは腰布さえつけずに森を歩き回ったものでした。彼は常にブラフマンの至福で満ちていました。これを目にして、ヤドゥ・マハーラージ(地方の領主)は心の中で思いました。「彼が常に幸福に満ちあふれているのは、いったいどうしてなのか。私はあらゆるものを持っている。それでも、私は苦しまなければならない」。

 この思いでいっぱいになり、ある日、彼はダッタートレーヤのもとへ行き、「あなたが常に至福で満ちているのは、いったいどうしてですか」と尋ねました。

 ダッタートレーヤは、「至福以外に何がありますか」と答えました。

 王は彼に、「その至福は、どのようにしてあなたのもとへ来たのですか」と尋ねました。

 ダッタートレーヤは、「このアーナンダ(至福)を得るために、私は数多くのアーチャーリヤ(師)を持ちました。それは彼らを通じてやって来ました」と答えました。

 王が彼に彼の師は誰だったのか尋ねた時、ダッタートレーヤは長い話を語りました。

  「おお、王よ。私は24(人)のグルを持ちました。彼らは私の知性により行われた探求によって把握されました。これらのアーチャーリヤを通じて得たジニャーナのみのおかげで、私はムクタとしてこの世界を遊行しています。アーチャーリヤとは誰なのか理解しなさい。大地、風、虚空、水、火、太陽、月、野鳩、ニシキヘビ、大海、バッタ、蜂、象、蜂蜜を集める人、鹿、(魚)(*2)、遊女のピンガラー、子供、小さな女の子、矢師(*3)、蛇、他に少しです。24(人)の中で、私は少しを除きました。

 大地から、私は忍耐を学び、風から遍在性を、虚空から無執着を、火から不染汚(ふぜんな)を、水から純粋さを、そして、月から全ての変化は体にとってあり、自らにはないという真理を学びました。

 太陽は万物を等しく照らしますが、それらによって影響されません。このことから、ヨーギはたとえ対象を見ても、それらを相互に作用させるグナによって影響されるべきでないと学びました。

 野鳩から、住まいに愛着する者は誰でも、彼の高潔な立場から滑り落ちることを学びました。私は、人はニシキヘビのように自然とやってきた食べ物を何であれとるべきであると学びました。大海から、穏やかに、威風堂々と、うろたえず、推し量ることが難しくいるべきであると学びました。

 ランプの炎へ落ち入るバッタは、焼け死にます。このことから、私は女性への渇望という炎へ陥る男は滅びることを理解しました。蜂から、人は他者に与えるように強いることなく、ただ体を養うのに十分な食物をとるべきであると学びました。

 力強い雄の象でさえ、雌の象と接触することによって、苦しみを味わいます。このことから、人は女性に触れらたり、その近くで時を過ごすなら、同様に苦しみを被ることになると学びました。

 何日にもわたり蜂によって集められた蜂蜜は、蜂蜜を集める人によって盗み取られます。彼から、大変な苦労をして稼いだ財産はたいてい他の人々によって盗み取られることを学びました。

 鹿は、狩人の音楽によって誘われた後、狩人の網に捉えられます。同様に、サンニャーシンは、モーハ(欲望によって引き起こされた幻惑)に屈するなら、束縛に陥ります。それゆえ、鹿から、サンニャーシンは感覚の対象に注意を向けるべきではないと理解しました。

 その舌を抑えることができず、釣り針に捉えられた後、魚は死にます。魚から、舌(つまり、美味しいものへの欲望)を抑えることができない者は誰でも苦しむことを学びました。

 遊女のピンガラーは昔、しっかりと着飾った後、彼女にお金を持ってくる約束をしていた恋人を待っている間、ぶらついてしていました。彼が姿を見せなかった時、彼女はとても悲しく思い、落胆しました。彼女の顔は真っ青になり、彼女の心は苦しみました。彼女は苦しみの原因を調べ、つまらない楽しみの不快な性質を理解しました。彼女があらゆる幸福の源が至高の自らであると気づいた時、彼女はヴァイラーギャ(無執着)を達成しました。至高の自らを夫として崇拝することによって、彼女はジニャーナの真の幸福を達成しました。遊女のピンガラーから、外側のどのようなものにも幸福は存在せず、唯一の価値ある達成は自らの幸福であると学びました。

 子供から、人は名誉と不名誉に無頓着でいるべきであると学びました。

 さあ、小さな女の子の話をしましょう。彼女の両親が村にいない時に、多くの人が彼女を嫁にとろうとやって来ました。彼女は彼らに食事を出したいと思いましたが、彼らのために調理するお米を得るために彼女が自分で稲を精米しようとし始めた時、彼女の腕輪が大きな音を立てていたために恥ずかしくなりました。それぞれの手から一つ取り除いた後、それ以上の音はなりませんでした。この小さな女の子の行為から、ヨーギは一人で留まるべきであると理解しました。

 矢師から、人は自分の目的に一心にいるべきであると学びました

 蛇は鼠が作った穴で幸福に暮らします。その蛇から、他人の家で幸福に暮らすことを学びました。

 私は25番目のグルを持っています。それは私の体です。この体は、私のジニャーナとヴァイラーギャの原因です。愛と献身を持って、自らであるハリ(神)に溶け込んだので、私の境地は今や何も知らない者と等しくあります。」

 このように、ダッタートレーヤはヤドゥ・マハーラージに25(人)のグルを通じて把握した一切のジニャーナを語り、物語を終えました。

・・・

 男の子にダッタートレーヤが王に語った全てのウパデーシャ(教え)を話し、バガヴァーンは恵み深くも彼に尋ねました。「あなたもまた、ダッタートレーヤと呼ばれてはいませんか。少なくとも、あなたの名前のために、あなたは幸福でいなければいけません」。

(*1)『バーガヴァタ・プラーナ(シュリーマッド・バーガヴァタム)』、第11巻、第7章から
(*2)元の英文には、魚はありませんが、下で説明されているので付、ここにけ加えています。
(*3)元の英文では、「射手(archer)」ですが、下で「矢師(arrow-maker)」となっているので、それに合わせています。


Sanjeevani Bhelandeによるダッタートレーヤ・アーラティ

24人のグル

シュリーマッド・バーガヴァタムから-

 かつて、ヤドゥ王は主ダッタートレーヤ(アヴァドゥータ)を森で見かけ、彼に呼びかけました。「尊者、あなたは実に非常に有能で、精力的で、賢明です。あなたには親類知己がおらず、家族さえもいないのに、どうしてそんなにも幸福に満ち、自らに満足していられるのですか」。

 アヴァドゥータ(一切の世俗的欲望をふるい落とした者)は、「私の至福と満足は自らの実現の結果です。私は必要な知恵を全創造物から、24(人)のグルを通じて得ました。あなたにそれを詳しく述べましょう」と答えました。

 シュリー・ダッタートレーヤは自然から24(人)のグルを得ました。彼はヤドゥ王に語りました。「私の師の多くは私の鋭敏な判断力によって選ばれ、彼らから知恵を思いのままに得て、私は世界を放浪します.... 大地、空気/風、虚空、火、太陽、鳩、ニシキヘビ、海、蛾、象、蟻、魚、遊女のピンガラー、矢師、幼児/遊び戯れる男の子、月、蜜蜂、鹿、猛禽、少女(乙女)、蛇、蜘蛛、芋虫、水が私の24(人)の師です」。

1.大地

全ての生物は、そのカルマの過去の蓄えに応じて、様々な身体的形態を身につけ、地上で生活します。人々は大地を耕し、掘り、踏みつけます。彼らはその上で火を焚きます。それでも、大地はその道から毛筋ほども外れることはありません。その一方で、大地は全ての生物に食と住をあてがいます。これを見て、私は賢者はどのような状況下でも彼の忍耐、愛、廉直の誓いから決して外れるべきではなく、人はその人生を生ける者の福利のために捧げるべきであると学びました。山々と川を伴う大地は、私の最初のグルです。

2.空気

空気は、それ自体は純粋で、無臭です。そして、空気にはどのような差別も好みもなく、良い匂いのものにも、いやな臭いのものにも吹きつけます。それは一時的にその周りにあるものの匂いを帯びるように見えますが、わずかの間に、それはその清浄な性質を表します。このことから、真理を熱望する者は、喜びと悲しみのような人生の両極によってや、五感の対象物によって影響されずに、世界で生きるべきであると学びました。彼は彼の心と言葉を無用な対象によって汚されないように保つべきです。それを目にすることによって、この全てを学んだため、空気は私の2番目のグルです。

3.虚空

魂もまた、遍在する虚空のようにあります。時に虚空(または、空間)が深く曇ったり、ほこりや煙で満ちているのに私は気づきました。日の出や夜間に、それは様々な色を帯びます。しかし、実際、虚空は常にその無色の自らを保ち、どのようなものにも決して触れられず、汚されません。このことから、真の聖者は、彼自身の身体的過程を含む、時間の内の現象世界のどのようなものにも触れられたり、影響されずに、虚空や空間のように常に純粋でなければならないと学びました。彼の内なる存在は、空間のように、物事や出来事への感情的反応が全くありません。そのように、私は虚空、もしくは、空間を私の3番目のグルとして受け入れました。

4.火

私の4番目の師は、火の元素です。時には、それはまばゆい炎として現れます。時には、灰に覆われた、くすぶる燃え殻として現れます。しかし、それは常に万物に潜在的な熱として存在しています。火の神は、その人の道徳的価値に関わらず、全ての人の捧げ物を受け取り、人の罪を焼き払います。そして、依然として、それは火の神として常に純粋な神性のままあります。彼はそのような信奉者の罪によって汚されません。そのように、完全に悟った聖者も、全ての人の食物を受け取り、その人の罪を焼き払い、与える人を祝福すべきです。火の神はそれ自身特定の形を持ちませんが、燃える燃料と関わる時、そのような見かけの上の形を帯びます。そのように、真の自らも、本来は無形ですが、それぞれの物質的構造に関わる時、神々、人間、動物、木々の形で現れます。世界のあらゆる形の源は、またそれらの終焉のように、常に不可思議なままです。万物は、その起源と終焉の合間にだけ現れます。それらの源と終焉は、真の自らであり、それは永遠不変で、顕現せず、遍在しています。火の要素の性質はそのようです。現れる火は、それが焼き尽くす様々なもの同じ灰に変化させます。そのように、自らの実現の知恵も、事物の特性と顕現した形を幻として排除し、それらの一つの元々の本質をそれそのものとして実現します。このように、火の要素は私の4番目のグルです。

5.太陽

私の五番目のグルは太陽です。我々が日々の生活において目にする太陽は一つですが、様々な器の中の水に反射する時、多くのように見えます。同様に、ただ一つの現実の自らは、身体的構造によって反射する時、生き物の多くの自分として現れます。太陽が自然の中の多くの形を我々の視界に照らし出すように、聖者もまた彼の信奉者に万物の本質を明らかにします。

6.鳩

私は鳩からも知恵を得ました。かつて、つがいの鳩が木の上で一緒に暮らしていました。彼らは子供を生み、深い愛情をもって育てていました。ある日、狩人が若いひな鳥を罠に捕らえました。子供たちの食べ物をもって森から戻った雌の鳥は、彼らの苦境を目にし、彼らを見捨てることができず、運命を共にするために罠に飛び込みました。すぐ後に、雄の鳩が姿を見せ、その愛する者との別離に耐えられず、彼もまた罠に飛び込み、同じく命を落としました。これを熟考し、たとえ知的な人間として生まれた後でさえ、人がどのように所有欲という輪の中に捕らえられ、彼自身の精神的破壊をもたらすのかを理解しました。元々は自由である自らは、体の感覚と関わる時に、それと同一化し、そうして、誕生と死と苦しみの終わりなき循環に捕らえられます。そのように、鳩は私の6番目のグルです。

7.ニシキヘビ

ニシキヘビは怠け者で、獲物を求めて活発に外で動きたがりません。横たわって待ち構え、とりあえずその飢えを満たすに足るように、通りがかった生き物を何でもむさぼり食べます。このことから、知恵を求める人は楽しみを追い回すのをやめ、彼が自然と得るどのようなものも満足して受け取るべきであると学びました。ニシキヘビのように、彼は眠りと目覚めの状態をふるい落とし、自らへの絶え間のない瞑想の状態に留まるべきです。そのように、ニシキヘビは私の7番目の知恵の師でした。

8.海

大海の驚くべき性質を熟考し、私は多くの知恵を得ました。氾濫する川がいくらそれに合流しても、海は高さを保ちます。夏に全ての川が干上がる時、その高さは毛筋ほども下がることもありません。そのようにまた、人生の喜びは知恵ある聖者を得意がらせず、その悲しみもまた彼を意気消沈させません。海が浜辺でその境界をまたがないように、賢者は感情に引きずられて最上の道徳律を逸脱することは決してありません。海のように、彼は征服できず、何ものも彼を困らせることはできません。底知れない大海のように、彼の本質と彼の知恵の深さは誰にも容易には理解できません。そのように私に教えた大海は、私の8番目のグルです。

9.蛾

蛾(もしくは、より正確には、バッタ)が火に誘われてその中に飛び込み、燃え尽きてしまうのをしばしば私は目にしました。そのようにまた、思慮の浅い人は五感の惑わす楽しみにそそのかされ、そうして、誕生と死の止むことのない循環に捕らえられます。その一方で、賢者は、知恵の炎をたとえ一目でさえ見る時、全てのものを脇にのけ、その中に飛び込み、制限された自らであるという幻を焼き尽くします。そのように、蛾は私の9番目のグルでした。

10.象

象が私の10番目のグルでした。人間は森に剥製の雌の象を作り上げます。野生の象はそれを仲間だと間違え、近づき、悪賢い人間は象を巧みに足かせで縛ります。そのようにまた、罪深い人間は異性によって誘惑され、のぼせ上がりという足かせに縛られます。解放の探求者は、愛欲から自由になることを学ばなければいけません。象は、そのように、私の師の一人です。

11.蟻

蟻は、食べることも他の生き物に施し与えることもない、たくさんの食物をため込みます。結果として、他のより力強い生き物は蟻から奪い取ろうという気になります。そのようにまた、単なる物質的なものに過ぎない財宝を蓄える人は強盗や殺人の被害者になります。しかし、蟻は我々に教えるべき役に立つことも持っています。蟻は疲れを知らない働き手であり、障害物や妨げがどれほどあっても決してその財宝を集める努力をやめようとはしません。そのようにまた、知恵の探求者は自らの実現への努力に倦(う)むことなくいなければなりません。小さな蟻はこの崇高な真理を私に教え、私の11番目のグルになりました。

12.魚

魚は貪欲にえさを飲み込み、その途端、かぎ針に捕らえられます。このことから、美食への渇望によって、どのように人が身を滅ぼすことになるのか理解しました。味覚が克服される時、他の一切も克服されます。その他に、魚には役に立つ特徴があります。魚はその住まい、すなわち、水から決して離れません。そのようにまた、人も真の自らから決して目を離すべきではなく、常にその中にあらねばなりません。そのように、魚は私の12番目のグルになりました。

13.ピンガラー

私の心を目覚めさせた13番目のグルは、ピンガラーという名の遊女です。ある日、ある客が自分にたっぷり支払うだろうという期待をして、彼女は彼を心待ちにしていました。夜遅くまで、彼女は待ち続けました。彼が姿を見せなかった時、彼女は終に迷いから目が覚め、このように熟慮しました。「ああ!私は何と愚かなのか!永遠の至福を帯びた内なる神性を無視し、愚かしくも私の愛欲と貪欲を刺激する放蕩者(好色家)を待っていた。これからは、私は自らに私自身を費やし、彼と一体になり、永遠の喜びを勝ち取りましょう」。そのような悔い改めを通じて、彼女は幸福を達成しました。その他にまた、その明らかな趣旨を熟慮し、真理を熱望する者は、サーダナの副産物に過ぎない、より劣った超常的な力の魅力を同じように拒絶すべきであると理解しました。他人の手からものを手に入れようという誘惑は苦しみの種であり、それらの放棄が無限の喜びを実現するための唯一の手段であると学びました。

14.矢師

かつて、私は鋭い矢を作ることに完全に没頭していた矢師を目にしました。彼はその他一切をまるで意識しなくなり、そばを通った王の行列に気づきさえしませんでした。この光景は自らへのそのような一心不乱の、無我夢中の観想が世俗の取るに足りない関心事へのあらゆる誘惑を自然に排除するという真理に私を目覚めさせました。それが聖なる修練における成功の唯一の秘訣です。そのように、矢師は私の14番目のグルです。

15.遊び戯れる男の子

小さな男の子や女の子は、名誉も不名誉も知りません。彼らは恨みや偏見を誰に対しても抱きません。彼らは自分たちのものは何か、他人のものは何か知りません。彼らの幸福は彼ら自身、彼らの生来の創造性から湧き出てきて、幸福でいるために外的対象や条件を必要としません。完全な悟りを開いた聖者もまたそのようであると私は理解しました。遊び戯れる男の子は、そのように、偶然に私の15番目のグルになりました。

16.月

自然における万物の中で、月は独特です。白月(びゃくげつ)と黒月(こくげつ)の間に、月は満ち欠けするように見えます。実のところ、月は常に同じままにあります。このことにおいて、月は人の自らのようです。人は幼児期、少年期、青年期、円熟期、老年期を経るように見えますが、彼の真の自らは変わらないままにあります。全ての変化は体にだけ付属していて、自らには付属していません。また、月は太陽の光を反射するだけで、それ自身の光を持ちません。そのようにまた、人の心は真の自らの意識の光の反射でしかありません。この真理を教え、月は私の16番目のグルになりました。

17.蜜蜂

蜜蜂は花から花へ飛び回り、花を少しも傷つけることなく、蜜を吸い出します。そのようにまた、真理の探求者はすべての聖典を学ぶべきですが、聖なる修練のために不可欠なものだけを心に留めるべきです。私の17番目のグル、蜜蜂から吸収した教えはそのようです。

18.鹿

鹿は音楽を大変好むと言われています。密猟者は、鹿を狩る前に鹿をおびき寄せるために音楽を用います。このことから、感情と感覚的欲望は、単なる世俗の音楽に目がない真理を熱望する者をすぐに泥沼に沈め込み、終には彼が以前に達成したどのような精神的進歩も失うことになるということを学びました。この真理を私に教えた鹿は、私の18番目のグルです。

19.猛禽

猛禽が私の19番目のグルです。ある日、私はそのような鳥が死んだ鼠を運んでいるのを目にしました。カラスやワシのような他の多くの鳥が、今や獲物を打ち落とそうと試みて、その頭を蹴りつけ、さらに脇腹をつつき、それを攻撃していました。哀れな鳥は、そのように、たいそう苦しめられました。終に、その鳥は賢明にも獲物を落とし、他の全ての鳥はそれにめがけて突進しました。そのように、鳥は大変な煩わしさから脱し、安堵のため息をつきました。このことから、世俗的な楽しみを追い求める人は、すぐに同じものを追い求める仲間と衝突することなり、そのような争いや敵意に直面しなければならないと学びました。彼が世事への渇望の克服を学ぶなら、彼は多くの不幸から免れることができます。私はこれが世界の平和への唯一の道であると理解しました。

20.少女(乙女)

かつて、私は、ある家族が息子の結婚の約束を求めて、少女の家を訪問するのを目にしました。その時、彼女の母親は家を離れていました。それで、少女自身が飲食物で客をもてなさなければなりませんでした。彼女はすぐに穀物をすりこぎで粉にし始めました。手につけた腕輪が互いにぶつかり始め、音をカンカンと鳴らしました。彼女は客が音を聞き、彼女に大変な迷惑をかけたことを気の毒に思うことを危惧しました。ヒンドゥー人(教)の少女として、いかなる時も手につけた腕輪すべてを取り外すことは彼女にとって望ましくありませんでした。それで、彼女はそれぞれの手に二つつけ、残りのすべてを取り外しました。その時でさえ、それらは互いにぶつかり合い、音を立てていました。それで、彼女はそれぞれの手に一つだけ腕輪をつけ、仕事を静かに終えることができました。このことを熟慮し、幾人かの真理の探求者が共に住む時、多くの望まれない噂が結果として起こり、一点に集中した努力でもって聖なる修練に従事することができないことを理解しました。独りでいる時にだけ、真理を熱望する者は彼の務めを遂行できます。この真理を知り、それ以後、私は独居を頼みとしました。そのように、少女は偶然に私の20番目のグルになりました。

21.蛇

私は蛇が決して自分で棲みかをつくらないことに気づきました。シロアリが蟻塚を自分で作った時、やがては蛇が蟻塚に住むためにやって来ます。同様に、世俗の人々は自分で家を建てるにあたり、多くの困難に耐えなければなりませんが、隠遁した僧にはそのようなものはありません。世俗の人々は僧院を建て、それに僧が住みます。もしくは、彼は荒れ果てた古寺に、もしくは、陰をつくる木立の下に行きます。蛇は古い皮を脱ぎ捨て、脱皮します。そのようにまた、人生の最後で、ヨーギは体を意識的に離れ、彼自身の真の自らの完全な自覚の中へ行き、死という現象によって脅かされません。その一方で、彼は擦り切れた衣を喜んで捨て、新しい衣を身につけるように、彼の古い体を捨て去ります。そのように、私の21番目のグルは私に教えました。

22.蜘蛛

蜘蛛が私の22番目のグルです。蜘蛛は体液の形の糸から巣を張ります。 しばらく後、蜘蛛は巣をそれ自身へたぐり寄せます。至高者(神)は全創造物をそれ自身から映し出し、しばらく後に、消滅の時にそれを自分自身に引き込みます。個々の生命もまた、五感と心をそれ自身の内に持ち、人間、もしくは、他のどのような生物としてでも誕生する時、それらを感覚器官、行為の器官、体全体として映し出します。その潜在的傾向に従い、生物はそのように生まれ、その生活に必要とされるあらゆる手段や道具を寄せ集めます。その生涯の終わりにおいて、生命は再び五感、心を引き込み、死の時に傾向性を獲得します。そのように、私は蜘蛛から学びました。

23.芋虫

芋虫もまた、私の知恵の師の一人です。スズメバチはその芋虫(幼虫)を安全な隅に運び、巣の中に閉じ込め、それの周りをブンブン飛び回ります。若い芋虫は絶え間ない羽音に大変におびえ、ブンブン飛び回るスズメバチ以外何も考えられなくなります。母親へのそのような途切れのない観想によって、芋虫もまたすぐにスズメバチに成長します!同様に、真の弟子は彼自身のグルの聖なる卓越性によって魅了され、畏怖の念を持っているため、彼は彼以外の誰をも思うことができません。そのような観想を通じ、彼はすぐに彼自身が偉大な聖なる師へ花開きます。芋虫は、そのように、私の23番目のグルです。

24.水

水が私の24番目のグルです。それはあらゆる生き物の渇きを癒やし、無数の木々と全ての生き物を支えます。水はそのように全ての生ける者に役立っていても、それは決してそれ自身を誇りません。それとは逆に、水は謙虚にも最も低い場所を探します。聖者もまた同様に、彼を頼りとするあらゆる生き物に健康、安らぎ、楽しみを授けるべきです。しかし、彼は神の創造物の中で最も謙虚な者として常に生きるべきです。

 そのような謙虚さと献身をもって、私は神の全創造物を私の師とみなし、知恵を集め上げ、忍耐強い努力を通じて、聖なる悟りという私の目標を実現しました。


25人めのグル、体
http://vedabase.com/en/sb/11/9 、第24詩節~第27詩節から)

 おお、王よ、この全ての聖なる師より、私は偉大なる知恵を得ました。では、私が私自身の体から学んだことを説明することを、どうぞお聞きください。

 物質的身体もまた、私の聖なる師です。なぜなら、それは私に厭い離れることを教えるからです。創造と破壊に従属し、それは苦痛を与える死に常に至ります。そのように、私の体を知を得るために使いますが、体が最後には他者によって焼き尽くされるということを常に思いかえし、とらわれのないままに、私はこの世界を遊行します。

 体に愛着する人はお金を貯め込み、妻子、所有物、家畜、召使い、家、親類、友人などの状態をより良いものにし、守ろうとして大変に奮闘します。彼はこの全てを彼自身の体の満足のために行います。木が枯れる前に、未来の木の種をつくるように、死につつある体も次の物質的身体の種を自分の蓄積されたカルマの形で現わします。そのように、物質的存在の存続を確かなものにして、物質的身体は衰え、死にます。

 多くの妻を持つ男は、絶えず彼女たちに悩まされます。彼は彼女たちを扶養する責任があり、そのすべての女性たちは絶えず彼を様々な方向に引っ張り、それぞれが自分たちの自己利益のために奮闘します。同様に、物質的な五感は制限された生命を苦しめ、彼を一度に様々な方向に引っ張ります。一方では、舌が美味しい食べ物を用意するように彼を引っ張ります。次に、渇きは適切な飲み物を得るように彼を引っ張ります。同時に、性的器官はやかましく満足を要求し、触感はやわらかで、気持ちの良い対象を求めます。お腹は満たされるまで彼を苦しめ、耳は心地よい音を聞くように求め、嗅覚は心地よい香りを渇望し、落ち着きのない目は楽しませる光景をやかましく要求します。そのように、五感、器官や手足は、みな満足を要求し、生ける者をたくさんの方向に引っ張ります。

2014年7月12日土曜日

先祖供養の意義、聖典の指示とジニャーナの道、ジニャーニとカルマ

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p340~342

1946年11月18日

 以下は、G.V.スッバ・ラオ氏が私に提供してくれました。T.S.Rから紹介を受けた訪問者がバガヴァーンに、死者に対して年中行事などを行うことによって、我々が彼らに何らかの恩恵を施すことができるのか尋ねました。これに対してバガヴァーンは、「ええ。それはもっぱら人の信仰によります」と答えました。 上の質問と答えのソーマスンダラム・ピッライ氏のバージョンは、以下になります。

質問:
 子孫によって行われる年中行事のような儀式が死者のカルマを取り除くことができるなら、カルマの理論を根底から覆すことになりそうです。なぜなら、人はその悪い行いの不吉な結果から、彼の息子などによって行われた儀式の助けを通じて、逃れるかもしれないからです。

答え;
 そのような儀式は、小さな程度、故人の助けになるだけです。プラーヤスチッタム(*1)や善行が悪い行いの不吉な結果を和らげると言われているのは、同じ原則に基づいています。

 その訪問者が立ち去った後で私はバガヴァーンに、「3年前まで、死者に年中行事を行うことは、彼らが生まれ変わらない限り、彼らに恩恵を施すと思いこんでいました」と尋ねました。バガヴァーンが言葉をさしはさみ、言いました。「彼らが数回生まれ変わっても、彼らは恩恵を受けます。その全ての面倒をみる働きがあります。もちろん、ジニャーナ・マールガは、この全てを言いませんが」。しばらく後に、私は、「バガヴァーンは、人がこの世界の存在を信じるなら、他の世界の存在もまた信じるべきであるとよく言います」と言いました。バガヴァーンはそうですと言いました。私は、「ジニャーニは一切の段階を超越し、彼はどんなカルマ(ヴィディ、もしくは、ニシェーダ)(*2)によっても束縛されません。アジニャーニは、ジニャーナを得るまで、シャーストラに定められた彼の自身のダルマを行うべきです。しかし、彼がジニャーナに達しようと試みている間に、通常のカルマを行わないことの結果に対して責任があるのでしょうか、もしくは、上級のクラスで学んでいる人が下級のクラスを終えているとみなされるのとまさしく同様に、この全てのカルマを行ったとみなされるのでしょうか」と尋ねました。バガヴァーンは、「それは人が追求する道の優越性によります。人が(今世か過去世で)他の道を終えていなければ、彼はジニャーナの道を追求しません。彼はシャーストラに定められた様々なカルマを行っていないのか気をもむ必要はありません。しかし、彼はシャーストラよって禁止されていることを行うことによって、シャーストラの指示に意図的に背くべきではありません。

1946年11月19日

 今日の午前10時30分ごろ、訪問者がバガヴァーンに、「実現した人は、さらなるカルマを持ちません。彼は彼のカルマに束縛されていません。どうして彼はいまだ彼の体に留まらなければならないのですか」と尋ねました。バガヴァーンは、「その質問を尋ねるのは誰ですか。それは実現した人ですか、それとも、アジニャーニですか。あなたはどうして、ジニャーニが何を行うか、なぜ行うのか思い悩まなければならないのですか。あなたは自分自身の面倒を見なさい」と答えました。少し後で、彼は言い足しました。「あなたは自分が体であると思い込んでいます。そのため、あなたはジニャーニもまた体を持つと考えます。ジニャーニが『私は体を持つ』と言いますか。あなたとって、彼は他の人のように体を持ち、体によって物事を行うように見えるかもしれません。燃やされた縄は、依然として、縄のように見えますが、あなたがそれで何かを縛ろうとするなら、それは縄として役立つことはできません。人が自分自身を体と同一視する限り、この全ては理解することが困難です。そのために、そのような質問への答えにしばしば、『ジニャーニの体は、プラーラブダの力が使い果たされるまで、存続し、プラーラブダが使い尽された後、体は抜け落ちる』と言われます。これに関連して使用される例示は、すでに発射された弓は進み続け、その的に当たるというものです。しかし、真実は、ジニャーニは、プラーラブダ・カルマを含め、一切のカルマを超越し、彼は体や、そのカルマにも束縛されません」。

  その訪問者はまた、「人が自らを実現する時、彼は何を見ますか」と尋ねました。バガヴァーンは、「見ることは存在しません。見ることとは、ただ在ることです。自らの実現の境地は、何か新しいものを獲得したり、遠く離れた目的地に到達することではなく、単に、いつもあなたであり、いつもあなたであったものであるだけです。必要とされる全ては、あなたが真実でないものを真実として実現することを放棄することです。我々みなが、現実でないものを現実として実現している、つまり、みなしています。我々はただ、この我々の側の習慣を放棄しなければならないだけです。その時、我々は自ら自らとして実現する、言い換えると、「自らで在り」ます。ある段階において、自分が全く自明である自らを発見しようと試みていたことに人は自分自身を笑います。それでは、この質問へ我々は何が言えますか」と答えました。

 「その段階は見る者と見られるものを超越しています。そこには何かを見る見る者は存在しません。この全てを見ている見る者は、今や、存在しなくなり、自らのみが残ります。」

(*1)プラーヤスチッタム・・・罪滅ぼしの行い
(*2)ヴィディ・・・行うべき行為、ニシェーダ・・・禁じられた行為
 

2014年7月6日日曜日

『リビュ・ギーター』 - 第二十六章、シュリー・バガヴァーン選出の六詩節

◇「山の道(Mountain Path)」、2000年 Jayanthi p209~216

リビュ・ギーター
 叙事詩『シヴァ・ラハシャヤ』の第六部を形作る「リビュー・ギーター」は、カイラーサ山の斜面で、シヴァから聖者リビュに授けられた教えを含んでいます。シヴァの教えは、今度は、ケダラで、リビュによってニダーガと他のタパシヴィンに伝えられました。
 シュリー・バガヴァーンはよく、「リビュ・ギーター」に言及しました。彼は、その朗唱自体がサマーディにいることに等しいと述べました。特に、彼は二十六章を学ぶことを推奨しました。
 我々は、この章の(サンスクリット語の原文からの翻訳である)タミル語のテキストからの翻訳をここに提示します。
 かつて、信奉者からの質問への返答に、リビュとニダーガに関わる物語を助けにして、「私」と「あなた」という概念の重要性をマハルシは説明しました。
 『Maharshi's Gospel(第二部、第一章)』からの関連する文章が以下に複写されます(省略、右のラベル「福音」参照)。我々はまた、シュリー・バガヴァーンによって「リビュ・ギーター」の第五章から選ばれた六詩節をここに提示します。

第26章

未分化の不二の現実への内在

1.
今や、私はあなたに、一切を包含する未分化の現実に内在する方法を詳しく説こう。この教えは秘められしものであり、ヴェーダや他の聖典の助けでもって理解することは困難である。それを愛しく思うデーヴァやヨーギでさえ、大変に苦労して、それを獲得する。私の言うことに倣(なら)い、現実に内在し、幸福であれ。

I shall now expound to you the method of inhering in the all-inclusive and undifferentiated Reality. This teaching is secret and difficult to understand with the help of the Vedas and other scriptures. Even devas and yogis who hold it dear acquire it only with great difficulty. Follow what I say and, inhering in Reality, be happy.

2.
我が息子よ!真理を悟った賢者は語る-現実への絶対的な内在とは、存在‐意識‐至福であり、一切の自らである、不変の、静穏なる、不二のブラフマンと一体になり、あらゆる概念が完全になく、諺(ことわざ)にある乳と水のように、さ迷う心をそれと一体にさせることを意味する、と。

My son! Realised sages say that absolute inherence in Reality means becoming one with the immutable, tranquil and non-dual Brahman which is Existence-Consciousness-Bliss and the Self of all, and making the wandering mind one with it like the proverbial milk and water, absolutely free from all concepts.

3.
この多様な顕れを吟味する時、それが実際には存在せず、万物は、アートマン、自分自身から異ならない、未分化の至高なるブラフマンであると人は悟る。絶え間ない修練によって、この知をあなたと共に堅固にあらせよ。そして、あらゆるものを放棄し、至高なるブラフマンと一体になり、それとして留まりながら、幸福であれ。

When one scrutinises this variety of manifestation one realizes that it does not really exist and that everything is the undifferentiated Supreme Brahman which is not different from the Atman and oneself. Let this knowledge become firm with you by constant practice. Then, discarding everything, become one with the Supreme Brahman and, remaining as that, be happy.

4.
それとして留まれ-吟味される時、これら多様な対象の形をした、いかなる二元性も、わずかの原因と結果の痕跡も示さず、心がその中に吸収される時、二元性の恐れがまるでない(それとして)。揺れ動くことなく、二元性から生じる恐れから解放され、常に幸福であれ。

Abide as That which does not, when scrutinized, show any duality in the form of these various objects or the least trace of cause and effect; that in which, when the mind is absorbed in it, there is no fear of duality at all — and be always happy, unshakeable and free from the fear arising from duality.

5.
それとして留まれ-思いもなく想像もない、安らぎもなく自制もない、心もなく知性もない、混乱もなく確信もない、存在もなく非存在もない、二元性の知覚もない(それとして)。揺れ動くことなく、二元性から生じる恐れから絶対的に解放され、常に幸福であれ。

Abide as That in which there are neither thoughts nor fancies, neither peace nor self-control, neither the mind nor the intellect, neither confusion nor certainty, neither being nor non-being and no perception of duality — and be always happy, unshakeable and absolutely free from the fear arising from duality.

6.
それとして留まれ-どのような欠点もなく美点もない、楽しみもなく苦しみもない、思いもなく沈黙もない、苦悩もなく苦行(*1)もない、「私は体である」という考えがない、どのような対象の知覚もない(それとして)-思いのあらゆる痕跡から解放され、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is neither any defect nor good quality, neither pleasure nor pain, neither thought nor silence, neither misery nor austerities, no 'I am the body' idea, no objects of perception whatsoever — and be always happy, free from all traces of thought.

7.
それとして留まれ-体、心、言葉、他のいかなる働きもない、罪もなく徳もない、愛着もなくその結果もない(それとして)。思いのあらゆる痕跡から解放され、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is no work, physical, mental, verbal or of any other kind, neither sin nor virtue, neither attachment nor its consequences — and be always happy, free from all traces of thought.

8.
それとして留まれ-思いもなく思う者もない、世界の生起もなく維持もなく消滅もない、いかなる時もまるで何も存在しない(それとして)。思いのあらゆる痕跡から解放され、常に幸福であれ。

Abide as That in which there are neither thoughts nor a thinker, neither the arising nor the preservation nor the dissolution of the world, nothing whatsoever at any time — and be always happy, free from all traces of thought.

9.
それとして留まれ-マーヤーもなくその影響もない、知識もなく無知もない、ジーヴァもなくイーシュワラもない、存在もなく非存在もない、世界もなくもない(それとして)。思いのあらゆる痕跡から解放され、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is neither maya nor its effects, neither knowledge, nor ignorance, neither jiva nor Isvara, neither being nor non-being, neither world nor God — and be always happy, free from all traces of thought.

10.
それとして留まれ-神々もなくその崇拝もない、三大神(*2)や彼らへの瞑想もない、至高なるシヴァはなくへの瞑想もない(それとして)。思いのわずかの痕跡からも解放され、常に幸福であれ。

Abide as That in which there are no gods and their worship, none of the three gods or meditation on them, no Supreme Siva nor meditation on Him — and be always happy, without the least trace of thought.

11.
それとして留まれ-成熟するカルマもなくバクティもなくジニャーナもない、享受されるべき行為の結果がない、それから分離した至高なる境地がない、達成の手段も達成されるべき目的もない(それとして)。思いのあらゆる痕跡から解放され、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is neither maturing karma nor bhakti nor jnana, no fruit of action to be enjoyed, no supreme state separate from it, no means of attainment or object to be attained — and be always happy, free from all traces of thought

12.
それとして留まれ-体もなく五感もなく生命力もない、心もなく知性もなく想像もない、自我もなく無知もない、自分自身をそれらと同一視する者が誰もいない、大宇宙もなく小宇宙もない(それとして)。思いのあらゆる痕跡から解放され、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is neither body nor senses nor vital forces, neither mind nor intellect nor fancy, neither ego nor ignorance, nor anyone who identifies himself with them, neither the macrocosm nor the microcosm — and be always happy, free from all traces of thought.

13.
それとして留まれ-欲望もなく怒りもない、貪欲もなく迷妄もない、悪意もなく高慢もない、心の汚れがなく、束縛と解放についての誤った概念がない(それとして)。思いのあらゆる痕跡から解放され、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is neither desire nor anger, neither greed nor delusion, neither ill-will nor pride, no impurities of mind and no false notions of bondage and liberation — and be always happy, free from all traces of thought.

14.
それとして留まれ-始まりも終わりもない、上も下も中間もない、聖地も神もない、捧げ物も敬虔な行いもない、時間も空間もない、知覚対象もない(それとして)。思いのあらゆる痕跡から解放され、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is no beginning or end, no top or bottom or middle, no holy place or god, no gifts or pious acts, no time or space, no objects of perception — and be always happy, free from all traces of thought.

15.
それとして留まれ-四種の聖なる資質(*3)がどれもない、有能なグルも弟子もない、堅固な知識がない、実現された段階がない、二種の解放(*4)がない、いかなる時もまるで何ものも存在しない(それとして)。思いのあらゆる痕跡から解放され、常に幸福であれ。

Abide as That in which there are none of the four spiritual qualifications, no competent guru or disciple, no steady knowledge, no realized stage, no liberation of either kind, nothing whatsoever at any time — and be always happy, free from all traces of thought.

16.
それとして留まれ-ヴェーダや他の聖典もない、思う者がいない、異議やそれへの答えがない、確立すべき理論がない、排除すべき理論がない、一なる自ら以外の何ものもない(それとして)。-思いのわずかの痕跡からも解放され(もなく)、常に幸福であれ。

Abide as That in which there are no Vedas or other scriptures, no one who thinks, no objection or answer to it, no theory to be established, no theory to be rejected, nothing other than one Self — and be always happy, free from (without) the least trace of thought.

17.
それとして留まれ-論議がない、成功も失敗もない、言葉もその意味もない、会話がない、ジーヴァと至高なる存在との間の相違がない、種々の付加物がない(それとして)。思いのわずかな痕跡もなく、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is no debate, no success or failure, no word or its meaning, no speech, no difference between the jiva and the Supreme Being, none of the manifold adjuncts — and be always happy, without the least trace of thought.

18.
それとして留まれ-傾聴など(*5)の必要がない、修練すべきサマーディがない、同じ種類(サジャーティーヤ)の相違も異なる種類(ヴィジャーティーヤ)の相違もそれ自身の内(プラガタ)の相違もない、言葉もその意味もない(それとして)。思いのわずかな痕跡もなく、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is no need for hearing, etc., no samadhi to be practised, no differences of the same kind (sajatiya) or of a different kind (vijatiya) or within itself (pragata), no words or their meanings — and be always happy, free from the least trace of thought.

19.
それとして留まれ-地獄(ナラカ)の恐怖がない、天国(スヴァルガ)の楽しみがない、ブラフマーや他の神々の世界がいない、それらから得られるべきいかなる対象もない、他の世界がない、いかなる類の宇宙もない(それとして)。思いのわずかな痕跡もなく、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is no fear of hell (naraka), no joys of heaven (svarga), no worlds of Brahma or the other gods, nor any object to be gained from them, no other world, no universe of any kind — and be always happy, without the least trace of thought.

20.
それとして留まれ-少しの元素もそのわずかの派生物もない、「私」も「私のもの」という感覚もない、心の想像がない、愛着の汚れがない、いかなる概念もない(それとして)。思いのわずかな痕跡もなく、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is nothing of the elements nor even an iota of their derivatives, no sense of 'I' or 'mine', no fantasies of the mind, no blemish of attachment, no concept whatsoever — and be always happy, without the least trace of thought.

21.
それとして留まれ-三種の体(*6)がどれもない、三種の状態(*7)がどれもない、三種のジーヴァ(*8)がどれもいない、三種の苦悩(*9)がどれもない、五種の覆い(*10)がどれもない、自分自身をそれらと同一視する誰もいない(それとして)。思いのわずかな痕跡もなく、常に幸福であれ。

Abide as That in which there are none of the three kinds of bodies, none of the three kinds of states, none of the three kinds of jivas, none of the three kinds of afflictions, none of the five kinds of sheaths, no one to identify himself with them — and be always happy, without the least trace of thought.

22.
それとして留まれ-感覚ある対象がない、現実を隠す力(*11)がない、いかなる類の相違もない、非現実の対象物を投影する力(*12)がない、いかなる類の力もない、世界についての誤った概念がない(それとして)。思いのわずかの痕跡もなく、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is no sentient object, no power to hide Reality, no difference of any kind, no power of projecting unreal objects, no power of any other kind, no false notion about the world — and be always happy, without the least trace of thought.

23.
それとして留まれ-その中に感覚器官もそれらを使う誰もいない、その中で超越的な至福が体験され、絶対的に直接的なそれ、それを実現し、達成することによって人が不死となるそれ、それになることによって人がこの生死の循環へ戻らない(それとして)。思いのわずかな痕跡もなく、常に幸福であれ。

Abide as That in which there are no sense organs or anyone to use them, that in which transcendent bliss is experienced, that which is absolutely immediate, that by realizing and attaining which one becomes immortal, that by becoming which one does not return to this cycle of births and deaths — and be always happy, without the least trace of thought.

24.
それとして留まれ-それを実現し、その至福を体験するや否や、あらゆる喜びがそれの喜びのように見える、それが自分自身であると明確に知るや否や、自分自身から離れて何も存在せず、あらゆる類のジーヴァが解放される(それとして)。思いのわずかな痕跡もなく、常に幸福であれ。

Abide as That, on realizing which and experiencing the bliss of which, all joys appear to be the joys of That, that, on clearly knowing which to be oneself, there is nothing apart from oneself, and all kinds of jivas become liberated — and be always happy, without the least trace of thought.

25.
それとして留まれ-それが自分自身であると悟るや否や、知られるべき他の何ものもなく、あらゆるものがすでに知られ、あらゆる目的が達成されている(それとして)。思いのわずかな痕跡もなく、常に幸福であれ。

Abide as That, on realizing which to be oneself, there is nothing else to be known, everything becomes already known and every purpose accomplished — and be always happy, without the least trace of thought.

26.
それとして留まれ-自らがブラフマンであると確信する時、容易く達成され、その確信が堅固になる時、ブラフマンの最上の至福の体験に帰着し、心がそれに吸収される時、比類ない完全な満足感を作り出す(それとして)。思いのわずかの痕跡もなく、常に幸福であれ。

Abide as That which is attained easily when one is convinced that one is Brahman, that which results, when that conviction becomes firm, in the experience of the supreme bliss of Brahman, that which produces a sense of incomparable and complete satisfaction when the mind is absorbed in it — and be always happy without the least trace of thought.

27.
それとして留まれ-心がそれに吸収される時、苦しみの完全な終焉、「私」「あなた」「彼」という一切の概念の消滅、あらゆる相違の消失に通じる(それとして)。思いのわずかの痕跡もなく、常に幸福であれ。
Abide as That which leads to the complete cessation of misery when the mind is absorbed in it, and the extinction of all ideas of 'I', 'you' and 'he' and the disappearance of all differences — and be always happy, without the least trace of thought.

28.
それとして留まれ-心がそれに吸収される時、人が他を持たずに留まり、自分自身以外の何ものも存在すると見られず、比類なき至福が体験される(それとして)-思いのわずかの痕跡もなく、常に幸福であれ。

Abide as That in which, when the mind is absorbed in It, one remains without a second, nothing other than oneself is seen to exist and incomparable bliss is experienced — and be always happy, without the least trace of thought.

29.
それとして留まれ-未分化の実在、未分化の意識、未分化の至福、絶対的に不二なる未分化のブラフマンである(それとして)。そして、あなたがそれであるという堅固な確信を持ちて、常に幸福であれ。

Abide as That which is undifferentiated Existence, undifferentiated consciousness, undifferentiated bliss, absolutely non-dual, the undifferentiated Brahman and with the firm conviction that you are That, be always happy.

30.
それとして留まれ-「私」でも「あなた」でも他のあらゆる人でもあり、全ての礎(いしずえ)であり、他の何ものをまるで持たない一なるものであり、極めて純粋であり、未分化の全一である(それとして)。そして、あなたがそれであるという堅固な確信を持ちて、常に幸福であれ。

Abide as That which is 'I' as well as 'you' as well as everyone else, is the basis of all, is one without anything else whatsoever, is extremely pure, the undifferentiated Whole and with the firm conviction that you are That, be always happy.

31.
それとして留まれ-その中に概念も他の何ものもまるで存在せず、自我が存在しなくなり、あらゆる欲望が消え、心が消滅し、あらゆる混乱が終わりを迎える(それとして)。そして、あなたがそれであるという、その堅固な確信を持って、常に幸福であれ。

Abide as That in which there are no concepts or anything else whatsoever, the ego ceases to exist, all desires disappear, the mind becomes extinct and all confusions come to an end and with the firm conviction that you are That, be always happy.

32.
それとして留まれ-その中に体などの意識がなく、対象の知覚がない、その中で心が死に、ジーヴァが現実と一体になり、思いが解消され、もはや人の確信さえ続かないそれ(として)。そして、あなたがそれであるという堅固な確信を持ちて、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is no awareness of the body etc. and no perception of objects, that in which the mind is dead, the jiva becomes one with the Reality, thoughts are dissolved and even one's convictions no longer hold and with the firm conviction that you are That, be always happy.

33.
それとして留まれ-その中でもはやディヤーナもヨーガも、無知も知識も、他のいかなる活動もなく、至高なる現実であるそれ(として)。そして、あなたがそれであるという堅固な確信を持ちて、常に幸福であれ。

Abide as That in which there is no longer any dhyana or yoga or ignorance or knowledge or activities of any kind, that which is the Supreme Reality and with the firm conviction that you are That, be always happy.

34.
それとして留まれ-その中に完全に溶け込む時、人が純粋な至福を経験し、苦しみを決して経験せず、何ものも見ず、再び生を受けず、自分自身を分離した個人と決して思わず、至高なる存在となる(それとして)。そして、あなたがそれであるという堅固な確信を持ちて、常に幸福であれ。

Abide as That in which, when one is completely merged with it, one experiences pure bliss, never experiences misery, sees nothing, does not take birth again, never thinks oneself to be a separate individual, becomes the Supreme Being and with the conviction that you are That, be always happy.

35.
それとして留まれ-まさしく至高なるブラフマン至高なるシヴァ、完全に純粋なる存在至高なる境地、絶対的な意識、至高なる真理である(それとして)。そして、あなたがそれであるという堅固な確信を持ちて、常に幸福であれ。

Abide as That which is truly the Supreme Brahman, the Supreme Siva, the absolutely pure Being, the Supreme State, absolute consciousness, the Supreme Truth and with the conviction that you are That, be always happy.

36.
それとして留まれ-絶対的に純粋な至高なる存在、絶対的な至福、この上なく微細なる存在、自ら光り輝くもの、不二で、未分化のものである(それとして)。そして、あなたがそれであるという堅固な確信を持ちて、常に幸福であれ。

Abide as That which is the absolutely pure Supreme Being, absolute bliss, the supremely subtle Being, the Self-Effulgent, non-dual and undifferentiated one and with the conviction that you are That, be always happy.

37.
それとして留まれ-絶対的な真理、至高なる静穏、永遠なる存在、絶対的な無属性、自ら、絶対的に未分化の至高なる存在である(それとして)。そして、あなたがそれであるという堅固な確信を持ちて、常に幸福であれ。

Abide as That which is absolute truth, supreme tranquillity, eternal being, absolutely attributeless, the Self, the absolutely undifferentiated Supreme Being and with the conviction that you are That, be always happy.

38.
それとして留まれ-経験的見地からは万物であり、絶対的見地からは何ものでもなく(無である)、実在‐意識‐至福、常なる静穏、それから何ものも分離せず、自立して存在するものである(それとして)。そして、あなたがそれであるという堅固な確信を持ちて、常に幸福であれ。

Abide as That which is everything from the empirical point of view and nothing from the absolute point of view, Existence-Consciousness-Bliss, always tranquil, with nothing separate from it, the self-existent being and with the conviction that you are That, be always happy.

39.
おお、ニダーガよ。私は至高なる存在と一体である境地を明確に説いた。「私は未分化の至高なる存在である」と絶えず思うことによって、あなたはその境地を達成でき、不断の至福を享受できる。その後、ブラフマンとなりて、あなたはサンサーラの苦しみを決して経験しない。

I have thus, O Nidagha, clearly explained to you the state of being one with the Supreme Being. By constantly thinking that you are the undifferentiated Supreme Being, you can attain that state and enjoy constant bliss. Thereafter, having become Brahman, you will never experience the misery of samsara.

40.
「万物は、実在‐意識‐至福である、至高なる存在であり、私はそれである」。この純粋な思いを絶えず培うことによって、不純な思いを取り除け。次に、我が息子よ、その思いさえも捨て、完全の境地に常に内在し、あなたは不二で、未分化の至高なる存在となり、解放を達成する。

"Everything is the Supreme Being which is Existence-Consciousness-Bliss and I am That": by constantly cultivating this pure thought, get rid of impure thoughts. Then, my son, discarding even that thought and always inhering in the state of fullness, you will become the non-dual and undifferentiated Supreme Being and attain liberation.

41.
純粋な思いと不純な思いは、心の特徴である。至高なる存在には、さ迷う思いは存在しない。それゆえ、それとして留まり、心の純粋な思いと不純な思いから解放され、石や丸太のごとく動きなく留まれ。その時、あなたは常に幸福でいる。

Pure and impure thoughts are a feature of the mind. There are no wandering thoughts in the Supreme Being. Therefore abide as That and, free from the pure and impure thoughts of the mind, remain still like a stone or a log of wood. You will then be always happy.

42.
未分化の至高なる存在を絶えず思い、それにより至高なる存在への思いを含む、あらゆる思いを忘れることによって、あなたは一切を包含する至高なるブラフマンとなる。この教えを聞き、理解する大罪人でさえ、そのあらゆる罪を取り除き、未分化の至高なる存在となる。

By constantly thinking of the undifferentiated Supreme Being and forgetting thereby all thoughts including the thought of the Supreme Being, you will become the all-comprehensive Supreme Brahman. Even a great sinner who hears and understands this teaching will get rid of all his sins and become the undifferentiated Supreme Being.

43.
無数のヴェーダは、心の純粋さを達成するための瞑想をすでに定めている。心が純粋になった人々が容易に解放を達成するために、「私たちは絶対的な、無限の至福である」と悟り、未分化の一切を包含する至高なるシヴァの内に石のごとく動きなく留まれ。この清浄な境地の性質が私によって詳しく説かれた。

The endless Vedas have already prescribed meditation for attaining purity of mind. In order that those who have become pure in mind may easily attain liberation and, realizing that they are absolute and boundless bliss, remain still like a stone in the undifferentiated and all-comprehensive Supreme Siva; the nature of this immaculate state has been expounded by me.

44.
それゆえ、「知られる万物はシヴァであり、かのシヴァは自分自身である」と絶えず思うことによって、心の純粋さを達成し、それにより、ブラフマンと完全に一体である境地に留まり、今ここで、解放が達成される。私は真理を語った。このように、賢者リビュは、全てである境地をニダーガに詳しく説いた。

Therefore, attaining purity of mind by constantly thinking that everything that is known is Siva and that that Siva is oneself, and thereafter abiding in the state of complete identity with Brahman, liberation can be attained here and now. I have spoken the truth. In this manner, Sage Ribhu expounded the state of being all to Nidagha.

45.
「私は常に、実在‐意識‐至福である、それである」と確信し、完全に一体である境地においてそれとして留まる時、サンサーラなる非現実の束縛を捨て去り、解放を達成する。これが我々の至高なる未分化の主(神)の大いに至福に満ちた踊りの意義である。

When one is convinced that one is always that which is Existence-Consciousness-Bliss and abides as that in a state of complete identity, one casts off the unreal bondage of samsara and attains liberation. This is the significance of the highly blissful dance of our Supreme and undifferentiated Lord.

原注:
(*1)苦悩を取り除くために実践される苦行 
(*2)創造者ブラフマー、維持者ヴィシュヌ、破壊者シヴァ
(*3)①現実と非現実の分別②この世と来世の楽しみへの欲望がないこと③感覚の制御、心の制御などのような6つの美徳の所有④解放への熱望
(*4)いまだ生きている内の解放と死後の解放
(*5)傾聴(シュラヴァナ)、熟考(マナナ)、修練(ニディディヤーサナ)
(*6)物質的な体、心からなる体、原因となる体
(*7)目覚め、夢、眠り
(*8)精神的に向上するのに十分に適した者、それほど適していない者、まるで適していない者
(*9)体の苦悩、神々が原因によって起こる苦悩、元素が原因によって起こる苦悩
(*10)身体的覆い、生命力の覆い、心の覆い、知性の覆い、至福の覆い
(*11)アーヴァラナ・シャクティ
(*12)ヴィクシャパ・シャクティ


リビュ・ギーター、第五章
シュリーバガヴァーン選出
1.
「私は体である」という概念が、感覚ある内なる器官(つまり、心)である。それはまた、人を惑わすサンサーラでもある。それは根拠のないあらゆる恐怖の源である。そのわずかの痕跡も存在しないなら、万物はブラフマンであると見出される。(17)

The concept ' I-am-the-body' is the sentient inner organ (i.e. the mind). It is also the illusive samsara. It is the source of all groundless fears. If there is no trace of it at all everything will be found to be Brahman.

2.
「私は体である」という概念が、原初の無知である。それは堅いハートの結び目(フリダヤ・グランティ)として知られている。それは存在と非存在の概念を生ぜしめる。そのわずかの痕跡も存在しないなら、万物はブラフマンとして見出される。(19)

The concept ' I-am-the-body' is the primal ignorance. It is known as the firm knot of the heart (hridayagranthi). It gives rise to the concepts of existence and nonexistence. If there is no trace of it at all everything will be found to be Brahman.

3.
ジーヴァは概念である。神、世界、心、欲望、行為、悲しみ、そして、他の一切のものは、すべて概念である。(25)

Jiva is a concept. God, the world, the mind, desires, action, sorrow and all other things are all concepts.

4.
概念なく留まることが、未分化の境地である。それが(ブラフマンへの)内在である。それが知恵である。それが解放である。それが自然な境地(サハジャ)である。それがブラフマンである。それがシヴァである。概念がまるで存在しないなら、万物はブラフマンとして見出される。(36)

Abiding without concepts is the undifferentiated state. It is inherence (in Brahman). It is wisdom. It is Liberation. It is the natural state (sahaja). It is Brahman. It is Siva. If there is no concept at all everything will be found to be Brahman.

5.
体などは概念でしかない。聴聞など(つまり、聴聞、熟考、瞑想)は概念である。自らの探求は概念である。他の一切のものもまた、概念である。概念が、世界、ジーヴァ、神を生ぜしめる。概念以外に、何ものもまるで存在しない。万物は、実のところ、ブラフマンである。(30)

The body, etc. are only concepts. Hearing, etc. (i.e. hearing, reasoning and contemplating) are concepts. Self-Enquiry is a concept. All other things are also concepts. Concepts give rise to the world, the jivas and God. There is nothing whatever except concepts. Everything is in truth Brahman.

6.
心は非現実である。それは手品のショーのようである。それは不妊の女性の息子のようである。それは完全に存在していない。心は存在しないため、概念は存在せず、グルは存在せず、弟子は存在せず、世界は存在せず、ジーヴァは存在しない。あらゆる概念は、実際、ブラフマンである。(26)

The mind is unreal. It is like a magic show. It is like the son of a barren woman. It is absolutely non-existent. Since there is no mind there are no concepts, no Guru, no disciple, no world, no jiva. All concepts are really Brahman.