2014年7月12日土曜日

先祖供養の意義、聖典の指示とジニャーナの道、ジニャーニとカルマ

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p340~342

1946年11月18日

 以下は、G.V.スッバ・ラオ氏が私に提供してくれました。T.S.Rから紹介を受けた訪問者がバガヴァーンに、死者に対して年中行事などを行うことによって、我々が彼らに何らかの恩恵を施すことができるのか尋ねました。これに対してバガヴァーンは、「ええ。それはもっぱら人の信仰によります」と答えました。 上の質問と答えのソーマスンダラム・ピッライ氏のバージョンは、以下になります。

質問:
 子孫によって行われる年中行事のような儀式が死者のカルマを取り除くことができるなら、カルマの理論を根底から覆すことになりそうです。なぜなら、人はその悪い行いの不吉な結果から、彼の息子などによって行われた儀式の助けを通じて、逃れるかもしれないからです。

答え;
 そのような儀式は、小さな程度、故人の助けになるだけです。プラーヤスチッタム(*1)や善行が悪い行いの不吉な結果を和らげると言われているのは、同じ原則に基づいています。

 その訪問者が立ち去った後で私はバガヴァーンに、「3年前まで、死者に年中行事を行うことは、彼らが生まれ変わらない限り、彼らに恩恵を施すと思いこんでいました」と尋ねました。バガヴァーンが言葉をさしはさみ、言いました。「彼らが数回生まれ変わっても、彼らは恩恵を受けます。その全ての面倒をみる働きがあります。もちろん、ジニャーナ・マールガは、この全てを言いませんが」。しばらく後に、私は、「バガヴァーンは、人がこの世界の存在を信じるなら、他の世界の存在もまた信じるべきであるとよく言います」と言いました。バガヴァーンはそうですと言いました。私は、「ジニャーニは一切の段階を超越し、彼はどんなカルマ(ヴィディ、もしくは、ニシェーダ)(*2)によっても束縛されません。アジニャーニは、ジニャーナを得るまで、シャーストラに定められた彼の自身のダルマを行うべきです。しかし、彼がジニャーナに達しようと試みている間に、通常のカルマを行わないことの結果に対して責任があるのでしょうか、もしくは、上級のクラスで学んでいる人が下級のクラスを終えているとみなされるのとまさしく同様に、この全てのカルマを行ったとみなされるのでしょうか」と尋ねました。バガヴァーンは、「それは人が追求する道の優越性によります。人が(今世か過去世で)他の道を終えていなければ、彼はジニャーナの道を追求しません。彼はシャーストラに定められた様々なカルマを行っていないのか気をもむ必要はありません。しかし、彼はシャーストラよって禁止されていることを行うことによって、シャーストラの指示に意図的に背くべきではありません。

1946年11月19日

 今日の午前10時30分ごろ、訪問者がバガヴァーンに、「実現した人は、さらなるカルマを持ちません。彼は彼のカルマに束縛されていません。どうして彼はいまだ彼の体に留まらなければならないのですか」と尋ねました。バガヴァーンは、「その質問を尋ねるのは誰ですか。それは実現した人ですか、それとも、アジニャーニですか。あなたはどうして、ジニャーニが何を行うか、なぜ行うのか思い悩まなければならないのですか。あなたは自分自身の面倒を見なさい」と答えました。少し後で、彼は言い足しました。「あなたは自分が体であると思い込んでいます。そのため、あなたはジニャーニもまた体を持つと考えます。ジニャーニが『私は体を持つ』と言いますか。あなたとって、彼は他の人のように体を持ち、体によって物事を行うように見えるかもしれません。燃やされた縄は、依然として、縄のように見えますが、あなたがそれで何かを縛ろうとするなら、それは縄として役立つことはできません。人が自分自身を体と同一視する限り、この全ては理解することが困難です。そのために、そのような質問への答えにしばしば、『ジニャーニの体は、プラーラブダの力が使い果たされるまで、存続し、プラーラブダが使い尽された後、体は抜け落ちる』と言われます。これに関連して使用される例示は、すでに発射された弓は進み続け、その的に当たるというものです。しかし、真実は、ジニャーニは、プラーラブダ・カルマを含め、一切のカルマを超越し、彼は体や、そのカルマにも束縛されません」。

  その訪問者はまた、「人が自らを実現する時、彼は何を見ますか」と尋ねました。バガヴァーンは、「見ることは存在しません。見ることとは、ただ在ることです。自らの実現の境地は、何か新しいものを獲得したり、遠く離れた目的地に到達することではなく、単に、いつもあなたであり、いつもあなたであったものであるだけです。必要とされる全ては、あなたが真実でないものを真実として実現することを放棄することです。我々みなが、現実でないものを現実として実現している、つまり、みなしています。我々はただ、この我々の側の習慣を放棄しなければならないだけです。その時、我々は自ら自らとして実現する、言い換えると、「自らで在り」ます。ある段階において、自分が全く自明である自らを発見しようと試みていたことに人は自分自身を笑います。それでは、この質問へ我々は何が言えますか」と答えました。

 「その段階は見る者と見られるものを超越しています。そこには何かを見る見る者は存在しません。この全てを見ている見る者は、今や、存在しなくなり、自らのみが残ります。」

(*1)プラーヤスチッタム・・・罪滅ぼしの行い
(*2)ヴィディ・・・行うべき行為、ニシェーダ・・・禁じられた行為
 

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