バガヴァーンとの対話:7
トリッチーからの信奉者が彼の息子を講堂に連れてきました。ナマスカーランをバガヴァーンに行った後、彼は座りました。その子供は、まだとても幼かったのですが、明らかにとても心配そうな様子を示していました。
彼ら二人が座った後、バガヴァーンは「どの列車で来ましたか」と尋ねました。
その信奉者は、「今朝の8時30分にやって来ました」と答えました。
それから、バガヴァーンは、「ダッタートレーヤ(心配そうな顔つきの少年)は元気ですか」と尋ねました。
信奉者は、「あらゆる種類の薬やマントラを試しましたがうまくいかず、最後の拠り所としてシュリー・バガヴァーンのもとへ来ました」と答えました。彼はこう言いながら、哀願する仕草で手を組み合わせました。
シュリー・バガヴァーンは男の子に話しかけました。「ダッタートレーヤという名前なのに、どうしてそのように心配しなければいけないのですか。あなたはいつも幸福に満ちていなければいけません。そうではなく、どうしてあなたは至福を心によって台無しにしなければいけないのですか」。
それから、バガヴァーンは、男の子と他の全ての信奉者に、古(いにしえ)の偉大なジニャーニ、ダッタートレーヤの伝説(*1)を語りました。
・・・
ダッタートレーヤは腰布さえつけずに森を歩き回ったものでした。彼は常にブラフマンの至福で満ちていました。これを目にして、ヤドゥ・マハーラージ(地方の領主)は心の中で思いました。「彼が常に幸福に満ちあふれているのは、いったいどうしてなのか。私はあらゆるものを持っている。それでも、私は苦しまなければならない」。
この思いでいっぱいになり、ある日、彼はダッタートレーヤのもとへ行き、「あなたが常に至福で満ちているのは、いったいどうしてですか」と尋ねました。
ダッタートレーヤは、「至福以外に何がありますか」と答えました。
王は彼に、「その至福は、どのようにしてあなたのもとへ来たのですか」と尋ねました。
ダッタートレーヤは、「このアーナンダ(至福)を得るために、私は数多くのアーチャーリヤ(師)を持ちました。それは彼らを通じてやって来ました」と答えました。
王が彼に彼の師は誰だったのか尋ねた時、ダッタートレーヤは長い話を語りました。
「おお、王よ。私は24(人)のグルを持ちました。彼らは私の知性により行われた探求によって把握されました。これらのアーチャーリヤを通じて得たジニャーナのみのおかげで、私はムクタとしてこの世界を遊行しています。アーチャーリヤとは誰なのか理解しなさい。大地、風、虚空、水、火、太陽、月、野鳩、ニシキヘビ、大海、バッタ、蜂、象、蜂蜜を集める人、鹿、(魚)(*2)、遊女のピンガラー、子供、小さな女の子、矢師(*3)、蛇、他に少しです。24(人)の中で、私は少しを除きました。
大地から、私は忍耐を学び、風から遍在性を、虚空から無執着を、火から不染汚(ふぜんな)を、水から純粋さを、そして、月から全ての変化は体にとってあり、自らにはないという真理を学びました。
太陽は万物を等しく照らしますが、それらによって影響されません。このことから、ヨーギはたとえ対象を見ても、それらを相互に作用させるグナによって影響されるべきでないと学びました。
野鳩から、住まいに愛着する者は誰でも、彼の高潔な立場から滑り落ちることを学びました。私は、人はニシキヘビのように自然とやってきた食べ物を何であれとるべきであると学びました。大海から、穏やかに、威風堂々と、うろたえず、推し量ることが難しくいるべきであると学びました。
ランプの炎へ落ち入るバッタは、焼け死にます。このことから、私は女性への渇望という炎へ陥る男は滅びることを理解しました。蜂から、人は他者に与えるように強いることなく、ただ体を養うのに十分な食物をとるべきであると学びました。
力強い雄の象でさえ、雌の象と接触することによって、苦しみを味わいます。このことから、人は女性に触れらたり、その近くで時を過ごすなら、同様に苦しみを被ることになると学びました。
何日にもわたり蜂によって集められた蜂蜜は、蜂蜜を集める人によって盗み取られます。彼から、大変な苦労をして稼いだ財産はたいてい他の人々によって盗み取られることを学びました。
鹿は、狩人の音楽によって誘われた後、狩人の網に捉えられます。同様に、サンニャーシンは、モーハ(欲望によって引き起こされた幻惑)に屈するなら、束縛に陥ります。それゆえ、鹿から、サンニャーシンは感覚の対象に注意を向けるべきではないと理解しました。
その舌を抑えることができず、釣り針に捉えられた後、魚は死にます。魚から、舌(つまり、美味しいものへの欲望)を抑えることができない者は誰でも苦しむことを学びました。
遊女のピンガラーは昔、しっかりと着飾った後、彼女にお金を持ってくる約束をしていた恋人を待っている間、ぶらついてしていました。彼が姿を見せなかった時、彼女はとても悲しく思い、落胆しました。彼女の顔は真っ青になり、彼女の心は苦しみました。彼女は苦しみの原因を調べ、つまらない楽しみの不快な性質を理解しました。彼女があらゆる幸福の源が至高の自らであると気づいた時、彼女はヴァイラーギャ(無執着)を達成しました。至高の自らを夫として崇拝することによって、彼女はジニャーナの真の幸福を達成しました。遊女のピンガラーから、外側のどのようなものにも幸福は存在せず、唯一の価値ある達成は自らの幸福であると学びました。
子供から、人は名誉と不名誉に無頓着でいるべきであると学びました。
さあ、小さな女の子の話をしましょう。彼女の両親が村にいない時に、多くの人が彼女を嫁にとろうとやって来ました。彼女は彼らに食事を出したいと思いましたが、彼らのために調理するお米を得るために彼女が自分で稲を精米しようとし始めた時、彼女の腕輪が大きな音を立てていたために恥ずかしくなりました。それぞれの手から一つ取り除いた後、それ以上の音はなりませんでした。この小さな女の子の行為から、ヨーギは一人で留まるべきであると理解しました。
矢師から、人は自分の目的に一心にいるべきであると学びました。
蛇は鼠が作った穴で幸福に暮らします。その蛇から、他人の家で幸福に暮らすことを学びました。
私は25番目のグルを持っています。それは私の体です。この体は、私のジニャーナとヴァイラーギャの原因です。愛と献身を持って、自らであるハリ(神)に溶け込んだので、私の境地は今や何も知らない者と等しくあります。」
このように、ダッタートレーヤはヤドゥ・マハーラージに25(人)のグルを通じて把握した一切のジニャーナを語り、物語を終えました。
・・・
男の子にダッタートレーヤが王に語った全てのウパデーシャ(教え)を話し、バガヴァーンは恵み深くも彼に尋ねました。「あなたもまた、ダッタートレーヤと呼ばれてはいませんか。少なくとも、あなたの名前のために、あなたは幸福でいなければいけません」。
(*1)『バーガヴァタ・プラーナ(シュリーマッド・バーガヴァタム)』、第11巻、第7章から
(*2)元の英文には、魚はありませんが、下で説明されているので付、ここにけ加えています。
(*3)元の英文では、「射手(archer)」ですが、下で「矢師(arrow-maker)」となっているので、それに合わせています。
Sanjeevani Bhelandeによるダッタートレーヤ・アーラティ
24人のグル
-シュリーマッド・バーガヴァタムから-
24人のグル
-シュリーマッド・バーガヴァタムから-
かつて、ヤドゥ王は主ダッタートレーヤ(アヴァドゥータ)を森で見かけ、彼に呼びかけました。「尊者、あなたは実に非常に有能で、精力的で、賢明です。あなたには親類知己がおらず、家族さえもいないのに、どうしてそんなにも幸福に満ち、自らに満足していられるのですか」。
アヴァドゥータ(一切の世俗的欲望をふるい落とした者)は、「私の至福と満足は自らの実現の結果です。私は必要な知恵を全創造物から、24(人)のグルを通じて得ました。あなたにそれを詳しく述べましょう」と答えました。
シュリー・ダッタートレーヤは自然から24(人)のグルを得ました。彼はヤドゥ王に語りました。「私の師の多くは私の鋭敏な判断力によって選ばれ、彼らから知恵を思いのままに得て、私は世界を放浪します.... 大地、空気/風、虚空、火、太陽、鳩、ニシキヘビ、海、蛾、象、蟻、魚、遊女のピンガラー、矢師、幼児/遊び戯れる男の子、月、蜜蜂、鹿、猛禽、少女(乙女)、蛇、蜘蛛、芋虫、水が私の24(人)の師です」。
1.大地
全ての生物は、そのカルマの過去の蓄えに応じて、様々な身体的形態を身につけ、地上で生活します。人々は大地を耕し、掘り、踏みつけます。彼らはその上で火を焚きます。それでも、大地はその道から毛筋ほども外れることはありません。その一方で、大地は全ての生物に食と住をあてがいます。これを見て、私は賢者はどのような状況下でも彼の忍耐、愛、廉直の誓いから決して外れるべきではなく、人はその人生を生ける者の福利のために捧げるべきであると学びました。山々と川を伴う大地は、私の最初のグルです。
2.空気
空気は、それ自体は純粋で、無臭です。そして、空気にはどのような差別も好みもなく、良い匂いのものにも、いやな臭いのものにも吹きつけます。それは一時的にその周りにあるものの匂いを帯びるように見えますが、わずかの間に、それはその清浄な性質を表します。このことから、真理を熱望する者は、喜びと悲しみのような人生の両極によってや、五感の対象物によって影響されずに、世界で生きるべきであると学びました。彼は彼の心と言葉を無用な対象によって汚されないように保つべきです。それを目にすることによって、この全てを学んだため、空気は私の2番目のグルです。
3.虚空
魂もまた、遍在する虚空のようにあります。時に虚空(または、空間)が深く曇ったり、ほこりや煙で満ちているのに私は気づきました。日の出や夜間に、それは様々な色を帯びます。しかし、実際、虚空は常にその無色の自らを保ち、どのようなものにも決して触れられず、汚されません。このことから、真の聖者は、彼自身の身体的過程を含む、時間の内の現象世界のどのようなものにも触れられたり、影響されずに、虚空や空間のように常に純粋でなければならないと学びました。彼の内なる存在は、空間のように、物事や出来事への感情的反応が全くありません。そのように、私は虚空、もしくは、空間を私の3番目のグルとして受け入れました。
4.火
私の4番目の師は、火の元素です。時には、それはまばゆい炎として現れます。時には、灰に覆われた、くすぶる燃え殻として現れます。しかし、それは常に万物に潜在的な熱として存在しています。火の神は、その人の道徳的価値に関わらず、全ての人の捧げ物を受け取り、人の罪を焼き払います。そして、依然として、それは火の神として常に純粋な神性のままあります。彼はそのような信奉者の罪によって汚されません。そのように、完全に悟った聖者も、全ての人の食物を受け取り、その人の罪を焼き払い、与える人を祝福すべきです。火の神はそれ自身特定の形を持ちませんが、燃える燃料と関わる時、そのような見かけの上の形を帯びます。そのように、真の自らも、本来は無形ですが、それぞれの物質的構造に関わる時、神々、人間、動物、木々の形で現れます。世界のあらゆる形の源は、またそれらの終焉のように、常に不可思議なままです。万物は、その起源と終焉の合間にだけ現れます。それらの源と終焉は、真の自らであり、それは永遠不変で、顕現せず、遍在しています。火の要素の性質はそのようです。現れる火は、それが焼き尽くす様々なもの同じ灰に変化させます。そのように、自らの実現の知恵も、事物の特性と顕現した形を幻として排除し、それらの一つの元々の本質をそれそのものとして実現します。このように、火の要素は私の4番目のグルです。
5.太陽
私の五番目のグルは太陽です。我々が日々の生活において目にする太陽は一つですが、様々な器の中の水に反射する時、多くのように見えます。同様に、ただ一つの現実の自らは、身体的構造によって反射する時、生き物の多くの自分として現れます。太陽が自然の中の多くの形を我々の視界に照らし出すように、聖者もまた彼の信奉者に万物の本質を明らかにします。
6.鳩
私は鳩からも知恵を得ました。かつて、つがいの鳩が木の上で一緒に暮らしていました。彼らは子供を生み、深い愛情をもって育てていました。ある日、狩人が若いひな鳥を罠に捕らえました。子供たちの食べ物をもって森から戻った雌の鳥は、彼らの苦境を目にし、彼らを見捨てることができず、運命を共にするために罠に飛び込みました。すぐ後に、雄の鳩が姿を見せ、その愛する者との別離に耐えられず、彼もまた罠に飛び込み、同じく命を落としました。これを熟考し、たとえ知的な人間として生まれた後でさえ、人がどのように所有欲という輪の中に捕らえられ、彼自身の精神的破壊をもたらすのかを理解しました。元々は自由である自らは、体の感覚と関わる時に、それと同一化し、そうして、誕生と死と苦しみの終わりなき循環に捕らえられます。そのように、鳩は私の6番目のグルです。
7.ニシキヘビ
ニシキヘビは怠け者で、獲物を求めて活発に外で動きたがりません。横たわって待ち構え、とりあえずその飢えを満たすに足るように、通りがかった生き物を何でもむさぼり食べます。このことから、知恵を求める人は楽しみを追い回すのをやめ、彼が自然と得るどのようなものも満足して受け取るべきであると学びました。ニシキヘビのように、彼は眠りと目覚めの状態をふるい落とし、自らへの絶え間のない瞑想の状態に留まるべきです。そのように、ニシキヘビは私の7番目の知恵の師でした。
8.海
大海の驚くべき性質を熟考し、私は多くの知恵を得ました。氾濫する川がいくらそれに合流しても、海は高さを保ちます。夏に全ての川が干上がる時、その高さは毛筋ほども下がることもありません。そのようにまた、人生の喜びは知恵ある聖者を得意がらせず、その悲しみもまた彼を意気消沈させません。海が浜辺でその境界をまたがないように、賢者は感情に引きずられて最上の道徳律を逸脱することは決してありません。海のように、彼は征服できず、何ものも彼を困らせることはできません。底知れない大海のように、彼の本質と彼の知恵の深さは誰にも容易には理解できません。そのように私に教えた大海は、私の8番目のグルです。
9.蛾
蛾(もしくは、より正確には、バッタ)が火に誘われてその中に飛び込み、燃え尽きてしまうのをしばしば私は目にしました。そのようにまた、思慮の浅い人は五感の惑わす楽しみにそそのかされ、そうして、誕生と死の止むことのない循環に捕らえられます。その一方で、賢者は、知恵の炎をたとえ一目でさえ見る時、全てのものを脇にのけ、その中に飛び込み、制限された自らであるという幻を焼き尽くします。そのように、蛾は私の9番目のグルでした。
10.象
象が私の10番目のグルでした。人間は森に剥製の雌の象を作り上げます。野生の象はそれを仲間だと間違え、近づき、悪賢い人間は象を巧みに足かせで縛ります。そのようにまた、罪深い人間は異性によって誘惑され、のぼせ上がりという足かせに縛られます。解放の探求者は、愛欲から自由になることを学ばなければいけません。象は、そのように、私の師の一人です。
11.蟻
蟻は、食べることも他の生き物に施し与えることもない、たくさんの食物をため込みます。結果として、他のより力強い生き物は蟻から奪い取ろうという気になります。そのようにまた、単なる物質的なものに過ぎない財宝を蓄える人は強盗や殺人の被害者になります。しかし、蟻は我々に教えるべき役に立つことも持っています。蟻は疲れを知らない働き手であり、障害物や妨げがどれほどあっても決してその財宝を集める努力をやめようとはしません。そのようにまた、知恵の探求者は自らの実現への努力に倦(う)むことなくいなければなりません。小さな蟻はこの崇高な真理を私に教え、私の11番目のグルになりました。
12.魚
魚は貪欲にえさを飲み込み、その途端、かぎ針に捕らえられます。このことから、美食への渇望によって、どのように人が身を滅ぼすことになるのか理解しました。味覚が克服される時、他の一切も克服されます。その他に、魚には役に立つ特徴があります。魚はその住まい、すなわち、水から決して離れません。そのようにまた、人も真の自らから決して目を離すべきではなく、常にその中にあらねばなりません。そのように、魚は私の12番目のグルになりました。
13.ピンガラー
私の心を目覚めさせた13番目のグルは、ピンガラーという名の遊女です。ある日、ある客が自分にたっぷり支払うだろうという期待をして、彼女は彼を心待ちにしていました。夜遅くまで、彼女は待ち続けました。彼が姿を見せなかった時、彼女は終に迷いから目が覚め、このように熟慮しました。「ああ!私は何と愚かなのか!永遠の至福を帯びた内なる神性を無視し、愚かしくも私の愛欲と貪欲を刺激する放蕩者(好色家)を待っていた。これからは、私は自らに私自身を費やし、彼と一体になり、永遠の喜びを勝ち取りましょう」。そのような悔い改めを通じて、彼女は幸福を達成しました。その他にまた、その明らかな趣旨を熟慮し、真理を熱望する者は、サーダナの副産物に過ぎない、より劣った超常的な力の魅力を同じように拒絶すべきであると理解しました。他人の手からものを手に入れようという誘惑は苦しみの種であり、それらの放棄が無限の喜びを実現するための唯一の手段であると学びました。
14.矢師
かつて、私は鋭い矢を作ることに完全に没頭していた矢師を目にしました。彼はその他一切をまるで意識しなくなり、そばを通った王の行列に気づきさえしませんでした。この光景は自らへのそのような一心不乱の、無我夢中の観想が世俗の取るに足りない関心事へのあらゆる誘惑を自然に排除するという真理に私を目覚めさせました。それが聖なる修練における成功の唯一の秘訣です。そのように、矢師は私の14番目のグルです。
15.遊び戯れる男の子
小さな男の子や女の子は、名誉も不名誉も知りません。彼らは恨みや偏見を誰に対しても抱きません。彼らは自分たちのものは何か、他人のものは何か知りません。彼らの幸福は彼ら自身、彼らの生来の創造性から湧き出てきて、幸福でいるために外的対象や条件を必要としません。完全な悟りを開いた聖者もまたそのようであると私は理解しました。遊び戯れる男の子は、そのように、偶然に私の15番目のグルになりました。
16.月
自然における万物の中で、月は独特です。白月(びゃくげつ)と黒月(こくげつ)の間に、月は満ち欠けするように見えます。実のところ、月は常に同じままにあります。このことにおいて、月は人の自らのようです。人は幼児期、少年期、青年期、円熟期、老年期を経るように見えますが、彼の真の自らは変わらないままにあります。全ての変化は体にだけ付属していて、自らには付属していません。また、月は太陽の光を反射するだけで、それ自身の光を持ちません。そのようにまた、人の心は真の自らの意識の光の反射でしかありません。この真理を教え、月は私の16番目のグルになりました。
17.蜜蜂
蜜蜂は花から花へ飛び回り、花を少しも傷つけることなく、蜜を吸い出します。そのようにまた、真理の探求者はすべての聖典を学ぶべきですが、聖なる修練のために不可欠なものだけを心に留めるべきです。私の17番目のグル、蜜蜂から吸収した教えはそのようです。
18.鹿
鹿は音楽を大変好むと言われています。密猟者は、鹿を狩る前に鹿をおびき寄せるために音楽を用います。このことから、感情と感覚的欲望は、単なる世俗の音楽に目がない真理を熱望する者をすぐに泥沼に沈め込み、終には彼が以前に達成したどのような精神的進歩も失うことになるということを学びました。この真理を私に教えた鹿は、私の18番目のグルです。
19.猛禽
猛禽が私の19番目のグルです。ある日、私はそのような鳥が死んだ鼠を運んでいるのを目にしました。カラスやワシのような他の多くの鳥が、今や獲物を打ち落とそうと試みて、その頭を蹴りつけ、さらに脇腹をつつき、それを攻撃していました。哀れな鳥は、そのように、たいそう苦しめられました。終に、その鳥は賢明にも獲物を落とし、他の全ての鳥はそれにめがけて突進しました。そのように、鳥は大変な煩わしさから脱し、安堵のため息をつきました。このことから、世俗的な楽しみを追い求める人は、すぐに同じものを追い求める仲間と衝突することなり、そのような争いや敵意に直面しなければならないと学びました。彼が世事への渇望の克服を学ぶなら、彼は多くの不幸から免れることができます。私はこれが世界の平和への唯一の道であると理解しました。
20.少女(乙女)
かつて、私は、ある家族が息子の結婚の約束を求めて、少女の家を訪問するのを目にしました。その時、彼女の母親は家を離れていました。それで、少女自身が飲食物で客をもてなさなければなりませんでした。彼女はすぐに穀物をすりこぎで粉にし始めました。手につけた腕輪が互いにぶつかり始め、音をカンカンと鳴らしました。彼女は客が音を聞き、彼女に大変な迷惑をかけたことを気の毒に思うことを危惧しました。ヒンドゥー人(教)の少女として、いかなる時も手につけた腕輪すべてを取り外すことは彼女にとって望ましくありませんでした。それで、彼女はそれぞれの手に二つつけ、残りのすべてを取り外しました。その時でさえ、それらは互いにぶつかり合い、音を立てていました。それで、彼女はそれぞれの手に一つだけ腕輪をつけ、仕事を静かに終えることができました。このことを熟慮し、幾人かの真理の探求者が共に住む時、多くの望まれない噂が結果として起こり、一点に集中した努力でもって聖なる修練に従事することができないことを理解しました。独りでいる時にだけ、真理を熱望する者は彼の務めを遂行できます。この真理を知り、それ以後、私は独居を頼みとしました。そのように、少女は偶然に私の20番目のグルになりました。
21.蛇
私は蛇が決して自分で棲みかをつくらないことに気づきました。シロアリが蟻塚を自分で作った時、やがては蛇が蟻塚に住むためにやって来ます。同様に、世俗の人々は自分で家を建てるにあたり、多くの困難に耐えなければなりませんが、隠遁した僧にはそのようなものはありません。世俗の人々は僧院を建て、それに僧が住みます。もしくは、彼は荒れ果てた古寺に、もしくは、陰をつくる木立の下に行きます。蛇は古い皮を脱ぎ捨て、脱皮します。そのようにまた、人生の最後で、ヨーギは体を意識的に離れ、彼自身の真の自らの完全な自覚の中へ行き、死という現象によって脅かされません。その一方で、彼は擦り切れた衣を喜んで捨て、新しい衣を身につけるように、彼の古い体を捨て去ります。そのように、私の21番目のグルは私に教えました。
22.蜘蛛
蜘蛛が私の22番目のグルです。蜘蛛は体液の形の糸から巣を張ります。 しばらく後、蜘蛛は巣をそれ自身へたぐり寄せます。至高者(神)は全創造物をそれ自身から映し出し、しばらく後に、消滅の時にそれを自分自身に引き込みます。個々の生命もまた、五感と心をそれ自身の内に持ち、人間、もしくは、他のどのような生物としてでも誕生する時、それらを感覚器官、行為の器官、体全体として映し出します。その潜在的傾向に従い、生物はそのように生まれ、その生活に必要とされるあらゆる手段や道具を寄せ集めます。その生涯の終わりにおいて、生命は再び五感、心を引き込み、死の時に傾向性を獲得します。そのように、私は蜘蛛から学びました。
23.芋虫
芋虫もまた、私の知恵の師の一人です。スズメバチはその芋虫(幼虫)を安全な隅に運び、巣の中に閉じ込め、それの周りをブンブン飛び回ります。若い芋虫は絶え間ない羽音に大変におびえ、ブンブン飛び回るスズメバチ以外何も考えられなくなります。母親へのそのような途切れのない観想によって、芋虫もまたすぐにスズメバチに成長します!同様に、真の弟子は彼自身のグルの聖なる卓越性によって魅了され、畏怖の念を持っているため、彼は彼以外の誰をも思うことができません。そのような観想を通じ、彼はすぐに彼自身が偉大な聖なる師へ花開きます。芋虫は、そのように、私の23番目のグルです。
24.水
水が私の24番目のグルです。それはあらゆる生き物の渇きを癒やし、無数の木々と全ての生き物を支えます。水はそのように全ての生ける者に役立っていても、それは決してそれ自身を誇りません。それとは逆に、水は謙虚にも最も低い場所を探します。聖者もまた同様に、彼を頼りとするあらゆる生き物に健康、安らぎ、楽しみを授けるべきです。しかし、彼は神の創造物の中で最も謙虚な者として常に生きるべきです。
そのような謙虚さと献身をもって、私は神の全創造物を私の師とみなし、知恵を集め上げ、忍耐強い努力を通じて、聖なる悟りという私の目標を実現しました。
25人めのグル、体
(http://vedabase.com/en/sb/11/9 、第24詩節~第27詩節から)
おお、王よ、この全ての聖なる師より、私は偉大なる知恵を得ました。では、私が私自身の体から学んだことを説明することを、どうぞお聞きください。
物質的身体もまた、私の聖なる師です。なぜなら、それは私に厭い離れることを教えるからです。創造と破壊に従属し、それは苦痛を与える死に常に至ります。そのように、私の体を知を得るために使いますが、体が最後には他者によって焼き尽くされるということを常に思いかえし、とらわれのないままに、私はこの世界を遊行します。
体に愛着する人はお金を貯め込み、妻子、所有物、家畜、召使い、家、親類、友人などの状態をより良いものにし、守ろうとして大変に奮闘します。彼はこの全てを彼自身の体の満足のために行います。木が枯れる前に、未来の木の種をつくるように、死につつある体も次の物質的身体の種を自分の蓄積されたカルマの形で現わします。そのように、物質的存在の存続を確かなものにして、物質的身体は衰え、死にます。
多くの妻を持つ男は、絶えず彼女たちに悩まされます。彼は彼女たちを扶養する責任があり、そのすべての女性たちは絶えず彼を様々な方向に引っ張り、それぞれが自分たちの自己利益のために奮闘します。同様に、物質的な五感は制限された生命を苦しめ、彼を一度に様々な方向に引っ張ります。一方では、舌が美味しい食べ物を用意するように彼を引っ張ります。次に、渇きは適切な飲み物を得るように彼を引っ張ります。同時に、性的器官はやかましく満足を要求し、触感はやわらかで、気持ちの良い対象を求めます。お腹は満たされるまで彼を苦しめ、耳は心地よい音を聞くように求め、嗅覚は心地よい香りを渇望し、落ち着きのない目は楽しませる光景をやかましく要求します。そのように、五感、器官や手足は、みな満足を要求し、生ける者をたくさんの方向に引っ張ります。
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