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2014年8月17日日曜日

努力と忍耐の必要性 - 無努力(自然体)の達成のために

◇「山の道(Mountain Path)」、1973年4月 p55~57

努力と無努力 

論説(*1)

 時間と空間、様々な伝統と人種において幅広く隔てられた賢者らによって、時代を通じて、霊的努力の必要性は力強く強調されてきました。それにも関わらず、彼らの本質的な教えは、我々は決して自らでなくなることはない、解放されるべき生命は存在しない、新たに自らを獲得するということない、なぜなら、(もしそうでないなら)自らが永続的でないことを暗示するから、です。では、なぜ修練と努力がそのように強調されているのでしょうか。

 事実は、シュリー・バガヴァーンが他の賢者らと一致して説くように、我々が我々の至福に満ちた境地を自覚していないからです。「試みは、純粋な至福を覆う無知を取り除くことのみ注がれます。この無知は、自らを体や心などと誤って同一視することによります。無知という幻の覆いが取り除かれる時、常に存在する真理があるがままに明らかにされます。これを達成するためには、修練が必要です」。修練とは、心にいわば習癖をつくる長年の傾向(サンスカーラ)を取り除くことを意味します。それが平らかにされ、その根っこが切られない限り、幻と苦しみがはびこります。それは真理への無知の中にとりこまれた人生についてまわります。「自我は幻と同意語です。無知が決して存在しなかったと知ることが、全ての霊的教えの目的です」。探求者自身が、無知が決して存在しなかったと見出し、体験的に気づくために、探求者の素質に応じて定められた霊的修練と瞑想によって’心の潜在的傾向を無効にすることを、グルは探求者の努力に委ねます。

あなた自身が、努力しなければならない
仏陀は、ただ道を指し示すのみ...
                                                                                       -ダンマパダ(*2)

 全ては真理を覆う傾向を取り除く修練次第です。そのように、探求者は、探求に必然的に伴う骨の折れる全ての負担を引き受ける決心をし、(実際に)引き受けることができなければなりません。「まこと、人は神であり、まこと、神は人である.... しかし、これは隠されている.... 時が神の王国なる、この宝を隠している.... 人はその他あらゆることを知っているが、自分自身を知らない」とマイスター・エックハルト(*3)は言いました。それゆえに、努力が必要です。

 悟りを開いた慧能は、万物は非現実であり、それを現実として知覚することは完全に誤りであると壁にガーター(詩節)を記しましたが(*4)、真理の探求者にどのように努力するのか学ぶように強く勧め、そして、「あなたがたが修練するならば私の意に沿い、あなたがたは道を踏み外さない」と熱心に説きました。

 コーランが「全ての知識と力は神と共にある」と断言するのとまさしく同様に、イエス・キリストは「神の意思なくして一羽の雀でさえ落ちることはない」と断言しましたが、キリストとコーランは共に人々に正しい努力を強く勧めています。バガヴァーンはそれについてまったく断定的でした。これを例示するために、彼はよく聖者ターユマーナヴァルを引用しました。「あなたが静かにしていれば、至福が付き従う。全ての聖典がそれを言い、我々は毎日、偉大な人々から、我々のグルさえからもそれを耳にするが、我々は決して静かにしておらず、マーヤーと感覚対象物の世界へさ迷い入る。それゆえ、意識的で意図的な努力が、かの静寂の無努力の境地を得るために必要とされる。」

 「無努力の境地が得られるまで、全ての人が何らかの方法で努力します」とバガヴァーンは強く主張します。人にとって努力しないことは不可能ですが、人がより深くに行くと、一切の努力はやみ、あたかも努力のしずくが恩寵の無限の海によってのみ込まれるのを待ちかまえているかのように、自らが引き継ぎます。努力と苦しみの一度の生涯、もしくは、その数々の生涯は、比べてみれば何でもありません。探求者の心がそれに委ねられるに十分に謙虚であるか、純粋である時、恩寵は信じられないほどに素晴らしく寛大です!たとえ永遠をかいま見ただけでさえ、これを直接的に体験した人々の実感と証言はそのようなのです。

 そのように永遠をかいま見た後、探求者はその記憶を持つだけです。心がその経験を留めるほど十分に安定していない限り、最大限の努力と忍耐が不可欠です。自分が目指しているもの、それ以外のどのようなものも心を満たせないと知るため、この場所から本当に真剣なサーダナが始まるのかもしれません。逆に、自我がでしゃばるなら、そのような体験さえ忘れられるか、もしくは、高慢や自己欺瞞に通じる方便になるかもしれません。

 自らの実現に通じる瞑想は、怠惰な空想でも、空虚な無行為でもなく、心の制御を得ようとする強烈な内なる苦闘です。「我々が霊的現実(*5)の知識を得なければならないとまさしく同様に、我々はその修練を獲得しなければならない」とイブン・アタ‐イッラー(*6)は忠告します。大変長く思いの支配下にいたため、その過程を逆にするのは容易なことではありませんが、「熱心な努力は決して失敗しません」とバガヴァーンはくり返し我々に保証しました。そして、編者は、この保証はいくらくり返し言っても言い過ぎるということはないと繰り返し言います。波は上がったり、下がったりします。しかし、最も低い引潮から、近づいてくる波によって、探求者は最も高きに上ることができます。恩寵は常に存在しています。影を離れ、太陽が全てを公平に照らしているのを見ることは我々次第です。普段の義務を私心なく、その力の及ぶかぎり行うことにおいて、人は安らぎと偉大な高みにも霊的に昇ることができる、と賢者らは言います。

 道元は、古典『正法眼蔵』の中で、自分自身を仏陀という最高の理想と同一視しながら、理想を実践へ移すために必要とされる努力を怠る者たちを叱責します。霊的努力を不要として捨て去ることは、本心では真理のために努力する気がないことをうまく釈明する知的合理化でしかありません。彼はさらに、あらゆる人が仏法の道具であると説明します。「一度たりとも、自分がそうではないと思ってはいけない。修練によって確実に、人はそれを直接に体験するだろう」。

 修練と忍耐は、必ず成果をもたらします。古(いにしえ)の師はみな、それに手を焼きました....「100戦の勝利(と敗北)の後、人は偉大な安らぎを得る」とするなら、それは戦いです。「全ては瞑想の修練に帰する」と白隠は『瞑想の歌』(*7)の中で言います。

 我々は想像上の雲を追い払うために全人生を修練に投じなければなりません。楽に成功を達成した人がいるなら、バガヴァーンは「彼は必要な全ての努力を前世で行ったと受け取ってかまいません」と言いました。

 物質的全世界と霊的現実の間には類似があります。世界は反射でしかありません。それがヘルメス(*8)の言明、「上にあるがごとく、下にもある」の真意です。オリゲネス(*9)もまた、天上の事柄の様式と影から、「上にあるものはまた、下にもある」と主張しました。スポーツ、音楽、芸術、工芸などにおいて無努力性(*10)を達成するためには、我々は大変な努力を継続して行わなければなりません。これが限定された目的を達成することに適用されるなら、目的が無限である時、どうしてそれを適用すべきでないのですか。もしくは、バガヴァーンが言うように、「無努力の境地が得られるまで、全ての人が何らかの方法で努力します。では、どうして自らを得ることに努力を向けないのですか」。今までに練習や案内人なしでエベレストに昇った人がいますか。そして、これはエベレスト以上です!シャンカラは、ブラフマンが全ての自らとして実現される前、現象的世界のあらゆる相互作用はその間十分に現実的であると言います。いったんブラフマンが実現されるなら、あらゆる他の知識の序列はアヴィドヤー(無知)になりますが、それまでは、知識の低い階層は知識としてその独自の現象的領域で有効です。我々が夢の中で空腹を感じる時、それを満たすのは夢の食べ物だけです。これはまた、幻の世界の中の幻の努力にも、直接の生き生きとした体験においてそのように(幻として)理解されるまで、当てはまります。

 ほとんど超人的な霊的努力に成功した後、ミラレパ(*11)は彼の師マルパによって後世の堕落した人間は努め励むことができないだろう、努力を怠るだろうと教わりました。シュリー・クリシュナの最後の言葉の趣旨もまたそのようです。様々な聖典が、この時代の人類の全般的な衰退を生き生きと描いています。

 知的理解の段階で満足している者は、目的地からほど遠く、「達することなく達っした」という幻想に陥りがちです。今日では、この時代の精神の中で、努力は必要でないと説く多くの師、いわば、安楽椅子グル(*12)がいます。曰く、人は初めから落ち着いた心を持つべきである。曰く、必要とされる全ては我々自身の不在を見ることである。曰く、実現は2・3週間の超越瞑想(*13)の内に保障される、などなど。そのような教えが、この時代の多くの追随者を魅了することに何の不思議もありません!端的に言って、全ての霊的努力は、我々自身が精神的に作り上げた幻に打ち勝つために、心を静めることを目的にします。「グナからなる幻はとても克服しがたい」とシュリー・クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の中で言います。

 落ち着いた心とは、人が自我性という幻の限界を打ち破り、無限に至ったことを暗示し、初心者やいまだ探求している人々には当てはまりません。「あなたが思いを超えた境地に達するなら、三世界は消え去るだろう」(黄檗希運禅師、『宛陵録』(*14))。

 誰が自分自身の不在を見るのでしょうか。見るその者は存在しています。さらに、「不在」もまた存在を暗示する概念です。

 超越瞑想は、先験的な知識無くして修練することはできません。なんと、それは人が思いを超越したことや、心を克服していることを意味しますが、そのような状態で、さらに探求する必要がどこにありますか。患者への薬のように、教えは探求者に適したものであるべきです。聖典やアドヴァイタを引用したり、マントラを与えることは難しくありませんが、教えより偉大であるグルからもたらされる変容させる力を欠くなら、効果的ではないでしょう。

 つまるところ、ある現代の教え手たちは、相対的な現象的状態を否定することによって、努力なく、もしくは、ほとんど努力なく、超越的な無努力の境地を当然のこととするのに反し、ジニャーニは、実在の一体性において、そして、最高の水準から語りますが、形を持った状態のその独自の領域における相対的妥当性を認識し、努力を強調しつつ悟りへの様々な道を説きます。ウパニシャッドの中で、ブラフマンは「高くも低くもある彼」として描かれています。

 世界は自堕落、快楽、安楽に屈しており、それらは収穫逓減の法則(*15)に従い、たいてい終には退屈になります。努力と忍耐を通じてのみ、自堕落は、至高の幸福と無上の喜びに通じる自制に変じることができます。

 要約すると、無努力は熱心な努力を通じて達成でき、その努力は決して失敗しません。そのように、賢者らは言います。

(*1)「論説(editorial)」とは編集者が出版物上で意見を述べる記事のことですが、1973年4月号の「Mountain Path」の編集者はルシア・オズボーンなので、彼女が記した記事と考えていいと思います。
(*2)中村元訳、『ダンマパダ』、第20章 「道」、276、「汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう」。
(*3)マイスター・エックハルト、http://en.wikipedia.org/wiki/Meister_Eckhart
(*4)神秀が「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時時に勤めて払拭せよ。塵埃を惹かしむること莫れ」と詠んだのに対し、慧能は「菩提本(もと)樹無く、明鏡も亦(また)台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」と詠んだ。
(*5)al-baqiyah
(*6)Ibn Ata-Illah、おそらくhttp://en.wikipedia.org/wiki/Ibn_Ata_Allah
(*7)『Song of meditaion』、『(白隠禅師)座禅和讃』。上の引用は、「夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり。布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、そのしな多き諸善行、皆この中に帰するなり」の部分であると思います。
(*8)ヘルメス・トリスメギストス、http://en.wikipedia.org/wiki/Hermes_Trismegistus
(*9)オリゲネス、http://en.wikipedia.org/wiki/Origen
(*10)「effortlessness」、「自然な巧みさ、自然体」とも訳せる。
(*11)ジェツン・ミラレパ、http://en.wikipedia.org/wiki/Milarepa
(*12)「armchair gurus」。armchairには「観念的な、机上の空論の」という意味がある。
(*13)「transcendental meditation」、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーによる瞑想法。
(*14)英語:Zen Master Huang Po、『The Wan Ling Record』
(*15)「the law of diminishing returns」。ここでは、快楽を増やそうとさらに刺激を増しても、それに比例して快楽は増えず、刺激に対して得られる快楽が減って行く、というような意味であると思います。

2014年3月1日土曜日

バガヴァーンの言葉 - 1918年、C.V.スブラマニア・アイヤルの記録

◇「山の道(Mountain Path)」、1979年7月 p157~158

 バガヴァーンの言葉


 1918年6月、チットゥール県のC.V.スブラマニア・アイヤルにより記録されました。
  1. 心を内に向け、あなた自身の自らに安らいなさい。
  2. 心が束縛の原因です。
  3. 一つまた一つと放棄し、安らぎに留まりなさい。
  4. 我々が得るものを我々は失います。それゆえに、欲するなかれ。
  5. 二種類の瞑想があります。一つは進んだサーダカによって修練されるニルグナ・ディヤーナであり、彼は瞑想する者自身を知ろうと努めます。もう一種類は、それより進んでいない人々により修練されるサグナ・ディヤーナであり、いくぶん回り道です。そこでは、瞑想者、瞑想、瞑想の対象が究極的には一つに溶け込みます。
  6. 「私は決して生まれていなかった」と知るようになる時、私は決して死にません。死は生まれる者にとってあります。私は決して生まれませんでした。私は体を持たず、それゆえ、私は決して死にません。私はあらゆる所にいます。私がどこに行くことができ、どこに来ることができますか。
  7. 心が死んでいる時、彼は再び死にません。
  8. ジャグラート(目覚め)においてスシュプティ(眠り)を得なさい。そうすれば、あなたはジニャーニとなります。
  9. 心を内に向け、見る者を探しなさい。そうすれば、あなたはあなたが見る者であり、対象的世界は存在しないということを見出します。
  10. 心はそれ自身を主体と対象-見る者と見られるもの-に分けました。それゆえ、名と形からなる外側の世界は独立して存在しません。
  11. ジーヴァは、心に映ったブラフマンの影です。
  12. 人は前世において多くのカルマを行ったかもしれません。その中の少しだけ、今世のために選ばれ、彼は今世においてその結果を享受しなければなりません。それは幻灯機による興行のようであり、興行師は上映で披露されるスライドを少しだけ選び、残りのスライドは他の上映のためにとっておかれます。しかし、自らの知を得ることにより、カルマを滅ぼすことは可能です。カルマは過去の経験の結果であり、様々なカルマはスライドです。そして、心が投影機です。カルマは破壊されねばならず、そうすれば、映像もなく、サンサーラもありません。
  13. 私は心の支配者です。私は心ではありません。たいていの人々は心を自らとみなし、彼ら自身に苦しみをもたらします。
  14. グルは人にとって必要です。彼は実現への道の導き手として役立ちます。しかし、導くグルなくして真理を知った人々もいます。そのような人々は過去の転生において学んだに違いありません。一言か、二言で実現の道に向けるのに十分な人々もいれば、一方、どのような進歩をしうる前に何年も努力して進まなければならない人々もいます。
  15. ディヤーナは真理の実現のために必要です。全ての人が目的に達するために敷かれた道-ヨーガ、バクティ、ジニャーナ-の中で、彼らに合うものを選ばねばなりません。ヴィチャーラもまたヨーガであり、単なる書籍の学習ではありません。
  16. ジーヴァが彼自身をパラブラフマンとして知り、安らぎに留まる時、それが至高の沈黙(モウナム)です。
  17. 自らは不変です。全ての変化は心の変化です。アヴィドヤー(無知)を通じ、心の変化がアートマンに帰せられます。
  18. 砂糖でできたお菓子を見てみなさい。ナスの形のものもあれば、マンタパムや馬のように形作られているのもありますが、それら全ては一つの材料、砂糖からできています。同じように、この世界の対象物は様子や大きさ、または名や形は様々ですが、全てはブラフマン以外の何ものでもありません。
  19. アーシュラマ(グリハスタやブラフマチャーリヤのような人生の段階)は肉体に関連してのみ存在します。アートマンにはアーシュラマはありません。
  20. 「どうして人は幻の支配下にいなければならないのですか」という質問にバガヴァーンは、「幻を持つのは誰か探求しなさい。そうすれば、あなたは幻が存在しないことを見出します」と答えました。
  21. あなたは恐怖を持つべきではありません。なぜなら、アートマンはあらゆる所にあり、あなたはアートマンだからです。分離の感覚がある時に、恐怖が生じます。
  22. アドヴァイタ哲学のみが全ての試験に首尾よく耐えられます。他の学派は、それら自身の理論に合わせるためにヴェーダの聖句を無理に曲げています。
  23. 人は超常的な力を望みますが、彼らが得るものを彼らはいつの日か失わなければなりません。その力を求めることは、あなたがその力を得ようと試みる力よりも、あなたが劣っていることを暗示します。心の全ての働きは、あなたを束縛の状態に留めようとします。それゆえ、欲望を放棄し、何ものにも依存しないように。なぜなら、あなた自身が力と至福の貯蔵庫であるからです。他の一切のものを放棄し、あなたの心を安らぎに留めなさい。

2012年7月26日木曜日

意図的な努力から無努力へ、人の努力(プルシャーカーラム)の必要性

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

46年1月11日 (後略)

コロンボ出身の若者:
 J・クリシュナムルティは、意図的な集中の方法とは違って、無努力で無選択の自覚の方法を教えます。どのように瞑想を行うのが最良なのか、そして瞑想の対象がどのような形をとるべきか、シュリー・バガヴァーンは説明してくださるでしょうか。

バガヴァーン:
 無努力で無選択の自覚は、我々の本質です。我々がそれを得られるか、または、その状態にいられるならば結構です。しかし、人は努力、意図的な集中の努力なくして、それに到達できません。古くからある一切のヴァーサナーは、心を外に運び、外側の対象物に向けます。そのような一切の思いは放棄され、心が内に向けられねばなりません。そのためには、大部分の人にとって努力が必要です。

 もちろん、全ての人が、全ての本が「スンマ・イル(*1)」、つまり、「静かにありなさい、または、じっとしていなさい」と言います。しかし、それは簡単ではありません。ですから、この一切の努力が必要なのです。「スンマ・イル」で示されるマウナ、または、至高の境地を即座に達成した人がいても、必要な努力がすでに前世で終わっていたのだと考えられます。

 したがって、無努力で無選択の自覚は、意図的な瞑想の後のみに到達されます。その瞑想はあなたが最も気に入るどんな形をとってもよいのです。他の一切の思いを近づけないために何があなたの助けになるか見つけ、その方法をあなたの瞑想として採用しなさい。

 これに関連して、バガヴァーンは聖者ターユマーナヴァル(*2)の「ウダル・ポイ・ユラヴ(タミル語)」から5詩節と52詩節を、「パヤプ・プリ(タミル語)」から36詩節を引用しました。要旨は次のようになります。

 「あなたがじっとしていれば、至福が付き従う。しかし、あなたが心に何度この真理を伝えても、心は静かにしていない。静かにしようとしないのは、この心である。『静かにありなさい、そうすればあなたは至福を得る』と心に言うのは心である。全ての聖典がそれを言い、我々は毎日、偉大な人々からそれについて耳にし、我々のグルでさえもそれを言うが、我々は決して静かにおらず、マーヤーと感覚の対象物の世界へさ迷い入る。それゆえ、意識的で意図的な努力が、マウナの境地、すなわち、静かに在る境地を得るために必要とされる。」

(*1)スンマ・イル・・・タミル語。スンマは「静かに、動かないで」、イルは「在れ、留まれ」を意味する。
(*2)ターユマーナヴァル・・・18世紀前半に生きたタミルの詩聖。シャイヴァ・シッダーンタ(聖典シヴァ派)の哲学を表した。

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

1947年2月12日 (後略)

(93)グルの面前でのサーダナ 

 今日、私は午後3時ごろに講堂に到着しました。バガヴァーンは手が空いており、信奉者に尋ねられた質問に答えていました。質問の中の一つが次のものでした。

 「スワーミー、バガヴァーンの面前で行われたジャパとタパ(*1)は通常より大きな結果を生じると言われています。そうであるなら、あなたの面前で行われた悪い行為についてはどうですか。」

 バガヴァーンは、「良い行為が良い結果を生じるなら、悪い行為は悪い結果を生じるに違いありません。ベナレスでの牝牛の贈り物が贈り主に大きなプニャ(徳)を生じるなら、そこで牝牛を殺すことは大きなパーパ(罪)になります。あなたが神聖な場所で行われた小さな徳のある行為が多大な利益を生み出すというなら、罪深い行為は同じく多大な害を生み出すはずです。自分が行為者であるという感覚がある限り、良い行為であれ、悪い行為であれ、あなたは自分の行為の結果に向き合わねばなりません」と答えました。

 その人が続けて、「悪い癖を捨て去りたいという望みがあるのですが、ヴァーサナーの力がとても強いのです。我々は何をすべきでしょうか」と言いました。

 バガヴァーンは、「それを捨て去るためには、人の努力がなければなりません。良い仲間、良い交際、良い行為、そのような全ての良い習慣がヴァーサナーを除去するために獲得されなければなりません。努力し続けるにつれ、心の成熟と神の恩寵と共に、終にはヴァーサナーは消滅し、努力が実ります。それはプルシャーカーラム(人の努力)(*2)と呼ばれています。それを求めて励むことなくして、神があなたに対して好意的であることをどうして期待できるでしょうか」と言いました。

 別の人が話の穂を継ぎ、「全世界は神のチドヴィラーサム(*3)で、一切のものはブラフマーマーヤム(*4)であると言われています。それでは、我々はどうして悪い癖や悪い習慣を捨て去らねばならないのですか」と言いました。

 バガヴァーンは、「なぜでしょうか?あなたに言いましょう。人間の体があります。その中に何らかの傷があると仮定しなさい。それが体の小さな部分に過ぎないという前提の下に、あなたがそれを無視するなら、それは体全体に痛みを引き起こします。一般的な治療でそれが治らないならば、医者がやってきて、メスで傷のある箇所を切り取り、汚れた血液を取り除かねばなりません。病気にかかった部分が切り取られなければ、それは膿みます。術後にそれを包帯しなければ、膿がでます。それは行いに関して同じことです。悪い癖と悪い行いは、体の中の傷のようです。人がそれらを捨て去らなければ、彼は奈落の底に落ちます。ですから、全ての病気に適切な治療が与えられねばなりません」と答えました。

(*1)タパ・・・タパス(苦行、宗教的修練・訓練)と同じ意味。
(*2)プルシャーカーラム・・・プルシャは「人、もしくは自ら」、カーラムは「行い、努力」。
(*3)チドヴィラーサム・・・「心の想像、遊び、暇つぶし」。
(*4)ブラーマーマーヤム・・・「ブラフマンの力、エネルギー」。

2012年7月25日水曜日

落ち着きのない心に打ち勝つには努力を要する - 象の鼻と牛の喩え

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 326. 1937年1月13日 (p302~304)

 長い間(アーシュラムに)住んでいる付添人による質問への答えとして、シュリー・バガヴァーンが言いました。

 全ての人が心の落ち着きのなさに不満を言います。彼らに心を見つけさせましょう。そうすれば、彼らは知ります。確かに、瞑想するために座る時、思いがいくらでも湧き上がってきます。心とは思いの塊でしかありません。思いの弾幕を突き進むもうとする企ては成功しません。どんな手段によってでも自らに住まうことができれば良いのです。

 そのようにできない人のために、ジャパ(*1)やディヤーナ(*2)が定められています。それは、鼻を制御するために象に鎖を与えるようなものです。象の鼻はいつも落ち着きがありません。街路に連れ出された時、鼻はあらゆる方向に動きます。持ち運ぶ鎖が与えられるなら、(鼻の)落ち着きのなさは抑えられます。

  落ち着きのない心も同様です。ジャパやディヤーナに従事させるなら、他の思いは取り除かれます。そして、心は一つの思いに集中します。そうして、心は安らかになります。これは安らぎが長い間の厳しい努力なしに手に入るという意味ではありません。他の思いに打ち勝たなければなりません。

 別の例があります。雌牛が悪事を働き、草を食べるために隣の家の牧草地に入り込んだとしましょう。彼女はその内緒の癖から簡単には離れられません。どうしたら彼女を小屋に留めておけるのか考えてください。無理やり牛舎の中につないでも、彼女は悪事を働く機会を待っているだけです。牛舎の中で彼女をおいしい草で誘うなら、最初の日は一口食べ、再び逃げ出す機会を待っています。次の日は二口食べます。日がたつにつれ、彼女はどんどん食べるようになり、終には自分の悪い傾向から離れます。悪い癖がすっかりなくなる時、彼女を自由にしておいても大丈夫です。隣の牧草地に入って行きません。たとえ牛舎で叩かれても、その後はその場所を離れません。

 心も同様です。思いとして現れている潜在するヴァーサナー(*3)の力によって、心は外をさ迷うことに慣れています。内に含まれているヴァーサナーがある限り、ヴァーサナーは外へ出て、それ自体を消費しなければなりません。思いが心を構成しています。心とは何か探求し、思いが退き、探求者は思いが自らから生じていることを知ります。

 我々が「心」と呼ぶのは、これらの思いの塊です。思いが自らから生じていると悟り、思いの源に留まるなら、心は消えます。今、人が一切の思いを排除することが難しいと気づくのと同様に、心が存在するのをやめ、安らぎの至福が実現された後、その時、人は思いを引き出すことが難しいことに気づきます。ここで、心とは、悪事を働く雌牛です。思いとは、隣の家の牧草地です。思いのない人の根源の存在とは、牛舎です。

 安らぎの至福は、妨げるにはあまりにもったいないものです。ぐっすり眠る人は起こされ、用事を気にするように命じられるのを嫌います。眠りの至福は、思いから生まれる働きの犠牲にするにはあまりに魅力的なものです。思いのない境地は自分の根源的な境地であり、至福に満ちています。そのような境地を離れ、思いに縛られた不幸せな状態に向かうのは惨めなことではないですか。

 思いのない境地に留まりたいと思うなら、厳しい努力は避けられません。人の本来の根源的な境地を取り戻す前に、戦って道を切り開かねばなりません。この戦いに勝利し、目的に達するなら、敵、つまり、一切の思いは自らの内に退き、完全に消えます。思いが敵です。思いは、万物の創造に等しいのです。思いがなければ、世界もなく、創造者である神も存在しません。自らの至福が、唯一在るものでしかありません。

(*1)ジャパ・・・神の名や聖なる文句などを声に出して復唱すること。
(*2)ディヤーナ・・・瞑想。心の中でジャパをすること、など
(*3)ヴァーサナー・・・心の潜在的傾向。

Talk 563. 1938年10月22日 (p540)

 ある一団がシュリー・バガヴァーンを訪問しにやってきました。彼らの内の一人が、「どうしたら心を正しく保てますか」と尋ねました。

マハルシ:
 言うことを聞かない雄牛は、牧草によって牛舎に誘い込まれます。同じように、心は善い思いによって誘い込まれなければなりません。

信奉者:
 しかし、心は落ち着いたままでいません。

マハルシ:
 うろつき出ることに慣れた雄牛は、うろつくことに喜びを覚えます。しかしながら、彼はおいしそうな牧草で牛舎に誘い込まれなければなりません。それでも、彼は隣人の牧草地に侵入し続けます。同じようなおいしい牧草が、自分の場所で食べられると徐々に理解させなければなりません。しばらく後、彼はうろつき出ることなく、牛舎に留まります。後に、牛舎から追い出されても、隣人の牧草地に入り込むことなく牛舎に帰ってくる時がやってきます。そのように、心もまた、正しい道へ行くように鍛練されねばなりません。心は徐々に正しい道に慣れてゆき、間違った道に戻らないでしょう。

信奉者:
 心に示されるべき善い道とは何ですか。

マハルシ:
 神についての思いです。