シヴァリンガとヴィブーティ
ルーシー・コーネリッセン
シヴァリンガの意義に関する以下の有益な助言は、故スワーミ・サンティナートの著書である『Experiences of a Truthseeker』の中の「Note on Sivalinga」の章に基づいています。
ヴィブーティに関する文章は、ポンディチェリのL'Institut Francais d'Indologie の出版物である『Somasambhupaddhati』の中のこのテーマへの脚注に従います。著者はフランス人のサンスクリット語学者であるエレーヌ・ブルンナー・ラショー女史です。彼女はバガヴァーンの信奉者であり、彼女がポンディチェリに住んでいた時、長年アーシュラムを頻繁に訪問していました。南インドへの外国からの訪問者は、その最初の一歩からシヴァ神崇拝の二つの最も偉大な象徴に出会うことに気づきます。それは主シヴァの表現であるシヴァリンガ、そして、白い印であるヴィブーティであり、それによってシヴァ派はマハーデーヴァ、偉大なる神の崇拝者であると自認しています。
しかしながら、その象徴の1番目のシヴァリンガは、依然として主の創造的な力の象徴として頻繁に誤って解釈されています。2番目のヴィブーティ、聖なる灰の意味はほとんど知られていません。
リンガは多くの意味を持つサンスクリット用語であり、その第一の主要なものは「~の現れ(兆候)」です。煙は、火の現れ(リンガ)です。黄土色の衣服は、サンニャーサの現れ(リンガ)です。あるものの一部がその全体のリンガであり、概念などにおいていつも全体に関係づけられています。そのようにリンガは一種の印でありますが、シヴァリンガの場合「創造的な力」という狭い意味に限定されません。それはサンスクリット用語で男根を意味するシシュナやウパシュタと同意語ではありません。特殊な場合のみ、特殊な文脈に関連して、その遥かに派生的な特殊な意味においてそれは使われます。
仮にリンガという用語とそれに与えられる形が、神の創造的や生産的な力を本当に意味しているなら、この言葉とこの形はブラフマーに用いられるほうがより適切でしょう。ブラフマーは全インドで創造者と思われていて、至高の神の創造的側面を象徴していますが、主シヴァは破壊の側面を表しています。
見識ある崇拝者にとって、主シヴァは真の知という永遠の理想、完全な自らの実現という理想、絶対的な解放という理想です。彼はヨーギーシュワラ、ヨーギの主であり、トゥヤーギーシュワラ、世俗を放棄した人々の主です。彼らによって、シヴァは永遠に実現された放棄という理想の完全な具現(自ら)と考えられています。彼は欲望の神、カーマの破壊者であり、自我という悪魔、トリプラーシュラの殺害者です。
その宗教的経歴のまさにそのはじめから世俗から顔をそむけ、みだらな衝動を精神的進歩の障害すべての中で最悪のものとみなすヨーギやサンニャーシが、発生や創造の概念と関連し、心に性的な意識を目覚め続けそうな象徴の崇拝を精神的な自己鍛練の一部として採用することが考えられますか。また、破壊の神、多様性からなる世界の消滅の原因であると考えられている神が創造的な力と行為を暗示する象徴により表されるべきであると思うのは理にかないますか。では、シヴァリンガの本来の意義はどうなっていたのでしょうか。
最初期の時代から、インドの宗教的な人々は深遠な概念を目に見える象徴(リンガ)に関連付けました。シヴァの崇拝者は、彼らの生命である至高の神、彼らの崇拝と瞑想の最高の対象を光輝くの炎(ジョーティ・シカー)、または、光の柱(ジョーティ・スタンバ)と関連付けます。光は真実の知を表す普遍的な宗教的象徴(リンガ)であり、無知の暗闇を破壊し、無知から生まれるあらゆる類の束縛と悲しみから人を解放します。タットヴァ・ジニャーナ(*1)の炎は一切の欲望と情欲、一切の愛着と嫌悪を焼き払います。シヴァ派のヨーギは、ヨーガや瞑想を修練している間、彼らの前で光(ジョーティ)をともし続ける習慣があります。彼らは、そのような非物質的な光の落ち着いた輝きが、集中の上達と共に体の内で実際に体験されると証言します。
ヨーギやサンニャーシがこの象徴(リンガ)を採用したのは、彼らの見解では、それが絶対的現実である至高の神の最も普遍的で、非宗派的な象徴であるからです。それは男性の形でも女性の形でもありません。それは特定の神や女神でもありません。それは『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(*2)の言葉では、体も五感も、等しい者も優れた者も持たないが、様々な方法で姿を表し、その超越的な本質に内在する完全な知、完全な権威、完全な活動性を伴う至高の力を永遠に授けられている一者(神)の独特の表現です。
炎や光の柱の姿であるシヴァの一般的な崇拝のために、石や土が光の代わりに用いられ、ジョーティ・リンガはプラスターラ・リンガ(石の象徴)やムリド・リンガ(土の象徴)の形で永久的に聖地に打ち立てられました。一般的に、それはシュマシャーナ(火葬場)や人里離れた山や森に見つかりますが、そのようなシュマシャーナの多くがそのうちに大都市(たとえば、ベナレス)へ成長し、山や森は巡礼の聖地(たとえば、アルナーチャラ)へ成長しました。
シヴァリンガの本当の意味、曲:「シヴァ・ターンダヴァ・ストートラ」
シヴァリンガが敬虔なヒンドゥー教徒にとって至高の神の象徴としてあるので、ヴィブーティは完全な崇拝者を象徴します。なぜなら、純粋さと平静において完全となった者のみが神に近付いても良いからです。
ヴィブーティ、聖なる灰(*3)は、「力、光輝」(バシタ)を意味します。それは効果的であるためには「灰色でも赤色でも黄色でもなく」、白でなければなりません。
通常の語源学によれば、バスマという用語は「(火により)粉々にされたもの」、すなわち、灰を意味します。しかし、全ての聖典によれば、「牛のふんから作られる聖なる灰」を意味します。
バスマという用語の象徴的説明は、多くの異なる方法で与えられます。バルツ(消し去る)という語根を取り、「それが一切の罪と一切の不純を消し去る(バルツァティ)から」と読み取る人もいます。しかしながら、バスは「輝く」を意味する語根としても取れ、バシタという用語はそれに従って説明されます。または、バは存在の制約や成ること(バーヴァ)が終わりを迎えるという事実を指し示し、記憶や思い(スマラナ)を指し示すスマは「生と死の循環の停止が達成されるべき目的であるのをいつも思い出すこと」を意味するかもしれません。
儀式的に正しいヴィブーティの準備は、『スヴァヤムブヴァ(・アーガマ)』(*4)によれば、以下のように行われねばなりません。儀式的行為における慣例では、三つの選択肢が提供されます。①理想的な規則(カルパ)、②より厳密でない方法(アヌカルパ)、③なお容認できる選択肢(ウパカルパ)です。
カルパの方法によれば、カピラ乳牛(*5)(もしくは、赤か、白か、黒色の牛)のふんを土に触れる前に、蓮や睡蓮の葉か花弁の上でか、もしくは手によって、また、さらには牛小屋の中で集めなければいけません。ふんをサドヨージャータ(・マントラ)を意味する五つのブラフマ・マントラ(*6)を逆さに唱えながら手に取り(?)、ヴァーマデーヴァ(・マントラ)と共に丸め、アゴーラ(・マントラ)と共に乾かし、タットプルシャ(・マントラ)と共に燃やし、イーシャーナ(・マントラ)と共に灰を集めます。アヌカルパの方法によれば、森で乾いたふんを集め、それを粉にし、牛の尿の助けにより一種の生地を作り、それから焼きます。ウパカルパの方法では、森の火から集めるか、牛小屋で灯された火から集め、それを燃やします(?)。
全てのアーガマがこのように規則に従って用意された灰は純粋であると認めています。灰は特別なマントラによりさらに浄化される必要はありません。実際に使う時にだけ、その上にサンヒターマントラを唱えることにより清められねばなりません。灰は左の手のひらに置かれ、マントラを唱えながら、それに右手で触れます。この後、ヴィブーティの一部の奉納が、南西の方角、ニルリティ(*7)の住まいへ投げることによって、アーシュラ(悪魔)に行われます。それから、沐浴に進みます。それは対応する五つのマントラを唱えながら、頭から足までヴィブーティにより全身を清めることをまず第一に意味します。この儀式の名前はウッドゥーラナです。
アゴーラ・シヴァーチャーリヤ(*8)によれば、沐浴はもう一つの儀式によって仕上げられます。それは、中指3本をヴィブーティに浸し、体の色々な部分に特別な印(最も多くは、トリプンドラという名の3本の水平な線)を塗ることです。ほとんどの聖典が手順はカーストによると主張します。しかしながら、それぞれ(の聖典)が独自の特別な規則を持っています。本来、それは単に様々な集団やカースト間の身分証明の手段であったかもしれません。
それが元来どうして定められていたのかを正確に知ることは困難です。しかしながら、アーガマはトリプンドラの象徴性にこの説明-3本の線はブラフマー、ビシュヌ、ルドラを表し、同時にトリシューラ(主シヴァの武器)、三つの時、三つのシャクティなどを表す-を与えます。他方では、それらの印のつけられた場所は(瞑想のための)神の姿に関係し、その一覧は、もちろん、言及される場所の数によります。
聖なる牛の全ての産物のように、そして、火そのものと同じように、牛により提供され、火によって変化したヴィブーティは、終には、とりわけ清浄になります。『スプラボーダーガマ』(*9)の第一の側面(?)を強調し、それに「バスマシュナナ」の章の3分の2を費やし、牛とその六つの産物-ふん、尿、乳、バター、凝乳、ゴロチャナ(乳牛の胆汁から作られる顔料)-の長所を思い出させます。他の聖典は第二の側面(?)を強調します。しかし、全て(の聖典)は全ての儀式の前に絶対的に必要であり、その報いが飛びぬけて優れたものとしてこれらの沐浴を賞賛している点で一致しています。
いくつかの聖典は、規則に厳密に従わない人々、もしくは、聖なる灰を地面に落してしまう人々に予期される恐ろしい罰も描写しています。明らかに、それらの文章は定められた儀式の重要性を強調するために意図的に誇張されています。ドヴィジャ(・ヴァルナ)(*10)が神や火や師や他の賢者の前でヴィブーティでの沐浴を行うことを避けねばならないのも言及されるべきです。彼らはとても低いカーストの人に見られながらヴィブーティをつけても、路上やその他どのような不浄な場所でつけてもいけません。
いずれにせよ、シヴァはシヴァのみが崇拝することができます。つまり、崇拝の儀式によって自分自身をシヴァへ変えた人によって。ヴィブーティは、目に見えない聖なる変容の目に見える象徴です。
(*1)タットヴァ・ジニャーナ・・・真理の知
(*2)シュヴェータシュヴァタラ・ウパニシャッド・・・108あるムクティカー・ウパニシャッドの14番目。
(*3)聖なる灰・・・webで検索したら、聖なる灰は、①ヴィブーティ②バシタ③バスマ④クシャーラ⑤ラクシャーの五つあるという説明もあれば、ヴィブーティの別名がバスマなどであるという説明もありました。
(*4)スヴァヤムブヴァ(・アーガマ)・・・28あるシャイヴァ・シッダーンタ・アーガマの1つ。シャイヴァ・シッダーンタの詳しい解説(→)
(*5)カピラ乳牛・・・インドのカルナータカ州の珍しい品種の乳牛。小さい品種で、乳の量は少なく、乳に高い薬効と高い治癒性があり、聖なる牛とみなされているようです(→)。
(*6)パンチャ・ブラフマ・マントラ・・・ムクティカー・ウパニシャッドの7番目の『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』にあるシヴァの五つの姿を通じてシヴァを讃えるマントラ。五つの姿は、パンチャキリトヤ(創造・維持・破壊・覆い・恩寵)に対応している(→)。
(*7)ニルリティ・・・死と堕落の女神。ディクパーラ(方角の守護神)の一人。
(*8)アゴーラ・シヴァーチャーリヤ・・・12世紀の優れた解説者のようです。
(*9)スプラボーダ(スブラバ、スプラベダ)・アガマ・・・28あるシャイヴァ・シッダーンタ・アーガマの一つ。
(*10)ドヴィジャ・・・バラモン、クシャトリア、ヴァイシャの三つのヴァルナ。「2度生まれる」を意味する。
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