2014年1月18日土曜日

あなたは体ではなく、自らである - 体の苦しみから学ぶべきこと

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年4月 p83、84

あなたは体ではない

マリー・B・バイルズ

 現代医学は重要なのは人の体であり、それを健康にする-もしくは健康にしようと試みる-ことであると思っています。たとえ患者が大変に高齢な時も、体を少しでも長く、さらに少しでも長く生きたままに保つためにあらゆる努力がなされます-それも、必要ならば痛々しい手段でもって。

 「彼らはいつも彼に何か新しい治療を与えます」と患者の娘は嘆きます。「そして、たいていそれはとても痛々しいのです」。

 看病する妹は高名な専門医に、「お医者さん、どうしてその人が死ぬまで検死解剖を待てないのですか」と言いました。医者は科学者でした。彼は面白くありませんでした。

 ある女性が自動車事故でひどい怪我をしました。すぐに彼女は最寄の病院の集中治療室へ担ぎ込まれ、彼女の体に命を連れ戻す-少なくとも一時的に-あらゆる努力がなされました。そして、看護婦と医者は体を十分なものにすること-再び、少なくとも一時的に-が近頃、大変上手です。私はかつて牧師が教会の病院で長い祈りの言葉を病人の枕もとで唱えているのを聞きました。彼は神にどのように神がその人-つまり、その人の体-を健康にすべきか教えていました。神に何をすべきか教えるのは少し余計なことのように思えましたが、それは置いておき、我々は神への完全な委ねからのみもたらされうる内なる安らぎへの何らの言及もなかったことを見過ごせません。牧師は体の物理的な回復をもたらす楽観的な見通しを目指しました。その後、私は本当はただ一つの祈り、「主の御心のままに」だけがあると控え目にそれとなく言いました。しかし、彼が私が意図したことを知っていたのかさえ私は疑問です。

 それから、西洋では挨拶の形式があります。「おかげんいかがですか」、または、「調子はどうですか」。確かに、それは単なる形だけの行為であり、質問者は問われた人が彼の不満を事細かに話し始めるなら、それを歓迎しないものですが、再びまた言及されているのは体です。

 私が述べた全ては西洋に当てはまり、東洋の人々は精神的本質をもっと意識していると抗議されるかもしれません。私はそれが正しいと信じたいのですが、西洋を模倣しようとする熱狂のため、すでにそうでなくても、私が言ったことが東洋にも当てはまるようになるのを恐れます。そして、ラマナ・マハルシに会いにやってきた人々は、彼が「調子はどうですか(How are you?)」という質問を尋ねるのを控えることによってでなく、「あなたは誰か(Who are you?)」という質問を尋ねることによって、彼らが体でないということを度々思い出さなければなりませんでした。

 2500年前、ゴータマ・ブッダは同じ質問、もしくは、それに似たものを提起したようです。彼の優れた弟子であるサーリプッタは、病気で、年老いたナクラピター(*1)に、「あなたは体ではありませんね?」と言いました。ナクラピターはブッダとの面会から戻ったばかりで、幸福に輝いていました。彼はそれは神の飲み物を振りかけられたかのようだと言いました。彼は、「ええ、私は体を持ち歩いているだけです。師は幸福を求めて体に依存することは、常に変化し、朽ちていくものに依存することであり、自らの内に常に存在する避難所、人生の苦しみの嵐のただ中の避難所である島(安全な場所)があるとおっしゃりました」と言いました。論理的な性格のサーリプッタはその教訓をさらに説明しました。「ええ、その通りです。多くの人は彼ら自身を彼らの体と同一視し、実際は体が苦しむということを彼らが言わんとする時に、『私は苦しい』と言います。しかし、八正道の弟子は、『私は体ではない』と言います。その時、彼は痛みへの嫌悪を感じません。なぜなら、彼はもはや彼の体に所有されていないからです」。

 時代を通じ、キリスト教会の信者は、奇跡や医者や信仰によってであれ、体の癒やしに大きな注意を払ってきました。それによって彼らは、癒やしという偉大な奇跡を行ったと伝えられているキリストの歩みに従っていると思いました。我々は彼が体の癒やしか、自らの探求-彼自身の表現を使うなら、神の王国(の探求)-のどちらにもっとも重きを置いたのかは決して分からないでしょう。どのように彼が癒やされた人に「行きなさい、もう罪を犯してはならない」と告げたかの、あのとても興味深い記録があります(*2)。ですから、彼が癒やしの奇跡を彼の御業の中のもっとも重要ではないものとしてみなしていたこともありそうです。

 確かに、全ての人に援助の手を差し伸べることは、人生における我々の務めの中の一つです。しかし、憐れみを抱き仕事を行う献身的な看護婦の仕事の中には、同様に仕事を行うごみ掃除人の仕事の中にある以上の美徳はありません。仕事が行われる精神のみが問題です。それゆえ、体のためになされる仕事に付与される重要性が、人生の主要な探求、五感が知覚できる全てを超えた自ら(もしくは、神の王国)の探求に反していないのか問われるかもしれません。我々は誰なのか。我々は明らかに体ではありません。不死なる者、無形の者、無限で触れられない者が存在します。

 「体をひとりでに話させよう」とマルクス・アウレリウスは言いました。我々自身を体、すなわち、移ろいゆくものと同一視することにより、我々は自らの探求を妨げているだけでなく、この探求を進めるために痛みや苦しみが我々に与える機会を見過ごしてもいるのです。アメリカ人の仏僧であるスマンガロは、その晩年に心の病を治す能力を得たことに不意に気づきました。300人ほどを治した後、彼は治った人々の中の3人だけが道徳的、もしくは、精神的に利益を得たという事実に気づきました。残りの人々は「狭量さ、自己中心性、悪意ある噂話、悪賢い商法、好色、姦淫、暴食など」という以前の生活へと戻りました(*3)。どうして彼らをそのままにしておかなかったのか、それが彼の受け取り方でした。彼らは地上での人生の第一の目的を見つける道はもちろん、病から何も学びませんでした。

 我々はどうして体の苦しみが来たのか、どうしてある場合には治り、別の場合には治らないのか分からないかもしれません。我々はそれぞれ異なる理論を持っていますが、我々の誰も実際は知りません。我々が知ること、それぞれが自分の体験から見出しうることは、体の苦しみから我々が学べる教訓がいつも存在するということです。そして、我々は愚かにも我々が学べる教訓を含む何を差し置いても体を治療をします。そして、我々が絶望や、より悪いことに自殺へと逸れるならばさらにいっそう愚かなことです。

 体の治癒や体の死は、瑣末なことです。自らを見つけることが肝要です。「どちらを探しに行くのが良いでしょうか」とブッダは言いました。「あなたの所持品を持って行った女性ですか、それとも、自らですか」。ブッダの抗しがたいほほ笑みのもとに若者はもちろん、「自らです」と答えました。仮に選択肢が病気の体の治癒であるなら、我々は同じように答えないでしょうか。

 弁護士という私の職業において、私はよく病人や年配の人が遺言書を作るために呼ばれます。その中に老人ホームにいる老齢の女性がいました。彼女は関節炎のため不自由な体で、絶えず痛みがあり、二人の看護婦が部屋に入るのを手助けしなければなりませんでした。彼女は偉大な聖なる師から輝き出たに違いない何らかのものを放射しているようでした。私は彼女につらい老年における彼女の喜びに満ちた落ち着きの秘訣を尋ねました。彼女は、「それはきっと私が感謝すべき大変多くのことを持っているからだと思います」と答えました。感謝!たいていの人は「不平をいうべきたいへん多くのこと」を話したものです。しかし、彼女は病を祝福として受け入れました。彼女は回復しませんでしたが、健康よりも価値ある何かを得ていました。私は彼女が実践的なカトリック教徒であると教わりました。彼女の宗教の外側の形がなんであれ、彼女は苦しみを通じて自我という障害を少しずつ崩してくことを学び、「委ね」ました。

 ラマナ・マハルシはよく「委ね」という用語を使いました。この女性は、「私のくびきを負うて、私に学びなさい」(*4)というキリストの言葉を引用したでしょう。女性がそれを説明する方法がどんなものであれ、彼女は確かに彼女が体ではないと学んでいました。

 しかし、これを記す私は誰なのか。私はいまだ痛みに嫌悪を感じ、つかの間の健康に得意げになります。私が言える全ては、私が起こっていることに気づいており、いまだ体の束縛の内いるのを認めているということです。最後に思うこと-我々が体であるという我々の西洋的信念が、死への恐れ、そして、どれほど苦痛であっても意図的に延命を行う原因ではありませんか。

(*1)『サンユッタ・ニカーヤ(Samyutta Nikaya) 』、22. 1「ナクラピター・スッタ(Nakulapita Sutta)」
(*2)「ヨハネによる福音書」、5章にこの話があります。
(*3)原注、『The Light and the Gate』  R. C. Johnson著から
(*4)「マタイによる福音書」、11. 28-30、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたくしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

0 件のコメント:

コメントを投稿