2014年6月14日土曜日

パラニ・スワーミー - バガヴァーン・ラマナのナンディ、彼の無私なる奉仕者

◇『ラマナ・ペリヤ・プラーナム(Ramana Periya Puranam)』、p22~25

パラニ・スワーミー


V.ガネーシャン

 ティルヴァンナーマライに到着した最初の日に、バガヴァーンはアルナーチャラに、「父なる神よ、私は御身の命じるままに来ました。御身の御心が果たされますように」と言明しました。その瞬間からずっと、彼の全生活は自らに委ねられました。アルナーチャレーシュワラ寺院に6か月間滞在していた時、バガヴァーンはいつもサマーディ(無形の深い安らぎ)に没頭していました。驚くべきことに、その時まで彼はサマーディや、彼が経験していたことを言い表わすどのような言葉も耳にしたことがありませんでした。アルナーチャレーシュワラの地下の暗く、じめじめした壁龕(へきがん)、パーターラ・リンガでは、彼が自らに吸収されて、幸福に包まれ、無頓着で座っている間に、虫や害獣が彼の体をご馳走になりました。父なる神、アルナーチャラが、彼の息子の体へのこの責め苦を黙認できますか。彼はバガヴァーンを救うため、聖者セシャドリ・スワーミー、ヴェンカタチャラ・ムダリ、ウッタンディ・ナーヤナール、アンナーマライ・タンビラーンを送りました。

 セシャドリ・スワーミーはバガヴァーンの体を地下の洞窟から外へ運び出しました。他の人たちもまた、バガヴァーンのサマーディの境地を守るためにできることをしました。しかしながら、たくさんの無知な人々はバガヴァーンを寺院で邪魔し続けました。結果として、バガヴァーンはグルムールタム、アンナマライ・タンビラーンが所有し、ティルヴァンナーマライの郊外にある聖者の神殿に連れて行かれました。奇妙なことに、グルムールタムでも蟻や他の虫たちにたかられました。しかし、バガヴァーンは完全に体に気づかないでいました。体は洗われず、もつれた濃く長い髪になり、指の爪は長く、巻き上がりました。彼はほとんど食ベ物をとらなかったので、体はやせ衰え、ひどく弱りました。どうしてアルナーチャラがこの全てに耐えられますか。それゆえ、彼はパラニ・スワーミー、彼のナンディをバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシに送りました。(アルナーチャラの南のすそ野には、シヴァの牛の長、ナンディに驚くほど似た岩があります。ヴィシュワナータ・スワーミーやクンジュ・スワーミーのような古参の信奉者は、それを指して、「それはパラニ・スワーミーです。我々のバガヴァーンのナンディです」と言います。)

インドの様々なナンディの像。シヴァ神を祭る寺院に必ずあり、主神殿に向かい合っている。

 パラニ・スワーミーは隠遁した行者であり、ティルヴァンナーマライの池の土手でガネーシャの石像を信心深く祭っていました。毎日、彼は、塩や添え料理がない炊いた米の簡素な食事を一度だけとりました。この簡素な行者にはただ一つの目的があり、そして、それは真理を理解することでした。ある日、彼の友人の一人が彼に、「この石の像を祭って何の役に立ちますか。これはあなたに何ももたらしません。グルムールタムには、神が血肉をまとい、そこにいます。一本脚で立ち、苦行を行ったプラーナの5歳のドルヴァのように、サマーディに完全に没入した若い行者がいます。行って、彼に仕えなさい。あなたの人生の目的が遂げられるでしょう」と言いました。

 パラニ・スワーミーはグルムールタムへ行きました。いつも通り、若いバガヴァーンは完全にサマーディに没頭していました。はじめて彼を見て、パラニ・スワーミーはまさにその根本から揺さぶられました。彼は神だけでなく、彼のグルもまた見ました。その瞬間から、パラニ・スワーミーにとってこの至高の行者以外の世界は存在しませんでした。彼自身も行者であったため、彼は若い聖者の靈的な委ねの深みを感じることができました。彼は自らに誓いました。「死ぬまでこの聖者に仕えよう」。

 彼はバガヴァーンに仕え始めました。バガヴァーンがサマーディにいる間、人々は彼の体に触れに来て、彼を揺らし、彼に話しかけようと試みたものでした。パラニ・スワーミーの務めは、この身体的形態を守り、この最高の境地が妨げられないことを確実なものにすることでした。彼は虫さえも師を煩わせないよう取り計らいました。彼は何であれ集められた食べ物を茶碗一杯分、バガヴァーンに食べさせたものでした。このように、バガヴァーンは毎日少なくとも食べ物をいくらかとりました。彼はバガヴァーンの周りに門がついた柵までも立てました。パラニ・スワーミーが外へ行く必要がある時はいつでも、誰もバガヴァーンを煩わせないよう、彼は扉に鍵をかけました。このようにして、彼は18か月間、昼も夜もバガヴァーンをお世話しました。

 いくらか後、バガヴァーンはこの敷地から出て行かなければなりませんでした。隣の囲い地には、マンゴー果樹園がありました。その所有者は、そこのココナッツの葉で作られた茅葺き小屋に滞在しに来るようバガヴァーンとパラニ・スワーミーにお願いしました。果樹園の所有者によって、詮索好きな訪問者が入ることを厳しく禁じられていたため、6か月間、パラニ・スワーミーとバガヴァーンは邪魔されることなくそこに滞在しました。バガヴァーンの別の一面が開かれたのはこの時期でした。パラニ・スワーミーはバガヴァーンよりも30歳年上であり、彼に父親のような愛情を抱いていました。思いやりのある父親のように、パラニ・スワーミーは町へ行き、彼の「名づけ子」が読むように本を手に入れたものでした。このようにして、はじめてバガヴァーンは、「カイヴァルヤ・ナヴァニータム」、「ヴェーダーンタ・チューダーマニ」、「アドヤートマ・ラーマーヤナム」、「ヨーガ・ヴァーシシュタム」、「プラブリンガ・リーライ」やその他多くの著作を読みました。アドヴァイタやヴェーダーンタについてのこれらの本のいくつかを読むとすぐに、彼はこれらの本が彼が16歳の時に体験したものを描いていることを知りました。ここで彼はサマーディ、アートマ、マーヤー、サンサーラのような言葉を学びました。バガヴァーンが彼の自覚の境地に留まり、それが同一の名のない自ら、実在、ハートであり、全存在の中に常にあると人類に明らかにしたのは、アルナーチャラ、全知なる静寂の自らの意思でした。これを伝えるためには、教育のようなものが不可欠でした。バガヴァーンが聖典やヴェーダーンタの用語に流暢であるのは、彼の人生のこの局面に端を発しています。

 いくらか後、果樹園の所有者は、彼らに敷地から立ち退いてほしいと思いました。彼らはアルナギリナータル寺院に移りました。そこで、バガヴァーンはパラニ・スワーミーに、「あなたはあの道を托鉢しに行って下さい。私はこの道を托鉢しに行きます」と言いました。バガヴァーン自身がどのように彼が家の前に行って、立ち、手を二度鳴らし、待ったのか説明しました。家の持ち主が彼に食べ物を与えたなら、彼はそれを手で受け取り、直ちにそれを食べました。その時、手を洗う必要を感じることなく、彼は髪で手を拭ったものでした。後に、バガヴァーンは、「それを行っている時、私はただ一人の世界の絶対的支配者であるように感じました」と思いかえしました。そのために、バガヴァーンは、真の放棄が所有者性の概念を拒絶するだけでなく、誰にも何ものにも依存していないと感じることでもあると言明したのです。彼は同じ家から二度と托鉢しようとしませんでした。結果として、彼はティルヴァンナーマライのほとんど全ての通りと家で托鉢することになりました!

 アルナギリナータル寺院でも、多くの人々が彼を悩ませ始めました。彼らはどうしてバガヴァーンが常にサマーディにいるのか理解できませんでした。パラニ・スワーミーがいない時、彼らは彼の邪魔をしたものでした。パラニ・スワーミーはパヴァラ・クンドルと呼ばれる小高い丘に注目し、バガヴァーンをそこに移しました。パラニ・スワーミーがバガヴァーンに関わっている間中、彼はいつも目立たない所にいました。なぜなら、彼の務めはバガヴァーンの身体を守り、彼のサマーディの境地が妨げられないように取り計らうことだったからです。彼は決してバガヴァーンの他の活動の邪魔をしませんでした。徐々に、バガヴァーンの名声は町中に広がり、数人の人々がパヴァラ・クンドルにも集まり始めました。パラニ・スワーミーは別の場所を探しに行き、アルナーチャラのすそ野にあるヴィルーパークシャ洞窟に注目しました。後に、バガヴァーンは、「我々がヴィルーパークシャ洞窟にはじめて行った時、陶器の壺(土鍋)以外何もそこにありませんでした」と言いました。数年後、何人かの女性の信奉者が日中にそこで食事を給仕し始めました。ペルーマル・スワーミー、アイヤ・スワーミー、カンダスワーミーのような他の付添人もまた、数年の内に彼に加わりましたが、パラニ・スワーミーはいつも第一の付添人のままでした。

 バガヴァーンがマラヤーラム語を学んだのは、ここでした。パラニ・スワーミーは、マラヤーラム語版の「アドヤートマ・ラーマーヤナム」から1ページ読んだ後にのみ、その日の1度だけの食事をとるという誓いを立てていました。彼は生涯、この自ら課した制約に従いました。パラニ・スワーミーの母語はマラヤーラム語でしたが、彼はそれを流暢に読めませんでした。そのため、彼が毎日の読書を終えるまでに長い時間がかかりました。他の信奉者とバガヴァーンは、彼らみなが食事をするために座る前に、パラニ・スワーミーが終わるのを待ったものでした。ある日、バガヴァーンは、1日に1ページ読むという彼の誓いは、彼自身が読まなければならないという厳格な条件があるのか、もしくは、彼のために誰かが声に出して読むのを彼が聞けば十分なのかパラニ・スワーミーに尋ねました。パラニ・スワーミーは後者に同意し、バガヴァーン自身がこの毎日の務めを引き受けました。バガヴァーンの母語はタミル語のため、マラヤーラム語の知識はありませんでした。それゆえ、バガヴァーンはパラニ・スワーミーにマラヤーラム語を自分に教えてくれるように頼みました。たちまちに、バガヴァーンは読み、書き、理解するほど十分にその言葉を身につけました。それ以来、バガヴァーンのおかげで、パラニ・スワーミーは「アドヤートマ・ラーマーヤナ」を毎日1回服薬し、全ての人が遅れずに食事をとるようになりました!(クンジュ・スワーミーは、バガヴァーンはエーカグラーヒー、サンスクリット語で「一点に集中した観察力を持つ人」であったと私に言いました。いったん露光されると、写真のネガに映像が焼きつくように、バガヴァーンには抜群の記憶力がありました。彼は一度文章を見たら、再びそれを参照する必要はありませんでした。)

 ある日、ある人がガネーシャの彫像をヴィルーパークシャ洞窟内部の壁龕(へきがん)に据えました。感激し、パラニ・スワーミーはバガヴァーンに、「主ガネーシャに何か捧げものをしてはどうでしょうか」とお願いしました。バガヴァーンが捧げものをする方法は、食べ物や花輪や花を通じてではなく、詩節を通じてでした。これがバガヴァーンによって作られた最初の詩節でした。「壁龕に住まう大きく太ったお腹を持つ主よ、あなたの父が托鉢しに巡るのを許したあなたよ、少なくとも今や、あなたの恩寵のまなざしを同じく父の息子である私に注いでください」。

 午後に、バガヴァーンの付添人は食べ物を集めるために通りで托鉢したものでした。施し物を集めるために彼らが歌った伝統的な歌は、アーディ・シャンカラによるもので、「サンバ・サダーシヴァ、サンバ・サダーシヴァ、サンバ・サダーシヴァ、サンバ・シヴォーム」でした。町の人々がこの繰り返しの文句を耳にすると、彼らはバガヴァーンの付添人が来ていると知り、食べ物を用意したものでした。これを知り、不信心な者たちが彼らの先に行きはじめ、同じ歌を歌い、代わりに食べ物を集めました。それで、バガヴァーンの付添人は、「施しものを集めるためだけに私たちが歌える歌を作ってください」と彼に頼みました。バガヴァーンはいつも通り、沈黙を保ちました。翌日、彼らが山の周りを巡っている時、パラニ・スワーミーは彼らの中で最も博識なアイヤ・スワーミーを側に呼び、「バガヴァーンが何かつぶやいています。おそらく、彼は詩節を作っています。この紙とペンを手にとってください」と言いました。その1周の間に、バガヴァーンは108詩節作りました。アイヤ・スワーミーは忠実にそれらを書き取りました。アクシャラマナマーライ、すなわち、文字で編まれた婚礼の花輪と名付けられ、それはこれまでに書かれた中で最も靈的に感動的で、献身的な賛歌の一つです(アーサー・オズボーンがかつて私に言うには、「英語で三千冊の詩の本を読みましたが、それらの多くは本質的に献身を表すものでした」。どれも献身と知恵において、これらの詩節を凌駕しないと私に言いました。)

 しばらくして、バガヴァーンはより高い所にある洞窟、スカンダーシュラムに移りました。パラニ・スワーミーはそこで数日過ごしました。しかしながら、年をとり弱っていため、彼は毎日その洞窟まで登れませんでした。バガヴァーンの許しを得て、彼はヴィルーパークシャ洞窟に滞在し続けました。毎日、バガヴァーンは下りてきて、いくらか時をパラニ・スワーミーと過ごしました。ある日、スカンダーシュラムにいる間に、バガヴァーンは孔雀が異常なほど騒ぎ立てながらヴィルーパークシャ洞窟から飛んで来るのに気付きました。「これはパラニ・スワーミーの最後です」と言い、彼は即座に駆け降りました。彼がヴィルーパークシャ洞窟に着いた時、パラニ・スワーミーはすでにとても苦しげに息をしていました。息子のように、彼が体を下ろすまで、バガヴァーンはパラニ・スワーミーの頭を膝の上に置きました(ヒンドゥー教の伝統では、父親が亡くなろうとする時、息子は彼の最後の務めとして父親の頭を膝の上に置かなければなりません。聖典によれば、父親がそのような機会を得るなら、彼は天国に行きます)。長年の間、パラニ・スワーミーは師に無私なる奉仕を行ってきました。今や、バガヴァーンのナンディは、アルナーチャラ、沈黙のシヴァに帰る時でした。

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