2013年12月25日水曜日

ロバート・アダムスの思い出-イエス・キリストとラマナ・マハルシの慈愛

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

163.

アメリカ人のロバート・アダムス(1928‐97)は、小柄なインド人が彼の枕元に現れるヴィジョンを得ました。彼はパラマハンサ・ヨーガーナンダに相談し、ヨーガーナンダは彼にシュリー・ラマナの写真を見せました。彼はそれが夢の中の人物であると分かりました。彼はラマナーシュラマムを訪問し、シュリー・ラマナと1947年~50年の3年間を共に過ごしました。彼の著書、『Silence of the Heart』は、彼がアメリカで催したサットサンの要約を含んでいます。
   19才の時、私はティルヴァンナーマライの途中のボンベイに到着しました。私が講堂に入ったのは午前8時30分ごろでした。シュリー・ラマナは彼の寝台の上にいて、手紙を読んでいました。私は彼の前に座りました。彼は私の方を見て、微笑み、私は微笑み返しました。講堂には30人ぐらいの人がいました。マハルシは私が朝食を食べたのか尋ねました。私は「いいえ」と答えました。彼は付添人に話しかけ、付添人は巨大な2枚の葉っぱをもって帰って来ました。一つには果物がのり、一つにはおかゆ(*1)と胡椒がのっていました。食べ物をすっかり食べた後、私は床の上で少し横になりました。私はとても疲れていたのです。

 マハルシは足に関節炎を患っていて、当時(1947年)、ほとんど歩けませんでした。彼の付添人は彼が立ち上がるのを助け、彼は部屋から歩いて出ました。彼が外に出た時、彼は付添人に何かを言い、付添人は私に来るように身振りで合図しました。マハルシは私がそこに滞在している間に使うための小さな小屋に私を案内しました。彼は私と共に中に入りました。きっとあなたは我々が深遠な話題について話したと思うでしょう。それとは逆に、彼は飾らない人でした。彼は全世界の自らでした。彼は私の旅がどうだったか、私がどこから来たのか、何が私をここに来させたのか尋ねました。その後、彼は、「あなたは休んだほうがいいですね」と言いました。私は簡易ベッドに横たわり、彼は去りました。

 私は夕方5時ごろに私のために食べ物を持ってきたラマナ自身に起こされました。あなたはそれを想像できますか。我々は手短に話し、私は食べて、眠りました。次の朝、私は講堂へ行きました。全ての人がマハルシをただ見ながら、座りました。彼は手紙に目を通し、時にはそれを声に出して読み、信奉者たちに話かけましたが、彼の落ち着きは決して変わりませんでした。私は他のどこでもそのような慈しみと愛情を目にしませんでした。

 その後、人々は質問し始めました。彼の答えはとても簡潔でした。それはあなたが本で読むようではありませんでした。どうやら、あなたが本で読むものは、3、4人の人々への彼の回答のようです。彼らはそれを一つの質問と答えに縮めています。人々はたいてい質問をするか、意見を述べます。彼が同意するなら、彼はうなずくか、「ええ」と言います。それだけです。彼が同意しなかったなら、彼はおそらくは1文か2文で説明を与えたものでした。

 イスラム教徒、カトリックの司祭、多くの人種や国籍の人々がアーシュラムにはいました。私が1週間かそこらそこにいた時、彼の弟子の二人が食事の時に冗談ぽく何かについて議論していました。私は通訳に彼らが何について話しているのか尋ねました。彼は、「ラマナの寝台は虱(シラミ)で覆われていますが、彼は我々が虱を殺すのを拒みます。虱は体や足を這い上りますが、彼は気にしません。我々は寝台を燻蒸くんじょう)消毒したいのですが、彼は我々にさせてくれません」と言いました。次の日、彼が朝の散歩に出かけた時、彼らは寝台にDDT(*2)を散布しました。戻って来るとすぐに彼は寝台の匂いをかぎ、ほほ笑み、冗談ぽく、「誰かが私を罠にかけましたね」と言いました。彼は決して腹を立てたり、激怒したりしませんでした。私は彼がその言葉(angry、mad?)が何を意味しているのか知らなかったと思います。

 数日後、ドイツ人の女性がアーシュラムにやって来て、寄付をしました。彼女は何かの理由のために満足できず、ラマナに不満を述べていましたが、彼はただ黙っていました。私は通訳に、「彼女は何を求めているのですか」と尋ねました。彼は私に、「彼女は寄付を返してもらって、ドイツに帰りたいのです」と言いました。彼女がアーシュラムの管理人と言い争い始めた時、ラマナは英語で、「彼女に寄付を返し、それに50ルピー加えてあげなさい」と言いました。それは行われ、彼女は去りました。これが彼の性質でした。彼は悪いものを何も見ませんでした。彼らが何をしようとも、彼は決して誰も彼の愛から除外しませんでした。彼はちょうど同じように全ての人を愛していました。

 ラマナはよく聖典から引用したものでした。イエスとラマナは基本的に同じことを言いました。イエスは、「天の王国はあなたの内にある」と言いました。ラマナは、「自らはあなたの内にあります。それを探し、見つけ、目覚めなさい」と言いました。イエスは、「子よ、いつも私はあなたと共におり、私の持つ全てのものはあなたのものである(*3)」と言いました。ラマナは、「私は決してあなたから離れられません。私はいつもあなたと共にいます」と言いました。彼の慈しみは、決して彼から離れませんでした。

 1950年4月、私はパパ・ラム・ダス(*4)に会うためにバンガロールにいました。ラマナがその体を離れたということを知らされた時、私はティルヴァンナーマライへ行きました。群衆がすでにやって来始めていました-数えきれない人々。それで、私は山に登り、洞窟の一つへ入り、そこで5日間を過ごしました。私が下りてきた時、群衆は散っていました。彼はすでに埋葬されていました。私は彼の最後を見た信奉者に、「彼が話した最後の言葉は何でしたか」と尋ねました。彼は、「彼が体を去りつつある時、孔雀が壁のてっぺんに飛び上がり、高い声で鳴き始めました。ラマナは彼の付添人に、『まだ誰も孔雀に食べ物を与えていないのですか』と尋ねました。それが彼の最後の言葉でした」と言いました。

 私は多くの教師、多くの聖者、多くの賢者に会いに行きました。私はニサルガダッタ(*5)、アーナンダマイー・マー(*6)、パパ・ラム・ダス、ニーム・カロリ・バーバー(*7)や他の多くの人々と共にいましたが、私はラマナ・マハルシのような慈しみ、彼のような愛、彼のような至福をにじませた誰にも出会いませんでした。

アダムの詩の見本:
                        
私は誰か?
あなたの現実を感じよ
沈黙の中に
静寂の中に
そこには心は無く
思いもなく、言葉もない
それではあなたは誰か?
あなたはただいる
私はいる、私はいる
私はこれでなく
私はそれでない
私はいる
私はいつもあったものであり
私はいつもあるだろうもの
私はいる、が私である

(*1)おかゆ・・・南インドにはポンガルというおかゆがあり、緑豆と米を使い、牛乳で煮るようです。
(*2)DDT・・・殺虫剤。現在日本では使用禁止されているが、マラリア対策で使われている国もある。
(*3)ルカによる福音書、15:31に、「すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」とあります。また、マタイによる福音書、28:20に、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」や、ヨハネによる福音書、17:10にも、「わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのものです」とあります。ヨハネの福音書の「あなた」は神を意味しているようです。
(*4)http://en.wikipedia.org/wiki/Ram_Dass
(*5)http://en.wikipedia.org/wiki/Nisargadatta_Maharaj
(*6)http://en.wikipedia.org/wiki/Anandamayi_Ma
(*7)http://en.wikipedia.org/wiki/Neem_Karoli_Baba

2013年12月24日火曜日

「シュリー・アルナーチャラへの八詩節(Sri Arunachala Asthakam)」

◇『アルナーチャラへの五つの賛歌&シュリー・ラマナ・マハルシのその他の詩(Five Hymns To Arunachala & other Poems of Sri Ramana Maharshi』)

 英訳はK.スワミナタン教授のものです。(文:shiba)

以下は、『Ramana Maharshi and the Path of Self-Knowledge』、第16章からの抜粋
 ともかく、本を書こうや、詩を作ろうとは私は思いもしませんでした。私が作った詩のすべては、誰かの要望によるか、何かの特別の出来事に関係していました。今や、とても多くの解説や翻訳が存在する「現実への40詩節(Forty verses on Reality)」でさえも、本として計画されたのではなく、様々な時に作られた詩節から成り立っており、後にムルガナールと他の人々によって本として整えられました。誰も私に書くように促すことなく、私のもとへ自然とやってきて、いわば、私に書くように強いた唯一の詩は、「シュリー・アルナーチャラへの十一詩節」と「シュリー・アルナーチャラへの八詩節」です。


Manachanallur Giridharan による「シュリー・アルナーチャラ・アシュタカム」


シュリー・アルナーチャラへの八詩節

1.
見よ、それは意識がないかのようにそこに立つ。謎めいているのはそれが働く方法であり、まるで人知を超えている。物心の付かない幼少時代から、果てしのないアルナーチャラは私の意識の中に輝いていた。しかし、それがティルヴァンナーマライでしかないとある人から学んだときでさえ、私はその真意を理解していなかった。それが私の心を静め、それ自体に私を引き寄せ、私が近づいたとき、私はそれが絶対的な静寂であることを知った。

Look, there it stands as if insentient. Mysterious is the way it works, beyond all human understanding. From my unthinking childhood, the immensity of Arunachala had shone in my awareness. But even when I learnt from someone that it was only Tiruvannamalai, I did not realize its meaning. When it stilled my mind and drew me to itself and I came near, I saw that it was stillness absolute.

2.
「見る者は誰か」内に探求し、私は見る者が消えゆくのを、そして、永遠にあるそれのみを見た。「私は見た」と言うための思いは生じなかった。それでは、どうして「私は見なかった」と言うための思いが生じ得たのか。あなたでさえ(ダクシナームールティとして)古のこれを沈黙の中でのみ伝えたなら、この全てを言葉で説明する力を誰が持つのか。超越したあなたの境地を沈黙により啓示するため、今やあなたはここに立つ、まばゆく天空へとそびえ立つ山よ。

Enquiring within "Who is the seer?" I saw the seer disappearing and That alone which stands for ever. No thought arose to say "I saw". How then could the thought arise to say "I did not see?" Who has the power to explain all this in words, when even You (as Dakshinamurti) conveyed this of yore in silence only? And in order to reveal by silence, Your state transcendent, now You stand here, a Hill resplendent soaring to the sky.

3.
私が「あなたは形を持つ」と思いながらあなたに近づくとき、あなたは地上に山としてここに立つ。あなたを無形とみなす人がそれでもあなたを見たいと思うなら、彼は(遍在し、目に見えない)虚空を一目見るために世界中を放浪する人のようである。あなたの無形の実在に思いなく瞑想し、私の形(私の分離した存在)は海の中の砂糖人形のように溶ける。そして、私は誰か私が悟ったとき、あなたと離れてどのように私は存在するのか、おお、力強いアルナの山として立つ、あなたよ。

When I approach You thinking You have form, You stand here as a Hill on earth. If one regarding You as formless wants yet to see You, he is like one wandering through the world to have a look at the ether (ubiquitous, invisible). Meditating without thought on Your formless Being, my form(my separate entity) dissolves like a sugar-doll in the sea. And when I realize who I am, what being have I apart from You, O, You who stand as the mighty Aruna Hill?

4.
実在として立ち、意識として輝くあなたを見落とし、神を探すことは、灯火を手に持ち、暗闇を探すようなものである。実在かつ意識として、終にはあなた自身を現わすために、あなたは全ての宗教の中に様々な形で住む。その実在が意識である、あなたを見損じる人々がいまだいるならば、彼らは太陽を知らない盲目の人も同然である。おお、力強いアルナの山よ、比類のない宝石、立ちて輝け、他を持たない唯一なるもの、私のハートの内なる自ら

 To search for God ignoring You who stand as Being and shine as Awareness is like looking, lamp in hand, for darkness. In order to reveal Yourself at last as Being and Awareness, You dwell in various forms in all religions. If still there are people who fail to see You whose Being is Awareness, they are no better than the blind who do not know the Sun. O mighty mountain Aruna, peerless Jewel, stand and shine, One without a second, the Self within my Heart.

5.
首飾りの宝石をつなぐ糸のように、あなたは全存在と様々な宗教を貫き、束ねている。削磨される宝石のように、分離した心が純粋で普遍的な心なる研磨石の上で磨かれるなら、それはあなたの恩寵の光を獲得し、他のどのようなものによっても損なわれない輝きを持つルビーのように輝く。いったん太陽光が感光板に落ちたとき、板は別の映像を記録するのか。あなたと離れて、おお、吉兆なる輝くアルナの山よ、他の何ものが存在するのか。

 Like the string that holds together the gems, in a necklace, You it is that penetrate and bind all beings and the various religions. If, like a gem that is cut and polished, the separate mind is whetted on the grindstone of the pure, universal Mind, it will acquire the light of your Grace and shine like a ruby whose brightness is not flawed by any other object. When once the light of the Sun has fallen on a sensitive plate, will the plate register another picture? Apart from you, O Aruna Mountain bright, auspicious does any other thing exist?

6.
あなたのみが存在する、おお、ハート、意識の光輝よ。あなたの中に、謎めいた力が住する-あなた無くして存在しない力。それ(この顕現する力)から、プラーラブダの渦巻きの真中で心の反射した光により照らされることで、映画がレンズを通じて投影されるように、知覚者と共に一連の微細な影のような思いが、影のような世界の光景として内に現れ、五感によって知覚される世界として外に現れる。知覚されても、知覚されなくても、これら(の思い)はあなたと離れて存在しない、おお、恩寵の山よ。

You alone exist, O Heart, the radiance of Awareness. In You a power mysterious dwells, a power which without You is nothing. From it (this power of manifestation) there proceeds, along with a perceiver, a series of subtle shadowy thoughts which, lit by the reflected light of mind amid the whirl of prarabdha, appear within as a shadowy spectacle of the world and appear without as the world perceived by the five senses as a film is projected through a lens. Whether perceived or unperceived, these (thoughts) are nothing apart from you, O Hill of Grace.

7.
私という思いが存在してはじめて、他の思いが存在しうる。他の思いが生じるとき、「誰に?私に?この『私』はどこに生じるのか」尋ねよ。そのように内側に潜り、人が心の源をつきとめ、ハートに到達するなら、人は全世界の至高なる主となる。もはや内外、正邪、生死、苦楽、明暗などのようなものを夢見ることはない。おお、恩寵の限りない大海であり光輝、ハートの舞踏館で静寂の踊りを踊るアルナーチャラよ。

Until there is the I thought there can be no other thought. When other thoughts arise, ask "To whom? To me? Where does this 'I' arise?" Thus diving inwards, if one traces the source of the mind and reaches the Heart, one becomes the Sovereign Lord of the Universe. There is no more dreaming of such as in and out, right and wrong, birth and death, pleasure and pain, light and darkness, O boundless ocean of Grace and Light, Arunachala dancing the dance of stillness in the dancing Hall of the Heart.

8.
海から立ち昇り、雲から降り注ぐ雨粒は、全ての障害をよそに、今一度、その生まれ故郷である大海にたどり着くまで休むことはできない。あなたから進み出る、形を与えられた心(人、生命)は、自ら選んだ様々な道を通り、しばらく無目的にさ迷うかもしれないが、源である、あなたに合流するまで休むことはできない。鳥はあちらこちらに停空飛翔するかもしれないが、中空には留まれない。鳥は進んだ道を戻らねばならず、終には地上のみがその休らう場所であると見出す。まさにそのように、心はあなたへ向かい、おお、アルナの山よ、至福の大海である、ただあなたのみに再び溶け込まなければならない。

The raindrops showered down by the clouds, risen from the sea cannot rest until they reach, despite all hindrance, once again their ocean home. The embodied soul from You proceeding may through various ways self-chosen wander aimless for a while, but cannot rest till it rejoins You, the source. A bird may hover here and there and cannot in midheaven stay. It must come back the way it went to find at last on earth alone its resting place. Even so the soul must turn to You O, Aruna Hill, and merge again in You alone, Ocean of bliss.

2013年12月18日水曜日

自らの探求と他の修練の比較 - 「秘密の技法」は存在しない

◇『バガヴァーンと日々をともにして(Day by Day with Bhagavan)』、p324~326

 多少訳を変更し、読みやすいように対話形式にしています。(文:shiba)

1946年10月8日

訪問者:(午後に)
 疑いなくバガヴァーンの教える方法は直接的です。しかし、それはとても困難です。我々はどのようにそれを始めればいいのか分かりません。我々が「私は誰か」をマントラとして、ジャパのように「私は誰か」「私は誰か」と問い続けるなら、それは単調なものになります。他の方法では、人は予備的で明確なものから始められ、その後、それと共に一歩一歩進めます。しかし、バガヴァーンの方法ではそのようなものがないため、直ちに自らを探求することは、直接的ではあるにしても困難です。

バガヴァーン:
 それが直接的な方法であるとあなた自身が思っています。それは直接的で、簡単な方法です。我々から離れた他のものを追い求めるのがとても簡単であるならば、人が自分自身の自らへ向かうのがどうして困難になりえるでしょうか。あなたは「どのように始めるのか」と話します。始まりも、終わりもありません。あなた自身が始まりであり、終わりです。あなたがここにいて、自らが他のどこかにあり、あなたがその自らに到達しなければならないなら、あなたは「どのように始めるか、どのように旅するか、どのように到達すればいいか」教わるかもしれません。仮に今、ラマナーシュラマムにいるあなたが、「私はラマナーシュラマムへ行きたいのです。私はどのように出発すればいいですか、どのようにそれに行きつけばいいですか」と尋ねるならば、人は何と言うべきですか。人の自らの探求はそのようです。彼はいつも自らであり、その他の何ものでもありません。

 あなたは「私は誰か」がジャパになると言います。それはあなたが「私は誰か」尋ね続けるべきであるという意味ではありません。その場合には、思いはそう簡単に消えません。全てのジャパは、一つの思い、マントラの使用により、他の一切の思いを排除しようとしています。このジャパはやがては人の役に立ちます。マントラの思い以外の他の一切の思いは徐々に消え、その後、その一つの思いさえも消えます。我々の自らはジャパの性質を帯びています。ジャパはいつもそこで続いています。我々が一切の思いを放棄するなら、ジャパが我々の側の努力なしにいつもそこにあることに気づきます。

 あなたが呼ぶところのその直接的な方法において、あなた自身に「私は誰か」尋ねなさいと言うことによって、あなた自身の内の「私という思い」(他の一切の思いの根本)が生じる場所に集中するように言われているのです。自らはあなたの外になく、内にあるため、あなたは外へ向かうのではなく、内に潜るように求められています。あなた自身に向かうことよりも何が簡単になりえるでしょうか。しかし、この方法が難しく思え、魅力的でないと感じる人々もいるという事実は残ります。ですから、たくさんの異なる方法が教えられているのです。そのそれぞれ(の方法)に、それを最良で、最も簡単なものとして魅力的に感じる人たちがいます。それは彼らのパクヴァ、適性によります。しかし、ヴィチャーラ・マールガ以外の何も魅力的に感じない人々もいます。彼らは、「あなたは私にあれこれを知るのや、見るのを望みます。しかし、知る者、見る者とは誰ですか」と尋ねます。他のどのような方法が選ばれても、常に行為者がいます。それは避けられません。その行為者が誰か見出されねばなりません。それまでは、サーダナを終えることはできません。ですから、結局は、皆が「私は誰か」見出すに至らなければなりません。

 あなたは始めるための予備的もの、明確なものが何もないと不満を言います。あなたは始めるための「私」を持っています。あなたはあなたがいつも存在しており、例えば、眠りにおいて、体はいつも存在していないのを知っています。眠りによって、たとえ体がなくてもあなたが存在することが明らかになります。我々は「私」を体と同一視し、自らが体を持っていて、制限を持っているとみなしています。それゆえに、我々の全ての問題があります。我々がなすべき全てのことは、我々の自らを形と制限を持つ体と同一視するのをやめることです。その時、我々自身をいつも我々である自らとして知ります。

訪問者:
 サーダナの技法に関する限り、あなたの本の中に折に触れ書かれているもの以上に、今、さらに知られるべきものは何もないと信じていいでしょうか。この質問は、他の一切の体系のサーダナにおいて、サッドグルが手ほどき、いわゆるディークシャーの時に何らかの秘密の瞑想の技法を彼の弟子に打ち明けるという事実から起こります。

バガヴァーン:
 あなたが本の中に見つけたもの以上に知られるべきものは何もありません。秘密の技法はありません。この体系では、それはまったく公然の秘密です。

訪問者:
 神の実現の後でさえ、人が飢え、睡眠、休息、暑さ寒さなどのような肉体的要求に注意を払わなければならないなら、自らの実現が何の役に立ちますか。その状態は完全とは呼ばれえない何かです。

バガヴァーン:
 自らの実現の後の状態がどうなるのか。あなたはどうしてそれについて今、思い悩まなければならないのですか。自らの実現を達成しなさい。そして、その後、自分自身で確かめなさい。しかし、どうして自らの実現の状態に向かうですか。今でさえ、あなたは自らなしに存在しますか。そして、食べることや眠ることなど、これら全ての物事は自らなしに、自らを離れて存在しますか。 
              

2013年12月10日火曜日

トゥリーヤ(第四の状態)、儀式の必要性、ジニャーナと他者の苦しみ

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p92~97

 多少訳を変更して、読みやすいように対話形式にしています。(文:shiba)

46年1月5日 午後 

 私が講堂に入った時、バガヴァーンは何かの質問に答えていました。

バガヴァーン:
 夢が短く、目覚めが長いという以外、夢と目覚めの状態の間に相違はありません。共に心の結果です。目覚めの状態が長いので、我々はそれが我々の真の境地であると想像します。しかし、実際、我々の真の境地とはトゥリーヤ、または、第四の状態と時に呼ばれるものであり、いつもあるがままにあり、三つのアヴァスター(*1)、すなわち、目覚め、夢、眠りについて何も知りません。我々がそれら三つをアヴァスターと呼ぶので、我々は第四の状態もまたトゥリーヤ・アヴァスターと呼びます。しかし、それはアヴァスターではなく、自らという真の自然な境地です。これが実現される時、我々はそれがトゥリーヤでも、第四の状態でもなく-なぜなら、第四の状態は相対的なものに過ぎません-、トゥリーヤーティータ、第四の状態と呼ばれる超越的な境地であると知ります。

訪問者:
 聖職者は様々な儀式やプージャー(*2)を定め、人々は断食期間や祭日などにそれらを適切に行わなければ、罪が生じるなどと言われます。そのような儀式や儀式的崇拝を行う必要がありますか。

バガヴァーン:
 ええ。そのような全ての儀式もまた必要です。それはあなたには必要ではないかもしれません。しかし、そのことは、それが誰にとっても必要ではなく、全く役に立たないということを意味しません。幼児教室の生徒に必要なものは、大学院生には必要ありません。しかし、大学院生さえも幼児教室で彼が習ったまさにそのアルファベットを使わなければなりません。今や、彼はアルファベットの使い方と意義を十分に知っています。

訪問者:
 私はオームカーラ(*3)・プージャーをします。私はオーム・ラムと言います。それは良いことですか。

バガヴァーン:
 ええ。どのようなプージャーも良いのです。オーム・ラムや他のどのような名前も役に立ちます。肝心なことは、オーム、ラム、神という一つの思い以外の他の一切の思いを遠ざけることです。全てのマントラ、ジャパはその手助けをします。例えば、ラムのジャパをする人は、ラーマ・マヤ(*4)になります。崇拝する者が、やがては崇拝されるものになります。その時になってはじめて、彼は彼が繰り返し唱えていたオームカーラの完全な意味を知ります。

 我々の本質はムクティです。しかし、我々は我々が束縛されていると想像していて、我々がその間中ずっと自由であるにもかかわらず、自由になるために様々な骨の折れる試みを行っています。これは我々がその段階に達した時にのみ理解されます。我々は、我々がいつも我々であったもの、そして、(今も)我々であるものを得ようと必死に試みていたことに驚きます。

 一つの例によって、これが分かりやすくなるでしょう。ある人がこの講堂で眠りに落ちます。彼は世界旅行に出かけた夢を見て、山や谷、森や国、砂漠や海を放浪し、様々な大陸を越え、長い年月の難儀な骨の折れる旅の後、この国に戻り、ティルヴァンナーマライに到着し、アーシュラムに入り、講堂に歩み入ります。ちょうどその時、彼は目を覚まし、彼が少しも動いておらず、彼が横たわった場所で寝ていたことに気づきます。彼は大変な努力の後でこの講堂に帰ってきたわけではなく、講堂に今も、そして、いつもいました。それはまさにそのようなのです。「自由であるのに、どうして我々は我々が束縛されていると想像するのですか」と問われるなら、私は、「講堂にいるのに、どうしてあなたは自分が山や谷、砂漠や海を越え、世界を冒険していると想像したのですか。それはすべて心、もしくは、マーヤーです」と答えます。

シュリー・オウロビンドー・アーシュラムから来たという訪問客:
 しかし、我々は世界の中で苦しみを見ます。ある人は空腹です。それは身体的な現実です。それは彼にとってとても現実的です。我々はそれを夢であると呼び、彼の苦しみに心動かされずにいるべきなのですか。

バガヴァーン:
 ジニャーナや現実(*5)の視点からは、あなたが言う苦しみは確かに夢です。それは世界と同じく夢であり、苦しみは世界のごくわずかの部分です。夢の中でも、あなた自身が空腹を感じます。あなたは他の人が空腹で苦しんでいるのに気づきます。あなたは食事をとり、憐れみに心動かされ、あなたが空腹で苦しんでいると気付いた他の人に食事を与えます。夢が続く限り、その一切の苦しみは非常に現実的です。あなたが今、世界で見る苦しみを現実的であると思うのと同じです。目覚めて初めて、あなたは夢の中の苦しみが現実でないと発見します。あなたはたっぷり食べて、眠りについたかもしれません。あなたは夢を見て、灼熱の太陽が一日中照りつける中で激しく長時間働き、疲れて空腹で、たくさん食べたいと思います。その時、あなたは目覚め、お腹一杯でベッドから動いていないことに気付きます。

 しかし、今述べたこと全ては、あなたが夢にいる間に、あなたがそこで感じる苦しみが現実でないかのようにあなたが振る舞ってもいいと言わんとしているのではありません。夢の空腹は夢の食べ物で満たされねばなりません。あなたがとてもお腹が減っていると夢で気付いた仲間には、その夢の中で食べ物が与えられなければなりません。あなたは、二つの状態、夢と目覚めの状態を決して混ぜることはできません。

 あなたがジニャーナの境地に達するまで、従って、このマーヤーから目覚めるまで、あなたが苦しみを見る時はいつでも、苦しみを和らげることによって社会的な奉仕をしなければなりません。しかし、その時でさえ、我々が教わっているように、アハンカーラ(*6)なしに、つまり「私が行為者である」という実感なしに、「私は主(神)の道具である」と感じながらそれを行うべきです。

 同じように、あなたは、「私は自分より下にいる人を助けている。彼は助けが必要だ。私は助ける立場にいる。私は優れていて、彼は劣っている」と思いあがってはいけません。そうではなく、あなたはその人の内にいる神を崇拝するための手段として助けなければいけません。そのような奉仕すべては自らのためでもあり、他の誰のためでもありません。あなたは他の誰でもなく、ただあなた自身のみを助けているのです。

 ラーマチャンドラ・アイヤルがこれに関連して、『エイブラハム・リンカーンの古典的な例があります。彼は豚が溝から出るのを助け、その過程で彼自身と彼の服を汚してしまいました。彼がどうしてそんなにも労を費やしたのか尋ねられた時、彼は、「私は豚の問題を終わらせるためというよりもむしろ、気の毒な生き物が溝から出ようともがいているのを見るという自分自身の苦しみを終わらせるためにそれをしました」と答えました』と言いました。

ジョーシー氏:
 私は世帯主です。私には精神的成長の妨げになる扶養家族と障害となるものがあります。私はどうすべきでしょうか。

バガヴァーン:
 その扶養家族と障害となるものがあなたの外にあるのか、それらがあなたの内に存在するのか確かめなさい。

ジョーシー氏:
 私は初心者です。私はどのように始めるべきでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたは今どこにいますか。どこに目的地がありますか。歩まれねばならない距離はどれほどですか。自らは到達されるべきどこか遠くにありません。あなたはいつもそれです。あなたはただ、あなたの習慣、あなた自身を自らでないものと同一視する長年の習慣をやめさえすればいいのです。一切の努力はそのためだけにあります。心を外に向けることにより、あなたは世界、自らでないものを見つづけています。あなたが心を内に向けるなら、あなたは自らを見ます。

 この教えの後、ローカンマがタミル語の歌を歌い始めました。バガヴァーンはすぐに、「母はこの歌をたびたび歌っていました。これは私が今話してきたまさにそのことを繰り返しています」と言いました。そこで直ちに、私はバガヴァーンに誰がその歌の作者なのか尋ねました。

 彼は、「アヴダイ・アンマル(*7)です。彼女は非常に多くの歌を作りました。それらはその地域(マドゥライや近辺の他県)では非常に人気があります。それらのいくつかは出版されています。しかし、とても多くが出版されないままです。それらは口頭で世代から世代へ、主に女性を通じて受け継がれています。彼女達は他の人から歌を聞き、すでに歌を知っている人たちと一緒に歌い、歌を暗記します」と言いました。私は今、バガヴァーンの母親が読み書きができなかったことを知りました。バガヴァーンは私に、「それにも関わらず、彼女はとてもたくさんの歌を暗記していました」と言いました。以下に、その歌とその意味が記されます。

どうして常にある自ら
自覚かつ至福が
どうしてそれが今まで、あたかも
これを忘れていたかのように振る舞ったのか
不可思議の中の不可思議、理解を越えているのは
あなたのおかしな恐れ
私の白鳥、私のかわいい人
私へのあなたの恐れ!
心は学び、知り、忘れ
体はもうけられ、生まれ、死ぬ
どこからこの不浄が清浄の中に?
大、小、階級、地位、光景、見る者-
どうしてこの薄暗がりの波が深淵なる至福の海の中に?
言葉も沈黙の誓いも必要ない
行くことも来ることもなく、始まりも終わりも中間もない
光もなく、音もない、性質もない
分離もなく、それゆえ、恐れもない
おお、不可思議の中の不可思議、夢の中のように見える物事!
内と外、高い低い、十方向すべては
無限に広大な光の中に失われた
壊れない、支えられていない、完全で穏やかな
純粋な自覚、不変の至福
かつては遠い目的地に思い焦がれていた
今やここに、歓喜が、歓喜が!

(*1)アヴァスター・・・状態
(*2)プージャー・・・神などを崇拝するヒンドゥー教の祈りの儀式。
(*3)オームカーラ・・・文字通りは、「オームの音節」
(*4)ラーマ・マヤ・・・「ラーマで満ちたもの」、「完全なラーマ」。
(*5)現実・・・英語のthe realityの訳。「真実」とも訳せますが、夢との比較で現実と訳しています。
(*6)アハムカーラ・・・「自我への同一化、愛着」。カーラは「創造されたもの」「すること」を意味する。
(*7)アヴダイ・アンマル・・・2010年1月号の「The Mountain Path」のp17に「Avudai Akka of Chengottai 」という記事があります。

沈黙の力、グルとの死後の交際、交際の利益、ジャパの修練、死と解放

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p168~172

46年3月9日 朝 

 ボーパールの引退した医療官長であるマサラワーラー医師は、もう1ヵ月以上ここにいて、シヴァ・ラオ医師の不在の間、アーシュラムの病院を一時的に管理しています。彼はバガヴァーンに以下の質問をして、以下の答えを得ました。

質問:
 バガヴァーンは、「ジニャーニの影響は沈黙のうちに信奉者へそっと入りこむ」と言います。バガヴァーンはまた、「偉大な人々、高貴な方々との交際は、人の真の存在を実現する一つの有効な手段である」と言います。

バガヴァーン:
 ええ。何か矛盾していますか。ジニャーニ、偉大な人々、高貴な方々-彼(医師)はこれらの人たちを区別するのですか。

 そこで直ちに、私(デーヴァラージャ・ムダリアール)は「いいえ」と言いました。

バガヴァーン:
 彼らとの交際は良いことです。彼らは沈黙を通じて働きかけます。話すことによって、彼らの力は減少します。沈黙はもっとも力強いのです。言葉はいつも沈黙より力強くありません。ですから、心の交際が最良です。

質問:
 それはジニャーニの身体の消滅の後さえも当てはまりますか、それとも、それは彼が肉体(血と肉)の内にいる限りのみ真実ですか。

バガヴァーン:
 グルは身体的な形態ではありません。ですから、交際はグルの身体的な形態が消え去った後さえも存続します。

質問:
 同様に、グルと信奉者の交際はグルの死後も続きますか。それとも、終わりますか。成熟した者にとっては、グルが亡くなった後、彼の自らが彼のグルの役目を果たすことは可能ですが、未熟な者は何をすべきですか。バガヴァーンは、「外側のグルもまた信奉者の心を自らへ押し進めるために必要とされる」と言います。彼は別の熟練者と交際できますか。この交際は必ず身体的なものであるべきですか、それとも、心の交際で十分ですか。どちらがより良いでしょうか。

バガヴァーン:
 すでに説明したように、グルは身体的な形態でないので、彼の交際は彼の形が消え去った後で続きます。一人のジニャーニが世界に存在するならば、彼の影響は、ただ彼の直近の弟子たちのみでなく、世界の全ての人々により感じられ、もしくは、利益します。世界の全ての人々は彼の弟子、バクタ、彼に無関心な人々、彼に敵意すらある人々に分けられ、以下の詩節ではこの全ての区分がジニャーニの存在により利益されると言われています。

四つの区分の人々がジヴァーンムクタ(*1)により利益を受ける
ジーヴァンムクタへの信により、弟子はムクティを達成し
グルを崇拝するバクタは功徳を得
ジーヴァンムクタの聖なる生き方を見た無関心な人々は正義(廉直)への望みを獲得し
罪びと(つまり、最初の詩節の敵意ある人々)さえも
そのような聖者のダルシャンを得たという事実だけによって罪を取り除く
(『ヴェーダーンタ・チューダーマニ』から、バガヴァーンの引用の要約)

 神、グル、自らは、同じものです。あなたの神へのバクティがあなたを成熟させた後、神はグルの姿でやって来て、外側からあなたの心を内側に推し進めますが、一方、彼は自らとして内にいるので、あなたを内からそこに引き寄せます。そのようなグルは、とても進歩した稀な人々には必要ありませんが、広く一般に必要とされています。人は彼のグルが亡くなった後、別のグルのもとへ行けます。しかし、全てのグルは一つです。彼らの誰も形態ではないからです。いつも心の交際が最良です。

質問:
 私の修練は継続的なジャパであり、吸う息と共に神の名を言い、吐く息と共にバーバー(つまり、ウパシュニ・バーバ(*2)、もしくは、サーイー・バーバー)の名を言います。これと同時に、私はバーバーの姿をいつも見ます。バガヴァーンの内にさえ、私はバーバーを見ます。外見もとてもよく似ています。バガヴァーンはほっそりしています。バーバーはすこし太っています。今、私はこれを継続すべきでしょうか、それとも、方法を変えるべきでしょうか。内から何かが、「あなたが名と形にしがみつくなら、あなたは決して名と形を超え行けないだろう」と言います。しかし、名と形を放棄した後、私はさらに何をすべきか分かりません。バガヴァーンはこの点について私に教えて下さいますか。

バガヴァーン: 
 あなたは現在の方法を続けてかまいません。ジャパが継続的になる時、他の一切の思いは止み、人はその本質の内にいます。それはジャパやディヤーナです。我々は心を世界の物事へ外に向け、それゆえ、常にジャパである我々の本質に気づきません。いわゆる意識的な努力、ジャパやディヤーナによって、我々が我々の心が他の物事を考えるのを妨げる時、後に残るものが我々の本質であり、ジャパです。

 あなたが「私は名と形である」と思うかぎり、あなたはジャパにおいても名と形から逃れられません。あなたが「私は名と形ではない」と悟る時、名と形は自ら抜け落ちます。他の努力は必要ありません。ジャパやディヤーナは自然に、そして、自ずからそれに通じます。今、手段としてみなされているもの、ジャパがその時、目的であると見出されます。名と神は異なりません。1937年9月号の「Vision」から抜粋された神の名の意義についてのナームデーヴの教えをご覧なさい。(これは講堂で読みあげられました。)

 バガヴァーンはまた、聖書を引用しました。「はじめに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった」(*3)

質問:
 解放は体の消滅の前に達成されるべきですか、それとも、死後に得られますか。ギーターの2章・72(*4)や8章・6(*5)のような詩節の意味は何ですか。

バガヴァーン:
  あなたに死がありますか。死が誰にありますか。死ぬ体、寝ている間に、あなたはそれに気づいていましたか、それを持っていましたか。あなたが寝ていた時、はありませんでしたが、その時でさえあなたは存在していました。あなたが目覚めた時にあなたは体を得て、その目覚めの状態においてさえ、あなたは存在します。眠りと目覚めの両方において、あなたは存在していました。しかし、眠りにおいて体は存在しておらず、目覚めにおいてのみ存在します。いつも存在せずに、ある時には存在し、他の時には存在しないものは現実になるはずがありません。あなたは常に存在しており、それゆえに、あなたのみが現実なのです。

 解放はあなたの別名です。それは、あなたと共に今ここにいつもあります。それは、これから後や、どこかで勝ち取られたり、達せられたりする必要はありません。キリストは、今ここに「神の王国はあなたの内にある」と言いました。あなたは死を持ちません。ターユマーナヴァルは、「世界に住んでいる時でさえ、ニシター(*6)に常にいる者たちは死のようなものがあると考えない」と歌っています。

 ギーター全体の文脈において、その(たとえば、2章の)ギーターの詩節は、あなたが今世の間に解放を達成しなければならないということを意味しているだけです。たとえ今世の間にそれができなくても、あなたは少なくとも死の時に神を思わねばなりません。なぜなら、人は死の時に考えたものになるからです。しかし、あなたが生きている間中いつも神を思っていなければ、あなたが生きている間に神についてのディヤーナを常なる習慣としていなければ、あなたが死の時に神を思うのはまったく不可能でしょう。

(*1)ジーヴァンムクタ・・・命あるうちに解放に達した聖者。
(*2)ウパシュニ・バーバー・マハーラージ・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Upasni_Maharaj
(*3)「ヨハネによる福音書」の第1章1・2詩節、3詩節は「全てのものはこれによってできた」
(*4)ギーターの2章72詩節:「プリターの息子よ、これがブラフマンの境地である。それに達すれば、迷うことはない。死の時もこれに留まるなら、ブラフマ・ニルヴァーナに達する」
(*5)ギーターの8章6詩節:「体を捨て去る時にどのような思いを思い起こそうとも、クンティーの息子よ、彼は必ずいつもその思いとなる」
(*6)ニシター・・・サンスクリット語。最上の住まい・堅固な献身。

2013年12月5日木曜日

マーヤーの五つの名、世界(波)とアートマ・スワルーパ(海)

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

1947年5月21日
(119)ニディディヤーサナ 

 昨日の朝8時、Arya Vignana Sanghaで働き、バガヴァーンの弟子の一人であるサイード博士が、バガヴァーンのダルシャンのためにやって来て、「バガヴァーンは全世界がアートマ(自ら)というスワルーパ(*1)であると言います。もしそうなら、我々はどうしてこの世界にとても多くの問題を見出すのですか」と尋ねました。喜びを表す顔つきで、バガヴァーンは答えました。

バガヴァーン:
 それはマーヤーと呼ばれています。『ヴェーダーンタ・チンターマニ』で、マーヤーは五つの方法で描かれています。ニジャグナ・ヨーギ(*2)という名の人が、カナラ語でその本を書きました。その中でヴェーダーンタがとても適切に扱われており、ヴェーダーンタの学術用語の権威であると言えます。タミル語の翻訳があります。

 マーヤーの五つの名は、タマス、マーヤー、モーハ、アヴィドヤー、アニティヤです。タマスは、生命についての知識を隠すものです。マーヤーは、世界の形である一者(神)を世界と異なるように見せることに責任があります。モーハは、異なるものを現実にみせるものです-スクティ・ラジャタ・ヴァバティ(*3)、真珠母貝が銀でできているという幻を作りだすこと。アヴィドヤーは、ヴィドヤー(知)を台無しにするものです。アニティヤは、一時的なもの、永遠であり、現実であるものと異なるものです。 

 これらの五つのマーヤーのため、スクリーン上の映画の映像のように、問題がアートマの中に現れます。そのマーヤーを取り除くためだけに、全世界がミティヤ(*4)であると言われています。アートマンはスクリーンのようです。あなたが映される映像がスクリーンに依存していて、別なように存在していないということを知るようになるのとまさしく同様に、目に映る世界がアートマと異ならないということを自らの探求によって知ることができるまで、世界はまったくのミティヤ(*5)であると言わざるを得ません。しかし、いったん現実が知られるなら、全世界はアートマのみとして現れます。それゆえ、世界が非現実であると言ったまさにその人々が、続いてそれがアートマ・スワルーパのみであると言ったのです。結局のところ、重要なのは見かたです。見かたが変われば、世界の問題は我々を悩ませません。波は大海と異なりますか。いったいどうして波が起こるのか。尋ねられるなら、どのような答えができますか。波は行き来します。それらがアートマと異ならないということが見出されるなら、この悩みは存在しません。

 その信奉者は悲しげな口調で、「いくらバガヴァーンが我々に教えても、我々は理解できません」と言いました。

バガヴァーン:
 人々は遍く行き渡るアートマを知ることができないと言います。私に何ができますか。ほんの小さな子供さえも、「僕がいる。僕がやる。これは僕のものだ」と言います。ですから、全ての人が「私」というものがいつも存在していることを理解しています。その「私」がそこにある時のみ、あなたが体であり、彼はヴェンカンナです、私はラマンナです、というような実感がそこにあります。常に目に映る一者(神)が自分自身であるということ知るために、蝋燭を持って探す必要がありますか。我々が自分自身の中にあり、異なるものでないアートマ・スワルーパを知らないと言うことは、「私は私自身を知りません」と言うようなものです。

信奉者:
 それは、シュラバナ(*6)とマナナ(*7)によって目覚め、目に映る全世界をマーヤーに満ちていると見る人たちが、究極的にはニディディヤーサナ(*6)によって真のスワルーパを見つけるという意味です。

バガヴァーン:
 ええ、そうです。ニディはスワルーパという意味です。ニディディヤーサナは、グルの言葉のシュラバナとマナナの助けと共に、スワルーパに強く集中する行為です。それは、逸れることのない熱意をもって、それに瞑想することを意味します。長いあいだ瞑想した後で、彼はそれに溶け込みます。その時、それがそのものとして輝きます。いつもそこにそれはあります。人がそれをあるがままに見られるなら、この種の問題はありません。常にそこにある自分自身を見るために、どうしてこんなにも多くの質問がいりますか。

(*1)スワルーパ・・・(自分自身の)本質
(*2)ニジャグナ・ヨーギ・・・ニジャグナ・シヴァヨーギ、15世紀のカンナダ語(カナラ語)の詩人であり、多作の作家。
(*3)スクティ・・・貝、ラジャタ・・・銀、ヴァバティ・・・なること、形を装うこと
(*4)ミティヤ・・・幻、非現実
(*5)シュラバナ・・・聞くこと
(*6)マナナ・・・熟考すること
(*7)ニディディヤーサナ・・・途切れのない瞑想

2013年12月3日火曜日

忘却の効用、人形劇のような世界、ヴェーダーンタはアディカーリーへ

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

 読みやすいように対話形式にするため、多少訳を変更しています(文:shiba)

1947年11月21日
(158) 記憶 - 忘却

 今日の午後3時、白孔雀がバガヴァーンの前に来て、私たちみんなの真っただ中で動き回り始めました。一人の信奉者が、それがとても人馴れしていることに気づき、「この鳥は過去生を知っているようです。そうでなければ、人々みんなの真っただ中をこんなにも自由に動けますか」と発言しました。バガヴァーンは、「ですから、ここにいる多くの人々が、それがマドハヴァ(最近亡くなったバガヴァーンの古参の従者)であり、その姿でここにやって来たと言うのです」と言いました。その信奉者は、「もしそうなら、それは過去生でこれこれであったということを知っていますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 どうして(知ることが)できるでしょうか。誰も過去生について知りません。人々は忘れています。そして、その忘却は良いことです。この一度の人生だけで、時に我々は過去に起こったことにひどく悩みます。もし我々が過去生をすっかり知るならば、そのような悩みに耐えられますか。過去生の事実を知ることは、自分自身の自らを知ることを意味します。それが知られるなら、この生まれと過去生が、心とそのサンカルパ(欲望、意思)のみから出ていると分かるでしょう。

 『(ヨーガ・)ヴァーシシュタ』において、この創造がどれほど様々な方法で描かれているのかご覧なさい。ガーディ(*1)がクリシュナにマーヤー・スワルーパ(マーヤーの本質)を見せるように頼んだ時、彼はガーディに無数の姿を見せました。ラヴァナ・マハーラージャの話(*2)もそのようであり、シュクラの話(*2)はよりいっそう興味深いものです。シュクラはサマーディに留まっていて、その間に彼の体が完全に朽ちていて、もはや存在していないことを理解していませんでした。その間に、彼はいくつもの生まれを持ちました。最後に彼はバラモンとして生まれ、メール山で禁欲的な生活を送っている時、彼の父ブルグがストゥーラ・サーリア(粗大な体)を身につけた死の神(カーラ)と共に彼のもとへ行き、彼に彼の生まれ変わりの間に起こった全てのことを話しました。その後、シュクラは彼らに同行し、彼の元々の体を見て、死の神の許しを得て、それに入りました。

 いくつかの他の話で、ある人にとって夢に現れた事を別の人が目覚めた状態そのものにおいて見たということが語られています。その中で、どの話が真実でしょうか。

信奉者:
 ある人にとって何かが夢で現れるなら、どうしてそれが他の誰かに目覚めの状態で現れうるのですか。

バガヴァーン:
 どうしてできませんか。異なる種類のものですが、それもまた夢です。スクリーン上に現れる映像のように、現れる全てのものは心の創造物です。現実には、人はそのどれでもありません。人形劇のようである、この非現実の世界において、人があの人形や、この映像だったことを思い出すよりも、全てを忘れるほうが良いのです。

信奉者:
 物質的な世界に従って、我々は「これは私のものである」と言わざるを得ません。そうではありませんか。

バガヴァーン:
 ええ、確かに、我々はそのように言わざるを得ません。しかしながら、ただ単にそう言うことによって、我々がその全てであると思い、それに関連する楽しみと悲しみに浸(ひた)る必要はありません。我々が乗り物に乗るとき、我々が乗り物であると思いますか。太陽を例にとりましょう。それは小さな壺の水の中で、大きな川の中で、鏡の中で輝きます。その映像はそこにあります。しかし、ただそのために、太陽が「私はその全てである」と思いますか。我々に関しても同じことです。全ての問題は、人が「私は体である」と思うならば生じます。人がその思いを拒絶するなら、その時、太陽のように、人はあらゆる所に輝き、遍く行き渡るでしょう。

信奉者:
 そのために、バガヴァーンは、なすべき最良のことは、「私は誰か」という自らの探求の道に従うことであると言うのではないですか。

バガヴァーン:
 ええ。しかし、『(ヨーガ・)ヴァーシシュタ』の中で、自らの探求の道は十分な資格を持たない誰にも示されるべきではないとヴァーシシュタがラーマに語ったと言及されています。他のいくつかの本では、靈的修練は数回の生まれ、もしくは、少なくともグルの元で十二年間行われるべきであると述べられています。しかし、もし私が靈的修練を数回の生まれの間なされねばならないと言うなら、人々を怖がらせ、遠ざけてしまうので、私は彼らに、「あなたはすでにあなたの内に解放を持っています。あなたはただ、あなたに降りかかった外側の物事をあなた自身からただ取り除きさえすばいいのです」と言います。靈的修練はそのためだけにあります。とはいえ、昔の人々がこの全てを理由もなしに言ったわけではありません。「あなたは神、ブラフマンそのものであり、あなたはすでに解放されている」と告げられるなら、人は「私はすでに必要とされるものを持っていて、それ以上何も欲しくない」と思い、靈的修練を何も行わないかもしれません。ですから、これらのヴェーダーンタに関する事柄はアナディカーリー(適していない人)(*4)に語られるべきではありません。他に理由はありません。(そしてバガヴァーンは微笑みました。)

最近到着した信奉者が、話の穂をつぎ、言いました:
 シャンカラのスタンザ(詩節)で、「鏡の中の都市のように、全世界は自らの中の反射である」(*5)とあります。世界は幻であり、非現実であると言う言明は一般の人々のためにあり、悟った人のためではありません。そうではありませんか。

バガヴァーン:
 ええ。悟った人の目には、あらゆるものはブラフマンに満ちているように見えます。いくら語られても、悟っていない人(アジニャーニ)は何も見ることができません。それゆえ、全ての聖典は一般の人々のためだけにあります。

(*1)ガーディ(Gadhi)の話・・・私が持ってる『ヨーガ・ヴァーシシュタ』ではクリシュナでなく、主ヴィシュヌがガーディにマーヤ・スワルーパを見せます。ガーディは夢のような出来事を体験しますが、それが現実(目覚めの状態)で起こっていたことに気づき、マーヤーの不可思議に翻弄されています。
(*2)ラヴァナ(Lavana)の話・・・ラヴァナ王がマーヤーの力により、わずかの時間で違う人生を体験します。
(*3)シュクラ(sukra)の話・・・父ブルグは息子シュクラが死んでいるのを見て、怒り、「時(もしくは死)」を呪おうとするのですが、「時」が無駄なことはやめなさいと言い、教えを説いています。
(*4)アナディカーリー・・・・アディカーリー(適した人)+否定の接頭辞
(*5)http://arunachala-saint.blogspot.jp/2013/05/dakshinamurthy-stotra_12.htmlの第2詩節。