2013年12月3日火曜日

忘却の効用、人形劇のような世界、ヴェーダーンタはアディカーリーへ

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

 読みやすいように対話形式にするため、多少訳を変更しています(文:shiba)

1947年11月21日
(158) 記憶 - 忘却

 今日の午後3時、白孔雀がバガヴァーンの前に来て、私たちみんなの真っただ中で動き回り始めました。一人の信奉者が、それがとても人馴れしていることに気づき、「この鳥は過去生を知っているようです。そうでなければ、人々みんなの真っただ中をこんなにも自由に動けますか」と発言しました。バガヴァーンは、「ですから、ここにいる多くの人々が、それがマドハヴァ(最近亡くなったバガヴァーンの古参の従者)であり、その姿でここにやって来たと言うのです」と言いました。その信奉者は、「もしそうなら、それは過去生でこれこれであったということを知っていますか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 どうして(知ることが)できるでしょうか。誰も過去生について知りません。人々は忘れています。そして、その忘却は良いことです。この一度の人生だけで、時に我々は過去に起こったことにひどく悩みます。もし我々が過去生をすっかり知るならば、そのような悩みに耐えられますか。過去生の事実を知ることは、自分自身の自らを知ることを意味します。それが知られるなら、この生まれと過去生が、心とそのサンカルパ(欲望、意思)のみから出ていると分かるでしょう。

 『(ヨーガ・)ヴァーシシュタ』において、この創造がどれほど様々な方法で描かれているのかご覧なさい。ガーディ(*1)がクリシュナにマーヤー・スワルーパ(マーヤーの本質)を見せるように頼んだ時、彼はガーディに無数の姿を見せました。ラヴァナ・マハーラージャの話(*2)もそのようであり、シュクラの話(*2)はよりいっそう興味深いものです。シュクラはサマーディに留まっていて、その間に彼の体が完全に朽ちていて、もはや存在していないことを理解していませんでした。その間に、彼はいくつもの生まれを持ちました。最後に彼はバラモンとして生まれ、メール山で禁欲的な生活を送っている時、彼の父ブルグがストゥーラ・サーリア(粗大な体)を身につけた死の神(カーラ)と共に彼のもとへ行き、彼に彼の生まれ変わりの間に起こった全てのことを話しました。その後、シュクラは彼らに同行し、彼の元々の体を見て、死の神の許しを得て、それに入りました。

 いくつかの他の話で、ある人にとって夢に現れた事を別の人が目覚めた状態そのものにおいて見たということが語られています。その中で、どの話が真実でしょうか。

信奉者:
 ある人にとって何かが夢で現れるなら、どうしてそれが他の誰かに目覚めの状態で現れうるのですか。

バガヴァーン:
 どうしてできませんか。異なる種類のものですが、それもまた夢です。スクリーン上に現れる映像のように、現れる全てのものは心の創造物です。現実には、人はそのどれでもありません。人形劇のようである、この非現実の世界において、人があの人形や、この映像だったことを思い出すよりも、全てを忘れるほうが良いのです。

信奉者:
 物質的な世界に従って、我々は「これは私のものである」と言わざるを得ません。そうではありませんか。

バガヴァーン:
 ええ、確かに、我々はそのように言わざるを得ません。しかしながら、ただ単にそう言うことによって、我々がその全てであると思い、それに関連する楽しみと悲しみに浸(ひた)る必要はありません。我々が乗り物に乗るとき、我々が乗り物であると思いますか。太陽を例にとりましょう。それは小さな壺の水の中で、大きな川の中で、鏡の中で輝きます。その映像はそこにあります。しかし、ただそのために、太陽が「私はその全てである」と思いますか。我々に関しても同じことです。全ての問題は、人が「私は体である」と思うならば生じます。人がその思いを拒絶するなら、その時、太陽のように、人はあらゆる所に輝き、遍く行き渡るでしょう。

信奉者:
 そのために、バガヴァーンは、なすべき最良のことは、「私は誰か」という自らの探求の道に従うことであると言うのではないですか。

バガヴァーン:
 ええ。しかし、『(ヨーガ・)ヴァーシシュタ』の中で、自らの探求の道は十分な資格を持たない誰にも示されるべきではないとヴァーシシュタがラーマに語ったと言及されています。他のいくつかの本では、靈的修練は数回の生まれ、もしくは、少なくともグルの元で十二年間行われるべきであると述べられています。しかし、もし私が靈的修練を数回の生まれの間なされねばならないと言うなら、人々を怖がらせ、遠ざけてしまうので、私は彼らに、「あなたはすでにあなたの内に解放を持っています。あなたはただ、あなたに降りかかった外側の物事をあなた自身からただ取り除きさえすばいいのです」と言います。靈的修練はそのためだけにあります。とはいえ、昔の人々がこの全てを理由もなしに言ったわけではありません。「あなたは神、ブラフマンそのものであり、あなたはすでに解放されている」と告げられるなら、人は「私はすでに必要とされるものを持っていて、それ以上何も欲しくない」と思い、靈的修練を何も行わないかもしれません。ですから、これらのヴェーダーンタに関する事柄はアナディカーリー(適していない人)(*4)に語られるべきではありません。他に理由はありません。(そしてバガヴァーンは微笑みました。)

最近到着した信奉者が、話の穂をつぎ、言いました:
 シャンカラのスタンザ(詩節)で、「鏡の中の都市のように、全世界は自らの中の反射である」(*5)とあります。世界は幻であり、非現実であると言う言明は一般の人々のためにあり、悟った人のためではありません。そうではありませんか。

バガヴァーン:
 ええ。悟った人の目には、あらゆるものはブラフマンに満ちているように見えます。いくら語られても、悟っていない人(アジニャーニ)は何も見ることができません。それゆえ、全ての聖典は一般の人々のためだけにあります。

(*1)ガーディ(Gadhi)の話・・・私が持ってる『ヨーガ・ヴァーシシュタ』ではクリシュナでなく、主ヴィシュヌがガーディにマーヤ・スワルーパを見せます。ガーディは夢のような出来事を体験しますが、それが現実(目覚めの状態)で起こっていたことに気づき、マーヤーの不可思議に翻弄されています。
(*2)ラヴァナ(Lavana)の話・・・ラヴァナ王がマーヤーの力により、わずかの時間で違う人生を体験します。
(*3)シュクラ(sukra)の話・・・父ブルグは息子シュクラが死んでいるのを見て、怒り、「時(もしくは死)」を呪おうとするのですが、「時」が無駄なことはやめなさいと言い、教えを説いています。
(*4)アナディカーリー・・・・アディカーリー(適した人)+否定の接頭辞
(*5)http://arunachala-saint.blogspot.jp/2013/05/dakshinamurthy-stotra_12.htmlの第2詩節。

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