1947年5月21日
(119)ニディディヤーサナ
昨日の朝8時、Arya Vignana Sanghaで働き、バガヴァーンの弟子の一人であるサイード博士が、バガヴァーンのダルシャンのためにやって来て、「バガヴァーンは全世界がアートマ(自ら)というスワルーパ(*1)であると言います。もしそうなら、我々はどうしてこの世界にとても多くの問題を見出すのですか」と尋ねました。喜びを表す顔つきで、バガヴァーンは答えました。
バガヴァーン:
それはマーヤーと呼ばれています。『ヴェーダーンタ・チンターマニ』で、マーヤーは五つの方法で描かれています。ニジャグナ・ヨーギ(*2)という名の人が、カナラ語でその本を書きました。その中でヴェーダーンタがとても適切に扱われており、ヴェーダーンタの学術用語の権威であると言えます。タミル語の翻訳があります。
マーヤーの五つの名は、タマス、マーヤー、モーハ、アヴィドヤー、アニティヤです。タマスは、生命についての知識を隠すものです。マーヤーは、世界の形である一者(神)を世界と異なるように見せることに責任があります。モーハは、異なるものを現実にみせるものです-スクティ・ラジャタ・ヴァバティ(*3)、真珠母貝が銀でできているという幻を作りだすこと。アヴィドヤーは、ヴィドヤー(知)を台無しにするものです。アニティヤは、一時的なもの、永遠であり、現実であるものと異なるものです。
これらの五つのマーヤーのため、スクリーン上の映画の映像のように、問題がアートマの中に現れます。そのマーヤーを取り除くためだけに、全世界がミティヤ(*4)であると言われています。アートマンはスクリーンのようです。あなたが映される映像がスクリーンに依存していて、別なように存在していないということを知るようになるのとまさしく同様に、目に映る世界がアートマと異ならないということを自らの探求によって知ることができるまで、世界はまったくのミティヤ(*5)であると言わざるを得ません。しかし、いったん現実が知られるなら、全世界はアートマのみとして現れます。それゆえ、世界が非現実であると言ったまさにその人々が、続いてそれがアートマ・スワルーパのみであると言ったのです。結局のところ、重要なのは見かたです。見かたが変われば、世界の問題は我々を悩ませません。波は大海と異なりますか。いったいどうして波が起こるのか。尋ねられるなら、どのような答えができますか。波は行き来します。それらがアートマと異ならないということが見出されるなら、この悩みは存在しません。
その信奉者は悲しげな口調で、「いくらバガヴァーンが我々に教えても、我々は理解できません」と言いました。
バガヴァーン:
人々は遍く行き渡るアートマを知ることができないと言います。私に何ができますか。ほんの小さな子供さえも、「僕がいる。僕がやる。これは僕のものだ」と言います。ですから、全ての人が「私」というものがいつも存在していることを理解しています。その「私」がそこにある時のみ、あなたが体であり、彼はヴェンカンナです、私はラマンナです、というような実感がそこにあります。常に目に映る一者(神)が自分自身であるということ知るために、蝋燭を持って探す必要がありますか。我々が自分自身の中にあり、異なるものでないアートマ・スワルーパを知らないと言うことは、「私は私自身を知りません」と言うようなものです。
信奉者:
それは、シュラバナ(*6)とマナナ(*7)によって目覚め、目に映る全世界をマーヤーに満ちていると見る人たちが、究極的にはニディディヤーサナ(*6)によって真のスワルーパを見つけるという意味です。
バガヴァーン:
ええ、そうです。ニディはスワルーパという意味です。ニディディヤーサナは、グルの言葉のシュラバナとマナナの助けと共に、スワルーパに強く集中する行為です。それは、逸れることのない熱意をもって、それに瞑想することを意味します。長いあいだ瞑想した後で、彼はそれに溶け込みます。その時、それがそのものとして輝きます。いつもそこにそれはあります。人がそれをあるがままに見られるなら、この種の問題はありません。常にそこにある自分自身を見るために、どうしてこんなにも多くの質問がいりますか。
(*1)スワルーパ・・・(自分自身の)本質
(*2)ニジャグナ・ヨーギ・・・ニジャグナ・シヴァヨーギ、15世紀のカンナダ語(カナラ語)の詩人であり、多作の作家。
(*3)スクティ・・・貝、ラジャタ・・・銀、ヴァバティ・・・なること、形を装うこと
(*4)ミティヤ・・・幻、非現実
(*5)シュラバナ・・・聞くこと
(*6)マナナ・・・熟考すること
(*7)ニディディヤーサナ・・・途切れのない瞑想
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