マハルシの福音
第1巻 第2章 沈黙と独居
弟子:
沈黙の誓いは役立ちますか。
マハルシ:
内なる沈黙は、自らの委ね(*1)です。そして、それは自我意識なく生きることです。
弟子:
独居はサンニャーシン(*2)に必要ですか。
マハルシ:
独居は人の心の中にあります。ある人は世間の真っただ中にいますが、それでいて完全な心の平静を保つかもしれません。そのような人はいつも独居にいます。別の人は森に留まりますが、それでも心を制御できないかもしれません。彼は独居にいるとは言えません。独居とは心の態度です。人生の物事に愛着する人は、どこにいようとも独居を手に入れることはできません。愛着のない人はいつも独居にいます。
弟子:
マウナ(*3)とは何ですか。
マハルシ:
言葉と思いを超越する状態が、マウナです。それは心の活動のない瞑想です。心の征服が、瞑想です。深い瞑想は、永遠の言葉です。沈黙は常に話しています。それは絶え間ない「言語」の流れです。それは話すことによって中断されます。というのも、言葉は、この無言の「言語」を妨害するからです。講義は個々人を改善することなく、何時間か楽しませるかもしれません。沈黙は、それに対して、永遠であり、全人類を利益します...沈黙とは、雄弁を意味します。口頭の講義は、沈黙ほど雄弁ではありません。沈黙は、止むことのない雄弁です... それは最良の言語です。
言葉が止み、沈黙が行き渡るときの状態があります。
弟子:
ではどうすれば私たちは考えを互いに伝えられるのでしょうか。
マハルシ:
二元性の感覚が存在するなら、それは必要になります...
弟子:
どうしてバガヴァーンは巡り歩いて、一般の人々に真理を説かないのですか。
マハルシ:
どうしてあなたは私が(今)それをしていないと分かるのですか。説法とは講壇に上がり、周囲の人々に熱弁をふるうことですか。説法は知識を分かりやすく伝えることです。それは実際、沈黙の内にのみ行えます。1時間、説教に耳を傾け、人生を変えるほどにそれに感銘を受けることなく去る人をどう思いますか。聖なる影響の中に座り、しばらく後にその人生観が全く変わって去る、もう1人と彼を比べて見てみなさい。どちらが良いですか。ききめなく声高に説法することですか。それとも、内なる力を送り出しながら、黙って座ることですか。
また、どのように言葉は生じますか。抽象的な知識が存在し、そこから自我が生じ、それが今度は思いを生み出し、思いは話される言葉を生み出します。ですから、言葉は最初の源のひ孫です(*4)。言葉がききめを生み出せるなら、沈黙を通しての説法がどれほどより力強いはずか、自分で判断しなさい!しかし、人々はこの分かりやすいありのままの真理、彼らの日常的な、常に存在する、永遠の体験の真理を理解しません。この真理とは、自らのそれです。自らを意識していない人が誰かいますか。しかし、彼らはこの真理を耳にさえしたくないのに、向こうにあるもの、天国や地獄や輪廻転生についてしきりに知りたがります。
彼らは謎めいたことを好み、真理を好んでないため、ゆくゆくは彼らを自らに連れてくるために、宗教は彼らの要望に応えます。どのような手段がとられても、あなたは結局、自らに帰らなければなりません。ですから、今この場で自らに留まってはどうですか。あの世の目撃者であるには、それについて思いを巡らすには、自らが必要です。ですから、それらは自らと異なりません。無知な人でさえも、彼が物を見るとき、自らのみを見ます。
(*1)自らの委ね・・・self-surrender、ここでの「自ら」はアートマンではなく、自我である自分と解釈しています。
(*2)サンニャーシン・・・出家者
(*3)マウナ・・・沈黙、静寂
(*4)抽象的な知識(親)⇒ 自我(子)⇒ 思い(孫)⇒ 言葉(ひ孫)
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