2019年3月16日土曜日

バガヴァーンとの日々⑤ - 45年11月20日から45年11月22日

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p39~50

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

45年11月20日 午後

 ラーマクリシュナ・ミッションのリシケーシャーナンダ・スワーミいう人がここにいます。彼はスワーミ・シッデーシュワラーナンダにバガヴァーンを訪問するよう勧めらていたようです。バガヴァーンはシッデーシュワラーナンダについて話し、2冊の本を見せました。1冊は彼の講義(随筆)を含み、もう1冊は1941年にフランスから発送されたのに、ほんの3週間前に受け取られました。リシケーシャーナンダは、シッデーシュワラーナンダがフランス語をしっかり習得していて、その言葉を流暢に話したと言いました。彼はまた、ヴィジャヤーナンダ・スワーミという人が南アメリカで働いていて、キリスト教宣教師たちによる敵意あるプロパガンダにもかかわらず、とても人気があると言いました。二人の裕福な女性がそのスワーミーを支援して、彼にそこにとどまるよう頼みました。その女性の一人はGuirellis夫人で、(そのアーシュラムではMamitaとして知られています)カナラ族の少年Ramanを養子にし、ラーマクリシュナ・ミッション近くで今バンガロールに滞在しています。シッデーシュワラーナンダは数か月間インドに行くつもりで、その時にラマナーシュラマムも訪れたいと思っています。話題は、そのスワーミたちが外国で着ている服に移りました。リシケーシャーナンダはバガヴァーンに、たいてい彼らはヨーロッパの服を着ていて、講義を行う間は、ヴィヴィーカーナンダが何枚かの写真の中で身に着けているのが見られるような長く緩やかに垂れた黄土色のローブとターバンを身に着けていると言いました。

45年11月21日 午前

 そのスワーミは、ジニャーニの特徴についてバガヴァーンに尋ねていました。バガヴァーンは、それはバガヴァッド・ギーターのような本の中に全て描かれていると、しかし、ジニャーニの状態は心を超越するものであり、たかだか心の助けによっては描けず、全ての描写はそれゆえ不完全に違いないことを我々は念頭に置かなければならないと言いました。沈黙だけがその状態や特徴を正確に描けます。しかし、沈黙は言葉よりも効果的です。沈黙から思いが、思いから自我が、自我から言葉が現れます。そのため、言葉が効果的であるなら、その原初の源はどれほどより効果的になるはずでしょうか。これに関連して、バガヴァーンは以下の物語を話しました。「タットヴァラーヤは彼のグル、スワルーパーナンダをたたえてバラニ(タミル語での一種の詩的作品)を作り、その作品を聞き、その価値を評価する学識あるパンディットの集会を招集ました。そのパンディットたちは、バラニは千頭の象を殺すことができる偉大な英雄をたたえてのみ作られると、行者をたたえてそのような作品を作るためでないと異議を唱えました。そこで直ちに、その作者は、『我々皆で私のグルのところに行きましょう。そうすれば、我々はそこでこの問題を解決するでしょう』と言いました。彼らはグルのもとに行き、皆が座についた後、作者はグルに彼らがそこに来た目的を話しました。グルは黙って座り、他の全ての人々もまたモウナに留まりました。丸一日が過ぎ、夜が来て、さらに数昼夜、しかし、皆がそこに黙って座りました。まるで何の思いも彼らの誰にも起こらず、誰もなぜ彼らがそこに来たのか考えず、尋ねませんでした。このように3、4日後、グルは心を少し動かし、そこで直ちにその集会は思考活動を取り戻しました。そして、彼らは言明しました。『千頭の象を征服することは、寄せ集められた我々の全ての自我なる盛りのついた象を征服する、このグルの力に比べれば何でもない。そのため、確かに、彼はバラニでたたえられるにふさわしい』」。

午後

 シュリー・オウロビンドーのアーシュラムからの女性の訪問者がバガヴァーンに、「集中するとき、あらゆる類の思いが生じ、私を邪魔します。努力すればするほど、思いが起こります。どうしたらいいのでしょうか」と尋ねました。

 バガヴァーン: ええ。それはそうなるでしょう。内側にある全てのものが出てこようとするでしょう。心がわき道に逸れたいと思うたびに心を引き止め、自らに据える以外に方法はありません。

 バガヴァーンは、揺れ動く心が何の後を追おうとも、そのたびごとに心を引き離し、自らに据えなければならないと書いてあるバガヴァッド・ギーターの詩節を引用しました。

 シヴァ・モーハン・ラールがバガヴァーンに、「ここバガヴァーンの面前で集中するとき、私はたやすく思いを自らに据えることができます。しかし、私の家では、そのようにするには長い時間がかかり、大いに苦労します。とりわけ、バガヴァーンがあらゆるところにいて、私のアンタルヤーミ(内なる支配者、目撃者)であるとを私は確信しているので、それではどうしてそうでなければならないのでしょうか」と尋ねました。私は、「それはもちろんそうであるに違いありません。我々は神があらゆる所に遍在していると教わっていますが、が他の物や場所よりもある物や場所に、つまり、寺院や聖像、アヴァターラにより顕現するとも教わっていませんか」と言いました。バガヴァーンは、「ここにいるムルガナールに尋ねなさい。彼は歌を歌い、その中で彼は、ラマナーシュラマムは彼にとって単にここでなく、あらゆる場所である言います」と言いました。そこで直ちに、ムルガナールはラマナ・デーヴァマーライから以下の詩節を読み上げました。

タミル語の四行詩

 その意味は、「(彼の恩寵によって)心は静寂を得て、よくラマナーシュラマムで(落ち着いて)いるように、あらゆる所で落ち着いたままであるため、この世界のどこに行こうとも、私にとってそれは神々さえもが行くことを切望するラマナーシュラマムである」。言い換えれば、ラマナーシュラマムは、あらゆる所にあり、心を殺すことによって我々がアクセスするチダーカーシャです。バガヴァーンは、「時間と場所は本当は存在しません。ラジオの中でさえ、我々はこの真理のヒントを得ます。我々はハイデラバードをここに持っています。そこで歌われるものを、そこで歌われるのと同時に我々はここで聞きます。どこに時間と場所がありますか。

 シュリニヴァーサ・ラオ医師がバガヴァーンに、「タミル語、つまり、眠らない眠りにいる、とはどういう意味ですか」と尋ねました。

 バガヴァーン: それはジニャーニの状態です。眠っているとき、我々の自我は沈められ、感覚器官は活動的ではありません。ジニャーニの自我は殺されていて、彼は自発的に、もしくは、彼が行為者であるという概念を伴っては、どの感覚活動にも身を任せません。そのため、彼は眠っています。同時に、彼は眠っているように無意識ではなく、自らに完全に目覚めています。そのため、彼の状態は眠っていません。この眠らない眠り、目覚めている眠りは、どのように呼ばれるのであれ、自らなるトゥリーヤの状態であり、その上にスクリーンにように3つのアヴァスター、目覚め、夢、眠りが通過し、スクリーンは影響されないままあります。

 バガヴァーンは、存在するものをしっかりつかむ代わりに、我々は存在しないもの探し求めていると言いました。我々は過去と未来に気を揉み、現在の真実を理解しません。我々は「アーディ(始まり)や「アンタム」(終わり)を知りません。しかし、我々は中間を知っています。もし我々がこの真実を見出すなら、我々は始まりと終わりを知るでしょう。バガヴァーンはバガヴァッド・ギーターから引用しました。「私は全存在のハート(中心)であり、その始まりであり、中間であり、終わりである」。バガヴァーンはまた、現実はマウナでしかないと言い、ターユマーナヴァルを引用しました。

タミル語の四行詩(kallaalin-25)

我々がとても異なるように見える全ての宗教を吟味するなら
我々は見出す-その中に矛盾するものは何もなく
それはただあなたの(主の)戯れに過ぎないと
川が海に流れ入るように、それは全て静寂、マウナに帰する

 これに関連して、バガヴァーンはまた、人が心のことをブラフマーカーラ・ヴリッティと話すとき、それは大海に合流した川についてサムドラカーラ・ナディーと言うようなものであると言いました。


 バガヴァーンのギーターからの引用に続いて、リシケーシャーナンダがアーディとアンタという言葉が見出されるマンドゥーキャ・ウパニシャッドからの1詩節に言及しました。バガヴァーンはそれを取り出し、「中間にのみあり、始まりに存在しておらず、終わりに存在しなくなるものは、現実であるはずがない。中間にのみでなく、始まりと終わりにもあるものが現実となりうる」と書いてある、その文章を説明しました。

 シュリニヴァーサ・ラオ医師がバガヴァーンに、「我々が『私は誰か』と内に尋ねる時、それは何ですか」と尋ねました。

 バガヴァーン: それは自我です。それはまさしくヴィチャーラを行うものでもあります。自らはヴィチャーラを行いません。探求を行うものは自我です。探求が行われる「私」もまた自我です。探求の結果として、自我は存在しなくなり、自らのみが存在することが判明します。

 私はバガヴァーンに、「今朝、リシケーシャーナンダは、心がどこに行こうとも、それはサマーディであると書かれている文章を引用しました。そんなことがありますか。我々の心はそれが好むものを何でも追い求めます。それがサマーディになれますか」と尋ねました。

 バガヴァーン: その一節はジニャーニに言及しています。彼らの体は、プラーラブダによって彼らが経験するよう意図された、どのような活動にでも従事するかもしれません。しかし、彼らはいつも自らの中にいます。我々は我々自身を体と関係させます、もしくは、同一視します。何を体が行うのであれ、我々は我々が行うと言います。バガヴァット・ギーターは、「賢者は五感が感覚対象物の間を動くと思い、感覚器官の活動に無関心でいるだろう」と言います。私はさらに踏み込み、ジニャーニはそれさえも考えないと言わせてもらいましょう。彼は自らであり、彼自身の他に何も見ません。上述の一節の中でバガヴァッド・ギーターが言うことは、アバヤーシ、修練者にとってです。人に自然とやって来るどのような活動にでも従事して害はありません。障害や束縛は、我々が行為者であると想像し、そのような活動の結果に執着することにあります。

 これに関連して、バガヴァーンはまた言いました。「人は『私はマドラスから来た』と言います。しかし、実際、『彼』は来ていません。ジュトカ(馬車)や何かほかの乗り物が彼を家から鉄道駅舎まで運び、そこから列車が彼をティルヴァンナーマライまで運びました。しかし、彼は『私は来た』と言います。このようにして我々は我々自身を体と五感の活動に同一視します」。バガヴァーンはまたヴェーダーンタ・チューダーマニから、ジニャーニの活動は全てサマーディである、つまり、彼の体が何を行っているのであれ、彼はいつも彼の真の状態にいるという趣旨の引用をしました。バガヴァーンはまたラージェーシュワラーナンダに言及し、かつて彼が巡礼者の大団体をバガヴァーンをその中心にして連れて行こうと計画したと言いました。バガヴァーンは、「私は行くことに同意しなかったので、そのことは取りやめなければなりませんでした。私が見に行けるものが何かありますか。私は何も見ません。私がどこかに行くことが何の役に立ちますか」(タミル語)と言いました。これは時々バガヴァーンの口から漏れる、自らの胸の内を明かす言明の一つです。

 以下の発言もまたバガヴァーンによって今晩、行われました。

 「ジニャーニは、彼が自らであり、スクリーンとしてのその自らの上に、いわゆる世界という様々な映画の映像が通り過ぎることを知っています。彼はそのスクリーンの表面で揺らめく影に影響されないままいます。

 「ウーナッカン(物質的な目)で見なさい。そうすれば、あなたは世界を見ます。ニャーナッカン(悟りの目)で見なさい。全てのものはピランママヤム(自らとして)現れます。

 「暗闇の中にある物を見るには、目とランプの光の両方が必要です。光だけを見るには、目で十分です。しかし、太陽を見るには、他のどの光も必要としません。あなたがランプを持って行っても、その光は太陽の光の中にかき消されるでしょう。我々の知性、ブッディは、自らを実現するのに役立ちません。世界、外的対象物を見るには、心といつもそれと共に生じる反射された光(または、チーダーバーサ)が必要です。自らを見るには、ただ心が内側に向けられれば良く、反射された光を必要としません。

 「我々がどの思いにでも集中し、その状態で眠るなら、目覚め次第、同じ思いが我々の心の中で継続するでしょう。クロロホルムを与えられた人々が、1、2などと数えるよう求められます。例えば6と言った後で意識を失う人は、彼が再び意識を取り戻したとき、7、8などと言い出すでしょう。

 「自我をヒルにたとえる本もあります。一方の体を離れる前に、それは別の体をつかみます。」

45年11月22日 午前

 バガヴァーンは、人間が得ることができる、または、ブラフマーのような神々で終わる人よりも高い10段階の存在が得ることができる、考えられうる最高の幸福は、押し寄せる自らの至福の洪水の中の泡のようであると本の中でどのように書かれているか説明しました。

 壮健であり、精力的な成年期にあり、比類なき富と権力を授けられ、知性と他の全ての才を持ち、美しく忠実な妻と結婚した人を思い描き、彼の幸福を想像しなさい。

 人より上の高い存在の段階はそれぞれ、下の段階よりも100倍大きい幸福を得ることができます。しかし、存在の全11段階の中での最上の幸福は、溢れ出る神聖な至福の大海の中の泡にすぎません。

 これに関連して、バガヴァーンは以下の物語を語りました。

 「軍隊と従者を後ろに従え、王が森を絢爛豪華に通り抜けていました。彼は腰布さえ身に付けていない男に出くわしました。彼は地面に横たわり、片足をもう片方の上にかぶせ、笑い続け、極めて幸福で、彼自身と全世界に満足しているようでした。王はその男の幸福な様子に感銘を受け、彼を呼びにやりました。しかし、王の兵士たちがその裸の行者に近づき、王の伝言を伝えたとき、彼は一切気に留めず、行者の至福に引き続き留まりました。これが伝えられるとすぐ、王自身がその男のもとへ行きましたが、その時でさえ、その男は気に留めませんでした。そこで直ちに、王はこれは只者でないに違いないとはっと気づき、『スワーミ、あなたは明らかに極めて幸福です。そのような幸福の秘訣とは何か、どのグルからそれを学んだのか教えていただけませんか』と言いました。そこで直ちに、行者は王に、『私には24人のグルがいました。全てのもの、この体、大地、鳥類、ある道具、ある人々、全てが私に教えました』と言いました。世界の全ての物事は善か悪のどちらかに分類されるかもしれません。善いものは彼に彼が追及すべきものを教えました。同様に、悪いものは彼に彼が避けるべきものを教えました。その行者はダッタートレーヤ、アヴァドゥータでした」。

 午前8時ごろ、バガヴァーンが朝の散歩から戻った後、平伏したある訪問者が、彼の手持ち全ての-かなりの量の-嗅ぎタバコをこぼしたようです。付添人のクリシュナスワーミーがそれに気づき、嗅ぎたばこを集め、投げ捨てました。これはバガヴァーンに彼の人生の中のある出来事を思い出せました。彼は言いました。「タバコは殺菌剤です。私がヴィルーパークシ洞窟にいたとき、ある日、冷や飯がある歯に当たった時にそれが鋭い痛みを発していることに突然気づき、それ以上食べられませんでした。私は食べるのをやめ、飢えで死ななければならないだろうと思いました。ヴァースデーヴァ・シャーストリがその時、私と一緒に住んでいました。彼はその時出かけていました。彼が洞窟に戻った時、私は彼に歯痛のことを話しました。彼は何でもないことだと、少しのタバコがあれば、菌を殺し、歯痛を直すだろうと言いました。我々は煙草を携帯していなかったので、嗅ぎたばこを携帯していた誰かが私に嗅ぎタバコを少しくれ、それを歯に押し付けるよう勧めました。それは即座に痛みを和らげたので、次の食事を食べられるほどでした。私がその歯を調べたとき、その表面にしみのような何かがあるようでした。徐々にそれは穴になりました。後に、ティルコーイルールの地方ムンシフ(判事)であり、私を訪問していた、ある紳士がそれについて知ることとなり、マドラスから歯医者を送りました。その歯医者が来て、ここに3日滞在し、その滞在に対して300ルピーを請求しましたが、私の歯を掃除して、ある歯と別の歯の一部を抜いた以外は何も実際的なことはしませんでした。

 「私がここに来る前にさえ、私はタバコの力を知っていました。ペリヤール・ダムが建設され、初めて水が運河を通るのを許可されたとき、水が大量に押し寄せました。その水の中には大量の魚がいました。漁師たちはわきの水路によって水を迂回させ、池の中に通しました。彼らは池の中に多くのタバコの茎の束、つまり、葉巻を作るために葉っぱが使われた後の軸が投げ入れていました。魚が池に入るや否や、タバコの毒のせいで、意識を失うか、死に、浮き上がり始めました。こうして、漁師たちは魚をどっさり取りました。その後、私は上述の漁師たちの手口に言及するターユマーナヴァルの以下の詩節に出会いました(tidamuravee 4)。

タミル語の4行詩

池にとらえられた魚のごとく私はもがいている
川を迂回させた、その水は魚を食べる者たちによって毒されていた
私があなたの隠された思いやりを理解することは可能なのか
おぉ、全能者よ、私のハートに隠されたまま、誰が私を操り人形よろしく動き回らせているのか

 この後、シュリニヴァーサ・ラオ医師の要望で、バガヴァーンは、ターユマーナヴァルの「ennaalum udalie」で始まるsukavaariの最後の詩節とmandalattinの中の最後の4詩節を説明しました。

 朝方遅く、リシケーシャーナンダの要望で、バガヴァーンは、マドゥラの彼の2階の部屋での最初の自らの体験を詳しく話しました。「私が手足を広げて横たわり、心の中で死の場面を演じ、体が運ばれ、火葬されても、私は生きていることを悟った時、何らかの力、それをアートマンの力や他の何と呼ぶのであれ、それが私の内から生じ、私を所有しました。それによって、私は生まれ変わり、新たな人間になりました。それ以降、私は好きなものも嫌いなものもなく、全てのことに無関心になりました」。シュリニヴァーサ・ラオ医師がバガヴァーンに、どのように彼が最初にバクティを抱くようになったのか尋ねました。バガヴァーンは返答しました。「私の中に初めてバクティを呼び起こしたものは、ペリヤ・プラーナムという本でした。私はそれを私の家でふと見つけたのですが、隣人のものでした。私はそれを読み通しました。しかしながら、上で説明した体験の後はじめて、私は毎日寺院に行き、ペリヤ・プラーナムの63人の聖者(ナーヤンマール)の一人ように私が献身的になるようよく願ったものでした。

午後

 シュリニヴァーサ・ラオ医師がスワーミに言いました。「私はそれを見たと言った人から、バガヴァーンがスカンダーシュラマムにいたとき、ヘビが一度その体に忍び寄ったと聞きました」。バガヴァーンは、「ヘビたちは鎌首をもたげ、我々の目をのぞき込みました。彼らは恐れる必要がない時を知っているようでした。その後、彼らは我々を横切りました。私もそれに対して何かしなければならないという考えは起きませんでした」と言いました。

 後で、バガヴァーンは言いました。「我々は通例、現実をサット、チット、アーナンダと表現しますが、それさえ完全に正確な表現ではありません。それは本当は表現できません。その表現によって、我々が明らかにしようと努力している全ては、それがアサットでないこと、それがジャーダでないこと、それが全ての苦しみを免れていることです」。

 再び、バガヴァーンは言いました。「我々は皆、実際には、サット‐チット‐アーナンダです。しかし、我々は、我々が束縛されていて、この全ての苦しみを抱えていると想像します」。

 私は、「どうして我々はそのように想像するのでしょうか。どうしてこの無知、アジニャーナは我々のもとに来たのでしょうか」と尋ねました。

 バガヴァーンは言いました。「誰にこの無知がやって来たのか探求しなさい。そうすれば、あなたはそれが決してあなたにやって来なかったこと、あなたがいつもサット‐チット‐アーナンダであったことを見出すでしょう。人はすでにそうであるものになるためにあらゆる類の苦行を行います。全ての努力は、単に、人がサンサーラなる災いによって制限され、束縛されているという、このヴィパリタ・ブッディ、間違った印象を取り除くためだけにあります」。

 後で、バガヴァーンは言いました。「ジニャーナの火花は万物を、それがあたかも山積みの綿であるかのように、焼き尽くすでしょう。何千万もの世界全てが、自我という脆弱な(もしくは、存在しない)土台の上に建てられていて、ジニャーナなる原子爆弾がその上に落ちるとき、それらは全て崩れ落ちます」と言いました。バガヴァーンは、「委ねについての全ての話は、ジャガリー(粗糖)製の主ガネーシャの像からジャガリーをつまみとり、それをナイヴェーディヤとして同じ主ガネーシャに捧げるようなものです。あなたは、あなたの体、魂、全ての所有物を神に捧げると言います。あなたがそれを捧げられると言うことは、それはあなたのものなのですか。せいぜい、あなたは、『私はあなたのもの(神のもの)であるこの全てが私のものであると今まで誤って想像していました。今や、それがあなたのものであると私は悟りました。私はもはやそれが私のものであるかのように振舞いません』と言えるだけです。神または自ら以外何も存在しないという、私および私のものは存在しないという、自らのみが存在するという、この知がジニャーナです」。彼は、「そのように、バクティとジニャーナの間に違いはありません。バクティはジニャーナ・マーター、ジニャーナの母です」と言い足しました。

  様々な神の探究者の無数の道について話し、バガヴァーンは言いました。「おのおのが彼自身の道を行くのを認められるべきです-そのためにのみ彼が作られているかもしれない道を。彼を腕ずくで別の道に転向させることは良くありません。グルは弟子自身の道を彼と共に進み、その後、機が熟すとき彼を徐々に至高の道に向かわせるでしょう。車が全速力で走っているとしましょう。それをすぐさま止めたり、その向きをすぐさま変えたりすれば、悲惨な結果を伴うでしょう」。

 その後、会話は神の名に移り、バガヴァーンは言いました。「全てのマントラについて言えば、ブリハダーランヤカ・ウパニシャッドは『アハム(अहम)』が神の最初の名であると言います。サンスクリット語の最初の文字はア『अ』、最後の文字はハ『ह』であり、『アハ』はそのように始まりから終わりまでの全てを含んでいます。『アヤム』は存在するもの-自ら輝き、自明である-を意味します。『アヤム』、『アートマ』、『アハム』は、全て同じものに言及しています。聖書にも、「私はいる」が神の名として与えらています」。

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