バガヴァーンとの日々
A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から
45年10月26日 午前
ある朝、バガヴァーンが私に話したことですが、彼がヴィルーパークシ洞窟のベランダに座っていた時、karunaiyaalennai yaanda nii という言葉がしきりに彼の頭に浮かびましたが、彼は特にそれを気に留めませんでした。同じことが翌朝も起ったようです。それで、バガヴァーンはアルナーチャラ・パディガム(アルナーチャラへの11詩節)の最初の詩節を作りました。次の日の朝、第2詩節の始めの言葉が同様に彼の頭に浮かび、彼は第2詩節を作りました。そのように、それは毎日続き、ついに最後の2詩節がある日作られました。その日、最後の2詩節を作った後、バガヴァーンはギリプラダクシナ(山の周りを巡ること)に出かけたようです。彼の弟子の一人、アイヤスワーミーが紙切れと鉛筆を持ってきて、バガヴァーンと一緒に行こうとしていた別の弟子に、「数日間、バガヴァーンは毎朝1詩節を作っていて、今日2詩節作りました。今日、もっと彼の頭に浮かぶかもしれません。詩節が浮かんだ場合に備えて、書き留められるように、この紙とペンを持ってなさい」と言いました。山を巡る途中で、バガヴァーンは実際、アルナーチャラ・アシュタカム(アルナーチャラへの8詩節)の最初の6詩節を作りました。エッチャンマが最初、アクシャラ・マナマーライ(文字による婚礼の花輪)を、あとでナーラーヤナ・レッディが出版したようです。そのあとすぐ、このナーラーヤナ・レッディがそのパディガムを知るようになり、それを出版したいと思いました。その後、バガヴァーンはアシュタカムを完成するためにもう2詩節を作りました。そして、パディガムとアシュタカムがナーラーヤナ・レッディによって出版されました。これが「アルナーチャラへの5つの賛歌」の中のパディガムとアシュタカムが作られることになった次第です。
私はバガヴァーンに尋ねました。「私は、マドゥラの家その場所でバガヴァーンがジニャーナの悟りを得たこと、そして、それ以来ずっと、バガヴァーンがデーハートマ・ブッディ(私はこの体であるという意識)を持たなかったことを知っています。私はまた、バガヴァーンがターパム(燃えるような感覚)を体の中に感じていて、ここの寺院に到着し、その到着をアルナーチャラ神に報告するまでそれがやまなかったことも知っています。しかし、私は、これが婚礼の花輪の中で言及されている「ニンネリ」(55詩節最初の言葉)であるとは思いません。私はまた、体と精神の間の結び目が切り離されるときにたいていの聖者が経験しなければならなかったと私が本で読んだ激しい痛み、肉体的試練をバガヴァーンが経験したと思います。私はこれがバガヴァーンの人生でいつ起こったのか知りたいと思います。この情報が私の進歩のために必要でないことは知っています。しかし、バガヴァーンの歴史のために必要であると私は思います」。
バガヴァーンは黙っていて、微笑んだだけでした。しかし、しばらくして、彼は婚礼の花輪は1914‐1915年ごろに書かれたと言いました。それによってバガヴァーンは、結び目が切り離されたのはそれよりずっと前、1896年その年ごろだと私に伝えようとしていたようでした。
今では数日間、バガヴァーンのリュウマチ性の病気がかなり悪く、そのため、彼の足は時々薬用オイルでマッサージされています。今では10日間ほど、あらゆる種類の病をビブーティで直すことができると公言する、とあるスワーミーが街にいます。それで、様々な村から人々が彼に会うために集まって来ていて、彼らの多くはまた、バガヴァーンに会いにアーシュラムをのぞきに来ました。そのため、バガヴァーンは言いました。「この全ての人々がやって来て、私自身がこの全ての肉体的な病気にかかっていて、薬用オイルでマッサージされる必要があるのを知れば、彼らは私が役立たずだと知って、もう来ないでしょう。ですから、このマッサージはある意味役立ちます」。
シュリー・オウロビンドー・アーシュラムからここを訪問中の、歌手であり作家のディリップ・クマール・ローイが、バガヴァーンに尋ねました。「マハー・ヨーガによれば、賢者たちは互いに矛盾することを何も言っていないとあなたは言います。しかし、一人がバクティを、もう一人がジニャーナなどを唱えていて、あらゆる類の口論をそうして招いているのを我々は見ます」。
バガヴァーン: そのような教えの中に矛盾するものは本当に何もありません。例えば、バクティ・マールガの追随者がバクティが最良であると言明するとき、彼は本当は、バクティという言葉で、ジニャーナ・マールガの人がジニャーナと呼ぶもののことを言っています。その境地、属性によるその描写、属性の超越において違いはありません。様々な思想家が様々な言葉を使っているだけです。この様々なマールガ、道々、サーダナは全て、同じ目的地に通じます。かつて手段であるものが、目的そのものになります。それが起こるとき、かつては意識的な骨の折れる努力であったディヤーナ、バクティ、ジニャーナは、自発的に、努力なしに、通常の自然な状態になります。
ディリップ・クマール・ローイが、彼がバガヴァーンについて作った英語の詩を読み上げ、バガヴァーンの前でいくつか歌を歌いました。後で彼はバガヴァーンに、「全ての人がグルの指導は必要であるというのに、バガヴァーンはグルが必要でないと言ったようですが」と尋ねました。
バガヴァーン: 私はそう言ってません。しかし、グルがいつも人間の姿である必要はありません。はじめ人は彼が劣っていると、そして、彼自身と世界の運命を支配する優れた全知全能の神がいると思い、彼を崇拝します、バクティを行います。彼が一定の段階に達し、悟りにふさわしくなるとき、彼が崇拝していた他ならぬその神がグルとして来て、彼を続けて導きます。そのグルは彼に、「神はあなた自身の内にいます。内に潜り、悟りなさい」と告げに来るだけです。神、グル、自らは同じものです。
ローイ: しかし、バガヴァーンの場合、グルはいませんでした。
バガヴァーン: 全世界が私のグルでした。グルは人間の姿である必要はないと、自らは内にあると、神とグルは同じものであるとすでに言われています。
ローイ: これについて私はグルデーヴ(つまり、シュリー・オウロビンドー)にかつて尋ねましたが、彼は「バガヴァーンのような霊的ヘラクレスはグルを必要としません」と彼は言いました。
バガヴァーン: 世界の全てのものが私のグルです。ダッタートレーヤを知りませんか。王にどのグルが彼に至福の秘訣を教えたのか尋ねられたとき、大地、水、火、動物、人々など全てが彼のグルであると答え、続いて、どのようにその中のいくつかが善なるものにしがみつくよう彼に教え、他のものがどのようなものを悪として避けるべきか彼に教えたと説明しました。
ティルチュリの寺院の司祭、チェッラ・バッタル(ダイヴァシカーマニ・バッタル)が来ました。バガヴァーンは彼を私に指さして示し、言いました。「彼を見るときはいつも、左手の指に被った切り傷とそれが残した傷跡を思い出します。私は8才ぐらいで、彼は3才ぐらいでした。彼の家は我々の家から3軒となりにありました。彼が生まれる前、私が子供のころ、私は頻繁に彼らの家に連れ行かれたもので、ほとんど彼らの子供として可愛がられました。それはポンガルの時期で、片手にarivaan manai(野菜を切るために木切れに固定された刃)を握って、もう片方の手で長く太いサトウキビを引きずって、この子が我々の家にやって来ました。私は急いでその子にサトウキビを切ってあげ、うっかり左手の親指と人差し指の間を切りました。私はその子に家に帰るよう落ち着いてお願いし、病院に走って行き、傷を治療してもらいました。いくらか前にここにいて、カルプーラスンダラムと呼ばれ、ティルチュリのスンダラ・マンディラムで今プージャーを行っているのは、この紳士の息子です。
ガナパティ・シャーストリが、数年前ここにいて、バガヴァーンの大変な信奉者であるグラント・ダフから受け取った手紙を持って来ました。その手紙で、グラント・ダフは、彼がアメリカ合衆国政府の許可を得てカリフォルニアにいること、その国は快適であること、彼が80才近いこと、彼がこの世でまだ持っているであろう、ごくわずか時間をできるだけ有効に活用したいと切望していること、彼がバガヴァーンの恩寵によって空路で旅して、アーシュラムを再び訪問したいと望んでいることを書いています。
バガヴァーンは、シカゴ会議でのヴィヴェーカーナンダの演説の50周年記念を機にコロンボで行われ、アイッパシ・タミル月のラーマクリシュナ・ヴィジャヤムに掲載されたコロンボ・ラーマチャンドラの演説に私の注意を引きました。その中で、ラーマチャンドラが言うに、「アメリカから戻ったヴィヴェーカーナンダは演説の中で、南インドが世界の霊的復興における主導的役割を果たすようになると、20世紀、全インドだけなく、全世界を満たすアートマンの力の奔流が南インドで起こるようになると言いました。その力は、南インドでオウロビンドーとバガヴァーンによって今、生じさせられ、放射されつつあるものです」。
バガヴァーンは、チェコスロヴァキアのジコーフスキーという人とその家族から受け取ったフランス語の手紙の英訳を読んでいました。その趣旨は次のようになります。「私と家族はこれまでのその全ての祝福をバガヴァーンに感謝します。神の思し召しがあれば、私はバガヴァーンに会いに行きたいと存じます。それまでは、バガヴァーンがふさわしいとみなすような指示や導きを送ってくださるよう祈ります」。バガヴァーンは書いた人を思い出せませんが、彼は(ブラントンがバガヴァーンについて初めて記した時期ごろに)ヨーロッパから手紙を書いた人たちの一人に違いないと、彼らはずっと前、つまり、ブラントンが記したずっと前に、バガヴァーンとその教えを知っていたと、そして、彼らがバガヴァーンの説いたことを実践してきたと(バガヴァーンは)言います。手紙を書いた人は当時何かの雑誌に(1910‐11ごろにバガヴァーンの信奉者になった)ハンフリーのペンによって載ったものから彼とその教えについて読んだ人たちの一人にちがいないとバガヴァーンは考えています。
ディリップ・クマール・ローイが、バガヴァーンについて彼が作った別の詩を読み上げました。その後、彼はいくつか歌を歌いました。その後、彼はバガヴァーンに、「自我を殺す最良の方法とは何ですか」と尋ねました。
バガヴァーン: それぞれの人にとって、最も簡単に思えるか、最も気に入る、その方法が最良です。全ての方法は等しく良いのです。それらは自我を自らに溶け込ますという同一の目的に通じるからです。バクタが委ねと呼ぶものを、ヴィチャーラをする人はジニャーナと呼びます。両者は自我をそれが現れ出た源に連れ戻し、それをそこで溶け込まそうとしているだけです。
ローイ: しかし、私にとって最良の方法とは何ですか。バガヴァーンはご存知のはずです。
バガヴァーンは返答しませんでした。(これはバガヴァーンによくあることでしかありません。彼はそれぞれの信奉者に何のサーダナが彼にとって最も簡単か見つけ出すのを任せていました)。
ローイ氏は再びいくつか歌を歌いました。終わりに、彼は、「音楽もまた人がバクティを成長させる助けになるのではありませんか」とバガヴァーンに尋ねました。
バガヴァーン: ええ。ええ。
ローイが別れを告げていたとき、彼はバガヴァーンにバクティ・マールガは有効に追及できるのか、それがジニャーナに通じるのか尋ねました。
バガヴァーン: ええ。ええ。バクティはジニャーナ・マーター、つまり、ジニャーナの母です。
年配の紳士と若者がバガヴァーンの前に座っていました。バガヴァーンが夕方の散歩に出かけようとした少し前に、その若者がバガヴァーンに近づき、彼の同伴者が視力を失ったと言いました。いつも通り、バガヴァーンはうなずきました。すぐ後、バガヴァーンは立ち上がり、「彼は彼が目を失った言います。私は足を失いました。彼は私に言いに来ます。私は誰に不満を言いに行けるでしょうか!」と我々に言いました。リューマチかビタミンB不足のどちらかのせいで、ほぼ一か月かそれ以上、ずっとバガヴァーンは普段以上に足の具合が良くありません。しかし、それがどれほど深刻かは彼が「足を失った」という言葉から理解されるかもしれまんせん。「あなたたちは皆、私に不満を言いに来ます。私は誰に不満を言いに行けるでしょうか」と彼が言ったのはこれが初めてではありません。これは、自ら以外に何も存在しないという、彼はそれである!という彼の教えにまったく一致しています。
ローイ氏がバガヴァーンに自我を殺す最良の方法を尋ねたとき、バガヴァーンは言いました。「心に心を殺すよう求めることは、泥棒を警官にすることのようです。彼はあなたと共に行き、泥棒を捕まえるふりをするでしょうが、何も得るものはないでしょう。そのため、あなたは内側に向かい、どこから心が生じるのか確かめなければなりません。その時、それは存在しなくなるでしょう」。この答えに関連して、ジャフナ出身のタンビ・トラーイ氏が私に、心に内側に向かい、その源を探すよう求めることも心を用いているのではないのか尋ねました。それで、私はこの疑いをバガヴァーンに提示し、バガヴァーンは言いました。「もちろん、我々は心を用いています。心の助けによってのみ心が殺されなければならないことは、よく知られ、認められています。しかし、心というものが存在し、私はそれを殺したいと言い出す代わりに、あなたが心の源を探し始めれば、あなたは心が全く存在していないことを見出します。心は、外側に向かえば、思いと対象物をもたらします。内側に向かえば、心それ自体が自らになります。そのような心は時にアルーパ・マナスやスッダ・マナスと呼ばれます」。
今日、バガヴァーンの席に面する南側の出入口が閉じられ、代わりに窓が建設されました。北壁の腰高窓が南壁から取り除かれた出入口に取り換えられました。この出入口を通れば、バガヴァーンは踏み段を上る必要がありません。
20日ばかりここに滞在している、ウッタル・プラデーシュ州政府の主任技師、マハー・ヴィール・プラサードがバガヴァーンに尋ねました。「マハー・ヨーガには、瞑想のはじめに呼吸、つまり、吸気と呼気に注意を向けてかまわないこと、そして、ある程度の心の落ち着きがそれによって得られた後、心の源を探してハートに飛び込むことができると書かれています。私は何かそのような実際的な助言を大いに必要としています。私はこの方法を追及できますか。それは正しいですか。
バガヴァーン: 要点は、どうにかして心を殺すことです。探求の方法を追及する力がない人々には、心を制御する助けとして、プラーナーヤーマが勧められます。プラーナーヤーマは2種類あり、一方は呼吸を制御し、調整するもので、他方は単に呼吸を見守るものです。
プラサード: 瞑想の間、15分ほど、私は時々ある状態を得ます。その間、私は何にも気づかず、全ての思いを免れています。ある人たちは、そのような状態はヨーガ・ニドラと呼ばれることがあるもので、そのような状態は悪いものとして用心すべきだと私に言いました。
バガヴァーン: 人は眠りを乗り越えようと努力すべきです。(何らかの理由から、バガヴァーンはプラサードがした問いにそれ以上答えませんでした)。私はそこで直ちにプラサードに特にこの事柄が扱われているCrumbs from the Table を読むよう勧めました。バガヴァーンもまた、その本を一冊持ってきて、プラサードに与えるよう我々に頼みました。我々はそうしました。
訪問者: 私はクンダリニーが何であるか分かりません。
バガヴァーン: クンダリニーは、体の内部のアートマ・シャクティと呼ばれることがあるものにヨーガの人々によって与えられる名前の一つです。ヴィチャーラの学派は、同じ力をジニャーナと呼びます。バクタはそれを愛やバクティと呼びます。ヨーガの学派は、この力は脊髄の付け根のムーラダーラで眠っていて、モークシャを得るためには、それを目覚めさせ、様々なチャクラを通って脳の中の頂点のサハスラーラ上に連れていかなければならないと言います。ジニャーニは、この力の中心はハートであるなどと考えます。
パンジャーブからの訪問者がバガヴァーンに、「心、もしくは、アハンカーラが殺されるとき、その段階は不活発な段階ですか」と尋ねました。
バガヴァーン: どうしてジニャーニの状態について気を揉むのですか。あなたはあなたの現在の状態を理解しなさい。
訪問者: ムムクシュは当然、その目的地であるムクティの状態について知りたいと思います。
バガヴァーンは少しの間黙っていて、その後、「あなたは心が殺されなければならないと認めています。はじめにそれを行い、その段階が不活発であるのか、意識を欠くのかその後あなた自身で確かめて見てはどうですか」と言いました。
訪問者: アハンカーラが去る時、アハム・ヴリッティは存在するでしょうか。
バガヴァーン: あるそれは、いつもあります。アハンカーラが死ねば、それ、現実は、それがいつも存在していたように存在します。あなたはそれのことをアハム・ヴリッティを持っているや、単にアハムだと言うかもしれません。それは全く同じものです。存在するそれは、「私はいる」または「アハム」です。
今朝6時ごろ、付添人のヴァイクンタ・ヴァサルが、バガヴァーンの足をマッサージしていました。30分ほどマッサージした後、バガヴァーンは「タミル語」(何かがマッサージされているのをかすかに感じます)と言い表しました。これはおそらくバガヴァーンの内的生活を垣間見せるものです。彼は忘我状態、特別なサマーディでなく、普段の状態にいました。
私はバガヴァーンに尋ねました。「私は、マドゥラの家その場所でバガヴァーンがジニャーナの悟りを得たこと、そして、それ以来ずっと、バガヴァーンがデーハートマ・ブッディ(私はこの体であるという意識)を持たなかったことを知っています。私はまた、バガヴァーンがターパム(燃えるような感覚)を体の中に感じていて、ここの寺院に到着し、その到着をアルナーチャラ神に報告するまでそれがやまなかったことも知っています。しかし、私は、これが婚礼の花輪の中で言及されている「ニンネリ」(55詩節最初の言葉)であるとは思いません。私はまた、体と精神の間の結び目が切り離されるときにたいていの聖者が経験しなければならなかったと私が本で読んだ激しい痛み、肉体的試練をバガヴァーンが経験したと思います。私はこれがバガヴァーンの人生でいつ起こったのか知りたいと思います。この情報が私の進歩のために必要でないことは知っています。しかし、バガヴァーンの歴史のために必要であると私は思います」。
バガヴァーンは黙っていて、微笑んだだけでした。しかし、しばらくして、彼は婚礼の花輪は1914‐1915年ごろに書かれたと言いました。それによってバガヴァーンは、結び目が切り離されたのはそれよりずっと前、1896年その年ごろだと私に伝えようとしていたようでした。
午後
今では数日間、バガヴァーンのリュウマチ性の病気がかなり悪く、そのため、彼の足は時々薬用オイルでマッサージされています。今では10日間ほど、あらゆる種類の病をビブーティで直すことができると公言する、とあるスワーミーが街にいます。それで、様々な村から人々が彼に会うために集まって来ていて、彼らの多くはまた、バガヴァーンに会いにアーシュラムをのぞきに来ました。そのため、バガヴァーンは言いました。「この全ての人々がやって来て、私自身がこの全ての肉体的な病気にかかっていて、薬用オイルでマッサージされる必要があるのを知れば、彼らは私が役立たずだと知って、もう来ないでしょう。ですから、このマッサージはある意味役立ちます」。
45年10月29日 午後
シュリー・オウロビンドー・アーシュラムからここを訪問中の、歌手であり作家のディリップ・クマール・ローイが、バガヴァーンに尋ねました。「マハー・ヨーガによれば、賢者たちは互いに矛盾することを何も言っていないとあなたは言います。しかし、一人がバクティを、もう一人がジニャーナなどを唱えていて、あらゆる類の口論をそうして招いているのを我々は見ます」。
バガヴァーン: そのような教えの中に矛盾するものは本当に何もありません。例えば、バクティ・マールガの追随者がバクティが最良であると言明するとき、彼は本当は、バクティという言葉で、ジニャーナ・マールガの人がジニャーナと呼ぶもののことを言っています。その境地、属性によるその描写、属性の超越において違いはありません。様々な思想家が様々な言葉を使っているだけです。この様々なマールガ、道々、サーダナは全て、同じ目的地に通じます。かつて手段であるものが、目的そのものになります。それが起こるとき、かつては意識的な骨の折れる努力であったディヤーナ、バクティ、ジニャーナは、自発的に、努力なしに、通常の自然な状態になります。
45年10月30日 午後
ディリップ・クマール・ローイが、彼がバガヴァーンについて作った英語の詩を読み上げ、バガヴァーンの前でいくつか歌を歌いました。後で彼はバガヴァーンに、「全ての人がグルの指導は必要であるというのに、バガヴァーンはグルが必要でないと言ったようですが」と尋ねました。
バガヴァーン: 私はそう言ってません。しかし、グルがいつも人間の姿である必要はありません。はじめ人は彼が劣っていると、そして、彼自身と世界の運命を支配する優れた全知全能の神がいると思い、彼を崇拝します、バクティを行います。彼が一定の段階に達し、悟りにふさわしくなるとき、彼が崇拝していた他ならぬその神がグルとして来て、彼を続けて導きます。そのグルは彼に、「神はあなた自身の内にいます。内に潜り、悟りなさい」と告げに来るだけです。神、グル、自らは同じものです。
ローイ: しかし、バガヴァーンの場合、グルはいませんでした。
バガヴァーン: 全世界が私のグルでした。グルは人間の姿である必要はないと、自らは内にあると、神とグルは同じものであるとすでに言われています。
ローイ: これについて私はグルデーヴ(つまり、シュリー・オウロビンドー)にかつて尋ねましたが、彼は「バガヴァーンのような霊的ヘラクレスはグルを必要としません」と彼は言いました。
バガヴァーン: 世界の全てのものが私のグルです。ダッタートレーヤを知りませんか。王にどのグルが彼に至福の秘訣を教えたのか尋ねられたとき、大地、水、火、動物、人々など全てが彼のグルであると答え、続いて、どのようにその中のいくつかが善なるものにしがみつくよう彼に教え、他のものがどのようなものを悪として避けるべきか彼に教えたと説明しました。
45年10月31日 午前
ティルチュリの寺院の司祭、チェッラ・バッタル(ダイヴァシカーマニ・バッタル)が来ました。バガヴァーンは彼を私に指さして示し、言いました。「彼を見るときはいつも、左手の指に被った切り傷とそれが残した傷跡を思い出します。私は8才ぐらいで、彼は3才ぐらいでした。彼の家は我々の家から3軒となりにありました。彼が生まれる前、私が子供のころ、私は頻繁に彼らの家に連れ行かれたもので、ほとんど彼らの子供として可愛がられました。それはポンガルの時期で、片手にarivaan manai(野菜を切るために木切れに固定された刃)を握って、もう片方の手で長く太いサトウキビを引きずって、この子が我々の家にやって来ました。私は急いでその子にサトウキビを切ってあげ、うっかり左手の親指と人差し指の間を切りました。私はその子に家に帰るよう落ち着いてお願いし、病院に走って行き、傷を治療してもらいました。いくらか前にここにいて、カルプーラスンダラムと呼ばれ、ティルチュリのスンダラ・マンディラムで今プージャーを行っているのは、この紳士の息子です。
午後
ガナパティ・シャーストリが、数年前ここにいて、バガヴァーンの大変な信奉者であるグラント・ダフから受け取った手紙を持って来ました。その手紙で、グラント・ダフは、彼がアメリカ合衆国政府の許可を得てカリフォルニアにいること、その国は快適であること、彼が80才近いこと、彼がこの世でまだ持っているであろう、ごくわずか時間をできるだけ有効に活用したいと切望していること、彼がバガヴァーンの恩寵によって空路で旅して、アーシュラムを再び訪問したいと望んでいることを書いています。
バガヴァーンは、シカゴ会議でのヴィヴェーカーナンダの演説の50周年記念を機にコロンボで行われ、アイッパシ・タミル月のラーマクリシュナ・ヴィジャヤムに掲載されたコロンボ・ラーマチャンドラの演説に私の注意を引きました。その中で、ラーマチャンドラが言うに、「アメリカから戻ったヴィヴェーカーナンダは演説の中で、南インドが世界の霊的復興における主導的役割を果たすようになると、20世紀、全インドだけなく、全世界を満たすアートマンの力の奔流が南インドで起こるようになると言いました。その力は、南インドでオウロビンドーとバガヴァーンによって今、生じさせられ、放射されつつあるものです」。
バガヴァーンは、チェコスロヴァキアのジコーフスキーという人とその家族から受け取ったフランス語の手紙の英訳を読んでいました。その趣旨は次のようになります。「私と家族はこれまでのその全ての祝福をバガヴァーンに感謝します。神の思し召しがあれば、私はバガヴァーンに会いに行きたいと存じます。それまでは、バガヴァーンがふさわしいとみなすような指示や導きを送ってくださるよう祈ります」。バガヴァーンは書いた人を思い出せませんが、彼は(ブラントンがバガヴァーンについて初めて記した時期ごろに)ヨーロッパから手紙を書いた人たちの一人に違いないと、彼らはずっと前、つまり、ブラントンが記したずっと前に、バガヴァーンとその教えを知っていたと、そして、彼らがバガヴァーンの説いたことを実践してきたと(バガヴァーンは)言います。手紙を書いた人は当時何かの雑誌に(1910‐11ごろにバガヴァーンの信奉者になった)ハンフリーのペンによって載ったものから彼とその教えについて読んだ人たちの一人にちがいないとバガヴァーンは考えています。
45年11月2日 午前
ディリップ・クマール・ローイが、バガヴァーンについて彼が作った別の詩を読み上げました。その後、彼はいくつか歌を歌いました。その後、彼はバガヴァーンに、「自我を殺す最良の方法とは何ですか」と尋ねました。
バガヴァーン: それぞれの人にとって、最も簡単に思えるか、最も気に入る、その方法が最良です。全ての方法は等しく良いのです。それらは自我を自らに溶け込ますという同一の目的に通じるからです。バクタが委ねと呼ぶものを、ヴィチャーラをする人はジニャーナと呼びます。両者は自我をそれが現れ出た源に連れ戻し、それをそこで溶け込まそうとしているだけです。
ローイ: しかし、私にとって最良の方法とは何ですか。バガヴァーンはご存知のはずです。
バガヴァーンは返答しませんでした。(これはバガヴァーンによくあることでしかありません。彼はそれぞれの信奉者に何のサーダナが彼にとって最も簡単か見つけ出すのを任せていました)。
午後
ローイ氏は再びいくつか歌を歌いました。終わりに、彼は、「音楽もまた人がバクティを成長させる助けになるのではありませんか」とバガヴァーンに尋ねました。
バガヴァーン: ええ。ええ。
ローイが別れを告げていたとき、彼はバガヴァーンにバクティ・マールガは有効に追及できるのか、それがジニャーナに通じるのか尋ねました。
バガヴァーン: ええ。ええ。バクティはジニャーナ・マーター、つまり、ジニャーナの母です。
45年11月6日 夕方
年配の紳士と若者がバガヴァーンの前に座っていました。バガヴァーンが夕方の散歩に出かけようとした少し前に、その若者がバガヴァーンに近づき、彼の同伴者が視力を失ったと言いました。いつも通り、バガヴァーンはうなずきました。すぐ後、バガヴァーンは立ち上がり、「彼は彼が目を失った言います。私は足を失いました。彼は私に言いに来ます。私は誰に不満を言いに行けるでしょうか!」と我々に言いました。リューマチかビタミンB不足のどちらかのせいで、ほぼ一か月かそれ以上、ずっとバガヴァーンは普段以上に足の具合が良くありません。しかし、それがどれほど深刻かは彼が「足を失った」という言葉から理解されるかもしれまんせん。「あなたたちは皆、私に不満を言いに来ます。私は誰に不満を言いに行けるでしょうか」と彼が言ったのはこれが初めてではありません。これは、自ら以外に何も存在しないという、彼はそれである!という彼の教えにまったく一致しています。
45年11月8日 午前
ローイ氏がバガヴァーンに自我を殺す最良の方法を尋ねたとき、バガヴァーンは言いました。「心に心を殺すよう求めることは、泥棒を警官にすることのようです。彼はあなたと共に行き、泥棒を捕まえるふりをするでしょうが、何も得るものはないでしょう。そのため、あなたは内側に向かい、どこから心が生じるのか確かめなければなりません。その時、それは存在しなくなるでしょう」。この答えに関連して、ジャフナ出身のタンビ・トラーイ氏が私に、心に内側に向かい、その源を探すよう求めることも心を用いているのではないのか尋ねました。それで、私はこの疑いをバガヴァーンに提示し、バガヴァーンは言いました。「もちろん、我々は心を用いています。心の助けによってのみ心が殺されなければならないことは、よく知られ、認められています。しかし、心というものが存在し、私はそれを殺したいと言い出す代わりに、あなたが心の源を探し始めれば、あなたは心が全く存在していないことを見出します。心は、外側に向かえば、思いと対象物をもたらします。内側に向かえば、心それ自体が自らになります。そのような心は時にアルーパ・マナスやスッダ・マナスと呼ばれます」。
今日、バガヴァーンの席に面する南側の出入口が閉じられ、代わりに窓が建設されました。北壁の腰高窓が南壁から取り除かれた出入口に取り換えられました。この出入口を通れば、バガヴァーンは踏み段を上る必要がありません。
45年11月11日 午前
20日ばかりここに滞在している、ウッタル・プラデーシュ州政府の主任技師、マハー・ヴィール・プラサードがバガヴァーンに尋ねました。「マハー・ヨーガには、瞑想のはじめに呼吸、つまり、吸気と呼気に注意を向けてかまわないこと、そして、ある程度の心の落ち着きがそれによって得られた後、心の源を探してハートに飛び込むことができると書かれています。私は何かそのような実際的な助言を大いに必要としています。私はこの方法を追及できますか。それは正しいですか。
バガヴァーン: 要点は、どうにかして心を殺すことです。探求の方法を追及する力がない人々には、心を制御する助けとして、プラーナーヤーマが勧められます。プラーナーヤーマは2種類あり、一方は呼吸を制御し、調整するもので、他方は単に呼吸を見守るものです。
プラサード: 瞑想の間、15分ほど、私は時々ある状態を得ます。その間、私は何にも気づかず、全ての思いを免れています。ある人たちは、そのような状態はヨーガ・ニドラと呼ばれることがあるもので、そのような状態は悪いものとして用心すべきだと私に言いました。
バガヴァーン: 人は眠りを乗り越えようと努力すべきです。(何らかの理由から、バガヴァーンはプラサードがした問いにそれ以上答えませんでした)。私はそこで直ちにプラサードに特にこの事柄が扱われているCrumbs from the Table を読むよう勧めました。バガヴァーンもまた、その本を一冊持ってきて、プラサードに与えるよう我々に頼みました。我々はそうしました。
午後
訪問者: 私はクンダリニーが何であるか分かりません。
バガヴァーン: クンダリニーは、体の内部のアートマ・シャクティと呼ばれることがあるものにヨーガの人々によって与えられる名前の一つです。ヴィチャーラの学派は、同じ力をジニャーナと呼びます。バクタはそれを愛やバクティと呼びます。ヨーガの学派は、この力は脊髄の付け根のムーラダーラで眠っていて、モークシャを得るためには、それを目覚めさせ、様々なチャクラを通って脳の中の頂点のサハスラーラ上に連れていかなければならないと言います。ジニャーニは、この力の中心はハートであるなどと考えます。
45年11月12日 午前
パンジャーブからの訪問者がバガヴァーンに、「心、もしくは、アハンカーラが殺されるとき、その段階は不活発な段階ですか」と尋ねました。
バガヴァーン: どうしてジニャーニの状態について気を揉むのですか。あなたはあなたの現在の状態を理解しなさい。
訪問者: ムムクシュは当然、その目的地であるムクティの状態について知りたいと思います。
バガヴァーンは少しの間黙っていて、その後、「あなたは心が殺されなければならないと認めています。はじめにそれを行い、その段階が不活発であるのか、意識を欠くのかその後あなた自身で確かめて見てはどうですか」と言いました。
訪問者: アハンカーラが去る時、アハム・ヴリッティは存在するでしょうか。
バガヴァーン: あるそれは、いつもあります。アハンカーラが死ねば、それ、現実は、それがいつも存在していたように存在します。あなたはそれのことをアハム・ヴリッティを持っているや、単にアハムだと言うかもしれません。それは全く同じものです。存在するそれは、「私はいる」または「アハム」です。
45年11月18日
今朝6時ごろ、付添人のヴァイクンタ・ヴァサルが、バガヴァーンの足をマッサージしていました。30分ほどマッサージした後、バガヴァーンは「タミル語」(何かがマッサージされているのをかすかに感じます)と言い表しました。これはおそらくバガヴァーンの内的生活を垣間見せるものです。彼は忘我状態、特別なサマーディでなく、普段の状態にいました。
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