2013年6月27日木曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第2章 サーダナと恩寵

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p42-45


マハルシの福音


第2巻 第2章 サーダナと恩寵 


信奉者:
 神に関する研究は、はるか昔から続いています。最終的な結論は言われているのでしょうか。

マハルシ:
 (しばらく沈黙を守る。)

信奉者:
 (困惑して)シュリー・バガヴァーンの沈黙を私の質問への返答とみなすべきでしょうか。

マハルシ:
 ええ。マウナ(*1)は、イーシュワラ・スワルーパ(*2)です。それゆえ、聖句には次のようにあります。

至高なるブラフマンの真理は、沈黙の雄弁(*3)を通じて、表明された

信奉者:
 ブッダは、神についてのそのような質問を無視したと言われています。

マハルシ:
 そして、そのために、彼はスーニャ・ヴァーディン(虚無主義者)と呼ばれました。実際には、彼は神などについての学術的な議論よりも、今ここで至福を実現するように探求者を指導することに関心を持っていました。

信奉者:
 神は、顕現し、かつ、未顕現だと評されます。前者として、彼の存在の一部として世界を包含していると言われています。もしそうであるなら、その世界の一部として私たちは、顕現した姿のを楽に知っていたはずです。

マハルシ:
 神と世界の性質について決定しようと努める前に、あなた自身を知りなさい。

信奉者:
 自分自身を知ることは、神を知ることを意味しますか。

マハルシ:
 ええ、神はあなたの内にいます。

信奉者:
 では、何が私が自分自身を、神を知ることの妨げになっているのですか。

マハルシ:
 あなたのさ迷う心と誤った方法です。

信奉者:
 私は弱い人間です。でも、どうして内なる主の優れた力は、その障害物を取り除かないのですか。

マハルシ:
 いいえ、はします。あなたがそれを熱望していれば。

信奉者:
 が私の中に熱望を作りだしても構わないのではないですか。

マハルシ:
 では、あなた自身を委ねなさい。

信奉者:
 私が自分自身を委ねるなら、神への祈りは必要ありませんか。

マハルシ:
 委ね自体が、力強い祈りです。

信奉者:
 しかし、人が自分自身を委ねる前に、の性質を理解することは必要ではないですか。

マハルシ:
 神が、あなたがにして欲しいと思う全てのことをあなたのために行うとあなたが信じているなら、あなた自身をに委ねなさい。そうでないなら、神に構わないで、あなた自身を知りなさい。

信奉者:
 神またはグルは、私を気遣ってくれていますか。

マハルシ:
 あなたがどちらかを探し求めるなら-彼らは本当は2人でなく1人で、まったく同一ですが-彼らは、あなたがおよそ想像しうる以上の気遣いであなたを探し求めているので、安心しなさい。

信奉者:
 イエスは失われたコインの喩え話を挙げ、そこで女性は見つかるまでそれを探します。

マハルシ:
 ええ、それは神またはグルが熱心な探求者を常に探しているという真理を的確に表現しています。仮にコインが無価値な破片であるなら、女性はそんなにも長く探さなかったでしょう。それがどういう意味か分かりますか。探求者は、献身などを通じて資格を得なければいけません。

信奉者:
 しかし、人は神の恩寵を完全には確信していないかもしれません。

マハルシ:
 未熟な心が恩寵を感じなくても、神の恩寵が欠けていることにはなりません。というのも、それは、時には神が恵み深くない、つまり、神であるのをやめることを暗示するからです。

信奉者:
 それは、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように(*4)」というキリストの言葉と同じですか。

マハルシ:
 まさしくそうです。

信奉者:
 ウパニシャッドには、アートマンが選ぶ者のみがアートマンを知ると書かれていると聞いています。そもそもどうしてアートマンは選ばなければならないのですか。それが選ぶなら、どうして特定の人を(選ぶのですか)?

マハルシ:
 太陽が昇るとき、いくつかのつぼみだけ花開き、全ては花開きません。そのことで、あなたは太陽を非難しますか。つぼみもひとりでには花開けず、そうするには太陽光を必要とします。

信奉者:
 アートマンの助けが必要とされるのは、それ自身にマーヤーという覆いをかぶせたのはアートマンであるからと言ってはいけませんか。

マハルシ:
 そう言ってもかまいません。

信奉者:
 アートマンがそれ自体に覆いをかぶせたなら、アートマン自体が覆いを取り除くべきではないですか。

マハルシ:
 そうするでしょう。誰にとって覆いがあるのか確かめなさい。

信奉者:
 どうして私がしなければならないのですか。アートマン自体に覆いを取り除かせましょう!

マハルシ:
 アートマンが覆いについて語るなら、アートマン自体がそれを取り除くでしょう。

信奉者:
 神は人格をもちますか(personal)

マハルシ:
 ええ、は常に第一人称(the first person)、私であり、常にあなたの前に立っています。あなたが世俗的な物事に優先権を与えているため、神が背景に退いているように見えます。あなたが他の全てを放棄し、のみを求めるなら、のみが私、自らとして残るでしょう。

信奉者:
 実現の最終的な状態は、アドヴァイタによれば神(the Divine)との絶対的合一であり、ヴィシシュタ・アドヴァイタによれば限定的合一であると言われていますが、他方、ドヴァイタは、合一は全く存在しないと主張します。このどれが正しい見解とみなされるべきですか。

マハルシ:
 どうして未来のいつかに起こることについて思いを巡らすのですか。皆が、「私」が存在することとを認めています。どの思想学派に人が属していようとも、熱心な探求者にはじめに「私」は何か見出させましょう。その後で、「私」が至高の存在に溶け込むのであれ、と離れているのであれ、最終的な状態がどうなるのか知る時間は十分にあるでしょう。結論を先取りせず、広い心でいましょう。

信奉者:
 しかし、最終的な状態についていくらか理解することは、志高き者にとってさえ役に立つ導きになりませんか。

マハルシ;
 実現の最終的な状態がどうなるのか今、決定しようと試みることは何の役にも立ちません。それに本質的な価値はありません。

信奉者:
 どうしてそうなのですか。

マハルシ:
 なぜなら、あなたが間違った方針に基づいて進むからです。あなたの確認は、自らから得る光によってのみ輝く知性に頼らなければいけません。自らの限定された顕現でしかなく、その小さな光を自らから得る知性が自らに判断を下すことは、知性の側の僭越ではありませんか。

 どうして決して自らに到達できない知性に、実現の最終的な状態の性質を確かめる、ましてや、決定する能力がありますか。それは、ろうそくから得られた光という基準で、太陽光をその源で測ろうとすることのようです。ろうそくが太陽の近くのどこかに来る前に、ろうは溶け落ちるでしょう。

 単なる推測にふけらずに、常にあなたの内にある真理の探究に今ここで専念しなさい。

(*1)マウナ・・・サンスクリット語。「沈黙、静寂」。
(*2)イーシュワラ・スワルーパ・・・サンスクリット語。「神の本質」。
(*3)沈黙の雄弁・・・「silent eloquence」の訳、「静かなる雄弁」とも訳せます。
(*4)マタイによる福音書、9:29

2013年6月15日土曜日

マハルシの甥(弟の息子)、T.N.ヴェンカタラーマンが学んだ手痛い教訓

◇『静かなる力(The Silent Power)』、p96~98

幸運な男の子 


セイン

 バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシは、偉大な聖者としてみなに良く知られています。しかし、ほんのわずかの人しか彼の博愛と人類愛について知りません。さらに少ないのは、彼の父親や母親のような愛情を経験した者です。それらすべての人の中で、一人の少年だけがバガヴァーンと共に眠り、父親がするような扱いを楽しむ大変に羨ましい機会を得ました。彼はそのまたとない栄誉を得た唯一無二の人です。

 これは1920年のことでした。バガヴァーンはヴィルーパークシャ洞窟からスカンダーシュラムへ行き、信奉者の小集団が彼の周りに集まっていました。聖者の偉大さは全世界に響き渡っていました。信奉者らは、インドのあらゆる場所から彼のダルシャンを求めて来ていました。男性は山の上のアーシュラムで一日中バガヴァーンと共にいる特権を楽しみましたが、女性は日没後はそこに留まることを許されていませんでした。

 マハルシには弟と妹がいて、彼の兄はあまりに早く亡くなっています。ティルヴェンガドゥ寺院で事務員として働いていた弟のシュリー・ナーガスンダラム・アイヤルには、小さな息子がいました。シュリー・ラマナーシュラマムには幸運なことに、そして彼の家族には不運なことに、面倒を見てもらえない2歳の男の子を残して彼の妻が亡くなった時、彼はサンニャーサ(隠遁期)に入りました。両親がこの子供を孤児として残した時、一般的に「アッタイ(叔母)」として知られているマハルシの妹は子供の世話を引き受け、惜しみない愛情と気遣いで彼を育てました。それは彼女自身に子供がいないからだけでなく、この男の子が一家全体の唯一の子孫でもあったからです。この子は遠くの南部に住んでいたアッタイと彼女の夫によって、バガヴァーンと(プールヴァーシュラマの)父親-今後、彼はシュリー・ニランジャナーナンダ・スワーミーとして知られますが-に会うために年に二度三度、ティルヴァンナーマライへ連れて行かれました。彼らにはティルヴァンナーマライの山の近くに家を提供されていました。毎朝、アッタイは山を登り、夕方に街へ帰り、スカンダーシュラムに男の子を残しました。

 最初、大変に愛している男の子にどんな不便でも起こるのを恐れ、アッタイがそうするのをためらっていた時、バガヴァーンは「私が見守っているから大丈夫ですよ」と言いました。

 夜に男の子はバガヴァーンの聖なる手から食べ、バガヴァーンは彼をそばに寝かせ、毛布でくるみ、あやして彼を寝かしつけました。彼は誠実な母親がなしうるあらゆる気遣いを彼に注ぎました。朝早く、彼は男の子を泉に連れて行き、粉で彼の歯を磨き、彼の顔を洗いました。朝にアッタイは駆け登ってきたものでした。バガヴァーンは子供と共に地下水路の上に座り、子供に「あなたのアッタイが来ましたよ。あなたに会いに彼女がどんなに急いで走ってくるのかごらん」と言ったものでした。彼女が現れるとすぐ、バガヴァーンは「あなたの男の子を連れて行きなさい。ほら、彼は無事ですよ」と彼女に言いました。

 男の子へのこのあふれんばかりの愛情は、マハルシが彼に厳格であることの妨げには全くなりませんでした。以下の出来事は、バガヴァーンが男の子に今に至るまで彼が忘れていない実際的な教訓を与えたことを明らかにします。

 スカンダーシュラムで、ノンディと名付けられた猿が住んでおり、みんなのペット(お気に入り)でした。マハルシは、彼の信奉者らに与えられる食事は何であれその猿にも与えられるべきで、猿がどこかに行っていない時、帰ってきた時のために猿の分を別にとっておくべきであると命じていました。そのような場合には、食べ物は洞窟の内の窓のそばに置かれ、よろい戸は閉まっていましたが、掛け金で締められていませんでした。これが習慣でした。

 彼のアーシュラムへの定期訪問の中の一回のある日、男の子は信奉者らに振る舞われたお菓子をおいしそうに食べました。彼はいつもの分よりも少し多く食べました。猿は不在で、その分け前は閉じられた窓の近くに置かれていました。男の子は自分の分を食べ、窓へ行き、猿の分からも食べ始めました。突然、猿が来て、窓を開け、男の子がその分け前を食べているのを見ることになりました。それによって男の子は頬に一撃を加えられました。びっくりして怖くなり、男の子は泣き叫び、信奉者たちは彼を慰めようとしました。バガヴァーンがその場に現われ、状況を理解し、「あなたはそれを受けるに値します。なぜ彼(猿)の分を欲しがったのですか。あなたはもう十分に食べていました。あなたはそれで満足するべきだったのです」と男の子に言いました。愛する子供をなだめるどころか、バガヴァーンは彼を正しました。子供は静かになり、バガヴァーンの言葉を心に留めました。

 「他人の所有物に手をつけないように。あなたの持っているもので満足しなさい。あなたの持っているものを平等に分け合いなさい。あなたの周りにいる全ての人と分け合いなさい。貧しい人を助けなさい。悪事があなたの前で行われた時、気づかないでいないように。できるならそれを正しなさい、もしくは、少なくとも正義のためにはっきり言いなさい」。これらはあの日、少年がマハルシの言葉から理解できた貴重な真理のいくつかです。

 その幸運な男の子は、スワーミー・ラマナナンダ(シュリー・T.N.ヴェンカタラーマン、シュリー・ラマナーシュラマムの前会長、マハルシの家系の唯一の子孫)です。

2013年6月12日水曜日

カルマ・サンニャーサ(行為の放棄)の真意、アスラ・ヴァーサナーとは何か

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』 

1949年1月19日

(219) 自ら


 今朝、私がアーシュラムへ行った時には、信奉者が何か尋ねており、バガヴァーンは、「はじめに、あなたが誰か見出しなさい」と答えていました。

信奉者:
 「私は誰か」という自らの探求を始める前に、全ての行為を放棄すること(カルマ・サンニャーサ)は必要ですか。

バガヴァーン:(微笑んで)
 サンニャーサについてのあなたの考えは何ですか。座る、立ちあがる、歩き回る、食べるは、カルマ(行為)です。その内のどれをあなたは放棄するつもりですか。それゆえに、古代の人がカルマ・サンニャーサについて語る時、「はじめに、『私は行為者である』という感覚を放棄しなさい」と言うのです。

信奉者:
 シャンカラーチャーリヤは、カルマ・サンニャーサを重要視しています。

バガヴァーン:
 ええ、そうです。しかし、その時、彼でさえカルマ(行為)を行っていました。彼はあちらこちらへ、村から村へと行き、アドヴァイタ(不ニ)の教義を確立しました。当時、鉄道はありませんでした。彼は徒歩で行きました。その全てはカルマではないですか。その意味は、人がジニャーニになる時、彼が何をなそうとも何も彼に影響しないということです。彼は世界の福利のために全てのことを行います。彼、ジニャーニは、自我、つまり、「私が全てを行っている」という感覚だけを放棄しています。『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ・バガヴァーンは言いました。

もし私が行為を行わないならば、これらの世界は滅びる
それどころか、私は必ずやカーストの混乱とこれらの人々の滅びを作り出す者となる

If I do not perform action, these worlds will perish; 
nay, I should be the author of confusion of castes and of the destruction of these people.
(Gita, III: 24)

アルジュナよ、賢明でない者が愛着を持って行為するように
賢者も、世界の秩序の維持を求め、愛着なく行為すべきである

Arjuna, as the unwise act with attachment, 
so should the wise man, seeking maintenance of the world order, act without attachment.
(Gita, III: 25)

 その意味は、もし私が行為を行わなければ、他の誰も行為を行わない。カーストの混乱が起こる。どうして私がその原因となるべきなのか。それゆえに、私は全ての行為を行っている。無知な人々は欲望を持って行為するが、私は無欲で行為をなす。それが趣旨です。それゆえ、カルマ・サンニャーサは、人は五感の属性とカルマの属性の違いを知り、その知識により無欲に留まり、同時に全ての行為に無執着で、目撃者としてのみ身を処すべきであるという意味です。これがカルマ・サンニャーサです。上辺だけのサンニャーサは、たいして役に立ちません。

信奉者:
 しかし、主クリシュナは彼がカルタ(行為者)であり、彼がボークター(受楽者)であると言っています。

バガヴァーン:
 そうです。彼はそのように言いました。しかし、マハートマーがカルトゥルトヴァム(行為者性)とボークトゥルトヴァム(受楽者性)について語る時、それは異なります。彼らにとって、アハムは自ら(スワルーパ)を意味します。それは、「私は体である」と言う「私」ではありません。

アルジュナよ、私は全存在のハート(核心)に座す自らである
私は全存在の始まりであり、中間であり、そして終わりでもある

Arjuna, I am the Self seated in the heart of all beings. 
I am the beginning and the middle and also the end of all beings.
(Gita, X: 20)

 「私」と呼ばれるものは、全てに行き渡る自ら(アートマン)です。聖者が「私」として語るものとは、自らのみと体の働きです。無知な人々が語る「私」とは、体についてであり、それはアスラ・ヴァーサナーです。彼らは「私はイーシュワラである。私は崇拝されるべきだ」と言います。彼らがそれを言う時、彼らは困ったことになっています。このアスラ・ヴァーサナーについて、三つのスローカ(詩節)が『ギーター』の16章において簡潔に記されています。『ヴァスデーヴァ・マナナム』では、1章全体がそのテーマに費やされています。古代の人がイーシュワラであると主張する時、彼らはこの体について話していません。自らそのものがイーシュワラです。それがブラフマン、アートマン、その他の一切です。常に存在するものが、アハムです。『ブラフマー・ギーター』によれば、在ること(To be)がブラフマンです。存在しないもの(that which is NOT)が、マーヤーです。あなたが存在しないものを見るならば、在るもの(that which IS)はありのまま留まります。あなたがあなたの自らである在るものを実現する時、それほど多くの質問は起こりません。

1949年4月13日

(238) アスラ・ヴァーサナー


 シュリー・ヨーギ・ラマイアーが一週間前ぐらいにここに来ました。今朝、バガヴァーンの前に座って、彼は「バガヴァーン、ある人々は『我々はジニャーニとなった。我々はジーヴァンムクタの境地にいる』と言います。しかしながら、彼らは1分間さえ静かに座っておらず、いつも歩き回っています。どうして彼らがジーヴァンムクタでありうるのですか」と言いました。バガヴァーンは、「それがどうかしましたか。ナーラダやその他の人はジーヴァンムクタではありませんか。人が世界を巡り歩くならば、ジーヴァンムクタの境地に何か問題があるのですか。全てのことは、人のプラーラブダに応じて起こります」と言いました。

 「そうではないのです、バガヴァーン。ナーラダのような人々は、ジーヴァンムクタになった後、世界の福利のために神々の歌を歌いながら世界を巡り歩きました。その人たちは、そのようではありません。彼らはラーガ(欲)とドヴェシャ(怒り)に満ちたあらゆる世俗的な事柄に関わり、ジニャーニやジーヴァンムクタであると主張します。どうしてそんなことがありえますか」とその信奉者は言いました。

 「それがあなたの尋ねることですね」とバガヴァーンは言いました。「分かりました。それは全てアスラ・ヴァーサナー(悪魔的傾向)として知られています。それはユーモアたっぷりに『ヴァスデーヴァ・マナナム』に記されています。待ってください。それを読んでもらいましょう」。そのように言って、バガヴァーンは『ヴァスデーヴァ・マナナム』の写しをヴェンカタラトナムに持ってくるように頼みました。アスラ・ヴァーサナーに関する章を取り出し、彼に読むように頼み、バガヴァーンは、「いいですか。あなたは注意して、笑わないで読まなければいけません。あなたはまた独り言をつぶやくのではなく、声に出して読まねばなりません。さあどうぞ。もう笑い始めましたね。笑わないで読むように」と言いました。彼はどうにか笑いをこらえ、読み始めました。私はその要約だけを書き留めます。

 サーダカにとってアスラ・ヴァーサナーに関連する障害は、彼がそれを取り除いたと感じても頻繁に現れる。例えば、彼は(次のように)言うだろう。

 「あなたは堕落したヨーギである。無用な人よ。それが儀式を行う方法なのか。それに疑いの余地はない。これらの儀式をあなたに教えたグルさえもブラシュタ(堕落した人)である。明日から私の前に来るな。去れ。

 君よ!私の前で平伏し、あなた自身を救え。我々の蓮華の足から聖なる水をとり、あなた自身を救え。我々に仕える以外に、どのようなヴェーダについての探求が必要なのか。あなたが我々を崇拝するならば、あなたの全ての望みは満たされる。我々以外の他の誰にも仕えるな。君よ、あなたが持っている全てのものをここの人々の内の1人に与えないならば、我々のもとに来るな。見よ!ある人は我々を世話しなかった。それゆえ、我々は彼が長く生きられないと言った。そこで直ちに、彼は灰に帰した。同じように、別の人は一切の富を失った。また別の人は我々からウパデーシャを受け、我々を世話しなかった。それゆえ、その後、灰に帰した。我々のように偉大な人々以外、いったい誰が我々の偉大さを知ることができるのか。我々は過去、現在、未来を知っている。我々は常に世界を守護している。我々は沢山お金をかせぎ、それを施しに使った。我々は各々すべての個人の心の中にある望みを知っている。それらの望みはやってきて、我々の前に立つ。我々はいつある人が問題に巻き込まれるか、いつ別の人が莫大な富を得るか知っている。この方法で、我々は確実に未来に起こることを知るようになる。私はシッダである。私はイーシュワラである。誰が私より優れているのか。全ての人が私に仕えねばならない。私を通じてのみ、人々は望みを満たせる。彼らが我々を通じて望みを満たそうとしないならば、彼らは罪の井戸へと落ちる。彼らはすぐにグルにそむく罪を犯す。気をつけよ。」

 そういうことがもう少し記され、その章は「ラーガとドヴェシャのような感情は、聖なるものを熱望する者たちの進歩を妨げる原因であり、モークシャを得ようと熱望する者たちは『自らの探求』を修練し、それらの感情を捨て去らねばならない。シュラヴァナ、マナナなどのような修練を保つならば、彼は今世の間にモークシャを得ないかもしれないが、その修練は無駄にならない。彼はそれを通じてウッタマローカ(より高い生)へ入り、シュラヴァナ、マナナやそのような修練を繰り返すことにより、やがてはジニャーナを得る」と述べ、締めくくっています。

  ヴェンカタラトナムがこの章を読み終えた後、バガヴァーンは始めに質問を尋ねた信奉者の方を見て、「さあ今や、あなたは全てを聞いたのではないですか」と笑って言いました。信奉者は、「はい。聞きました。しかし、障害がある時、シュラヴァナ、マナナなどを修練しても、モークシャを得ることはないと述べられています。それらの修練が無駄になることはなく、より高い生へと導くとも述べられています。しかし、シュラヴァナ、マナナなどを修練せず、不正な行いを続けるならば何が起こるのですか」と尋ねました。

 「それは彼の破滅の原因となります。自らの帝国を失い、1万年の間、アジャガラ(大蛇)のままであったナフシャについて聞いたことはありませんか」とバガヴァーンは答えました。

2013年6月11日火曜日

ムハンマド・アブドゥラ - 信仰から不信へ、不信からラマナ・マハルシへ

◇『静かなる力(The Silent Power)』、p156~158

 以下の文章は、シュリー・ラマナが亡くなった後の話のようです。(文:shiba)

どのように私はバガヴァーンのもとへ来たのか
ムハンマド・アブドゥラ

 私はいくぶん宗教的な環境で育てられ、信心深い人間へと成長しました。後に、大学と海外に行った時、私の見解は変わりました。私は徹底的な無神論者でないにしても、不可知論者となりました。この状況は30代後半まで続きました。その間ずっと、折に触れ、私は信仰を取り戻そうと試みましたが、無駄でした。とにかく、擬人化した神の概念は私には魅力がありませんでした。私はなぜ神が世界を創造したか分かりませんでした。彼が彼自身を彼自身に証明しようと欲するならば、それはどちらかといえば貧弱な理由のように思われました。世界を操り人形の劇のように創造し、それを観客として楽しむこともまた、無分別(罪深い)で、いくぶん残酷に思えました。

 多くの疑問が私を悩ませました。神とは何か。人生とは何か。いったいそれは何なのか。聖典は私を満足させませんでした。なぜなら、聖典ははじめから信仰心を要求するからです。私は信仰心をもっていませんでした。私は心理学を学びましたが、無意識の心以上の何もありませんでした。私は弁証法的唯物論に向かいましたが、再びその支持者がつまらないことで仲たがいしていることに気づきました。実存主義へと向うと、それはあまりに病的で、気落ちするものであることに気づきました。最後に、私は形而上学と神秘主義へ向かい、そこで私は幸運に恵まれました。

 問題への手掛かりを探していた時、私は偶然に図書館の本棚から一冊の本を手に取りました。それは『Day by Day with Bhagavan』の古い版でした。それを読み始めた時、私は特には興味がなかったのですが、進むに従い、私の無関心は驚愕へ取って代わられました。ああ、終に、ここに私に手を差し伸べる人がいたのです。私は大変な熱意をもって読み進め、もっと読みたいという渇望と共に本を読み終えました。私はアーシュラムの書庫へバガヴァーンに関する全ての本の注文を出しました。その本の小包以上に待ちわびたものありませんでした。それが到着するとすぐ、私は隅から隅まですべてのものを学び、この真の知恵の源泉を深く味わいました。

 数か月間、私は身も心もバガヴァーンの教えに没頭していました。終にここで、私はすべての問いの答えを得て、すべての疑いは晴れました。彼の教えを吸収した後すぐ、私はアーシュラムの訪問を計画しました。

 今や、私はアーシュラムの訪問について少しばかり言わねばなりません。その場所へ来ること、そこから去ることには何かがあります。そこへ行こうと決心する瞬間に、何らかの不思議な力があなたの世話をします。偶然にも、私は古参の信奉者であるK.スワミナタン教授に会いました。彼はニューデリーのラマナ・ケーンドラの責任者でした。彼は私に訪問するように勧めました。私はニューデリーを離れ、2日後にアーシュラムに到着しました。午後2時30分でした。私はメディテーション・ホールでバガヴァーンの写真に向かい合って座りました。彼はとても生き生きとしているように見えました。何という優しく、恵み深い笑顔でしょう!私は彼から目を離すことができませんでした。午後7時30分に夕食のゴングが突然に響いた時、私は時間がさっぱり分かりませんでした。

 私はアーシュラムに1か月間住み、朝と夕方に瞑想しました。驚くことに、途方もなく思われた問題は次第に背景へと退きました。過去は、影のようにぼんやりとなりました。過去の望みは何の意味もなく、私を笑わせました。将来への懸念は、だんだん小さくなり、なくなりました。私は幸福を感じました。

 ひと月は足早に過ぎ、私はしょんぼりとして帰路につきました。バガヴァーンのもとを離れる時、私にはひとつだけ願いごとがありました。私は再び来たいと思いました。私はまた、私が見つけた安らぎを長いあいだ保つ手助けをして下さるようバガヴァーンに祈りました。私の願い事は、両方とも叶えられました。私は何度も来ました。バガヴァーンは試練の時に私を決して見捨てませんでした。私は決してバガヴァーンを放さず、彼もまた私を放しません!

2013年6月10日月曜日

ナーマ・ジャパ、神の抱く恐れ、信奉者へのマハートマーの対応

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』、p459~461

 読みやすいように対話形式にするため、多少訳を変更しています(shiba)。

1948年6月29日
(200)ふさわしい教え

 今朝、10時15分前、バガヴァーンが外に出かけていた時、彼の体が少しよろめきました。付添人は彼に触れ、彼が自分で体を安定できるようにすることを躊躇しました。彼がそれを好まないだろうと知っていたからです。その時、彼のそばを歩いていた古参の信奉者は、彼を持ち上げようとしました。彼にそのことを戒めて、バガヴァーンは、「あなたがたみなは私が倒れないよう支えようとしますが、実際は私を投げ落とそうとしています。もう十分です。あなたがた自身が倒れないように注意して下さい」と落ち着いて言いました。これらの言葉は、大変含蓄に富んでいます。バガヴァーンは何か当たり前のことを言っているように見えますが、その言葉の中には偉大な真理が存在し、そのため私はその場でそれを書き留ました。

 しばらくして、バガヴァーンは戻り、いつもの場所に座りました。その前に、若者がむっとした様子で講堂にやって来ていました。いくらか試した後、彼は、「スワーミー、私は心の中に質問があります。その質問が何か、あなたは言うことができますか。もしくは、私にそれを尋ねて欲しいですか」と言いました。バガヴァーンは、「ああ!それが問題であることというわけですね。すみません。私にはそのような力がありません。あなたは有能な人で、他人の考えを読めるのかもしれません。どうして私にそのような力を得られるのですか」と言いました。その若者は、「では、それぐらいできないならば、あなたの偉大さとは何ですか」と言おうとしましたが、そこにいた他の人たちが彼が言うのを遮りました。それを見て、私はバガヴァーンの近くに行き、座りました。私を見て、バガヴァーンは、「見なさい。この若者は彼の心の中にある質問を私が知ることができるか尋ねました!今まで誰もそのようなことを尋ねませんでした。それはつまり、彼は私を試しているのです。ここに来る人の目的は、その人が入ってくる時にさえ知られます。座る様子そのものが、その人の訪問の目的を明らかにします。私を試す代わりに、どうして彼は自分自身を試し、自分が誰か見出そうとしないのですか。そのほうがいっそう良いのではありませんか」と言いました。

 偶然に若者のそばに座っていた紳士が会話の穂を継ぎ、「スワーミー、あなたは自らを見出すことが人生において最も優れたことであると言います。しかし、それを見出すために、ナーマ・ジャパ(*1)は良いことですか。我々はその方法でモークシャ(*2)を得られますか」と言いました。

バガヴァーン:
 ええ、それは良いことです。それ自体が、やがては、あなたを目的へ運びます。名の復唱は、一切の異質なもの(外側のもの、付着したもの)を取り除くためです。それから、一切の異質なものが消え、残るものは名だけです。残るそれは、自ら、神、もしくは至高なる存在です。ナーマ・ジャパは我々が神に名を与え、をその名で呼ぶことを意味します。あなたは、あなたが最も好む名をに与えます。

信奉者:
 イーシュワラは、あなたがに何らかの名前を与え、に特定の姿で現れるように願うならば、現われるでしょうか

バガヴァーン:
 ええ。はあなたがどのような名で呼んでも、あなたの呼びかけに答え、あなたが崇拝するどのような姿ででも現れます。が姿を表すとすぐに、あなたは何かお願いします。は恩恵を授け、消えますが、あなたはあなたがいたところに留まります。

私(シュリー・ナガマ):
 我々が何か物質的な利益をバガヴァーンに求めるならば、バガヴァーンもまた同じようになさると思います。

 私が言ったことに注意を向けず、そして、質問を避けようとしてバガヴァーンは言いました。

バガヴァーン:
 ですから神は姿を表すことを恐れているのです。がやってくるなら、信奉者たちはの全ての力を与え、引退するようにに求めます。彼らは「全てのものを我々にください」というだけでなく、「他の誰にも与えないように」とも言います。それが心配なのです。ですから神はの信奉者たちのもとへ行くのを遅らせているのです。

別の信奉者:
 マハートマー(*3)についても同じことですか。

バガヴァーン:
 それに疑いはありません。寛大さが人々に示されるなら、彼らはマハートマーに権威を行使し始めます。彼らは、「あなたは求められるようにしなければなりません」と言います。彼らはまた、「他の誰もここに来るべきではない」とも言います。そういう具合です。

信奉者:
 マハートマーは全てを同じ優しさで眺めると言われています。それでは、どうして彼らはある人々を親切に迎え、尋ねられる時、ある人々には返答し、他の人々にはそうせず、ある人々には怒鳴り、他の人には無関心を示すのですか。

バガヴァーン:
 そうです。全ての子供は父親にとって同じです。彼は彼らみなの幸福を望んでいます。それゆえ、彼は彼らの性質に応じて、愛情と怒りを持って彼らを扱います。温和な子供は、恐怖から離れており、何も求めません。彼らは愛情と優しさでなだめすかされ、彼らが望むもの何でも与えられるべきです。大胆な者は欲しい物を何でも求め、持っていきます。放浪するものは叱られ、適切な場所に留められるべきです。愚かな者は無視され、自力でやって行くよう任せられるべきです。同じように、マハートマーは信奉者たちの徳に応じて、優しく、もしくは、厳しくあらねばなりません。

(*1)ナーマ・ジャパ・・・神の名前を繰り返し唱えること。
(*2)モークシャ・・・解放
(*3)マハートマー・・・「偉大なる魂、人物」、聖者。

2013年6月9日日曜日

『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』  第二章 アパヴァーダ(付加の除去)

◇『不ニの知の灯と解放の真髄(Lamp of Non-Dual Knowledge&Cream of Liberation)』

アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ

第二章 アパヴァーダ(付加の除去)

弟子:(1)
 師よ、無知には始まりがないと言われています。その結果、無知には終わりがないということになります。どうして無始なる無知を払えるのですか。あなたは憐れみの大海です。どうかこれを私にお教え下さい。

師:(2)
 そうです、我が子よ。あなたは聡明であり、微妙な事柄を理解できます。あなたは正しく言いました。確かに、無知には始まりがありません。しかし、終わりがあります。知の生起が無知の終焉であると言われています。日の出が夜の暗闇を払うように、知の光は無知の暗闇を払います。

 (3-4)混乱を避けるため、世界の一切万物は、「原因、性質、影響、限界、結果」という範疇の下、その個別の特徴を分析することによって考察できます。しかし、超越した現実は、不ニであるので、これらを超えています。しかしながら、それ以外のすべて、マーヤーから先、それの上に誤って見られるものは、上述の分析に従います。

 (5)これらの中で、マーヤーは先行する原因を持ちません。なぜなら、マーヤーは、それに先行する何ものの産物でもなく、ブラフマンの内に留まり、自明であり、始まりがありません。創造の前、その顕現のための原因はありませんが、それは顕現します。それはひとりでに存在するはずです。

弟子:(6)
 この言明のための典拠が何かありますか。

師:
 ええ、ヴァーシシュタの言葉です。彼曰く、「泡が自然と水の中から生じるのとまさしく同様に、名と形を顕現する力も、全能であり完全に超越的な自らから湧き上る」。

弟子:(7-9)
 マーヤーは原因を持たざるをえません。陶工という作用因(媒介)なくして粘土が壺にならないのとまさしく同様に、ブラフマンの内でずっと未顕現に留まっている力はイーシュワラの意思のみによって顕現できます。

師:
 消滅において、不ニのブラフマンのみ残り、イーシュワラは残りません。明らかに、彼の意思は存在できません。消滅において、一切が顕現から引き戻され、未顕現に留まると言われる時、それは「ジーヴァ、全世界、イーシュワラ」のすべてが顕現しなくなることを意味します。未顕現のイーシュワラはその意思を行使できません。(実際に)起こることはこれです-眠りの中の休止している力がそれ自体を夢として展開するのとまさしく同様に、マーヤーの中の休止している力もそれ自体をイーシュワラ、その意思、世界とジーヴァからなる複数性へと展開します。そのように、イーシュワラはマーヤーの産物であり、彼の起源の起源ではありえません。それゆえ、マーヤーは先行する原因を持ちません。消滅において、意思のない純粋な存在のみ残り、何の変化の余地もありません。創造において、マーヤーは、今までこの純粋な存在の内に顕現せずに留まっていましたが、心として輝き出ます。心の戯れにより、魔法ごとく、「イーシュワラ、世界、ジーヴァ」として複数性が現れます。顕現したマーヤーが創造であり、未顕現のマーヤーが消滅です。そのように、マーヤーはひとりでに現われ、それ自体を引き込みます。このように、マーヤーは始まりを持ちません。ですから、それに先行する原因は存在しなかったと我々は言います。

弟子:(10-11)
 その「性質」とは何ですか。

師:
 それは表現できません。その存在が後に無効にされるため、それは現実ではありません。それは事実として経験されるため、それは非現実ではありません。また、それは二つの両極-現実と非現実-の混合でもありません。ですから、賢者はそれは言い表せないと言います(アニルヴァチャニーヤ)。

弟子:
 では、何が現実で、何が非現実なのですか。

師:
 マーヤーの礎となるもの、純粋な存在、またはブラフマンは、二元の余地はなく、現実です。名と形から成り立ち、世界と呼ばれる幻の現象は、非現実です。

弟子:
 マーヤーは何と言われうるのでしょうか。

師:
 その二つのどちらでもありません。現実の礎とも、非現実の現象とも異なります。

弟子:
 それを説明して下さい。

師:(12-17)
 火があるとします。それは礎です。火花がそれから飛び散ります。それは火が形を変えたものです。火花は火そのものの中に見られませんが、火から出てきます。この現象の観察により、火の中に内在する火花を作りだす力が推測されます。

 粘土は礎です。首の部分と開いた口をもつ中空の球体がそれから作られ、壺と呼ばれています。この事実により、粘土でも壺でもなく、両方とは異なる力が推測されます。

 水は礎です。泡はその結果です。両方とは異なる力が推測されます。

 蛇の卵は礎であり、若い蛇はその産物です。卵とも、若い蛇とも、異なる力が推測されます。

 種は礎であり、芽はその産物です。種とも、芽とも、異なる力が推測されます。

 深い眠りの変化するジーヴァは礎であり、夢はその結果です。眠りから目覚めた後、ジーヴァとも、夢とも、異なる力が推測されます。

 同様に、ブラフマンの内に潜在している力は、ジャガットという幻を作りだします。この力の礎はブラフマンであり、ジャガットはその結果です。この力はそれらのどちらでもありえず、両方と異なるはずです。それは定義できません。しかしながら、それは存在します。しかし、それは不可解のままです。ですから、我々はマーヤーの「性質」は言い表せないと言います。

弟子:(18-20)
 マーヤーの「影響」とは何ですか。

師:
 それはブラフマンという不ニの礎の上に、その覆う力と投影する力によって、「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」という幻を表すことにあります。

弟子:
 どのようにですか。

師:
 休止している力が心として現れ出すとすぐに、心の潜在性が芽吹き、木々のごとく成長し、共に世界を形作ります。心はその潜在性と戯れます。それらは思いとして湧き上り、この世界として物質化します。それゆえ、それは夢の映像に過ぎません。ジーヴァとイーシュワラはその内容物であり、この白昼夢と同じく幻です。

弟子: 
 それらの幻の特徴を説明して下さい。

師:
 世界は対象物であり、心の戯れの結果として見られています。ジーヴァとイーシュワラはそれに含まれています。部分は全体と同程度に現実的でありえます。仮に世界が壁に絵具で描かれていると想像してみなさい。ジーヴァとイーシュワラは絵の中の人物です。人物は絵そのものと同程度に現実的でありうるに過ぎません。

 (21-24)世界そのものが心の産物であり、イーシュワラとジーヴァは同じ産物の部分を形作っています。それゆえ、それらは心の投影に過ぎず、それ以上の何物でもありません。これは、マーヤーがイーシュワラとジーヴァの幻を生じさせると述べるスルティから、そして、ヴァーシシュタが魔法によるように潜在性は「彼、私、あなた、これ、それ、私の息子、財産」などとして心の中で踊ると述べるヴァーシシュタ・スムリティから明白です。

弟子:(25-27)
 そのスムリティはどこでイーシュワラ、ジーヴァ、ジャガットについて話しているのですか。

師:
 ソハミダム(*1)、すなわち、「彼、私、これ」という言明の中で、「彼」は見られないイーシュワラを意味します。「私」は自我としてまかり通るジーヴァを意味します。「これ」は外(的世)界すべてを意味します。聖典、論理的推論、経験から、「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」が心の投影に過ぎないことは明白です。

弟子:(28-29)
 どのように論理的推論と経験はその見解を支持するのですか。

師:
 目覚めと夢における心の生起と共に、潜在性は戯れはじめ、ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガットが現れます。深い眠りや気絶などにおいて潜在性が退くと共に、それらはすべて消えます。これはすべての人の経験の内にあります。

 また、一切の潜在性が知によって根こそぎにされる時、「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」はこれを最後に消えます。これは「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」を超えた不ニの現実に確立した完全な眼識(洞察力)を持つ偉大な聖者の経験の内にあります。ですから、これらがすべて心の投影であると我々は言います。そのように、マーヤーの「影響」は説明されます。

弟子:(30-32)
 マーヤーの「限界」とは何ですか。

師: 
 それはマハーヴァーキャの意味への探求から生じる知です。マーヤーは無知であり、無知は探求の欠如に基づき存続します。探求の欠如が探求にとって代わる時、正しい知が生じ、無知を終わらせます。

 では、聞きなさい。体の病は過去のカルマの結果であり、間違った食べ物の上に存続し、その継続と共に増悪します。もしくは、縄についての無知は、それが探求されない限り、蛇を視界へ映し出し、それに引き続き、他の幻覚が伴います。同じように、マーヤーは自明であり、無始であり、自然に起こりますが、自らの本質への探求の欠如の内に存続し、世界などを顕現し、より巨大に成長します。

 (33-35)探求の生起と共に、探求の欠如のため力強く成長したマーヤーはその栄養を失い、その結果、すなわち、ジャガットなどと共に徐々に弱まります。探求の欠如にもとづき、縄についての無知という要因が縄を蛇に見せますが、探求の生起と共に突如として消えるのとまさしく同様に、マーヤーは無知の内に栄え、探求の生起と共に消えます。縄の蛇とその幻を作り出す力が探求の前に存続し、探求の後に単なる縄に帰するのとまさしく同様に、マーヤーとその結果であるジャガットは探求の前に存続しますが、その後で純粋なブラフマンに帰します。

弟子:(36-38)
 どうして唯一のものが二つの異なる方法で現われられるのですか。

師: 
 ブラフマン、不ニの純粋の存在は、探求の前にジャガットとして現われ、探求の後、それ自体をその真実の姿で示します。

 適切な考察の前には、どのように粘土が壺として見え、その後で粘土のみとして見えるのか、もしくは、黄金が装飾品として見え、それからただ黄金だけであると分かるのかご覧なさい。ブラフマンもまた同様です。探求の後、ブラフマンは過去、現在、未来において一元であり、不ニであり、分割されず、変化しないと実現されています。その中に、マーヤーやジャガットなど、その影響のようなものは何も存在しません。この実現は、至高の知と無知の限界として知られています。そのように、マーヤーの「限界」は言い表わされます。

弟子:(39)
 マーヤーの「結果」とは何ですか。

師:
 成果なく無へ消え去ること、それがその結果です。兎の角は、何の意義もない音に過ぎません。マーヤーも同様に、何の意味もない音に過ぎません。実現した聖者は、そのようにそれを見出します。

弟子:(40-43)
 では、なぜすべての人がこの点において同意しないのですか。

師:
 無知な者は、それを現実であると信じます。思慮深い者は、それは言い表せないと言います。実現した聖者は、それは兎の角のように存在しないと言います。そのように、それはこれら三つの方法で現われます。人々は自分自身の視点からそれについて話します。

弟子:
 無知な者は、どうしてそれを現実であるとみなすのですか。

師:
 子供を怖がらせるために幽霊がいるという嘘がつかれる場合でも、子供はそれを真実であると信じます。同様に、無知な者はマーヤーに目をくらまされ、それを現実であると信じます。現実のブラフマンと非現実のジャガットの性質を探究する者たちは、マーヤーがどちらとも異なると見出し、その性質を定義することができず、言い表せないと言います。しかし、探求を通じて至高の知を達成した聖者は、「娘によって灰へと焼き尽くされる母のように、知によって灰に帰されたマーヤーはいかなる時も存在しない」と言います。

弟子:(44-46)
 どうしてマーヤーが娘によって灰へと焼き尽くされる母と比べられるのですか。

師:
 探求の過程で、マーヤーはさらにさらに透明となり、知に変じます。そのように、知はマーヤーから生まれるため、マーヤーの娘であると言われています。探求の欠如のもとに長きにわたり栄えているマーヤーは、探求によって、その最後の日を迎えます。蟹が子を産み、その結果、自分自身が死ぬことになるのとまさしく同様に、探求の最後の日に、マーヤーは自身の破滅のための知を生みます。即座に、娘である知は彼女を灰へと焼き尽くします。

弟子:
 どうして子供にその親が殺せるのですか。

師:
 竹林で竹が風で動き、互いにこすり合わされ、親木を燃やす炎を作りだします。そのようにまた、マーヤーから生まれる知はマーヤーを灰へと焼き尽くします。マーヤーは兎の角のように名前においてのみ留まります。ですから、聖者はそれを存在しないと言明します。さらに、まさにその名前がその非現実性を示唆しています。その名前はアヴィドヤーとマーヤーです。それらの中、前者は「無知、もしくは、存在しないもの」を意味し、また、マーヤーは「存在しないもの」(*2)です。ですから、それは単純な否定です。それゆえ、成果なく無へ消え去ることが、その「結果」です。

弟子:(47-49)
 師よ、マーヤーは知に変じます。それゆえ、それは成果なく無として消え去ると言われるはずはありません。

師:
 知、変じられたマーヤーが現実であるならば、マーヤーは現実であると言えます。しかし、この知そのものが虚偽です。それゆえ、マーヤーは虚偽です。

弟子: 
 どうして知が虚偽であると言われるのですか。

師:
 木々の摩擦から生じる炎はそれらを燃やし尽くし、その後、消えます。汚れを除く木の粉は水の中の不純物を下へと運び、それ自体は不純物と共に沈着します。同様に、この知は無知を破壊し、それ自体は消滅します。それもまた最終的に溶かされるため、マーヤーの「結果」は非現実のみとなりえます。

弟子:(50-52)
 知もまた最後には消え去るならば、どうして無知の影響であるサンサーラを根絶できるのですか。

師:
 無知の影響であるサンサーラは、知のように非現実です。一つの非現実は、もう一つの非現実によって取り消されます。

弟子:
 どうしてそれがなされうるのですか。

師:
 夢の影響下にいる人の飢えは、夢の食物で満足させられます。一方はもう一方と同様に非現実ですが、しかし目的に叶います。同様に、知は非現実ですが、しかし目的に叶ないます。束縛と解放は、無知の虚偽の概念に過ぎません。縄の蛇の出現と消失が等しく虚偽であるように、ブラフマンの内の束縛と解放も同様です。

 (54-55)結論すると、至高の真理は不ニのブラフマンのみです。その他一切は虚偽であり、いかなる時も存在していません。スルティはそれを支持し、言います。「何ものも創造されず、破壊されてもいない。束縛も解放も存在しない。誰も束縛されず、解放を望んでもいない。熱望する者はおらず、修練する者はおらず、解放された者もいない。これが究極の真理である」。そのように、付加の除去は、マーヤーとその影響を超える不ニの現実、純粋な存在の知に存しています。その実現が、体の内で生きている間の解放(ジーヴァン・ムクティ)です。

 (56)この章を注意深く学ぶ者のみが、無知の付加を取り消す手段として、自らへの探求の過程を知ろうと欲し得ます。そのような探求に適する探求者は次章で扱われる三つの特性を備えねばなりません。その後で、探求の方法が扱われます。

 有能な探求者は、先へと進む前に、これら二章を注意深く学ばねばなりません。

(*1)ソハミダム・・・「Sohamidam」、soh=彼、aham=私 、idam=それ
(*2)「ヤー・マー・サー・マーヤー(ya ma sa maya)」 ya=~であるもの、ma=ない、sa=彼女?

2013年6月1日土曜日

『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』  第一章 アドヤーローパ(付加)

◇『不ニの知の灯と解放の真髄(Lamp of Non-Dual Knowledge&Cream of Liberation)』

 『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ(不ニの知の灯、Advaita bodha Deepika)』はシュリー・カルパトラ・スワーミー(Sri Karpatra Swami)がシュリー・シャンカラーチャーリヤと他の聖者らの教えを凝縮したもので、12章からなるのですが、最後の4章は失われています。英訳は、スワーミー・シュリー・ラマナナンダ・サラスワティ(Swami Sri Ramanananda Saraswathi)によるものです。前書には、シュリー・ラマナが『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』を高く評価していたと書かれています。(文:shiba)

アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ

第一章 アドヤーローパ(付加について)(*1)

 (7)種の苦悩(ターパトゥラヤ)(*2)に大変に悩まされ、この苦痛をもたらす存在から自由になるために束縛からの解放を強く求めて、四種のサーダナからなる長い修練により際立った弟子は、尊敬すべき師に近づき、嘆願しました。

 (8-12)「主よ、師よ、恩寵の大海よ、私はあなたに身を委ねます!どうぞ私をお救いください!」

師:
 あなたを何から救うのですか。

弟子:
 繰り返す誕生と死の恐怖からです。

師:
 サンサーラを去り、恐れないように。

弟子:
 サンサーラという広大な大海を渡れずに、私は繰り返す誕生と死を恐れています。ですから、私はあなたに身を委ねたのです。私を救うのはまさしくあなたです!

師:
 あなたのために私に何ができますか。

弟子:
 私をお救いください。私には他の寄る辺がありません。頭髪が燃えている時、炎を消すためにただ一つの適したものが水であるように、あなたのような聖者は三種の苦悩からの炎で燃えている私のような人々の唯一の寄る辺です。あなたはサンサーラの幻から自由であり、心穏やかで、始まりも終わりもない比類なきブラフマンの至福に深く浸っています。確かに、あなたはこの哀れなる者を救えます。どうかなさってください!

師:
 あなたが苦しむならば、それが私にとって何なのですか。

弟子:
 父親が子供に対するように、あなたのような聖者は他者が苦しむのを見ることに耐えられません。一切の存在へのあなたの愛には動機がありません。あなたはすべての人に共通するグルであり、サンサーラのこの大海の向こうへ我々を運ぶ唯一の舟です。

師:
 では、あなたを何が苦しめるのですか。

弟子:
 苦痛をもたらすサンサーラという冷酷な蛇の噛まれ、私は目がくらみ、苦しんでいます。師よ、どうぞこの燃え盛る地獄から私を救い、どのようにして自由になるのか私にお教え下さい。

師:(13-17)
 よくぞ言いました、我が息子よ!あなたは賢明であり、よく修練されています。弟子となるためのふさわしさを証明する必要はありません。あなたの言葉はあなたが適していることを明確に表しています。では、いいですか、我が子よ!

 実在(サット)‐知(チット)‐至福(アーナンダ)である至高の自らの中に、誰が転生する存在でありえますか。このサンサーラがどうしてありえますか。何がそれを生じさせえたのですか。そして、それはどのように、どこから生じうるのですか。不ニの現実であるため、どうしてあなたが惑わされうるのですか。深い眠りにおいて何も分離していなく、どのような様子でも変化していなく、ぐっすりと幸福に眠っていますが、目覚めると愚か者は「ああ、私は道に迷っている!」と大声で叫びます。変化せず、形なく、比類なく、幸福で満ちた自らであるあなたが、どうして「私は転生する。私はみじめだ」などと叫べますか。実のところ、誕生もなく、死もありません。生まれる者も、死ぬ者もいません。そのようなものは何もありません!

弟子:
 では、何が存在するのですか。

師:
 無始なる、終わりのない、不ニの、束縛されず、常に自由な、純粋で、気づいており、ただ一つの、比類のない至福‐知のみが存在します。

弟子:(18)
 そうであるなら、雨季の雲のかたまりのように、この力強く巨大なサンサーラという幻が、どのようにして私を深い暗闇で覆っているのか教えてください。

師:(19-20)
 この幻(マーヤー)の力について何が言えるでしょうか。郵便受けを人と間違うように、あなたは不ニで完全な自らを個人と間違えています。惑わされているため、あなたはみじめなのです。しかし、この幻はどのように生じるのでしょうか。眠っている時の夢のように、この虚偽のサンサーラはそれ自体非現実である無知の幻の中に現れます。それゆえ、あなたの思い違いなのです。

弟子:(21-24)
 無知とは何ですか。

師:
 聞きなさい。体の内に幻影、「私」なる自惚れ(うぬぼれ)が生じ、体をそれ自身であると主張します。それはジーヴァと呼ばれています。ジーヴァはいつも外へ向く傾向を持ち、世界を現実とみなし、彼自身を行為者であり、苦楽の経験者とみなし、あれやこれやを欲しがり、見分けることなく、一度も彼自身の本質を思い出すこともなく、また「私は誰か。この世界とは何か」と探求もせず、彼自身を知らずにサンサーラの中をさ迷っています。そのような自らの忘却が無知です。

弟子:(25)
 すべてのシャーストラが、このサンサーラがマーヤーの仕業であると言明しますが、あなたはそれが無知によると言います。この二つの言明はどのようにして調和されうるのですか。

師:
 この無知はマーヤー、プラダーナ(*3)、アヴヤクタ(*4)、アヴィドヤー、自然の摂理、暗闇などのように、様々な名前で呼ばれています。それゆえに、サンサーラは無知の結果でしかありません。

弟子:
 この無知は、どのようにしてサンサーラを投影するのですか。

師:
 無知は二つの側面-覆い(アーヴァラナ)と投影(ヴィクシェーパ)-を持ちます。それらから、サンサーラが生じます。覆いは二つの方法で働きます。一方で、我々は「それはない」と言い、もう一方で「それは輝き出ない」と言います。

弟子:
 それを説明して下さい。

師:
 師と生徒間の論議において、聖者はただ不ニの現実のみがあると教えますが、無知な者は「いったい何が不ニの現実なのか。いや、ありえない」と思います。無始なる覆いの結果として、教わっても教えは無視され、古い考えが続きます。そのような無関心が、覆いの第一の側面です。

 (29-30)次に、聖典と恵み深い師の教えの助けにより、彼はよく分からずに、それでも真摯に不二の現実なるものを信じますが、深く調べることができず、浅い(理解)のまま、「現実は輝き出ない」と言います。ここに、それが輝き出ないことを知る知識はありますが、しかし無知の幻は続きます。それが輝き出ないというこの幻が、覆いの第二の側面です。

弟子:(31-32)
 投影とは何ですか。

師:
 変化せず、形なく、比類なく、幸福で満ちた不二の自らであるのに、人は自分自身を手と足を持つ体、行為者、経験者とみなします。彼はこの人やあの人、これやあれを客観的に見て、惑わされます。世界に包含され、不ニの現実の上にある外側の世界を知覚する錯覚が、投影です。これが付加(アドヤーローパ)です。

弟子:(33)
 付加とは何ですか。

師:
 存在するものを存在しないものと間違うこと-縄を蛇、郵便受けを泥棒、蜃気楼を水と間違うように。現実の上の虚偽の見せかけが、付加です。

弟子:(34)
 ここでの現実のもの、土台の上の非現実の付加と何ですか。

師:
 不ニの実在‐知‐至福、もしくは、至高なるブラフマンが現実です。縄の上に蛇という虚偽の名と形が付加されるように、不ニの現実の上に感覚のある存在と感覚のないものという範疇が付加されています。そのように世界として現れる名と形が、付加を形作っています。これが非現実な現象です。

弟子:
 不二である現実の中に、この付加をもたらしうる誰が存在するのですか。

師:
 それはマーヤーです。

弟子:
 マーヤーとは何ですか。

師:
 先に述べたブラフマンについての無知です。

弟子;
 無知とは何ですか。

師:
 自らがブラフマンであるにも関わらず、自ら(がブラフマンである)の知がありません。この自らの知を妨げるものが無知です。

弟子:
 それはどのように世界を映し出しうるのですか。

師:
 土台、つまり、縄についての無知が蛇という幻を映し出すのとまさしく同様に、ブラフマンについての無知がこの世界を映し出します。

 (36)世界は付加されたものであり、(認識の)前にも(知の)後にも存在していないため、幻とみなされねばなりません。

弟子:
 どうして世界が(認識の)前にも(知の)後にも存在していないと言えるのですか。

師:
 創造されるために、創造の前に世界は存在できませんでした(つまり、世界は創造と同時にか、その後に存在するようになります)。消滅において、世界は存在できません。世界は、今その狭間で、空中に魔法により作られた都市のように現われているに過ぎません。深い眠り、ショック症状、サマーディにおいて世界が見られない限り、今でさえもそれは付加物に過ぎず、それゆえ幻ということになります。

弟子:(37)
 創造の前と消滅において、世界が存在しないならば、それでは何が存在できるのですか。

師:
 架空でなく、不二の、内から外から分化しない(アジャーティーヤ、ヴィジャーティーヤ、スヴァガタ・ベダ)、唯一の根本的存在、実在‐知‐至福、不変の現実が存在します。

弟子:
 それはどのようにして知られるのですか。

師:
 ヴェーダ曰く、「創造の前に、純粋な存在のみがあった」。ヨーガ・ヴァーシシュタもまた、それを理解する助けになります。

弟子:
 どのようにですか。

師:(38)
 ヨーガ・ヴァーシシュタ曰く、「消滅において全世界は引き戻され、不動のままあり、言葉と思いを超え、闇でも光でもなく、しかし完全である、つまりは語ることができないが、無ではない唯一の現実のみを後に残す」。

弟子:(39)
 そのような不二性の中、どうして世界が生じうるのですか。

師:
 先に述べた縄と蛇(の例)において、現実の土台についての無知が縄の中に隠されているように、根本的現実の中に無知が隠されており、別にマーヤーやアヴィドヤーと呼ばれています。後に、それはこの一切の名と形を生じさせます。

 (40-41)語られることなき知‐至福‐現実に依存する、このマーヤーは、覆い(アーヴァラナ)と投影(ヴィクシェーパ)の二つの側面を持ちます。前者はそれ自身の土台を見えないように隠し、後者により未顕現のマーヤーは心として顕在化されます。その後、心はその潜在性と戯れ、あらゆる名と形を伴う、この世界の投影に到ります。

弟子:
 以前に、他の誰かがこれを言いましたか。

師:
 ええ、ヴァーシシュタがラーマに。

弟子:
 どのようにですか。

師:(43-50)
 ブラフマンの力は無限です。それらの力の中、かの力(マーヤーの力?ヴィクシェーパ?)が顕現し、その力を通じてそれ(世界?)が輝き出ます。

弟子:
 その様々な力とは何ですか。

師:
 意識のある存在の中の意識、風の中の動き、地の中の固体性、水の中の流動性、火の中の熱、虚空の中の空所、滅びゆくものの中の朽ちゆく傾向性、そして、さらに多くの力がよく知られています。これらの性質は顕現しないままあり、その後に現れます。卵の胚の中の孔雀のきらびやかな羽の色や、小さい種の中の広がったバニヤンの木のように、それらは不ニのブラフマンの中に潜在していたはずです。

弟子:
 全ての力が唯一のブラフマンの中に潜在していたならば、どうしてそれらは同時に現れなかったのですか。

師:
 いかにして木々、草花、香草、つる性植物などの種が大地の中に全て含まれていますが、土壌や気候や季節に応じてそれらの中のいくらかだけしか芽を出さないかを見なさい。そのようにまた、顕現のための力の性質や程度は、条件により定められています。ある時、(全てのマーヤーの力の礎である)ブラフマンは考える力とつながり、この力は心として現れます。そのように、長らく眠っているマーヤーは、一切万物の共通の源である至高なるブラフマンから心として突然に活動し始めます。その後、この心は全世界を作り出します。そのようにヴァーシシュタは言います。

弟子:
 マーヤーの投影の力を形作る、この心の性質とは何ですか。

師:
 概念、もしくは、潜在的傾向を思い出すことがその性質です。心は潜在的傾向を内容として持ち、目撃する意識の中に、二つの形態(*5)-「私」と「これ」-で現れます。

弟子:
 それらの形態とは何ですか。

師:
 それらは「私」の概念と「これ」「あれ」などの概念です。

子:(52)
 この私という形態が、どのようにして目撃する意識の上に付加されるのですか。

師:
 真珠層の上に付加された銀色が真珠層を銀として表すのとまさしく同様に、根本的な目撃者の上の私という形態も、あたかも目撃者が自我と異なっておらず、自我そのものであるかのように「私」(つまり、自我)としてそれを表します。

 (53)霊に取り憑かれた人が惑わされ、全く別人のように振る舞うのとまさしく同様に、私という形態に取り憑かれた目撃者も、その本質を忘れ、それ自身を自我として表します。

弟子:(54)
 不変の目撃者が、どうしてそれ自身を変化する自我と間違いうるのですか。

師:
 自分自身が空中に持ちあげられていると感じる譫妄状態の人、我を忘れた酔っぱらった人、支離滅裂なことをわめいている気がおかしい人、夢の旅に出る夢見る人、取り憑かれて奇妙な様子で振る舞う人のように、目撃者は彼自身は汚されず不変ですが、自我という幻影の悪意ある影響下で「私」として変化したかのように見えます。

弟子:(55)
 心の私という形態は目撃者を自我として変化させて表すのですか、それとも、それ自身が目撃者の中に自我として変化して現れるのですか。

師:(56-57)
 今や、この質問は起こりえません。なぜなら、それは自らと離れて存在しないため、単独で現われえません。それゆえ、それは自らをあたかも自我へ変化したかのように表すにちがいありません。

弟子:
 さらにそれを説明して下さい。

師:
 縄の中の無知という要因はそれ自体を蛇として投影できませんが、縄を蛇のように見せるにちがいないのとまさしく同様に。水中に現われえないものが、水をあぶくや泡や波として表します。火の中にそれ自体は現われえないものが、火を火花として見せます。粘土の中で現れえないものが、粘土を壺として表します。そのようにまた、目撃者の中の力も現われえませんが、目撃者を自我として表します。

弟子:(58-60)
 師よ、マーヤーを通じて自らが個々の自我へ寸断されるとどうして言えるのですか。自らは他の何にも関係しません。それは虚空のように汚されず、不変のままあります。どうしてマーヤーがそれに影響できるのですか。自らの寸断について話すのは、「私は虚空をつかみ、それを人間へとかたどる人、または、空気を桶へと形作る人を見た」と言うのと同じように馬鹿げてはいないですか。私は今、サンサーラという大海に沈んでいます。どうぞ私をお救い下さい。

師:
 マーヤーがマーヤーと呼ばれているのは、不可能を可能にしうるからです。観客に空中の天空都市をみせる魔術師のように、それは常にそこになかったものを視界へもたらす力です。人間にこれができるならば、マーヤーがそれをできませんか。その中に馬鹿げたものは何もありません。

弟子:(62-66)
 それを私に明らかにして下さい。

師:
 では、夢の映像を呼び出す眠りの力を考えてみなさい。閉じられた部屋の中でベッドで横になっている人が眠りに落ち、夢の中で鳥や獣の形をとってさ迷います。夢見る人は家の中で眠っていますが、夢は彼をベナレスの街路やセツの砂地の上を歩いているように表します。眠る人は変わらずに横になっていますが、夢の中で彼は空に飛び上がり、真っ逆さまに奈落へ落ちます、また自分の腕を切断し、それを手に持って運びます。夢自体の中で、整合性やその他の疑問は存在しません。その中で見られるものは何であれ適切であるように見え、批判されません。単なる眠りが不可能を可能にできるならば、全能のマーヤーがこの名状しがたい世界を創造することにいったい何の不思議がありますか。それはマーヤーのまさに本質です。

 (67-74)それを例示するため、あなたにヨーガ・ヴァーシシュタからの物語を手短に話しましょう。かつてラヴァナという名の王、イクシュヴァークの家系の貴人がいました。ある日、宮廷の講堂に全ての人が集まった時、魔術師が彼の前に現れました。素早く彼は王に近づき、平伏し、「陛下、あなたに不思議なものをお見せしましょう、ご覧ください!」と言いました。すぐに、彼は孔雀羽がついた棒を王の前で振りました。王は意識が遠くなり、我を忘れ、途方もない夢のような壮大な幻を見ました。彼は自分の前に馬を見つけ、それにまたがり、森の中で狩りをしながら馬に乗って行きました。長い間の狩りの後で彼はのどが渇いていましたが、水を見つけられず、疲れてきました。ちょうどその時、低いカーストの女が土製の皿の上に粗末な食べ物をのせて偶然そこに来ました。飢えと渇きに駆り立てられ、彼は一切のカーストの制約と自分自身の品格を捨て、彼女に食べ物と飲み物を求めました。彼女はもし自分が彼の正当な妻となれるなら、彼の願いを受け入れると申し出ました。躊躇なく彼は同意し、彼女が与える食べものを食べました。それから彼女の村落へ行き、そこで夫婦として共に住み、二人の息子と一人の娘をもうけました。

 ずっと王は相変わらず玉座の上にいました。しかし、一時間半という短い間に、彼はもう一つの幻のみじめな人生を送り、それは数年に渡りました。このように、容易く不可能を可能にするマーヤーの不思議な戯れを印象づけるため、ヴァーシシュタはラーマにいくつか長い物語を話しました。

 (75-76)広がる心の力を超える幻はなく、それに惑わされない人は誰もいません。その特徴は不可能なことを成し遂げることです。何ものもその力から逃れられません。常に不変であり、汚されない自らでさえ、変化し、汚されて見えるようになっています。

弟子:
 そのようなことが、どうしてありうるのですか。

師:
 どのように分割されず、汚されない空が青く見えるのか見なさい。ラヴァナ王が低いカーストのみじめな人として生活したのとまさしく同様に、至高なる自らもまた、常に純粋であるにも関わらず、それ(マーヤー)によって自我を帯びさせられ、ジーヴァとしてまかり通るようになっています。

弟子:(77)
 至高なる自らが心の私という形態との結合により幻のジーヴァとなるならば、彼はただ一人のジーヴァとして現れるはずです。しかし、多くのジーヴァが存在します。唯一の現実が、どうして無数のジーヴァとして現われうるのですか。

師:(78-80)
 一人のジーヴァの幻が純粋な至高なる自らの中で活動するようになるとすぐに、それは純粋な知の虚空の中に他の幻のジーヴァを自然と生じさせます。鏡で囲まれた部屋に犬が入るなら、初めに一つの鏡の中に一つの反射を生じさせ、連続した反射により無数になり、気がつくと犬は大変多くの他の犬に囲まれていて、うなり、闘志を示します。不ニの純粋な意識の虚空である自らもその通りです。一人のジーヴァの幻は、否応なく複数のジーヴァの幻と関係しています。

 (81-83)また、あなた、私、彼などとして世界を見る習慣は、夢見る人の夢の中に同様の幻の存在を余儀なく見させます。同様に、過去の生の蓄積した習慣は、純粋な知の虚空のみである自らに無数の幻のジーヴァを今でさえ見させます。それ自体不可解であるマーヤーの範囲を越えて何が存在できますか。今やこれが済んだので、どのように体や星々が創造されたか聞きなさい。

 (84-85)至高なる自らがマーヤーの私という形態によって「私」と表わされるように、自らは「これ」という形態よって、その一切の内容物を伴う世界として表されます。

弟子:
 どのようにですか。

師:
 多様性の力が「これ」という形態であり、その性質は「これ」や「あれ」を想像することです。意識の虚空の中で、それは「これ」や「あれ」として何百万の潜在性を想像します。それらの潜在性にかき立てられ、ジーヴァは意識の虚空そのものであるにも関わらず、個々の体など、外界、多様なものとして現れます。

弟子:
 どのようにですか。

師:(86-89)
 はじめに、心が分割されない意識の虚空に現れます。その動きは先に述べた潜在性を形成し、様々な幻の形で現れ出します。「ここに器官と手足を持つ体がある」、「私はこの体である」-「ここに私の父がいる」、「私は彼の息子である」、「私の年齢はこれこれである」、「これらは我々の親戚と友人である」-「これは我々の家である」、「私とあなた」、「これとあれ」、「善と悪」、「楽しみと苦しみ」、「束縛と解放」、「カースト、信条、義務」、「神、人、他の生き物」、「高い、低い、中間」-「楽しむ人と楽しみ」、「何百万の星々」などのように。

弟子:
 潜在性自体が、どうしてこの広大な世界として現れうるのですか。

師:(90)
 深い眠りの中で動きなく幸福のままでいる人は、生じる潜在性によってかき立てられる時、生命と世界という幻の夢の映像を見ます。それらは彼の中にある潜在性でしかありません。目覚めの状態でもまた、彼はこの生命と世界として現れる潜在性により、惑わされています。

弟子:(91)
 では、師よ、夢は目覚めの状態において形作られ、以前には休止している心の印象の複製でしかありません。その印象は過去の経験を複製します。それゆえ、夢の映像は心の創造でしかないと正しく言われています。仮に同じことが目覚めの状態でも真実であるならば、これはなんらかの過去の印象の複製に違いありません。この目覚めの体験を生じさせるその印象とは何ですか。

師:(92)
 目覚めの状態の経験が夢の世界を生じさせるのとまさしく同様に、過去世の経験が目覚めの状態の世界を生じさせ、それでもなお幻です。

弟子:
 現在の経験が先の経験の結果であるなら、何が先の経験を生じさせたのですか。

師:
 その先の経験などからです。

弟子:
 それでは創造の時まで遡ることになります。消滅において、その一切の印象は解消されていたに違いありません。新しい創造を始めるための何が残されていたのですか。

師:
 ある日に集められるあなたの印象が深い眠りにおいて休止していて、翌日に現われるのとまさしく同様に、先行する周期(カルパ)の印象も続いて起こる周期の中に再び現れます。そのように、マーヤーのこの印象は始まりを持ちませんが、くり返しくり返し現われます。

弟子:(93)
 師よ、前日に経験したことは今思いだせます。我々はどうして過去世の経験を思い出せないのですか。

師:(94-95)
 それはできません。どのように目覚めの経験が夢の中で繰り返され、目覚めの状態と同じ方法で、しかし違った様相で把握されているのかご覧なさい。なぜでしょうか。眠りが一切の相違を作りだします。なぜなら、それが最初の認識を隠し、歪めているからです。その結果、夢の中で繰り返される同じ経験は違った様相で示され、たいてい常軌を逸し、不安定です。同じように、過去世の経験は昏睡と死により影響され、その結果、現在の環境は過去のそれと異なり、異なる方法で繰り返された同じ経験は過去を思い出せません。

弟子:(96)
 師よ、夢の映像は心の創造に過ぎず、移ろいゆき、すぐに非現実として払いのけられます。そのため、それは幻であると適切に言われています。逆に、目覚めの世界は永続すると見られており、一切の証拠はそれが現実であると示そうとします。どうしてそれが夢と共に幻であると分類できるのですか。

師:(97-98)
 夢そのものの中で、映像は真実であり、現実であると経験されます。その時、映像は非現実であると感じられません。同様に、経験する時、この目覚めの世界もまた真実であり、現実のようです。しかし、あなたが自分の本質に目覚める時、これもまた非現実として過ぎ去ります。

弟子:
 それでは、夢と目覚めの状態の違いは何ですか。

師:(99)
 両方ともがただ心によるもので、幻に過ぎません。これは疑いえません。ただ、目覚めている世界は長引く幻であり、夢は短い幻です。これが唯一の違いであり、それ以上、何もありません。

弟子:(100)
 仮に目覚めが夢に過ぎないならば、ここで誰が夢見る人ですか。

師:
 この全世界は、汚されない不ニの知‐至福の夢の産物に過ぎません。

弟子:
 しかし、夢は眠っている時にのみ起こり得ます。至高なる自らがこの夢を見るために眠りに入ったのですか。

師:
 我々の眠りは、太古の昔から自らの本質を隠している自らの無知に対応しています。そのように、自らはこの世界という夢を夢見ます。夢見る人が惑わされ、自分自身を夢の経験者であると思うように、不変の自らもまた幻によって、このサンサーラを経験するジーヴァとして表されます。

 (101)夢のような体、五感などを見る時、ジーヴァは惑わされ自分が体や五感などであると信じるようになります。それらと共に、彼は目覚め、夢、深い眠りの間をぐるぐる回ります。これが彼のサンサーラを形作ります。

弟子:(102-104)
 ジャーグラット(目覚めの状態)とは何ですか。

師:
 それは私という形態の現象であり、他の一切の心の形態、そして、関連する対象を伴います。目覚めの状態の粗大な体の中に私という性質を帯び、個人はヴィシュヴァという目覚めの状態の経験者の名で知られます。

弟子:
 夢とは何ですか。

師:
 五感が外側の活動から引き込まれた後、目覚めの状態の心の形態によって形作られる印象は、それ自体を夢の映像として複製します。この微細な状態の経験者がタイジャサとして知られています。

弟子:
 深い眠り(スシュプティ)とは何ですか。

師:
 一切の心の形態が原因となる無知の中で休止している時、それは深い眠りであると言われています。ここで、プラージニャとして知られる経験者は自らの至福を体験しています。

 (105)ジーヴァは彼の過去のカルマの働きのために、カルマが目覚め、夢、深い眠りの経験を授けるのに応じて、この回転木馬の中で回転します。これがサンサーラです。同様に、ジーヴァは過去のカルマの結果として誕生と死に従属しています。

 (106)しかしながら、それらは惑わされた心の見せかけに過ぎず、現実ではありません。彼は生まれ、死ぬように見える(だけ)です。

弟子:
 誕生と死が、どうして幻でありうるのですか。

師:
 私が言うことに注意深く耳を傾けなさい。

 (107-109)ジーヴァが眠りに圧倒される時、過去の経験を複製するために目覚めの状態の認識が新しい夢の認識にとって代わるように、もしくは、一切の外側の事物と心の活動の完全な消失があるように、死の前の昏睡に圧倒される時、現在の認識は失われ、心は休止しています。これが死です。心が新しい環境において過去の経験の複製を再開する時、その現象は誕生と呼ばれます。誕生の過程は人が、「ここに私の母がいる。私は彼女の子宮にいる。私の体はこれらの手足を持っている」と想像することに始まります。その後、彼は自分自身が世界に生まれたことを想像し、後に、「これは私の父だ。私は彼の息子だ。私の年齢はこれこれだ。これらは私の親戚と友人だ。この快適な家は私のものだ」と言います。この新しい一連の幻は、死の前の昏睡における先の幻の消失に始まり、過去の行為の結果に依存しています。

 (110-113)死の前に非現実な昏睡により圧倒されたジーヴァは、様々な過去の行為に従い様々な幻を持ちます。死の後、彼は(以下のように)信じます。「ここは天国だ。それはとても美しい。私はその中にいる。私は今、素晴らしい天人だ。とても多くのかわいらしい少女が私に仕えている。私は神酒を飲み物としている」、または「ここは死の領域だ。ここには死の神がいる。これらは死の神の使いだ。ああ、彼らはとても冷酷だ-彼らは私を地獄へ投げ入れる!」、または「ここはピトリス(*6) の領域だ、もしくはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの領域だ」など。そのように、それらの性質に応じ、過去のカルマの潜在性は、誕生、死、天国への道、地獄、その他の領域という幻として自らの前に現れますが、自らはいつも不変の意識の虚空のままあります。それらは心の迷妄に過ぎず、現実ではありません。

 (114)意識の虚空である自らの中に、世界という現象が空中に見られる天空都市のように存在します。それは現実であると想像されていますが、実のところ、そうではありません。名と形が世界を形作っており、それ以上の何ものでもありません。

弟子:(115)
 師よ、私だけでなく他の全ての人が、意識ある存在と意識のないものからなる、この世界を直接的に経験し、それを真実であり、現実とみなしています。どうしてそれが非現実であると言われているのですか。

師:(116)
 世界は、その一切の内容物と共に、意識の虚空の上に付加されているだけです。

弟子:
 それは何によって付加されたのですか。

師:
 自らについての無知によって。

弟子:
 それはどのように付加されたのですか。

師:
 意識ある生命と意識のない物体の絵が背景の上に風景を示すように。

弟子:(117)
 聖典は、この世界すべてはイーシュワラ(*7)の意思によって創造されたと言明していますが、あなたは自分自身の無知によると言います。どうすれば、この二つの言明が調和できますか。

師:(118)
 矛盾はありません。聖典が言うこと-イーシュワラがマーヤーという手段によって五つの要素を創造し、多様な全世界を作るために様々な方法でそれらを混ぜ合わせた-は、全て誤りです。

弟子:
 聖典がどうして誤ったことを言えるのですか。

師:
 それらは無知な人への導きであり、表面的に思われるようなことを意味していません。

弟子:
 それはどういうことですか。

師:
 人はまさしく完全な意識の虚空であるという自らの本質を忘却し、無知により惑わされ自分自身を体などと同一視し、自分自身を平凡な能力の取るに足らない個人とみなします。彼に彼が全世界の創造者であると告げるならば、彼はその考えを馬鹿にし、導かれるのを拒絶します。そのように、彼の水準に降りて、聖典はイーシュワラを世界の創造者に据えています。しかし、それは真理ではありません。しかしながら、聖典は有能な探求者に真理を明らかにします。あなたは今おとぎ話を難解な真理と間違えています。これに関連して、あなたはヨーガ・ヴァーシシュタの子供の物語を思い浮かべるかもしれません。

弟子:(119-134)
 それは何ですか。

師:
 それはこの全世界の空虚さを例示する見事な物語です。それを聞くなら世界が現実であり、イーシュワラの創造物であるという誤った概念は全て消えます。手短に言えば、物語は以下のようになります。-子供が乳母に面白い話をしてほしいと頼みました。それに従い、彼女は以下の話を語りました。

乳母:
 昔むかし、その母親が不妊である大変に力のある王が三世界全てを支配していました。彼の言葉はそれらの世界の王達にとって法でした。不妊の母の息子は、世界を作り、世話し、破壊する並々ならぬ幻の力を持っていました。彼は意のままに、白、黄、黒の三つの体のどれでも身につけることができました。彼が黄色の体を身につけた時、彼は衝動にかられ、魔術師のように都市を創造したものでした。

子供:
 その都市はどこにあるの。

乳母:
 空中にぶら下がっています。

子供:
 なんて呼ばれているの。

乳母:
 絶対的な非現実です。

子供:
 どのように造られているの。

乳母:
 都市には一四本の立派な道路があり、それぞれ三つの区域に分けられ、その中にそれぞれ沢山の楽しい庭園、巨大な館、そして、七つの水槽があり、真珠の首飾りで飾られています。二つの灯-一つは温かく、もう一つは涼しい-がいつも都市を照らしています。その中に、不妊の母の息子は多くの快適な家を建て、いくらかは高地にあり、いくらかは中地にあり、その他は低地にありました。それぞれの家は、黒いビロードのような屋根、九つの門、風を入れるためのいくつかの窓、五つの灯、三本の白い柱、上手に漆喰が塗られた壁を備えていました。魔法により、彼はそれぞれの家を守るために恐ろしい幽霊を作り出しました。鳥が巣へ入るように、彼はそれらの家のどれにでも意のままに入り、好きなように遊びました。

 (135-140)黒い体で、彼は幽霊の番人を通じてそれらの家を守ります。白い体で、彼はそれらを瞬く間に灰へと帰します。不妊の母の息子は、愚か者のように気まぐれにくり返し都市を作り、守り、破壊します。かつて彼は仕事の後で疲れ、蜃気楼の飲み水の中で水浴びをして再び元気づき、空から集められた花を誇らしげに身につけました。私は彼を見ました。壊れたガラスの破片の輝きから作られた宝石からなる四つの首飾りと、真珠層の銀からなる足首飾りをあなたに贈るために、彼はすぐにここに来ます。

 子供はこの物語を信じて喜びました。この世界を現実であるとみなす愚か者も同様です。

弟子:(141-148)
 この物語はどのようにその狙いを例示していますか。

師:
 説話の子供は、世界の無知な人です。乳母とは、イーシュワラによる創造について語る聖典です。不妊の母親の息子とは、マーヤーから生まれたイーシュワラです。彼の三つの体は、マーヤーの三つの性質です。彼が体を身につけることは、ブラフマー、ヴィシュヌ、ルドラの側面です。黄色の体で、全世界を貫通する(生命の)糸であるブラフマーは、意識の虚空の中にそれを創造します。意識の虚空は、寓話の空中に対応します。その名前は絶対的な非現実です。一四本の立派な道路とは、一四の世界です。楽しい庭園とは、森です。館とは、山々の連なりです。二つの灯とは、太陽と月です。真珠の首飾りで飾られた豪華な水槽とは、多くの川が流れ入る大海です。

 (149-155)高地、中地、低地に建てられた家とは、天人、人間、動物の体です。三本の白い柱とは、骸骨です。壁の漆喰とは、皮膚です。黒い屋根とは、その上に髪がある頭です。九つの門とは、体の九つの導管です。五つの灯とは、五感です。幽霊の見張り人とは、自我です。

 今や、マーヤーという不妊の母の息子、王イーシュワラは、体という家々を建て、思いのままにジーヴァとしてその中に入り、自我なる幽霊と一緒に楽しみ、無目的に動き回ります。

 (156-160)黒い体で、彼はヴィシュヌ(さもなければ、ヴィラートとして知られている)として働き、世界を維持します。破壊者、一切に住まうものであるルドラとしての白い体で、彼は全世界を彼自身の中へ引き込みます。これが彼の戯れであり、彼はそれを楽しんでいます。この楽しみは、王が蜃気楼の水の中で再び元気づくことであると言われています。彼の誇りとは、彼の支配権についてです。空からの花とは、全知全能という属性です。足首飾りは、天国と地獄です。ガラスの輝きからなる四つの首飾りとは、ムクティの四段階です。それらはサーローキャ、サミピャ、サルピャ、サユジャ(*8) であり、地位、立場、力、最終的な同一性において等しいことを意味します。贈り物をするための予期される王の到来は、信奉者の願いをかなえる聖像の崇拝です。

 このように、聖典の無知な生徒はその無知に惑わされ、世界が現実であると信じます。

弟子:(161)
 仮に、天国や地獄や無上の幸福(ムクティ)の四段階が全て誤りであるなら、聖典の一部において、どうして天国や無上の幸福を得るための手段を定めているのですか。

師:(162-164)
 子供がお腹の痛みで苦しむのを見て、優しい母親は子供に胡椒を与えたいと望みますが、子供が胡椒を嫌い、蜂蜜を好むことに気づき、その口に胡椒を押し込む前に優しく子供を蜂蜜の香りでなだめすかします。同じように、聖典は憐れんで、無知な生徒が世界で苦しむのを見て、彼に真理を悟らせたいと望みますが、彼の世界への愛着と微妙で理解することが難しい不ニの現実への嫌気を知り、むき出しの不ニの現実を提示する前に、天国などの甘美な楽しみで優しく彼をなだめすかします。

弟子:(165)
 天国などの概念が、どうして彼を不ニの現実へ導くのですか。

師:
 善行により天国は得られます。苦行やヴィシュヌへの献身により、至福の四段階が(得られます)。それを知り、人はそれらの中で好むものを修練します。いくつかの転生において繰り返し修練することにより、不ニの現実という最高の教えを受け取るため、彼の心は純粋になり、感覚の楽しみから遠ざかります。

弟子:(166)
 師よ、天国や地獄などが虚偽であると認めるとしても、どうして聖典によって大変多く言及されるイーシュワラもまた非現実であると言明しうるのですか。

師:(167)
 栄華を極めるイーシュワラを扱う文章は、「イーシュワラはマーヤーの産物であり、ジーヴァは無知の産物である」と言う他の人により受け継がれています。

弟子:
 聖典はどうして異なる趣旨の文章でもって矛盾しているのですか。

師:
 聖典の目的は、善行、苦行、献身というような自分自身の努力により、生徒に彼の心を清めさせることです。彼をなだめすかすため、それらは彼に楽しみをもたらすと言われています。それら自体は意識がないので、自発的に結果を生み出せません。そのため、全能であるイーシュワラが行為の結果を分配すると言われています。このようにしてイーシュワラが舞台に登場します。後に、聖典はジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット(世界)が等しく全て虚偽であると言います。

 (168)幻の産物であるイーシュワラは、眠りの産物である夢の対象物以上に現実的ではありません。彼は無知の産物であるジーヴァ、もしくは、眠りの産物である夢の対象物と同じ範疇にいます。

弟子:(169-174)
 聖典はイーシュワラはマーヤーの産物であると言います。彼がどうして無知の産物であると言えるのですか。

師:
 我々が一本の木、もしくは、森全体について話すように、自らについての無知は、個別に、もしくは、全体的に働けます。全世界の全体的な無知がマーヤーと呼ばれています。その産物であるイーシュワラは、ヴィラートとして全世界の目覚めの状態で働きます。また、全世界の夢の状態でヒランヤガルバとして(働き)、そして全世界の深い眠りの状態で内に住まう者として(います)。彼は全知全能です。創造する意思に始まり、一切の生き物に入ることに終わり、これが彼のサンサーラです。個人の無知は単なる無知であると言われています。その産物であるジーヴァは、それぞれヴィシュヴァ、タイジャサ、プラージニャとして個人の目覚め、夢、眠りの状態において働きます。彼の知識と能力は限られています。彼は行為者であり、楽しむ者であると言われています。彼のサンサーラは、現在の目覚めの活動と最終的な解放の間にある一切から成り立っています。このように、聖典はイーシュワラ、ジーヴァ、ジャガットが全て幻であることを明確にしています。

弟子:(175-179)
 では、師よ。縄についての無知が蛇のみの幻を生じ得るのとまさしく同様に、人の無知も自分自身がジーヴァであるという幻を広げるかもしれません。しかし、どうしてそれが拡大され、イーシュワラとジャガットの幻も同様に創造し得るのですか。

師:
 無知は部分を持ちません。それは全体として働き、三つの幻を同時に作り出します。ジーヴァが目覚めと夢の状態で現われる時、イーシュワラとジャガットもまた現われます。ジーヴァが溶け込む時、他のものも溶け込みます。これは我々の目覚めと夢における(三つの)顕現と深い眠り、気絶、死、サマーディにおけるその消失の体験により証明されます。

 さらに、知によるジーヴァ性の最終的な消滅と同時に、他のものもまたそれと共に消滅させられます。無知がその付随する幻と共に完全に失われ、自らとしてのみ自覚する聖者は、直接的に不ニの現実を体験します。ですから、自らについての無知が三つの幻全て-ジーヴァ、ジャガット、イーシュワラ-の根本的原因であるのは明白です。

弟子:(180)
 師よ、仮にイーシュワラが無知の幻とするなら、彼はそのように現れるはずです。そうではなく、彼は世界の起源として、我々の創造者として現れます。イーシュワラとジャガットが共に幻の産物であるというのは筋が通っていると思われません。彼は我々の創造物として現れずに、我々の創造者として現れます。それは矛盾してはいませんか。

師:(181-183)
 いいえ。夢の中で夢見る人は、昔に亡くなった彼の父親を見ます。父親は彼自身によって夢の幻として創造されますが、夢見る人は一方の人は父親で、彼自身は息子と思い、彼自身の創造物である父親の財産を相続したとも思います。さあ、夢見る人がどのように個々人と物事を創造し、彼自身をそれらと関連付け、それらが以前からあり、彼が後からやって来たと思うのか見なさい。これは不可能を可能にするマーヤーの奇術に過ぎません。

弟子:
 マーヤーはどうしてそれほど強力なのですか。

師:
 何の不思議もありません。どのように普通の魔術師が一切の観衆に空中にある天空都市を見せられるのか、もしくは、どのようにあなた自身が夢の中にあなただけの素晴らしい世界を創造できるのか見なさい。そのようなことが劣った力の個々人に可能ならば、どうして全世界の本質的な原因であるマーヤーにその他のことが可能ではないのでしょうか。結論すると、イーシュワラ、ジーヴァ、ジャガットを含む、この一切は、人の無知から生じ、唯一の現実である自らの上に付加された幻の見せかけです。

 これは我々を付加を取り除く道を考えるように導きます。

(*1)アドヤーローパ・・・adhyaropa、文字どおりの意味は「虚偽の見せかけ」。付け加えられたもの。
(*2)ターパトゥラヤ・・・①自分の体と心から起こる苦しみ(病気、痛み、怠惰など)。②外界から起こる苦しみ(動物、人間、自然災害など)③超感覚的な神々や幽霊などから起こる苦しみ
(*3)プラダーナ・・・文字どおりの意味は「前に置かれたもの」で、「世界の元になるもの、物質的原因」
(*4)アヴヤクタ・・・文字どおりの意味は「顕現しない・形を欠く」
(*5)形態・・・英語の「mode」の訳。「存在の仕方、特定の状態」などとも訳せる
(*6)ピトリス・・・文字道理の意味は「父」、亡くなった先祖の霊
(*7)イーシュワラ・・・文字どおりの意味は「全世界の主」。ブラフマー(創造者)、ヴィシュヌ(維持者)、シヴァ(破壊者)の3つの姿で現れる人格神。別に、サグナ・ブラフマンとも言う。
(*8)4種のムクティ・・・サーローキャは「神と同じ世界に住むこと」、サミピャは「神と個人的に交際すること(神の近くに住むこと)」、サルピャは「神と同じ体を持つこと」、サユジャは「神と一体になること」