ラベル 仏教 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 仏教 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年7月18日火曜日

真の自らの探求 - 我々の内なるキリスト、移ろうことなきアッタを求めよ

◇「山の道(Mountain Path)」、1968年10月、p271~273

 真の自らの探求

 マックス・ホッペ
マックス・ホッペ氏(ブラザー・ダンマパーラ)は、西ドイツ、a.A.、ウッティング、8919、古代仏教共同体(Altbuddhistische Gemeinde)の長です。仏教とヴェーダーンタの多くの生徒、そして、西ドイツのシュリー・バガヴァーンの数人の信奉者もまた、この僧院の中に安らかな隠遁所を見出しています。マックス・ホッペ氏はその地域における我々の機関紙の熱心な仲介者でもあります。

 苦しみの中で、我々は我々自身に委ねられています。我々の悲しみ、我々の痛み、我々の不眠を誰も我々から取り除くことはできません。それらは我々自身の応答を要求します。それらは我々を苦々しさへと駆り立て、我々を感情的気質および身体的状態の奴隷にするか、もしくは、我々の理解の助けとなり、それによって本当の幸福への扉を我々のために開きます。マイスター・エックハルトの言葉によれば、「苦しみは、我々を完成へと運ぶ最速の馬である」。

 変容させる理解、すなわち、ブッダの教説の中に見られる苦しみの理解に導くゆえに、実り多きものとなる苦しみは、ハンス・ムッフによる以下の言葉の中に、見事な方法で特徴づけられています。「推進力は抵抗によって理解されるでしょう-原初の永遠なる存在は、無常の苦しみによって(理解されるでしょう)。無常の苦しみは、我々が不滅であると思い出させるものです」。

 K.O.シュミットは、彼の本、Dir ist das Licht(あなたの内にある光)の中で、49人の偉大な宗教的天才の人生と教えをその特有の輝かしい側面において我々の前に提示しています。近代における最も偉大な聖者、シュリー・ラマナ・マハルシ(1879-1950)もまた、発言の機会を得ています。彼の記述の中で、K.O.シュミットは言います。「デルフォイのアポロン神殿の入り口の上にそびえ立っていた、ギリシャの哲学者タレスの言葉、『グノーティ・セアウトン』-『汝自身を知れ』-は、マハルシの卓越した要求、『汝の自らを知れ』によって深みと質を増しています。なぜなら、哲学者の忠告は『私』の行動条件や指針、傾向、弱点や欠点、力と限界の認識を目指しますが、神秘家は超越的な、真実の、すなわち、神聖な自らを目指します。その光輝の中に、つかの間の『私』は消え去り-それと共に、一切の疑問、一切の不確かさと悲惨は(消え去ります)」。

 「神性の驚異を見通したいと欲する者は誰でも、彼自身の内から、彼の知恵を容易に引き出すだろう」とマイスター・エックハルトは我々に宣言します。そして、ヤーコプ・ベーメは言います。「あなたはどこに神を探したいのですか。星々の上にある深みの中ですか。そこにあなたは彼を見つけないでしょう。あなたのハートの中に、あなたの存在の中心に彼を探しなさい。そこにあなたは彼を見つけるでしょう!」。この自らの探求、アートマ・ヴィチャーラのために、シュリー・ラマナ・マハルシは、「私は誰か、私は何か、私はどこにいるのか」という質問、解決を要求する現在の存在から発する質問によって、明確な出発点を提供しています。

 シュリー・ラマナ・マハルシの著名な学者、アーサー・オズボーンは、これに関連して言います。「自らの探求へのこの呼びかけは実践的な鍛錬法であり、心理的内省とは何の関係もありません。それはさらに遥か深いものです。それは衝動や動機の問題ではなく、同上のもの(衝動や動機)の根底にある自らを求める問いかけなのです。」

 上に言及したK.O.シュミットの本の中で、以下のように書かれています。「自ら-すなわち、我々の本質の最奥の核、高き自ら、エマーソンの『オーヴァー・ソウル』とは、我々の内なる神聖なる火花です。そして、その探求は、それでない一切のものを取り除くことによって、そして、『私は誰か』という絶え間ない問いによって始められ、終には私は在るに、自らに通じます。正しい角度からそれを見れば、この探求はキリストの要望の成就以外の何物でもありません。『神の王国と彼の義をはじめに求めなさい。そうすれば、他の全てはあなたがたに加えられるでしょう』。この神の王国は我々の内にあり、それは神聖な自らの輝かしい王国、もしくは、キリスト教の神秘家たちがそう呼ぶような『我々の内なるキリスト』です」。

 これらの言葉の後、力強い結論を備えたブッダの偉大なメッセージへと我々は向かいます。

 「私が見る生じ、滅するもの、そして、この無常の結果として、私に苦しみをもたらすもの、それが私の自らであるはずがない。私自身に関する、私自身の周りで認識されるであろう一切が生じ、滅し、それによって私に苦しみをもたらすのを私は見る。それゆえ、認識されうる何物も私の真の自らではない」。

 すでにエフェソスのヘラクレイトスは、「万物は流転する」と理解し、普遍的な無常を以下の言葉で説明しました。「同じ川へと我々は足を踏み入れては、出てゆくが、それは我々自身であって、我々自身ではない」。彼の生徒の一人はもはや起こっている一切のこの絶え間ない急速な変化をあえて言葉で表現しようとせず、ただ最後に象徴的に指をパチリと鳴らしました。全現象の錯覚を起こさせる性質、非実体性を見た人はいつも多く存在するため、多くの人は私がかつてある墓石上に読んだものに感動を覚えるかもしれません。「世界は行為し続け、人々は去来する-あたかもあなたが一度も存在していなかったかのように、あたかもかつて何も起こらなかったかのように」。

 さらに賢明な人々は、あらゆるものは我々が手につかもうと思うと文字通り消え去り、まさしくそれ故に我々が愛着するであろうものはどれであれ全て、本質的な私、すなわち、自らを意味しないことを常に認識しています。我々が物事を個別に分離して見るとき、何物も永遠の価値を認められていません。それゆえに、常々、より深い洞察力を持つ人々は悲惨な状態、涙の谷間(悲しみの多い人生)について語っています。ブッダ、完全に目覚めし者は、しかしながら、現実の他の側面も見ています。目覚めに通じる瞑想において、全ては我々がこれらの移ろいゆく要因を我々の自らでないと、真の自らでないと明確にみなすことにかかっています。完全に目覚めし者は、古代パーリ聖典の経典、サンユッタ・ニカーヤの中でこれを明確かつ率直に言います。「移ろいゆくものは苦痛である。苦痛であるものは、アン・アッタである(アッタでない、自らでない)。アン・アッタが意味するは-それは私に属していない、それは私ではない、それは私の自らでない」。

アナッタ・ラッカナ・スッタ(非我相経)

 これを心に留めて瞑想する者は誰でも、揺れ動かず、難攻不落なるものの実現を彼自身の内にさらにさらに体験し、それによって、一切は、実のところ彼に全く属していない、非本質的なものとして抜け落ちます。ブッダの言葉は最奥の体験となります。「タターガタ(我々自身の内なる達成者)は大海のごとく深く、果てしなく、計り難い」。そして、これは我々を広げ、解放します。愛と慈悲は、我々がブッダの道を進むにつれて養われ、深い哀れみの感情が目覚め、我々がを我々の周りに心の喜び見るときも喜びが生じます。この体験の幸福はいつも繰り返しスッタの中で強調されています。「この教説は始まりで幸福にし、中ほどで幸福にし、終わりで幸福にする」。

 この態度において、我々の人生行路上の全てのものは我々にちょうど適したように自ずと整います。これは我々に正しい平静を与えますが、しかし、まさにここで、鈍感な無関心から我々をはるか遠ざけます。そうして、認識の上に成り立った自信、行く手に持続する喜びを与える自信が結果として我々に生じます。

 ジョージ・グリムによって適切な比喩が与えられています。彼は言います。「荒れ狂う滝のしぶき飛び散る水滴は雷のように速く変化していますが、虹-それを支えるものが水滴ですが-は、太陽自体-その反射が虹ですが-と共に、変わらずに穏やかに動かないままあり、この落ち着きのない変化に影響されないのとまさしく同様に、そのように、我々の人間存在の構成要素、いやむしろ、サンサーラ(再誕の循環)として互いにつながれた我々の無数の人間存在全体もまた、休みなく変化していますが、超越的な自らの反射としての私という思い-それを支えるものが無数の人間存在ですが-、および、この超越的な自らも、どれほど多くの我々の目が死によって閉じられようとも、永遠の存在の中のこの継続的な変化に完全に影響されないままあります。それ(自ら)は世界を、世界の生起と消滅を、それ自体それにより影響されずに、眺めています。

 移ろいやすく、もろく、それゆえに究極的には常に苦痛を与える、我々の人間存在を構成する属性は自らでないという体験から、内から本当に理解されるアン-アッタの見解は、Buddhistische Meditationen(仏教徒の瞑想) の中のジョージ・グリムの言葉によって明らかになります。

 「山ほどある人間存在の変化は我々を通り過ぎ流れている小川でしかありませんが、しかしながら、我々自身を運び去ることはできず、むしろ、我々は動けずに現在におり、その結果、どれほど多くの我々の目が死によって閉じられようとも、終わりなき時の間、何の価値も持たない『今』が常々我々の運命になるでしょう。人間存在の所有を渇望する我々の意思が消え去らないまでは、つまり、我々が我々であるものであることをやめ、我々でないものになるまでは、この苦悶に終わりはありません。これを見通し、その意思がそれゆえにさらにさらに消し去られている善良で賢明な人は、常に至福の境地により近づきますが、愚者にとってそれはいつも遠く離れたままです」。

2016年4月7日木曜日

時々聞きたくなる御経 - 修験道 読経 

修験道 読経




大日如来真言
アービラウンケン・バーサラ・ダートーバーン

釈迦如来真言
ナマク・サマンダ・ボダナン・バー

阿弥陀如来真言
オン・アミリタ・テイセイ・カラウン

薬師如来真言
オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカー

地蔵菩薩真言
オン・カーカーカ・ビサマエイ・ソワカー

文殊菩薩真言
オン・アラハシャーナー

普賢菩薩真言
オン・サンマヤ・サタバーン

観世音菩薩真言
オン・アロリキャー・ソワカー

弥勒菩薩真言
オン・マイタレイヤ・ソワカー

勢至菩薩真言
オン・サンザンザンサク・ソワカー

龍樹菩薩真言
オン・キャダウン・バッター

法起菩薩真言
オン・ダルマー・ウチター・ソワカー

愛染明王真言
オン・ウン・ダキ・ウン・ザー・ウン・シッチー・ソワカー

孔雀明王真言
オン・マユラギ・ランテー・ソワカー

金剛童子真言
オン・キャニドニ・ウン・バッター

降三世明王真言
オン・ニソンバ・バサラ・ウン・バッター

蔵王権現真言
オン・バギリユー・ソワカー

三宝荒神真言
オン・ケンバヤ・ケンバヤ・ソワカー

毘沙門天真言
オン・ベーシュラマダヤー・ソワカー

弁財天真言
オン・ソラソバテイエイ・ソワカー

大黒天真言
オン・マカキャラヤー・ソワカー

歓喜天真言
オン・キリク・ギャク・ウン・ソワカー

不動明王・慈救真言
ナーマク・サーマンダー・バーサラナ
センダー・マーカロシャーナー・ソワタヤ・ウン・タラター・カン・マ(ー)ン

不動明王・火界真言
ナーマク・サールヴァ・ターター・ギャーテー・ビャーケ
サールヴァ・モッケー・ビャーケ・サールヴァ・ターター・ターター
センダー・マーカロシャーナー・ケーン・ギャーキ・ギャーキ
サールヴァ・ビギナー・ウン・タラター・カン・マーン

<五大尊明王の勧請>
東方に降三世夜叉明王
南方、軍荼利夜叉明王
西方、大威徳夜叉明王
北方、金剛夜叉明王
中央に大日大聖不動明王

今上天皇・玉体安穏

天下泰平・五穀成就

講中安全・業運繁栄

家内安全・息災延命

七難即滅・七福即生

法力成就・法満ボーロン

所願成就・皆令満足

<天魔偈>
天魔外道皆仏性
四魔三障成道来
魔界仏界同如理
一相平等無差別

<不動明王の誓願>
見我身者 発菩提心
聞我名者 断悪修善
聴我説者 得大智恵
知我心者 即身加持

三部総真言
オン・アサバー・ソワカー

諸天総真言
オン・ロキャロキャ・キャラヤー・ソワカー

一字金輪真言
ナマク・サマンダ・ボダナン・ボローン

南無神変大菩薩

2015年10月17日土曜日

ゴータマ・ブッダとラマナ・マハルシ - 賢者は同一の真理を語る

◇『The Call Divine(召命)』 Volume V、Book 5、1957年1月1日、p207~209

論文集-聖者たち

21. ブッダ

シュリー・R.P.チョウドリー著、ラングーン

 ブッダとシュリー・ラマナ・マハルシの教えの間には多分に類似性が存在します。ライオンたちが同じように吼えるのとまさしく同様に、賢者たちは同一の真理について語ります。

 悟りを得るとすぐに、ゴータマは有名な最初の説法を行い、ダルマチャクラ(法輪)を転じ始めました。ドゥッカ(苦)は存在の根本的な事実であり、仏教はこの苦しみという軸の周りを回転します。救いの体系の中の苦しみという事実の重要性を強調する必要はありません。「永続的でないものは、苦しみである」。苦しみは人生の重要な事実ですが、そこから逃れることは可能です(そのため、仏教は悲観的な宗教ではありません)。

 最初の説法で、ブッダは有名な四つの崇高な真理(四聖諦)-①苦しみ(苦)、②その原因(集)、③その消滅(滅)、④その消滅に通じる道(道)を説きました。苦しみの原因は渇望、タンハーであり、八つの道(八正道)に従うことによる、その完全な消滅は、苦しみの原因と共に苦しみを終わらせます。

 
四分で分かるブッダの四聖諦

 さて、質問が生じます。誰が苦しむのか。誰のタンハーなのか。その答えは、「自らならざるものの徴についての教説」と題する第二の説法で与えられます。

 ブッダは、「体(ルーパ)は、おお、比丘たちよ、自らではありません。それは病にかかりやすく、『私の体がこのようでありますように、あのようでありませんように』と我々は言えないため、それが自らであるはずがありません。体は自らでないため、病にかかりやすく、『私の体はこのようでありますように、あのようでありませんように』と我々は言えません」と言うことで始めました。これらの発言は、個人の構成要素である五つのスカンダ(五蘊)全て-ルーパ、物質または体(色)に加え、ヴェーダナー、感覚(受)、サンジニャー、認識(想)、サンスカーラ、心の作用因(行)、ヴィジニャーナ、意識(識)-に適用されます。その後で、ブッダは尋ねます-「あなたがたはどう思いますか、おお、比丘たちよ、体などは永続的ですか、それとも、永続的ではありませんか」。「永続的ではありません、主よ」と比丘たちは答えました。「永続的でないものはスカ(楽)をもたらしますか、ドゥッカ(苦)をもたらしますか」。「ドゥッカをもたらします、主よ」と比丘たちは返答しました。「では、苦しく、変化を被るものを見て、『これは私のものである。これは私である。これは私の自らである』と言うことは、適切ですか」。「いいえ、主よ」と比丘たちは答えました。「それゆえに、おお、比丘たちよ、どのようなルーパetcであれ、過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、内にあるものであれ、外にあるものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、良いものであれ、悪いものであれ、遠いものであれ、近いものであれ、全てのルーパetcはこのように見なされるべきです-『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の自らではない』。そのようにみなし、おお、比丘たちよ、気高い弟子はスカンダに無関心になります。無関心は離欲を生じ、離欲は解放に通じます」。(Disinterestedness>Dispassion>Deliverance、D³)

 別の機会に、上の説法を繰り返した後、ブッダは直喩を述べ、スカンダが我々にとっていかに無縁なものかを示します。「ある人が祇園精舎で巻き藁を集め、それを積み重ねて山にする時、その人が我々を積み重ねて山にしつつあると思う比丘は誰もいないでしょう。また、巻き藁の山に火がつけられている時に、我々が燃やされつつあると思う比丘は誰もいないでしょう。同様に、スカンダは我々とは全く別のものです。しかしながら、我々は愚かにもアナートマンである体と心を我々のまさしく自らとみなし、そのために、我々は苦しみます」。

 ブッダの最初の二つの説法は、彼の主な教えをまとめ上げています。例えば、有名な因果法則、プラティーティヤサムトパーダ(縁起)は、苦しみの原因についての第二の崇高な真理の中に暗示され、仏教の倫理は崇高な八つの道の中に凝縮されています。

カラニーヤ・メッタ・スッタ-慈愛(パーリ語のカラオケと英語の意味)

 「自らでない」を明白に意味する「アナートマン」という言葉は、「自らはない」を意味すると仏教徒にたいてい受け取られていて、自らは存在しないとブッダは説いた-彼は自我である自らを拒んだだけでなく、普遍的な自らも否定した-と主張されています。しかしながら、そのような結論は、上に引用した聖句によって是認されません。それによれば、ブッダが述べた全ては、どのスカンダも決して我々の自らとみなされるべきではないということであり、そこから導かれる唯一の論理的な結論は、一切のスカンダが完全に取り除かれている時、残るものは自らであるということです。束縛は自らならざるスカンダを自らとみなすことに存し、解放はスカンダを自らと脱‐同一視することによって得られます。アートマンを得るためには、解放への道をふさぐ自我である自らを拒否することが必要です。

 仏教はヒンドゥー教徒によって異端の烙印を押されてきました。しかしながら、仏教がバラモン教と異なるのは非本質的なところです。つまるところ、話す言葉は違えども、全ての国の賢者は同一の永遠の真理を宣言します。
 
 古くから続く同一の真理が、最も新たな賢者、自らなる現実の生ける化身であったシュリー・ラマナ・マハルシによって、再び語られています。彼に敬礼を!

2014年7月31日木曜日

空性(スンニャター) - スワバーヴァ・スンニャとプラパンチャ・スンニャ

◇「山の道(Mountain Path)」、1988年7月 p160~161

スンニャと知恵

G.ナーラーヤン

 教育と科学において、人は頻繁に開かれた心の必要性について話します。新たな資料を受け取り、新たな状況を観察し、提供された証拠を比較考量し、それに応じて態度や見解を変えるためには、見解や先入観にとらわれないでいる必要があります。開かれた心は、その見方において論理的である上に理性的です。これは、科学と人文学の両方において、学び、発見するための重要な取り組み方です。

 知識は、必要であり、役立ちますが、いつも限界があります。誰も何についてであれ完全な知識を持ちません。ある程度の知識はありますが、それと共に、無知の影があります。我々は、人間や動物や植物であれ、何であれ生きているものを知識を通じて完全に理解することはできません。ですから、人は過去の知識と経験の重圧なく、新たに見ることを習わなければなりません。空っぽの心とは、無選択の自覚を通じて、それ自体をこの条件付けから解放しています。良い音色の空っぽの太鼓のように、それは傾聴するために見事に調律されていて、正しい調べと音を出します。傾聴において、解放があり、それから正しい行動が現れます。空っぽの心はそれ自体を新たになものにするため、それは若く、爆発的に現在に変じることができます。

 「私は誰か」という永遠の問いかけがあります。私は記憶や希望や恐れのかたまりである。私はいくらかの知識と経験を得た。あなたがさらに調べると、家の中央の梁(はり)のように「私」という思いがあります。経験、知識、記憶は、この「私」という思いに関係しています。それでは、「私」という思いとは何でしょうか。あなたがそれを調べれば調べるほど、それは無の領域にいっそう後退します。それは実体ではなく、架空の過程です。

 禅仏教に興味深い話があります。ある裕福な商人は、ある禅師の弟子です。彼の心は混乱し、落ち着きなく感じます。彼は動揺し、この問題を解決できません。それで、彼は禅師のもとへ行き、報告します。「私の心は混乱しています。どうぞ私に安らぎをお与えください」。禅師は答えます。「あなたの心を出して見せなさい。そうすれば、私がそれに安らぎを与えましょう」。弟子が自分の心を注視すると、心は彼の支配から逃れ、無の領域に後退します。心という過程は消え、突然の悟りと安らぎがあります。それは言葉で捉えることのできない実存的跳躍です。

 ラマナ・マハルシのような真理を悟った聖者は、この死の体験を経て、自我を超越し、「私は体でも、心でもなく、不死なる精神である」と宣言しました。これは知識や学識の成果ではなく、ましてや知的分析の結果でもありません。そのような洞察は、知性のまさにその源であり、瞑想の中でそれ自体を空っぽにしている心と密接に関係しています。永遠の現在に住む、そのような聖者から、偉大なる祝福が発っせられます。

摩訶般若波羅蜜多心経、プラジニャー・パーラミター・フリダヤ・スートラム(ハート・スートラ)

 語源的に、「スンニャ」という言葉は、「膨らむ、広がる」を意味するスヴィという語根に由来しています。スンニャは、充溢を受け入れる虚空です。ブッダはスンニャター(*1)について語りましたが、それを詳細に説明したのは、偉大な仏教の聖者、ナーガールジュナ(紀元1世紀)でした。理解しなければならないスンニャターの本質的な二つの側面があります。現象的世界において、それはスワバーヴァ(*2)・スンニャであり、それ自身の独立した、本質的な現実性を欠いていることを意味します。無条件に、絶対的に現実であるものは、ただの一つも存在しません。あらゆるものは混成され、何か他のものに条件づけられています。それは相対性の領域です。世界は独立したものの集合体ではなく、変化し、関わり合う一連の過程です。物事とは、単に、この過程の中の出来事(事象)です。

 絶対なるものの見解からは、スンニャターはプラパンチャ(*3)・スンニャを意味します。それには思いの構築、言語化、結果として生じる複数性がありません。そのため、それは人間の言葉では、「ある」や「ない」という言葉では表現できません。スンニャターには複数性がないため、それは部分に分解できない不可分の統一体です。スンニャターは理論や信仰ではなく、深遠な洞察的体験です。それはそれ自体が目的ではなく、心をプラジニャー(超越的な知恵)へ導くための手段です。この洞察から、相対的、現象的世界に現実なるもの、絶対なるものとしてしがみつくことない巧みさが生まれるために、幻からの解放があります。

 人はスンニャターの本質、スンニャ‐タットヴァとは何か知りたいと思います。それはナーガールジュナの「アパラプラトヤヤム・シャーンタム・プラパンチャイル・アプラパンチタム・ニルヴィカルパム・アナーナールタム・エータット・タットヴァシャ・ラクシャナム」(*4)引用することによって最もうまく説明されます。
  1. アパラプラトヤヤムは、一方によって他方に教えられたり、分け与えたりできない洞察を意味します。
  2. シャーンタムは、経験に基づく心によって影響されない静止した性質を意味します。
  3. プラパンチャイル・アプラパンチタム:それは言葉で表現する心によって表現できません。
  4.  ニルヴィカルパム:それは思いとその投影物を超越しています。
  5. それはアナーナールタムであり、不二を意味します。
    スンニャターは、明晰さの成果である、より優れた形の知性を手に入れることができます。それは単なる賢さや能力ではありません。正しい思考と正しい行動がこの知性から流れ出ます。ナーガールジュナはスンニャターを理論や概念に変えないようにと我々に警告します。「ブッダによって、スンニャターは一切の見解や主義を不要とするために言明された。スンニャターそのものをもう一つの主義に変える者たちは、まったく見込みがなく、手の施しようがない」。

(*1)スンニャター・・・パーリ語。サンスクリット語ではシューニャター。スンニャ(空)+ター(性質)、空性。
(*2)スワバーヴァ・・・サンスクリット語。パーリ語ではサバーヴァ。スワは「自ら」、バーヴァは「成ること」。本質、自性。
(*3)プラパンチャ・・・サンスクリット語。パーリ語ではパパンチャ。現象的世界、その苦しみと幻惑。
(*4)ナーガールジュナ著、『ムーラマドヤマカーリカー(中論)』、第18章「アートマパリークシャ」、第9詩節

2014年2月6日木曜日

ヒンドゥー教の精華、ブッダ - 内を見よ、汝がブッダである

◇「山の道(Mountain Path)」、1986年4月 p103、104

ブッダ - ヒンドゥー教の精華


スワーミー・ニルマラナンダ

 インド彫刻のおいて他の全ての神々は様々な姿勢で表現されますが、ブッダはいつも瞑想して座っているように表されます。それは彼のこの上ない瞑想の技術の卓越性を物語り、その点で彼に並ぶ者はいません。何百年もの間、ブッダの穏やかで輝かしい顔は、芸術の傑作の創作のために彫刻家が最も好むテーマであり、全歴史において、幸福な人、世に尊ばれる人(ブッダ)のように人間の心の究極的な完成について語った師はいません。

 ブッダの表情に見られる控え目なほほ笑み、O.C.ガンゴリーの言葉によれば、「光り輝く光輪」、もしくは、静穏のただ中の動きの感覚-モーリス・メーテルリンクが呼ぶ「活発な沈黙」という性質(バガヴァッド・ギーターの言葉では、「無為の為」)-、それは彼の説法として役立ち、同時に、人の究極的な目的が幸福であり、それが得られうることを彼が保証する印として役立ちます。そのほほ笑む知恵は、知性と心を同時に燃え立たせることにより、人を世俗的世界から持ち上げ、至福と静穏の天の住まいに住まわせ、一体性の中にすべてを抱く広く開いた心によって愛と慈悲の果てしない大海へ住まう道を人に示します。ブッダは言いました-「真理を知る者は私の教えを知る」。偉大なシャンカラが、「プラチャンナ・ブッダ」、変装した仏教徒というあだ名で呼ばれるのは意味のないことではありません。インドの他の全てのリシのように、ブッダはまさしくリシであり、ガンゴリーの言葉を再び借りるなら、「十分な資格のあるダルマの伝道師、グル・ブッダ、知恵の師、全世界へ不死の神酒を恵み深く配る者としてサンシャーシンの薄く透けるようなローブを身にまとって」います。


Imee Ooi、「オーム・マニ・ペメ・フーム」

 全生命への限りない慈悲によって、ブッダは動物の生贄(いけにえ)という悪しき風習を非難しました。ブッダはまたヴェーダの権威を退けました。それどころか、彼はどんなものへの盲目的信仰も退けました。それがいかに神聖であり、信頼のおけるものであってもです。彼は人の内なる体験に基づく明瞭な理性的な思考を最も重要視しました。ブッダは神や神々について問われた時、沈黙を保ちました。「卵が先か、鶏が先か」というきりのない論争に入ることは全くの時間の無駄ではないですか。ブッダによって説かれるまことに高貴な沈黙は、個人的な悪意を持って向かい合う二人が頼る邪な沈黙とは区別されます。毎朝、ブッダは、誰かが自分自身の灯に火をつけ、それによって彼の教えから利益を得てはいないか、その神聖な眼で世界を見渡すと言われています。

 簡素な自らの自覚の内に、完全な自己犠牲、それゆえに、自由と万物への慈悲があり、ブッダによれば、それが宗教の真髄です。ブッダはまさしく慈悲の主、全生命の真の同伴者、彼自身の信仰や思想を含めた一切の物事において極端を避ける中道の提唱者です。

 ブッダは、エドウィン・アーノルドが呼ぶように「アジアの光」であり、最も偉大なインドの息子、人類愛の優しい精華、ジャガット・グル(世界の師)、恵み深く与える者、人の心の病を治せる医者であり、なによりも、彼はアジアと世界への母なるインドの最大の贈り物です。ブッダの知恵は幾世紀の後も確固たるままであり、彼の教えは何千年後もまたそのようにあり続けるでしょう。ブッダは全ての人の心の中に住んでいます。なぜなら、彼は単に歴史的なブッダであるだけでなく、バガヴァッド・ギーターやウパニシャッドが自らとして語る全ての人の中の不滅の本質であるからです。

 永遠の自らが実現されている時、死すべき人間は不死となります。我々はこの格言をよく覚えておくべきです。

石のブッダは微塵に砕け
金(かね)のブッダは鉱炉に溶く
土のブッダは水に溶け
木のブッダは火にて灰に帰す
真のブッダのみが永久(とわ)に生く

真のブッダとは誰ですか。答えは-内を見よ、汝がそのブッダである!