ブッダ - ヒンドゥー教の精華
スワーミー・ニルマラナンダ
インド彫刻のおいて他の全ての神々は様々な姿勢で表現されますが、ブッダはいつも瞑想して座っているように表されます。それは彼のこの上ない瞑想の技術の卓越性を物語り、その点で彼に並ぶ者はいません。何百年もの間、ブッダの穏やかで輝かしい顔は、芸術の傑作の創作のために彫刻家が最も好むテーマであり、全歴史において、幸福な人、世に尊ばれる人(ブッダ)のように人間の心の究極的な完成について語った師はいません。
ブッダの表情に見られる控え目なほほ笑み、O.C.ガンゴリーの言葉によれば、「光り輝く光輪」、もしくは、静穏のただ中の動きの感覚-モーリス・メーテルリンクが呼ぶ「活発な沈黙」という性質(バガヴァッド・ギーターの言葉では、「無為の為」)-、それは彼の説法として役立ち、同時に、人の究極的な目的が幸福であり、それが得られうることを彼が保証する印として役立ちます。そのほほ笑む知恵は、知性と心を同時に燃え立たせることにより、人を世俗的世界から持ち上げ、至福と静穏の天の住まいに住まわせ、一体性の中にすべてを抱く広く開いた心によって愛と慈悲の果てしない大海へ住まう道を人に示します。ブッダは言いました-「真理を知る者は私の教えを知る」。偉大なシャンカラが、「プラチャンナ・ブッダ」、変装した仏教徒というあだ名で呼ばれるのは意味のないことではありません。インドの他の全てのリシのように、ブッダはまさしくリシであり、ガンゴリーの言葉を再び借りるなら、「十分な資格のあるダルマの伝道師、グル・ブッダ、知恵の師、全世界へ不死の神酒を恵み深く配る者としてサンシャーシンの薄く透けるようなローブを身にまとって」います。
Imee Ooi、「オーム・マニ・ペメ・フーム」
全生命への限りない慈悲によって、ブッダは動物の生贄(いけにえ)という悪しき風習を非難しました。ブッダはまたヴェーダの権威を退けました。それどころか、彼はどんなものへの盲目的信仰も退けました。それがいかに神聖であり、信頼のおけるものであってもです。彼は人の内なる体験に基づく明瞭な理性的な思考を最も重要視しました。ブッダは神や神々について問われた時、沈黙を保ちました。「卵が先か、鶏が先か」というきりのない論争に入ることは全くの時間の無駄ではないですか。ブッダによって説かれるまことに高貴な沈黙は、個人的な悪意を持って向かい合う二人が頼る邪な沈黙とは区別されます。毎朝、ブッダは、誰かが自分自身の灯に火をつけ、それによって彼の教えから利益を得てはいないか、その神聖な眼で世界を見渡すと言われています。
簡素な自らの自覚の内に、完全な自己犠牲、それゆえに、自由と万物への慈悲があり、ブッダによれば、それが宗教の真髄です。ブッダはまさしく慈悲の主、全生命の真の同伴者、彼自身の信仰や思想を含めた一切の物事において極端を避ける中道の提唱者です。
ブッダは、エドウィン・アーノルドが呼ぶように「アジアの光」であり、最も偉大なインドの息子、人類愛の優しい精華、ジャガット・グル(世界の師)、恵み深く与える者、人の心の病を治せる医者であり、なによりも、彼はアジアと世界への母なるインドの最大の贈り物です。ブッダの知恵は幾世紀の後も確固たるままであり、彼の教えは何千年後もまたそのようにあり続けるでしょう。ブッダは全ての人の心の中に住んでいます。なぜなら、彼は単に歴史的なブッダであるだけでなく、バガヴァッド・ギーターやウパニシャッドが自らとして語る全ての人の中の不滅の本質であるからです。
永遠の自らが実現されている時、死すべき人間は不死となります。我々はこの格言をよく覚えておくべきです。
石のブッダは微塵に砕け
金(かね)のブッダは鉱炉に溶く
土のブッダは水に溶け
木のブッダは火にて灰に帰す
真のブッダのみが永久(とわ)に生く
真のブッダとは誰ですか。答えは-内を見よ、汝がそのブッダである!
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