2014年2月9日日曜日

バクティはジニャーナの母である - バクティとジニャーナのサーダナ

◇「山の道(Mountain Path)」、1976年4月 p96~98

バクティはジニャーナ・マーターである


 M.サダーシヴァ・ラオ博士

 一般的には、バクティの道の神の名への瞑想は、ジニャーナの道の自らへの瞑想よりもより簡単で分かりやすいと思われています。実のところ、サーダナ、つまり、聖なる修練としてのバクティ瞑想に関して、公にされた情報はほとんどありません。バガヴァーン・ラマナ・マハルシが自らの探求を説くまでは、ジニャーナ瞑想の正確な性質はさらにもっと不明瞭なものでした。13世紀以降に生きたマハーラーシュトラの偉大な聖者たちが、今日知られているようなバクティの道を明らかにし、彼らによって作られ、今日まで受け継がれる見事なバジャン、つまり、献身を表す歌を通じてそれを広めました。それらはバクティの道の主要な情報源であり、非常に気持ちを鼓舞するものです。それらのバジャンにおいて、聖者たちはバクティの道を詳しく述べただけでなく、彼らの絶対的な体験を語ることによって、バクティ・サーダナを一端をうかがわせました。絶対的な体験とはジニャーナであり、バクティ・サーダナが、神への強烈なバクティ、つまり、献身という最初のアプローチに関して以外、その本質において自らの探求と異ならないことを示唆しています。

 バガヴァーンは言いました。「バクティはジニャーナ・マーターである(バクティはジニャーナの母である)」(*1)。バクティの道はジニャーナに通じ、自らの探求もまたジニャーナにのみ通じます。バクティの目的は、神への完全な委ねと表現されます。バガヴァーンは、「完全な委ねは、ジニャーナの別名です」(*2)と言います。再び、彼は、「バクタが委ねと呼ぶものを、ヴィチャーラ(自らの探求)を修練する人はジニャーナと呼びます。両者とも自我を源へ連れ戻し、それをそこで溶け込ませようと試みています」(*3)と言います。神の名と形への瞑想に関して、彼は信奉者に言います。「あなたが『私は名と形である』と思う限りは、ジャパにおいてもあなたは神の名と形から逃れられません。あなたが『私は名と形ではない』と悟る時、名と形はひとりでに抜け落ちます。他の努力は必要ありません。ジャパやディヤーナは自然と、自ずから、それに通じます。(神の)名と神は異なりません」(*4)

 自らの探求と瞑想に関わる他の一切のサーダナの核心は、バガヴァーンによって以下のように説明されます。

 「ハートに住まう無知の形である『私』という思い(自我)が破壊されるまで、心はハート(自ら)の中に留められねばなりません。これがジニャーナです。これがディヤーナでもあります・・・。それゆえ、人が心を自らの中に保つ技術を獲得するなら、他のことを心配する必要はありません。」(*5)

 どのように心を自らに到達させ、留められるのかを示すために、以下の文章が学ばれるかもしれません。それは簡潔に集中の本質を表しているだけでなく、集中に適当なサーダナにも言及しています。

 「サーダナに関しては、多くの方法があります。あなたはあなた自身に『私は誰か』尋ねるヴィチャーラを修練するかもしれません。もしくは、それがあなたに魅力的でないなら、『私はブラフマンである』(へ)のディヤーナに携わるかもしれません。ないしは、他の方法では、あなたはジャパにおいてマントラや(神の)名へ集中するかもしれません。目的は心を一点に集中すること、一つの思いに集中し、そうして、多くの思いを排除することです。そして、我々がこれを行うなら、終には、その一つの思いさえ消え、心はその源で消え去ります。(*6)(斜体は著者による)

 ここで述べられたはじめの二つのサーダナは、ジニャーナの道に属し、次の二つはバクティの道に属します。最後の文は、両方の道を含むサーダナ全体を要約しています。それはより十分な理解のため、以下のように詳しく説明できます。

 瞑想は、一つの思い(自らの探求では「私」という思い、バクティでは神の名)への(内に向けられた)心の一点集中を修練することによって始られます。同時に、集中を妨げる、迷い出る全ての思いを閉めだすために努力が行われます。この修練によって、心は一点に集中し、迷い出る思いがなくなります。結果、瞑想はより深くなり、心は(聖なる)ハート、自らへ沈みます。自らは、純粋な(思いのない)意識です。ただ一つの思いは、思いのない状態で生き残れません。心がハートに留められるなら、心から自我が取り除かれ、自らの中に溶け込み(消滅し)ます。

 初心者のために、さらなる説明が必要かもしれません。心から迷い出る思いを取り除くはじめの修練の後、ただ一つの思い-「私」、または、(神の)名-への集中はより深くなってゆき、ついには心はハートに溶け込みます。その後、それはサマーディと呼ばれる一切の思いがないハートへの内在のみとなり、終には、人はそれが自分自身の普通の状態であると気づきます。これが自らの実現として知られているものです。言及されるハートはその名前の身体的器官ではなく、精神的中心、自らそのものです。自らは思いを越えてあります。どのような外側の対象物とも関係しない、ただ一つの思いは、心全体を深く内に運び、ハート、または、自らに沈みます。自らの知はそれを対象物として知ることではありません。それはヴァーサナーが取り除かれた心が自らに溶け込む時に、自らと一体であることです。サマーディ、思いのない状態での心の自らの中の内在は、自らへの絶対的な溶け込みをもたらします。純粋な心そのものが、自らです。それは純粋で、無限の(絶対的な)意識でもあります。

 自らの探求とバクティ瞑想の違いは、最初のアプローチにあります。ジニャーナの道のアプローチは、名や形のない神の非人格的な側面、すなわち、自ら、至高の実在に対してです。バクティの道では、アプローチは、名や形やその他の属性を持つ自分で選んだ人格神へです。自らの探求では、集中のために採用されるただ一つの思いは、「私」という思いです。瞑想が深く進む時、その思いは純粋になり、純粋な私、または、純粋な自覚へ帰着します。バガヴァーンはまた、眠りから目覚めるとすぐに経験される、その同一性や環境を意識するようになる前の過渡的な「私」の認識を推奨しました(*7)

 心全体が内に潜り、ハートに沈む時、完成が見出されます。それは自分自身の現実の生き生きとした体験です。瞑想やサマーディの間だけでなく、その後さえも、彼は彼自身を自らと一体として経験します。バクタは彼の神との一体性を感じますが、神の名と形は抜け落ちたでしょう。それらは思いのない状態では生き残れないからです。全ての二元性は、超越的な状態がはじめて経験される時に、一時的に消えます。未発達の心はハートに長く留まれず、二元性の世界にさ迷い出るでしょう。その経験が無努力で、自発的になるまで、それを深い瞑想において蘇えらすべきです。これはバガヴァーンによって、「自らに住まう」と呼ばれています。彼は信奉者に自らにいつも住まうように助言しました。それはタパスの最高の形であり、ヴァーサナーを取り除きます。更なる進展は、神、もしくは、グルの恩寵によります。バガヴァーンが指摘したように、「それ(恩寵)は実際あなたの内側に、あなたのハートの中にあり、(どのような方法によってでも)あなたがその源(ハート)での心の沈潜、もしくは、溶け込みを果たす瞬間に、恩寵が内から押し寄せます」(*8)。心が自らに溶け込んだ時のバクティ・サーダナの極致は、マハーラーシュトラの聖者たちによって様々な様子で美しく表現されています。聖者ジニャーネーシュワル(*9)曰く、「不死なる名は、サマーディの達成のためのサーダナである」。聖者ナームデーヴ(*10)曰く、「と私の間の一切の二元性が消える時、名はパラマートマン彼自身であると見出される」。聖者ゴーラ・クンバ(*11)曰く、「ニルグナへ達するために、私はサグナを通らねばならかった」。聖者トゥカーラーム(*12)曰く、「水の中の塩のように、私はおん身と一体となり、炎の中の樟脳のように、後に何も残さず、私はおん身の中に溶け込んだ」。

(*1)原注、『Day by Day with Bhagavan』、p39
(*2)原注、同上、p176
(*3)原注、同上、p38
(*4)原注、同上、p184
(*5)原注、「Self-enquiry」、p35
(*6)原注、『Day by Day with Bhagavan』、p30~31
(*7)原注、『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p275~279、288 ; 1937年1月3日、talk.314に「trasitional I(過渡的な私)」についての記述があります。
(*8)原注、『Day by Day with Bhagavan』、p31
(*9)ジニャーネシュワル・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Dnyaneshwar
(*10)ナーム・デーヴ・・・、http://en.wikipedia.org/wiki/Namdev、「kotobank」にナーム・デーオでのっています。
(*11)ゴーラ・クンバ(ル)・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Gora_Kumbhar
(*12)トゥカーラーム・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Tukaram、「kotobank」にのっています。

詩聖トゥカーラームのアバング



「アヌ・レニ・ヤ・トゥーカダ」、歌:Bhimsen Joshi
       
トゥカは言う、私は小さきものよりも小さいが、しかし、虚空を満たしている
私の体を超越し、私は私の死体を取り除いた。つまるところ、物質的世界は幻に過ぎない
私はこの物質的世界の三つ組を捨て去り、真の知でもって輝くようになった
トゥカは言う、今や私の存在は他者のためにのみある

1 件のコメント:

  1. 初めまして!
    素晴らしいブログですね。
    私もラマナマハルシを愛する者です。
    つい先日、私も明け渡しと真我探求の関係についてブログで書いたばかりです。
    同じことを、ラマナマハルシが伝えていることを、この記事で見つけることが出来ました。ありがとうございます。
    https://ameblo.jp/that-silence/entry-12712233902.html

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