2013年2月15日金曜日

肉体的要求の満足、二種の欲望、自らの探求と「アハム・ブラフマースミ」

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』

Talk 266. (p230~232)

ムスリムの教授(以下、信奉者):
 人は欲望を放棄すべきであると言われています。しかし、抑えがたい体の要求があります。どうすべきでしょうか。

マハルシ:
 大志を抱くものは、三つの必需品を備えなければなりません。それは、①イッチャー、②バクティ(献身)、③シュラッダー(*1)です。イッチャーとは、体への愛着のない(飢え、渇き、排泄のような)肉体的要求の満足を意味します。それがなされないなら、瞑想は進歩できません。バクティとシュラッダーはすでに知られています。

信奉者:
 二種類の欲望-より卑俗なものとより高貴なもの-があります。より卑俗な欲望をより高貴な欲望に変えるのは、我々の義務ではありませんか。

マハルシ:
 そうです。

信奉者:
 では、バガヴァーン、あなたは三つの必需品があり、その中でイッチャーは体などへの愛着のない自然な欲求の満足であると言いました。私は一日に3回か、4回の食事をとり、肉体的要求にとても注意を払っているため、体に虐げられています。私が体から離れ、肉体的要求という苦悩から逃れる状態は存在しますか。

マハルシ:
 有害であるのは愛着(ラーガ(*2)、ドゥヴェシャ(*3))です。行為そのものは悪くありません。3回か、4回食べることに害はありません。ただし、「私はそういう食べ物じゃなくて、こういう食べ物が欲しい」などと言ってはいけません。

 加えて、あなたはそれらの食事を目覚めている12時間にとりますが、寝ている時間には食べていません。眠りがあなたをムクティ(解放)に導きますか。単に活動しないことが人をムクティに導くと思うことは間違いです。

信奉者:
 サデーハ・ムクタとヴィデーハ・ムクタがいると言われています(*4)

マハルシ:
 解放は存在しません。すると、どこにムクタ(解放された者)がいますか。

信奉者:
 ヒンドゥー教のシャーストラ(聖典)は、ムクティについて語らないのですか。

マハルシ:
 ムクティは自らと同意語です。ジーヴァン・ムクティとヴィデーハ・ムクティは無知な人のためにあります。ジニャーニは、ムクティもバンダ(束縛)も意識していません。束縛、解放、ムクティの序列は、無知を振り落とすためにアジニャーニに向けて全て語られています。ムクティしか存在せず、その他の何も存在しません。

信奉者:
 それはバガヴァーンの立場からは結構なことです。しかし、我々に関してはどうですか。

マハルシ:
 「彼」と「私」という違いはジニャーナの障害です。

信奉者:
 しかし、バガヴァーンが高い序列に属し、我々が制限されているということは否定できません。バガヴァーンは我々を(神)と一つにしてくれますか。

マハルシ:
 寝ている時、あなたは制限に気づいていましたか。

信奉者:
 私は現在の状態に私の眠りの状態をもたらし、それついて話すことはできません。

マハルシ:
 その必要はありません。それらの三つの状態は不変の自らの前を交替します。あなたはあなたの眠りの状態を思い出すことができます。それがあなたの本当の状態です。その時、制限はありませんでした。「私という思い」が生じた後で、制限が生じました。

信奉者:
 どのようにして自らを達成すべきですか。

マハルシ:
 自らは達成できません。なぜなら、あなたが自らであるからです。

信奉者:
 そうです。私の中に不変の自らと変化する自分がいます。二人の自分がいます。

マハルシ:
 変化する性質は思いに過ぎません。全ての思いは、「私という思い」が生じる後に生じます。その思いが誰に生じるのか確かめなさい。そうするれば、あなたは思いを超越し、思いは退きます。つまり、「私という思い」の源を突き止め、あなたは完全な「私‐私」を実現します。「私」が自らの名前です。

信奉者:
 「私はブラフマンである(アハム・ブラフマースミ)」と瞑想したらよいのでしょうか。

マハルシ:
 その聖句は「私はブラフマンである」と思うことを意図していません。アハム(私)は、全ての人に知られています。ブラフマンは、全ての人の中にアハム(私)として住しています。その「私」を見出しなさい。その「私」はすでにブラフマンです。そのように考える必要はありません。単純に、その「私」を見出しなさい。

信奉者:
 シャーストラの中で覆い(さや)を捨て去ることが述べられていませんか。

マハルシ:
 「私という思い」の生起の後、「私」と体、感覚、心などとの誤った同一視が存在します。「私」は間違ってそれらと交わっており、真の「私」は見失われています。汚された「私」から純粋な「私」へ移るために、この捨て去ることが述べられています。しかし、それは正確には自らでないものを捨て去ることを意味するのでなく、現実の自らを見つけることを意味します。

 現実の自らは、無限の「私‐私」です。つまり、「私」は完全なものです。それは永遠です。始まりも、終わりもありません。別の「私」は生まれ、死にもします。それは永遠ではありません。変化する思いが誰にあるのか確かめなさい。それらは「私という思い」の後に生じると見出されます。「私という思い」を捕まえなさい。思いは退きます。「私という思い」の源を突き止めなさい。自らのみが残ります。

信奉者:
 理解することが困難です。理論は分かります。しかし、実践はどうですか。

マハルシ:
 その他の方法は自らの探求に着手できない人たちのためにあります。「アハム・ブラフマースミ」を繰り返し言うために、もしくは、それを思うためにさえ、行為者は必要です。それは誰ですか。それは「私」です。その「私」でありなさい。それが直接的な方法です。その他の方法もまた、究極的には、この自らの探求という方法に全ての人を導きます。

信奉者:
 私は「私」に気づいています。しかし、私の問題は解決していません。

マハルシ:
 その「私という思い」は純粋でありません。それは体や感覚との交わりにより汚れています。誰に問題があるのか確かめなさい。「私という思い」にです。それを捕まえなさい。その時、その他の思いは消えます。

信奉者:
 分かりました。どのようにそれを行うべきですか。それが全ての問題です。

マハルシ:
 「私」「私」「私」と考え、他の一切の思いを排除して、その一つの思いにつかまりなさい。

(*1)シュラッダー・・・直接的に対応する英語はなく、広い意味を表す。「信念(faith)」に加え、「信頼(trust)、自信(confidence)、忠実(loyalty)」などとも関係づけられる。
(*2)ラーガ・・・「愛着」。
(*3)ドゥヴェシャ・・・「嫌悪」。
(*4)サデーハ/ヴィデーハ・・・デーハは「体」を意味する。サデーハは「体を持つ」、ヴィデーハは「体を持たない」。

◇『Ramana Smrti-Sri Ramana Maharshi Birth Centenary Offering』、p104 抜粋

 ある日、シュリ-・マハルシに、サーダナ、すなわち、修練がなければ精神的に進歩することは全くないということが示唆されました。少し経って、彼は以下のことを述べました。

 人を束縛するのは、心です。そして、人を解放するのも、その同じ心です。心は、サンカルパとヴィカルパ-欲望と性質から成り立っています。欲望が、性質を形作り、決定します。欲望には二種類-高貴なものと卑俗なもの-あります。卑俗な欲望とは、愛欲と強欲です。高貴な欲望とは、悟りと解放に向けられます。卑俗な欲望は、理解力を汚染し、曇らせます。サーダナは、高貴な欲望が備わった大志を抱く者にとって簡単です。落ち着きが精神的進歩の基準です。清められた心をハートへ沈めなさい。その時、務めは終わります。これが全ての聖なる修練の精髄です!

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