2013年4月21日日曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第3章 心の制御

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p12-16

マハルシの福音


第1巻 第3章 心の制御


信奉者:
 どうすれば私は心を制御できますか。

マハルシ:
 自らが実現されるなら、制御するべき心はありません。心が消えるとき、自らが輝き出ます。実現した人の中で、心は活動的であるか活動的でないかもしれませんが、自らのみが存在します。なぜなら、心、体、世界は自らから切り離されておらず、自らと離れたままいることはできません。それらが自ら以外でありえますか。自らを意識しているとき、どうして人がそれらの影について心配しなければなりませんか。どのようにそれらは自らに影響しますか。

信奉者:
 心が影に過ぎないなら、では、どのように人は自らを知ればいいのですか。

マハルシ:
 自らはハートであり、自ら光を放っています。輝きがハートから生じ、心の座である脳に到達します。世界は心で見られています。そのように、あなたは自らの反射した光によって世界を見ます。心の働きによって、世界は知覚されます。心が照らされるとき、心は世界に気づきます。そのように照らされないとき、心は世界に気づきません。

 心が内に、輝きの源に向けられるとき、対象的な知識は止み、自らのみがハートとして輝きます。

 月は、太陽の光を反射することによって輝きます。太陽が沈んだとき、月は物を見せるために役立ちます。太陽が昇ったとき、その円盤は空に見えますが、誰も月を必要としません。心とハートについても同様です。心は、その反射した光によって役立てられます。それは物を見るために使われます。内側に向けられるとき、それは独りで輝く輝きの源に溶け込み、心はその時、日中の月のようです。

 暗いとき、光を当てるために灯火が必要です。しかし、太陽が昇ったとき、灯火の必要はありません。物は目に見えます。そして、太陽を見るために灯火は必要ありません。あなたが自ら光を放つ太陽に目を向けるなら、それで十分です。心についても同様です。物を見るためには、心から反射した光が必要です。ハートを見るためには、心がそれに向けられればそれで十分です。その時、心は重要でなく、ハートが自ら輝き渡っています。

信奉者:
 このアーシュラムを10月に離れた後、10日ぐらいの間、私を包んでいるシュリー・バガヴァーンの面前に広がる存在(the Presence)に気づいてしていました。私が仕事で忙しい間中ずっと、統一のその安らぎの底流がありました。それは、ほとんど、退屈な講義でうとうとしている間に経験する二重の意識のようでした。その後、それは次第に全く消えてしまい、かわりに古くからなじみの愚かさが入ってきました。仕事のために、独立した瞑想のための時間をとれません。仕事の間、「私はいる」と常に自分自身に思い出させることで十分ですか。

マハルシ:
 (少し間をおいて)あなたが心を強くするなら、その安らぎは永遠に続くでしょう。その期間は、修練の反復によって獲得される心の力に比例します。そして、そのような心は流れをつかんでおくことができます。その場合、仕事に従事していても従事していなくても、流れは影響されず、途切れないままにあります。邪魔をするのは仕事ではなく、それをしているのは私だという考えです。

信奉者:
 定められた瞑想は、心を強くするために必要ですか。

マハルシ:
 それはあなたの仕事ではないという考えをいつも念頭に置かないなら(必要です)。最初、あなたがそれを思い出すためには努力を要しますが、後にそれは自然で継続的になります。仕事はひとりでに進むでしょう。そして、あなたの安らぎは途切れないままにあるでしょう。

 瞑想は、あなたの本質です。あなたの気を散らす他の思いが存在するため、あなたは今それを瞑想と呼びます。それらの思いが排除されるとき、あなたは独りでいます-つまり、思いのない瞑想の状態に。そして、それがあなたの本性であり、他の思いを遠ざけることによって、あなたが今、得ようとしているものです。そのように他の思いを遠ざけることが、今、瞑想と呼ばれています。しかし、修練が確固たるものになるとき、本性が真の瞑想として姿を現わします。

信奉者:
 人が瞑想を試みるとき、他の思いがより力強く生じます!

マハルシ:
 ええ、瞑想中、あらゆる類の思いが生じます。それはまったく当然のことです。というのも、あなたの中に隠されているものが持ち出されているからです。もしそれが上がってこないなら、どうやってそれを破壊できますか。いわば自然に思いは上がってきますが、やがては消滅することになるがゆえに、心を強くします。

信奉者:
 夢にいるように、人や物がおぼろげな、ほとんど透明な形をとる時があります。人はそれらを外側として観察するのをやめますが、それらの存在を消極的には意識していて、他方で、どのような類の個人性も積極的には意識していません。心の中には深い落ち着きがあります。人が自らに潜る準備ができているのは、そのような時ですか。それとも、この状態は不健康な、自己催眠の結果ですか。それは一時的な安らぎを生じているとして奨励されるべきでしょうか。

マハルシ:
 心の中に落ち着きを伴った意識があります。これがまさに目指されるべき状態です。それが自らであるということを理解せずに、この点に関して質問がなされているということは、その状態が安定せず、一時的であることを示しています。

 外に向かう傾向があるとき、そのため、心が内に向けられなければならないとき、「潜る」という言葉は適切であり、外部性の水面下に沈むということがあります。しかし、意識を妨げることなく落ち着きが行き渡るとき、どこに潜る必要がありますか。その状態が自らとして実現されていないなら、そうするための努力は「潜る」と呼ばれるかもしれません。この意味おいて、その状態は実現、もしくは、潜るために適していると言われるかもしれません。従って、あなたがした最後の2つの質問は起こりません。

信奉者: 
 おそらく子供の姿が理想の姿を擬人化するためによく使われるため、心は子供たちに対してとりわけ愛着を感じ続けます。

マハルシ:
 自らをつかんでいなさい。どうして子供や彼らに対するあなたの態度について考えるのですか。

信奉者:
 ティルヴァンナーマライへの3度目の訪問は私の中の自我意識を強めたようで、瞑想が前ほど簡単ではなくなりました。これは重要でない一時的な段階ですか、それとも、今後そのような場所を避けるべきであるという兆候ですか。

マハルシ:
 それは想像上のものです。あれこれの場所は、あなたの内にあります。そのような想像は終わらなければいけません。なぜなら、場所それ自体は心の活動と何の関係もないからです。また、あなたの環境も単にあなたの個人的な選択の問題だけではありません。当然のこととして、それはそこにあります。あなたはそれを乗り越えるべきで、それに巻き込まれるべきではありません。

(夕方の5時頃、8歳半の少年が講堂で座っていて、そのときシュリー・バガヴァーンは山に登っていました。がいない間、その少年は純正の簡素な文語のタミル語で、聖者と聖典の言葉から自在に引用してヨーガとヴェーダーンタについて演説をました。45分ぐらい後にシュリー・バガヴァーンが講堂に入ったとき、ただ静寂のみが支配しました。20分間、少年はシュリー・バガヴァーンの面前に座っていました。彼は一言も話さずに、ただをじっと見つめていました。それから、涙が彼の目から流れました。彼は左手でそれを拭い、彼は今なお自らの実現を待ち望んでいると言い、すぐ後、その場を離れました。)

信奉者:
 私たちはどのようにその少年の非凡な特徴を説明すべきでしょうか。

マハルシ:
 彼の最後の生まれの特徴が、彼の中に強くあります。しかし、どれほどそれが強くても、落ち着いた静かな心以外、それは現れません。記憶を蘇えらせようとする試みは時々失敗しますが、心が落ち着き、静かなときに何かが心に閃くことは、みなの経験の内にあります。

信奉者:
 どうしたら私たちは反抗的な心を落ち着かせ、穏やかにできますか。

マハルシ:
 心が消え去るように、その源を見なさい。もしくは、心が打ち倒されるように、あなた自身を委ねなさい。自らの委ねは自らの知と同じであり、そのどちらも自制を暗示します。自我は、それが高き力を認識するときだけ、服従します。

信奉者:
 心を落ち着きなくさせる本当の原因のように思えるサンサーラ(*1)から、どうしたら私は逃れられますか。放棄は、心の平穏を実現するための効果的な手段ではないのですか。

マハルシ:
 サンサーラは、あなたの心の中だけにあります。世界は、「ここに私はいるぞ、世界だ」と言って大声で話しません。仮に世界がそうするなら、世界は常にそこにあり、あなたが眠っているときでさえ、その存在をあなたに感じられるようにするでしょう。しかしながら、眠っているとき、世界はそこにないので、それは永続的でありません。永続的でないので、それは実体を欠いています。自らと離れて現実性を持たないため、それは自らによってたやすく征服されます。自らのみが永続的です。放棄とは、自ら自らでないものとの非同一視です。自ら自らでないものと同一視する無知が取り除かれるとき、自らでないものは存在することをやめます。そして、それが真の放棄です。

信奉者:
 そのような放棄がないときでさえ、私たちは愛着なく行為を行えないのでしょうか。

マハルシ:
 アートマ・ジニャーニのみが、良いカルマ・ヨーギになれます。

信奉者: 
 バガヴァーンは、ドゥヴァイタ(*2)の哲学を批判しますか。

マハルシ:
 ドゥヴァイタは、あなたが自ら自らでないものと同一視するときだけ存続できます。アドヴァイタ(*3)は、非同一視です。

原注:
(*1)サンサーラ・・・世俗的な活動の状態、もしくは現世の存在
(*2)ドゥヴァイタ・・・二元性、二元論の教義
(*3)アドヴァイタ・・・非二元性、非二元論の教義

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